第七編 社会 より抜粋
第五章 交通
第一節 道路
明治以前の道路
蝦夷地の道路は海岸沿いの自然路として形成されていた。幕末になると産業の拡張や、軍事上の目的から海岸の難所を迂回する山道や、東西蝦夷地を結ぶ内陸交通路が、官の半ば強制な命令で場所請負人らによって開削された。しかし、それは山間をぬう粗末な刈り分け道、あるいは河川を利用した仮道にすぎなかった。
東蝦夷地に人の力で道路が開削されたのは、寛政一〇年(一七九八) である。 近藤重蔵が自費を投じて、ルベシベッからビタタヌンケ間の約三里を開削したのが、十勝の道路開削のはじまりで、東蝦夷地においても初めとなる。更に、翌一一年に猿留→広尾間六里、広尾→当縁間七里八町、当縁→大津間六里一四町などが開削されていった。漁業以外に産業のなかった北海道では、海岸のほかは道路の発達をみなかったのである。
安政五年に松浦武四郎が、石狩から十勝に下った道も、アイヌの案内なくしては探険できなかったし、武四郎が石狩ベベッを経て大津に至ったのは、多くは川舟によるものであり、川と海岸こそ十勝の唯一の道であった。
明治一九年以降に、殖民地選定調査を終えた内田瀞、田内拾六も『殖民地選定報文』 の中で、「如何セン内部ハ僅力ニ十勝川ノ水運ト土人ノ足跡ナル小径ニ過グザレバ 。」 と述べているほどである。
浦幌では文化二年(一八〇五)に、昆布刈石に間道が開削されたことが「文化二年昆布刈石付近道路嶮悪ナルヲ以テ新道ヲ開ク。安政後仙台藩支配ノ時、十勝河口ノ東ニ新ニ道路ヲ開キ往来ニ便ス」と『殖民状況報文』にあり、安政年間に至っても、十勝河ロの東に道路開削は着手されていたようである。
寛政一一年、幕府の蝦夷御用掛によって各地に会所が設けられた際に、広尾の十勝会所には馬八頭、大津に七頭が配置されている。大津に七頭の官馬が置かれたということは、当時の大津にアイヌと和人が在住していたことを物語っており、こうした馬という機動力の利用によって、昆布刈石にも道らしい道ができたのであろう。
それまで大津・釧路間は船か徒歩で海岸沿いに往来していたが、風浪の激しい日には船はもちろん、徒歩や馬でも行けぬ難所の昆布刈石海岸であったから、この海岸段丘に開かれた道路は十勝が、日高、釧路を結ぶ重要路線なのであった。
更に『十勝史』 によると「明治二十七年大津から白糠間の道路を改善し釧路港と結ぶ。」とその 「交通・通信略年表」 にあり、このころになると、前に述べた道路の改修工事が急がれ、情報伝達や地域発展の上に占める意味が大きくなっていたようである。
明治四年以後の道路
明治になってもこのような道路の状態は、内陸部に移民を導入し、資源を開発し、諸産業を興すうえに障害であり、道路開削は開拓使が、まず第一に取り組まなければならない基礎的事業であった。
開拓使は明治二年から四年にかけて、助成を行って民業による道路整備に努めた。その代表的な道路のーつが東本願寺出願の、有珠郡オサリベッから札幌に至る二七里余の本願寺道路の開削である。
四年、北海道開拓計画の策定に際して、開拓使は幹線道路の整備を急いで進めた。その結果、苫小牧から海岸線を経て根室に至る東海岸道南路の距離は、広尾→歴舟間五里強、歴舟→当縁、掘茅等の沼→大津間八里、大津→直別間六里余となった。
明治九年政府は、わが国の道路を国道・県道・里道の三種に区分し、一八年四四の国道を告示した。十勝に関係する国道四三号は、苫小牧→根室を結ぶもので、主な通過地は広尾→歴舟→大津であった。三一年広尾から大樹を経て帯広に至る広尾街道が開通。
三五年広尾から歴舟・当縁を経て大津に至る大津道路が開通した。
大正八年には、道路の種類が国道・地方費道・準地方費道・市道・町村道と改正された。
囚人道路
明治初期の北海道、特に道東は内陸に通ずる道路が全くなく、内陸に入る場合は、かならずアイヌの道案内が必要であった。
明治維新以降の日本は、国防の理由と資本主義の興隆期にあたって、北海道開拓は急務であった。政府は、根室→網走→旭川→札幌を結ぶ道路、釧路→十勝→旭川を結ぶ道東の背腹を貫く道路開削を考え、この目的のた めに囚人が動員された。
十勝の囚人道路は、県道南北線(通称大津街道)で、帯広大通一丁目から十一丁目まで(通称監獄道路)、糠平線(音更山道)などが囚人によって開削された。
大津街道
十勝の玄関であった大津から、帯広などの奥地への道路開削は住民の熱い願いであった。十勝川を使って物資の搬送をしていたが、底の浅い平舟で川岸から馬で曳かせる方法では安定性が悪く、増水すると舟が横転し、荷物が散逸することがしばしばあった。
明治二五年、大津から新得までの計画予定で築造に着手した道路は、囚人によって開削されたもので、通称を大津街道といっているが「県道南北線」が正式名称である。
工事は監督の看守長二人・看守七〇人・囚人が七〇〇余人の強制労働によって遂行された。釧路分監が開削を請け負い、囚人たちは海岸沿いに釧路から十勝太まで歩き、舟で旅来に着き、先遣隊の建てた仮監(一の小屋)、茂岩(二の小屋)、猿別(三の小屋)、札内(四の小屋)、芽室美生川畔(五の小屋)に分かれて道路開削にあたった。
原始林の巨木を倒し、沢沼地を埋めて土盛りしながら切りひらくという自然的悪条件下の難工事である。湿原には立木を倒して並べ、つるで結んで固定し、小枝やョシを積んで土を盛り、山を崩し、森林を切りひらき、人力のみで約一年で開削したのである。
着工一年で大津から芽室まで建設したのであるから、当時の資材や技術から考えても、従事した囚人七〇〇余人の生命をかけた過酷な事業であった。
囚人の死亡数も、東部地方の道路工事が行われた二〇年代の前半が多く、それは過労、不衛生、栄養失調、障害に起因するものが多かったことが知られる。これらの囚人による工事は、低賃金であるため、普通の一〇分の一以下の経費で完成したといわれている。
しかし、この工事は明治二六年に予算の全額を使い果たし、大 津から芽室高台まで完成させて打ち切りとなった。
大津街道の、大津→茂岩間は現在と同じ道筋で、茂岩→新得間もおよそ現在と同じ道筋である。茂岩→新得間は現在の国道三八号だが、幕別→札内間は根室本線沿いであった。
浦幌の道路
浦幌の道路事業は明治三三年から開削された。区画原野を移民が自ら選定し、移住者の多かった土田農場のあった統太ー養老間が最初である。
『沿革史』が道路について記述しているのは簡単である。当時の浦幌には不完全な道路のみで、見るべき道路の敷設はなかったのであろう。
明治三十三年旅来から本別に至る六、七四四間の道路開発が着手され、四十一年になって完成し、大正十一年純地方費道路に編入され、浦幌の南北貫通の脊椎となり動脈となって、全村の全面的活動が招来されるに至ったのである。しかし一面には、本道路は当村にとっては非常に大負担で、準地方費道路に編入されるまでは、村政の疲弊原因のーつであったといわれる。実にこの道路は、三〇メートル以上の橋が十数本浦幌川をまたいで架けられている。
『沿革史』 により年代順に道路を見ると、明治三四年統太の三叉路から東二線を通って旧十勝太道路へ通じる道路が完成、西田小次郎が請け負っている。
