浦幌町百年史より 第五編 第二章 炭砿

目次

第五編 商工業・鉱業 より抜粋

第二章 炭砿

第一節 石炭の歴史

 人類が最初に火を燃やしたときは草木を使っていたが、人の知恵が進むにつれて、石炭、石油、天然ガスなども燃料として利用できることを発見してきた。
 石炭は約三〇〇〇年前に中国で初めて発見されたという。日本では伝説的なものとして、神功皇后の時代(記紀伝承の時代)に、九州に「燃える石」 のあることが言い伝えられているが、確実な史実に基づいた記録としては、文明元年(一四六九)足利時代に九州筑後の三池で農民が「燃える石」を発見したのにはじまる。
北海道の最古の記録は、天明元年(一七八一)の『松前誌』に、 「タキイシ」 として次のように記されていた。
「此物東部クスリより出づ。黒ふしてなめらかなり。もゆること薪の如し。大和本草に所載石炭の類なり」、また 『蝦夷草紙』(最上徳内) にも「石炭クスリ場所のうち、ツシヤハ村にあり」
とあるところをみれば、クスリ(釧路)場所は北海道唯一の石炭のある場所だったようである。
 更に、寛政一一年(一七九九) の 『赤山紀行』 には「オタノシキ川より左に原を見て行けば、原いよいよ広く、クスリ川迄は皆原なり。此付近石炭あり、又桂恋の付近なるションテキ海岸には磯の中にも石炭夥しく、総べてトカチ領よりクスリ領迄の内山谷とも石炭なり。今度シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども石炭毫も尽きることなしと云ふ」とあり、これが北海道石炭鉱業のはじまりといわれている。
 幕末の寛政年間(一七八九~一八〇〇)には、白糠海岸の石炭が白糠炭山として一時的に開発され、その後、徳川幕府が安政二年五月、ァメリカと神奈川条約(下田・箱館開港)を締結したとき、箱館に入港する外国船が、燃料補給のために石炭を希望したため、必要に迫られた幕府は、率先して白糠炭山の調査開発を企画しなければならなかった。安政四年(一八五七)五月に白糠炭山を開砿、続いて文久三年(一八六三)茅沼炭山を開いた。
 茅沼炭山は、文久以降(一八六〇)年代から明治初期にかけて、ブレーク (W.R.BIake)やライマン (B.S.Lyman)をはじめとする欧米の地質技術者が幕府によって招かれ、この技術者たちによって、近代地質学の手法に基づいた炭田調査が、北海道ではじめて 導入されたのである。
 北海道の石炭は、アイヌ族によって発見されたといわれているが、その詳細は不明で九州よりはるかに遅れて発見されている。

油が主役の時代へ

 北海道に開拓使が置かれて以来、エネルギーの主役であった石炭は、昭和二七年末から停滞しはじめた。
昭和二五年六月、朝鮮戦争がはじまり、石炭の需要が増加して好況をとりもどしていたが、朝鮮戦争の終息と世界的不況の影響で、国内炭の受給は二七年下期から貯炭が増加していった。
 その理由のーつには労働争議の激しさに加えて、ストライキが各所に発生したことなども上げられているが、それは世界的不況のために海上運賃が下落したことから、安値な重油や米国炭が輸入できるために、重油への転換や米国炭の消費が増加して、国内炭の需要が減少したのと労働争議が時を同じくしていたからである。
 スエズ動乱の終息後、石油の値下がりが続き、重油の石炭に対する優位性が高まると、石炭の需要はますます減少していき、炭価を下げて石油と競合するため、石炭業界は常に合理化をはからざるを得ない状況となっていった。
 こうしてはじまった石炭危機は、石油攻勢に起因してその後も没落の道をたどることになり、平成二年度には炭砿数二二、従業員も三〇〇〇人となった。更に、減少の傾向をみせながら、平成九年には九州の三池炭砿が閉山し、わが国の坑内掘りは南に松島炭砿(長崎)と、北に太平洋炭砿(釧路)が石炭鉱業の灯を残しているだけとなった。

