浦幌町百年史 第六編 教育・文化・宗教 > 第一章 教 育

目次

第六編 教育・文化・宗教

第一章 教 育

第一節 教育のはじまり

明治初年の教育状況

 道南地方には明治以前から庶民教育のための私塾・寺子屋があって、「よみ・かき・そろばん」を主にした教育は行っていたが、これは明治以後も続けられて一般教育の主体をなしていた。新たに設立されたものも少なくなかったが、あくまで「よみ・かき・そろばん」が主であった。
 明治二年(一八六九)、新政府は「府県施政順序」を公布し、小学校を設けることを命じた。同年、根室に松本十郎開拓判官の私費による私塾ができ、翌三年に函館に漢・英の二学を教える郷学校。有珠郡伊達氏の移住地、静内郡の稲田氏の移住地にもでき四年には余市郡移住の士族団体、五年に釧路郡の桂恋、石狩郡当別の伊達氏移住地などに私塾が設けられた。
 これらの私塾教育は開拓の開始にともなって、次第に奥地へ浸透していった。
 官立学校としては、四年一〇月に函館と札幌に資生館を設けて、設立当初は官員子弟の教育を目的としたが、一年後には一般子弟も入学させて、資生館は札幌学校と改称された。
 なお、このころ「府県施政順序」の海外貿子生規則に基づいて、開拓使最初の留学生七名が派遣されたり、将来のすぐれた開拓者を育成するためには、母親となるべきすぐれた女子教育が必要であると主張され、五人の女子欧米留学生も派遣されている。その中には津田むめ(六歳ーー力月)、山川捨松などがいた。 開拓使によって派遣された最年少の津田むめは、のちに津田梅子となり、一〇年間の留学で培われた新しい学問と信仰で女子英語塾を開くなど、近代日本の女性史の重要なーページとなった。

学制公布と北海道の特例

 明治四年政府は、教育行政機関としての文部省を設立し「学制」の作製に着手した。翌五年に公布された「学制」は、大学・中学・小学の三段階を基本とし、小学校は原則として人民すべてを卒業すべきものとして、経費は受益者負担の原則がたてられた。しかし、この中で北海道については将来の問題として考えられ、この段階では、北海道一般に「学制」を実施するには時期が早いということで、当分は「学制」によらなくてもよいという特例が認められていた。

小学校・郷校・教育所・私塾の設立

 明治八年四月に、函館に官立小学校が設置されて会所学校と称した。 これが北海道最初の小学校である。また同年一〇月に福山に公立小学校が開設された。教則などを会所学校にならい、翌年に松城小学校と改称した。同年二月には函館に公立小学校が会所学校と同じ教則によって開かれ、松蔭小学校と称した。
 このように、道内先進地及び札幌では、八年以降になって「学制」 にもとづく小学校の設立がはじまり、今後開設するものは文部省の示す学制・教則に基づくようになっていたが、これを実現するための諸条件は整っているところはなかった。
 郷学は明治五年に有珠の郷学校、瀬棚の郷学校、翌六年に余市の郷学校などが設立されたが、同年九月には、文部省令にしたがって教育所と称されるようになった。
 更に、各郡にも教育所を設置することが勧奨され、道南地方の 寺子屋も公費による教育所に改められていった。 しかし、 一般に村落の教育はまだその緒についたばかりで「 往々僅ニ姓字ヲ解スル丈ニシテ尚ホ且私塾ヲ張ルモノアリ、然レトモ朝開暮閉亦数ナシ・・・ 」(開拓使学務沿革)というありさまであり、教育所といっても、内実は私塾とあまり差のないものも少なくなかった。