貴老路幹線道路は、中川橋から本別に至る間が四〇年に完成。
四三年開通の川上道路は、北村小三郎が総代となって帯広土木事務所に請願した結果、東六線から東二〇線までが一年がかりで完成。
上・下幾千世の道路は、八間橋から奥は林田農場が土地を寄付し、大正五年に完成、常盤(時和) と通じたのが一五年であった。
中・下常室の幹線道路、いわゆる千間道路の建設には、石井源次郎・馬場助右衛門・高井弥吉・立花五助らが請負工事に当たり完成したとあるが、着工、完成年月は不明である。
いずれにしても、道路の新設、鉄道の開通などにつれて浦幌の入植者はますます増加し、中央部から北部へと開拓は進められていったのである。
道庁の道路事業
道庁は道路をつくって移民を入れるのではなく、成績のあがった原野から順次に道路をつくるという事態になっていたから、道 一工事を一期と二期に分け、両工事を終えてはじめて予定の工事を完了するものとした。まず、粗造な第一期工事を比較的拓殖の進捗しない地方に施し、道路の普及をはかった。
統太と養老間に優先された道路が、その粗造道路の築造であったかどうか、知るよしもないが、大正年間(一九一三~二六)まで地方費道、村道、炭砿専用道路を『沿革史』 でみると、明治三三年から四三年まで五本、大正四年に続いて一〇年に二本が開通している。
道内の初期道路がすべてそうであるように、浦幌の道路事業にも砂利敷などは地域住民にゆだねられていた。
明治四五年六月、道庁は「土木事業奨励規程」を公布し、道路・ 橋梁・河川その他土木事業の拡張、改良、または保存上に有益な貢献をなした個人や団体をえらび、土木功績者として奨励金を下付することにし、道路にあっては民間人による路面の草刈り、雑木の伐除、掃除、掻均し、穴埋め、砂利敷き込み、排水溝の浚渫などを期待した。地域住民がさまざまなかたちで補わなければならなかったこれら開拓期の道路は、それぞれ整備され、新たな名称となっているものが多い。
『町史』には、昭和三三年以後の浦幌の国道は一線、道道は六線、町道が一四〇線と、線路名及び総延長が記されているが敷設年月はない。
四四年ころには「新設道路工事が完成、これを幹線として道道二線を枝線とし、町道及び農道を支線として、道路網は町内いたるところに四通八達している」とあり、二本の進駐軍の指定道路まであったという。
現在、浦幌の道路は、 一級・二級、その他の町道が網目のように張り、更に一般国道三八号、三三六号、二七四号。主要道道と一般道道が、本別浦幌線、浦幌停車場線、音別浦幌線、十弗浦幌線、留真東台線、留真線、幾千世吉野線、直別共栄線が住民の利便と経済効果を追っている。
国道三八号バイパス
三八号は、吉野から統太を経て厚内市街を通る海岸回りルートであった。昭和三三年から七年の歳月をかけて、吉野から浦幌市街を通り厚内を経て直別までの切替工事がされた。その後、長距離輸送車の増加、建設資材、農林水産物の輸送、運搬の通行車両は急増していったが、浦幌市街では幅員が狭く、通学路の横断や商店街通過のほか、冬期の除雪などの面からも早急の改善が求められていた。
四五年に至ってバイパスルートの取組みに着手され、四八年に完成した。この工事により当時としては他に例のない浦幌中学校横断地下道もできた。
道道の野鳥図鑑
平成二年に浦幌駅前街路(道道十弗浦幌線)が完成した。国道から西側約八〇メートルがコンクリートの擁壁である。 擁壁には道路完成後に結成された「浦幌町絵を描く会」の会員、約一五〇名が浦幌の野鳥一〇〇種を描いた。鳥名も書いて「野鳥図鑑」とした。
第二節 橋
道路のない開拓地にあっては、踏分道や馬車の轍(わだち)の跡、あるいは河川が唯一の交通路であった。開拓の成績もあが り、ようやく殖民地への道路が急速に伸長していったが、橋の架設は遅れていた。浦幌では河川の状況に応じて、丸木舟が相当おそくまで使われていた。
浦幌ではじめて架けられた橋がいつごろか、それが吊橋であったか、桁橋であったか、資料がなく河川名も不明である。昭和二四年当時、浦幌の河川に架けられていた橋は『沿革史』に次のように書かれているが橋名はない。
木橋支間二〇米以下のもの 一六八橋
木橋支間二〇米以上のもの 一一橋
鉄筋コンクリート橋支間二〇米以下のもの 一四橋
鉄筋コンクリート橋支間二〇米以上のもの 三橋
鉄吊橋支間三〇米以上のもの 四橋
また『町史』 は次のように記している。昭和四四年ころである。
国の橋 二ニ力所 延長 四八一米 永久橋
道の橋 七ニカ所 一八六四米 永久橋 四三カ所 一三〇七米
木橋 二九カ所 五五七米
町の橋 ーーー力所 一五〇五米 永久橋 二〇カ所 三一六米
木橋 九ーカ所 一一八九米
合計 二〇五カ所 三八五〇米 永久橋 八五カ所 二一〇四米
木橋 一一一〇カ所 一七四六米
「浦幌の橋梁は多い。他町村に比しても少ない方ではない。しかも木橋が多かったのであるが最近車両の通行が多く、且つ重量の関係もあって決壊する箇所も多いため、永久橋に替わってきていることも見逃すことは出来ない。」と『町史』が文を結んでいる木橋は、現在は一橋もなく、浦幌全域を流れる河川、沢川、明渠にいたるまで、コンクリート、鋼材の橋で、建設年は昭和四二年より平成八年に架設されたものである。
十勝河口橋
国道三三六号は十勝川により分断され、全国でもめずらしい渡船を利用する国道として知られていた。一般車両は不通区間で、行政、経済など地域住民の暮らしは不便を余儀なくされていた。
昭和四九年、広尾・大樹・忠類・豊頃・浦幌の五町村で、十勝海岸線国道建設促進期成会が組織されて国へ働きかけた。
五七年測量、調査がされ、翌五八年に着工された。十勝川河口より上流四キロの位置に架設され、延長九二八メートル、幅員一一メートル。コンクリート橋としては橋長、最大支間長ともに道内最大、国内でも六番目といわれた。
約一〇年の歳月と九一億円の費用を要して、平成四年一二月八日開通した。
浦幌大橋
国道三三六号は、日高管内の浦河町を起点に沿岸六町、様似・えりも・広尾・大樹・忠類・豊頃を経て、浦幌町直別で国道三八号に合流し釧路に至る道路である。そのうち「浦幌道路」事業区間のうち、豊北と十勝太を結ぶ浦幌十勝川に架かる「浦幌大橋」が完成し開通したのは、平成一〇年三月二二日である。五年に着工してから完了まで五年の期間を要していた。
渡り初めは、二二日午前一〇時から沿線自治体の関係者、地域住民が一堂に集まり、浦幌開拓獅子舞を先頭に行われた。
旧第一橋
浦幌を貫流する浦幌川の、市街はずれに架かっている第一浦幌橋は、昭和五五年一二月に建設された二代目である。
初代は、昭和六年に着工し、八年に完成した。幅員五・五メートル、延長六七メートル。道庁の技師小林雄次郎の手による工法、ゲルバー橋(ドイツの創案者の名)であった。
若き日の小林が最初の仕事であったという第一橋は、北海道ではじめての橋梁美学の粋をきわめた姿の美しい橋だった。第一橋の完成は、それまで使われていた渡船が廃止され、大きな運輸の力となって村を発展させていった。
第三節 馬車・馬そり
開拓者の農作物は主として駄馬によって陸送されていたが、道路の築造によって馬車・馬そりに変わっていった。
