WEBサンプル:北海道命名150年『北海道の道と路を知る事典』道路検定問題集(第一集)Q1~Q100

はじめに

全巻目次

編著者

道路一般

目次

Question 1

 一般国道の路線は、道路法第五条によって指定され、全国には国道一号から国道五〇七号までがある。北海道には、現在国道五号(函館市― 札幌市間)から、国道四五三号(札幌市― 伊達市間)までの路線があるが、欠号があるので実際の路線数は次のうちどれか。

①二八本
②三八本
③四八本
④五八本

Answer

③四八本

 一般国道にはそれぞれ路線番号が付けられ、全国には一号から五〇七号までがあり、この内四八路線が欠番となっているので、現在の一般国道の実本数は四五九の路線となっている。
 この路線の番号は、昭和二十七年に「新道路法」が施行された時、元一級国道に付けられた路線番号と、翌二十八年に元二級国道に付けられた路線番号が基本となっていて、その後順次国道昇格等によって番号が付けられたものである。
 元一級国道は東京都― 大阪市間の国道一号線から鹿児島市― 那覇市間の国道五八号までがあり、東京を中心とする国土の骨格を形づくるように二桁の番号が順次付けられた。この一級国道の第一指定は昭和二十七年の四十路線、同三十三年の三路線、同三十七年の十六路線が追加指定されて現在に至っている。
 北海道には元一級国道が、五、十二、三十六、三十七、三十八、三十九、四十、四十四号の八路線がある。元二級国道は昭和二十八年に青森市― 秋田市間を結ぶ国道一〇一号から一四四本の路線が指定となる。そのうち北海道には函館市― 江差町間の二二七号から網走市― 根室市間の二四四号までそして昭和四十四年に釧路市― 標津町間の二七二号から、函館市― 青森市間の二八〇号まで、同四十九年の旭川市― 端野町間三三三号から、函館市― 下田市間三三八号、同五十六年に釧路市― 網走市間の三九一号から小樽市― 倶知安町間三九三号、平成四年の旭川市― 紋別町間四五〇号から札幌市― 伊達市間の四五三号となる。このように度々の国道昇格によって、現在北海道には四八路線となったのである。

Question 2

 全国の国道には、車の通行が不可能であっても、一本の交通系統として重要と認められると、海上区間も国道として指定される。全国には現在二五路線が指定されているが、そのうちに北海道の国道にも、この海上を走る三個所の国道路線があるが、次のうち間違いはどれか。

①国道二七九号・函館市― 青森県野辺地町間
②国道二八〇号・青森市― 函館市間
③国道三三八号・函館― 青森県下田町間
④国道四五二号・函館市― 青森県五所川原市間

Answer

④ 国道四五二号・函館市― 青森県五所川原市間

 一般国道の指定区間には、陸上ばかりでなく、海上区間もある。これは一般的に地上に造られた道路、あるいは橋梁などの構造物がなくても、フエリーボートなどで道路と道路とを結ぶ一本の交通系統としての機能があると判断され、国道の区間となっているものである。
 車の通行が不可能であっても、一本の交通系統として重要であると認められれば、海上区間も国道として指定されるということなのである。一般の人には海上部に道路標識などがあるわけでないので、どこが国道であるかはわからない。
 全国的にはこのような海上の国道として二五路線が指定されている。この区間は三四区間(重複区間は一個所として)があって、最大三個所もの区間のある路線もある。
 代表的な路線としては、元一級国道であった一般国道五八号がある。この路線は鹿児島県鹿児島市から沖縄県那覇市までのものであって、鹿児島市から海上で種子島に渡り、島内の陸上部を走り、海上で奄美大島に上陸、陸上を走って再び海上で沖縄島に上陸するというものである。全延長八五七・六㎞の路線であるが、しかし陸上部は二四八・一㎞しかなく、六〇九・五㎞は海の上の区間というものである。北海道の国道二七九号は、北海道での陸上部の実延長が函館市内の一・八㎞であるが、二八〇号と三三八号はともに北海道での陸上部延長は〇mである。また国道四五二号という路線は夕張市― 旭川間であり間違いである。

Question 3

 国道には必ず起終点がある。基本的には元一級国道では東京に近い方が起点であり、元二級国道では大都市または東側か北側が原則的に起点とされている。しかしそうではないものも数多くあり、次の路線のうち起終点の間違いはどれか。

①国道五号・函館― 札幌線
②国道三十七号・長万部― 室蘭線
③国道二三四号・苫小牧― 岩見沢線
④国道二四一号・弟子屈― 帯広線

Answer

③国道二三四号・苫小牧― 岩見沢線

 これはあくまでも原則であって、元一級国道の三六号の起点は、東京に近い室蘭ではなく「札幌― 室蘭線」で、これは例外中の例外であって札幌市が起点である。
元二級国道の二二九号は大都市で北側の小樽が起点で江差町へ、二三〇号も大都市で北側の札幌市が起点で南の虻田方面に向かう。二三四号は北側の岩見沢市が起点で苫小牧市へ、二四一号では弟子屈― 帯広線となって、大都市側が起点でなく北側である。
 国道四五二号もタ張― 旭川線であって、大都市側でも北側でもない。国道三三六号も浦河― 釧路線であり、大都市側でもなく北側でもない。
 国道二七九号が函館― 野辺地(青森県)線であり、国道二八〇号が青森― 函館線となっている。しかし国道三三八号は函館― 下田町(青森県)線となっている。
 全国的にみても、元一級国道では一号は東京― 大阪線であり、四号は東京― 青森線であり五八号も鹿児島― 那劃線で三六号の札幌― 千歳のようなものはない。あくまでも東京側が起点である。
 起終点の決め方に一定のルールがあり、「東京および東京に近い方が起点なのである。大都市と小都市とを結ぶ国道では、大都市側を起点とし、同程度の規模の都市を結ぶ場合は、東側あるいは北側にある都市を起点とすることを原則としている。しかし、例外も数多くある。たとえば、日光市― 東京豊島区間の一二二号、日光市― 宇津宮市間の一一九号は、ともに日光市が起点になっている。このように例外路線は各地にある。
 道内の国道でも、国道二四一号の弟子屈― 帯広線や、国道二七六号の江差― 苫小牧線なども、なんとなく気になる起― 終点の市町村がある。

Question 4

 人口に過疎と過密があるように、道路にも過疎と過密地域がある。道路密度は都市部で高く、山岳地帯や農村、山村地域では低い。都道府県で道路延長が日本一長いのは面積がずば抜けて大きく、したがって北海道は道路延長も長い。次のうち間違いはどれか。

①第二位は茨城県
②第三位は愛知県
③第四位は長野県
④第五位は東京都

Answer

④第五位は東京都

 北海道は、ほかの都道府県に比べて面積が大きく、約八・三万㎢で日本の総面積の二二%を占めている。したがって道路延長も約八六、八〇〇㎞となっている。しかし、面積が広いからといって、必ずしも道路延長が長いとは限らない。面積の順では岩手県が二位、福島県が三位であるが、道路延長ではそうではない。
 北海道についで道路延長の長い県は、面積が〇・六万㎢、北海道の面積の一三分の一しかない茨城県で五四、九〇〇㎞となっている。茨城県はその大部分が関東平野にあり、東京のベットタウンとして都市化も著しいからである。そして三位が愛知県の四七、八〇〇㎞、四位が長野県の四六、六〇〇㎞、五位が四五、八〇〇㎞の埼玉県となっている。ちなみに東京都の道路延長は二三、三〇〇㎞である。また道路延長が一番短い県は沖縄集で七、五〇〇㎞、鳥取県が八、三〇〇㎞である。これらの県は面積も狭く、人口も少ない。また道路の面積で見ると、北海道はやはり一番で、六七四・一㎢であって、二位の愛知県が二九五・七㎢と大きく引き離している。道路の長さで二位の茨城県では二五三・七㎢で、三位の埼玉県、長野県と続く。また道路面積が一番狭い県は島取県の五一・〇㎢、山梨県、沖縄県となる。
 参考までに道路の平均幅でみると、大阪府が七・七八mと一位であり、北海道が七・七六mと僅差で二位である。一番狭い県は徳島県の四・五九m、次いで茨城県の四・六二m、長野県の四・六四mと続く。こうしてみると、道路幅も地域によってかなりの差がある。
 これらの道路延長には、林道や農道を含んでいない。すなわち「道路法による一般交通の用に供する道」のみの値である。

Question 5

 北海道の一般国道四八路線の中で、実延長が二〇〇㎞を越える路線は、全部で現在八本あり、その中で元一級国道が四本となっている。それでは一番路線の実延長で長いのは(平成二十三年四月現在)次のうちどれか。

①国道二三八号・網走― 稚内線
②国道二七四号・札幌― 標茶線
③国道五号・函館― 札幌線
④国道三八号・滝川― 釧路線

Answer

①国道二三八号・網走― 稚内線

 わが国の国道四五九路線の中で、一番距離が長いのは国道五八号(鹿児島市― 那覇市)の延長八五七・六㎞である。人呼んで「海上国道」という。したがって陸の上を走っているのは、種子島や奄美大島など二四八・一㎞だけで、六〇九・五㎞は海の上である。一般には、日本一長いといわれる国道四号(東京― 青森線)の七四三・六㎞よりも一〇〇㎞以上も長い。
 北海道においては、国道二三八号(網走― 稚内線)が一番長く、三一九・六㎞である。この国道はオホーツク海の沿岸を走るもので、主なる経過地は、網走市を起点に常呂町・佐呂間町・湧別町・紋別市・興部町・雄武町・枝幸町・浜頓別町などを経て稚内市に至る路線である(注・旧市町村名で記入、以下同じ)。次に長いのは国道二七四号(札幌― 標茶線)で、延長が三一八・四㎞であり、主なる経過地は、札幌市を起点に北広島市・長沼町・由仁町・夕張市・日高町・清水町・足寄町・本別町・標茶町に至るものである。三位が国道三八号(滝川― 釧路線)の三〇八・一㎞で、滝川市を起点に、芦別市・富良野市・清水町・帯広市・白糠町・釧路市に至る。国道五号(函館― 札幌線)は、延長が三〇一・二㎞であり、主なる経過地は函館市を起点に森町・長万部町・倶知安町・余市町・小樽市となっている。

 参考までに、北海道において実延長の一番短い国道はというと、共に『海上路線』ということもあり、国道二八〇号が国道二二八号と、また国道三三八号が国道二七九号と、他の路線と重複している関係から道内での実延長は〇mとなっている。また国道二七九号も海上路線ではあるが、わずかに函館市内の実延長が一・八㎞となっている。

Question 6

 わが国は山国である。最近は土木技術の発達によってけわしい峠はトンネルで通過してしまう。さて国道で標高が一番高いところを通っているのは、国道二九二号の「渋峠」の標高二、一七二mとなっている。北海道の国道で標高が一番高い所を走っているのは、次のうちどこか。

①国道三九号「石北峠」
②国道二三〇号「中山峠」
③国道二七四号「日勝峠」
④国道二七三号「三国峠」

Answer

④国道二七三号「三国峠」

 わが国の国道で標高が一番高いのは、国道二九二号の群馬県長野原と、新潟県の新井市を結ぶ延長一一四・八㎞の道路のうち、長野県の境にある「渋峠」であり、標高が二、一七二mとなっている。また、第二位は長野県茅野市と埼玉県入間市を結ぶ国道二九九号の蓼科高原の東にある「麦草峠」の二、一二〇mである。標高が二、〇〇〇mを超す国道は、この二路線だけではないかといわれている。
 北海道の国道では、国道二七三号の帯広市と紋別市とを結ぶ路線にある上川町と上士幌町との境の「三国峠」が一番高い所を通っていて、標高が一、一三九mとなっている。この三国峠を貫く三国トンネルは、昭和四十七年十一月完成し、上川と十勝が最短距離で結ばれ、新しい観光コースともなっている。
 そして二番目の標高は、旭川市と網走市とを結ぶ国道三九号の上川町と留辺蘂町との境にある「石北峠」であり、標高が一、〇五〇mである。そして国道二七四号の日高町と清水町との境にある「日謄峠」となる。標高が一、〇二二mのものである。
 国道二三〇号の札幌市と喜茂別町との境にある著名な「中山峠」は、標高が八三六mであり、国道三八号の南富良野町と新得町との境にある「狩勝峠」は、標高が六四四mである。観光客に評判の高い国道三三四号の羅臼町と斜里町との境にある「知床峠」は、標高が七三八mである。なお道道の十勝管内の糠平湖と然別湖を結ぶ「幌鹿峠」は、標高が一、〇八一mで、北海道の道路の中でも第二位の高さとなっている。
 ここ三国峠からの眺めは、果てしなく続く樹海が、旅人の心の胸深く染み込ませる何かがある。太古の樹林からは木々の臭いが漂い、旅情をかきたててくれる峠である。

Question 7

 北海道の道路は、一般に他の都道府県に比べて幅員が広いといわれているが、道内の国道で一番幅員の広いのは、次のうちどこか。

①国道二四一号― 帯広市
②国道三六号― 札幌市
③国道二三〇号― 札幌市
④国道二七六号― 苫小牧市

Answer

①国道二四一号― 帯広市

 国道において一番幅員の広い道路は、千葉市と横須賀市を結ぶ国道三五七号の、品川区八潮と大田区東海の間の湾岸道路で、道幅一〇〇mと日本一広い国道となっている。次に広い国道は大阪市と亀岡市を結ぶ国道四二三号の大阪市淀川区内にある道幅九五mのものである。
 北海道の国道では十勝管内の国道二四一号の帯広市内のもので、延長一、一一〇m、幅貝五〇・〇mであり、続いて国道三六号札幌市内の南四条通の延長八六九m、幅員四五・〇mと、同じく国道二三〇号の札幌市内石山通りの延長七八五m、幅員四五・〇m、そして苫小牧市の国道二七六号も延長三、四〇九m、同じく幅員四五・〇mとなっている。
 北海道において道路幅員が一番広い道路は、札幌市内の市道「大通り」である。幅員は一〇五・五mとなっていて、内中央分離帯が六五・五mとなっている。この中央分離帯は、「大通公園」として、市民に親しまれている。
 参考までに、国道二三〇号札幌市の石山通りの北一条~南六条間は、全幅員が四五・〇mであり、幅員構成は、歩道七・二五+車道一二・五+中央分離帯五・五+車道一二・五+歩道七・二五mとなっている。
 なお国道三六号の札幌市駅前通リは、歩道六・二五+車道一〇・二五+中央分離帯三・〇+車道一〇・二五+歩道六・二五mの全幅員三六・〇mで、薄野から豊平橋に至る区間では、歩道六・八+車道一四・五+中央分離帯二・四+車道一四・五+歩道六・八mの合計四五・〇mとなっている。

Question 8

 北海道には、全国一という直線道路がある。「重要路線に付き、本道路を築かるるには、他日不十分なき様なるべく直線道と為すを主として実測」して、明治期に開削されたものである。次のどの地区の路線であるか。
①国道三八号帯広市内地区
②国道十二号美唄市~滝川市地区
③国道三九号北見市留辺蘂地区
④国道二四四~三三四号斜里町地区

Answer

②国道十二号美唄市~滝川市地区

 札幌と旭川とを結ぶ国道十二号のうち、美唄市と滝川市間に、日本一長い直線道路がある。明治十九年五月、空知(そらち)太(ぶと)(滝川)を本拠地として南の市来(いちき)知(しり)(三笠)へと、北は忠別太(ちゅうべつぶと)(旭川)までの二方面から開削に着手した。そして八月末には、延長二二里一四町(約八八㎞)、工費二、〇八一円四九銭五厘をもって開削された。人跡未踏の密林地帯、狐狸熊狼(こりゅうろう)の践屋(ばっこ)にまかせていた開削工事の困難さは、筆舌につくし難いものがあった。幅二間(三・六m)を伐開し一間幅の道を造り、川や沢に橋を架けた。延べ人員は一九三、八六〇人と記録されている。しかしこれはあくまでも仮道であった。
 明治二十一年に本道路とすべく改修工事が行われた。本道路の改修に当たっては「霖雨連日、且蚊虻(ぶんぼう)毒虫甚ダシク」という中で「少シモ怠惰ノ心ナク、能ク囚徒ヲ使役セシメ」て完成させたものであった。
 監督にあたった高畑利宜は「この道路は将来根室国に通うずる中央道路と世に評称さるる重要路線に付き、本道路を築かるるには、他日不十分なき様なるべく直線道と為すを主として実測に尽せり」としたことにより、日本一の直線の長い直線道路ができたものであった。かくして二七・五㎞というわが国で一番長い直線道路となったものである。その後、平成二年十一月に完成した滝川バイパスによって一・七㎞が伸長され、全長二九・二㎞となったものである。
 道路を築造する場合、技術者の中には直線をなるべく採り入れた方が良いという意見と、むしろわざと連続した曲線を入れた方が良いという意見がある。前者は出発点と目的地を早く結ぶためには直線の方が良いというものであり、後者は直線道路ではドライバーの疲労度が大きいとするものである。それぞれに理由はあるが、自然の地形に調和した線形が一番良いであろう。しかし現在では制約される多くの条件から、長い直線の道路の築造は不可能に近い。決して、測量技術の未熱からではないことを付記する。

Question 9

 高規格幹線道路というのは、主要拠点間の連絡強化を目標とした自動車専用道路で、北海道には現在「国土開発幹線自動車国道」二路線と「一般国道の自動車専用道路」五路線が指定されているが、次のうち「一般国道の自動車専用道路」の指定に誤りがあるのはどれか。

①日高自動車道(苫小牧―浦河)
②深川・留萌自動車道(深川―留萌)
③帯広・広尾自動車道(帯広―広尾)
④道東縦貫道路(美幌―標茶)

Answer

④道東縦貫道路(美幌―標茶)

 北海道は国土の約二割を占める広大な地域に都市が存在する、広域分散型社会を形成している。人流・物流ともに約九割が自動車交通に依存している北海道においては、主要産業である農水産業や観光産業においても、全国への農水産品出荷や、周遊観光の際に長距離を移動しなければならない。より迅速に、安全、快適に移動ができるように、早期の高速交通ネットワーク形成に向けて、重点的・効率的に高規格道路の整備が進められている。
 北海道における高規格幹線道路は

高規格幹線道路
 国土開発幹線自動車国道
  北海道縦貫自動車道 函館―稚内(六八一㎞)
  北海道横断自動車道(根室線・網走線) 黒松内―根室・網走(六九四㎞)
 一般国道の自動車専用道路
  日高自動車道 苫小牧市―浦河町(一二〇㎞)
  深川・留萌自動車道 深川市―留萌市(五〇㎞)
  旭川・紋別自動車道 旭川市―紋別市(一三〇㎞)
  帯広・広尾自動車道 帯広市―広尾町(八〇㎞)
  函館・江差自動車道 函館市―江差町(七〇㎞)

なお、「道東縦貫道路(美幌―標茶)」は地域高規格幹線道路候補路線の一つである。

Question 10

昭和五年(一九三〇)七月、日本初の有料自動車道が神奈川県大船―片瀬江ノ島間六・八㎞が開通した。しかし「日本最初の自動車有料道路」といわれているわが国の自動車有料道路の第一号が、大正七年に建設され道内にあったがそれはどこか。

①小樽市―札幌市「小樽定山渓道路」
②札幌市「手稲山登山道路」
③函館市「湯の川通」
④千歳市「支笏湖畔道路」

Answer

③函館市「湯の川通」

 『日本交通五〇年史』によれば「函館市大森町から亀田郡湯の川村に至る、延長四粁、大正七年(一九一八)一月十八日、北海道庁長官の許可を受け、同年十二月十八日、この専用道路によるバス事業の免許を受けた」とある。おそらくわが国の自動車専用道路の第一号であろうとされる。
 これは函館バスの前身、旭自動車会社の社長松岡陸三が、湯の川の根崎に温泉を掘り当て、函館市街と湯の川とを結ぶ道路として建設したものとされる。この道路は幅員が一一mであり、厚さ二〇㎝の砕石を敷き、その目に粘土を詰めて締め固め、さらにその上に砂利を敷くという道路であったといい、料金は車一台に付き一〇銭であったという。
 しかし昭和九年(一九三四)の函館大火後、都市計画ができたこと、津軽の荒海に侵食されてしまって、現在ではその跡は残っていない。そのころはまだ専用道路の法律がなかったので「木管の布設工事として許可を得て、ここを私道としてバスを走らせた」のであった。
 大正末期、北海道内の自動車は五二五台であった。北海道各地で自動車の使用が初めて記録に登場するのは、大正三年のことである。
 函館の試乗会では同年二月二十一日、アメリカ製フオードで定員一二名のものであった。最高時速四八㎞、価格が八、五〇〇円という。根室地方に自動車が現れたのもこの大正三年という。フォードの幌型八人乗りのものであって、三、五〇〇円とある。
 そして、根室~厚岸間に定期路線として走った。大正四年(一九一五)には札幌五番館がフォードを購入、翌五年春には札幌の街に二台の遊覧バスが御目見えしている。

Question 11

 昭和七年北海道で二番目の有料自動車道が完成する。当初、この路線の人気は高く順調であった。しかし戦争などによって観光どころでなくなり、利用者が少なくなったことから、昭和一七年にその歴史を閉じた路線があるが、次のどこか。

①道道江差木古内線
②道道小樽定山渓線
③道道函館南茅部線
④道道白老大滝線

Answer

②道道小樽定山渓線

 小樽と定山渓とを結ぶ北海道で二番目の有料道路として、昭和七年(一九三二)に開削されることとなった。それまでは商用で小樽にやってきた本州の人々や、小樽の地元の人々は、商品の特売招侍、行楽に定山渓温泉を利用していた。一時は札幌からきた客よりも小樽方面からきた客の方が多かったという時代があった。
 そのころは、小樽市内から定山渓温泉に行くのには、国鉄を利用して札幌に出て、それから他の交通機関を利用するしかなかった。そこで、小樽と定山渓を結ぶこの道路が開削されると、小樽と定山渓まで直通することが出来、そうなれば小樽の経済界はもとより、軍事上でも価値のある道路となると考えた。昭和五年に「小樽定山渓自動車道株式会社」が設立され、資本金は三〇万円として、南小樽駅前に事務所を設けた。工事は昭和七年(一九三二)九月に完成した。途中数個所に通称タコ部屋と称する土工詰所を設け、朝鮮人や中国人などを大勢使用して、早期完成を目指し完成した。道路のカーブは五六四個所、架橋二四個所であって、難工事であった。なおバスの営業開始は完成した翌八年の五月二十日からであった。当初、この路線の人気は高く順調であった。
 会社専用バス以外は料金が徴収され「小樽市民が夢物語のように希望していた、小樽市と歓楽境定山渓の直通連絡道路はとうとう実現した。原始林の美を探求するにも、これ程手軽い都合のよい道路は全道にあるまい」と報じていた。やがて日中戦争の影が見え始めると観光どころではなくなってしまい、経営が苦しくなってきた。昭和一七年には維持費や国有林野借地料の支払いに困って路線を閉鎖、会社を清算せざるを得なくなった。そして小樽市・豊平町に専用権を譲渡して歴史を閉じ、会社は解散してしまった。

Question 12

 高速自動車国道は、膨大な建設資金をまかなうために、通行料金を徴収して、その償還に充てることから、有料道路になっている。現在北海道に、この高速道路以外に、全国市町村唯一の有料道路があるが、それは次のどれか。

①斜里町「知床周遊道路」
②函館市「函館山観光道路」
③札幌市「藻岩山観光道路」
④旭川市「大雪登山道蕗」

Answer

③札幌市「藻岩山観光道路」

 道路法による道路以外でも通行料金を徴収の有料自動車道がある。それは札幌市の「藻岩山観光道路」がそれである。この道路は道路運送法による自動車道事業として供用している一般自動車道で、永久有料制が建前となっている。
 「ロープウェーを〈表参道〉にたとえれば、南側から頂上を極めるこの道路は、さしずめ〈裏参道〉といえよう。これも昭和三十三年七月の北海道大博覧会の〈落し子〉として、初めから観光施設として造成されたので、全国市町村唯一の有料道路」とされている。
 陸上自衛隊が施工にあたり、全長三、九九〇m、幅員六・五mのもので、昭和四十二年に舗装された。途中、車中からの眺めがよく、石狩平野、樽前連山を一望できることから評判がよい。利用期間は四月二十日から十一月三十日までで、冬期間は休業となっている。
通行料金は、二輪車が往復三二〇円、軽自動・小型・普通乗用車が往復六六〇円、マイクロ・路線バスが往復一、三四〇円、大型貨物自動車が往復二、〇〇〇円となっている。
 なおこの道路は雪が降るとスキーコースに早変わりする。雪国ならではの『多目的道路』といえよう。「夜、観光道路を車で登ると、真暗な左右の林の間から街の煌めきが見え隠れする。まるで星空へ離陸する飛行機を操る気分だ。頂上からは、おびただしい光の海がうねり、石狩の大地に満ち溢れている」とされる。
 このほかに北海道内には、高速自動車道を除き有料道路は建設されていない。かつて観光道路や大都市内路線などで計画・検討されたことがあったが、実現されていない。

藻岩嶺の登りゆく道匂ひたつ 若葉に噎する山開き今日      ―茂木健太郎

Question 13

 かつて道道の路線で、昭和四十二年に開通した有料道路区間があった。延長約七㎞、幅員五・五m、片側一車線の舗装道路である。やがて建設資金などの返済を完了したことなどで、昭和五十九年に無料化となったものである。現在は国道に昇格した路線であるが、次のうちどこであったか。

①阿寒湖畔道路
②屈斜路湖畔道路
③支笏湖畔道路
④厚岸湖畔道路

Answer

③支笏湖畔道路

 札幌から支笏湖を通り、伊達市へつながる国道四五三号(一部国道二七六号と重複)のうち、湖畔沿いのポロピナイ~支笏湖畔(現支笏湖温泉)間は、昭和四十二年に「支笏湖畔有料道路」として開通した。延長約七㎞、幅員五・五m、片側一車線の舗装道路である。
 支笏湖観光の高まりに加え、昭和四十七年開催の札幌五輪大会の滑降競技で恵庭岳が会場となり、アクセス道路として整備されたものであった。やがて建設資金などの返済を完了したことなどで、昭距和五十九年に無科化となったものである。
 支笏湖は最大水深三六三mであって、秋田県の田沢湖に次いで国内二番目の深さを誇るカルデラ湖である。約四万年前、富士山のような巨大な火山が陥没し、できたくぼみに水をたたえるようになった。この深さのせいで、夏はびっくりするほど冷たく感じる湖水は、厳冬期でもほとんど温度が変わらず、凍らないという。湖面には風不死岳(一一〇三m)樽前山(一〇四一m)が影を映し、また恵庭岳(一三二〇m)や、背後の山並みのイチャンコッペ山(八二九m)と紋別岳⌒八六六m)、外輪山から生い茂る原生林が、湖面ぎりぎりまで迫っている。
この美笛峠の登り口に、昭和八年に発見された金・銀・銅が産出する千歳鉱山があった。昭和十一年に創立され、当初月産八、〇〇〇tの粗鋼を産出していた。当時の美笛地区は、昭和三十五年に一、三六七人が住んでいたが、同五十三年になり鉱山の職住分離方針から従業員が移転し、鉱山小学校、鉱山中学校が廃校となり、郵便局、市役所支所などがこの地区から撒退した。やがて鉱脈を堀尽くした千歳鉱山は、同六十年に廃鉱となる。かつて北海道一の産金を誇っていたが、現在は無人である。

Question 14

 道路が整備されるにしたがって、動物たちの生活圏が狭まり、絶滅の危機にも陥ることも考えられるようになってきた。そこで反省をこめて「自然にも優しいエコロードを積極的に推し進めるべき」という意見が高まり「リスの橋」として世界で第一号である橋が道内にあるが、それはどこか。

①斜里町「ロープ橋」
②札幌市「エコブリッジ」
⑧音更町「リス横断橋」
④札幌市「藻岩橋公園エコロード橋」

Answer

②札幌市「エコブリッジ」

 エコロードの「エコ」とは「自然」とか、また「環境」を意味する言葉であり、エコロードとは、「自然環境を守る道」ということになろう。従来道路の整備に当たっては自然環境を無視してきた嫌いがあった。特に動植物の生態系に関しては無関心であった。そこで最近では動植物の生態分布をはじめ、これらの動物たちがどこを通っているかなどの調査が行われ、多くの横断施設が造られてきている。そして人は食料を手にするために、スーパーマーケットなどに買物に行くように、動物たちも、エサを求めて毎目遠くまで出かける。住処と食料のあるところは別なのである。動物たちの往き来する生活道路すなわちけもの道を、車の走る道路で分断してしまったら、たちまち食料不足になる。命綱を断ち切られるのと同じである。それを防ぐために、動物たちの通路、すなわち橋やカルバート類を設けて、動物たちの通路を確保するようになってきた。これが「エコロード」なのである。
 これらの中に「エコ・ブリッジ」というのが札幌市内にある。札幌市北区新琴似と屯田地区の境界に位置するポプラ通中央緑地(通称屯田防風林)のうち、新琴似第二横線の部分に、平成七年、このエコ・ブリッジが架けられた。ここの通りによって緑地が約三八m分断されている。そこでリスなどの小動物がこの通を横断できるようにと、道路上にエゾリス専用の横断橋を全国的に初めて架設された。この橋はポプラ通の改修工事の一環として設置されたもので、つり橋形式の高さ七mの擬石吹き付け仕上げの支柱を両側に立て、長さ三〇mのステンレスロープを張り、その下に直径八㎝、長二mの丸太をハンガーで吊っているものである。エゾリスは雄が雌のテレトリーに進入する三月から、子リスが巣立つ六月までが活発な移動期である。このエコ・ブリッジの有効性が期特されているものである。