教育及び教科と施設

 北海道の初等教育は少しずつ形を整えてはきたが、官立は別として、村落での学校の設立は多くの場合困難であった。教育の必要性に対する認識がうすく、経費の補助が少ないこと、住民の所得が低いなどのほか、良い教師を得ることがむずかしかったから、教育そのものの効果を、実際に住民に示すことができなかったのである。
 教育所の教師は本州一般がそうであったように、寺子屋師匠の前歴をもった教師が多かった。多くの開拓地では、前述のように「姓字ヲ解スル丈ニシテ」と酷評されるような教師・師匠も多かったから、正規の教育を受けた東京師範学校卒業者が来道して、教員の養成に当たるまでまたなければならなかった。
 また、この当時の学校経済は、町村協議会・戸賦金・補助金・有志者寄付金などによってまかなわれ、協議費・寄付金・授業料は父兄の負担であった。
 校舎の新築は明治一〇年ころから多く行われたが、「毎板五分乃至壱寸位ノ隙間ァリ、床下ョリ吹上ガル寒風殊ニ甚ダシク兎テモ堪工可キニアラズ(開拓使学務沿革)」という校舎もあった。
 更に、開拓途上の北海道では道路の不備、あるいは集落の分散などによって通学がさまたげられることが多く、不完全な小さな学校を多く設立しなければならなかった。
 こうして明治一五年までに設立された学校は一六四校中、そのうち新設五五、民家三八、神社一九、官舎九、寺院五、旧会所三、会所倉庫三、旧分署一、その他となっており、就学率については男が約四九、女が約一七パーセントで、開拓使時代にはこれを上回ることはなかった(『北海道教育史』)。

開拓地の寺子屋教育と簡易教育所

 道南地方で学校の設立がされていたころ、浦幌にはほとんど入植者はなか「た。入植者が一挙に移住するのは、浦幌原野の殖民地区画割がされてからである。
 各地域の開拓が進むとともに、戸数及び児童数の増加に合わせて浦幌の簡易教育所・特別教授場・学校は順次開設されていった。
 北海道で簡易教育所・特別教授場設置の指示があったのは、明治三五年のことである。開拓地の事情に応じたこの特別教授場の設置は、開拓地に教育の場を広げることであり、年齢一〇歳以上でも就学できるように定められていた。
 教授場の設置場所は通学に便利であり、教材についても生活上必要なものが選ばれ、子守児童の取り扱い、出稼ぎ者の児童、季節によって通学困難な場所の児童にも適用することが大きな特徴であった。
浦幌の教授場について、『殖民状況報文』は、「土田、池田、高嶋ノ農場及ヒ藻岩下利別ニ於テハ各々其ノ地ニァル説教場ノ僧侶ニ託シテ子弟ニ読書、算術、習字ヲ教へ・・・」 とある。土田とは述べるまでもなく土田農場のことである。
 明治三〇年三月に八〇〇余名の移民があった土田農場へ、同年九月一日に大津港へ上陸した飯居琳は、漢方薬学を修めた医者であり、僧侶であった。請われて土田農場へ入地し、粗末ながらも本堂庫裏兼用の説教所が建ったのは翌三一年秋である。飯居はそのころから寺子屋教育をはじめたのではなかろうか。
 一方、『常室小学校開校八十周年協賛会誌』及び 『松山家三代史稿』によれば、松山賢了は「明治三十一年五月、富山県から北海道開教を志し渡道、土田農場内の飯居琳宅に滞在後常室に転住、布教のかたわら寺子屋教育を始めた」とある。賢了はニ七歳の青年であった。

各学校の設置と沿革

 教授場・簡易教育所と称した学校の設立は明治時代に多く、教授場→教育所→小学校となった例が多い。『沿革史』 をひもとくと、明治三八年に常室(四月)と浦幌(六月)が組織変更のため、第二浦幌尋常小学校と同年に改称されているのが、いまーつ理由が判然としない。
 いずれにしても、吉野に第一浦幌尋常小学校、常室に第二浦幌尋常小学校、更に、浦幌に第二浦幌尋常小学校(明治四〇年第二浦幌尋常高等小学校と改称)、留真に第三浦幌尋常小学校、貴老路に第四浦幌尋常小学校、活平に第五浦幌尋常小学校、上浦幌に第六浦幌尋常小学校、川流布に第七浦幌尋常小学校と教育場が改称されていた時期があった。
 明治三四年「簡易教育規定」などを文部省が大改正し、授業時 間を毎月二五時間以上とした。 それまでの低い程度を容認する条項はなくなり、教職員は出張教育や嘱託教育が廃止されたのである。「簡易教育規定」の改正は、北海道の後進地域の十勝にも強い影響をおよぼしたのであろう。学科目、修業年限などがほぼ教育規定に準用していき、第一浦幌尋常小学校、第二浦幌尋常小学校と改称されたようである。