『新北海道史』に 「札幌本道の築造にともない函館ー森間の車馬道が竣工するや、明治五年一一月、函館鶴岡町に馬車会所を設け、馬車数両を備えて函館・森間を往復することに決め……」とあるところをみると、馬車については早くからあったようである。
函館地方の乗馬車、荷馬車は四頭曳馬車一両、二頭曳馬車一両で便を担っていたという。
浦幌で馬車・馬そりがいつごろから使用されていたかはっきりとはしないが、『沿革史』 に明治三九年から四二年までの次のような表6が載っている。
四二年には人力車二台の数字もみえるが、この人力車が誰によっていつ営業をはじめたものか不明である。また荷馬車・馬そりは開拓者がもっぱら農産作物を搬出するためのものであって、浦幌に乗客輸送のものはなかった。
馬そりの由来
冬期間の交通用具のーつであった馬そりは、明治一一年八月、 開拓使長官黒田清隆がロシアのウラジオストックに渡った際に、乗馬車、乗そり及び馬四頭を購入し、一二月に樺太のコルサコフで、 氷雪上を住民がそりを利用する状況を見て、それが便利であることを知り、職工三人を連れ帰ると工業局においてロシァ型の馬車・そりを製造させた。
一二年四月、工業局に陸運改良係を置き、 一四年一〇月にはその派出所を苫小牧、幌別、室蘭に置いた。更に島松・美々・白老の三カ所にも設置して運輸を開き、札幌ー室蘭間の馬車・馬そりによる輸送に努めた。こうして、開拓使工業局製造のロシァ型の馬車・馬そりは普及されていった。
馬車鉄道
馬車軌道ともいう馬車鉄道は、軽軌条を用いた軌道上を、馬に曳かれた小型の客車または貨車を運転輸送する。
北海道では明治三〇年一二月、函館が二頭曳きで運転したのが最初である。この馬車鉄道には市街地内線と短距離の地方線があったが、北海道では殖民軌道(のちの簡易軌道)のように、農業地帯を鉄道の駅に結ぶものと、石炭または鉱石を輸送するものなどがあった。
旭川では近文の陸軍部隊と旭川を結ぶため、札幌では石切山の石材輸送のために敷設されている。
浦幌の馬車軌道は大正七年浦幌炭砿の開砿の際に、毛梨より浦幌駅まで鉄道が敷かれ、七、八台のトロッコを連結して石炭を浦幌駅まで搬送した。
更に、大正八年富士製紙株式会社池田パルプ工場の操業によって敷設された。釧路支庁境の上浦幌上川上の奥から伐採された製紙原木は、この馬車軌道及び修羅場(スラ)による修羅運材によって本別駅の土場に搬出されていた。
修羅場とは、急坂に木材で材木をすべり落とす通路を造り、同時に材木の転落するとき、摩擦で発火することを防ぐため、水を流下した装置を施した所である。この方法で行う材木の搬出が修羅運材といわれ、この修羅場は浦幌坂の道路を横切って設けられていた。
伐採地でトロッコに積まれた材木は、馬車軌道を馬力によって浦幌坂の上まで運ばれ、そこから坂下まで修羅運材で搬送されて、再び馬車軌道で本別駅の土場に運送された。トロッコには一〇石ほど積載され、三台連結で馬が曳いていた。
当時、修羅運材は全道でも珍しいものであったから、遠く各地から林学専攻の学生たちが見学に訪れたという。また、作業中に衝撃摩擦によって発する火の光や、材木のドスンドスンととどろく音響が山峡にこだまし、物凄いものであったと 『本別町史』にある。昭和五年富士製紙の閉鎖によって原木の伐採は終わり、軌道は取りはずされ、修羅場も消えた。
第四節 バス
浦幌の乗合バスの最初は昭和四年ころである。浦幌ー留真間に通っていたことが 『沿革史』 にあり、『町史』 には同じころ、大津の横野勇が浦幌から留真を経て本別までバスを運行させたとある。いつごろまで運行されたかは明らかではない。
一五年に十勝自動車合資会社(代表竹腰広蔵)が、無許可で浦幌駅前ー留真間、浦幌駅前ー浦幌炭砿間を運行させたことも記されている。
二七年、道東バス株式会社により本別ー活平が運行され、二九年九月、本別ー川上間に、三一年二月から浦幌ー福山間(上常室小学校まで)に一往復が運行された。
十勝バス株式会社が帯広ー浦幌間を運行させたのは三〇年。このほか三六年には浦幌ー十勝太間で二往復していた記録もあり、四二年には帯広ー浦幌ー上厚内間に「上厚内線」、「浦幌急行線」が三往復あった。
六一年、国の過疎地域におけるバス会社への運行補助が打切られると、留真線は廃止された。現在、本別ー留真間、浦幌ー帯広間にそれぞれの自治体が運行経費を負担し、十勝バスが運行されている。
第五節 渡船
明治・大正期の渡船
明治に入って道路が整備されるにつれ、橋の建設も進んだが、十勝川には大小いくつもの流れがあり、これらの河川は経済的な理由も加わって橋のできない河川が多く、そのためこれに代わる渡船場が各地に設けられていた。人や物資けられていた。人や物資船に頼らざるを得なかったのである。しかも、その運営は駅逓と同じく、旧幕時代の制度を踏襲したため各地でまちまちであった。
明治四二年の十勝には公費で三六カ所、地方費一〇カ所、私設で二四カ所が記録されている。
『北海道十年計画実施成績要領』には次のように述べられていた。
本道ノ河川ハ大小数千流、悉ク太古自然ノ状態ニ委セラレ流路ノ変転、河状ノ遷移頗ル甚シク、為ニ容易ニ橋梁ヲ架設スル能ハザル結果枢要ノ通路ニシテ橋梁ノ架設ヲ欠クモノ多ク、従テ族客及ビ物資ノ交通運搬ハ、此等渡船ノ有無ト重大ナル関係ヲ有スルニモ拘ラズ、従前ハ未ダ進ンデ使節経営スル所ナカリシモノノ如シ、十年計画ハ当時現在ァル渡船場ヲ持続スル外、更ニ新二九六箇所ヲ増設シ且其設備ヲ完成センコトヲ期セリ。
浦幌の渡船場を『沿革史』 で見ると、明治四二年当時に設置されていた渡船五カ所はすべて官設であり、人馬往来も頻繁であったとあり、『豊頃町史』は、明治四年にすでに十勝川、大津川にそれぞれーカ所ずつの渡船が設けられていたことを記している。
「渡船場渡守土人給料介抱米取調書」
一、渡船場 壱ケ所 字大津川
但守土人四人
一、渡船場 壱ケ所 字十勝川
但守土人三人
一、土人一人に付 一日玄米七合五勺宛
給料ーケ月銭二貫五百文宛
右給料銭二貫五百文之儀は古来仕来之儘に而、却而、替品に而相渡、
右替諸品代銭之儀も、古来之定直段を似相渡候儀に付、方今之處に
而者、凡六倍余手当増にも相当可申儀に御座候也
辛未 十一月
この渡船場所が十勝川のどの辺りにあり、大津のどこへ通じていたかは明らかではない。
明治四二年三月末、浦幌に設置されていた渡船は次のとおりである。
十勝川 生剛村大字愛牛村タンネウタ渡船(国費)
明治三十七年(一九〇四)三月創設 渡船区間は愛牛→旅来(旧大津村)
打内川 打内大渡船(地方費)
明治三十三年(一九〇〇)三月二十七日創設 渡船区間は南海岸線
十勝川 ベッチャロ村西五線六線間(私設)
場所は定かではないが、西田小次郎も十勝太ーベッチャロ(豊北)間に私設の渡船を設けている。 ベッチャロ村西五線六線間(私設)とあるのが西田の渡船ではないだろうか。
「西田の渡船は、ベッチャロの放牧地と畑へ行くための使用人の渡船であったが、通行人の便もはかっていた。西田の没後、亀山仁三郎が渡守をしていた。
亀山は大正一一年の大洪水の 後、広尾へ移転した。」(岡みつ~西田の養女加藤モト二女談・新宮廣記録)