Question 15

 野生動物と自動車との事故は、どこでも誰でもが起こり得る間題とされている。とくに大型動物であるエゾ鹿との衝突事故は、人間側への被害が大きいことから、近年その対策が必要となってきた。そこでエゾ鹿に配慮した道路整備事業「エコロード」を実施したのは次のどこか。

①斜里町「真鯉地区」
②浦河町「西舎地区」
③白糠町「恋間地区」
④美幌町「藻琴山地区」

Answer

①斜里町「真鯉地区」

 山間地域などに道路を建設する際、よく問題になるのが動植物の生態系の影響である。近年地球環境への関心や自然との共生に対する認識が一段と高まりを見せてきた。そこでこの要請に応え、建設省では平成六年一月に「環境政策大綱」を決定した。北海道においては、環境に配慮した道路事業の実施にあたって、北海道幹線道路協議会が北海道開発局・北海道・札幌市・日本道路公団札幌建設局によって「北海道における良好な道路環境形成のための基本方針」を検討し「豊かな自然を育み、快適な環境を創出する道づくり」を柱とした「北海道道路環境計画」を平成六年九月に策定した。
 その一環として網走開発建設部では、斜里町真鯉地区にエゾ鹿に配慮した道路整備事業「斜里エコロード」を実施した。この真鯉地区の路線は、エゾ鹿と自動車の衝突事故が多発しており、野生動物の保護と交通安全の両面から緊急な対策が課題となっていた。なにしろ斜里町全体では、昭和六十三年から平成六年の七年間に八九件が発生し、なかでもこの真鯉地区でその四三%を占めていたものである。エゾ鹿と自動車事故は、エゾ鹿が悲惨な状態になるばかりでなく、車の被害も大きく、人身事故にもつながりかねないということで、専門家、学識経験者、地元関係者が「エコロード検討協議会」を設置して検討を重ねてきた。そして鹿通橋を中心に橋梁下の整備、防鹿柵(フェンス)や脱出バンクの設置、防鹿植栽などの施工が進められてきたのであった。
 この鹿通橋周辺は、金山橋周辺と共に事故が多発していたもので、エゾ鹿が通路として利用するため、橋梁下に十分な空間を確保した橋としたものである。さらにはエゾ鹿に違和感を与えないようにと自然石を用いたり、植樹をしたり、エゾ鹿が好む牧草を植えたりして、橋梁下へ誘導するようにもしている。北海道では、平成十三年度が一、〇〇〇件近い報告があり、道路交通の利便性と自然環境とのバランスをどう保つかという課題について「野生動物と交通」という交通工学、安全工学などの分野で技術・情報等の交換をおこなう機会・研究が活発となってきている。

Question 16

「地域高規格道路」とは、高規格幹線道路と一体になって地域発展の核となる都市圏の育成や地域相互の交通促進、空港、港湾などの広域交通拠点との連結等に資する路線をいう。次のうち現在計画路線に指定されていないのはどれか。

①帯広圏連絡道路
②道央圏連絡道路
③松前半島道路
④函館新外環状道路

Answer

①帯広圏連絡道路

 「地域高規格道路」の、現在整備を進めていくため、基礎的データの収集、路線全体の整備計画の検討等を進める「計画路線」として、北海道において約五三八㎞が計面路線として指定されている。

計画路線

路  線  名起点―終点延長(㎞)
道央圏連絡道路
遠軽北見道路
旭川十勝道路
釧路中標津道路
渡島半島横断道路
根室中標津道路
函館新外環状道路
帯広空港道路
松前半島道路
千歳市―小樽市
遠軽町―北見市
旭川市―占冠村
釧路町―標津町
長万部町―せたな町
根室市―中標津町
函館市―函館市
帯広市―帯広市
木古内町―松前町
八〇
六〇
一二〇
一〇〇
六〇
四〇
一五

六〇
五三八

なお候補路線としては「札幌南環状道路(札幌市―北広島市)」、帯広圏連絡道路(帯広市―池田町)、「道東縦貫道路(美幌町―標茶町)」の三路線がある。

Question 17

 道内には日本一長い健康遊歩道の「素足のこみち」というのがある。天然石を並べた石の上を、素足で歩き足の裏のツボを刺激することにより健康増進などを図るというものである。この施設のある場所は次のうちのどこか。

①知内町知内温泉
②乙部町館浦温泉公園
③七飯町大沼公園口
④森町「YOU・遊・もり」

Answer

②乙部町館浦温泉公園

 乙部町の館浦温泉公園内に、日本一という「素足のこみち」がある。平成六年七月三十日、乙部温泉&産業祭で町民による「渡り初め」でオープンしたものであった。
 この健康遊歩道というのは、化粧品メーカーが開発したもので、形と大きさが違う数種類の天然石を並べた上を素足で歩き、足の裏のツボを刺激するとによって、健康増進や疲労回復を図るというものである。
 この遊歩道が完成した時点では、全国に二六個所が設置されていた。町では「どうせ作るのなら、一番長いものを」ということで、当時静岡県掛川市にある八〇mのものよりも約二〇m上回るものとした。この公園の遊歩道は、六九・一mの一般コースと、三二・五mのソフトコースの二種類があり、つなげて利用できるものとしている。したがって一〇一・六mという日本一長い「石踏み健康道」の誕生となったのである。
 この両コース共にインド・フィリッピン・徳島県鳴戸で産出された八種類の小石を組み合わせ、幅員一・二mのものとして作られている。またコース内に設けた太鼓橋の表面には、丸太に似せたコンクリートを打ち込み、青竹踏みのように踏んで歩けるようにもしている。総工費は約四千万円で、費用も日本一であった。なお利用は無料である。乙部町では「素足のこみちは、大きさ、形、高さが違う数種類の天然の石を敷き詰めたものです。裸足でここを歩くことにより、血行が良くなり、ツボと関連する内臓諸器官や頭部の血流を良くし、細胞を活性化させることができます。また歩行後は、三〇分以内に、人肌くらいの白湯をコップ二~三杯飲むと、腎臓にたまった老廃棄物が尿として排泄される機能をうながします」とPRしている。

Question 18

 階段を売り物にしているのは、津軽半島の階段国道ばかりでなく、日本一という階段道路が道内にある。かつて日本一であった長崎県のボタ山階段を抜いて日本一の座についたズリ山階段のもので、それは次のうちどこか。

①赤平市のズリ山階段
②三笠市幾春別のズリ山階段
③芦別巾のズリ山階段
④夕張市のズリ山階段

Answer

①赤平市のズリ山階段

 国道の中で一番の変わり種というのは、階段を売り物にしている津軽半島の階段国道であろう。この三三九号は車も通行できない細い路地であり、「階段国道」と表示されたプレートが付けられている。三六二段、標高差約七〇mであって、岬の麓から灯台のある所まで、この階段国道が続いている。この路線が国道昇格の時点で、階段部分も整備するはずのものであったが、ループにするかトンネルを掘るかという、何らかの手立てが講じられたが、それより階段をそのまま残して、観光スポットとして売り出す方が得策だということになったものであった。

赤平市はかつて栄えた炭鉱都市であった。ここに過疎化に悩んで「町の活性化」を願って標高一九七mのズリ山に赤平市制百年を記念して七七七段の階段が作られた。それまでの長崎県のボタ山階段の五五五段を抜いて日本一の座についたのであった。
 このズリ山とは採掘された石炭に混じっている不純物を、選炭婦と呼ばれていた女性作業員たちが、その手で石炭とズリ(廃石)をより分け、それを積み上げたものである。当時はその高さが炭鉱の勢いを象徴するものであって、そこに働く人々の誇りでもあった。ここの頂上からは赤平市街を眼下に、暑寒別岳や十勝岳が一望されることから、観光客の人気ともなっている。
 平成十六年九月、有珠山に階段続きの自然歩道が完成した。この階段歩道は一気に火口原まで下るルートの五百段余をはじめ、延長一・一㎞の間に合計七一二段のものとなっていて、一段ごとに連なる山々が角度を変えて迫ってくる。

Question 19

 昭和四十七年、全国で初めての恒久的な歩行者遊歩道として車社会即都市破壊だとして、これに挑戦した買物公園がオープンした。北国の一地方都市で、先見性のあるこの買物公園が実現したのは、次のうちどこか。

①苫小牧市春日町通り
②旭川市平和通り
③函館市湯の川温泉通り
④札幌市南郷通り

Answer

②旭川市平和通り

 昭和四十七年六月一日の午前十時、旭川の平和通は大歓声にわき、五段雷がビル街にこだました。旭川市長・五十嵐廣三は、声高らかに「平和通は道路から公園にただ今、変身しました」と、誇らしげに宜言した。この瞬間、車社会即都市破壊だとして、これに挑戦した旭川買物公園がオープンした。この公園こそ本来、人間のためにあるべきなのに車に奪われている道路の「奪還運動」の「一つの形」である。この日、通りは市の人口三十万人であふれたという。ここに一日約一万五千台を数えた車が、国道から消えたのであった。
 旭川駅前から南北に幅二〇m、延長約一㎞の「平和通」が、車を締め出した「買物公園」となったのである。この公園は八つのブロックに分かれ、各ブロック毎に「ドリーム広場」や「愛の広場」などと愛称が付けられ、ブロンズ像、モニュメント、樹木、噴水などがこの通りを彩っている。この貿物公園には、当時デパートなどの大型店が六店、集合ビルを含めると約八十店が軒を並べていた。これは全国に先がけて「人間都市造り」をうたってきた五十嵐市長が、全国で初めての「買物公園」を造ったものであった。旭川市が三千万円、商店街が三千万円を出して、車道であった所に、赤レンガを敷き詰め、段差の付いたテラスゾーンを設け、街路樹、花壇、噴水、水銀灯、ベンチ、遊具、ショーケースなど、あまりお金をかけないものを配置したものであったが、それでも楽しい空間であつた。植えられた木々の緑は陽に輝き、夜は庭園の灯りが市民の顔を照らした。この「買物公園」は、それ以降「歩行者天国」の元祖として全国的に一躍有名となった。
 この構想が持ち上がったのは、昭和三十年後半であった。五十嵐市長は「買物公園」を提唱する。しかし道路管理者は「現行法上では認められない」とする。当時はまだ車優先の社会であって「歩行者天国」なる言葉すらなかった。そして関係者を説き伏せての実現となったものであった。

Question 20

 車の走っていなかった時代は、すべての道路が歩道、今でいう歩行者天国であったが、現在では車に占領されてしまった。そこで道路から車を締め出して歩行者に開放しようではないかということで、全国で初めて「歩行者天国」を実施したのは、次のうちどこか。

①札幌市駅前通り
②旭川市平和通り
③函館市駅前通り
④小樽市運河通り

Answer

②旭川市平和通り

 戦前は「師団通り」と呼ばれ、戦後は「平和通り」と改称となり、そして北海道の北、旭川という街の商店街を貫く「歩行者天国」が誕生したのであった。昭和四十四年八月五日、実験を前にした午前零時のことである。「寝静まる平和通りでは広告時計塔の合図とともに、関係者が巻尺とチョークで、路面に花壇や遊具の位置を決めていった。土を積んだトラックや花の植え込み部隊の作業も終わろうとした午前四時過ぎ、見守る市民の数は、関係者の予想をはるかに超えた規模に膨れ上がっていた。最後まで実験に反対していた市民も、夜が明け始めるころには、手に手にホウキを持ちはじめていた」と、当時の新聞は伝える。期間中の人出は九十二万人と記録され、それから三年後に買物公園の恒久化がスタートしたのであった。都市問題に対する「新たな挑戦」として、世界中に飛び火した「買物公園=常設の歩行者天国」であった。

またこの道路の管理者は国道であったことから、道路管理者の旭川開発建設部と、旭川警察署などは道路交通法や道路法のたてまえから首を縦に振らなかった。さらには商店街も「車を締め出すのは買物客を締め出すことだ」として猛反対であった。これらの反対を説得しての実現であった。昭和四十四年八月六日から十七日までの間、実験が実施となった。家族連れや若者たちで通りはあふれた。通りのあちこちでギターを手にフォーク集会が、紙芝居が、三脚を立てた日曜画家が、そして道路をキャンパスに外人ヒッピーの即席抽象画家が―思い思いの光景が随所に繰り広げられた。さらに「車社会に対する痛烈な批判の表れであった」とする。この成功によって、本格的な準備が進められた。そして本格的造成が始まった。
 昭和四十五年の七月、ニューヨークのリンゼイ市長が五番街を歩行者に開放したのがこの「歩行者天国」の始まりとされている。しかしその一年前に旭川の買物公園がスタートしたものであった。なにしろ東京の銀座、新宿、浅草などの盛り場で実施されたものより早かったのである。

▲余記 ―買物公園・歩行者天国

 日本初の歩行者天国は、銀座や新宿など東京の繁華街だということになっているが、実は北海道の旭川市で、昭和四十四年に実現していたのである。ただし一二日間という期限付きではあったのだが。

 旭川市での歩行者天国は、日曜日など限られた日でなく、恒久的な歩行者専用道路。すなわち買物公園という都市空間をつくろうという発想から生まれた。構想は一〇年ほど前からあり、中心部に市民の集う広場をつくって、旭川市を全国に誇れる美しい街にしようというのが、買い物公園の当初の目的であった。そこへ、折からの自動車の急速な普及から、世間では人間性への回復が叫ばれるようになった。それが幸いして、この構想も世論から後押しされる形となった。

 実現まで紆余曲折はあったものの、昭和四四年の十二日の予行を経て、昭和四七年六月、全国初の恒久的な歩行者遊歩道、買物公園が誕生した。北国の一都市で、先見性のある買物が実現したことは多いに注目すべきことであった。道幅二十m、一日の通行量一万六〇〇〇台、当時は国道四〇号の幹線道路だった道から車を締め出したのである。

 買物公園には樹木が植えられ、彫刻や噴水、花壇、子供の遊具なども設置された。買物を楽しむ人、ベンチでくつろぐ人、道路を飛び跳ねる子供。交通量の激しかった道路が、一瞬にして公園と化したのである。車が通らなくなったら店の売り上げが減るのではないか、という不安をよそに、周辺の市町村からも多くの買い物客が訪れるようになり、今では旭川のシンボル、市民の誇りなのである。

 「歩行者天国」が実施された道路では一酸化炭素が激減。騒音も大幅に減少し、環境によいことも実証された。歩行者天国の成功は大きな話題となり、全国の都市に急速に広まっていった。百万都市札幌市のメインストリート、札幌の駅前通の車地獄から、人間性を取り戻そうとして、昭和四十八年六月、大通り公園から薄野までの四六〇m区間において、正午から午後六時まで実施された。道銀前の青空コンサートには大きな円陣ができ、あれほど騒然としていた繁華街が、ワグナーなどの二〇分ほどの曲にシーンと静まり返って聞き入っていた。市民は「いいですね、みんないきいきとして歩いています。まさに天国です」という。

 昭和四十六年、札幌市は「詩の都」ならぬ「死の都」への危険な道を歩むことに反省を求める声が、市民の間に高まってきた。整備が終わったこの駅前通りには、人波もさることながら、車が驚くように通過するようになってきた。百万都市のメインストリート、札幌駅前通りの車地獄から、人間性を取り戻そう―という「歩行者天国」実現に、大通りをはさんで北と南の地元関係者から、陳情が市議会に出された。それは「札幌駅前通り歩行者天国実現に関する請願書」というものである。車から開放されてのんびりとショッピングや散策を楽しもうというものである。その後、市当局にも「歩行者天国等調査研究会」が設けられ、半年にわたって何回か話合いが行われ、道路管理者と道警などとの調整が続けられた。その結果、市民の要望も高まり、将来の都心部の交通対策を検討するためにも、テストケースとして実現することとなった。
 昭和四十八年六月十日、大通り南側から薄野までの四六〇m区間で、正午から午後六時まで実施となった。正午道警音楽隊のファンファレ―が高らかに響き、紅白のテープに市長と市民代表の手で、ハサミが入れられた。この日は曇天ながらも静かな日よりであった。二〇〇羽のハトが放たれ、ブラスバンドのパレードが続く。人々は手をつないでのびのびと車道を歩く。道銀前の青空コンサートには、大きな円陣ができる。ワグナーの「ニュールンベルグのマイスタージンガー前奏曲」から始まって四曲。あれほど騒然としていた繁華街が、シーンと静まり帰った。二〇分の演奏ではあったが、市民は「いいですね、みんないきいきとして歩いているのは、まさに天国です」という。市長も「とにかく素晴らしい。多くの市民がこの日を待ち望んでいたことでしょう」と語る。「歩行者天国というものにはじめて踏み込んだときの奇妙な印象が忘れられない。あの殷賑を極める三越四丁目から薄野までの、ベルトコンベアのような路面から忽然と車の影が消えて、だだっぴろい空間と静止した平面が現われ、人間がそこを自由に歩いてよろしいというのだがさて、何やら恐る恐るなのだった。…路上に溢れ出た群衆も縁台に腰をおろしビーチパラソルに日をよけ、輪投げに興じていたけれど、みなどこか照れくさげであった」。

蝦夷地の山道

Question 21

 蝦夷地と呼ばれていた北海道において、難所の海岸を避け背後の山に蝦夷地で最初の山道が開削され、これが「本道道路開鑿の嚆矢(こうし)(ものごとの始め)」とされている道路がある。近藤重蔵が自費で山道約三里余を開削したとされている道路は、次のどれか。

①広尾町「ルベシベツ山道」
②余市町「余市山道」
③様似町「様似山道」
④江差町「木古内山道」

Answer

①広尾町「ルベシベツ山道」

 寛政年間に開削された山道の中で、特筆されるのは「ルベシベツ山道」であろう。近藤重蔵が私費で開削したという有名山道で、ルベシベツからビタタヌンケまでの間の三里弱の新道を開いたものである。これが蝦夷地最初に開削された道であって、「本道道路開鑿の嚆矢(こうし)」とされる。近藤重蔵は、幕命によって太平洋岸と千島の島々までを検分することになり、その帰路についたのは十月の末であった。当時の広尾から幌泉間の海岸には難所が多く、波の穏やかな時でさえ海岸の通行は危険であった。近藤らは日高の国境を前にして風雨に遭い、数日間広尾に足止めされてしまう。なにしろ風が強く、季節はすでに厳しい冬に向かっていたのである。そこでむなしく天候の回復を待った。
 このころ蝦夷地三大難所の随一といわれていた広尾・幌泉間の海岸には、有名な海に迫る断崖絶壁が続き、波の穏やかな時でも崖を昇降し、また特に波の静かな時には波間を見計らって岩礁伝いに海岸を命がけで通行していた。したがって海岸線の通行は常に困難であった。このような有様を見た重藏は、往路の際も考えていたというが、背後の山に道を開くことを決心した。そこで通辞(つうじ)を通してアイヌと相談し、自費でルベシベツからビタタヌンケまでの山道約三里余を開削することにした。この時に開削された「ルベシベツ山道」は「是れ實に蝦夷地道路開鑿の嚆矢にして其功績甚だ偉大」とされている。それまで蝦夷地には自然に踏み固められた道はあつたが、道を造ろうとして造られた道はなく、これが蝦夷地最初の道路開削のものである。このルベシベツ山道の道路開削の由来が板に彫られ、十勝神社に奉納された。この原文を刻んだ「近藤重蔵道路開削記模碑」が黄金道路沿いのルベシベツに建てられ、裏面に「この碑文の道路はここより分岐したるものにして本道道路開鑿の嚆矢とす 昭和九年九月 北海道廳」と刻まれている。

Question 22

 蝦夷地の道路開削にあたり工事担当者は「道路は夷地開拓上最も必要なるもの」であるから注意して丁寧に開削工事に当たった。これが「念を入れてたるは宜しからず」として工事の担当を免ぜられたというエピソードのある山道は、次のどれか。

①国道五号「余市山道」
②国道二三五号「様似山道」
③国道三三六号「猿留山道」
④道道江差木古内線「木古内山道」

Answer

③国道三三六号「猿留(さるる)(さるる)山道」

 天明五年(一七八五)幕府は蝦夷地に調査隊を派遣する。この時、最上(もがみ)徳内(とくない)が師の命で参加する。徳内の長い蝦夷地の活躍と功績はこの時に始まった。幕府は北辺のロシアからの侵略に備え、いざという時に、中央と辺地の連絡や事件に対処すべく、交通の便を計るため山道の開削を行った。普請役最上徳内は「猿留山道」の担当を命じられた。工事には陸奥南部から工夫を募り、さらに飛騨・信濃あたりからも山道開削に心得た者を雇い、五月になって東西より工事に着手した。徳内はこの道路開削は軍事上の目的よりもむしろ、アイヌに対する民政の上から、これを重視した。当時、この難道を通行する役人は、みなアイヌの労力奉仕に頼っていたのである。役人の往来がしだいに多くなるにしたがって、アイヌの迷惑は増していった。多くの役人は無給与で酷使したから、かれらは内心不平であった。徳内は、道路ができて馬が通るようになれば、アイヌの労力がはぶかれ、かれらの喜びも大きくなると思った。また、この道によって、アイヌの信頼感を回復することができれば、軍隊を派遣する以上の対策であると信じたからであった。幕府の強い力が眞劒に北邊に注がれねばならないと信じていた徳内の願望が今叶ったのだった。徳丙は開削にあたって「道路は、夷地開拓上最も必要なるものにして永く後世に残るべきものなり」として、注意して叮嚀に開削した。しかし「念を入たるは宜しからずとの非難を受け、意見遂に合わずして六月徳内はその擔當を免ぜられて去りたり」となった。上司は、人馬さえ通ればよいと、その速成を要求する。しかし、徳内は予算のゆるすかぎり完全なものにしたかった。考え方におけるこうした根本的なちがいは、衝突せずにはいかなかった、徳内は工事に関与することを差止められてしまった。「徳内は百年の大計のために完全な道路の築造を主張したが、首脳者忠明等はこれを容れなかった」のであった。

Question 23

 蝦夷地の道路開削にあたり、多くの山道が場所請負人などによって開削されたが、ただ二か所の山道が幕府の直轄で開削された。なにしろこの海岸線は、幕府は北辺警備上東蝦夷地で最も重要かつ、最大の難所と称されたところである。それは「猿留(さるる)山道」と次のどれか。

①国道五号「余市山道」
②国道三七号「礼文華山道」
③国道二三五号「様似山道」
④道道江差木古内線「木古内山道」

Answer

③国道二三五号「様似(しゃまに)山道」

 蝦夷地と呼ばれていた当時は、最上徳内がいうように「蝦夷國中作りたる道なき國なり。得手勝手に出きたる道もあり、跣(はだし)にて通行するものなれば、道形狭く、草履(ぞうり)を履きては通リ得ず。多分は砂濱を往來するなり」であった。当時藩の方針として、アイヌに対し蓑・笠・草履をつけることが許されていなかった。内陸部では一面の密林に阻まれ、海岸よりも一層困難な状態であって、巡視に訪れた幕府の役人や探検家たちは、アイヌを道案内にして、谷伝いに踏み分け道を辿った。寛政年間に入ると各地に山道が開削された。この「様似山道」は猿留山道と同じ一七九〇年(寛政十一)に同時に着工されたものである。そして中村小七郎意積が担当を命じられる。なにしろこの海岸線は幕府が北辺警備上東蝦夷地で最も重要かつ、最大の難所と称されたところである。

 様似山道入口の案内板にこの道路が詳しく説明されている。

様似町指定文化財(昭和六十年十一月十九日指定) 様似山道 幕府は寛政十一年(一七九九)東蝦夷地を直轄地とすると同時に警備及び産業上から道路の開削を急務としました。この年蝦夷地取締御用を命ぜられた大河内善兵衛政寿はシャマニ至って中村小市郎、最上徳内を難所のシャマニ山道(冬島―幌満間)などの開削工事を担当させました。三里(十ニキロ)弱の山道には「コトニ小休所」が設けられ、明治六年(一八七三)には山中に旅籠屋「原田宿」が建ちました。海岸道路工事は、昭和二年(一九二七)には完成し「シャマニ山道」は自然に廃道になりましたが現在「様似山道」(約七キロ)として様似町の文化財に指定し、保存をはかり往時の姿をほぼ保っています。 様似町教育委員会

ふす虎やいかれる獅子のさまにして さま似の海の岩の怪しさ  ―松浦武四郎

Question 24

 東蝦夷地が幕府直轄時代に「猿留山道」など、多くの山道が幕府直轄や場所請負人などによって開削されたが、その時、松前藩に山道の開削を命じて「馬足の立様に成りたり」となった山道がであった。これは次のうちどれか。

①国道五号「余市山道」
②国道三七号「礼文華山道」
③道道函館南茅部線「川汲山道」
④道道江差木古内線「木古内山道」

Answer

②国道三七号「礼文華(れぶんげ)山道」

 幕府はこの「礼文華山道」の開削を松前藩に命じた。幕府は直轄開削とせず、松前藩に命じてこの山道の開削を行わせた。「長萬部の東方シツカリより虻田に至る数里の間は、海岸嶮岨の處多く、殊に禮文華は絶壁相連なり全く陸行する能はず。因つて此間は舟にて掻送るを例とせしが、寛政十一年幕府は松前藩に命じて新道を開かしめたり」であった。しかし難工事であったことから未完成であった。翌寛政十二年になり、幕府は直轄で開削に乗り出し、幕吏・小林卯十郎に指揮させて工事にかかった。これもまたあまりに困難であったため「辛うじて馬が通行し得るだけの甚だ粗末な道路」であって、工事未完成のまま中断となっている。
 「其道纔かに馬足を通じ得るのみにして甚だ粗惡なりしかば、津軽藩は南部藩の様似山道修繕の例に倣ひ享和三年之が改修を出願」したのである。すなわち一八〇三年(享和三)、この地域の警備を担当していた津軽藩は、礼文華山道の修築を願い出た。当時の状況からして、果たして「願い出た」のか、または「押しつけされた」のかは定かではない。「許可を得て其後禮文華、瓣邊(べんべ)等の山道数箇所を改修せり」とされている。しかし改修されたとはいえ、この工事は名ばかりのものであって、延長約四里(十六㎞)、道路の幅を九尺(二・七m)を標準にして、道路の両側にそれぞれ三尺ずつの草や木を切り倒した程度のものであった。であったから、この山道は依然として難所の道であった。なにしろ「其道は唯馬足を通ずるを得るを以て足せり」というものであった。この山道改修によって「前は他村へ船なしで行れず甚難澁なりし」であったが「山道切開きによって多少は陸路が使われるようになり馬足の立様に成りたり」となった。

 大神の作れるまゝの國なれば その代のわざも絶えずやあらん  ―松浦武四郎

Question 25

 古くから利用されていたといわれるこの山道に、文化年間幕府が峠に番所を建てて、往還する旅人の旅行切手(手形)を検べたり、宿泊の施設が設けたりした山道がある。昔からの難所であって、道内でも一番古い道路といわれるもので、東西の横断連絡路であつた。次のどこか。

①国道三七号「礼文華山道」
②国道二二九号「太田山道」
③道道江差木古内線「木古内山道」
④道道函館南茅部線「川汲山道」

Answer

③道道江差木古内線「木古内(きこない)山道」

 この径路は、相当古からアイヌの人々に利用され、その後蝦夷地に渡ってきた和人も、文化年間(一八〇四~一八一七)からこの道路を利用していた。途中の稲穂峠越えは気象の変化が激しく、道中の安全を祈願してアイヌの人たちは「イナウ」を捧げ神に祈って峠を越した。それで「稲穂峠」の名が付けられたものである。昔からの難所であった。この「木古内から上の国に通じるのが道内でも一番古い道路といわれ」るもので、東西の横断連絡路であった。一四五七年(長禄元)に武田信廣が、コシャマインを討って上ノ国に凱旋すると、茂別館の下国家政は、中野路を経て山越に、上ノ国に来て信廣に会ったが、中野は木古内の中だから木古内山道のもっと原始的経路があって利用されていたことが知られている。途中の稲穂峠の名は、またこの古い交通路であったことを証明している。しかし天ノ川に沿って縫いながら浅瀬を渡ってゆくという難路であったから、とかく旅人泣かせの山道であった。この山道は「獣の道」にもひとしかったが、西海岸とを結ぶ重要な道であり、利用者も多かったという。当時、この山道を往来する人々は、熊の害を避けるため団体を作ってはじめて往来する有様であった。幕府の直轄時代になって、文化年間に幕府はこの道路を改修した。「此道路は文化中官に於て修築する所にして嶺の北側に番所を建て、吏員ありて往來旅人の切手を檢し之に裏印を捺す。又番所に於て旅人を宿泊せしめ以て旅客に便せり」であった。すなわち一八一七年(文化一四)幕府は利用者が多くなったことから、人々の往来を考えて、ケモノ道を大改修したものであった。そして稲穂峠の上ノ国側に(ゆ)(の)(たい)峠番所を建てて、番所守りを置いて往還する旅人の旅行切手(手形)を検べたり、湯ノ岱に宿泊の設備を設け、旅人を宿泊させたりして便宜を図った。これによってようやくこの道を利用する者が多くなってきた。