沿革

・吉野小学校
前身は統太(生剛村)に在って、明治三二年に設立認可、翌三三年七月一日浦幌尋常小学校として創立。
三八年四月一日第一浦幌尋常小学校と改称。四四年一〇月統太から移転改築。
大正一三年二月二八日萩野尋常小学校と改称、同年三月一八日吉野尋常小学校と改称。
昭和一六年四月吉野国民学校、二二年四月吉野小学校と改称。四〇年一一月校舎新築、二四年六月開校五十年記念式典。
平成二年三月開校九十周年記念式典。

・吉野中学校(昭和五五年三月閉校)
昭和一「一年五月吉野小学校に併置。同二七年新校舎落成独立。
五五年三月閉校。浦幌中学校へ統合。

・常室小学校
明治三一年東本願寺僧侶松山賢了が寺子屋教育をはじめ、三三年校舎新築、二月一〇日常室簡易教育所。三四年一二月校舎全焼。翌三五年六月新校舎落成。三八年二月第二浦幌尋常小学校と改称。四三年新校舎落成。
大正一三年二月二三日常室尋常小学校と改称。
昭和五年四月常室青年訓練所独立、小学校に併設。同年一二月常室実科女学校を小学校に併設。同一〇年青年訓練所と実科女学校を廃止。一二年四月一日高等科一学級併置。一四年四月一日上常室尋常小学校を併合。一六年四月常室国民学校と改称「
二〇年一月上常室分教場開場。二一年一二月浦幌炭砿分教場開場。二二年四月常室小学校と改称。同年五月一日常室中学校を併置。三四年一二月へき地集会室落成。四四年三月三一日上常室小学校を統合。五五年二月開校八十周年記念式典。同五九年一二月校舎改築。
平成二年二月開校九十周年記念式典。
常室一帯が茫漠とした原野の時代、簡易教育所の教職員は次の三名である。(略)

・常室中学校(昭和四三年三月閉校)
昭和二二年五月常室小学校に併置。同四二年七月閉校の炭砿
中学校を統合。四三年三月閉校、四月浦幌中学校へ統合。

・川上小学校(昭和六一年三月閉校)
明治四一年四月二一日、経堂力次郎宅を上浦幌第二特別教授場として開始する。翌四二年四月一日上浦幌第二教育所と改称。
同年一一月一一日新校舎落成移転。
大正一三年三月三一日、川上尋常小学校と改称。同年一二月校舎落成。
昭和一四年四月一日二学級認可、教員二名となる。同一六年四月川上国民学校、二二年四月川上小学校と改称。同年九月一五日校舎改築。
二六年一〇月一三日川上中学校併置。 二九年七月ニ八日新校舎落成移転。「元年へき地集会室落成。五三年八月二七日開校七十周年記念式典。六一年三月新設の上浦幌中央小学校へ統合のため閉校。

・川上中学校(昭和四二年五月閉校)
昭和二六年一〇月一三日川上小学校に併置。 四二年五月三一日閉校。六月一日上浦幌中学校に統合。

・川流布小学校(昭和六一年三月閉校)
明治四三年一〇月二日、川流布特別教授場として創立。翌四四年九月一日川流布教育所と改称。
大正元年一二月二七日第七浦幌尋常小学校、同一三年二月二二日川流布尋常小学校と改称、同時に川流布農業補修校併置。
一五年七月一日上浦幌青年訓練所川流布教室開設。
昭和二年川流布青年訓練所独立。同九年八月、八幡神社を仮校舎とし新校舎新築。同年一二月一日新校舎落成。一〇年農業補修学校・青年訓練所を吸収し「川流布青年学校」を設立。一六年四月川流布国民学校、二二年四月川流布小学校と改称。二六年四月一日、貴老路中学校川流布分校を併置。三五年新校舎落成、開校五十周年記念式典。四〇年へき地集会室落成。五五年開校七十周年記念式典。六一年三月閉校、四月新設の上浦幌中央小学校に統合。
川流布特別教授場時代から、教育所時代の教職員は次の二名で、管理地位に初代川上小学校長橋田辰蔵が、中島周次郎のときのみ兼任していた。(『懐窓・かわるっぷ』閉校記念誌)