なお『町史』 は渡船について次のように記している。十勝川の七代は昭和初期から中期に当たる。西三線道路の南端には大津に通じる十勝川渡船場があった。十勝川→トイトッキ→ウツナイ川→大津川の経路で、渡船賃は大人一人一回が一銭、馬は二銭だった。渡船場には管理人が置かれていたが歴代の管理人は次の人たちである。
十勝川 初代 林 九平 五代 出村松五郎
二代 炭谷 竹造 六代 長根 金作
三代 工藤忠兵衛 七代 桃井藤次郎
四代 花田 留造
トイトッキ沼渡船 横井某(通称稲荷さん)
ウツナイ川 初代 小林 寅男 三代 野口千代正
二代 長根 善作
このほか、当時の浦幌川にも官設で下浦幌に三カ所、上浦幌の仁生にーカ所あった。
浦幌川では、第一橋と第二橋のところにあり、第一橋は菊地某、第二橋は青木某が人だけを乗せる船渡しをしていた。馬車は川越であった。
明治四十二年ころ木橋ができ、村では盛大に祝いをしたが、大正十一年の大水害のとき流れてしまった。このとき第二橋、千歳橋など四つの橋が流れるのを見た。
万年橋だけが流れなかった。千歳橋を昔は生剛橋といっていた。(北村吉光談・新宮廣記録)
また、東蝦夷地の要衝となっていた直別には、直別川の水量が多く川幅も広く、渡河が困難であったところから、河口部には古くから渡船が設置されていて旅行者の便をはかっていた。
この直別の渡船は、安政四年(一八五七) ころすでにあったことを「川有、巾十余間、刳木船ニテ渡ス。此処クスリ・トカチ両持ニシテ、隔年ニ渡守ヲ出ス。」と松浦武四郎の 『竹四郎回浦日記』 に書かれ、『初航蝦夷日誌』 では「チュクベッ川有、巾十間丸木船渡シ、夷人小屋有也」となって「川向ニ夷人二軒有、西川岸ニ標柱ヲ建テタリ」伝えている。
写真:渡船運行表(愛牛・旅来間)
昭和の渡船
明治期に施設された渡船場は、両岸の殖民区画地を結ぶ渡船場として重要であったから、官設の渡船場は拓殖費支弁によって維持されていたが、昭和に入ってからは道路や鉄道による輸送が発達し、渡船は次第に廃止されていった。
昭和二年北海道第二期拓殖計画の実施に当たって、「渡船場ハ拓殖費ニテ維持スルコトヲ止メ、之ノ管理者タル町村長ニ維持セシメ、之ニ対シ向フ五カ年ニ限リ、拓殖費ョリ補助スルコト」と改められた。当時、大津村であった十勝川の五カ所の渡船場は大津村に引継がれ、大津村は渡船取扱人を委嘱して渡船業務を行った。
大津村の三分割によって、その東部が浦幌に併合されてからは河川の氾濫で木橋の流失がたびたびあったため、渡船の利用は近年まで重要な役割を果たしていた。
次は昭和期の官設の渡船場と取扱人である。
ウツナイ川渡船場(川口渡船場) 渡辺実 長根善作 野口千代正
ベッチャロ渡船場 郷駒吉 昭和二四年より 栗原末治
十勝太渡船場 長根金作
トイトッキ渡船場 桃井藤次郎
渡船取扱人は拝命前に村長宛に採用願書を出しているが、添付書類は戸籍抄本・家族調書などの書類を提出して許可を受けなければならなかった。
十勝川渡船の条例
昭和三〇年四月一日、浦幌に併合された旧大津村の東部地区の三カ所に渡船場があった。町道大津・吉野間、豊北・十勝太線、大津・昆布刈石線である。この三カ所の渡船場の利用について十勝川渡船条例が設けられることになった。内容は次のとおりであるが、この条例は、平成四年一二月八日、十勝河口橋が完成し渡船が消滅したことによって廃止された。
渡船場名
十勝川豊北渡船場(町道大津ー新吉野間)
十勝川十勝太(下)渡船場(大津ー昆布刈石線)
十勝川十勝太(上)渡船場(豊北ー十勝太)
渡船就業時間
四月から十月まで、自午一型ハ時 至午後六時
十一月から三月まで、自午前六時 至午後五時
渡船で渡すもの
①人とその携行する手荷物
②人に付随する自転車・原動機付自転車・オートバイ
③牛・馬・緬羊・山羊
④雑穀・肥料
⑤人に付随する荷物・積載していないリヤカー
⑥トラック自動車・小型三輪車(荷物の積みおろしの必要ないもの)
⑦馬に付随する馬車(荷物の積みおろしの必要ないもの)
渡船料金
渡船料金は無料、しかし取扱時間外は有料
国道最後の渡船場
旅来の渡船
明治三七年三月六日創設の旅来渡船は、タンネウタ渡船場とも呼ばれ、生剛村と大津村の旅来を結ぶ筏式の川舟で人馬が対象であった。
昭和三二年に村道が一般道道に昇格し、四二年には筏式が廃止されて、四三年からプラスチック製の船 (定員五人) になった。
五〇年四月に国道(三三六号)に昇格すると北海道開発局の管理となり、国道で日本最後の渡船場として存在した。昭和に入って道路や鉄道が発達した中で最後まで重要な役割を果たしていたのである。十勝の開拓の物語も、この川、この渡船からはじまった
といっても過言ではない。
巨額の費用を要する架橋を望める状況になかった地域の住民が、対岸への輸送を船にたよってきた渡船は地域間の分断を余儀なくされ、豊頃町大津と浦幌町豊北地区の人々の暮らしや行政、経済などの面においては、長年にわたる不利不便を強いられたままだった。
このような背景から、地域住民こぞっての強い要望に応えて、昭和五八年度から建設が進められていた十勝河口橋が平成四年一〇月完成した。
一一月二日「さようなら式典」が行われると八七年余を十勝川の波を乗り越えてきた旅来渡船は、その大役を十勝河口橋に譲ることになった。
第六節 建設関係官公庁
帯広土木現業所浦幌出張所
昭和二六年四月、豊頃村茂岩治水事業所内に浦幌出張所が設置され、翌二七年二月北海道開発局の発足により分離し、栄町(旧浦幌青年学校校舎)に移転する。四一年一〇月、万年に事務所を新築、移転する。更に平成九年一二月、同地区に新庁舎が新築され移転。
管轄区域は浦幌・豊頃町で、道路・河川・砂防・災害の業務を担っている。
帯広開発建設部浦幌道路維持事業所
同所は昭和一二年北海道帯広土木事務所池田派出所としてはじまる。一七年に帯広土木現業所茂岩派出所、二二年には豊頃派出所、二七年に北海道開発局帯広開発建設部豊頃出張所となり、三五年一一月、同浦幌出張所として帯富に開所(平屋建)した。
業務は国道三八号など、国道の維持管理や建設機械の運用であった。四七年には国の行政機構の合理化で統廃合案が提起された。この阻止のために住民あげての存置運動となった。五四年同地区に庁舎が新築され、五九年四月、出張所は道路維持事業所と改称された。
第六章 鉄道
日本人で最初に汽車に乗ったのは土佐の漁夫、中浜万次郎であった。万次郎は天保一二年(一八四一)に出漁中遭難、アメリカの捕鯨船に救助され、アメリカに渡って教育を受け、幕末の日本の英語の先覚者となった人である。
明治以前の鉄道について 『釧路鉄道管理局史』 で見ると、「天保元年(一八三〇)ペリー模型蒸気機関車を将軍に献上試運転。翌二年佐賀藩で模型機関車製作」とあり、幕末の日本人の一部はすでに鉄道を知っていたようである。
幌内鉄道
明治五年九月、新橋・横浜間にはじめて汽車が走り出してから、 八年後の一三年一一月二八日、北海道では幌内炭山の運炭輸送を目的として、車道約 三六キロメートルの幌内鉄道が敷設された。
