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第七編 社会 より抜粋
第一章 農 業
第一節 原野の開拓
移住の背景
北海道への開拓移住者の流れは、屯田兵や士族移住は別として、大きく三期に分けられている。
第一期が明治二七、八年(一八九四5九五)の日清戦争及びその後の数年間で、第二期が明治三七、八年(一九〇四、五) の日露戦争前後、第三期は第一次世界大戦時の大正年間(一九一二~二六である。
明治のこうした時期に故郷を捨て、再び生きて帰れないかもしれない肉親と水盃を交わし、泣き別れまでして移住しなければならない背景には、西南戦争後に現れたインフレーション、それを整理するために行われた幣制改革、それに続くデフレーションなどで、日本の経済は激動の嵐の中にあった。米価は下落して、つ いには一時の半分になり、それでいて地租は倍加され地価は下がった。副収入はなくなる。多くの農民は土地を、農業を捨てねばならなくなった。そこへ天変地異があいついで起こった。
明治二四年の濃尾平野の大震災の被害を最大のものとし、福井・石川・福島・奈良などの各県下に、二八年、二九年と打ち続く凶作や洪水がひんぱんと起こったから、その運命を北海道で転換しようとする農民が、有志にひきいられ、あるいは知人をたよって移住してきたのである。
浦幌への移住者も、これを物語るかのように福井・富山・石川・岐阜の出身者が多く、地震・洪水・凶作などの災害による移住いえるのである。
西田小次郎のように、北海道でひと儲けしようと故郷の岩手を出て、シカ皮やシカ角の利益を追いながら、ついには漁業を目的として生剛に定着し、農業と牧畜を営み成功したこのような例は異例といえよう。
移住の先駆者
明治二〇年までは、年々約二万人の増加にすぎなかった北海道の人口は、翌年より急速にその勢いを増している。二七年に六万戸、三〇年には七万戸をこえるようになった。明治一九年に設置
された北海道庁が、大量の移住者到来を前提とした開拓事業に着手した結果である。
十勝では明治二一年から二二年(一八八八、八九)にかけて、開拓に必要な事柄、地理・面積・土壌・植物・運輸状況などが調査されて、四三の原野、二九万ヘクタールに及ぶ殖民地が選定さ
れて、石狩と並ぶ有望な開拓地であることが明らかになった。
十勝川をさかのぼって入地した晩成社のほか、数戸の無願開墾者をみるのみだった十勝原野の各地には、二九年の国道の開設や土地開放と同時に、多くの移住者が入り込んだのである。制度として、鼈奴・十勝・生剛・愛牛などの村はあったが、先住民と、わずか数人の和人の姿しか見い出されなかった浦幌の奥地へ移住がはじまり、開墾の鍬を振るったこのころの人々が、先駆者と呼ばれている。
鬱蒼とした原野を拓く彼らには、試行錯誤をおそれない夢みる力が必要だった。そして、彼らは村づくりのテクノロジーをも得ていったのである。
移住者
明治二五年貸付地予定存置制度を、道庁が「団体移住ニ関スル要項」として各府県に照会した際に、当時の政治家や各地の代議士・財閥・旧藩主などの資力と総力とが相寄り、相導いてその出
願を競うことになった。彼らは移住者を募集して北海道の農場に送り、開墾一途に奮闘させていった。
十勝移住者が大津に上陸したのち、各農場への入地が盛んとなるのは、この制度の後のことだった。池田侯爵の農場、高島嘉右衛門の高島農場、勇足の坂東農場、豊頃の二宮農場(興復社)などである。
浦幌では土田謙吉の土田農場、熊谷泰造の熊谷農場、板東勘五郎代議士の坂東農場(のちの森農場)、大野亀三郎の岐阜農場などが前後してあげられる。