・川流布中学校(昭和四三年三月閉校)
昭和二六年四月一日、貴老路中学校川流布分校として認可。
同年九月一〇日川流布小学校に併置。四二年六月一日中学校統合のため上浦幌中学校川流布校舎となる。翌四三年三月閉校、上浦幌中学校へ統合。

・貴老路小学校(昭和六一年三月閉校)
明治三九年、戸数六八戸の集落となり教育所の建設に着手する。校地は宮田己之助が牧場地を分割寄付、同年夏、掘立草ぶ
きの仮校舎を建てたが完成目前の九月、暴風雨のため倒壊。一〇月直ちに柾ぶき土台付きの校舎を建設し、翌四〇年一月一〇日上浦幌第二簡易教育所として開設。四一年五月一〇日上浦幌教育所、四三年一二月二四日第四浦幌尋常小学校と改称。
大正一三年二月貴老路尋常小学校と改称。
昭和七年校舎新築移転、同一三年三月高等科併置認可。一六年四月貴老路国民学校と改称。二〇年七月一五日空襲により全校舎が破壊、授業継続不能となる。一「-年四月貴老路小学校と改称、同年五月貴老路中学校併置。七月戦災復旧工事完了。二五年九月貴老路中学校新校舎に移転。三一年一一月開校五十周年記念式典。三三年一一月新校舎落成。五二年六月開校七十周年記念式典。六一年三月閉校、四月一日新設の上浦幌中央小学校へ統合。
明治三九年草ぶきの仮校舎時代から、四三年一二月第四浦幌尋常小学校となるまでの職員は次の三名である。

・貴老路中学校(昭和四三年三月閉校)
昭和二二年五月、貴老路小学校に併置。二五年九月新校舎落成移転、単独中学校となる。四三年三月閉校。同年四月一日上浦幌中学校へ統合。

・上浦幌中央小学校
昭和六一年四月、地域住民が子弟のより充実した教育を願って、貴老路・川上・川流布の三恋子校を統合して開校。四月当初は新校舎がまだ完成されていなかったため、旧貴老路小学校を仮校舎として開校し入学式を挙行。児童数七五名。同年五月一三日新校に移転。八月」百日校歌制定。
平成七年開校十周年記念事業を実施。

・上浦幌小学校
明治四四年七月二〇日第六浦幌尋常小学校として設立。同年一〇月一日開校。大正一三年二月上浦幌尋常高等と改称。昭和七年一二月校舎改築移転、同一六年四月上浦幌国民学校、二二年四月上浦幌小学校と改称。同年五月一日新制中学校を併置、三九年一二月校舎改築。五六年六月三〇日開校七十周年記念式典。
次の文は『上浦幌尋常高等小学校郷土誌』沿革より抜粋の学校創立の過程である。
(略)
しかしこの後、学校が建って、児童は第五浦幌尋常小学校「活平校」より分離したものの、せっかくの学校に教員がいないため、分離と同時に児童は休学状態となっていた。

・上浦幌中学校
昭和22年5月1日上浦幌小学校に併置。同41年1月、上浦幌地区中学校統合問題審議会発足。同年11月新設上浦幌統合中学校の位置決定。
42年6月1日、川上・川流布・貴老路・上浦幌・活平の各中学校を吸収統合して新設。43年4月1日実質統合。同年9月校舎及び体育館落成。62年8月開校20周年記念式典。

・活平小学校(平成10年3月閉校)
明治三九年一二月三日、上浦幌第一簡易教育所として創立。
同四一年四月一日上浦幌第一教育所、四三年一二月第五浦幌尋常小学校と改称。
大正一三年二月二三日活平尋常小学校と改称。
昭和二年一〇月校舎新築。同一六年四月活平国民学校、二二年四月活平小学校と改称。二七年四月活平中学校併置、翌二八
年一一月校舎新築。五一年開校七十周年記念式典。六一年開校八十周年記念式典。
平成一〇年三月閉校、四月上浦幌中央小学校へ統合。
上浦幌第一簡易教育所時代からの教職員は、明治四三年に第五浦幌尋常小学校となるまで、横井信太郎・彌富成章・内藤鮮明の三名であったが、在職期間は不明である。