第二節 浦幌炭砿

炭砿所有者と開鉱

 開鉱以来閉山まで、石炭政策の流れにともなって、二度まで休鉱を強いられた浦幌炭砿の双運・太平の両砿区は、明治年代は古河鉱業株式会社の所有となっていて、採掘権は古河鉱業にあった。
 大正二年、浦幌内ですでにいくつかの砿山を経営していた大和鉱業株式会社(本社大阪市)社長平林甚輔が、古河鉱業を買収すると七年より浦幌炭砿として開鉱し操業した。
 このとき大和鉱業は、常室・留真・毛無の三カ所に坑ロを持っていたが、常室・留真は坑内条件が悪かったため毛無からのみ炭していた。この経営経過について『沿革史』 は、次のように記述している。
留真炭砿の開発は、大正六年留真温泉を買収した会社が、最初の事務所を留真温泉に置いて仕事を開始し、その後大正七年三月常室沢坑でも採炭計画をしたが、出炭成績がおもわしくなかった。留真・常室・上厚内の三坑所長は蒲原元輔で、柴田義夫・市江満量工学士・吉原英男が経営にかかわり、毛無からは蒲原に代わって平林光治が主裁した。
 文中、上厚内とあるのは双運坑(後の一坑)のことで、また留真温泉の買収は大正七年の説(中川政雄)もある。

地層と地質

 浦幌炭砿は、釧路炭田西端の浦幌市街から浦幌川支流の常室川沿いに、約二六キロメートル上流の台地に位置し、付近の地形は標高一五〇~三四〇メートルの山地である。
 地質は白亜期後期、古第三紀前期の根室層群を基盤とし、これを古第三紀浦幌層群が不整合に覆い、更に音別層群の大曲層、茶路層が不整合に覆っている。
 浦幌層群は、下位から留真層・雄別層・舌辛層の三層及び尺別層で構成されている。走向は南から北上するにしたがって急になっている。炭質の用途は不粘結性で気缶(ボイラー)用、家庭用に適している。

坑内労働と休鉱

 大正七年、開鉱当時の採炭は傾斜六〇度内外の一番層に、露頭より走向に沿う水平坑道を掘進して、採掘炭は坑内より手押しで坑ロに搬出して付近に堆積した。
 当時の坑内労働は競雌と磯雌、二人組のツルハシによる採炭で、親子で坑内に下りたり、夫婦で入るものが普通だった。仕事は請負制だったのできめられた労働時間はなかった。保安についても特になかった。
 排水法は自然排水、通気法も随所に風通しを開さくした自然通風であった。
明治末期から大正の前半にかけて、日本の各産業界は黄金時代を迎えていたから、石炭産業も未曾有の好景気を経験した時代であったが、第一次大戦終了後の大正八年から不況の深刻化するなかで、出炭はにぶり大正一〇年いったん休山した。(二一年の説もある)

再び開鉱

 昭和七年になると経済の低迷期が去り、八年七月に再開に着手した。坑ロは留真川上流の留真坑、常室川上流の双運坑、更に三キロメートル上流の太平坑の三坑を開鉱し、当初の二年間は留真坑のみで出炭していた。留真坑は露頭炭より掘り出し、水平坑道を掘進して出炭したが、馬車で浦幌駅まで運ぶ不便のため、条件のよい双運、太平坑ロの二坑から出炭するようになった。
 また、浦幌市街から毛無事務所まで馬車軌道が敷かれ、用度品を運搬していた。軌道の馬三頭は事務所専用の馬であった。坑夫は、他の炭砿から移ってきた秋田・岩手県人が多く、みな家族持ちであった。

再開後の炭住街

 浦幌川の流域に一棟一〇戸の長屋を建てていき、主に石坂技師によって空知炭田から集められた坑夫が住んでいた。単身者は合宿所で生活をした。物資は配給所(販売所)
で入手し、子どもたちは留真小学校へ通学するため、朝タ会社のトラックが送迎していた。一部の子どもは浦幌高等小学校へ通ったので、市街地に会社が寄宿舎を建てていた。