Question 26

 この山道は「甚だ難所にして文化六年一条の経路を開削したるも其の後荒廃」その後「付近の各場所請負人等は幕府開拓の趣旨を奉じ協議して之を開削」した。幕府はこの労をねぎらうため「今斯く心安く往来する事永久の功徳少なからす」という制札を立てて人々に示した山道は、次のうちどれか。

①国道五号「余市山道」
②国道二二九号「狩場山道」
③道道江差木古内線「木古内山道」
④道道函館南茅部線「川汲山道」

Answer

①国道五号「余市山道」

 一八〇六年(文化三)に西蝦夷地の様子を知るため、幕府目付遠山金四郎らは蝦夷地を巡検し、余市山道開削の必要性を記している。澤合(共和町)から余市まで道があるそうだが、かた雪の季節に蝦夷人が通るけれども、雪解けから秋までは岩や木の根につかまる道すらない。蝦夷人さえ往来できないということで調べさせた。この道ができたら神威岬の蝦夷地第一の難所も避けられ、旅の日数も短くなる。早く道を開く必要がある、というものであった。これによって、文化六年に岩内場所請負人らが、おのおの番人一人とアイヌ二十四人を出して、草を刈り木を伐った程度の極めて不完全なものであったが道路が開通した。これが「余市越山道」と呼ばれる最初の道であった。

 「此山道は岩内より余市に至るものにして中間に稲穂嶺あり。甚だ難所にして文化六年(一八〇九)一條の徑路を開鑿したるも、其後荒廢し唯春季漁夫等の積雪を踏て越ゆるもの間々あるに過ぎざりしが、附近の各場所請負人等は幕府開拓の趣旨を奉じ協議して之を開鑿し、安政三年起工同四年竣功せり。其里程十二里二十町餘(約四九・三㎞)幅二間(約三・六m)とす」という。

 こうして岩内と余市間の道路が安政三年に完成した。そして岩内と余市との境界に幕府は、この労をねぎらうため制札を立てた。それには「此新道ハ松前唐津内仁左衛門、新左衛門、枝ヶ崎町長左衛門、小松前町徳兵衛等が御國恩の爲として、各々力を合せて安政三年乃秋切開し也。其前ハ草木生茂り流水道を遮りたまたま通行之者もいたく難儀せしを今斯、心安く往返する事永久の功徳少からずよつて今此由を志るして諸人に示須」というものであった。しかし道路が開削されたとはいえ、粗末な刈り分け道であったから、海路を行く者も多く、次第に利用されなくなり荒廃していった。

蝦夷の海千島のはては遠けれど くまなく守れみくまのゝ神   ―松浦武四郎

Question 27

 蝦夷地の開拓に向かって明治の初め、この山道を通った東本願寺現如上人一行が「荷負える馬谷底に轉びしが、何の怪我もなかりしが」とその模様が錦絵として残されている。断崖につけられたこの山道は、非常に危険な道であった。それは次のうちどれか。

①国道五号「余市山道」
②道道「黒松越え山道」
③国道二二九号「雷電山道」
④国道三七号「礼文華山道」

Answer

③国道二二九号「雷電(らいでん)()(らいでん)山道」

 本来は蝦夷地に和人が永住することが禁じられていたが、和人地前浜鰊の不漁を理由に、島牧・寿都から積丹岬までの間に定住する者が現れてくる。そこで奉行は陸路で往来すべく場所請負人に命じて各地に山道の開削を行わせたものである。「雷電領は磯谷、岩内、兩場所の間にある峻嶺にして、アフシタを以て兩場所の境界とす。山中に温泉湧出し海岸は絶壁峭立し風景の奇を以て稱せらる。此處古來船を以て交通せしに、奥地の漁業發達するに從ひ春季積雪を踏みて漁夫等岩内以北に赴くものあるに至り」の道であった。そこで磯谷場所請負人桝屋栄五郎がアフシタ以西一里余を開削し、また岩内場所請負人の仙北屋仁左衛門がアフシタ以上東二里余を開削して「四季人馬の通行をなすを得るに至れり。而して中間の温泉には柾家を建て箱館在の又兵衛なる者を家守となし、以て通行の官吏旅客を取扱わしめたり」となった。

 しかし山道が開削され四季人馬が通行できるようになったとはいえ「山道四里十八町⌒約一七・七キロ)、土俗雷電越と稱しもっとも危険なり」の山道であったことには変わりなかった。

 一八七〇年(明治三)七月、東本願寺法主・現如上人一行が岩内に向けてこの山道を越えた。この時の模様が錦絵として残されている。その中の一枚に「雷電越えの危難」というのがあり、上人一行の荷馬車が馬子もろとも崖下に墜落していく模様が描かれている。その解説には「雷電越えは西地第一の嶮山なるが此處も新道開け、今度この棧道にて荷負える馬谷底に轉びしが、何の怪我もなかりしが、有難さのあまり いかつちの峯の谷間も御佛のみな御光明のうちにぞありける 北海道人」とある。

 なおこの北海道人とは、松浦武四郎のことである。なにしろ真に断崖につけられた桟道であって、非常に危険な道であった。

Question 28

 この山道の開削は「公的には産業開発のため、私的には商圏拡大のため」ともいわれるもので、江差の商人が厖大な私費を投じ、多くの犠牲者を出すなどして言語に絶する難工事を克服、海岸線の岬を迂回する山道を開削した。それは次のうちのどこか。

①国道二二八号「松前山道」
②国道二二九号「雷電山道」
③国道二二八号「江差山道」
④国道二二九号「狩場山道」

Answer

④国道二二九号「狩場(かりば)山道」

 蝦夷地で「俵物(たわらもの)」と呼ばれていた蝦夷地特産の煎海鼠・干鮑・昆布などを輸出していた。この俵物は、その買い付けによる利潤が多かったことから、その利権をめぐる争いは深刻なものがあり、この主産地は熊石以北であったからどうしても陸路がほしかった。こうした情勢下で御用商人となった橋本屋甚右衛門は、公的には産業開発のため、私的には商圏拡大のために「狩場山道」などの開削を奉行に出願した。そして山道開削功労者として、不滅の名を留めている。これは、商人の立場からすると「企業投資」の一つであったことに違いない。越後・佐渡・能登などへ出向いて人夫を募った。募集した人数は二〇〇名にも達したという。狩場山道は()(とろ)場所から島小牧場所に通ずる狩場山越えの難路であって、従来は茂津(もつ)()岬を船で越していて、西蝦夷地三険岬の一つといわれた大難所であった。

 狩場山道は瀬棚のスッキから島小牧のコタニシに至る五里の道路で、文化の初め松前藩が工事を企てゝ果たし得なかったといふ難工事であった。「狩場山は瀬棚、島小牧の間にある高山にして、其脚延て海至り西蝦夷地三險岬の一なるモツタ岬を成し、舟行尚ほ往々覆没の憂いあり」であったのである。言語に絶する難工事だった。人夫を六組に分け、関内から寿都界まで三十六里(約一四四キロ)間に一里毎に一組を配置して、支配人七名に監督させ、五箇所に宿舎を設け、米・味噌等の食料品をはじめ、必要な器具機材を百石積みの帆船で工事現場に補給し、夜を日についで工事を急いだ。山高く、谷深く、架橋實に四十箇所に及び、五人の死者、二十五人の負傷者を出したほどなので、工夫の逃亡者相い繼ぎ豫定の五倍の日子を費やし、十月四日に竣功したが、その工費は實に豫定の三倍、四千兩に達した。箱館奉行はこの甚右衛門の山道開削の功績に対して「永代苗字」を許し、賞として裃壱具を贈り、賞状を贈ってその功績を称えている。

Question 29

 この山道の開削は、幕府の強い要請をうけて、この地の場所請負人が、西蝦夷地三険岬の一つとされていた岬を迂回するため開削した山道である。蝦夷地山道の最高地点を通る「北海道第一の峻険…往古夷地第一の要害と稱す」という山道であった。これは次のうちどれか。

①国道二二九号「積丹山道」
②国道二三一号「増毛山道」
③国道二二九号「江差山道」
④国道二二九号「茂津多山道」

Answer

②国道二三一号「増毛山道」

 「西蝦夷地は太田・雷電・積丹半島・阿(お)冬(ふゆ)等の險ありて久遠より増毛に至る間全く陸行を絶所数箇所あり。而して東蝦夷地に比すれば後れて幕府の直轄となりたれば海岸道路も殆ど之を開墾せず。文化六年岩内より餘市に至る山道を開鑿せるも僅かに刈分道路に過ぎざるものゝ如し。故に西蝦夷地は主に船によりて交通し或は陸行するも難所は掻送(かきおくり)船に依れり。又旅客の一部は東西海岸連絡道路によりて東蝦夷地より往來せり」であった。この増毛山道(阿冬)は場所請負人の手により開削された山道の一つであり「増毛濱益山道」を開削した場所請負人が銀十枚下賜 濱益増毛場所請負人 伊達林右衛門などがその褒賞を賜ったものである。
 この山道は「阿冬は濱益増毛間の難所たり。殊に、阿冬は西蝦夷地三險岬(モツタ岬・神威岬・阿冬岬)の一にして從來掻送船の覆没すること少なからず、人々驚怖を抱きたる處なりしが、安政四年濱益、増毛兩場所請負人伊達林右衛門は自費を以て阿冬山道を開鑿す。濱益より増毛に至る道程九里餘なり」であった。開削に当って資金を出したのは八代目林右衛門智信であるとされ、そして「安政二年(一八五五)から同四年にかけて一、三一一両朱銭三一一文の私費を投じて開鑿した道」であるとする。留萌地方増毛町大字別苅村と石狩地方浜益村幌と結んだ道路。延長九里二十三町(約三十七・九キロ)である。そして山道は終始尾根伝いに走ることが特色で別苅から南南西に進み、天狗山東方の武好駅逓を経て標高六〇六・六七メートルの武好橋に至る。この付近から真南に方向を転じ、雄冬山の東方をたどり、増毛町・浜益村境界の浜益御殿(標高一、〇三八・六メートル)に達する。浜益村に入り再び南南西に向かって下降し、浜益村幌に至るとする。当時この山道は「北海道第一の峻険にして増毛山道と稱す」といいまた「往古夷地第一の要害と稱す」という山道であった。

Question 30

 この山道の開削は、文化年間に幕府が東蝦夷地から西蝦夷地へ馬輸送の急便に対応する目的で開削されたとか、また北辺防衛のため東西蝦夷地を結ぶ、いわゆる軍事道路であったとかともいわれている意味からも重要な役割を果たした山道である。それは次のうちどれか。

①「佐呂間越え山道」
②「網走越え山道」
③「斜里越え山道」
④「北見神威岬越え山道」

Answer

②「網走越え山道」

 東蝦夷地で開削された山道に「網走越」がある。この道路は「今の釧路國(しょ)(ろ)より入り、(した)(から)(ぶと)(あ)(かん)(こ)西岸を徑て釧路北見の國境を越え網走川に沿て下り、ニマンベツを徑て新栗(にくり)(ばけ)に出づ。道程四十六里(約一八〇・六㎞)となす。此道路は文化五年(一八○八)東蝦夷地より西蝦夷地へ馬を送る際、白糠在勤の幕吏大塚惣太郎指揮して開鑿に掛かり、同七年に至りて落成せるものなり」のものであった。すなわち東蝦夷地の庶路から釧路・北見の国境を越えて西蝦夷地に馬を送るために山道を開削したものとされている。この山道開削について「文化二年(一八〇五)米屋・佐野孫右衛門がクスリ場所(シラヌカを含む)の請負人となり、本格的な場所経営を開始すると、当地の産品も増加した。同七年には幕命により大塚惣太郎らが網走山道を開削した。この山道開削については多説があるが、これまでのアイヌ交通の路をベースにし、西蝦夷地との馬輸送の急便に対応する目的であった。同山道は庶路海岸より庶路川から舌辛太―阿寒湖西岸を経て、網走川を下り西蝦夷地に至る内陸部四十六里の道程で、海上路の危険を避ける意味からも重要な役割を果たした」道路であった。道路開削の目的は「北方防衛のため東西両蝦夷地を結ぶ、いわゆる軍事道路で、幕府の命によるアイヌ道を開削し」たものとされている。だから同じアイヌ道を使った釧路川をさかのぼり斜里川を下る斜里山道(享和元年)のような舟行が大半となる道とは異なり、過半は陸行であり、馬による走行も可能な機動性を発揮しやすい道であったのである。しかし北辺の情勢が小康状態を保つようになると、せっかく開かれたこの山道の活用期間は短く、松前藩に復領となると幕吏の往来もなくなり、故意に道路を廃滅させる方法をとったともされ、廃道となってしまった。

Question 31

 安政三年から同五年にかけて、西海岸沿いには多くの山道が開削された。堀奉行の道路開削の方針を受けて山道、新道、難所越え、場所内道路など十三線を開いたが、その中でこの山道はその嚆矢をなすものであったとされるものは、次のうちどれか。

①「黒松内山道」
②「濃昼山道」
③「積丹山遣」
④「雷電山道」

Answer

①「黒松内山道」

 「この長万部から黒松内を経る道を黒松内越と称した。第一次幕領期の頃(寛政十一年~文政四年=一七九九~一八二一)には、黒松内に礼文華アイヌのヲベフキが一人住んでいて、往来する者を木賃に泊めていたというが、その後天保二年(一八三一)には、松前城下の利右衛門がアイヌといっしょに、谷地に木を並べ、川に橋を架けるなどして道路の手入れを行った。そして、幕府が再び蝦夷地を直轄すると、安政三年(一八五六)には黒松内越に馬車の通じる新道が築造された。長万部~黒松内間は、中の郷の源兵衛、千代田の才兵衛、一本木の新兵衛、庚申堂の儀兵衛という箱館在の四人が箱館奉行に出願して築造した」(『北海道道路史』)。
 黒松内山道は「長万部から長万部川に沿つて北上し、稻穂峠を越え、黒松内から朱太川に沿つて下り、河口で分かれて歌棄(うたすつ)と寿都とに至る道路で、東西海岸を連絡する要路として古くから知られていた。寛政・文化の頃までは山獵をなす者の外はこれを越す者はなかったが、西蝦夷地の漁業の發達によつて漁夫達が、春積雪を踏んで通行するようになつてから、利右衛門という者が黒松内に土着し、木賃宿を營み渡船を兼ねて一人から渡賃十三文づゝを徴収した、ということである。安政三年(一八五六)に箱館の福次郎と千代田村の名主才太郎の両人が、長万部・黒松内間の約六里の開削を出願、資本を勇拂場所請負人の山田文右門の配下、金兵衛に仰いで完成させる。「橋をかけること三十八、旅客から一橋に付三文、合計百十四文づゝを五ヵ年徴収して、その費用を償うことが許可された。」のであった。この年に歌棄場所請負人の桝屋栄五郎の父定右衛門が私費で、黒松内から先の追分に至る二里余と、迫分から歌棄までの一里余、寿都までの二里余を開削する。この二人の開削工事は後日、幕府からの褒賞の際「一代苗字差免」という栄誉につながったものであった。なお拳行はこの山道の竣工を機に、新道近在の田畑開発、旅篭渡世、木賃宿経営を許可している。

千萬の こがねはものか かしこくも 國の寳は 道にしかめや  ―松浦武四郎

▲余記 蝦夷地山道

 幕府は蝦夷地の状況を正確に把握するため、御使番の大河内善兵衛、渡邊久藏らを蝦夷地へ派遣し、実情の調査をさせる。この結果、広大な蝦夷地の支配を松前藩だけに任せるわけにはいかない、と判断し、寛政十年に一八○余名という大調査団を蝦夷地へと派遣した。そして国防上、松前藩から蝦夷地を取り上げ直轄領とすることにした。文政四年(一八二一)までの二十二年間幕府の直轄領としたものであった。そして寛政年間(一七八九~一八〇〇)に開削されたのが、幕府の直轄開削による猿留山道・様似山道と、藩などによる開削の禮文華山道、釧路(せん)(ほう)(し)山道のわずかなものであった。続いて文化年間に仙鳳跡~厚岸間山道、網走越え山道、斜里越え山道が開削されたのである。これによって   東蝦夷地の海岸道路開鑿はまだ完全なものではなかつたが、それでも四六時中通行ができるようになつて、風雨の激しい日でも空しく滞在することがなくなり、かつ從來の迂回路を短縮したことによつて里程を減じ得たことは、大いに交通に便益を與へたものといえる。
 しかし西蝦夷地は東蝦夷地に比べて、遅れて幕府の直轄となったこともあり、さらには険しい海岸の多かったこともあって、ほとんど開削されなかった。やがて、西蝦夷地では、文化年間に従来の木古内越えを改修した木古内山道、千歳越え、雨竜越え、余市山道が開削されたが、太田・狩場・雷電・積丹・(ごき)(びる)(お)(ふゆ)など海岸に難所があって、久遠から増毛までの陸行を拒んでいた。
 したがって松前からは殆ど船によっていた。西蝦夷地の道路開鑿が東蝦夷地よりも遅れたのは、幕府のこの地直轄が東よりも八年後の文化四年(一八〇七)三月であったのと、東に比較して人口が少なく、かつその沿海部落も大難所によつてさえぎられていたため、船を利用するのが便利であったからである。やがて幕府は道路の開削を蝦夷地経営上の急務とする。
 しかし箱館奉行は他に急を要する台場の建設など事業が多く、その経費も限られていた。そこで場所請負人に目を付けた。当時この場所請負人たちは鰊などの好漁に恵まれ、その資力も労力も豊富であったから、各場所請負人に論して道路開削を寄付させたのであった。かくして安政年間(一八五四~一八五九)、西蝦夷地には黒松内山道をはじめ、雷電山道・余市山道・濃昼山道・阿冬山道、太田・狩場・鶉山道などが開削され、また石狩―対雁(ついしかり)間、銭函―千歳間などの道路も開削されて、たちまちにして西蝦夷一帯の陸路が全通したのであった。
 しかしながら全通したとはいえ、あくまでも当時の道路といえば「僅かに人馬を通行せしめ得るのみにして甚だ粗惡なるものなりき」であった。

明治期の道路開削

Question 32

 明治に入ると、北海道の開拓を重視した政府は「実際に国を開くは道路の外にない」と、卓越した識見と豊かな経験に基づいた外国人顧問からの進言により、北海道の開拓が始まった。「道路ナル者ハ、国ノ血脈ナリ」とされて開削された道路は、次のうちどれか。

①箱館―札幌間「札幌本道」
②札幌―小樽間「札樽道路」
③札幌―石狩間「石狩街道」
④箱館―松前間「松前街道」

Answer

①箱館―札幌間「札幌本道」

 明治に入ると政府は、北海道の開拓を重視して、明治四年(一八七一)に、アメリカから「開拓使頭取兼顧問」としてホーレス・ケプロンを招聘した。このケプロンの卓越した識見と豊かな経験に基づいた基本方針によって北海道の開拓が始まった。明治五年(一八七二)三月、函館から札幌間の「札幌本道」建設に着手する。職工・人夫などは東京の政田嘉兵衛ら四人が請負い、東京・伊豆・南部・鹿児島など全国各地から集められ、技量試験を行った上で採用、就業時間を午前八時から午後四時までの八時間労働とした。各隊は五十人を一隊とし、それぞれに旗や幟を立て、ハッピに開拓使の「開」のマ―クを付け、襟には請負者の姓を付け繰り出し、無人の荒野に工事を進めた。途中には必要な器具を製作する作事用小屋や、外人技師・官吏の詰所、休泊所、人夫小屋、病院なども設けた。
 人海戦術で工事が進められた結果、七月には函館~森間が早くも完成、九月になると鷲別から樽前に至る間が完成となる。しかし島松の手前で降雪のため工事は中止された。なお森と室蘭間は海路とした。翌六年四月雪融けを待って再開され、六月二十八日には豊平橋までの全延長一七六・五㎞(陸路)が完成した。すなわち函館~森間の陸路四二㎞、森~室蘭間は海路で四六㎞、室蘭~札幌間が陸路で一三四・五㎞というものであった。総経費は八四万三、七〇〇円一四銭七厘であり、着工後わずか一年三箇月で、ここに日本で初めての長距離洋式馬車道が完成したのであった。この札幌本道の開通は、北海道の交通運輸上、また交通網拡充の骨格として、絶大なる効果をもたらし、北海道開拓史上における一大事業実績となったものであって、優秀なる外国人技術者により道路建設の技術ばかりでなく、労務管理など多くのものを教えてくれた。記念すべき道路であった。日本で初めての洋式馬車道であり、北海道の道路としても、否、日本の道路として誇りうるものであった。

Question 33

 明治新政府にとって、北海道開拓は急務であり、特に道路の開削は急を要した。しかしそれに振り向ける財政的余裕はなかった。そこで民間有志を勧誘して民業による道路の開削を考えた。その典型的な開削道路といわれるものは、次のうちどれか。

①札幌―石狩間「右狩街道」
②星置―千歳間「札幌新道」
③虻田―札幌間「東本願寺街道」
④室蘭―千歳間「室蘭街道」

Answer

③虻田―札幌間「東本願寺街道」

 明治新政府にとって「北海道の開拓」は急務であり、中でも道路の開削は特に急を要した。しかし新政府には開拓に向けるだけの財政的余裕がなかった。そこでやむなく民間有志を勧誘して、民業による道路の開削を考えた。この「本願寺街道」は、その典型的な道路であった。東本願寺は新政府に対して「新道開鑿・移民奨励・教化普及」の三項目を挙げ蝦夷地開拓を政府に対して出願し、そして、法嗣現如上人光瑩がその指揮をとることになった。
 「明治二年六月東本願寺門主光勝…同三年七月、工をオサルベツ(紋別の西、長流村)に起こし、有珠山中に向かいソウベツ(洞爺湖より瀑布となって落ちる川)ニッポキナイ、ヌツキペツ、シリペツ、アシュフ、ムイナイ、ケレベツ、定山溪、ニセイオマップ(今の簾舞)等を經て、平岸に至る里程二十六里一〇町五間を開鑿し、橋梁を架すること百十三、渓の間に横板を敷設すること十七箇所、同四年十月工成る。門主随行の家主宇野道隆、尾崎信盛の二人開鑿の役を督し、三河國の人大濱和助測量を司りしぞ、世人これを本願寺道路という」と記されている。
 道幅は九尺(約二・七m)、伐木の幅三間(約五・五m)の道路ではあったが、僅か一年余という早さで、明治四年十月に完成した。総経費一万八千五十七両永六十二文五分、延べ人員五万五千人余にのぼった。僧たちのほか伊達に移住していた旧仙台藩士や現地のアイヌの人たちも木を伐り土を運んだ。
 明治六年千歳を回る「札幌本道」が開通されると、せっかくのこの道路は人々に利用されなくなり、やがて雨水に削られ、笹や木に埋もれてしまう。この道路は所詮、明治維新という動乱期の思惑が生んだ政治的所産だったのかも知れない。

Question 34

 北海道の開拓に重点を置いた明治政府は、人跡未踏の密林地帯のなかで、道路開削工事を行った。「雨連日、且つ蚊虻毒虫甚だしく」の中で、直線を主とした道路を開削したが、それは次のうちどこの道路か。

①札幌―月寒間「月寒街道」
②旭川―富良野間「富良野街道」
③美唄―滝川間「上川道路」
④釧路―網走間「網走街道」

Answer

③美唄―滝川間「上川道路」

 国道十二号美唄市光珠内から滝川市までのこの直線国道の原形は、太政官・大書記官の金子堅太郎の「彼等は暴虐の徒であるから密林と険しい山と谷、難工事であるから囚人を使え。死ぬまで使って差し支えない。北海道の開拓のために酷使して死なせると、国庫の支出も助かるし、また泣く者とていない。働かせて殺してしまえば国家のためになる」という報告書によって、明治十九年五月、空知太を本拠地として南の市来知へと、北は忠別太までの二方面から開削に着手した。そして八月末には、延長二二里一四町(約八八㎞)、工費二、〇八一円四九銭五厘をもって開削された。
 人跡未踏の密林地帯、(こ)(り)(ゆう)(ろう)跋扈(ばっこ)にまかせていた開削工事の困難さは、筆舌につくし難いものがあった。幅二間(三・六m)を伐開し一間幅の道を造り、川や沢に橋を架けた。延べ人員は一九三、八六〇人記録されている。しかしこれはあくまでも仮道であったので、明治二十一年に本道路とすべく改修工事が行われた。本道路の改修に当たっては「霖雨(りんう)連日、且蚊虻(ぶんほう)毒虫甚ダシク」という中で「少シモ怠惰(たいだ)ノ心ナク、能ク囚徒ヲ使役セシメ」て完成させたものであった。
 昭和四十四年(一九六九)九月、この道路建設にあたり亡くなった囚人の霊を慰めるために「上川道路開鑿記念碑」が空知太神社境内に建立された。この碑はコンクリートと黒い御影石が併用された高さ五mのもので、正面から見ると囚人の霊を慰めるように、人の手が合掌しているようなデザインとなっている。碑文には「国道十二号線は明治十九年に樺戸および空知集治監の囚人を使役して、空知太に集治監出張所を設置、南北二工区に分けて悪条件下に工事を進め、九十粁の上川仮道路を完成したのが始まりである。この難工事に苦役された幾多の無名の犠牲者の霊を慰め、輝く未来建設の為に、開道百年を記念してこの碑を建立する」と刻まれている。明治の開拓初期に、これらの囚人が現在の私たちに残してくれた「偉大なる遺産」それは道路であった。

Question 35

 北梅道の道路開削史上、多くの犠牲者が出たとされ、最も悲惨な事例として特記される道路の開削がある。睡眠も十分にとれず、過重の労働は健康を害してまで、道路が開削されたのは、次のうちどこの道路であったか。

①釧路―厚岸間「釧路道路」
②岩見沢―夕張間「夕張街道」
③月形―峰延間「樺戸街道」
④旭川―網走間「北見道路」

Answer

④旭川―網走間「北見道路」

 北海道の道路史上、最も悲惨な事例として特記されるものに、旭川―網走間の「北見道路」の建設がある。この道路は「囚人のうめきと血に染まった死の道路」として、あまりにも有名である。明治時代の北海道において、開拓の上で一番貴重な労働力は囚人であった。この屈強な若者たちを、困難な人跡未踏の地の道路開削に使用することを政府は考えた。網走側ではこの工事のために、釧路集治監の分監として網走に宿泊所の建設が始まった。明治二十四年五月、網走分監に移された千百余人の囚徒によって、網走・中越間の工事が開始された。特に主力となる開削部隊は、一組二二〇人として四組が編成される。
 延長一六二・七㎞を一三の工区に分け毎朝午前四時に開始し、終業は遅い時は翌朝の午前一・二時になる時もある程で、睡眠も充分にとれぬ程であった。工事の模様を「工事監督ノ方法如斯ナリシヲ以テ激烈ナル競争心ヲ奮起シ、夜間(かがり)(び)ヲ点ジデ就業シ、一區域ノ間僅カ一ヶ月計リニシテ竣工セシモノ少シトセス…然レドモ競争ノ弊ハ規律ノ厳正ヲ保チ能ハス。過重ノ勞働ハ健康ヲ害シ、不檢束ト從事ノ困苦ハ多数ノ逃亡者ヲ出セシモ、更ニ他願スルトコロナク一意専心、唯工事ノ速成ヲ期セントセシモノノ如クナリ」と伝える。最も困難であったのは医事衛生に関することであった。仮泊所に多数の囚徒を押し込めたことと「霖雨月余ニワタリ、道路壌敗泥濘馬脚ヲ没シ」たため、生鮮食糧の補給が追いつかず、それに加えて過労のために、水腫病(すいしゅびょう)(一種の脚気)が発生し、死亡者が相次いだ。白米ばかりでは過労で衰弱した身体に栄養失調が襲うことになり、致命的であったろう。『網走分監沿革史』には「逃亡セル者ハ斬殺、病囚ハ斃レテソノ屍ハ風雨ニサラサレタ。夏期数月ノ間死者一百以上ヲモツテ葬スルニ至ル。嗟亦惨ナラスヤ」と、有名な言葉が残されている。

Question 36

 沿線一面は沼択で常に水が停滞し、九尺の測量竿は片手で容易に差し込み得る程であった。そこで幾万石の木材を運搬して配列して下敷とし、雪中橇を用いて土と砂利とを運び、融雪後下敷木材の上に土を、その上に砂利を敷いた。この道は次のうちどこか。