・活平中学校(昭和四」犀三月閉校)
昭和二七年四月活平小学校に併置。四三年三月閉校、四月上浦幌中学校へ統合。

・新養老小学校
明治四四年一〇月一一日第一浦幌尋常小学校(現吉野小学校)の改築移転にともない、その一部残留建物を統太分教場とする。
大正三年四月二九日創立。 同年六月養老尋常小学校と改称。
昭和四年現在地に務早転改築。同一六年四月養老国民学校、二二年四月養老小学校と改称。二八年一月校舎改築、吉野中学校より分離の養老中学校併設。
三八年九月へき地集会室新築。五七年四月一日豊北小学校と養老小学校を統合し、新養老小学校の誕生となった。
平成13年3月、19年の校史に幕を閉じ浦幌小学校へ統合した。

・養老中学校(昭和四九年三月閉校)
昭和二八年吉野中学校より分離、養老小学校に併置。四九年三月閉校、四月浦幌中学校へ統合。

・豊北小学校(昭和五七年三月閉校)
昭和二五年一一月一五日、豊北小学校として創立。
明治一七、八年ころ数戸が入地したが、度重なる水害により他に転出し、同三五年ころに再び約二〇戸が入植、苦難の開拓の鍬が打ち下ろされた地である。
この開拓にともなう子弟の教育が重要な問題となり、三九年二月十勝太に教育所を開設の後、同年一二月大津村鼈奴(現豊北)教育所を設置。四五年十勝太教育所を合併し大勝尋常小学校と改称。
大勝尋常小学校は、大正一二年まで十勝川下流の川沿いに位置していたが、同八年、 一一年の大洪水により倒壊流失、また住民の移転によって一二年廃校となる。残った数戸の児童は養老尋常小学校へ委託通学となる。
昭和二一年より、主として樺太方面引揚げの入植者が相次ぎ、 戸数三〇戸を数え児童数も増加し、一部は十勝小学校へ通学。
同二五年一一月一五日十勝郡大津村立豊北小学校を設置。三〇年四月一日、旧大津村の合併により浦幌町立豊北小学校と改称。
三一年四月豊北中学校併置。四〇年へき地集会室新築。五五年開校三十年記念式典。五七年三月閉校、四月新養老小学校へ統合。

・豊北中学校(昭和四九年三月閉校)
昭和三一年四月豊北小学校に併置。同四九年三月閉校、四月浦幌中学校へ統合。

・静内小学校(昭和五二年三月閉校)
明治三七年一一月九日静内簡易教育所として認可。教育所設置の先頭となったのが函館から移住した国安西次郎であった。
教育所は紺野某のわらぶき掘立の空小屋を改善・補修して校舎とした。明治四〇年ころ野火の発生で校舎が類焼。 四二年四
月静内教育所と改称。同年一〇月校舎増築。
大正七年静内尋常小学校と改称。一三年一〇月児童数減少のため閉校、翌一四年再開。
昭和九年一月、出村幸吉校地を寄付、校舎新築移転。同一六年四月静内国民学校、二二年静内小学校と改称。三〇年四月、 旧大津村の合併により浦幌町立静内小学校となる。四四年開校六十五周年記念式。四九年開校七十周年記念式典。五二年三月 閉校、四月浦幌小学校へ統合。
昭和二四年には児童数四〇名を数えた小学校であった。
明治三七年一一月から四二年まで、簡易教育所時代の教職員は栗原マッ・百刈孫七・大平正信・東原弁吉であった。管理地位には、初代大津小学校校長寺島寿門、二代・三代・四代の昭和一一年まで、厚内小学校校長江馬善蔵・葛城嘉一郎・私市元孝が兼任していた。

・瀬多来小学校(昭和五五年三月閉校)
大正八年九月一日中浦幌瀬多来特別教授場として創立。それまで留真小学校に通学していた児童の遠距離の悪条件を解消した。教授場は集落の人々の寄付と奉仕によって建てられた。しかし、大正九年四月より一一年六月までは児童数が少ない理由で閉鎖された。
昭和九年六月六日瀬多来尋常小学校、同一六年四月瀬多来国民学校、二二年四月瀬多来小学校と改称。二九年五月一日留真中学校瀬多来分校の中学校を併置。四三年一〇月へき地集会室建設。五五年三月一八日閉校、常室小学校へ統合。
特別教授場時代の教職員(代教)は次の五名である。 (略)
なお、瀬多来小学校は、初代校長から一一代まで訓導(旧制 小学校の正規の教員、現在は教諭)が校長を兼任していた。