尺別炭砿へ併合

 昭和一一年一〇月、浦幌炭砿は三菱雄別炭砿鉄道株式会社の所有となった。したがって浦幌炭砿は尺別鉱業所の管下となり、出炭はすべて尺別選砿所へ送られるため、その間六キロメートルにわたる尺浦通洞が一六年一一月に開通した。
 この時期は、労働形態も変わり、掘進・採炭・運搬と分化して、女は選炭場のみで働くようになった。
 併合して姉妹砿となった尺別炭砿では、 一四年より朝鮮人労働者が入り、 一七、八年には、強制連行された朝鮮人などを加えて、実働労働者は一〇二九人から一〇五九人に増加した。朝鮮人の宿舎は奥沢坑(尺別)の坑口付近に設けられ、 一二時間から一四時間の採炭労働が進められていた。尺浦通洞の開さく工事にも当たった彼らは、浦幌炭砿の採炭にも従事して、宿舎は浦幌坑側にもあった。
 戦時中国内の労働力不足を補うために、強制連行されてきた不幸な朝鮮人労働者は、釧路炭田内の各砿山に配置されていたが、浦幌炭砿に何人いたかは資料がなく不明である。また尺別には村井・熊谷・板沼組などの労務者の宿舎(タコ飯場と称していた)があり、両砿の土木作業はタコ労働者が従事していた。

国策による閉山

 昭和一九年八月、政府の非常増産緊急措置により、尺別炭砿の休止と同時に休山となり、浦幌砿の一〇〇〇人余の坑内夫たちは国策令によって妻子を置き、九州三菱の炭砿へ、強制転換された。朝鮮人労働者も去った。尺浦通洞を使用したのはわずか二年半だった。

復興

 終戦後、坑夫たちは九州から引き揚げてきたが、配転のときに諸施設、器具なども移動していたので、昭和二二年までは大半が雄別炭砿(阿寒町)で働いていた。採炭準備期間を終えた二三年六月、ようやく浦幌砿での出炭となったが、このときの中心坑は太平坑だった。
 二四年になると、坑夫数は戦前の状態に回復していき、炭住街は双運(第一坑付近)が中心になった。住宅も増加して翌二五年には七三〇戸に達した。
 この間に浦幌炭砿小学校に続いて中学校の増設もあり、二八年には浦幌高等学校の炭砿分校も設けられた。最初の炭山市街は双運坑を中心としていたが、やがて大平坑の方に延びて、配給所や指定店も増え、協和会館では毎日映画の上映が行われていた。戦後の食糧難も特配、加配米などで救われていたし、二三年から二四年(一九四八~九)にかけて、僻地手当も支給されていた。朝鮮人長屋の建物は改築されて日本人坑夫の住宅になった。

再び尺別炭砿へ併合

 戦後の石炭の重要性にあわせて再開された浦幌砿であったが、昭和二五年一 尺別炭砿に併合された。 尺別と浦幌は施業上も合併し、浦幌は尺別炭砿の一部として出炭するようになった。
 当時、浦幌坑は斜坑である第一坑(もと双運坑)と、やはり斜坑の太平坑の二坑があり、出炭量は最盛期の昭和一二年当時まで伸びつつあった。

友子同盟

 危険な坑内作業のもとにおかれていた労働者が、災害、けがなどに遭った際に、互いに助け合う自主的な組織といわれる友子同盟は、坑内夫を中心に構成されていた。鉱山や炭砿社会にあった
 坑夫集団のこの組織は、江戸時代初期の後半から、自然発生的に本州の鉱山にあった組織である。北海道には明治二〇年以降に、本州からの鉱山出身者によってもたらされた。
 組織について述べると、親分、兄分、子分という身分序列を基本とし、年功制が重んじられていた。友子の一員として認められると、失業救済や、けがで働けなくなった人たちの救済を、全国規模で行う全国交際があった。その後、労働者保護政策充実などにより、次第にその機能を失った。
 浦幌炭砿と同年(大正七年一〇月)に開鉱した尺別炭砿には「尺別炭山友子組織」ができたことが記録されているが、浦幌炭砿は不明である。火薬は自分持ち、請負制で何車出していくら、という労働条件で、友子組織がなかったとは考えられない。「友子組織はあった」という証言はある。