①東橋―大谷地間「白石街道」
②月形―峰延間「樺戸道路」
③江別―岩見沢間「岩見沢道路」
④雁来―江別間「雁来街道」

Answer

②月形―峰延間「樺戸道路」

 上川仮道路の計画過程で、空知・樺戸両集治監を結ぶ樺戸空知間新道の開削が間題となった。上川・北見道路からすれば枝道にすぎない「樺戸道路」の主目的は、両集治監の連絡を目的としたものであり、さらには両集治監の囚徒をより効率的に使役するためでもあった。
 月形の国道二七五号から国道十二号の峰延までの道路は、一本の定規で引いたような直線道路となっている。明治二十年(一八八七)に着手され、三年間を費やして同二十三年に完成した。樹木が密生し、沼沢が随所に連なるこの道路は、延長僅か四里に過ぎないが、沿線一帯が沼沢であったことから、工事は容易でなかった。
 看守長の記述を要約すると、月形、峰延間の道路開鑿工事は、延長僅か四里沿線一面は沼沢のこととて、常に水が停滞し、路線測量は大部分舟で行ない、九尺の測量竿は片手で容易に差し込み得る程であった。仍て先ず路線の両側に、幅四尺の排水溝と支溝を設けて排水し、且之を運河に代用して、幾万石の木材を月形から運搬して配列して下敷とした。そして雪中橇を用いて石狩川の土と砂利とを運び、融雪後下敷木材の上に土を、その上に砂利を敷いた。此の工事は前後三ヶ年の年月を費やし、工事は民間工事とすれば、三万円にもなるであろうとある。しかし二、○○○円で完成したとされる。
 ここに署員であった大橋勘吾が描いたという「囚徒峰延道路開鑿之圖」というのが残されている。この図は「明治二〇年の一現場を模式的に描いた極めて貴重な史料で、作業の種類や工程、使用道具、囚徒や看守の服装、看守と囚徒の関係その他の状況をうかがうことができよう。図にある電話線架設工事は、空知と樺戸の両監獄署(明治二〇年改称)を結ぶ専用電話のためのもので、工事は道路築造と並行して進められて同年六月二十三日に竣工し、七月六日に開通した」ものである。
 総工費約一、八一三円余囚徒の数も延べ約二七、五二〇人となっている。

▲余記 礼文華山道

 明治に入てからの山道も依然として「禮文華山道と稱し最も嶮難往來甚だ稀なり」であった。したがって、人々は通行の難所のこの山道をあまり通らず、多くは海路によっていた。明治十一年の記録によると、この年にこの山道を歩いた者は、役人二人、巡査一人、そのた旅行者二人だけであったという。
 英国人イサベラ・エル・バード女史(当時四十七歳)が伊達を除いて和人があまり定住していない蝦夷地を、従者兼通訳の伊藤という十八歳の青年を連れて、この十一年にこの山道を騎馬で通っている。
 この時の旅行記である『日本奥地紀行』には、この山道越えの状況が詳しく記載されている。
 「礼文華では峻険な峠を三箇所越えた。この道は殆ど人も通わぬところで、馬に乗って通れぬ事もないが、その困難さは筆舌に尽くし難たいものがある」とか、また「密林の中の山道は険しく、時によると殆ど洗い流されてしまったようなジグザグ道であったり、まるで梯子のような真っ直ぐに溝のついた上り道であったり」であり「大小様々なゴロタ石が一杯で木の根や蔓草に蔽われた岩棚が突き出ていて、そのため馬に乗っている時には身体をかがめて行かなければならない。馬は又地割れの間にはさまった石につまづいてよろめいたり、又自分の胸程もあるゴロタ石を不恰好な様子で飛び越えたりというように、ピョコピョコと一哩に一時間もかかって歩いて行く」などの記述が見られる。
 「しかし何という素晴らしい旅行だろう!。何一つ欠ける所のない天国にも比すべき絶好の風景が此処にある。すばらしい森林におおわれた岬、青波の寄せては返す湾のほとり、目もくらむばかりの断崖絶壁、彼方の針葉樹の密林、チラホラ見える明るい大海原、峡谷と森林の山々。…槍のように鋭い岩峰が連なり、暗い針葉樹の群落、点々たる紅の楓、真っ赤にかがやく葡萄の茎葉等、何という素晴らしい風光であろうか。森林におおわれた山々、暗々たる幽谷には汲めども尽きせぬ興趣がある」と記している。さらには風光は素晴らしいが時によると道路が全く途切れてしまい、難行苦行してつづけなければならず、案内人は絶対必要であるとしている。バード女史は平取・二風谷まで旅行し、往きは森から室蘭まで船で渡り、帰りにこの山道を越えたのであった。
 明治二十三年(一八九〇)に忘れられていた礼文華山道は、東海岸線の重要な路線であるということで、難所の部分から改修に着手される。

トンネル関係

Question 37

 トンネル工事において、少年刑務所の服役者を「出所してからの社会復帰、厚生のために貢献させよう」という目的で、昭和三十八年から同四十三年までトンネル工事に従事させた、完成されたトンネル工事があるが、それは次のうちどれか。

①国道五号「盤の沢トンネル」
②国道二二九号「慶喜トンネル」
③国道二二九号「(しび)の岬トンネル」
④道道函館南茅部線「川汲トンネル」

Answer

④道道函館南茅部線「川汲(かっくみ)トンネル」

 道道函館南茅部線の川汲峠を越える難所区間には、延長一、一五〇mの川汲トンネルがある。昭和三十七年にこの峠区間の工事が着手され、同四十三年に完成し、これによって函館と南茅部を結ぶ難路の峠道が完成したのである。
 このトンネル工事には、このころ登場してきたH形鋼製支保工が採用され、六連のジャンボ機を使い、積込には高圧空気起動のクローラショベルなど、最新式の機械類が駆使されたものであった。
 そしてこの工事に、函館少年刑務所の服役者で組織された国土開発隊が工事に従事した。すなわち「昭和三十八年一〇月 函館少年刑務所川汲国土開発隊 道道隧道工事にあたる(昭和四十三年一二月まで)」と『北海道行刑史』には記載されているものである。
 この工事に従事させた目的は「出所してからの社会復帰、厚生のために貢献させよう」として、この峠越えの工事に従事させたのであった。またこのころ、道内各地区の刑務所で服役中の囚人の中で、刑期の軽い模範囚人による「北海道開発名誉作業班」が組織され、各地の道路工事等に従事している。彼らは各地の仮監に派遣され、二日間在所作業すると三日に換算、さらに成績が優秀であれば四日間に換算されるということであったことから、北海道開発のためと、自己の刑期短縮のために真面目に働いたという。したがって「函館少年刑務所川汲国土開発隊」も、真面目に一生懸命作業に従事したものであろう。
 また昭和三十九年から同四十一年にかけて、国道二七八号の中山トンネル工事に同じく「函館少年刑務所中山隧道国土開発隊」が組織されこのトンネル工事等に従事している。

Question 38

 既設のトンネルが、交通量の増大などからトンネル内での車両のすれ違いが危険な状態となったことなどから、北海道で初めてという一般交通に供しながら拡幅したものがある。それは次のうちどれか。

①国道二二七号「中山トンネル」
②国道二二九号「古平トンネル」
③国道二三一号「(ぶと)島内(しまない)トンネル」
④国道二七三号「糠平トンネル」

Answer

②国道二二九号「古平トンネル」

 国道二二九号の古平町市街入口近くに、昭和三十三年に建設された、延長一五六・〇m、幅員六・〇mの旧「古平トンネル」がある。
 このトンネルは、建設以来巻立てコンクリートが次第に老朽化し、さらには漏水が目立つようになってきた。また加えて交通量の増加と、車両の大型化によって、トンネル内での車のすれ違いが危険な状態となり、さらには歩道が設置されていなかったこともあり、歩行者の安全が早急に必要となってきた。
 そこで旧トンネルの前後を防災上から巻き出し、トンネルの延長を一六九・〇mとし、幅員を車道七・五、歩道を二@二・〇mとすることになった。
 ここの地形の関係から迂回路の設置が不可能ということもあって、種々検討の結果で一般交通を確保しながらトンネルを拡幅する工事を実施することとなった。そして工事に着工し、昭和六十二年十二月に完成となったものである。
 工事中はこのため、一般車両の通行を一車線と規制し、歩行者の通路を確保するため、現トンネル内に歩道付きの仮設覆工を設け、車両と歩行者の防護を図り、海水浴や観光シーズンの七月~八月間は作業を中止しての施工となった。
 この工事は、北海道でも初めての一般交通を通しながらの施工であった。
 古平町名の由来は、アイヌ語の「プレピラ」(赤い崖の意)からとされている。このトンネルの近くに「古平家族旅行村」があり、二〇棟のケビンとキャンプサイトがあり、港を眺めながらアウトドアを楽しむことができる。

Question 39

 道内で、明治・大正・昭和・平成と四代にわたって開削され、現存しているトンネルが並んでいる所がある。道内はもちろんのこと、このような所は、恐らく全国でもここだけであろうとされるが、それは次のうちどこか。

①国道二二九号「武威トンネル」
②国道二三一号「太島内トンネル」
③国道二七八号「銚子トンネル」
④道道江差木古内線「稲穂トンネル」

Answer

①国道二二九号「武威(むい)トンネル」

 国道二二九号積丹町の武威岬に武威隧道がある。ここには明治・大正・昭和・平成の四代にわたって掘られたトンネルが並んでいる。
 一番海側のトンネルは、明治二十二年(一八八九)に、岬をまたいで二股となっていて、二本が掘られたものである。北側のものは一二m、南側のものが一五mであって、人がやっと通れる幅のもので、二m程度のものである。
 その山側に大正十一年(一九二二)に掘られたトンネルがある。長さが七〇mであり、昭和三十五年に拡幅された。幅員が四・五mであって、バスが通っていたものである。
 先代のトンネルは、昭和四〇年(一九六五)十月に完成されたもので、延長二〇七・〇m、幅員六・〇mとなっている。『北海道の道』には、地元神崎に住む能代谷さんの話が紹介されている。それには「余市までだと、十三里(約五二㎞)あった。夜中の十一時ころ、握り飯を背中に、わらじばきで出るんだが、磯伝いのため、いつ海におっこちるかと思ってなあ。それに三つのトンネルのところがおっかなかった。大正時代に掘ったのが、工事中、出面に出ていた村の二人が落盤で死んだため、夜、あそこを通るとユウレイが出るなんて、いわれてなあ。それは薄気味わるかった」と。
 平成十四年三月、昭和「武威トンネル」の山側に、平成「武威トンネル」が完成した。延長七〇〇m、幅員一一・五m(車道八・〇+片歩道三・五)のものであって、これによって昭和武威トンネルは閉鎖となった。
 ここに明治・大正・昭和・平成の四つのトンネルが並んで見えるというような所は、恐らく全国でもここだけであろう。

Question 40

 日本海に面して断崖絶壁の続く難所の海岸があって、大正時代に起きた悲惨な事故から掘削されたという物語を伝えるトンネルがある。「傳ふる處によると開鑿の際、お神威様の祟りだとも言はれてる」とされるが、途中で曲がったトンネルは、次のどれか。

①厚田村「尻苗トンネル」
②浜益村「つばめ岩トンネル」
③岩内町「敷島内トンネル」
④積丹町「念仏トンネル」

Answer

④積丹町「念仏トンネル」

 国道二二九号沿いの神威岬に通じる海岸線にこの「念仏トンネル」が掘られている。車のクランク棒を思わせるように変わったトンネルであり『積丹町史』に「大正一年(一九一二)十月二十九日午前八時半ころ、神威岬灯台長の妻と、次長の妻とその二男(三歳)が、天長節(天皇誕生日)のお祝いの品物やその他の物を購入するだめ、余別市街へ行く途中、ワクシリ岬付近において荒波に足をさらわれ海中に落ちて溺死した。ワクシリ岬は、上は岸壁が屏風のようにして、下は波打ちぎわになっている難所で、凪や干潮の時にはわたることができるが、その他の場所は容易に越えることができないほど困難なところである。このような海難事故が再びくり返えされないようにするため、大正三年(一九一四)トンネルをつくることを計画し同七年十月八日ようやく開通したが、工事作業中、開削技術が未熟のためか、あるいは測量計画に誤算があったのか、東側と西側の両方から同時に開削作業をはじめたものの、中央において貫通線からはずれてくいちがいを生じ、内部は真っ暗になってしまい、工事は一時とんざしたが、死人の供養をふくめ、双方念仏をとなえながら、鐘をならしてその方向を定めてようやく開通することができた。この六〇メートルのトンネルは割合低く、中がまっくらであるので、念仏をとなえながら通ると安全であるといい伝えられている」とある。
 このことは『全国灯台と岬』や『北海道灯台百年年表』にも書かれて語り伝えられている。トンネルの入口の案内板には「大正元年十月神威岬燈台職員の家族が、波にさらわれる事故があったため、掘られたものです。両方の入ロから掘り進めたところ、中間で二十一米も食い違いができたので、こんなに曲がってしまったのです」とあった。

一説にはお神威様の崇りだとも言はれているトンネルであるが…。

Question 41

 トンネルで大規模な岩盤が崩落し、全国を震撼させる大事故が起きた。通行中の路線バス及び乗用車各一台が被災し二十名の尊い命が失われるという事故であった。それから五年四箇月の歳月をかけて新トンネルが完成したのは、次のうちどれか。

①増毛町「(あゆみ)古丹(あゆみこたん)()(こたん)トンネル」
②古平町「豊浜トンネル」
③浜益村「千代志別トンネル」
④広尾町「重蔵トンネル」

Answer

②古平町「豊浜トンネル」

 豊浜トンネルは昭和五十九年十一月に完成した一、〇八六mのものである。平成八年二月十日のこと、トンネルの古平町側坑口で大規模な岩盤が崩落し、全国を震撼させる大事故が起きた。高さ約七〇m、幅五〇m、最大厚さ約一三m、体積約一一、〇〇〇㎥の大規模な岩盤崩落が発生し、トンネル部約二六m、巻き出し部約一八m区間が破壊した。これによって同区間を通行中の路線バス一台と乗用車一台が被災し、二十人の命が失われた。また乗用車一台が落石に遇い一人が負傷する。
 このニュースは数日間にわたり、刻一刻テレビで放映され、また新聞も連日一面のトップ記事でこの事故の状況を報道していた。新聞は「息をのむようなすざましい光景である。高さが何十メートルもありそうな巨岩が、トンネル出入口に突き刺さっている。岩石の下にはバスの乗客や乗用車の人たちが閉じ込められているという。一刻も早く救い出さねばならない」としていたが、二次災害の恐れから救出作業が手の付けられないままとなっていた。二月十一日、一回目の発破、岩盤の除去できず。翌十二日二回目の発破失敗、破砕除去に変更。同十三日三回目の発破も破砕進展しながった。
 二月十四日になり四回目の爆破によって巨大な岩石が崩れ落ち、バスの乗客らの救出活動が五目目にして始まった。十七日午後三時バスの中から男性一人の遺体が発見され、午後八時までに全員の遺体をみつけることができた。死因は圧死または圧迫死とみられ、即死の状態であった。事故発生から八日目でバスの搬出となったが、乗客、乗員全員死亡という最悪の結果となった。
 この大事故では折から通過中の定期バスの乗客・乗員十九名と乗用車の一人の合計二十人が尊い犠牲となったものである。二次災害を懸念して慎重をきしたことから、救出作業は遅々として進まず、二月十七日になって機械力、人力で救助にあたったが、全員死亡という最悪の事態を迎えたのである。
 この事故は人災なのか天災なのかということで、大きな社会問題とされた。

Question 42

 トシネル掘削現場で崩落事故があり、作業員八人が生き埋め、五人が死亡し三人が重軽傷を負ったという事故があった。トンネル入口の山留め擁壁の中をくり抜いて、地蔵尊が殉職者の霊を慰めるために安置されているが、それは次のどこか。

①七飯町「大沼トンネル」
②豊浦町「礼文華トンネル」
③積丹町「幌内府トンネル」
④浜益村「つばめ岩トンネル」

Answer

④浜益村「つばめ岩トンネル」

 昭和四十七年七月九日午前五時二五分ころ、国道二三一号浜益村床丹―千代志別間のトンネル掘削現場で崩落事故があり、作業員八人が生き埋め、五人が死亡し三人が重軽傷を負った。
 この、つばめ岩トンネル入口で、掘削作業をしていた下請けの作業員に、突然八mの高さから幅一〇m、厚さ一mにわたる岩石や土砂が崩れ落ちてきた。H型鋼製支保工は曲がり、そばにあったショベルも潰されてしまった。
 事故発生とともに、三〇人の作業員が現場に駆け付け、救出に当たったが、重い岩石に阻まれ、救出作業は困難を極めた。午前七時ころ一人を、八時半までに四人を収容、国保病院で手当をしたが、内一人は死亡し、残る四人は遺体で収容された。
 現場は激しい雨が二日前から降り続いて、小さな岩がひっきりなしに崩れ落ちる中で、掘削作業が進められたという。事故直後、現場を調べた滝川労働基準局は「強い雨の降り続いていたときの強行作業が問題」だといい、工事関係者は「現在の技術水準では、崩れ易い破砕帯を探り当てるのには限界があり、すでに完成した二ツ岩トンネルも同じような条件下でも無事故であった」と、工事には無理はなかったと強調し「表面の岩盤の状態から、危険は考えられない」と断言していた。
 このトンネル事故で殉職した五人と、重軽傷を負った三人のうち、六人が元炭鉱マンであった。事故当時の新聞は「ヤマよりましと思った―泣きくずれる家族」とか「なぜ雨をついてまで―危険を予想した地元」とか、「工事を急ぎ安全無視」や「五人死亡三人重軽傷―閉山鉱員中心の下請」などと、大きな見出しで報じていた。このトンネルは、長さが一二〇m車道幅員六・五mのもので、歩道が二@○・七五mと、なっているものである。トンネル入口の山留め擁壁の中をくり抜いて、二体の地蔵尊が殉職者の霊を慰めるために安置され、いつも花などが供えられている。

Question 43

 現在ではどこのトンネル内でもラジオを聴くことができるが、本道で昭和五十年代に初めてトンネル内で聴くことができる装置を施したトンネルがある。考案した職員は北海道知事から「ラジオの聴取を可能にした」として表彰されている。それは次のうちどこか。

①国道五号「稲穂トンネル」
②国道三七号「礼文華トンネル」
③国道二三〇号「定山渓トンネル」
④道道函館南茅部線「川汲トンネル」

Answer

④道道函館南茅部線「川汲トンネル」

 道南地方の函館と南茅部とを結ぶ幹線の道道に「川汲トンネル」がある。昭和四十三年十二月に、当時本道で第二位の延長の一、一五〇mのトンネルが完成した。このトンネルの施工にはこのころ登場してきたH型鋼製支保工が採用され、六連のジャンボ機を使用し、積込には高庄空気起動のクローラショベルなどの最新鋭の機械類も駆使されていたものである。
 この川汲トンネルには、北海道で最初にトンネル内でラジオが聴取できる装置が、昭和五十七年六月に設置された。これは当時としては画期的なものであった。
 この装置は現在ではどこのトンネルでもあるものであるが、当時としては本道で唯一のものであった。
 この装置は昭和五十七年に函館土現に勤務していた職員の佐藤佳明が考案し、北海道電波管理局から許可を得て設置したものである。そして佐藤は北海道知事から「川扱トンネルに手造りの増幅器を設置して、ラジオの聴取を可能にした」として表彰されている。
 峠付近はカエデ、モミジ、ダケカンバの樹海が広がり、ぼうぼうと茂る夏草に包まれた砲台跡に、電話中継所の近代的なパラボラアンテナが建っている。
 なお、平成二十年七月、平成十五年から着工し、急カーブ、急傾斜が連続して交通の難所となっていたルートを変更し、現トンネルの北側に総工費八一億六千万円、延長二、〇五六m、幅員九・〇m(内監査歩廊〇・七五×二m)の「新川扱トンネル」が開通となった。このトンネルの開通により、これまで狭隘で困難だった大型車の通行もスムーズになり、日常生活はもとよりのこと、水産物の輪送や災害発生時の緊急避難路など、地域の活性化に寄与することが期待されるものとなったのである。

Question 44

 折からの台風によって、従来供用されていた橋梁が、波の力によって落ち、供用不能となった。なにしろ幹線道路である以上、すみやかに対策を講じなければならない。そこで山側に新たにトンネルを掘ることにした。それは、次のうちどれか。

①国道二二九号「大森トンネル」
②国道二三一号「太島内トンネル」
③国道三三六号「宝浜トンネル
④国道二七入号「銚子トンネル」

Answer

①国道二二九号「大森トンネル」

 平成十六年九月、本道を襲った台風によって、幹線国道の「橋が落ちた!。有史以来落橋は何度かあるが〈波の力〉によってということは前例がない」。
 この神恵内村大森地区の「大森橋(橋長四二九・〇m)」の落橋は、世界的にも極めて珍しいことであったとされる。それで応急に仮橋を架けて交通を確保した。
 そして橋の代替えとして、検討の結果、平成十七年に別線トンネル工事に着手、同十九年に「新大森トンネル」が供用開始となった。
 この新大森トンネルは山側に、以前からある約一㎞のものを、さらに一・五㎞伸長するものである。新トンネルの延長は全体で二、五二三mのものであって、二十四時間態勢で工事を進めることにした。通常のように準備万端で工事をスタートするものではなく、ぐちゃぐちゃに破壊されたヤードの整地することから始まり、そして発注者と施工者の高度な技術力と、地域住民の理解と協力があって、驚くべき速さで供用を開始することができた。何しろ「一日でも早く!、安全なルートの供用を!」ということが要求された工事であった。
 新トンネルの建設は、既設トンネルの分岐部からの施工やら、また近接トンネルへの影響などの諸問題もあり、さらには高波にも悩まされながらの施工であった。
 しかしながら発注者と施工者との一致協力で、早期に供用の開始をすることができたのであった。

Question 45

 このトンネルは、岩石の滑落事故で通行中のトラック運転手ら三人が死亡、修学旅行生五人が重軽傷を負ったことから、急遽当初計画を見直して、既存トンネルに新規トンネルを接続したものである。それは次のうちどれか。

①共和町「盤の沢トンネル」
②白老町「虎杖浜トンネル」
③浜益村「千代志別トンネル」
④上川町「銀河トンネル」

Answer

④上川町「銀河トンネル」

 この銀河トンネルは、昭和六十三年六月、上川町層雲峡で「天城岩」からの岩石による滑落事故があリ、通行中のトラック運転手ら三人が死亡、修学旅行中の高校生ら五人が重軽傷を負ったことから急遽、当初計画を見直して建設されたものである。この崩落事故により長期間にわたり、国道三九号は通行止めとなった。以降落石除去のため、夜を徹しての復旧作業が行われ、同年十二月に通行止めは解除となる。この事故をきっかけに、平成元年から「銀河トンネル」の建設が進められてきた。平成七年十月、一部の工事を除き、暫定開通となる。このトンネルは、延長三、三八八mであって、完成時には道内道路トンネルの最長のものであった。このトンネルは、既存の小函トンネル(一、一三四m)の一部と、新規トンネル(二、八九五m)とを接続されるものである。
 そもそもこの銀河トンネルは当初、流星橋から天城岩の手前の一・四㎞に計画していたもので、この事故のため計画を変更、既存の小函トンネルに接続するルートに見直したものである。そこで危険区間の早期解消を図るため、トンネル中間部に作業坑を設け、起点坑口と合わせて三方向から掘削を進めてきた。そして平成五年に貫通をみた。トンネルの出入口には、周囲の景観に配慮し、柱状節理の岩壁を模したデザインとされ、また北海道で最新のトンネル防災システムを採用し、四一台のテレピカメラが常時監視するほか、七一基のスプリンクラー通報者の声が車の騒音で消されないボックス型非常電話四〇台などが設置されている。
 なおこの開通で切リ替えられた旧国道部分は、サイクリング道路を兼ねた観光遊歩道として整備され、名所の「銀河の滝」や「流星の滝」、「天城岩」など勇壮な景観を眺めることができ、大雪山系でも有数の景勝地として観光客の人気を集めている。

Question 46

 「陸の孤島」から脱出したばかりのこの国道区間が、トンネルの巻出し部分に崖崩れが生じて崩壊、土砂がトンネル内を埋め、交通がストップした。そして丸二年ぶりで復旧工事が完了したというトンネがある。それは次のうちどれか。

①浜益村「雄冬岬トンネル」
②増毛町「湯泊トンネル」
③積丹町「草内トンネル」
④小平町「小平トンネル」

Answer

①浜益村「雄冬岬トンネル」

 昭和五十六年十二月、国道二三一号の浜益村雄冬の国道で、雄冬岬トンネルの入口巻き出し部分が、崖崩れによって延長七三mにわたって崩壊、土砂がトンネル内を埋め、交通がストップした。このトンネルは全長は八七八m、幅員七・〇mで、昭和五十二年に着工、完成まで四年の歳月を必要としたものであった。この事故で十一月に「陸の孤島」から脱出したばかりのこの雄冬地区は、わずか四十日にして再び孤立してしまった。この雄冬側トンネル口は落石よけとしてコンクリートの巻き出しトンネル(覆道)一〇三mが山ぎわから突出しており、崩落したのはこの部分である。コンクリートは厚さ一~一・二m、鉄筋を二重に巻き、緩衝材として厚さ二~二・五mの土を乗せている。巻き出し沿いに高さ一五〇m以上の崖が切り立っており、この崖がこのところの暖気続きで水を吸って緩み、大規模に剥離して落下、トンネルを押し潰したものとされる。幸いに不明者や車両の事故はなかった。
 管理者は落石の多いことなどから冬期間通行をストップしているが「でも、できたてのトンネルが落石で潰れるなんて」といわれていた。今回崩落した岩石量は、推定約二四万㎥ともされていた。また、長さ三四〇mの工事用迂回路を設け、雄冬地区住民に限って通行を許可した。
 昭和五十八年十二月、復旧工事が完成、丸二年ぶりで開通した。当初は復旧を七ヶ月とみていたが、大きくズレ込み二ヶ年もかかる難工事となった。前半の一年は崖の途中にある崩れやすい土砂石に発破をかけて落し、法面にコンクリートを吹き付け金網張りで補強、崖上部にヘリポートを建設、大型ヘリで工事資材を運びあげたりもした。総工費二一億二千七百万円という一ヶ所の災害復旧工事では最大級のものであった。

Question 47

 この路線は平成九年に全通し、両地区が峠を貫くトンネルによって結ばれた。この峠を越えるトンネルの完成時に「とんねるフェスティバル」が行われ、行事として騎馬による通り初めが、また地元中学生らの自転車が往復するという行事が行われた。それは次のうちどれか。

①張碓峠「張碓トンネル」
②野塚峠「野塚トンネル」
③三国峠「三国トンネル」
④礼文華峠「礼文華トンネル」

Answer

②野塚峠「野塚トンネル」

 平成九年九月、国道二三六号の愛称「天馬街道」が全通を迎えた。この日、野塚トンネル浦河側入口近くの翠明公園で開発庁長官、開発局長をはじめ、工事関係者、自治体関係者ら一六〇人が出席し、約一世紀に及ぶ地域住民の願いがここに実現したことを喜び、開通式が盛大に行われた。
 修祓式では関係者が玉串を奉奠し、開通後の交通安全や、沿道地域の振興と発展を祈念する。そして開建部長の「全線開通を宣言いたします」と高らかな発声があり、浦河・広尾両町長ら七人の手によって紅白のテープにハサミが入れられ、出席者一同が記念のアーチをくぐりパレードに入った。
 この路線の不通区間、日高山脈を越える一二・二㎞について、鋭意工事が進められ、野塚岳を貫く「野塚トンネル(四、二三二m)が、昭和五十四年から十八年の歳月を要してここに完成する。これによって、国道三三六号(黄金道路)を経由するより距離で三〇㎞、時間にして約五〇分が短縮となった。これの開通を契機に浦河町はじめ、日高山脈を挾む両地域がますますの発展が期特される。
 九月二十三日「とんねるフェスティバル」のメイーン行事として、サラブレッドなど馬四〇頭余による通り初めが行われた。これには浦河側から三二騎、十勝側から一二騎が参加する。浦河側がブリティッシュスタイル、十勝側がウエスタンスタイルであって、正午に帯広側入口を出発し、高らかにひづめの音を響かせながら速脚でトンネルを三〇分で駆け抜けた。また広尾町豊似中学校の生徒四四人と教職員十二人が参加して野塚トンネルを抜けて日高側入口までの片道五㎞のコースを自転車で往復するサイクリングを実施した。この愛称「天馬街道」は「日高のサラブレッドと十勝のドサンコが出合い、ともに空高く舞う」というイメージとされる。

Question 48

 このトンネルは、現道災害危険箇所の解消を図るため、別線ルートの対策として、既存トンネルの活線分岐伸長を行ったもので、既設トンネルは工事中に覆道で事故があったことから急遽通行を許可したというものである。それは次のうちどれか。

①国道三七号「静狩トンネル」
②国道二二一九号「鵜の岩トンネル」
③国道二三一号「千代志別トンネル」
④国道三三六号「宇遠別トンネル」

Answer

④国道三三六号「宇遠別トンネル」(現・えりも黄金トンネル)

 現在のトンネル名は「えりも黄金トンネル」というが、既設のトンネル名は「宇遠別トンネル(三、二一五m)」であって、平成十二年に着工、同十六年一月に貫通したものである。同十六年の一月に、工事中のこのトンネル海側現道部に位置する宇遠別第一覆道で、斜面の大崩落により、八・二㎞区間が通行不能になった。覆道の復旧不能であり、そこで応急対策として工事中のこのトンネルを活用することとした。当時トンネル内は内壁の二次覆工などの工事中であったが、暫定供用に伴う工事の制約を考慮しつつ、早期完成に向けて二十四時間体制での工事を決定した。
 同年四月からの一般通行止めから二ヶ月ぶりに「先導車付き片側交互交通(夜間は通行止め)という暫定供用を開始」、その後「速度規制により先導車を中止」し「全日片側交通」として平成十七年二月に完成して供用を行った。平成二十三年二月、道内の道路トンネルとしては全道一長いという延長四、九四一mという「えりも黄金トンネル」が誕生した。現道災害危険筒所の解消を図るため、別線ルート対策として、既存の宇遠別トンネルの分岐延伸を行ったもので、伸長部分の新設の第二宇遠別トンネルは、約一、九二七mであって完成後は、この二つのトンネルが一体となることから名称を「えりも黄金トンネル」としたものである。これは既存の宇遠別トンネルにつなぐ形で、平成十八年、から延長工事を実施していたものであった。工期短縮のためえりも側、広尾側の両方から行い、えりも側は常時一般車両の通行を確保しながら既設トンネル内を分岐する活線分岐工事となった。
 なにしろ宇遠別第一覆道で、斜面の大崩落により、八・二㎞区間が通行不能になり、工事中のこのトンネル内を緊急車両や地域住民に限定して通行させたという経緯のあるトンネルであった。