車はすべてアメリカ製を用い、手宮、札幌間に機関車第一号「義経」、第二号「弁慶」が走った。弁慶号には障害物を排除するカウ・キャッチャーならびに貫通式ェァ・ブレーキが備え付けられ、車両はすべてボギー車で、客車にはトイレの設備があった。
これらは当時、わが国の他の鉄道にみられない進歩した設備や技術であった。
義経、弁慶と愛称を付けられた機関車の、カーン・カーンと響きわたる警鐘は、文明開化の到来を告げ、沿線住民からは時刻を知らせる時計代わりとして親しまれた。
義経、弁慶号は、普通客車二両に台車一二両ないし一五両を引き、旅客、石炭を中心とした物資の輸送に当たっていたが、開拓当初にあっても輸送量を確保することができず、連年赤字を続けた。それにもかかわらず、幌内鉄道が拓殖鉄道として果たした役割はきわめて大きく、鉄道敷設によって札幌付近への物資の輸送が確保され、高物価と物資の不足に悩んでいた住民に落ち着きを与え、石狩平野開拓の基礎が定まっていった。
北海道の予定線路
明治二九年、北海道鉄道敷設法(明治 北海道の予定線路 三五年一部改訂)が公布され、道内鉄道主要予定幹線がきまった。同法、第二条による北海道の予定線路は、
・石狩国旭川より十勝国十勝太及釧路国厚岸を経て北見国網尻(網走)に至る鉄道
・十勝国利別より北見国相ノ内、釧路国厚岸より根室国根室に至る鉄道
・石狩国旭川より北見国宗谷に至る鉄道
・石狩国雨竜原野より天塩国増毛に至る鉄道
・石狩国宗谷奈興呂太より北見国網尻に至る鉄道
・後志国小樽より渡島国箱館に至る鉄道
と、なっていて、同年七月に臨時北海道鉄道敷設部技師工学博士田辺朔郎が道東の建設地調査で現地入りした。
調査地は、根室ー厚岸、厚岸ー標茶、標茶ー硫黄山、硫黄山網走、釧路ー十勝太、十勝太ー帯広、帯広ー旭川であった。
十勝太鉄道の計画経路は、新吉野→十勝太→新川上流を経て厚 内へ通る経路だったのである。
幻の十勝太鉄道
この鉄道施設の予定のため、十勝太市街は、遊覧船の運行、停車場、遊廓の予定地(旧西尾修一宅の裏高台)、公園の予定地(現在の八木忠宏宅の裏山)、灯台の予定地(斜路上の高台)などの区画整理がなされ、大津から十勝太に移住したものも少なくなかった。
しかし、いざ施設という段階で、下頃辺(吉野)→浦幌→厚内を経由する工事に決定、海岸線における施設工事は困難というのが理由であった。
汽車の騒音によって 「ニシン、サケなどが接岸しない」と反対したものもたしかに一部にあったが、十勝海岸線によって、十勝太市街予定地を通過させようとする住民の熱意は高かった。
次は 「檄文」 である。
十勝太鉄道ニ関スル件
檄
道発達ニ随伴スル緊急ノ事業トシテハ社会一般ニ喧伝セラレタル
北海道殖民鉄道ハ今ャ那辺ニ起工シアル乎前ハ既ニ釧路ヲ起点トシ
テ白糠ニ向ヒ後ロハ富良奴ヲ経過シテ将サニ国境ノ山脉ヲ突貫セン
トス前後進運ノ刺撃ヲ蒙レル中央ノ我十勝国ハ此ノ大ナル勢力ノ進
捗ニ向ッテ如何ニ之レヲ処理セントスル乎国自ラ国情ァリ社会自ラ
習慣ァリ猥リニ速成ノミヲ貴テ事物制度纒綿ノ自国ヲ省ミサレバ却
テ禍ヲ百年ニ遺スモノアリ豈対岸ノ火災視シテ可ナランヤ噫殖民鉄
道ノ整成ハ以テ十勝ヲ奮興セシムルモノ殖民鉄道ノ妄通ハ以テ十勝
ヲ頽廃セシムルモノ請フ有為ノ諸士熱誠発揮ノ労ヲ吝ム勿レ
近来十勝ノ拓殖著シク進捗シ山蔭野端苟モ耕耘ニ適スルノ処ハ殆ン
ト寸地ヲ余サス移客ヲ収容シ衆庶日夜殖産興業ニ奮勉ス然レトモ国
内運輸ノ便ハ未タ完全セス従来僅力ニ十勝河ノ水運ヲ以テ内部ノ発
達ヲ助成セシト雖モ今後多数物貨ノ輸入ハ到底是等ヲ以テ満足シ得
ヘキニアラス我十勝之国勢トシテ必ス快速ナル鉄路ニ拠ラズンバア
ラザルナリ曩キニ測定セラレタル殖民鉄道十勝線ノ起工ハ於是乎其
急要ヲ告ケ今ヤ正ニ前後ニ逼追スルニ至レリ而シテ其海岸線路ニ沿
タル十勝太市街予定地ハ十勝河ロノ沿岸ニ位シ水陸ノ運輸共ニ宣シ
ク其ノ物貨輸出入ノ便ニ至テハ夏季僅少ノ日子ヲ除ケバ沿海概ネ平
穏ニシテ且ツ秋穫輸出期ノ如キ座ナカラ其用ヲ使スルハ古来幾多ノ
経験ニ於テ明カナル所ニシテ国内マタ其門口トシテ大ニ希望ヲ属ス
剰へ附近ノ住民年来ノ経験ニョリ地理地勢ヲ究察シテ市街ノ新設ヲ
翹望スルモノ爰ニ十数年稍ク気運ノ臻ル所トナリ今ャ数千ノ区画制
定シテ貸付ヲ施行セラレ其本年成功ノ責務ヲ負フモノ殆ント五百戸
ニ垂ントス此時ニ当リ陸運交通ノ大機関タル殖民鉄道ニシテ十勝太
市街ニ接近スルト否トハ啻ニ其市街ノ盛否ニ拘ハルノミナラス全国
万般ノ事物制度ニ重大ノ関係ヲ及ホシ将サニ進歩ノ勢運ニ向ハント
スル好望ノ萌芽ニ対シテ著シク異動ヲ与フルモノ洵トニ十勝百年幸
否ノ分ル、所タリ聞クカ如シハ先キニ測定セラレタル十勝郡ノ海岸
線路ハ全然廃棄ニ帰シ更ニ三十一二年ノ測量ニ於イテ字ァブナイヨ
リ浦幌ニ達スル数条ノ比較線ヲ撰了セリト噫果シテ信ナル乎巳ニ官
報ニ依テ公報セラレタル海岸線ナルモノ更ニ廃止ノ特令ァルニ非レ
ハ猥リニ信憑スヘカラスト雖モ若シコノ比較線ヲシテ決定アラシメ
ハ其位置大イニ十勝太ニ隔離シ即チ其特有ノ便益ヲ乘棄シタル妄通
ニシテ我十勝ノ熱必ナル希望ヲ破壊シ遂ニ頽廃セシムルモノト講ス
ルニ憚ラサルナリ客秋十勝郡ニ於ケル十数ノ有志特ニ此意ヲ記シテ
道庁長官ニ請願セシモノ字ァブナイョリ十勝太最近ノ字シツナイニ
出テンコトヲ唱導セシカ尚其線路ニ就キ対照調査ヲ為スニ海岸線ハ実ニ左ノ優等ナル数項ヲ有ス。
第一 積雪最モ僅少ニシテ現今数寸ニ過キス
第二 長大ナル隊道又ハ切開ナキヲ以テ工事平易ナリ
第三 鉄道敷設上重大ノ関係ァル勾配ハ誠トニ僅微ナリ
第四 十勝太市街中ニアルヲ以テ水陸ノ交通最モ便益ァルハ言迄モナシ
此他諸種ノ利便ハ挙テ算へ難シ故ニ専ラ此ノ海岸線ヲ保持シテ之レ
ラ官庁ニ慫慂シ併セテ遂行セシメンコトヲ期ス是十勝進歩ノ運命決
スル所ニシテ其直得ノ利益ハ十勝門口市街ノ発達ヲ速進シ内部生民
ノ産業ニ安堵ノ念ヲ与へ大河ノ水運ト関聨シテ交通利益ノ運用愈々
顕著ナルヘク将来全国栄盛ノ秋ニ当リ四六時中不休不眠複雑頻繁ナ
ル運輸ニ向テ莫大ナル便益ヲ与フヘキハ今更識者ヲ俟テ談スルノ限ニ非サル也
希クハ有為有志ノ諸士宜シク十勝百年ノ長計ヲ確定スル此ノ主旨ヲ採択シ以テ歩調一途十勝国奮活ノ実ヲ発揚セラレンコトヲ
一 海岸線保持ノ目的ヲ達センガタメ十勝海岸線保持同盟会ヲ組織ス
一 本会ヲ十勝郡大津村ニ設ク支部ヲ国内枢要ノ箇所ニ置ク
一 本会ノ目的ヲ達センガタメ長官ニ諸願ヲ為ス
一 請願委員出札ノ諸費並本会ノ費用ハ会員出金ノ会費ト美志義捐ヲ以テ支出ス
一 同盟会々則ハ発起人ニ於テ定ム 但会議ニ於テ更訂スルコトヲ得ヘシ
以上
明治参拾参年二月十一日
発 起 人
十勝国十勝郡大津村 石黒 林太郎印
堺 千代吉印
熊谷 泰造印
橋本 順造印
斎藤 兵太郎印
大津 蔵之助印
石貞 佐五郎印
同 十勝郡下浦幌 君 貞 治印
横山 友九郎印
浦幌駅
根室本線が釧路線と呼ばれていた明治三六年一二月二五日、浦幌駅は開駅した。釧路から起工された路線を白糠、音別を経て、浦幌駅へ滑り込んだ機関車は、三四年六月アメリカ製機関車二両が、海路はるばる釧路港へ輸送されたものであった。