・瀬多来中学校(昭和四五年三月閉校)
昭和二九年五月留真中学校瀬多来分校として小学校に併置。
三 「犀一月瀬多来中学校。同四五年三月閉校、浦幌中学校へ統合。

・留真小学校(昭和五九年三月閉校)
明治三九年三月七日、第三浦幌尋常小学校(常室)中浦幌特別教授所として創立。同年五月仮校舎を新築移転し、一二月常室校の付属中浦幌特別教授所、同四〇年四月一日中浦幌留真教育所と改称。
大正四年七月二七日留真尋常小学校。
昭和一六年四月留真国民学校、二二年四月留真金子校と改称。 同年五月一日中学校を併置。三六年一二月へき地集会所建設。三一年開校五十周年記念式典。四一年開校六十周年記念式典。五一年九月開校七十周年記念式典。五九年三月閉校、四月常室小学校へ統合。
創立時代より留真尋常小学校に昇格するまでの教職員は、次の六名であるが、園田久吉は大正四年七月尋常小学校となると初代校長となった。

・留真中学校(昭和43年3月閉校)
昭和22年留真小学校に併置。29年5月瀬多来に留真中学校分校を設立。43年3月閉校、4月浦幌中学校へ統合

・上常室小学校(昭和四四年三月閉校)
明治四二年四月一日上常室特別教授場として創立、翌四三年九月二日第三浦幌尋常小学校(現常室)付属上常室教育所と改称。

・浦幌炭砿小学校(昭和四二年七月閉校)
炭砿小学校には他校と異なる変遷がある。
昭和八年雄別炭砿鉄道株式会社、社立浦幌炭砿尋常小学校として創立(校長上根太郎)。同一四年三月二七日公立移管となり、四月一日浦幌炭砿尋常高等小学校となる。一六年四月浦幌炭砿国民学校と改称。炭鉱の盛況にともない児童数が上昇し、村内第一の多級学校となっていたが、炭鉱の操業中止によって二一年三月三一日閉校。同年六月常室国民学校浦幌炭砿分教場として復活。
二二年春炭鉱再開復活、同年六月一日浦幌炭砿小学校として再開校。 三二年三月三一日、炭鉱閉鎖にともなう児童・生徒数減少のため閉校。同年四月一日上常室小学校分校。三七年四月一日常室小学校分校。
四二年七月三一日閉校となる。
昭和二四年当時の学級数五、児童数二〇六名。
上常室、常室小学校の炭砿分校となってからは、管理地位にその本校の校長が兼任した。

・浦幌炭砿中学校(昭和四二年七月閉校)
昭和二二年一一月一日創立認可。翌二三年三月一日浦幌炭砿小学校に併置開校。校長に炭砿小学校長千棄幹太郎が兼任する。二六年二月一一日新校舎落成。三〇年五月一日分校設置(植田信親分校主任)。三二年三月三一日閉校、常室中学校炭砿分校。四二年七月三一日閉校。

・常盤小学校(昭和四一年三月閉校)
大正一〇年四月一日中川牧場事務所に仮教室を設置。翌一一年三月一日校舎新築、常盤特別教授場として移転。一三年四月常盤尋常小学校に改称。
昭和一六年四月常盤国民学校、二二年四月常盤小学校と改称。二三年二月校舎改築。三四年三月三一日廃校、四月浦幌小学校常盤分校。四一年三月閉校、浦幌小学校へ統合。
特別教授場時代の職員は金子従蔵で、管理地位に浦幌小学校長尾崎朝雄が兼任していた。大正一三年常盤尋常小学校となり金子従蔵は初代校長に任命される。また、昭和三四年四月からの浦幌小学校分校時代は、教職員に青柳克巳が在任し、浦幌小学校校長が兼任した。