▲余記 新佐呂間トンネル

 この工事は、平成十三年十月、ルクシ峠に近い北陽地区で大規模な岩盤崩落が発生し、走行中の乗用車が巻き込まれ、二名が犠牲となった。この事故がきっかけで、防災対策事業の中核となる「新佐呂間トンネル」の工事が、平成十六年から始まった。この防災事業は、この付近の同じような地質構造をもつ落石・岩盤崩壊危険箇所の回避、事前通行の解消による安全で確実な交通の確保、多数の隘路を有するルクシ峠の回避を目的にした、延長五・七㎞の防災事業のトンネル工事である。
 工事が着手され、順調に進んだ平成十八年十一月七日のこと、この佐呂間町若佐で、突然竜巻が発生し、新トンネル工事事務所のプレハブ事務所兼宿舎や、住宅一〇棟が倒壊、工事関係者九人が死亡、一般住民を含む三一人が重軽傷を負うという国内最悪の竜巻被害となった。この竜巻はF三に該当し、最大風速九二mに達したものである。
 これによって工事にかかわる資料、書類が全て散逸するという、再起不能と思われるような被害が生じ、工事は一時中断となったが、十二月八日に三一日ぶりで再開された。工事関係者らは、工事事務所跡地の献花台に花を手向けて犠牲者の冥福を祈った。翌平成十九年九月、貫通式と犠牲者の慰霊祭が行われた。この未曾有の災害に働き盛りの最愛の人を奪われた妻子や親、仲間ら関係者三六〇人が参列し、貫通の報告と鎮魂の祈りを捧げた。
 このトンネルは防災事業であることから、早期供用を図るとともに、延長四、一一一mの長大トンネルであるため構内作業環境の悪化を防ぎ、作業の安全を確保することが重要であった。また周辺地域は豊かな自然環境を活かした農牧場やサロマ湖等の漁業を主とする地域であり、環境保全への配慮も必要とされた。このため施工にあたっては、あらゆる新技術を採用し、作業の安全確保と環境の保全に取り組んで工事を進めた。
 平成二十一年三月十四日、地域住民やこれまで工事に携わったすべての関係者が、待ちに待った新佐呂間トンネルの開通式を迎えた。
 網走開建の北見道路事務所では「工事こそ終わりましたが、今後もこの道路を維持管理していく立場として、北陽岩盤崩落の犠牲者二名を含む十一名の尊い命を胸に、これらも安全・確実な道路を皆さんに利用していただけるよう、努力を重ねたいと考えています」と語る。道路脇にある慰霊碑には常に花が供えられ、毎年発生した十一月七日には慰霊祭が開催されている。

駅逓所関係

Question 49

 雨竜郡沼田町の国道二七五号に面して「本願寺駅逓所」の建物がある。この駅逓所は旅館、人馬継立と郵便物の取り扱いを兼ねていたことから、地域住民にとって重要な役割を果たしていたものである。次のうち誤りはどれか。

①現存する駅逓所で旧態をとどめた数少ない遺構の一つ
②東本願寺門跡・大谷光瑩が建築
③民間の建物を利用した二階建ての駅逓所
④昭和四十六年北海道指定有形文化財に指定

Answer

②東本願寺門跡・大谷光が建築

 空知管内沼田町の本格的な開拓は、明治中期の本願寺農場の設立に始まる。その中心となった本願寺駅逓所は、明治三十三年五月に、空知太や旭川方面から、留萌に抜ける道路の駅逓所として、官許されたのが始まりとされる。駅逓の名は、この市街地の通称に由来するものである。この本願寺農場は、東本願寺門跡・大谷光瑩の名義と出資を求めて、富山県人沼田喜三郎が明治二十七年に創設した農場であった。したがって市街地や農場の名称も「本願寺」と呼ばれていた。それで「本願寺駅逓」と名付けられたものという。この駅逓所は民間の建物を駅逓所に利用したことから二階建てとなっていて、駅逓所としては珍しいものとされている。この駅逓所には官馬や牧場も与えられていた。建物は木造二階建てであって、切妻屋根、亜鉛鉄板ふきで、一階平面は通り庭の左側に台所、右側に帳場、板の間、座敷、二階には座敷が配置されている。建築面積は階下が一七〇・七㎡、階上が七二・七㎡の計二四三・四㎡の規模となっている。北海道に現存する駅逓所としては、良く旧態をとどめた数少ない遺構の一つとして、貴重な存在とされている。
 裏日本型建築様式のこの建物は、昭和四十三年沼田町第一号の文化財に指定され、また同四十六年三月五日には、北海道指定有形文化財の指定を受けた。
 この駅逓所は、時には旅の浪曲師や手品使い、または娘虚無僧などはこの駅逓の一間を借りてにわか寄席とし、興行を行ったこともあるという。泊まりのなじみの客は気軽に駅逓の茶の間で、貧乏徳利をかかえて三平汁を肴に、一杯傾けていたりもした。こうして駅逓の一室では、さまざまの人生模様が織りなされ、開拓情緒を深めていくのであった。開拓期の建物としては、規模も大きく、造りも重厚である。なおこの駅逓所は、大正五年八月三十一日付けをもって廃止となっている。

Question 50

 島松駅逓所は北広島市と恵庭市との境界の島松に建っている。駅逓所の建物としては、その構造、設備を後世に良く伝えるものとして、北海道最古のものとされ、昭和五十九年、国の指定史跡となるが、次のうち誤りはどれか。

①当時としては珍しい二階建て
②明治天皇行幸時の行在所
③そもそも中山久蔵の建物
④「Boys Be Ambitious !」の名言碑が建立

Answer

①当時としては珍しい二階建て

 昭和四十二年(一九六七)北海道は、所有者の中山久次に駅逓所の保存を申し出た。その結果、昭和四十三年三月二十九日に北海道指定史跡となった。島松駅逓所は明治六年(一八七三)に、函館と札幌間の「札幌本道」が開通した時、同年十二月七日に島松村に設置されたもので、山田文右衛門が取扱人として命じられた。この時はまだ正式な駅逓所ではなく、人馬継立所として設けられたもので「公私共ニ遞送方取扱」となつた。
 明治十年(一八七六)四月十六日、任期を終えて北海道を去ることになったクラーク博士が、この駅逓に立ち寄り一服する。見送ってきた佐藤昌介らに対して、未練を断ち切るようにクラーク博士は、「Boys Be Ambitious !」の名言を残して馬にムチをあてて、室蘭から船で母国アメリカに帰った。
 駅逓の建物はトタンふきになった外は、昔そのままの建物となっている。この建物は木造平屋であって三四〇㎡のものである。明治十四年、明治天皇は北海道をご視察された帰途、この島松駅逓所でご休憩なされることになった。そこで持主の中山久蔵はこのことを大変光栄に思い、従来の建物南側に十畳二室と上手便所等を行在所のため増築し、中手座敷の背面側も改造した。明治十四年三月に改築に着手し、行幸までに完成させたものであった。この建物は昭和八年の文部省告示によって、史跡として指定されたことがあったが、終戦とともに指定が解除されていた。
 平成二年(一九九〇)十月に、七年がかりの修復工事が完了、昭和四十三年に建物全体が駅逓所跡として北海道の史跡に指定、建物内部には、人々が腰を下ろして旅の疲れを癒した長い縁側や、炉を囲んで体を暖めあった板敷の間などがあり、多くの移住者や開拓使の髙官らが往来した雰囲気が残されている。この駅逓所の建物は、北海道開拓時代の先人の労苦を今に伝える貴重な史跡である。

Question 51

 この「ソーケシュオマベツ駅逓所」の建物は、所有者からの寄贈を受けて、野外博物館としての北海道開拓の村に移転復元されたものである。次のうち誤りはどれか。

①各部屋に畳が敷いてあった
②全道的に貴重な歴史的遺産として移設
③この建物は国指定重要文化財
④地域振興に寄与した功績は、極めて大きい

Answer

③この建物は国指定重要文化財

 ソーケシュオマベツとは、喜茂別町双葉の古い呼び名であり、喜茂別市街地から東へ十三㎞ほど入った所である。この駅逓所は、明治四十二年十一月より業務が開始されている。駅逓所の位置は喜茂別と徳舜瞥のほぼ中間あたりに設けられたものであって、初代の取扱人が水沼菊三郎であった。大正二年四月に水沼の死亡によって長家国太郎が二代目の取扱人となっている。この駅逓所は昭和九年五月三十一日に廃止となった。開設当時の駅舎は三九・○八九坪、便所三・五坪、敷地一〇一八・九坪、畑地が二九、三〇三坪、牧場一〇六、三六五坪であった。玄関の右手に切手や葉書の入った棚が置かれた取扱人室、台所と帳場、左手に使用人室と三つの客室がある。当時は各部屋に畳が敷かれていた。このころの駅逓所で畳が敷かれていたのはこの駅逓所だけといわれ、豪華なものであったという。
 駅逓所はどこでもそうであったが、様々な職業の者が宿泊している。用事を足しにきて吹雪に合い、家に帰れなくなった人が何日も泊まったり、行商人や旅芸人、馬喰なども泊まった。なかでも長かった宿泊者は、富山の薬売りであった。冬の間に部落の各家々を廻り、四十日も滞在したということもあったという。駅逓所の利用者の多くはこの商売人であった。やがて交通機関が発達してくると、民間の手で旅館としての商売が成り立つようになり、駅逓所はその役目を終えることになる。ソーケシュオマベツ駅逓所も昭和九年(一九三四)には廃止となった。
 この駅逓所の建物は、所有者からの寄贈を受けて、野外博物館としての北海道開拓の村に移転復元された。この建物は木造平屋、切り妻屋根マサふき、一二九・四五㎡のものである。建築様式は上げ下げ窓、破風飾に洋式建築が採り入れられている。

Question 52

 上川地方で最古の木造建築物であることから、旭川市によって保護されている「第一美英舎」という駅逓所がある。次のうち誤りはどれか。

①人煙絶無之ニ往來スル者ハ露宿ノ覺悟ヲナスための解消
②上川地方最古の木造建築物
③昭和四十一年一月旭川市指定有形文化財に指定
④当時としては珍しい二階建て

Answer

④当時としては珍しい二階建て

 明治二十二年、市来知(三笠)~忠別太(旭川)間の延長約九〇㎞の「上川道路」が開通すると、この道路建設に従事した高畑利宜は、それまでの北海道庁の役人を辞して、忠別太、音江法華、空知太、奈井江、岩見沢の五箇所に駅逓の設置を願い出た。その理由は、岩見沢から旭川までの馬車道が完成し、人馬ともに年々通行者が多くなってきている。しかしこの区間には「人煙絶無之ニ往來スル者ハ露宿ノ覺悟ヲナスニ外ナラス」の状態である。岩見沢にきて馬を用意するには「種々奔走非常ノ高賃金ヲ投ジテ漸ク之ヲ得ル」実情で、しかも「二十四里間往復トモ馬ノ繼替ヘヲナス事能ハザレバ疲勞極メ、終ニ倒ルガ如キ惨状ハ往々目撃」され「夫レガ爲人ハ其日進行ノ目的ヲ遂ゲズニ實ニ其不便言語ニ堪ヘス」。今回空知太と忠別太に駅を設け、奈井江、音江法華に小休所を置き便宜に供したい。これは決して私利私欲でも名誉のためではないと申請する。許可されると、忠別太の駅逓所を「第一美英舎」と呼び以下順に音江法華を「第二美英舎」というように呼んだ。
 国道十二号の旭川大橋のたもとに「旧上川郡農作試験所忠別太第一美英舎」の建物が建っている。そもそもは明治十九年に北海道庁農作試験所として建てられたものであって、その後、樺戸監獄署出張所事務所、そして上川第二測候所として使用されていたものであった。この建物は木造平屋建てであり、延べ床面積が四一・五坪(一三七㎡)、上川地方で最古の木造建築物であることから、昭和四十一年一月十五日に旭川市指定有形文化財として保護されている。駅逓所の廃止の後には、住宅として使用され、今日では三戸分の平面形となって現存しているものである。
 当時の建物はマサふきの屋根であって、大きな下屋が付いていたが、現在はトタン葺きとなっている。外観は下見板壁の水平線と、押縁の垂直線が交差し、内部はかなり改造され、額縁付きに引き分け窓の形式や、ドアを使った部屋などがあり、洋風建築が道内に浸透していたことがうかがえる。

Question 53

 札幌市南区簾舞地区に、旧黒岩家住宅であった「簾舞通行屋」の建物がある。これについて誤りは次のうちどれか。

①この建物は札幌市指定有形文化財に指定
②明治十七年には廃止
③通行屋と駅逓所は全く別な性格
④簾舞郷土資料館として地区資料の展示公開

Answer

③通行屋と駅逓所は全く別な性格

 この通行屋の建物は木造平家建 切妻屋根 小舞野地柾葺下地の上にカラーステンレス一文字葺のものであり、指定は昭和五十九年三月で、家屋および土地が黒岩家から札幌市に寄付され、昭和五十九、六十年度に全解体調査、復元工事が行われたものである。この建物は、明治四年札幌から定山渓を経て有珠に通ずる通称「本願寺街道」の開通にともなって、ミソマップ(簾舞)に旅行者開拓者が宿泊、休憩する駅逓所の性格を持つ「通行屋」として、翌明治五年一月、棟数一、坪数二四・五坪で建てられた。創建時の建物は、現在の建物の左半分のものであって、内部は旧玄関の土間につづき板敷きの炉付き広間があり、中廊下を隔てて四つの部屋で構成されている宿泊機能を持った間取り(一〇二・五㎡)となっている。この洋風小屋組の使用は、北海道における早い時期のものとして注目されている。また、使用されている部材も長大なものが多く、九m余の梁や十五㎝の柱などが随所にみられる。建物の右半分は、現在地に移築された後に増築(九九・一㎡)されたものである。この部分は開拓農家の機能を考慮して玄関、居間、台所、土間、馬小屋、納屋からなっているものである。当初はかなりの利用客があったが、明治六年「札幌本道」が完成するとこの「本願寺街道」を通行する者が少なくなり、明治十七年には廃止となってしまった。明治二十年ごろに新道の開通に伴って現在地に移され増築、ほぼ現在の形になった。その後は民営の宿舎となる。明治の後期から大正期にかけては、月寒歩兵二十五連隊の休憩所や、豊平町役場吏員と小学校教員の常宿となり、さらには簾舞発電所建設の宿舎などにも使われた歴史を持つ。しかし定山渓鉄道が大正七年に開通すると、長年にわたる宿屋としての役目を終えて廃業となる。黒岩家は三代にわたってここを住居とし、一時期は宿屋、御料局札幌出張所簾舞分担区員駐在所、私設教育所(簾舞小学校の前身)などにも利用された。

▲余記 駅逓所

 そもそも蝦夷地と呼ばれていた明治維新前の北海道には、会所、運上屋と称していた駅逓所があり、各場所請負人がこの業務を担っていた。
 その後、明治五年に「驛遞場」という名に改められ、開拓使の直轄下に置くとともに、取扱人が置かれた。官馬が貸与され、農業に従事できる付属地も貸与されていた。明治二十一年に「人馬繼營業規則」が定められ、同二十八年に「驛遞補助金支給規程」や「官設驛遞所取扱規程」が定められた。
 明治三十三年に「驛遞所規程」を改正する。同年度末には道内に百六十九個所(千島の四十一個所を含む)駅逓所があった。
 北海道庁では「本道の如き廣濶道路不備にして旅行の困難で危險の所に在りては、之が施設は國費を以てし、驛舎を建設し必要なる官馬並びに土地を貸與し及び取扱人に手當を支給し旅客の増加するに從ひてその額を遞下し、多少の利益を見るに至りて之を廢止するものとし、驛遞所廢止に至るまで忠實に職務に盡くせる取扱人に對しては無償にて該家屋及土地物件を付與することとなせり」とした。
 大正十二年における駅逓の数は、全道において二百五十個所があり、馬匹の数も官馬が九〇七頭、私馬が一、一二五頭の合計二、〇三二頭となっていた。
 入植者たちにとって、郵便物、生活物資の輸送、旅宿などにあたった駅逓所が、開拓使時代から明治時代の後半にかけて果たした役割は大きなものがあった。道路が開削されてくると要所要所にこの駅逓所が設けられていった。どんな地域にあっても、移住者にとって開拓されていく村落の形成上、駅逓所はその中核的役割を果たしてきたのであった。
 遠い故郷から家族とともに、家財道具を背負って密林の中の道路を辿り、開拓地へ向かう移住者にとっては、この駅逓所こそ励ましの大きい「道標」であった。駅逓所は病気、出産、故郷からの便り、相談ごとなど、すベてがここを中心として行われてきた。
 駅逓所は「心のオアシス」であった。

測量関係

Question 54

 明治七年(一八七四)開拓使は正確な北海道地図を作成するために三角測量を開始した。その時の基点として北緯四二度三七分二四秒、東経一四一度四五分の地点を西点として、東に直線で計る標石を埋設し、その上に立って測量を開始した地点は次のうちのどこか。

①室蘭市測量山
②札幌市手稲山
③苫小牧市勇払
④当別町アソイワ山

Answer

③苫小牧市勇払

 苫小牧市勇払の勇払中学校北東隣地に、高さ九〇㎝、一辺一七m四方の盛り土があり、その中央に勇払基点を示す銅棹(指標)の付いた石柱が埋設されている。三〇・〇㎝四方の花崗岩製のものであって、明治七年(一八七四)開拓便が正確な北海道地図を作成するため三角測量を開始した時の基点跡である。開拓使は明治六年三月に、開拓使雇米人ジェームス・アール・ワッソンを測量長に任命した。翌七年四月に勇払と鵡川の間に基線を画し、その両端の基点に標石を建立して測量を開始した。しかしワッソンは陸軍省に転出となる。そこで米人モルレー・エス・デーが代わって測量することになった。勇払の北、北緯四二度三七分二四秒、東経一四一度四五分の地点を基点として、東へ直線で三里二八町一三間〇八七三二四(約一四、八六〇m)を精測し、その上に立って測量を進めた。シアビラ岳(一六四m、早来)、モンベツ岳(八六六m、千歳)に標識が設けられ、馬追山頂(二〇二m、長沼)にも三角点が設けられた。
 明治八年開拓使民事局に測量課が置かれ、二七人のメンバーが三角、天文、沿岸、基線の各測量一〇隊に分かれて行った。測量隊の一行は車もなく測量器具を馬で運び、舟で川を渡り、熊に襲われたりの難事業であったという。三角測量の結果で生まれた地図は正確なものであった。
 陸軍省が基線測量を開始したのは、明治十七年であるから、それよりも北海道は一〇年も早かったのであった。文明開花が一番遅れていた北海道も、こと測量に関しては全国のパイオニアであったのである。この勇払基点が発見されたのは、昭和三十七年(一九六二)六月のことである。しかし鵡川の基点標は未だに発見されていない。勇払基点は、北海道における最初の測量基点跡として、北海道史上ならびにわが国測量史上貴重な史跡として、昭和四十二年(一九六七)三月十七日北海道指定史跡「開拓使三角測量勇払基点」として保存されている。

Question 55

 北海道の測地測量を実施するために、三角点が各地に設けられた。明治三十三年に設置された「三角点のくり返し測量から、地殻の動きを見つけるなどに使用されている大切な測量標です」と案内板に記されている「三角測量札幌基点南端点」は、次のうちどこか。

①札幌市中島公園
②札幌市手稲稲穂公園
③札幌市北十一条
④札幌市真駒内公園

Answer

③札幌市北十一条

札幌市北十一条東一丁目の国道五号石狩街道沿いに、明治三十三年(一九〇〇)に設置されたという「三角測量札幌基点南端点」という標石がある。この標柱は昭和三十八年の舗装工事で堀り返えされたままになっていた。そこで国土地理院では貴重な基点標であることから復元したものであって案内板が建てられている。

札幌基点南端点 等級・一等三角点 名称・札幌南端 この三角点は、北海道の測地測量を実施する際「長さ」の基準としてつくられた札幌基点の南端点として、明治三十三年に設置されたものであり、一等三角測量によって、日本経緯度原点(東京都港区)と結ばれています。この三角点と札幌基線の北端までの距離(四、五三九・七七〇三メートル)は、ヒルガード式基線尺(アメリカ製)によって精密に測量され、北海道の地図(五万分の一地形図等)をつくることのほか、三角点のくり返し測量から、地殻の動きを見つけるなどに使用されている大切な測量標です。

国土地理院

なお「札幌北端(標高七・六一m)」は創成川下水処理場内にある。

また、道内の東西南北の一等三角点は、最東が野塚舞(根室市)四七・七五m、最西が大島(松前町)七三二・四一m、最南が小島(松前町)二八二・〇六m、最北が宗谷山(稚内市)一七二・〇九mとなっている。

Question 56

 洋式測量がわが国で体系的に取り入れられたのは、本道が最初である。三角測量は、いくつもの三角形を作って測定するが、道南地方の渡島検基線西側標石が、平成十六年に国内の本格的三角測量の先駆けとなったとして「北海道文化財」に指定されたのは、次のうちどこの地点のものか。

①森町駒ケ岳
②大野町市の渡
③函館市若松町
④七飯町藤城

Answer

②大野町市の渡

 昭和四十二年(一九六七)北海道の道南で唯一の測量記念物として、函館市郊外の大野町市の渡の畑中から、ポツンと建っている石標がみつかった。この石標は渡島検基線の西側石標である「函館検基線西側標右」であることが確認された。
 デーは、函館補助基線を亀田村と一本木(大野町)の間に定めて標石を設置したものである。この標石は稲荷神社の背後の畑の中に残っているものであり、六〇㎝立方の土台石の下に、さらに基石を埋めてある。それには施工者の船匠の続豊治の名前が刻まれている。デーは、勇払に基点を設けてからの二年間に、四四個所の三角点を設置している。
 この渡島基線標石は未指定であったが、そこで平成十六年九月に北海道教育委員会が、開拓使時代の「三角測量標石」としてこの大野町一本木神社裏のこの標柱を、国内の本格的三角測量の先駆けとなったとして、北海道文化財保護審議会の答申を受けて指定することにした。東側の標石は函館市田家町の大稱寺の境内で発見されている。この大稱寺のものは、昭和四十三年に発見されたもので「この標石は、墓石になったらしく」ということであったが、同四十五年に北海道開拓記念館に移された。
 この補助基線は「北海道三角測量 明治八年箱館近傍ニ設ケラレタル助基線ノ位置ヲ示セル圖 尺度眞形四萬分ノ一」というのが残されている。
 明治八年に函館補助基線として標石を設置して測量を開始したが、翌九年にデーが解任され、この測量事業は中断となる。

Question 57

 明治五年、北海道開拓使は、函館と札幌を結ぶ「札幌本道」の開削を決定、その時に地形を一望できるとして、この山に登り測量を始めたともされる本道南部一帯の地形測量の基点とされた記念すべき場所がある。その地点は次のどこか。

①南茅部町「川汲峠」
②七飯町「駒ケ岳」
③苫小牧市「樽前山」
④室蘭市「測量山」

Answer

④室蘭市「測量山」

 室蘭市を一望できる測量山の頂上に「測量山」と記された高橋昭五郎の制作になる碑が建立されている。碑の正面には海抜二〇〇・五米、この山頂は明治五年一八七二年北海道開拓使の顧問ケプロンH・CAPRONの部下、ワッソンC・R・WASSONによって本道南部一帯の地形測量の基点とされた記念すべき場所である。先住民族はこの山をホシケサンベツと呼び、海上からの目標としていたので、明治初年の和人は見当山と称したこともあるが、その後北海道開拓上の歴史的意義を後世に伝えるため、測量山と命名したものである。と刻まれている。山頂からは室蘭市の全域が眺められ、三六〇度の眺望は室蘭八景の一つともなっている。碑の側面には、徳中祐満元道議会議長の死去に際し遺族からの寄贈があったので、故人の遺徳をしのびその功績をたたえるため、ここを公園化整備して、この碑を建立したことなどが記されている。明治五年開拓使は、函館から森、それから海を渡って室蘭へ、そして札幌に至る「札幌本道」の道路建設を始めた。この時、測量長としてワッソンが任命され、地形を一望できるホシケサンベツに上り測量を始めたのであって、その記念の地である。現在はこの測量山にNHKなど各社のテレビ塔が建てられ、昭和六十三年からライトアップもされたりして、室蘭市再生にかける希望の光をともしている。展望台からは工業都市室蘭を実感する工場群と、断崖絶壁が連なる自然の風景が一度に楽しめるとあって、観光客や市民がこの山にやってくる。北海道の開拓史上に歴史的な意義をもつ山でありそれを記念する碑でもある。

Question 58

 北海道がまだ蝦夷地と呼ばれたころ、日本で最初の実測によって箱館から西別まで徒歩で測量し、大絵図二十一枚、小絵図一枚を幕府に献上、さらに全国を測量して、わが国で最初の実測に基づく「大日本沿海輿地図」というのを作成した人物とは、次のうちの誰か。

①間宮林蔵
②伊能忠敬
③松浦武四郎
④近藤重蔵

Answer

②伊能忠敬

 伊能忠敬(一七四五~一八一入)は、測量家・地理学者としてあまりにも有名な人物である。そして忠敬の最大の功績は、実測による日本最初の地図を作成したことにある。忠敬が蝦夷地の測量を目指して旅立ったのは、寛政十二年(一八〇〇)である。「測量爲 試験 蝦夷地江被 差遣 候」との辞令を受けて忠敬は蝦夷地へと旅立った。時に忠敬は五十五歳である。忠敬は三尺八寸の象限儀、二尺五寸の新製方位盤、振子時計、新製杖先羅針、間竿、間縄、普通羅針、望遠鏡などを携えて、蝦夷地へと向かった。五月十九日に蝦夷地吉岡に上陸、歩測しながら同二十二日に箱館に到着となる。ここで測量の手続きに手間どり七泊を余儀なくされた。五月二十八日に箱館を出発した一行は、六月八日に長万部に到着、同月十六日に室蘭へ、二十一日に苫小牧、門別、浦河を経て襟裳に七月二日、猿留に同月四日、七日に出発して音別、釧路、厚岸に七月二十九日に到着となる。そして最終地の西別には八月七日に到着し、同月九日に往路と同じ道を測りながら帰途についた。
 箱館には九月十一日に到着、同月十八日に松前を出航し、江戸帰着が十月二十一日であった。この間往復は三千二百二十五㎞を百八十日かけて歩き(内蝦夷地は百十八日)通した。箱館から測量を始めた初日は、間縄を用いて距離を測定したが、非常に手間がかかることから、その後は歩数で測ることにした。歩測の場合は正確さが必要である。忠敬の歩測は六九・○㎝であったという。歩数で距離を測り、杖先羅針などで方向や山の方位を概測し、一日三二㎞から四八㎞を進み、天測器で恒星の法中高度を測り、その地の緯度を算定した。忠敬はこれによって子午線一度の長さを二十八里七町十二間(一一〇・七四九㎞)と測定した。夜になると星を観測することによって緯度を算出、それによってデーターを修正している。忠敬の顕彰碑は函館山と、豊浦町高岡地区の噴火湾展望公園に「伊能忠敬記念碑」が建立されている。

Question 59

 全国の一等三角点の四分の一を選定した「明治の選点測量官」が、樽前山に三角点を埋設、これが彼の活躍を示す無言の証拠であり、その足跡は三角点「点の記」として国土地理院に永久保存されているという人物は、次のうちの誰か。

①今井八九郎
②阿曽沼次郎
③福士成豊
④館 潔彦

Answer

④館 潔彦

 樽前山の東ピーク(標高一〇二四m)に、古びた一等三角点標石が埋められている。これは明治二十九年(一八九六)十一月十六日、館潔彦によって選定され「以第二八号 樽前岳」という名称がつけられているものである。館潔彦は「参謀本部陸地測量部三角科選点掛」を職名とする測量官であって、一等三角点の位置を決めるのが仕事であった。
 館は嘉永二年(一八四九)三重県桑名の生まれで、当時四十七歳であった。明治初年に私塾「苟新館」で数学を学び、明治五年に工部省に入る。以来、内務省、陸軍と所属が変わりながら、一貫して測量に携わってきた「文官技術者」であった。
 館は明治二十九年六月、函館山をまず選定した。ついで古部岳、大千軒岳、砂原岳(駒ヶ岳)、狩場山など十一の山を経て樽前山にやってきた。この年、二十八番目だったから、樽前山の三角点は館を示す符号の「以」をあてて「以第二八号」とされている。館は「以二七号の室蘭山」(測量山)を選定した後この樽前山にやってきた。明治二十九年ごろの北海道の交通は、鉄道が小樽―岩見沢―室蘭と岩見沢から空知地方の炭鉱に通じているくらいで、山から山への移動は自分の足が頼りであった。もちろん登山道などもあろう筈がなく、困難の連続であった。当時陸地測量部は全国を三角測量によって正確に測量しようとしていた。一等三角点は高山に設けられることが多く、館は全国各地にその足跡を残していて「すごい」の一語に尽きるといわれている。彼は明治二十四年に四十二歳で選定掛になって以来、同三十四年までの十一年間に二六〇以上を選定している。これは全国の一等三角点の四分の一をこえ、北海道内では二二四の点のうち七三点が館によるものという。