事故

 事故について『北海道の石炭』より尺別炭砿災害推移表を参考まで転載する。昭和二六年以降である。
 二六年一二月一三日、浦幌炭砿で大きな出水事故があった。午後〇時五〇分ころ、一坑四片坑道でハッパ作業中に突然出水があり、地底四二〇から五四〇メートルの地点で、尊い人命を失うという悲惨な事故が発生したのである。
 全山を挙げて復旧作業が続けられ、ようやく年の瀬も迫った二五日から三〇日までに遺体収容がされた。協和会館では鉱業所葬によって合同慰霊祭が行われた。
 犠牲者は、有待栄太郎(四三歳)・佐々木信雄(二一歳)・山田亨(二三歳)・木村幸一 (四四歳)・須藤富雄(三八歳)の五人であった。

閉山

 国内炭の需要が減少すると、産炭地域では大量の貯炭が増加し、中小炭砿は資金難から相次いで休・閉山を余儀なくされていった。浦幌砿では、昭和二八年希望退職者三〇八人を募り、翌二九年一〇月に閉山した。従業員三八四名はそれぞれ雄別・尺別・茂尻の 三砿へ配置転換された。
 雄別と茂尻への配置者は家族ともども移動したが、尺別への配置者は浦幌から尺浦通洞を通って働きにいった。 しかし、三〇年には維持管理の都合から尺別に移動する。戦後わずか一〇年間の採炭であった。
 この年、浦幌高等学校の炭砿分校が消え、三二年には炭砿小・中学校も、戦後の活気にみちた姿を変えていかなければならなかった。山区仏小・中学校が廃校になったのは、一〇年後の四二年七月三一日である。
 なお、『北海道の石炭』炭砿名簿(釧路炭田)の表を見ると、浦幌炭砿は昭和七年、久原鉱業株式会社の名が鉱業権者欄にある。しかし出炭期間にその名が記載ないところをみると、久原鉱業株式会社は試掘のみで終わったのであろう。

閉山後の炭住街

 昭和二九年一〇月に閉山した浦幌炭砿は、町の重要産業であり十勝唯一の炭砿であった。現在は無人の廃墟と化し、 一面に生い茂る雑草が辺りを覆いつくしている。現在も放置されているブロック造りアパート三棟の建物は、屋根の上まで雑木の棲かとなって昔を思い起こす術もない。しかし、四十数年前の炭山盛況時には、この沢一帯に三六〇〇人余が住む歌声の流れる街であり、二〇店ほどの商店が軒を並べ、小・中学校があった。
 集会施設(協和会館)では、映画、芝居、漫才が毎日のように催されていたと思えば、踏みしめる雑草の間から、かつての賑いが聞こえてくるような感慨を覚える。
 炭山市街地の家屋は、閉山後借用地を道に返還する際に、元の伏態にするという条件で完全な取り壊しがなされた。
かつての炭住街の見取り図を、昭和二 三年復興以前と復興以後を『博物館報告』より転載して見てみよう。
 現在、認められる施設跡は、アパート三棟、山神社の真正面に在った病院の基礎部分と、その洗面所らしい部分のタイル、中学校の基礎部分。また土中から突き出している共同浴場があった辺りの給湯管などである。