機関車はある程度分解されていたが、重量品の荷揚げ作業から機関庫まで、約五〇〇メートルの運搬には三日間もかかったほど苦労したという。機関車の組立てにも、十五号車を機関方の本間鶴太郎、十六号車を火夫の磯部神肝が担当し、血のにじむような苦労をしたと『釧路鉄道管理局史』 は述べている。
浦幌の開駅にともない、入植者が急増したことはいうまでもない。初代駅長は石崎身之助であった。
新吉野駅
下浦幌地区の人口増加と、事業の進展にともない、明治四三年一月七日が開駅。初代駅長小原庸三。昭和一七年四月一日下頃辺駅を新吉野駅と改名。同四六年一〇月二日委託駅。、六〇年三月停留化となる。
厚内駅
浦幌駅と同日、明治三六年一二月二五日の開駅である。初代駅長茂木高四郎。昭和四六年一〇月二日委託駅、五九年一一月一日停留化(無人化)となる。
上厚内駅
明治四三年一二月一日信号所、大正一五年八月一日一般駅となった。初代駅長湊太吉。昭和四六年一〇月二日駅員無配置となる。
直別駅(釧路直別)
明治四〇年一〇月二五日開駅。初代駅長小玉寅平。昭和四六年一〇月二日駅員無配置となる。
常豊信号所
昭和四〇年九月三〇日開所、四六年一〇月二日所員無配置となる。
建設と開通の陰で
明治三四年七月二〇日午前一〇時、処女列車が釧路、白糠間を勢いよくスタートしたときの様子を、『釧路鉄道管理局史』 は
「真新しい日章旗が紺碧の空にはためき、初代釧路駅長渡辺善男の右手がさっと上がった。汽笛を合図に日の丸の小旗がサザ波となって揺らぎ、アメリカ生まれの二両の機関車は鈍い金属音をきしませて・・」と描写している。
機械力の乏しかった当時の建設工事は人海戦術による重労働の連続であった。タコと呼ばれた土工夫は素足に草鞋(わらじ)、
赤銅色の半裸で土方鍬を振るった。莚(むしろ)で作った 「もっこ」 の重みは肩の肉に食い込み、流れる鮮血は汗に混じって、泥にまみれた背筋をミミズのように走った。
釧路駅の機関庫の建てられた地点は、長い間アイヌの墓地であったから、地ならしをする一方には白骨の山ができた。墓をあばくとたたりがあると信じ込んでいる土工夫の中には、重労働と二重の苦しみに耐えかね、闇にまぎれて逃げ出す者が続出した。
土工部屋
鉄道敷設工事も道路開削工事と同様に、原始林や沼沢地を引き開くという自然的悪条件の難工事の上、過重の労働を強いるため、はなはだしい惨状を呈し、多くの犠牲者を出した歴史である。
鉄道敷設法の制定によって、北海道の土木工事は急速に拡大された。大資本が投ぜられ、多くの土建業者が入り込み、官営の道路、鉄道、河川など工事請負という美名に隠れて、官憲と土建業者の馴れ合いで、募集人夫に対して組織的に強制労働の収奪が行われた。それが辺境北海道の自然的、社会的悪条件を加えて過酷きわまるものとなり、それは、北海道の労働の特徴とさえなった。
土工夫を収容した宿舎を土工部屋と称したが、それは土工夫に対して、人眼を覆わせるような残酷な虐待をもともなう奴隷的強制労働のゆえに 「監獄部屋」ともいわれ、また土工夫自ら体をすり減らし、身を食うということから「たこ部屋」ともいわれた。
その土工部屋は工事現場の位置からもくるが、土工夫の逃亡防止と内部事情を外部に知らせないという意味もふくめて、山間へき地に建てられたものであった。
厚内築港工事のときには、起重機がすくう土砂の中に多くの人骨が混ざっていたという。 地元では 「たこの骨だろう」といった。鉄道敷設のとき、あるいは道路敷設のとき、厚内に土工部屋が点々と建てられていたからである。
第七章 駅逓
江戸時代の場所請負人が課せられていた義務は、場所アイヌの撫育、御用のための宿泊、人馬継立であった。開拓使時代に入って場所請負制が廃止された明治二年一一月に、運上屋・会所は本陣と改め、五年一月旅籠屋並と改め、四月には旅籠屋並をやめて旅籠屋と称することにし、一般の人が自由に利用できるようにした。続いて五月に旅籠屋を駅場と改め、八月には駅逓取扱所、一八年駅伝取扱所、二一年人馬継立所、三二年に再び駅逓所と改称するなどめまぐるしい変化であるが、これは宿泊と人馬継立を業務とする北海道独特の制度であった。
このような推移は、十勝の場合明確な記録はないが、逓信事務を扱い、旅人を宿泊させ、官馬の貸与または払い下げ、通信交通の便に備える駅逓所には、娼妓をたくわえる許可が与えられていた。
次は、明治中期から昭和一九年まで浦幌の五カ所に設置されていた駅逓所である。
◇昆布刈石駅逓所
創設 明治二十三年五月十五日(明治二三年五月二一日北海道庁告示第一八号)
廃止 明治三十九年三月二十一日(明治三九年三月二一日北海道庁告示第一一五号)
所在地 十勝国十勝郡十勝村昆布刈石
隣接里程 大津駅逓所 四里二町四七間 尺別駅逓所 三里三一町二〇間
取扱人 石井 三吉
◇下浦幌駅逓所
創設 明治三十六年四月二十三日 (明治三十六年四月二三日北海道庁告示第二八五号)
廃止 大正十二年三月二十一日(大正十二年四月六日北海道庁告示第二一五号)
所在地 十勝国十勝郡生剛村字下浦幌
隣接里程 茂岩駅逓所 五里
大津駅逓所 三里
昆布刈石駅逓所 四里
取扱人 吉川一馬
◇中浦幌駅逓所
創設 明治三十六年四月二十九日 (明治三十六年五月二十四日北海道庁告示第三七五号)
廃止 昭和三年六月三十日 (昭和三年六月二十九日北海道庁告示第六一一号)
所在地 十勝国十勝郡生剛村字中浦幌
隣接里程 上浦幌駅逓所 二里二八町二間 下浦幌駅逓所 三里五町
取扱人 中川北松
◇上浦幌駅逓所
創設 明治三十九年九月十四日 (明治四十一年一月二十四日北海道庁告示第四四号)
廃止 昭和六年五月十日(昭和六年五月九日北海道庁告示第五〇五号)
所在地 十勝国十勝郡生剛村字上浦幌東三線南八号 十勝国十勝郡生剛村字上浦幌公共用地内
隣接里程 中浦幌駅逓所 二里二八町 本別駅逓所 三里三二町
取扱人 守屋 晉(当初) 朝日浅吉
◇上川上駅逓所
創設 昭和四年十一月五日(昭和四年十一月五日北海道庁告示第一三六〇号)
廃止 昭和十九年八月三十一日(昭和十九年八月三十日北海道庁告示第一一九三号)
所在地 十勝郡浦幌村大字浦幌村字上浦幌東二三線北七五ノ甲
隣接里程 上浦幌駅逓所 五里二五町
ウエンベツ二股駅逓所 四里
本別停車場 三里
取扱人北村 小三郎
駅逓所を創設するに当たっては『駅逓所規則』があった。
駅逓取扱人タラントスル者ハ願書ニ身元保証人ト連著ノ上歴圭旦尸籍謄本身分証明書及資産証明書ヲ添へ北海道長官ニ提出スベシ
とあることから相当の資産があり、人物も間違いのない者に委嘱されていたようである。また取扱人の業務には禁止されている事項も多かった。
・取扱人の業務
①人馬継立または宿屋の業務
②官設建物及び附属物件の修理は私費で行う(大修繕は除く)
③馬匹の繁殖
④馬匹の蹄鉄の装置及び去勢
⑤官設馬は冬期は舎飼
⑥業務上設備を要するものは私費で設置
⑦移住民への便宜
⑧官設土地への標杭の設置
⑨官設物件の台帳の整備
⑩業務の収支計算書の提出
・取扱人の禁止事項・制限事項
①取扱人がーカ月以上不在の場合業務担当者を置く(支庁長の許可)
②業務の禁止(支庁長の許可)
③官設物件の目的外使用禁止
④官設物件及び土地の加工(支庁長の許可)
⑤官設土地内の樹木の伐採(支庁長の許可)