Question 60

 明治の初期において、外国人から測量・機械・測候・博物学等を学び、技術者として測量・気象観測の上で指導的役割を果たし、函館地方の沿岸測量や各地の測量にも従事、勇払基線の測量や渡島地区の副基線などの測量にも従事、詳細な地図作成に尽くしているが、それは次のうち誰か。

①阿曽沼次郎
②新井郁之助
③福士成豊
④今井八九郎

Answer

③福士成豊

 福士成豊は、天保九年(一八三八)に箱館の船大工・続豊治の五男として生まれ、天保一三年(一八四二)に同地の回船業福士長松の養嗣子となる。実父の豊治について造船技術を学び、イギリス人ポーター経営の商会に入って英語を修得するとともに、イギリス人・ブラキストンと交際して測量・機械・測候・博物学を学んだ。箱館奉行の御船大工棟梁見習、箱館府の外国方運上所出役通弁兼器械製造掛趨事席、二等訳官を経て開拓使の官吏となり、明治五年(一八七二)には自宅に気候測量所を設けて、日本人としては初めて本格的な気象観測を始めた。その後、函館地方の沿岸測量を行い、さらにアメリカ人技術者ワッソン、デーらの指導のもとに実施された三角測量に従事した。その後も北海道の測量・気象観測事業の上で指導的投割を果たし、北海道庁時代初期にはイギリス人メークとともに函館港湾調査に従事する。
 開拓使は、外国人技師ジェームス・ワッソンを測量長に任命し、より正確な地図を作成する〈三角測量〉の事業に乗り出した。福士は明治七年(一八七四)、待望の基線測量用具が函館に陸揚げされると勇払基線の測定作業に加わり、これを成功に導く大きな力となる。翌年二月に札幌本庁の測量課に勤務となる。明治九年(一八七六)外国人技師が帰国すると彼は事業を引継ぎ、函館にもう一つ設置されていた基線(副基線)を測量し、日本人だけでこれを成し遂げた。開拓使は各地の計測を統括するため地理課に気象掛を新設、福士に測候事業を担当させた。明治一一年(一八七八)四月からホイラーを継いで札幌測候所長となり、北海道の気象観測に大きく貢献した。その後、詳細な地図作成に尽くし北海道庁時代には土木課に勤務、最後も函館の仕事だった。港の建設計画について、明治二十一年(一八八八)から技師メークを補佐して調査し、明治二十四年(一八九一)に官職を辞した。札幌に居をかまえて悠々自適の後半生、大正一一年(一九二二)、八五歳の長寿を全うした。

▲余記 測量の日

 平成元年六月三日、この日が「測量の日」と制定された。これは「一人でも多くの人に地図に親しんでいただき、測量の重要性について理解していただきたい。そんな願いをこめて」制定したものであった。
 北海道測量設計業協会では、この日を測量の日と制定して以来「経緯度標モニュメント」を各地に寄贈して設置してきた。これには設置場所の緯度・経度のほか、標高と方角などが刻まれている。
 旭川市で平成二年に市役所横に設置、つずいて、二基目のモニュメントが中央図書館前に平成七年に設置され「測量について、広く市民に関心と理解をもってもらえれば」というものであった。また函館市においても、平成二年の市役所前に設置、同七年に大野町に設置された。この大野町に設置されたのは、昭和四十二年に同町の一本木で、近代測量発祥の記念物「三角測量標石」が発見されたこともあり、同町に贈呈されたものである。
 平成六年に設置された小樽市・国道三九三号の毛無山峠展望台の標石に刻まれている緯度は、四三度九分八秒・一二六七九、経度は一四一度〇分五一秒・四六六五〇、標高が四六七・五六九mとある。
 また測量設計業協会では、測量の意義やその重要性について各種の行事、活動をおこなってきている。その中には「伊能忠敬大図フロアー展」など、約二〇〇年前の日本列島が再現されたりして大好評を得ている。また各地では測量の体験学習、当時の測量機器などの展示、講演会なども開かれ、伊能忠敬、松浦武四郎ら北海道の地図作成にまつわる話題なども紹介された。

道の愛称関係

Question 61

 平成三年九月、国道二七四号の開通を記念して、路線の愛称を「石勝樹海ロード」と決定した。次のうち正しいのはどれか。

①工事担当建設部が協議して決定
②全国応募作の中から選考委員会で選定
③関係町村が協議して決定
④地域住民の声から決定

Answer

②全国応募作の中から選考委員会で選定

 平成三年九月、道央と道東を結ぶ大動脈の国道二七四号が未開通であった穂別町福山と日高町日高間が完成し、盛大な開通式が行われた。今回の開通区間には四つのトンネルと十一の橋を架け、総事業費六百十億円を投入し、難工事を乗り越えて開通となったものである。鳩山北海道開発政務次官らの手によってテープが切られ、道警のパトカーを先導に走り初めをした。
 悲願の二十五年間、関係市町村が陳情に陳情を重ね、待ちに待った今回の開通であったことで、苦闘の歴史、難工事の連続によりこの開通は涙が出るほど感激ですという声が聞かれたものである。
 この開通に先立ち、全線開通する国道二七四号の愛称を広く公募したところ、全国各地から寄せられた四、五〇六点の応募作の中から、選考委員会で札幌の会社員佐藤敏行の作品の「石勝樹海ロード」を選定し決定したものである。
 これは石狩と十勝を結び、緑豊かな森林を走る同国道を「石勝」と「樹海」で表現しており、ロマンがあり、北海道を感じさせるニックネームであると高い評価を受けたものであった。道路管理者の開発局では、この愛称を標識や道路情報提供装置、地図などでも表示して広く普及させているものである。
 喜びの祝賀会の席上、ニックネームの名付け親である佐藤敏行に対し、表彰状と記念品が整備促進期成会長から手渡されたのであった。開通を記念して路側駐車帯に「石勝樹海ロード」と刻まれた開通記念碑が建立された。碑文には日勝道路建設の歴史を記述したものが刻まれ、また「愛称を広く公募し、雄大で緑豊かな森林につつまれた新しいみち〈石勝樹海ロード〉と命名されました。今後〈石勝樹海ロード〉が、北海道ひいては我が国の経済・社会の発展に大きく貢献する道路として、国民・道民の皆さんに末永く親しまれていくことを期待いたします」とある。

Question 62

 工事に着手して以来、二十年余の歳月をかけ、峠越えの難工事を克服し完成した「四季彩街道」と名付けられた胆振圏と後志圏とを最短距離で結ぶ道路があり、観光などに大きな役割を果たす道という道路があるが、それは次のうちどれか。

①道道「豊浦ニセコ線」
②道道「穂別鵡川線」
③道道「室薗環状線」
④道道「白老大滝線」

Answer

④道道「白老大滝線」

 胆振圏と後志圏を最短距離で結ぶ広域交流道路の主要道道白老大滝線が、平成十年六月に、着手以来二十年余の歳月をかけて、このほど支笏洞爺国立公園の豊かな自然を見せる「四季彩街道」と名付けられて開通となった。
 この道路は白老町森野から大滝村三階滝までの約六㎞の山を切り開く工事であって、延長三三〇mの森野トンネルなどの作工物が、全体の三割以上を占めるものである。昭和五十三年着工以来、百七億円の事業費を投入し、平成九年度に完成、雪融け後の供用開始を待っていたものである。
 これで同線は一部に未舗装を残すものではあるが、白老町と大滝村を結ぶ延長三三・五㎞の全線が開通したのであった。これによって同線から国道に連絡できることで、白老町の太平洋から岩内町の日本海まで二つの海を最短距離で結ぼれたのであった。
 この開通式は白老町・大滝村・後志圏八町村で構成する白老大滝線建設促進広域期成会が主催したもので、工事関係者や北海道知事も参加してのものであった。室蘭土現事業部長の工事報告の後、知事から「様々な可能性が生まれ、観光などに大きな役割を果たす道」というお祝いの言葉が述べられた。
 なにしろこの道路は、明治以来の地域住民の悲願がここに達成され、先人の努力がここに実ったものであり美しい曲線を描く橋の上からの眺めは壮観であるとされる。
 式典に出席した一同は、今後はこの巨費を投じ、土木技術の粋を集めて建設されたこの道路を、北海道の「生きた道」として役立つように努力することを誓ったものであった。

Question 63

 北海道の気候や風景を生かした美しい庭園が並び、個別に運営はなされているが、地域の振興を目指す自治体の協力も得て、全国の花好きやガーデニング愛好家や観光客も急増している「北海道ガーデン街道」というのがある。それは次のうちどれか。

①「南恵庭町内付近道路」
②「喜茂別―留寿都―大滝道路」
③「旭川―富良野―十勝道路」
④「ニセコー蘭越―岩内道路」

Answer

③「旭川―富良野―十勝道路」

 「北海道ガーデン街道」とは、北海道の気候や風景を生かした七つの庭園が集中する旭川―富良野―十勝を結ぶ全長二〇〇㎞の街道のことである。もともと個別で運営され、それぞれに人気を博していた庭園が声を掛け合い、連携することでより魅力を高めようと、平成二十二年から「街道」として活躍を始めたものである。地域振興を目指す自治体の協力を得て、庭園巡りをする観光客も急増している。この街道は、美しく個性的な七庭園が集り、道内はもちろんのこと、全国の花好きや、ガーデニング愛好家が訪れる観光ルートとなっている。
 その庭園には、①旭川市「上野ファーム」がある。どこを切り取っても絵になる美しさ〈全国のガーデニング愛好家の庭園〉として評判が高い。多様な草花を自然に生えているかのように、伸び伸びと植え、風景を楽しむ英国風の庭園とされる。②富良野市にあり、花々が際だつ庭。ドラマの世界がここにと、評判の庭園がこの「風のガーデン」である。秋の遅い時期まで花が楽しめる。③清水町にある〈これぞ十勝〉のダイナミックな景観。森の散歩もできる広大な庭が「十勝千年の森」である。④帯広市にある「真鍋庭園」は、世界中から集められた多くのコレクション、多彩な色と形の樹々が別世界の風景を形作っている。⑤幕別町の「十勝ヒルズ」は、日高山脈や十勝平野を見渡す眺望が自慢である。⑥帯広市の「紫竹ガーデン」は、敷地いっぱいに咲き誇る二五〇〇種類の花々、一人の女性の思いをその形にした夢のお花畑とされる。⑦中札内村の〈六花亭〉が作る〈十勝の花〉の咲く庭、なつかしいふるさとの風景がひろがる「六花の森」がある。
 これらのうち、十勝地方自慢の庭園は、道東自動車道の開通によって、最近は入場者数が急増している。

Question 64

 これまで冬期間通行止めとなっていた道路が、通年通行できるようになり、平成十二年に開通式が行われた「ゆらぎ街道」というのがあり、訪れる人がリラックスして過ごしていただけるような、というのがあるが、それは次のどこか。

①国道二二九号「神威岬道路」
②国道二七四号「日勝峠道路」
③道道洞爺湖登別線「オロフレ峠道路」
④道道小樽定山渓線「朝里温泉峠間道路」

Answer

④道道小樽定山渓線「朝里温泉峠間道路」

 これまで冬期間交通止めとなっていた道道小樽定山渓線が、平成十二年に約一五〇億円をかけて通年通行ができる改良工事が完成し、開通式が行われた。この日、朝里川温泉街を道警音楽隊と町民がパレードするなどして、にぎやかな祭ムードにつつまれた。
 この朝里川温泉と札幌国際スキー場を結ぶ一二・五㎞は、急カーブと急勾配が続き、積雪期の十一月から四月までの間、閉鎖となっていた。これを解消すべく、朝里峠付近の三・二㎞を十二年間トンネルや橋梁による新ルートに切りかえたのである。そして延長の約六割に及ぶ構造物は「自然と調和した四季の道」を実現させるため、さまざまな工法を使用して完成させたものであった。
 この開通を記念して朝里地区のまちづくり団体が、市民公募で同区間を「ゆらぎ街道」と愛称をつけた。この「ゆらぎ」とは「規則性」と「意外性」がちょうど、いい具合に調和している状態のことで、朝里川温泉街は特に「ゆらぎの里」ともされ、訪れる人がリラックスして過ごしていただけるような、そんな「ゆらぎ」あふれる心地よい地域を目指しているともされ、それで名付けられたものという。
 これによって、札幌市から小樽市にかけて数多いレジャースポットを有する観光周遊ルートが、冬期間も通れるようになった。新しい峠を通るルートになってからは、かつての峠の頂上からの「後志狩勝」と呼ばれた眺望の感激は多少失われたが、車で峠越えが楽になったことはいうまでもない。
この道路の沿線は、あたりの風景が変化に富み、特に秋の紅葉の時期は「綺麗の一語に尽きる」との評判が高く、各地から訪れる人が多い。また春から初夏にかけてば、山菜の宝庫として人気が高いことから、この時期には山莱を採る目的の車が列をなし、また所々には川に下りられる場所もあり、釣り糸を垂れる人、弁当を広げる家族連れで賑わう。

Question 65

 ダムの建設により道路が水没することから付替え道路が完成し「○○レークライン」という愛称がつけられたのは、次のどこか。

①国道三九号「大雪ダム道路」
②国道三八号「野花南ダム道路」
③国道二七三号「糠平ダム道路」
④道道小樽定山渓線「定山渓ダム道路」

Answer

④道道小樽定山渓線「定山渓ダム道路」(『定山渓レークライン』)

 道道小樽定山渓線のうち、札幌市区域の国際スキー場より定山渓温泉までの区間のうち、定山渓ダムの建設により、現道六・五㎞が水没することから、補償工事として九・〇㎞の付替え道路が、昭和六十三年に完成した。このダムの建設にあたり、道道京極定山渓線の定山渓九〇四番地を起点に、白井川を渡り、小天狗岳の麓をトンネルで通過、ダム右側部に到達、堤頂を通って左岸に至り、ダム湖沿いに小天狗岳、天狗岳などの自然景観を湖面に浮かべながら公有林二三四四班で現道と交わり終点となる。
 この地域は全体が国有林であり、ダムサイト付近は国立公園であることから、自然環境の保全に最大の配慮をしたルートとなっている。この結果、橋梁が一二橋、トンネルが六坑など、構造物が工事延長の約六割を占め、工事着手以来一一年の歳月と一七〇億円余の事業費を投入して完成したものである。
 開通式は定山渓ダム付替道路の開通を祝う会主催によりダムサイトで行われ、ダムのシンボルマーク・ネーミングの表彰があってテープカットされて通り初めが行われた。この付替区間は、定山渓という固有の場に通じるイメージと、湖水景観が魅力となることから『定山渓レークライン』と決定した。シンボルマークは山々に囲まれた定山渓ダムをモチーフにしたものである。
 地元では、この道路を観光資源として利用することを考え、定山渓観光の活性化に役立つものとして期待している。紅葉の時期にはこの付近一帯、車で埋ってしまい、このダムと橋梁群によって、自然は見事に人工美に姿を変えてしまった。この人工美の景色を堪能するかのように、連日湖畔の駐車場や展望台は賑わいをみせる。

Question 66

 第二次世界大戦後のわが国土木技術のなかで、この道路建設の快挙は、日本全国に「北海道の土木技術」の名を高めたものといわれ、通称「弾丸道路」と呼ばれるもので、日米行政協定に基づく安全保障諸費という軍事色の濃い特別な財源で建設されたものであった。この道路は次のうちどれか。

①国道五号「札幌―小樽間道路」
②国道十二号「美唄―砂川間道路」
③国道四〇号「稚内海岸道路」
④国道三六号「札幌―千歳間道路」

Answer

④国道三六号「札幌―千歳間道路」

 昭和二十八年に完成したこの道路は、一般に「弾丸道路」と呼ばれている国道三六号の札幌・千歳間道路で、第二次世界大戦後のわが国の土木技術のなかで、この道路建設の快挙は、日本全国に「北海道の土木技術」の名を高めたものであった。この道路は日米行政協定に基づく安全保障諸費という軍事色の濃い特別な財源で建設されたものであった。
 そして下命からわずか一年余という短期間で、延長三四・五㎞の舗装道路を完成させたものであって、この工事には道内外の精鋭一八社が参加し、開発局の直営機械班も参加して、その持てる機械力を総動員して官民の協力で昼夜兼行で工事を進めた。スピード施工を可能とするためアスファルト舗装を採用した勇断、このほか多くの斬新的工法を採用するなど、日本道路史上に新たなる一ページを書き加える快挙となったものである。なにしろ「道路工事史に輝く金字塔を打ち立てた」ものであった。
 長い間砂利道に慣れていた自動車の運転手たちは、この道路にくると路面が良いのでたちまち七〇㎞ないし八〇㎞という時速で走ってしまう。砂利道の感覚でしかも無謀運転で毎日のように大きな事故を引き起こすので、報道関係者が「弾丸道路」とか「魔の弾丸道路」と悪名高いものにしてしまった。なにしろこの道路は日米行政協定に基づく安全保障諸費という特別な財源で建設され、千歳空港と沿線に点在するアメリカ進駐軍の各基地、施設への連絡道路として建設されたことなどから、誰が見ても軍事色の濃厚な色彩で迎えられたことは事実であった。また当時としては高規格の道路構造であったこともあり、報道関係者などが「弾丸道路」と皮肉って命名したものとされる。したがって多くの人は軍事道路の印象を深くしていった。
 「戦前、戦後を通じて、この道路を武器弾薬を積んだ軍用トラックが往来していたことは紛れもない事実であり、むしろ弾丸道路の名前はこうした時代にこそふさわしい呼び名であった」(山内正明)。

Question 67

 庶野から広尾へ抜ける道は、八年の歳月と、約百万円近くの巨額の費用が投じられたことから「黄金道路」と一般に呼ばれているが、次うち正しいものはどれか。

①現在の国道三三六号の一部
②第二次大戦の後に開通
③工事はすべて直営施工
④完成時は「十勝道路」と呼称

Answer

①現在の国道三三六号の一部

 一般に国道三三六号のえりも町から広尾町まで約三〇㎞の区間を「黄金道路」と呼ぶ。この区間の道路は「黄金道路」という名前で観光客を淡いロマンに誘い、断崖、絶壁がそそり立つ景観で魅了する。この区間は古くから道南と道央と結ぶ陸路の最大難所ともされていた。
 「工事着手以来、八ヶ年の歳月を閲し、約百万円近くの工費と十数名の尊い犠牲者を出して竣工を遂げた日勝黄金道路の開通式は三日猿留小学校において盛大に挙行」と当時の新聞は報じていた。
 この「黄金道路」という名について、帯広土木事務所長は「先般来各地方の新聞に黄金道路と名付けられているが、これは道路の全通によって国益を増進するという意味か、はた又莫大の工費を投じたゆえか、いずれにせよ皆様の判断にお任せするとして、今後は『日勝道路』としていただきたい」としていた。
 一般には「工事着工の当初一尺の工事に十円を要したこと、或いは産業開発上、通行上うける利益が極めて多大であることから名付けられた」ともされる。いずれにしても巨費と長い年月からその名がついたというのが定説である。
さて全線完成より前の昭和五年に、音調津まで工事が完成したとき、すでに黄金道路と呼ばれていたという。作家の原田康子は「断崖の下の海岸をうねうね襟裳岬に達し、さらに広尾にいたる二級国道は、黄金道路というすこぶる現実的な名で呼ばれている」とする。
 昭和九年十月に完成すると「道路全通記念碑」が猿留川左岸に建立され、歴史を今に伝えている。またこの黄金道路に関係する開通記念碑・慰霊碑等は、ルベシベツ山道碑を含めると、八基を数える。

Question 68

 約一世紀にも及ぶ地域住民の悲願がここに実現し、喜びの開通式が行われ、道内外からの応募によって「天馬街道」と愛称が付けられた道がある。できるだけ地山に直接手を加えないという方針で建設されたこの道は、次のうちどれか。

①国道三八号「狩勝峠越え道路」
②国道二三六号「野塚峠越え道路」
③国道二三七号「日高峠越え道路」
④国道二七四号「日勝峠越え道路」

Answer

②国道二三六号「野塚峠越え道路」

 平成九年(一九九七)九月二十五日、国道二三六号の愛称「天馬街道」が開通を迎えた。この日、野塚トンネルの浦河側入口近くの翠明公園で約一世紀に及ぶ地域住民の願いがここに実現したことを喜び、開通式が盛大に行われた。この道路は、昭和四十五年(一九七〇)に開発道道浦河大樹線として指定され、同五十七年に国道二三六号に昇格したものである。この道路の不通区間である日高山脈を越える一二・二㎞について、鋭意工事が進められた結果、野塚岳を貫く道内最長の野塚トンネル(四二三二m)が、昭和五十四年から十八年の歳月を費やして完成する。ここに難工事を見事克服して、今回の開通となったものである。この区間には三個所のトンネルのほか、中小規模を含めると二〇個所以上にのぼる橋梁などの構造物による施工が不通区間の約六割を占め、また日高山脈襟裳国定公園内を通過するので、自然環境に特に配慮し、できる限り地山に直接手を加えないという方針で建設されたものである。昭和四十五年から工事に着手し、実に二七年の歳月と事業費約五百五十億円を投じての開通であった。この国道二三六号は、十勝と日高だけでなく、道央圏と道東圏をより安全に、豊かに、そしてより経済的に結ぶ道路として、大きな期待を担っているものである。
 地域にとっても「明治からの悲願達成」が、ここに「天馬街道」として完成したのであって、数々の難工事と苦難を克服して完成させたすばらしい「道」である。鮮やかな曲線を描く橋梁などの構造は、あたりの日高山脈の山々の景観にマッチしていて、美しい姿をみせてくれる橋として評判のものとなっている。この道路の愛称が「天馬街道」と、開通を前にした八月二十七日に、道内外からの応募三、四〇〇通余の中から決まった。「日高のサラブレッドと十勝のドサンコが出合い、ともに空高く舞う」というイメージとされている。

Question 69

 国道の沿線にカエデの木(メープル)が多く、紅葉時期には世界的に有名なカナダの「メープル街道」を彷彿させる黄金色の景色が楽しめるということで「メープル街道」という愛称の道は、次のどこか。

①国道三八号「南富良野町」
②国道二三〇号「定山渓・中山新道」
③国道二七五号「音威子府村」
④国道三九三号「赤井川村」

Answer

④国道三九三号「赤井川村」

 平成二十年九月、小樽市と後志管内赤井川村、倶知安町を結ぶ国道三九三号(約五八・三㎞)=愛称・メープル街道を紅葉狩りの新名所として売り出そうと、平成二十一年十月十一日、この三市町村の観光協会が紅葉フェスティバルを開催した。
 この国道三九三号の沿線には、カエデの木(メープル)が多く、紅葉時期には世界的に有名なカナダの「メープル街道」を彷彿させる黄金色の美しい景色が楽しめるということで「メープル街道」という愛称を付けたものである。
 フェスティバルは、赤井川村明治のホテル「ドローム」に会場を設け、小樽の魚介類、赤井川の豚肉、倶知安の野菜などを使った「393街道鍋」やメープルシロップがかかったパンケーキなど各一〇〇円で販売、地元特産品コーナーやジャズステージもあった。
 国道三九三号は、札幌から倶知安へ向かう際、中山峠経由に比べて渋滞も少ないため、利用も高まっている。沿線には毛無山展望台(小樽)、小川原脩記念美術館(倶知安)などの観光名所ある。三市町村の観光協会でつくるメープル街道393委員会では「多くの人にきてもらうだけでなく、三市町村の親交もより深めて後志全体もPRしたい」としていた。
 全線の開通までには着工から二二年の歳月と、約三百億円をかけての建設であった。平成四年に道道から国道三九三号に昇格、小樽開建では始点と終点が後志管内で完結する路線であるが、①観光交流の拡大、②緊急輸送道路の代替路線の形成―を利点に挙げている。地元では、札幌、小樽から赤井川を抜け、ニセコに至る周遊や、国道五号迂回ルートとしての活用に期待をかけ「メープル街道を紅葉狩リなどで売り込め」としている路線である。

Question 70

 地域間を連絡する道路を造成するため、約二・六㎞の道路工事が行われた。開削費用の工面が如何ともし難く、軍に懇請して完成した。この時に毎日連隊将兵に対して間食としてアンパンを五個配給してその労をねぎらったことから「アンパン道路」呼ばれる道路があるが、次のうちどれか。

①旭川市平和通り
②札幌市豊平区月寒地区
③羽幌町焼尻島地区
④浜頓別町神威岬山道

Answer

②札幌市豊平区月寒地区

 明治四十三年(一九一〇)、豊平町の一部が札幌区に併合されることにより、役場を平岸街道入口から月寒に移転することになった。しかし当時平岸から直接月寒に通ずる道がなく、平岸村の豊平町からの分離独立運動がおきたりもした。それを沈静させるために、平岸―月寒連絡道路の建設を図った。用地は関係地主からの寄付でまかなうことが出来たが、町はこの道路の開削費用が如何ともし難く、そこで二五連隊の連隊長に新道開削を懇請し、同四十四年、延長二・六㎞の道路が軍民一致協力して見事に完成した。
 この工事には将兵約延べ七、五〇〇人が出動となり、毎日間食として月寒アンパン五個を配給してその労をねぎらった。それでいつしか「アンパン道路」と呼ばれるようになったという。
 このアンパンはイースト菌などは使用せず、皮は薄く、中のあんがたっぷりで、直径がなんと八センチもあった。大正十年頃には一個一銭であった。現在は明治三十九年、軍の御用商人として開業していた本間製菓だけが、その伝統を守りつづけている。
 二五連隊の歴史は、明治二十九年(一八九六)独立歩兵大隊が月寒におかれたときにはじまる。最初平岸に兵営を建設する予定であったが、価格の面で折合いがつかず、月寒に変更となる。そして昭和二十年八月に敗戦となると、連隊旗を奉焼して五十年の歴史を閉じたのであった。
 「アンパン道路」と記された記念碑があり、それには「明治四十四年旧歩兵二五連隊兵士の労力提供と地元の奉仕により完成 昭和六十二年十二月」とある。

▲余記 国道の予算上のニックネーム

 国道にはすべて路線番号が付けられ、一般国道〇〇号と呼ばれている。そして北海道の国道には特別にニックネームがつけられている。それは「各路線を開建別に合理的な区間に区切り、区間そのものを予算要求上の個所として認めてもらうことにより、同一区間内での予算の流用が自由になる」ということからであった。これ,は「画期的な予算要求の変革」であった。すなわち「道路事業執行上に必要にして必須の条件のもとに生まれたもの」とされている。
 たとえば国道五号は、函館・小樽・札幌の三開建が所管しているので、函館管内を「大沼国道」と呼び、小樽管内が「羊蹄国道」、札幌管内が「手稲国道」である。四つの国道に管理が分かれている国道三八号は、札幌管内が「芦別国道」、旭川管内が「狩勝国道」、帯広管内が「十勝国道」そして釧路管内が「釧路国道」となっている。
 国道二四〇号の釧路側は「まりも国道」であって、「阿寒湖といえばマリモ、マリモといえば阿寒湖であり非常に親しみやすい名前」といわれている。一般的には「名は体を現すという諺に従い、ニックネームを聞けば、すぐに何処の道路かが解るように」ということで旧国名や都市名が多い。
 「胆振国道」とか「日高国道」、「旭川国道」、「千歳国道」など数多い。また変わったものでは国道二三六号の帯広側は「ナウマン国道」であり、二四三号の釧路側は「パイロット国道」である。
 一般的には小樽―札幌間の国道五号は、昭和九年に開通した時から「札樽国道」であり、開通記念碑にもそのように記されている。また古くから呼ばれているものに国道二三一号の札幌側は「石狩街道」であり、国道二三〇号などは「本願寺街道」である。最近では、前述のように「日高のサラブレッドと、十勝のドサンコが出合い、ともに空高く舞う」というイメージから「天馬街道」というのがある。「積丹国道」や「黄金道路」、「糠平国道」など、記念碑に刻まれたものも多い。

▲余記 そのほかの愛称

 日本海に浮かぶ羽幌町の焼尻島に「工兵街道」いうのがある。昭和初期に道路開削に活躍した旭川第七師団工兵隊の偉業を記念にして「工兵街道記念碑」が建立されている。
 その碑文に「焼尻島東浜と西浦を結ぶ道路を〈工兵街道〉と命名 このたび島民の熱意により記念碑を建立して末永く関係者のご苦労を称えることになりました。顧りみるとき昭和九年焼尻島に派兵された旭川工兵第七大隊第三中隊長柴崎保三将校十三名隊員百十三名の一箇小隊の手により東浜西浦を結ぶ道路造成に着手機械力のとぼしい時代に隊員が一致協力して岩石の崖地を爆破するなど困難な作業を遂行延長百メートル幅員五メートルの道路の完工をみたものであります。又鷹の巣に至る難所とされていた道路を施行しており現在の道道焼尻島線の基盤となったものであります。…以上の功績は当時の島内の交通の利便を著しく増大しかつまた港の利用を容易にし漁業生産の向上と島民の福祉増進に寄与いたしましたことは誠に多大であります。ここに記念碑建立にあたって、工兵隊のみなさんに心から敬意を表するものであります」とある。