一方、やや遅れて浦幌川をさかのぼり、単独移住者が常室、下頃辺へ入地した。下浦幌原野に市街などなかった当時、移住の人々は、十勝の玄関口大津港から浦幌の内陸部へ向かった。ようやく春の訪れを告げるころである。凍った川を渡りながらあるいは雪解けの泥水に膝まで埋まりながら、荷物を背負い、年寄り子どもをかばいながら歩を進める人たちであった。その一歩一歩にはどのような希望と不安が交錯していたことだろう。
明治二九年から三〇年に開設された熊谷農場を『沿革史』 で見ると、単独移住者の足だまりのようでもあるが、土田農場、岐阜農場などいずれの移住者も、そこで北海道的農業技術や、馬匹の飼育・使役などを習得すると、その後は単独志願者となって奥地へ進行していったものも少なくない。
また、移住者のなかには、北海道の土地が函館・石狩・室蘭など西南から開拓されて、そのころは各自が希望する貸付地を得ることができず、石狩方面へ先行してから浦幌入地を考えた人々も多かった。
第二節 明治中期の浦幌
浦幌地方の様子は、道庁が係官を現地に送り込み、内陸奥地の拓殖計画を本格化するにつれて全貌が明らかになり、殖民地選定作業に次いで行われた殖民地区画の測定が、主要な地域についてほぼ完了した明治二九年の貸付を境に、浦幌の原野に農業移住者が多くなっていった。浦幌地方開発の原図が、すでに貸付以前に描かれていたのである。
しかし、殖民地区画実施以前にも、貸付以前にも、浦幌には移住者(無願開墾)があり、先住民のアイヌ族が住み、漁をし、土を耕し、家畜を飼って生活していた。
明治三四年道庁が発刊した『殖民状況報文』 に、浦幌地方の地理・原野・概況・農業・牧畜・運輸交通・戸ロが記載され、興味深い内容をそなえている。
次は、明治三一、二年ころの浦幌地方現地調査の状況の一部分、その抜き書きである。
十勝村
<地理>西南ハ十勝川ニ跨リ大津村ニ隣シ、北西ハ生剛村ニ接シ東北ハ直別川ヲ以テ釧路国白糠郡ニ界シ南東一帯海ニ面ス。海岸線凡六里ニ亘ル村落ニシテ十勝川及ビ直別付近ノ地ヲ除クノ外ハ丘陵蟠亘連延シ海岸ニ至リテ段階ヲナシ、其下ニ砂浜通シ昆布刈石以東海中ニ岩礁点在セリ。シラツイ川ハ北方丘陵ノ間ョリ発シ西流シテ十勝川ニ注グ。十勝川ハ生剛村ョリ来リ南東ニ流レテ海ニ入ル、
水流頗ル遅緩ナリ。河口西岸ニ小砂嘴ァリ其東岸ハ岩石峙立セリ。十勝川以東コムプカルシ、アプナイ、オウコッぺ、 チプオウコッぺ等ノ小流アリ。
<原野>
十勝川ノ東岸ハ小原野ヲナシアイヌ及ビ和人ノ開墾地アリ。直別原野ハ釧路国白糠郡ニ跨リ明治三十年区画ヲ測設シ同三十一年ョリ貸付ヲ許可セリ。此他各小川沿岸何レモ狭キ場デ殆ド平地ナシ。
<運輸交通>
十勝市街予定地ハ西大津市街ヲ距ルー里十七町其間十勝川大津川ノ二渡船場ァリ。東釧路国尺別駅逓ニ至ル五里十六町其間字昆布刈石ニ駅逓ヲ設ケ人馬ノ継立ヲナセリ。右ノ道路ハ国道線路ニ属スト謂モ元来橋梁等ノ設ケナカリシニ、明治二十八年最モ不便ノ川流ニノミ橋梁ヲ架設シ、又山道ヲ開キ交通ニ便利セシカ既ニ破壊シタル所少クナカラズ。海岸ノ砂浜ハ殆ド道路ノ形跡ナキ所アリテ運輸不便ナリ。
<沿革>
十勝川畔ニハ昔時ョリアイヌノ部落ァリ。又同所ニ小休所オウコッぺニ昼所ノ設ァリ。明治二十年頃迄ハ只ァイヌ部落ノミニシテ、鮭ノ漁期ニ際シ和人ノ来リテ漁獲スルニ過ギサリカ。同二十一年秋田県人石井某ナル者農牧ノ目的ヲ以テ来住セリ同二十三年昆布刈石ニ駅逓ヲ設置ス。其後又数戸ノ和人来住土着セリ。
<戸口及ビ部落>
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