⑥家督相続の届出
中浦幌駅逓所の生活
熊谷下浦幌農場の管理人をしていた中川北松が、熊谷農場を離れ、留真で農牧のかたわら河西支庁のすすめで引き受けた駅逓所は、土地及び宿舎が附与されていた。明治三八年四月に入居したのは、北松、ァキ夫婦とシズ・梅乃・禎一郎の子どもたちであった。
次に、シズが八歳であった当時のことを町郷土博物館主催の座談会『博物館報告』(昭和四七年一二月) で話した駅逓所のくら
しと、その周辺を参考までにまとめてみた。
◇建物について
駅逓所は二階建て、 一階に十畳一、八畳二、六畳四の計九室があり、二階も大きかった。材料は吟味してあったが古材を使った部分もあった。建築は山本惣六のあと下重という大工だった。当時は天も見えないほど繁った薮の中に、新しい家がぽつんとできていた。
六月ころブドウの芽が出ていた。馬は馬車ひき馬が一頭、大きな雌とあと一頭の三頭であり、(のち政雄・シズ・梅乃らが草刈りをして扱っている)大きな敷地や畑地は牧夫二人とともに母と子供たちで耕し、薪はよそに上げるくらいあった。宿泊客には米・鱒・ヤマべ料理・蕗やミガキニシンが出された。
父(北松)は公職が多く外に出る日が多く、月に二、三日しか家 にいない。いつも和服を着て馬にもあまり乗らず、汽車のある所まで歩いていた。留守がちな父に代って母は忙しくよく働いた。
子供たちが駅逓や畑を耕したが生活は楽ではなかった。とうきびの 弁当を持ったり、赤ちゃんをおぶって学校へ通うことが多かった。
人馬の継立と旅人宿が仕事で、玄関の両側に「旅人宿・人馬継立」 の看板が掛けてあり、富山の薬売り・呉服の行商・役場や支庁の役人・木材の親方衆が来ていた。三井徳宝・小池次郎という衆議院議員も見えたことがある。
部屋は二階に二つ下に四つ、家族が多いから四部屋と廊下はうちで使っていた。よい部屋は 「ダンナ衆の部屋」といっていた。 どこの部屋にも床の間に掛軸がかけてあり、鉄製の鍋底のある炉がありこれが官設駅逓の特色で、深い鍋底で 「火の用心」ということだったのだろう。
◇母(アキ)のこと
母は朝日浅吉の姉にあたった。父が始終留守だったから家のことはすべて引受けなかなか忙しく、子供も沢山いたから大変であったと思う。病気で休んだことはなく、宿のこと、馬のことでよく働いた。また他人にもやさしい人だった。時々他の人から、帳面を買ってもらった、鉛筆も買ってもらったと聞くことがあった。
宿では白米は大事にして、私どもはあまり食べていない頃、母は米を空ける時に俵をすっかり払わないで、困っている人に 「俵が欲しいんでしょう、よく払って使いなさい」といって米を残して上げていることがあった。後で分かったことだが、母のお葬式のときアイヌの人たちが、母からもらったといって着物を着てお悔やみに来た人が大分いた。
母は信心深くお寺参りをしたが、私たちにも「さあ、あんたがた、今日はどこそこのお参りじゃから早うしもうて、参りなさいよ」といってお寺参りに連れていった。
◇タコ部屋の脱走者
その頃、本別・浦幌幹線道路の工事があって、タコ部屋が所々にあった。タコ部屋から血だらけで、あるいは耳がちぎれたり、裸で逃げてくる人を、おにぎりを持たせて逃がすのが一番後生(人助け)だと、足だけ洗って押入に隠し、熱くて握れないご飯を茶わんにふせて、おにぎりを沢山つくって、風呂敷に包んで背負わせ逃がしたことが何十組もあった。
◇駅逓は部落中心
冬は農家のお嫁さん・お母さんは、どこの家でも一年間履く足袋や作業着を炉端で刺し縫いをするのが仕事だった。 シャツもももひきもみな作った。男子は駅逓が部落の中心的な場所であって、俵から藁をとり、つまご・わらじ・深靴・かんじきなどを作り、冬中はそんな仕事で皆が集まっていた。女は手返しという綿のはいった手袋・ぼっこ手袋・親指とあと四本が二つに割れていた手袋を作っていた。駅逓には酒・たばこ・日用品は大正二年頃まで置いていた。
◇越前衆は踊り好き
父は自分では酒を飲まなかったが、国衆が集まる盆踊りなどには、駅逓のランプを七つくらいけさがけに下げて踊り場を作った。三部落も四部落も集まって故郷を偲んで皆踊る。私たちは六升鍋という大きな鍋に煮しめやおつゆを作ったり、赤飯を一斗ずつ作る。それ
を踊った人たちに「さあ、食べなさい、食べなさい」。 そりゃ本当に賑やかだった。それから部落の人に骨折りをしてもらう時には、アキアジを俵で買って「秋味鍋」をこしらえた。
私の二十歳のころ、福井の音頭で踊るだけだが、田中利さんのお父さんはすごい音頭とりで人気があった。音頭のなかに 「北海道十勝国いなきび郡かぼちゃ村、米しじゅうくわん地、名前は身は痩せ蔵と申します」など面白いものが飛び出すほどだった。扇踊りでも何でも音頭をとって踊り、部落の人が少ないから赤ちゃんおぶった人も皆で踊っていた。越前衆は踊り好きだった。
ここには、シズの語る駅逓所を中心の大正五、六年ころの中浦幌地区の平和な明るさが伝わってくるようである。凶作も豊作もいく度かくぐり抜け、早霜だ、大雨だと、天を恨んだとて何になろう。開拓者の精神はいつの場合も生産的であった。
「トカチコク イナキビムラ コメシジュウクワンチ」 と唄いながら、踊りながら、正しい意味での社会生活の基調をつくっていた人たちであった。
第八章 治水事業
第一節 十勝川の治水工事
北国の空を覆う大雪連峰の十勝岳噴煙をくぐり抜け、大小数百の支流を集めて大河となり、十勝平野を旅する母なる十勝川は、たしかに豊かな恵みをあたえる川ではあるが、開拓の歴史のなかではいく度となく濁流となって畑や集落、家畜や街をおそい、ときには人の命まで奪い、入植者の意欲と生活をおびやかす川でもあった。十勝川の治水工事は、開拓者が移住以来の熱意と悲願であったことであろう。
開拓使時代は自然のまま放任されていた川は、明治三一年九月の全道的な大洪水の被害を契機に、根本的な治水計画がたてられるようになった。同年一〇月には、道庁に治水調査会が設けられ、北海道治水に関する重要事項が調査されることになった。
この計画は三四年から一〇カ年間の事業費を予定し、国庫の拓殖計画に地方費をくみ入れる方針であったが、継続費などの面で実行は困難であり、予定の経費支出は最初の二、三年に過ぎなかった。その後、日露戦争があり国費の大部分は戦費として支出され、河川費・治水費が影響を被ったのはいうまでもない。
明治四二年から四三年にかけて、十勝川では石狩川を上回る大洪水が発生した。このことから、同年第一期拓殖計画の成立となり、治水事業も組織的な方針がうち出され、石狩川の治水工事設計からはじめられた。
十勝川については、大正七年に治水計画の大綱が確立して、大正一二年から昭和六年が計画年数であった。その後、政府の緊縮政策により経費節減をはかりながら、完成目途は、昭和八年、九年、一〇年、 一六年と変更された。更に、太平洋戦争と戦後の混乱のため緊縮節減が求められ、竣工予定は昭和四〇年となった。
国策による遅れがあっても、初期の計画に基づいた、諸枝川の築堤・新水路掘削・切替及び改修工事・千代田堰堤の完成、十勝川の単床ブロックと蛇籠護岸などが実施され、洪水氾濫も次第に小さくなり、農耕地は開発されるようになった。