・幾千世小学校(平成九年三月閉校)
明治四四年八月一〇日下頃辺教育所所属幾千世特別教授場として設立。(児童数三名)
大正六年四月一日下頃辺尋常小学校所属幾千世特別教授場に、一二年一二月一二日、稲穂尋常小学校所属幾千世特別教授場と改称、同年小枝徳松学校敷地として約九一〇平方メートル寄贈により校舎新築。一三年四月幾千世尋常小学校と改称し、二学級編成・二部授業を行う(児童数八四名)。同年八月幾千世農業補修学校付設。一四年一二月校舎増築。一五年四月浦幌青年訓練所幾千世教室付設。
昭和五年四月幾千世青年訓練所付設。九年校舎改築。同一〇年八月幾千世青年学校併設。一六年四月幾千世国民学校、二二年四月幾千世小学校と改称。二六年一月二八日浦幌中学校幾千世分校併置。
平成九年三月三一日閉校、四月浦幌小学校へ統合。閉校記念 事業協賛会がタイムカプセルを埋める。

・幾千世中学校(昭和四九年三月閉校)
昭和二六年一月浦幌中学校幾千世分校併置。同年九月浦幌村立幾千世中学校として独立。四九年三月閉校。浦幌中学校へ統合。

・稲穂小学校(昭和五七年三月閉校)
明治三五年六月六日下頃辺簡易教育所設置。八幡神社境内集合所で授業を開始する。
大正五年一一月二九日、下頃辺尋常小学校と改称。同一二年六月六日稲穂尋常小学校と改称。
昭和一六年四月稲穂国民学校、二二年四月稲穂小学校と改称。(この間、明治三七年・大正五年・昭和八年の三度校舎の新改築移転を行う)
昭和四一年八月へき地集会室新築。五六年六月八十周年記念式典。五七年三月閉校、四月浦幌小学校へ統合。簡易教育所時代の職員は次の三名であるが、加藤照雄は初代校長となる。

・十勝小学校(平成二年三月閉校)
明治三九年二月二〇日十勝太教育所として創立。コタンの上西エコシップが住宅を寄贈、開所することができた。(『懐想』十勝小学校八三年の足跡)
更に、同年一二月二五日鼈奴(豊北) でも鼈奴教育所を設立、四五年四月一日、十勝太・鼈奴両教育所は合併され、校舎を建てなおし同年四月一日校名を大勝尋常小学校として発足する。
創立当時の記録を『豊頃町史』 で見ると、家屋二六戸、人口一一二人。就学児童は男八人、女九人で 「不就学児童ナシ」とある。卒業児童は、明治四〇年度男一人、女一人、四一年度女二人、四二年度女三人、四三年度男一人であった。大正一二年四月、十勝川洪水のため十勝太番外地(大西牧場)に改築移転。
昭和一四年三月大津村立十勝尋常小学校と改称。同一六年四月十勝国民学校、二二年十勝小学校に改称。三〇年四月一日旧大津村合併により浦幌町立十勝小学校に改称。三一年四月一日十勝中学校を併置。三三年一月六日校舎新改築。三八年八月開校五十周年記念式典。五一年三月開校七十周年記念式典。六一 年三月開校八十周年記念式典。平成二年三月閉校、四月浦幌小学校へ統合。
なお、鼈奴教育所の沿革を示す古い記録を『豊頃町史』より転載する。過ぎ去った昔を語ってくれる記録である。 (略)

・十勝中学校(昭和四九年三月閉校)
昭和三一年十勝小学校に併置。四九年三月閉校、四月浦幌中学校へ統合。

・厚内小学校
明治三五年四月一日公立厚内簡易教育所として創立。当時戸数は少なかったが子弟教育の必要性から千葉展平が校舎を
寄贈。その後、市街地の発展、児童の増加と教育整備のため、大津蔵之助・斉藤兵太郎・水沢竹次郎らが土地及び校舎を寄贈、同四二年五月新築移転した。
大正六年一二月二〇日厚内 尋常小学校と改称。
昭和八年四月一日厚内尋常高等小学校と改称。一六年四月厚内国民学校、ニニ年四月大津村立厚内小学校と改称。同三〇年四月旧大津村東部地区の合併により浦幌町立厚内小学校と改称。四七年一一月開校七十周年記念式典。五一年一二月校舎新築移転。
平成四年二月開校九十周年記念式典。
平成28年 3月31日、閉校
簡易教育所時代、江馬善蔵の就任は明治四一年一一月からであり、それ以前の教職員は不明である。簡易教育所が大正六年一二月二〇日、厚内尋常小学校となると江馬は初代校長となる。