 この道路のほかに、第二次大戦後に、自衛隊の手によって、旭川の富沢地区に、第二施設大隊第一中隊の手による道路が開削され、その功績を讃えてこれを記念する「富沢街道」と刻まれた碑が建立されている。

 また十勝平野の雄大な眺めが一望できる十勝川温泉の十勝ガ丘公園展望台に「清明雄大一望千里」と刻まれた完成記念碑が建立されている。この道路も自衛隊の手になるものであって「十勝ガ丘道路」全長二、一八〇m、幅員六・五mのものである。

植樹・樹木関係

Question 71

 国道二三四号の栗山町地区に通称「泣く木」と呼ばれていた伝脱の古木があった。しかしある日、突然伐木されてしまい、現在の木は「二代目泣く木」となった。多くの伝説・話題の伝えられているこの木について、次のうち誤りはどれか。

①道路工事に当たり酷使された囚人の墓標説
②道路の拡幅工事に支障となるためこれが伐木された
③迷信に恐れるとは笑止千万としてある日突然伐木された
④この古木のためこの個所は魔のカーブとして交通事故の多発地区であった

Answer

②道路の拡幅工事に支障となるためこれが伐木された

 この木には、多くの伝説があったために伐木されず、道路が大きく曲げられていた。切り倒されてから昭和五十九年に、跡地に「二代目泣く木」として植えられ、記念碑が建立されている。
 ①明治二十二年に空知集治監の囚人によってこの地に道路が開削された際、満足な食事も与えられず酷使されていった彼らの遺体を、このニレの大木の周辺に墓穴を堀って埋めたという。またすぐ横の鉄道のトンネル工事で死んだタコの霊魂がこの木に宿っているともいわれている。
 ②昭和七年の道路改修時に、この木が邪魔になり切り倒そうとしたが、ノコを入れると木がしのび泣くような音がして、それを聞いた人たちが眠りこけ、無理に作業を実行すると怪我人が出たことから伐木すること断念したため、それ以来伐木できなかった。
 ③「迷信に恐れをなすとは笑止千万」とばかり、この地に出稼ぎにきていた若者が、昭和四十五年八月、根元からバッサリと切り倒してしまった。この若者は仲間と酒を飲んでいたとき「この木を切ろうとすると、その人に崇りがあるなんて、そんなバカな…」といい、チェンソー持出し僅か二分で切り倒してしまった。奇妙なことにその直後、彼の親戚、縁者に不幸が襲い彼はほうほうの態で姿を消したとか…。
 ④この魔のカーブは、交通事故の多発地帯として恐れられ、見通しの悪いこともあったことから事故が多く、ある時にバイクの男が死亡したその三周忌に、乗用車が魅入られたように近くの電柱に衝突、助手席の人が死んだ。これは呪の木が死霊を呼んだのだという噂が流れる。この木が倒されてからも、ヒーっという悲鳴が切り株から発したともいう。しかし木が倒されてからカーブが改良され、現在は安全なルートとなっている。

Question 72

 道庁正門前通り(申央区北三条)のグリーンベルトに、夏の緑、秋の紅葉は東洋的な扇形の葉とあいまってとても素晴らしい見事な公孫樹、すなわち銀杏並木があり、大きな緑のアーチを造っているが、この銀杏についての話題のなかで、次のうち誤りはどれか。

①道内に適当なものがなく、東京荒川の堤防用に育成されたものを譲り受けた
②札幌で初めての舖装(木塊舗装)が施工された時に植えられた
③一本一本樹齢を後に伝えるために測定して確かめた
④樹種の銀杏には特にこだわらなかった

Answer

④樹種の銀杏には特にこだわらなかった

道庁正門前通りに植えられている公孫樹(銀杏)並木は、東京荒川の堤防用に育成されていたものを、北海道庁勅任技師であった名井九介が、是非ともということで東京事務所にかけあって特別に譲り受けたものであった。

この通りの北側のグリーンベルトの中に、

大正十三年十月鋪装 翌十四年四月樹齢十九年の公孫樹三十二本ヲ栽植シ 街燈六基ヲ建設ス

北海道廳

と刻まれた銘盤が設置されている。

これにあるように、大正十三年(一九二四)に、延長一一七・二七mのこの通りを、札幌で初めて鋪装した際、銀杏を三二本植えたものである。当時樹齢を一本づつ成長錐を使って確かめ、それを東京から持ってきたものであった。
 名井は、この道路を鋪装する際、この道路の両側に是非とも「銀杏の木を植える」ことを考えた。そして部下に指示し、自らも樹齢、大きさ、枝形等同型のものを道内各地で探し回ったが、しかし気にに入るものがなく、東京地方で仕立てた樹齢十九年のものを取り寄せることになったものである。
 この公孫樹、すなわち銀杏は、祖父の代に植えた木が、孫の代になるころ、ようやく実を結ぶところに由来される。この銀杏は生きている化石といわれ、約一億五千年前、地球上で全盛を誇っていたが、氷河期にほとんど絶滅し、当時やや温暖であった中国だけに生き延びたものとされる。

黄ばみたる背高き銀杏の並木路 尽くる処に道庁ありき   ―竹村恵美

Question 73

 札幌の駅前通りは、札幌の顔である。したがってこの通りの整備に当たっては、中央分離帯に植える樹種が大きな話題となった。多くの議論の末、決定したのは次のどれか。

①札幌の木「ライラック」
②郷土の木「ハルニレ」
③歴史を語る木「アカシア」
④北海道の木「エゾ松」

Answer

②郷土の木「ハルニレ」

 樹種をどうするかが大きな問題となっていた。北海道の木は、道民の投票により男性的な風格をもつ「エゾ松」である。そして札幌市の木はリラとも呼ばれる「ライラック」である。多くの議論があって次のように決定したのである。
 中央帯に植えられたハルニレは「ニレの街・札幌」といわれてきたように、札幌のシンボルの木である。ただ適度の湿り気のある肥沃なしかも日当たりの良い土地を好み、乾き過ぎても低湿地でもうまく育たないなど賛沢な木である。各地を探し回り、千歳の山林にあった樹齢三十年のもので、自然形で人工の手を加えないという条件に一致したことで、これを搬入し植えた。
 歩道の北側部分(道道部)には札幌のシンボルともされるアカシアが決定する。また南側部分(国道部)にはトチノキが植えられた。このトチノキの採用について駅前商店街事務局では、約二年間にわたり北大や林業試験場ばかりでなく、遠く本州へも出張して調べ歩いた。半年間雪に埋もれている北海道の街路樹は、ほとんどがその土地、その気候に合ったものが選ばれている。
 さて調べているうちに、トチノキ(マロニエ)は、街路樹として丈夫ではなく、公害に強くないということがわかった。ということは汚染のバロメータになる、交通量の多いこの駅前通りには恰好な樹種と考えた。しかしこの提案には反対が多かった。
 道路管理者は、すでに緑化懇話会で樹種が決定済であるから難しいと回答する。事務局は緑化懇話会長を訪れて説明する。「なぜトチノキか」ということに対し「公害に弱いため」ということが「面白い発想だ」ということで、懇話会で樹種の変更が認められ、北大演習林から入手することができたものである。

Question 74

 札幌市豊平区の道道環状通の中央分離帯に「リンゴ並木」があり、また遊歩道には「記念碑」が建っている。かつて豊平町内の「平岸リンゴ」は、国内外で知られていたもので、そのリンゴ並木を復活させようとして植えられたものであるが、次の中で誤りはどれか。

①長野県飯田市のリンゴ並木を参考
②かつての平岸名産リンゴ歴史を伝えるため
③この付近のリンゴ樹は都市化の流れによって消えた
④時期には盗難監視員を常駐

Answer

④時期には盗難監視員を常駐

 環状通りに面した月寒公園入口の遊歩道に「りんご並木碑」が建っている。板垣札幌市長の書になる高さ三mほどの日高産石の本碑に並んで、ほぼ同じ大きさの副碑には

札幌の街に赤いリンゴの実る並木通りを豊かな市民の心を信じ長野県飯田市の東中学生が植え育てたリンゴ並木を参考にして昭和四十九年十一月板垣市長がこの地にリンゴの若木八十本を植えられた。以来名産平岸リンゴ作り伝統の技術と多くの区民の奉仕や町の子どもたちの愛情によって今は木の数も九十三本となり年ごとに多くのリンゴが実り道行く人々を楽しませている。この喜びを祝う豊平区民のリンゴ祭りが十周年を迎えこの並木のリンゴが親から子へ子から孫へと実り続くことを願いこれを建てる。                 昭和六十年八月   美園リンゴ会

とある。

 かつて平岸のリンゴといえば、国内はもちろんのこと、海外まで輸出されたものとして知られていた。しかしこの付近にあったリンゴ畑は、都市化の流れによって消えてしまった。そこで豊平の町のリンゴ並木を復活させようとして植えられたものであった。かつて天神山のふもとから平岸街道に沿って、リンゴ畑が一面に広がっていた。やがて平岸地区は急速に住宅地へと変わって行った。この碑の建立はリンゴ祭りが十回目を迎えるのを記念して建立されたもので、この日の除幕式には、飯田市の中学生六人も参加、今後の友達付き合いを誓いあっていた。平成二十二年現在、あかね、レッドゴールドなど一一種類、八八本が地域の人によって美しい並木に維持されている。

Question 75

 日高管内、静内町内の道路に、大正五年から三年間にわたって、近隣の山からエゾヤマザクラが道路の沿道に植えられ、建設省の「日本の道百選」にも選ばれた「二十間道路桜並木」と呼ばれるものがある。次のうち正しいものはどれか。

①北海道遺産として指定
②道道平取静内線沿い
③御料牧場のメインストリートを飾るため
④開拓使が直轄で植樹

Answer

③御料牧場のメインストリートを飾るため

 日高管内静内町市街地から北東へ約七㎞の高台、町道桜並木通線に「二十間道路桜並木」がある。この道路沿いに並ぶ約三〇〇〇本の桜並木は、建設省の「日本の道百選」や、(財)日本さくらの会から「さくら名所百選」にも選定され、また「北海道のまちづくり百選」にも選ばれ、読売新聞創刊百二十年記念の「新・日本街路樹百景」にも、みごと百景入りした並木道である。
 そもそも新冠御料牧場(現・農林水産省新冠牧場)は、明治五年(一八七二)に、北海道開拓使長官・黒田清隆が北海道の産馬改良と増産計画に最適な地として、静内・新冠・沙流の三郡にまたがる七万㏊の牧場を設け、日高の野生馬二、二六二頭を放牧したのに始まる。
 この道路は明治三十六年(一九〇三)に、この牧場を視察する皇族の「行啓道路」として開かれ、その十四年後の大正五年(一九一六)から、三年間にわたって幅二十間(約三六m)、延長八㎞にわたり、近隣の山からエゾヤマザクラの自然木が道路の両側に植えられたものであった。この付近の山野には、もともと山桜が多く自生していて、種類も豊富であったから、御料牧場のメインストリートを飾る樹木として、最適な樹種であった。大正五年にまず五五〇本が植えられ、同九年までに一、六〇〇本が道路の両側に植えられた。種類もミヤマ、シウリ、ウワミズなど多種にのぼっている。
 この「二十間桜並木」が「日本の道百選」に選定されたことを記念して、総工費一千万円をかけて顕彰碑が建てられた。この碑はお登勢の碑とともに、花見客の格好の記念写真の場所ともなっている。この碑石は農屋の炭山沢にある町有林から運んできた日高石(赤石)であり、碑石の横には黒御影石で桜並木の由来が、また記念にプレートが自然石に填め込まれている。

Question 76

 国道五号の七飯町に、開拓使が札幌本道を建設した際に植えられた「赤松並木」があるが、明治六年(一八七三)に、目本で最初の洋式馬車道として箱館~札幌間の「札幌本道」が完成すると、開拓史は同七年から十年にかけて、旧道からこの新道の両側にこの赤松を移植した。次の内誤りはどれか。

①赤松は北海道原産の木
②「日本の名松百選・千本松並木」に選定
③「日本の道百選」に選定
④佐渡から仕入れた種子から育成

Answer

①赤松は北海道原産の木

 函館から札幌に向かう函館市桔梗町から七飯町峠下までの国道五号沿いに、歴史を伝える見事な「赤松並木」がある。延長約一七㎞にわたるもので、樹齢約百三十年、大きなものでは高さが二〇mを超え、幹経も八〇㎝に達するものがある。なかでも七飯町の鳴川付近の約二㎞にわたる緑のトンネルは庄巻である。樹齢百年を超す巨木が枝をなしているからである。
 この並木の誕生の歴史はどうであったのか。このルーツは江戸時代の安政三年(一八五六)ころにさかのぼるとされる。当時の箱館奉行支配組頭であった粟本瀬兵衛が、佐渡から仕入れた種子を七飯の薬園で育てた。文久二年(一八六二)ごろには、この種子は樹高四尺五寸(一・四m)ほどの苗木に育ち約一〇万本にも増えたので、その中から選りすぐって箱館~五稜郭までの道路両側や、亀田、桔梗野、七飯などの官道沿い、また、希望によって払い下げて、周辺に植えたのが始まりとされている。そして奉行は旧道の両側に吉野鉄太郎に命じて移植させた。
 明治六年(一八七三)に、日本で最初の洋式馬車道として箱館~札幌間の「札幌本道」が完成すると、開拓使は同七年から十年にかけて、旧道からこの新道の両側にこの赤松を移植した。
 特に明治九年、明治天皇の七飯勧業試験所(現在の函館営林支局七飯苗畑)への行幸を記念して、翌十年に現在の国道五号沿いに相当数のものが移植されている。さらには昭和十六年(一九四一)に照子内親王が大沼におなりになったのを記念して、補植が行われている。
 赤松の天然林は、青森県下北半島が北限とされ、北海道のものは人口林である。また七飯町では昭和五十年(一九七五)に町木と指定し、開基百年のシンボルとして大切にしている。この松並木は昭和五十八年(一九八三)に「日本の名松百選・千本松並木」に選ばれ、また同六十一年(一九八六)には「日本の道百選」に、この並木が選ばれている。昭和六十一年(一九八六)建設省は「日本の特色のある優れた道路を選定、顕彰することによって、道路の意義・重要性に対する関心と道路愛護の精神を高める」ことを目的とした「日本の道百選」に選ばれたのも当然のことであろう。

Question 77

 国道二三一号の創成川に沿って、素晴らしい「ポプラ並木」がある。かつてこの附近が水田、燕麦、大豆の畑と牧草地帯であって、トラブルを防ぐため住民の手によって、植えられた並木であるが、次のうち間違いはどれか。

①かつて牛や馬が入り込むのを防ぐために植樹
②雌株が多いのが特徴
③国道管理者が維持・管理
④小説や学校の校歌にも登場

Answer

③国道管理者が維持・管理

 国道二三一号創成川の太平地区のポプラ並木も素晴らしい景観を見せてくれている。この地区がまだ学田と呼ばれていた大正の初期、この付近は水田、燕麦、大豆などの畑と牧草地帯であった。
 屯田兵や住民にとって、牛や馬の格好の土地であって、そのため田や畑が牛や馬によって荒らされることが多かった。そこで飼い主とトラブルを起こすことのないようにと、牛や馬が入り込むのを防ぐため、ポプラを植えたものとされる。
 苗木は部落民が寄付し、大正四年(一九一五)に植えられた。これらの木は約二・五㎞も続き、立派な並木となったものである。ここのポプラの大部分は、枝がやや水平に広がって丸みのある雌株が多いのが特徴であるとされる。この並木の維持は、北区篠路太平地区ポプラ保存会が、市の補助を受けて、その保護に当たっている。
 左岸のポプラ並木は、付近がまだ昭和初期に前田農場であったころ、農場関係者が植えたものである。ところが昭和五十三年(一九七八)に創成川改修工事のため、地元民に説明するとともに、市の同意を求めて切り倒されてしまった。半世紀にわたって生き続けてきた大木、一八一本がその姿を消してしまった。街路や学校、公園などにそびえるポプラは、小説や学校の校歌にも歌われ、多くの市民に古里の情景を刻み込んできた。竹ほうきを逆様にした独特のポーズをもつポプラは、札幌市内では数少なくなってきている。この創成川沿いポプラ並木は、川面に渡るそよ風が、梢に心地よく吹き付けている。学田と呼ばれていた大正の初期から、馬鉄の開通、そして多くの車の流れを時代とともに生き抜いてきた。ポプラには北国の風情があり、中国名は「風響樹」という。カッコウが鳴き、ポプラの綿毛が舞うころの北海道は一番伸びやかな季節である。

Question 78

 千歳空港から高速道路を経て札幌入リする人たちを念頭に置いて、札幌のシンボルであるニセアカシアを植えることとし、市南東部の山林に自生するもののから選んで道路の中央分離帯に植樹したというのは、次のうちどこか。

①清田区羊ヶ丘通り
②白石区南郷通り
③厚別区流通センター通り
④豊平区水源地通り

Answer

②白石区南郷通り

 札幌市白石区南郷通りには札幌のシンボルのアカシアが植えられ、素晴らしい街路並木となっている。
 今では、市内でも代表的な、大延長のニセアカシア並木になっている。地下鉄東西線開通後種々検討した結果、中央緑地帯にニセアカシアを植えることに決定し、昭和五十六年から市南東部の山林に自生するものの、目通り径一五センチ内外の大径木を根回しして移植したもので、以前から植えられていた歩道のニセアカシアと一体化して、量感あふれた並木となっており、これらが一斉に開花したら見事なものであろう。また、この中央緑地帯はやはり地下鉄の上を砂で埋め戻し、約一・五メートルの深さに客土しており、地表面に灌水用の配管をしている。ニセアカシアの下にはウツギ類、ツツジ類、モンタナマツなどの低木やギボウシなどの草花も混植し、彩りを添えている。
 この中央帯の並木は高さ一〇m以上もあり、両側の歩道沿いの七m以上もある並木が延々として続く。この並木道は、延長七・四㎞もあろうかとされ「北海道最大のニセアカシアの街路並木」ともされている。なにしろ、千歳空港から高速道路を経て札幌入りする人たちを念頭に置いて、札幌のシンボルであるニセアカシアを植えたものであった。六月ともなると、白い花房を垂れ、あたりに甘い香リを漂わせる。
 このニセアカシアは、北海道でも早くから植えられており、野生化しているのも多い。札幌でも並木づくりの始まった明治十八年ごろすでに中心的な並木樹種とされていて、当時植えられた停車場通りのアカシア並木は、札幌のシンボルとなった。

▲余記 ニセアカシア

 環境省は、日本固有の生態系に影響を及ぼすおそれがあるとして「要注意外来生物」にニセアカシアを指定した。札幌市では、平成二十年三月、このニセアカシアを「歴史的資源のある地域」に限って街路樹などに残すことに決めた。これは、このニセアカシアは北米原産のマメ科の落葉樹であり、石原裕次郎のヒット曲などで歌われ、札幌市を象徴する樹木として親しまれているものである。しかし「なぜ要注意外来生物を残すのか」などの意見もあったが「開拓期に持ちこまれ、北一条通を歌詞にした北原白秋の〈この道〉にも出てくるなど、北海道の歴史に深くかかわっている」としての意見も強く、市では「歴史的資源」と位置付け、地域を限定して残すことにしたものである。
 ニセアカシアから採った「蜂蜜」は、黄金色でさっぱりとした後味が特長という。結晶しにくい品質の良さで、クロバーやシナの二倍近い値がつくともされている。この生態系を損ねるので、環境省の指摘に対し、養蜂業界は異論を唱えた。日本養蜂はちみつ協会は、ニセアカシアには大気や土壌の浄化作用があると強調し「はげ山緑化にも活用され、環境保護に寄与している」と特定外来生物指定に反対の要請運動を全国的に展開している。日本養蜂はちみつ協会では「国内の養蜂業者の四割が廃業に追い込まれる」と試算し、北海道養蜂協会の会員一八五人も「業者が滅びれば、イチゴやメロンなど花粉交配に必要なミツバチも減る。農業生産にとっても打撃で、業界の利害感情で言っているのではない」と訴えていた。なお道内の二〇〇四年養蜂生産量は、約二一五tで、全国一位である。
 なにしろ山肌や河川敷の工事跡地を緑化するために植樹されたのが、持ち前の繁殖力で自分だけドンドン増え、あたり一帯をすっかり多様性が失われた景観にしてしまっている。そんなことから環境省は、ニセアカシアを「要注意外来生物」リストにいれたのであろう。

遺跡・遺産関係

Question 79

 道路改良工事中の現場から、大甕に古銭がビッシリ詰まったものが二個発見された。翌日にもやはり古銭が詰まった第三の甕が発見されたのである。なお散逸した古銭を含むと推定五〇万枚といわれるこの場所は次のうちどこか。

①上磯町茂辺地
②上ノ国町夷王山
③函館市志海苔
④南茅部町川汲

Answer

③函館市志海苔

 発見された場所は、函館市志海苔町二四七の、標高三mの汀線から約四〇mのところで、発見地点から北東へ約一〇〇mの段丘には、コシャマインの乱で知られる志海苔館跡がある。古銭の総量は三七四、四三六枚、銭種が九四種類あり、中国銭では前漢などの貨銭があり、日本のものでは皇朝銭でもっとも古い和銅開珎のほか七種類が含められている。

古銭出土の位置に建てられた表示板には」

函館志海苔古銭発見地

 昭和四十三年の国道改良工事で、大きなカメ三個に入った古銭約五〇万枚が発見された。中世備蓄古銭発見例で全国でもっとも多く、中国の前漢をはじめ安南、西夏、遼、金、高麗など九四種類中日本で最初に鋳造された飛烏時代の和銅開珎など学術的にも貴重な貨幣がある。埋蔵推定年代室町時代前期(一三七〇―一四〇〇年)。

発見者  加藤組 附田勝雄 木村 清 高谷彰男

発見地  函館市志海苔町二四七番地

保管場所 市立函館博物館 函館市青柳町一七番一号

昭和四十八年七月十六日 函館文化会 函館市教育委員会

とある。なぜこのように大量に埋められていたのであろうか。いくつかの推論があるが、真相は謎のままである。六〇〇年前後には、道南に一二の和人館があり、それぞれに小豪族が居住していたとされる。特に小林良景が館主の志海苔館は、当時の貿易センター的な役割を持ち、活況を呈していたとされる。

Question 80

 道路工事中・作業中のブルドーザが偶然にも世界的にも珍しいというナウマン象の化石を発見した。そして緊急発掘が行われ、現在化石の原標本は、北海道開拓記念館に収蔵され、合成樹脂製の全身骨格復元象が一般公開されている。次のうちどこか。

①忠類村晩成
②大樹町尾田
③更別村更別
④豊頃町湧洞沼

Answer

①忠類村晩成

 昭和四十四年七月のこと、十勝管内忠類村の晩成でナウマン象の化石が発見され、発掘現場に「ナウマン象発掘の地」という記念碑が建立された。碑には

 一九六九年七月二十六日道路工事中臼歯を発見、地学研究グループの十勝団体研究会による緊急発掘でキバ等を発掘した。一九七〇年六月二十七日より北海道知事の委託で、京都大学亀井節夫教授の指導のもと十勝団体研究会が本体発掘に着手、七月二日全骨格の発掘に成功した。この事蹟の斯界に寄与するところまことに大きく今後の調査に期特するものが多いとされている。ここに発掘の地を記念しこの碑を建立する。   一九七二年八月二〇日 北海道広尾郡忠類村 白木敏夫 藤根星州書

と刻まれている。また説明板によれば「ナウマン象は、日本の洪積世化石哺乳類を代表すもので、現在までの研究によると、忠類産のナウマン象は広島のナウマン象に属するといわれ(略)、その渡来経緯も北方系であろうと考えられている。従来本州各地から部分的な化石骨が多産しているが、忠類のように一頭分まとまって産出した例はなく、象の化石といっしょに多くの植物、花粉、珪藻、昆虫の化石、油状物質などが採取され、この調査からナウマン象の生息していた頃の忠類の気温は現在より三~四℃ほど高かったと推定され、古生物学的にはもちろん北海道の自然の歴史をさぐる上でも極めて重要な意義をもつことになるといわれている。この発掘のきっかけをつくった、臼歯の発見者(略)、関係者の皆さんのご苦労に対し深甚の敬意を表しこれを記す(略)。昭和四十七年十二月二十二日 広尾郡忠類村教育委員会」とある。現在化石の原標本は、北海道開拓記念館に収蔵され、合成樹脂製の全身骨格復元象が一般公開されている。

Question 81

 次の世代へ引き継ぎたい大切な「北海道遺産」は、現在五二件が選ばれているが、道路に関するものでは次のうちどれか。

①様似町「様似山道」
②七飯町「赤松並木」
③旭川市「旭橋」
④札幌市「道庁正門前通り木煉瓦舗装」

Answer

③旭川市「旭橋」

 旭川市を流れる石狩川に架かる橋に「旭橋」がある。そもそもは明治二十五年に部落民の協力で約九〇mの土橋が架けられたのに始まる。やがて明治二十七年に鷹栖橋という名の木橋で架けられたが腐朽し、同三十七年に北海道で二番目の鋼橋として誕生する。その時に「旭橋」という名前となった。
 橋長一〇四mの中央部がトラスの橋であり、やがて偉容を誇っていたこの旭橋も、次第に老朽化してきた。軍事上でもまた一般交通上からでも架け換えされることになった。
 そして誕生したのが、現在の旭橋である。旭川のシンボルとなるような橋として設計され、橋長二二五・四m、幅員一八・三m、工事費一、〇三八、六五〇円七七銭となっている。
 昭和七年十一月三日に渡橋式が行われ、上部の形式がプレースト・リブ・バランスト・タイド・アーチである。なにしろこの旭橋は、当時の旭川第七師団という軍の近代化で、大砲など重装備になり頑丈な橋が必要となった時代背景があった。軍都旭川のシンボルであった。
 ある学者は「ちょうど太古の恐竜が河川を爬行して渡るよう」とこの橋を評し、また鎧、兜によって完全武装して川の流れと闘っている橋でもある。
 「石狩川の滔々たる流れに影を映し、大雪連峰を背にしてその勇壮美を誇示している。鋼材をふんだんに使い、雄渾なアーチを描いて川を征服し、そこに全く新しい景観美を創り出すことに成功した」とされ、決して武骨だけの印象を与える橋ではない。
 この橋は誰いうとなく「北海道の三大名橋」といわれ、規模が大きいのみならず、その形式が周囲によく似合い、且つ荘重な構えでもあって、側面からもみても正面からみても、また近景も遠景も全てが絵になり、写真ともなっている。素晴らしい北海道遺産の一つである。

芸術と美観を誇る旭橋 荘厳なままに秋の陽を浴ぶ    ―後藤信子

Question 82

 大正期において、全国各地で、当時高級舗装といわれた「木塊舗装」が道内で施工されたが、現在でも唯一北海道で道路下に保存されている所がある。それは次のうちどこか。

①旭川市平和通り
②小樽市運河沿い道路
③函館市東浜桟橋横
④札幌市道庁正門前通り

Answer

④札幌市道庁正門前通り

 札幌市が歩きやすい道―舗装道路への声が高くなったのは、大正年間に入ってからである。市では近くの豊平川などに砂利が豊富であったことなどから、安価な敷砂利工法で立派な道路が維持できることなどの理由もあって、相当に遅れていたが、遅ればせながら舗装化されていった。とにかく試験的にということで、北海道庁正門前の通りに「木塊鋪装」が施工されたのは、大正十三年(一九二四)十月のことである。
 「札幌市に在りては、國道四號線北三條に於て、延長一町餘、幅十五間を車歩道の區分を爲し、車道は木塊、歩道はアスファルト鋪装を爲し、車歩の境界に植樹帯を設け、公孫樹を植栽せり」と。この舗装は、道庁正門前から駅前通りまでの区間、西四丁目~西五丁目間であって、延長六四・五間(一一七・二七m)、車道幅八間(一四・五四m)の面積一、八五六・五㎡の木塊によるものであった。
 この木塊舗装に対して反対の声が多くあり、あれだけの金をかければ、殖民道路が何里もできると非難され、道議会でも質問を受けていた。「道民が拓殖費の一厘でも多からんことを要望し、その金に依て一尺一間の道路でも付けて貰いたいことを要望致して居ります今日」という。「先ず僅かな一部分でも其の國道の間に模範を示しまして、単に模範のみでなく市道に対しましても斯くの如くに道路を良くする所の刺激を與えたいと斯う存じて居りますのであります」と答弁していた。
 この札幌舗装発祥の地を記念して碑が建てられていて、碑陰には「大正十三年(一九二四)木レンガによる札幌初の舗装がここで行われました。現在でも、車道部分のアスファルトの下にこのときの木レンガ(ブナ)が眠っており、掘り起こしたものの一部をこの碑に使用しております」とし「赤レンガへの道は木の舗装」という案内板があり、この舗装について詳しく説明されている。

Question 83

 わが国における、道路工事に採用された木材の使用工法において原油を塗り、わが国木材防腐工法のさきがけと-伝えられる新工事であつた。最初に「木材防腐工法」を採用したのはどこか。