閉山後の埋蔵調査

 昭和四二年三月、炭山に残って山仕事に従事していた全住民が去って八年後、通産省は全国地下資源の実状をつかむため、石炭鉱業合理化事業団に調査を委託して、留真地区の石炭埋蔵調査を行った。
 五〇年に表面調査と炭層の確認、翌年ボーリングが行われ、この地区全体で、八〇〇〇万トンの埋蔵量が確認された。うち三〇〇〇万トンが、経済的にも技術的にも採炭可能といわれ、カロリーは平均四八〇〇で火力発電用に最も適していた。
 エネルギー源の不足がさわがれた五〇年代に期待がかけられた調査であった。
 更に、六一年太平洋炭砿釧路鉱業所が、留真地区で露天掘りを計画した。昭和二九年一〇月に閉山して以来、三二年ぶりの炭砿再開計画である。当時はェネルギー源の安定確保など、石炭が見直されていたのである。国内産出の石炭は、六〇年度で一六〇〇万トン、その大半が産業用燃料として利用されていた。また石油事情の悪化による技術革新もあり、流動床ボイラー、石炭ボイラーへ切替えをする企業も多く、発熱量四五〇〇カロリー程度の低カロリー炭に対する需要も高まっていた。
 太平洋炭砿の採炭計画は「釧路炭田西部地域開発計画」と呼ばれ、西は浦幌から、東は厚岸、尾幌まで広がる釧路炭田を有効に開発しようとするものであった。中でも浦幌地域は、その埋蔵量から将来的にも安定して供給できると有望視された。
 採炭の予定地は、留真一番地と炭山三六番地(いずれも道有林内)にまたがる林地で、かつての浦幌炭砿の南西部にあたり、留真との中間付近で、常室から約一五キロメートルほどのところであった。鉱区面積は九六・二ヘクタール、大型掘削機械による露天掘りは、道東地域ではじめてのものとされていた。
 昭和六二年二月、留真の現地では防災工事の地鎮祭が行われた。 工事は六二年度が道路と擁壁工事、資材運搬路、沈砂池などであり、平成四年度まで体制づくりがされていった。
 しかし、石炭をとりまく状況は、安い海外炭の輸入後、鉄鋼業界の生産不振などにより、需要拡大はみられなかったばかりではなく、釧路鉱業所の場合、露天採掘相当分の坑内員の合理化がいっそう必要となっていた。
 留真の露天掘りによる採炭は、生産原価が安く、保安体制も万全なことから有望視されたが、平成三年六月の新石炭政策は、 一段と厳しい内容であったため開発の延期がされた。平成八年四月太平洋炭砿は露天掘坑開発を中止し、留真砿再開発の夢は道有林内に深く埋もれた。

ー浦幌炭砿変遷史ー

明治二四年 十勝郡内数力所に試掘の許可を得たもの数力所あり。
明治二八年 古河家により探砿。
明治四三年 炭鉱資本別出炭割合によると、古河鉱業眠三・四%を占める。
明治四四年 古河鉱業KKが鉱区を設定、鉱業権者となる。次いで藤田組に移譲。
大正二年 大和鉱業KK(社長平林甚輔)の経営に移る。 七月、小林儀一郎技師調査。
大正七年 寿蜘・留真地区の開砿に着手。炭層の不安定・輸送施設の不備により操業不振続く。
大正ー〇年 大戦後不況で出炭が鈍り、一端休山(一二年との説もあり)。
昭和八年 大和鉱業KKによって開発開始。
昭和ー〇年 簡単な選炭の後、トラックで浦幌駅まで搬出(高室広助の三tトラックも使用)。
昭和ーー年 一一月、三菱雄別鉄道眠の経営に移り、尺別炭砿の姉妹砿として操業。
昭和ー二年 尺別炭山直通の索道による輸送開始。日中戦争勃発、戦時増産のため出炭量増加。
昭和ー七年 一一月、尺浦隧道開通。綜合選炭機完成。石炭輸送近代化。
昭和一九年 八月、政府命令「輸送困難」を理由に尺別炭砿とともに休山。九州に職員を強制配置転換。
昭和二〇年 八月、終戦。九月、尺別炭砿復興。祝賀式典を協和会館で開催。
昭和二ー年 四月、「浦幌砿促進会」を結成。
昭和二二年 復興に着手。採炭準備期間。大半の坑夫は雄別で稼働。雄別三山(雄別・尺別・浦幌)連合協議会発足。食糧の確保を最大目標とする。
昭和二三年 年間の出炭量二二、二八六t。
昭和二四年 浦幌炭砿労働組合結成。石炭統制を廃止し、完全自売体制をひく。浦幌炭砿小・中学校建設。
昭和二五年 戸数七三〇戸に達す。六月、朝鮮戦争勃発により特需景気。文化活動が活発になる(やまなみ・新日本文学・黎明)三号で休刊。
昭和二六年 レッド・パージ(浦幌六名)朝鮮戦争景気で出炭量のびる。
昭和二七年 三月、十勝沖地震。九月、一二月に賃金闘争(六三日スト)。石炭資本の低賃金政策に対する抵抗。朝鮮戦争停戦で特需景気急減。
昭和二八年 六月、労働協約改訂。55歳定年制を提案。人員整理第一弾。九月、「可採炭量枯渇」を理由に閉山提案。一〇月、浦幌炭砿閉山に関する協定に調印。一一月、浦幌砿協和会館にて浦幌炭砿労働組合解散大会開催。希望退職者募集。 浦幌高校炭砿分校建つ。
昭和二九年 一〇月、尺別鉱業所は浦幌炭砿を閉山。従業員三八四名は雄別・尺別・茂尻の三山に配置転換。
昭和三〇年 高校分校閉校。
昭和三二年 炭砿小・中学校閉校。中学校は常室中学校炭砿分校、四二年七月三一日閉校。小学校は上常室・常室小学校分校となる。
昭和四二年 炭山地区から山仕事の従事者ら全員が去る。