・厚内中学校
昭和二二年五月六日、大津村立厚内中学校として、厚内小学校に併置。 二三年一〇月校舎新築。同三〇年四月一日旧大津村
東部地区の合併により浦幌町立厚内中学校と改称。五五年四月、 浦幌中学校厚内分校。五九年一二月校舎新築移転。同六一年厚内中学校として独立校となる。
平成元年二月、創立四十周年記念式典。九年一〇月五十周年記念式典。

・上厚内小学校(昭和五七年三月閉校)
大正一三年一〇月一日、厚内尋常小学校所属上厚内特別教授場として創立。『豊頃町史』には、「昭和十年に編集したと思われる「私の学校」という毛筆による八八頁もの記録に諸事詳細に述べているが……」と次のように書かれている。 (略)
昭和-一年一〇月暴風雨により校舎到壊、翌年一〇月新築。同一六年四月上厚内国民学校、二二年四月上厚内小学校と改称。三〇年旧大津村東部地区の合併により浦幌町立上厚内小学校となる。 三八年一二月総改築。 四九年一〇月開校五十周年記念式典。五七年三月閉校、四月浦幌小学校へ統合。
特別教育場時代から上厚内小学校となるまで、管理地位に厚内小学校校長江馬善蔵が兼任しているが、それ以外の教職員は不明である。

・直別小学校(昭和五七年三月閉校)
明治三八年一〇月八日厚内教育所付属として、黒岩農場主黒岩四方之進が小作人の子弟のために寺子屋的な学校を設立する。三九年一二月二〇日、直別簡易教育所公認。
四〇年三月六日校舎新築へ七九・二平方センチメートル、費用四〇〇円)。 同年一二月一一日学校敷地約五ヘクタールを日露戦争戦勝記念に黒岩四方之進が寄付。
大正三年五月直別尋常小学校と改称。同年一一月校舎新築。
昭和一〇年八月二二日校舎新築。同一六年四月直別国民学校、二二年四月直別小学校と改称。三〇年四月旧大津村の合併により浦幌町立直別小学校となる。四四年八月へき地集会室落成。五七年三月閉校、四月浦幌小学校へ統合。
教育所時代は、厚内尋常小学校校長江馬善蔵が管理地位を兼任し、昭和四年に二代校長となる稲岡才次が大正四年三月から在任する。それ以前は次の教職員である。(略)

・浦幌小学校
明治三七年八月一四日、坂東農場(後に森農場)のカヤ葺きの家で浦幌家庭教授場を仮設。三八年三月一日下浦幌特別教育所と改称、第一浦幌小学校(吉野小)の出張所となる。同年六月一日第二浦幌尋常小学校として設立認可。四〇年在籍児童数一三七名に増加。 四二年一二月一八日新築落成。同年六月二七日第二浦幌尋常高等小学校と改称。
四二年一二月-八日校舎新築。
大正一〇年一一月一日浦幌尋堂局等小血子校と改祢(児童・生徒数ニ五〇名となる)。
昭和一二年八月校舎新築移転(現宝町)。 一六年四月浦幌国民学校に、二二年四月浦幌小学校と改称。三一年九月浦幌炭砿中学校校舎を解体移転増築。四二年五月体育館新築、統合により新校舎新築(住吉町)五七年七月移転。五九年九月三〇日開校八十周年記念式典。

・浦幌中学校
旧浦幌中学校は昭和二二年五月一日創立。翌二三年一二月住吉町(現浦幌小学校の敷地)に校舎新築、二七年三月四日十勝沖地震により校舎到壊。四三年四月、留真・常室中学校、四五年四月瀬多来中学校を統合。四九年三月三一日閉校。
四九年四月一五日、浦幌・ 十勝・養老・豊北・幾千世の五中学校を統合し浦幌中学校中学校厚内分校となる。五九年一〇月、開校十周年記念式典。六一年厚内分校は厚内中学校として独立する。

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