次は、昭和一六年に完成目途であった十勝川第二期治水工事が、中絶となった際に、大津・浦幌・豊頃の三村長が道に提出した連署の請願書である。治水工事に対する三村の強烈な希いがあらわれている。
請 願 書
十勝川第二期治水工事 急速ニ実施セラレンコトヲ請願仕候
理 由
十勝川第一期治水工事ノ終点タル豊頃村字茂岩ョリ上流ノ治水工事ハ、大方完成セラレ通水ノ便ョクナリ、流水直下シ水害著シク減少シ、関係住民ノ喜ビー方ナラザルニ反シ、其ノ下流ノ河身ハ旧態依然屈曲甚シクー朝大降雨ァランカ直下シ来タレル河水忽チ茂岩付近
近ニ停滞シ、氾濫奔溢スルニ至リ、下流一帯ハ幅員一里ニ亙リ茂岩ョリ大津河口ニ至ルマデ泥海ト化シ、住民ノ蒙ル被害実ニ甚シク見ルニ忍ビザルモノアリ、本年ノ春以来三回大水害ヲ被リ将来一層ノ大被害ヲ予想セラル
氾濫面積大津、浦幌、豊頃ノ三ケ村ニ跨リ約八町歩ァリ、内既開墾地約二千町歩ニシテ農地ニ適スル未開地約六千町歩アリ誠ニ遺憾トスル所ナルノミナラズ、沿岸農家二百数十戸ノ窮状全ク見ルニ忍ビザルモノアルヲ以テ、茂岩ョリ下流大津河口ニ至ル十勝
川ノ治水工事ヲ、急速御実施相成度茲ニ関係町村連署請願候也
昭和十六年十月十七日
大津村長 武村宗太郎
浦幌村長 野澤 文治
豊頃村長 大橋 佐七
北海道長官 戸塚九一郎 殿
昭和七年九月、 一〇年八月、 一一年七月の洪水のあと、この時代はわが国が次第に戦争のドロ沼に足を踏み込み、太平洋戦争が勃発以後は、治水工事は中絶されていたのである。
十勝川の治水長期計画がたてられたのは戦後のことであった。 戦後の食糧難を打開して民生の安定をはかるためであった。
昭和二二年 九月 河川改修の五カ年計画(二三、二七年)
二三年一一月 治水五カ年計画(二四、二八年)
二四年 九月 治水十カ年計画(二五5三四年)
昭和二五年北海道開発庁の設置がされ、二七年後にこの計画
紆余曲折を経ながら順次続き、昭和三四年下幌岡築堤、翌三五年からトイトッキ築堤工事がはじめられ、三八年に完了した。 その後、六〇年代まで各地の築堤、桶門の設置やた。
第二節 河川改修
浦幌川の改修(切替)
入地者の増加にともない、奥地の森林は伐られ、雨水は山間に 留まることなく流下速度をはやめて埋めていった。
昭和一一年一 〇月、関係住民一一三名の連署による浦幌川切替工事の請願が北海道長官に提出された。これは一一年七月の大洪水を契機として活動をはじめた第一声であった。 一四年七月に起工、改修は南六号から西二線に沿って南下、十勝川に流下させるもので、一八年一二月に完成した。以後、千歳・万年・統太地区では融雪期や大雨による以前のような被害はうけなくなった。
浦幌川改修工事施行ノ儀ニ付請願
本村字中浦幌、下浦幌原野五千町歩ハ土質埴壤土ニシテ土地最モ肥沃ナルモ其ノ中央ヲ貫流スル浦幌川ハ屈曲甚シク殊ニ河底淺キト河幅狹少ナルガ爲メ上流奥地ノ開拓ニ伴ヒ融雪時及ビ大雨ニ際シ沿岸
一帶ニ氾濫シテ毎歳ノ被害面積四千町歩ニ逹シ耕地、道路、堤塘等ハ勿論家屋ニ至ルマデソノ蒙ル被害ハ言語ニ絶シ加フルニ昭和六年以來四度ノ冷害凶作ノ打撃ヲ蒙リ今ャ我等沿岸住民ノ疲弊困憊其ノ
極ニ達シ今後年々此ノ悲愴慘憺タル水害ヲ反覆セラル、ニ於テハ到底自活ノ途ナキヲ以テ墳墓ノ地ト定メ移住開拓セル土地ヲ放棄シテ他ニ轉居セザルベカラザル實状ニ有之候條何卒事情御憫察ノ上此ノ
際浦幌河ヲー日モ早ク中小河川費ヲ以テ改修工事ヲ御施行ノ上救濟方御取計相成度此段請願候也
昭和十一年十月十日
北海道廰長官 池田清殿
下頃辺川の改修
下頃辺川流域の開拓は明治三〇年前後で、移住者は土地条件のよい上流部を中心に入植した。下流部の入植者は原始河川の出水にしばしば悩まされていた。
昭和九年に至り、ようやく稲穂の四キロメートル区間で排水溝の掘削がされた。しかし、この工事は西側山間からの砂礫の流下が激しく、川床が上り、泥土化、水田耕作も不可能となった。
二〇年ころから疎開者、あるは集団帰農者が多くなり、ヤチボウズと泥炭湿原の開発要請が強まった。国は、国費による開拓事業を開始した。これにともなって、治水の緊急性と湿原開発の排水幹線として、二一年から改修工事がはじめられた。
昭和二三、四年は、「特殊河川改修」として工事がはじめられ、二五、六年は休止したが、二七年から再開した。浦幌川合流点より幾千世に至る一三・四キロを改修区域とし、新水路の掘削、築堤、護岸、樋門、床止工が施行され、四八年に完了した。
更に、五九年には堤防、川床掘り下げ工事に着工。吉野JR橋を平成一一年に着工し、平成一二年が完成の予定である。
十勝静内川の改修
昭和一五年、土地改良事業として幹線排水が掘削されたが、戦争のために中断し、戦後も放置されたままだったので、上流からの砂利によってその一部は完全に埋没していた。このため流域の戦後入植者に離農者が出る要因となり、改修が強く望まれた。
三六年特殊河川となって、国営により改修工事が着手された。新水路掘削・築堤・護岸・樋門・橋など、九カ年の歳月を費やして完了し、四五年道へ移管となった。
なお、改修工事が終わったことで、国は、着工時点との経済効果を比較した。農家数は減ったものの、耕地面積、農業生産額はおよそ三倍に増えていた。
その他の河川改修
昭和四〇年代から川流布・常室川・厚内川などの道費河川の改修や砂防工事が行われてきた。
平成五年に新たに着工されたものもあるが、ほぼ平成一二年の完成をめどに工事が進められている河川もある。
第三節 災害復旧
災害復旧事業に対する国庫補助制度の根幹ともいうべき「公共土木施設災害復旧事業国庫負担法」 は、昭和二六年に制定された。
適用範囲は次のようになっており、河川・道路・漁港・下水道など一一種がある。
一、異常な天然現象により生じた災害
二、負担法上の公共土木施設で現に維持管理されている
三、地方公共団体またはその機関が施行するもの
浦幌での事業適用は三〇年代からであろうが、その資料はなく記述することはできない。しかし、四二年から平成九年(一九六七~九七)まで、浦幌川をはじめとする延べ四三一の本流・支流・派流六ニキロメートルが実施されている。
浦幌川の災害復旧助成事業
昭和五〇年五月の低気圧による降雨は、連続雨量一七ーミリ、時間最大一九ミリで、浦幌では大正一一年八月に次ぐものであった。折から融雪後期の出水とともに激流となり、家屋や農耕地に被害を発生させた。
過去に相次ぐ災害に対して、抜本的な改定と改修が強く望まれていたときであった。 地元住民による改修工事促進期成会が発足し、翌五一年浦幌川ほか(十弗川・礼文内川・カンカン川)の災害復旧として着工し、五三年一一月に竣工した。なお、促進期成会によって常室の「浦幌河川公園」に記念碑が建立された。
更に、六三年一一月の大雨(三日間で一五ニミリ)で、浦幌川などの河川が氾濫し再び大きな被害を発生させた。これは浦幌川災害復旧、瀬多来川災害関連事業として実施され平成二年一一月に竣工し、「活平地域河川ふれあい広場」 に記念碑が建立された。
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