昭和一二年六月から終戦まで浦幌炭砿で働いた須藤梅治談
 炭砿には軍隊を脱走してもぐりこんでいる者もいた。
隣にいた藤崎武雄は、二・二六事件の幹部で下士官だったが、一等兵に降格されていた。昭和十八年に召集されて須藤が旭川まで送って行った。営内に入ると連隊長に会わせるという。 その連隊長は藤崎の後輩だった。 それで藤崎は二・二六事件の罪があっても入隊が許されたらしい。
 一週間たったら、藤崎は長い剣を下げて休暇で帰ってきた。粉石けんをたくさん持ってきてくれた。 終戦になって除隊すると、また炭砿にもどってきた。
 昭和十二年ころには、朝鮮人が全員で五〇〇余人もいた。昭和十八、九年ころ朝鮮人が市街で暴動を起こして、全員九州へ送られたが、そのとき私服警官が、軌道にのった暴動の首謀者十人以上を降ろして虐待した。
(昭和64年1月11日新宮廣記録)

炭山の脱走兵

 昭和十九年八月、戦争が敗色濃くなると、政府は「輸送困難」を理由に浦幌炭砿を尺別炭砿とともに閉山させた。翌二十年一月の炭山には、帯広の熊部隊二十人ほどの兵隊が松根油採集のために駐屯して、坑夫宿舎や民家を使用していた。
 松根油は、松の根株・松枝から得る油で、戦時中は飛行機の燃料が目的だった。
 炭山駐屯の小隊長は、小さな失敗にも、何でもないような事にも理由をつけて恐ろしい形相でどなりつけ殴り、この小隊長の仕打ちに、住民は眉をひそめ「鬼」とよんで息を殺していた。
 殴られて苦しさのあまり胆汁まで吐く戦友を介抱して、また同じ仕打ちにあって血を流す兵隊。 いつ死ぬかわからない怒湊の木の葉のように揺れる兵隊たちのこころは、互いに寄り添っていた。
 鬼小隊長を殺す相談がされたのは、凍てつく二月の夜。身寄りのない九州出身の若い兵隊が進んで実行することにきまった。
 鬼小隊長を刺した剣は、毛布をつらぬき、胸をつらぬき、畳をつらぬき、床まで突き抜けていたという。
 若い兵隊は自分も死ぬつもりで森深く走った。夜がほのぼのと明けはじめても死ぬことのできない兵隊の、室内履きのまま雪の中を走りつづけた足は動かなくなっていた。松の葉を腰に敷いて山を滑り下りると、炭を焼いていた中村茂の家の戸を叩いた。
「食べるものを下さい。」
 絶対絶命の若い兵隊に中村は無言で、ジャガイモを鍋のまま出した。中村にも昨夜のうちにこの事件は知らされ、道という道、坑口にまで帯広からやってきた兵隊が立っていた。
 ジャガイモを食べ、身体が温まった死を覚悟の兵隊は、頭を深く下げて立った。
事件から数時間後、若い兵隊は兵舎となっている民家にもどって いた。 いや、もどされていた。
 きらきら光り輝くような朝だった。手錠をかけられた若い兵隊は、たった一人、縁側に座って手錠の手の真っ白のおにぎりを見つめていた。
「銃殺刑にでもされる前の、真っ白な白米の最後のおにぎりでなかったろうか。忘れることができない」
偶然その姿をかい間見ることになった大山みどり(中村茂長女) はいう。小学生だったみどりは通学の途中だったという。
(昭和51年6月高橋悦子記録)

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