①中央道路「北見地区橋梁桁材」
②上川道路「橋梁基礎杭」
③樺戸道路「地盤基礎杭」
④札幌本道「森埠頭桟橋」

Answer

④札幌本道「森埠頭桟橋」

 明治五年(一八七二)「札幌本道」の開削時に造られた「森埠頭桟橋跡」がJR森駅裏にある。明治四年(一八七一)開拓使は、北海道の開拓に当たり、北海道の玄関口である函館と、本府札幌とを結ぶ「札幌本道」の道路開削が一番であるとして決定する。その中で森村と室蘭村とは陸路によらず、海路で結ぶことにした。翌明治五年七月に森埠頭桟橋の工事が着工となる。JR森駅の裏手の案内板に、

史跡 森港桟橋跡 明治二年(一八六九)開拓使は本道開拓の当初、函館・札幌間の交通路を函館―森―室蘭―札幌の最短距離を選定、これを札幌本道として開発した。まず森・室蘭間連絡航路に、五年七月森桟橋の着工となった。延長二八〇メートル・幅員七メートルの木造。特に橋脚には堅硬な茅部栗材を用い、これに榎本武揚の発案で鷲ノ木湧出の原油を塗り、わが国木材防腐工法のさきがけと伝えられる新工事であった。翌六年十一月竣工。汽船稲川丸の定期運航を開始した。そして函館・森間新道による客馬車運行で、政府の大官・著名人や一般旅客の往来繁しく、森村は交通の要地として一大発展となった。特に明治十四年明治天皇本道御巡幸には、九月五日室蘭より軍艦迅鯨号にて御入港。桟橋御上陸、随員三百名による森埠頭は歴史的盛観を極めた。この桟橋は幾多の功績や物語もあるが、二十六年函館・室蘭間を直航。更に三十六年鉄道函館本線開通にて必要度を失い、その後郵便航路として再開したが数年で廃止した。しかし噴火湾内重要港として船舶の出入続き、昭和初期まで約六十年の使命を達した。今日、波間に高き明治天皇御上陸記念碑や海辺に朽ち残る橋脚にも、本道開拓交通上重要史跡として、人々に往時をしのばせるものが多い。

森町開基百十年記念   昭和四十三年九月五日   森町教育委員会

と書かれていた。現在でも朽ち果てた橋脚が、約三〇本ほど残っていて、歴史を今に伝えている。

Question 84

 建設省では、歴史上重要な役割を果たしてきた幹線道路で、今も往時の面影をとどめている道路を「歴史国道」として整備することとし、復元、整備に取り込むことから、その制度を創設した。北海道で唯一ある道は、次のどれか。

①松前街道
②木古内山道
③様似山道
④赤松街道

Answer

④赤松街道

 これは古来から国の道として位置付けられてきたもの、国として特に重要な歴史的・文化的価値のあるものを認定して、その保存、整備、活用を図ろうとするものである。古来「道」は人と人、地域と地域の交流を支え、文化の交流、伝達の上で大きな役割を果たしてきた。また「道」は、時代の流れと共に利用のされ方が変化し、その姿を変えてきたが、中には現在も昔の姿をそのまま残している「道」もある。
 このような「道」は、その存在そのものが、現代の人々にとって貴重な文化遺産であるとともに、適切に保存し、また可能な限り復元することにより、時代を越えた新たな文化の創造の場ともなり得ると考えられる。そこで歴史上重要な幹線道路として利用され、国として特に重要な歴史的・文化的価値を有する道路を対象に、その保存、復元、整備及び活用を図り、あわせて地域からの情報発信を行うことにより、歴史文化を軸とした地域づくりと活性化、地域の歴史文化と触れ合うことのできる魅力的な空間の創造、道と地域の歴史文化の継承に資することを目的として「歴史国道」の整備を進めることとしたものである。
 北海道においてもこのルート設定が急がされ、本道にくまなく足跡を残した松浦武四郎の「武四郎の道」や、明治に入って本格的な馬車道として開削された「札幌本道」などが、一応の調査ルートとして挙がった。なかでも北海道の「東海道」とも呼ばれる函館~松前を結ぶ「松前街道」を軸に、かつての蝦夷三湊を結ぶルートが大きく浮かんだものである。すなわち松前城を核とした、松前半島の歴史と観光を結ぶ夢が大きくふくらんだが、函館市~七飯町間、国道五号赤松並木、約一四㎞のものが第一候補となり「赤松街道」が平成八年四月に決定となったものである。
 なおこの赤松街道は、補植された二代目も大切に育てられ、点在する藁ぶき屋根の家屋と手入れのゆきとどいた生垣に調和し、美しい並木路を形づくり、貴重な歴史遺産を後世に是非とも伝えたい。

Question 85

 日本土木学会に「歴史的土木構造物を顕彰する、選奨土木遺産」という選定制度がある。この遺産に選定されている中で、北海道において特に道路に関係するものとしては、旭橋(旭川市)などの六個所があるが、現在選定されていないのは次のうちどれか。

①舞鶴橋(長沼町)
②道庁正門前木塊舗装・銀杏並木(札幌市中央区)
③張碓橋(小樽市)
④大森橋(函館市)

Answer

④大森橋(函館市)

 土木学会では、平成十二年度から「歴史的土木構造物を顕彰することにより、①土木構造物の持つ歴史的・社会的な意義、文化的価値を啓発し、社会にPRすること、②先人たちの努力、先見性、使命感に対する理解や、偉業に対する尊敬の念を喚起し、文化財としての認職・意欲、技術者としての社会的責任の自覚をうながすこと、③歴史的土木構造物が地域の自然や歴史・文化の一部として、地域の資産であることを認識し、まちづくりや地域の活性化などに貢献すること、④失われるおそれのある貴重な歴史的土木構造物を救済、保存、活用すること」などを目的として「選奨土木遺産」の選定制度を発足させた。選定は、土木事業または土木構造物を対象として、交通(道路、鉄道、港湾、河川、航空、灯標)、防災(治水、防潮など)、農林水産業(灌漑、干拓など)、エネルギー(発電、炭田など)、衛生(上下水道)、産業(工業用水、造船)、軍事などで邦人技術者が海外で手がけた土木遺産もその範囲としている。また竣工年代は、昭和二十五年代以前を主としているが、竣工後五十年を経過した段階まで含めることとしている。
 この選奨土木遺産は、制度の発足後、十年を経た平成二十二年で二〇〇件を超え、贈呈式は毎年土木の日(十一月十八日)の前後に各地で催されている。北海道において、特に道路に関係するものとしては、
旭橋(旭川市)、舞鶴橋(長沼町)、道庁正門前木塊舗装・銀杏並木(札幌市中央区)、創成橋(札幌市中央区)、張碓橋(小樽市)、札幌本道赤松並木(七飯町、函館市)
などがあり、大森橋は現在選定されていない。

Question 86

 平成二十一年七月、日本機械学会(東京)は、次世代に伝承すべき文化遺産として道内最古の自動車を指定した。この自動車を展示している場所は、次のうちどこか。

①札幌市下野幌「北海道開拓の村」
②上磯町当別「男爵資料館」
③函館市青柳町「函館博物館」
④函館市五稜郭「市立博物館」

Answer

②上磯町当別「男爵資料館」

 この資料館に復元展示されているロコモビルは、明治三十四年(一九〇一)の米国製のもので、男爵薯で知られる函館の実業家、川田龍吉男爵が通勤用に購入したものであった。かつて上磯町内の農場倉庫に眠っていたが、昭和五十四年に東工大の協力を得て完全復元され、男爵資料館に展示されたものである。『卓上四季』によれば「自動車なのにもくもくと白い煙を吐きながら進んだ。かまどが走っている、と驚かれた。日本人が最初に購入した自家用車は蒸気で動いた。ガソリンは使うが、ボイラーで湯を沸かすためだ」とある。この自動車は、車長二・六m、車幅一・五m、車高一・七m(幌付二・七m)、重量三五〇㎏、出力三~五㏋、速度二〇~四〇㎞、使用燃料ナフサ(揮発油)となっている。
 『川田龍吉その生涯』には「明治三五年夏、龍吉は東京芝口の路上で、見慣れない車を目にする。それは蒸気で走る〈馬なし馬車〉だった。ロコモビルとよばれるその車は、横浜のアメリカ人商人がコネチカット州のロコモビル会社から輸入した蒸気自動車でその年、東京に陳列所が開かれたのだった。龍吉はさっそく車を買い入れ、東京の町を走る。ロコモビルはボイラーで蒸気を発生させ、エンジンを駆動させるため準備に手間と時間がかかり、現代の自動車に較べて走らせるまでの操作も複雑だったが、イギリスで蒸気機関を学んだ龍吉にとってはその扱いはお手のものだった。東京の人々は白い蒸気をもうもうと吐いて走るロコモビルを見て〈へっつい(かまど)が走っている〉と驚いた。後にロコモビルは函館に運ばれ、龍吉は七飯の農場にこの車で通った」。ロコボビル社は、米国一の自動車会社であった。だが蒸気の時代はすぐに終わる。後に米三大メーカーの一角を占めるフオード社が設立され、それは川田が蒸気車を購入した翌年のことである。

▲余記 戦時中のバス

 中国との戦争でガソリンの規制が厳しくなり、昭和十三年五月から自動車用ガソリンの配給切符制、同十五年になるとタイヤチューブも配給切符制となる。そして同十五年ごろから「代燃車」が現れてくる。「代燃車」すなわち、自動車のカマの構造は「木炭」と「薪」では多少違ったが、原理は同じであった。まず発生した可燃ガスを分離器で炭や大きなゴミを取り除く。冷却器(木炭車はなし)を通して高温のガスを冷却濃縮し、さらにガス清浄器で残ったゴミや不純物を取除いてエンジンの空気混合器に送りこむ仕掛けのものである。発生炉には手回しの送風機が付いていて、まずカマに木炭や薪を入れて火を付ける。送風機のハンドルを回して可燃ガスを発生させるものであった。火を入れてからエンジンを始動させるまでの準備時間は、かなりかかり、朝七時の始発便を動かすためには、五時ごろから準備にかからなくてはならず、この準備作業は女子車掌や助手たちの仕事であった。このことは女子車掌にとっては大変な重労働であった。
 カマの中の木炭や薪が不足するとガス欠が起きる。したがって車内には常に補充用の木炭や薪を積んで置かなくてはならなかった。この作業も女子車掌の仕事であった。この代燃車はガソリン車に比べて出力が約七割程度であり、したがって長い坂道の上りともなると、エンストすることが度々であった。そのころ「皆さん降りてください…」という。誰もが文句一つもいわず、バスから降りて、後押しをしたものであった。そんな光景はどこでも見られたという。
 この代燃車は戦時中、大活躍するが、終戦となるとガソリンが出回り、ガソリンの統制も撤去され、昭和二十二年ごろにはディーゼル車が登場、この代燃車は主投の座を降りてしまった。

道路功績者関係

Question 87

 蝦夷地の探検家として、数多くの山道開削などの記録資料を著し、釧路の銅像の碑文に「幕末に未開の地蝦夷探検の急務を説き一身を賭して苦難と闘い…開拓計画の基礎資料を作成し」とあり、文人・歌人・絵画・篆刻・著述で帽広く活躍した人物は、次のうち誰か。

①最上徳内
②松浦武四郎
③近藤重蔵
④村垣範正

Answer

②松浦武四郎

 松浦武四郎は一八一八(文政元年)~一八八八(明治二一)北海道の名づけ親。蝦寅地の探検家として数々の記録を残した。伊勢国一志郡須川村で生まれ。本名竹四郎で字は子重、(いみな)(ひろむ)。十七歳で家郷を出て日本全国を四年間で殆ど踏破、五年間平戸で住職の後、二十六歳志を立てて蝦夷地探検の急務を悟って還俗。弘化二年(一八四五)より嘉永二年(一八四九)単身蝦夷地に入り、「三航蝦夷日誌」三五巻を著わし、安政二年(一八五五)、三十八歳幕府蝦夷地御雇として三年間、蝦夷、北蝦夷を調査し「東西蝦夷山川地理取調図」二八冊、「同日誌」六十巻、その他四六〇種にのぼる著作を著わした。武四郎の蝦夷地行は前後六回、年齢からいえば二十八歳から四十一歳に及ぶ壮年期にあたる。すでに本州・四国・九州を所狭しと踏査し、さらに足を伸ばして蝦夷地に渡り、その海岸と奥地とを探検した彼にとって、蝦夷地の山川と原野と海烏こそ、雄心を充たすに足る新天地であった。
 明治元年箱館府権判事、翌二年開拓使御用掛、開拓使大主典、開拓判官に任ずる。北海道の郡区画と名称は武四郎の発案に基づく。三年三月病気を理由に開拓使判官を辞任。七十一歳東京で病没。
 昭和十三年、北海道開拓七十周年事業として「開拓神社」が設立され、武四郎は「松浦弘命 伊勢の人 武四郎弘は諱 本道をくまなく探検 道名決定」として神として祀られている。
 武四郎の碑は各地にあり、その中で、山道を検分しその峠道の出来栄えにいたく感心し「岩ほ切 木を伐 草を苅そけて みちたいらけし 山のとかけも」と、余市山道稲穂峠に詠じた碑が建立されている。なにしろ、いにしえの北海道の道を語るとき、武四郎のことを決して忘れることができない。

千萬のこがねはものかかしこくも 國の寶は道にしかめや     松浦武四郎(歌棄領にて)

Question 88

 明治の初期、北海道の道路開削に多くの難航を極めながら、四本の新道を開削するなど、開拓初期の時代に多大な貢献をもたらした人物がいる。その業績を称えた銅像が国道の峠に建てられているがそれは次のうち誰か。

①高松凌雲
②大谷光瑩
③高田屋嘉兵衛
④岡本監輔

Answer

②大谷光瑩

 大谷光瑩は一八五二(嘉永五)~一九二三⌒大正十二)の真宗大谷派東本願寺二二世法主。上人号は現如。本道への開教と本願寺道路をはじめとする道路開削に多大な貢献をもたらした。二一世法主・厳如上人大谷光勝の第五子として生まれる。万延元年、九歳で得度、文久三年十九歳で大僧正に昇任。明治二年(一八六九)維新政府から北海道開拓・新道開削および開教を目的として宗徒の渡道が許可されると、十九歳の光瑩は父に代わって本願寺開拓団の総指揮者として明治三年二月に一行を率いて出発、途中廃仏毀釈の時代相の中で妨害をうけたりしながら、七月七日に函館に到着、新道建設、掛所設置などの打合せを行って、未曾有の大事業に着手する。
 一行は、本道交通網の要路・国道二三〇号の前身となる札幌平岸~伊達尾去別新道約一〇三㎞、軍川~砂原間新道約一八㎞など四本の新道を開削。山間部を中心に開削事業は難航を極めたが光瑩はよく団をまとめ、総費用四五万両、延べ人員五万五〇〇〇人を要した大事業を見事に成し遂げた。この道路の開削は、まだ過疎地であった札幌の発展を約束し、明治維新という動乱の時、教団存続の危機に陥った東本願寺が宗門の総力を上げて取り組んだ事業でもあり、その功績は多とすべきであろう。
 昭和四十二年、その業績を称えた銅像が、かつての東本願寺街道の中山峠に建立されている。その台座には「北門開拓 現如上人之像」とあり、碑文には「勅命ヲ蒙ッテ京都ヲ出発、一百余名ノ部下ヲ率イテ本道ニ渡リ、新道切開、教化普及、移民奨励ノ三大目的達成ニ粉骨砕身努メラレタ。今回上人ノ北門開拓百年ヲ迎ウルニ当タリ、上人十九歳ノ英姿ヲ刻ミ」とある。
 また本道での開教にも力を入れ、現札幌別院にあたる「東本願寺管刹所」を定め本拠とした。明治五年五月権大教正、二二年十月に二二世法主。分骨は今も藻岩山麓北海廟に眠っている。

Question 89

 北海道の開拓のためにはまず「(ひ)(げん)(世間でいわれている諺の意)ニモ云ヘル如ク、建國ノ新古ヲ論セス、實際上國ヲ開クハ道路ノ外ナシ」と政府に道路の必要性を強調し開削を進言した人物は次のうち誰か。

①蝦夷地探検家・松浦武四郎
②蝦夷地開拓・東本願寺法主現如上人
③北海道開拓使次官・黒田清隆
④開拓使頭取兼顧問・ケプロン

Answer

④開拓使頭取兼顧問・ケプロン

 北海道の開拓使頭取兼顧問として明治新政府に招聘されて来日した米国人ホーレス・ケプロンは、道路に関して次のように献策する。

「鄙諺ニモ云ヘル如ク、建國ノ新古ヲ論セス、實際上國ヲ開クハ道路ノ外ナシ、道路ノ開ケサルハ、進歩ノ門ニ()(やく)(鎖前と鍵の意)ヲ下スニ異ナラス」とし、さらには「古來道路ハ開拓移民ノ擧二最モ勢力アル媒介(ばいかい)ヲナスモノゝ一ニシテ、其字義ヲ推テ論スレハ、唯工業ノミナラス、各國各民ノ交際ヲ通スルノ路ナリ。

と。また道路が開かれれば都市が発達し、そして産業が興り、また工業も盛んとなるともした。
 そこで明治新政府は、北海道の玄関口函館から、首府札幌までの「札幌本道」の建設を決定する。この道路は函館から森までを陸路とし、森から室蘭までを海路に、それから苫小牧、千歳を経て札幌本府に至る、わが国で初の洋式馬車道であって、延長一七九・二㎞のものであった。
 この道路の開通は、北海道の交通運輸上、また交通網拡充の骨格として、絶大なる効果をもたらし、北海道開拓史上における一大事業実績となったものである。さらにはこの道路建設は優秀なる外国人技術者によって、道路建設の技術はもとより、労務管理の方法なども教えられた記念すべきものであった。

Question 90

 この橋は、ある作家は「びっしりと打ち込まれた鉄の鋲。石狩川をひとまたぎしたような大きなアーチ。それは濁流と闘うイメージであり戦艦のイメージである」と表現されている旭川の「旭橋」だが、その橋を設計・指導したのは、次のうち誰か。

①吉町太郎一
②杉森文彦
③山口敬助
④名井九介

Answer

①吉町太郎一

 大正十五年近文方面の有志により「旭橋架換促進期成会」が組織され、そこで北海道庁では昭和二年、北海道大学工学部長・吉町太郎一博士に設計・指導を依頼した。吉町博士は「旭川のシンボルになるような橋」と考え、復興局の例などを引合いに内務省と協議して橋梁形式を決定した。
 道庁技手塩塚重蔵は予備設計に取りかかり、翌三年には樋浦大三技手がこれに参加する。昭和四年一月工事の着工が決定されると直ちに本設計に着手し、日夜設計に没頭、半年後の七月に設計が完了し、九月に内務大臣の認可を得て工事に着手となる。そして昭和七年十一月に吉町博士の偉大なる功績を後世に語り伝える名橋がここに誕生したのであった。
 吉町太郎一は「明治六・一〇・二九~昭和三六・三・二三 橋梁学の権威。青森県に生まれ、第一高等学校を経て明治三一年、東京帝国大学工科大学土木学科を卒業。同大助教授。三五年からドイツ、アメリカに留学し、三八年から名古屋高等工業学校教授。四三年には固定アーチの一段理論に関する業績で工学賞。四四年工学博士。大正八年九州帝国大学教授。同工学部長を歴任。一〇年、北海道帝国大学工学部創立委員となり、十三年工学部開部の運びとなってから昭和六年まで、初代工学部長としてその基礎を築く。一四年から室蘭高等工業学校(現室蘭工業大学)創立で初代校長に就任。…石狩川の旭橋を設計指導。著書に『鋼橋の理論と計算』(昭和二七)がある」
 なにしろこの旭橋は「びっしりと打ち込まれた鉄の鋲。石狩川をひとまたぎしたような大きなアーチ。それは濁流と闘うイメージであり、戦艦のイメージである。この橋に比べると、そこから見える橋は、どうも女々しく見える。川と闘かう橋ではなく、川をなだめすかして、だましだまし架かっている感じする」と、ある文学者はいう。

Question 91

 氏の歩みは戦後の北海道開発の歩みと見事に重なる。国家公務員のトップの立場の人としてまた、地方自治体の長として、北海道をリードし、現在の北海道の骨格を築き上げ、その素朴な人柄で本道政財界の重鎮といわれた人物は、次のうち誰か。

①横道節雄
②板垣武四
③堂垣内尚弘
④田中敏文

Answer

③堂垣内尚弘

 堂垣内尚弘は平成十六年二月、入院先の病院で逝去された。八九歳であった。堂垣内は大正三年(一九一四)六月生まれ、昭和十三年に北大工学部土木科を卒業、海軍省に勤務、そして兵役に就く。昭和二十一年道札幌土現、同二十五年経済安定本部、開発庁へ、同四十年四月北海道開発局長、同年七月開発事務次官。昭和四十六年統一選挙で社会党を破り道知事に初当選、以降三期十二年にわたり道政の先頭に立った。知事在任中は他都道府県に先駆けて北海道発展計画を策定したほか、青函トンネル、北海道新幹線、国際空港整備を促進、全国で初めての環境アセスメント条例の制定など、本道の礎を築いた。引退後は東日本学園理事長など公職は多数。勲一等瑞宝章受章。北海道開発、スポーツ振興、北方領土返還運動など北海道発展に尽力した。素朴な語り口で飾らぬ性格から〈堂さん〉の愛称で道民からも親しまれ、本道の明るい未来へ向けた様々の提言や具体的な施策を披露する。
 堂垣内は道路工学では道内第一人者であり、編纂に当たった『北海道道路史』は燦然と輝く金字塔とされる。
 「戦後開発局の技師として多くの道路や橋、ダムの建設に携わったのも懐かしい。北海学園大学工学部教授を経て道知事へ。政治の世界へ入るとは夢にも思ってもいなかった。自分の本質は技術畑の人間なんだと思います。後継を託した候補が知事に当選できなかったことを含めて、つらいことも多かったけれど、室蘭開建部長時代に夢見た白鳥大橋が実現したり、知事時代に始めた北方圏都市交流が盛んになったことなど、楽しいことの方が多かった。子どものころ、役人か大学教授になりたいと思っていて、その両方をやれたので幸せ。そんな自分の人生を採点すると、合格点の七十点には届いています」と生前語っていた。

Question 92

 蝦夷地の開拓には、なによりも交通の便を図ることが必要であった。そこで江差の商人が、私費で道路開削を奉行に申請し、見事成功させた。この偉業を讃える顕彰の碑が建立されている。その人物とは次のうち誰か。

①鈴鹿甚右衛門
②伊達林右衛門
③山田屋文右衛門
④仙北屋仁左衛門

Answer

①鈴鹿甚右衛門

 安政以降、幕府は日本海沿岸の道路開削に意を注いだ。この道路は、一商人が私費を投じて開削したものである。甚右衛門は関内―太櫓間四八㎞、瀬棚―島小牧間四二㎞を完成させ、続いて江差―大野間四四㎞を完成させた。これは全て自費によるものであった。
 幕府は彼の功績に対して苗字を許す。そして彼は大正四年十一月に特旨をもって従五位が贈られ、江差の姥神神社境内に、その功績を称えるための「贈従五位鈴鹿甚右衛門之碑」が建立されている。
 碑の側に立つ説明板には「鈴鹿家は佐平治町(現在の橋本町)に橋本家として呉服商、質屋を業とする老舗で当主は代々甚右衛門を襲名していた。この碑は文政二年(一八一九)江州薩摩村西川八右衛門の三男として出生し鈴鹿家の婿養子となった長男甚助(幼名)である。父甚右衛門は安政三年十一月津軽の長坂庄兵衛と謀って、熊石関内から太櫓に至る山道四八粁を私費をもって開削したが、不幸にも翌四年正月二十七日逝去する。甚助は甚右衛門を襲名すると同時に、父の意志を継ぎ同五年六月竣工させた。同時に鵜山道四四粁の開削に着手し、同年竣工させ、投じた私費は四八〇〇両といわれ、今の国道二二七号線の基礎を築いたものである」とある。
 この橋本町という地名は、鈴鹿甚右衛門の功績をしのんだ町の人々が、字名改正の時に甚右衛門の店、橋本屋を記念して名付けたものである。
 顕彰之碑の碑陰には「江差町長勲八等永瀧松太郎謹識」として、漢文による碑文が刻まれている。甚右衛門は莫大な私費を投じてこれらの山道を開削した。この山道を通って多くの人々は往来した。この功績は多とすべきであろう。
 なお北海道開拓神社には、奉斉神として鈴鹿甚右衛門が祀られている。それには「二代目 近江の人 道南山道の開削 公益事業に貢献」とある。

Question 93

 道庁正門に向かって歩くと「大正十三年十月鋪装 翌十四年樹齢十九年ノ公孫樹三十二本ヲ栽植シ街燈六基ヲ建設ス」という銘盤があるが、これはこの道路の建設指導に当たった人物の記念碑ともされている。それは次のうち誰か。

①斉藤静脩
②保原元二
③杉森文彦
④名井九介

Answer

④名井九介

 九介の一生は、ほとんど北海道の開発のために、心胆を砕かれたといってもよいとされる。北海道の道路、河川、港湾などのほとんどについて、その手にかからないものはないとされ、その中の一つに道庁正門前の鋪装がある。ここのグリーンベルトに、銘盤が埋め込まれていて「大正十三年十月鋪装…北海道廳」とある。
 「博士(名井九介)は道路鋪装と並木に頗る留意された。今道庁前を東に向かって進むとき、坦々たるアスファルト鋪装、道路の両側に亭々たる公孫樹の並木が梢をそろえて居る美しくも眺むるであろう。これは博士の指導のもとに木塊その他の試験鋪装を行い、凍上などの苦き経験を喫したる結果成功したる鋪装道で、北海道における最初の試みである。並木は博士が特に時の地方林課長林常夫に交渉し、樹齢、大きさ枝形等同型なるものを選び植樹せるもので、しかも樹齢を後に伝ふるベく記念石碑を設けてあるが、これは恰も博士の頌徳碑とも見らるる」。
 「名井九介 明治二(一八六九)~昭和十九(一九四四) 土木技術者。山口県に生まれ、東京帝国大学工学部土木科を卒業後、内務省土木局に入った。福井県九頭竜川の改修に携わったのを手始めに…河川直轄工事に従事した。大正七年、北海道庁土木部の勅任技師に就任し、道内土木工事総べて指揮指導する立場となった。このとき導入された工事の総合化技術、機械化施工などによって、北海道の土木工事は著しい進展を見せるようになる。しかしやはり河川の専門家らしく、九年から石狩川治水工事事務所長を務め、果敢に『ショートカット』方式で洪水防止の成果を上げた。この時河川の『自然主義』をとなえる岡崎文吉と意見が対立し、敗れた岡崎が北海道を去った。…広い立場から北海道の近代化に貢献している。その後東京に帰り、東京高等工学校長をつとめた」。

Question 94

 札幌市の助役・市長時代を通じて、札幌市内に架かる橋について「時代の人々にとって幸せのかけ橋になるような、そういう便利でかつ美しい橋を、さっぽろの街に残していきたい」とした人物は、次のうち誰か。

①高田富與
②板垣武四
③原田與昨
④桂 信雄

Answer

②板垣武四

 板垣は助役の時代から、札幌市内に架かる橋について、特に豊平川に架かる多くの橋の建設に努力をされてきた。これは偉大なる道路・橋梁に対する板垣の業績であるとされる。そして橋に対し「アーチ型の橋に郷愁を感じる人々がいる反面、若い人や後世の人々の眼から見ると、現代の橋が持っている機能や都会的センスは、これまた大きな魅力になるに違いありません。ともあれ、どんな現代的な橋にでもロマンがあります。そこには、ふと人間の悲しみや希望をひき出す何かがあります」とする。冬季オリンピック札幌大会開催にあたり、札幌市内の道路・橋梁が整備された。昭和四十四年の「藻岩橋(一七三・九m)」にはじまり、同四十五年の「五輪大橋(一五〇・〇m)」などがある。この五輪大橋の親柱には彫像が飾れているのは、板垣がまだ助役時代に欧州を視察した際、橋に彫像が飾ってあるのを見て、この大会は札幌の名誉と栄光を次代に伝えるため、競技場の入口に架かるこの橋と、隣の五輪小橋に彫像を飾りたいという発想からでたものであり、道内ではこの橋が第一号のものとなっている。このオリンピック大会開催に合わせて「南七条大橋(二八六・〇m)」や「南十九条大橋(二三六・〇m)」の新設「一条大橋(一七五・六m)」の架け換えなどがあった。「深い渓谷をまたぐ夢の大橋」とされていた「定山渓大橋(二三一・七m)」が、昭和五十三年に開通、空に向かって大きな両手を差し延べた「緑の女神」像が飾られている。同五十九年に定山渓温泉街に架けられた「月見橋(三七・八m)」の開通式には、浴衣姿でテープカットしている。バスケットハンドル型の「水穂大橋(一五〇・〇m)」、同五十一年の「北十三条大橋(二〇一・五m)」、同五十二年の「環状北大橋(二四〇・〇m)」など「すべて橋というものは、単に渡るだけでのものではなく、見て美しく、渡って楽しい橋でなければ」と板垣は早い時期から意識し、担当者にこの考え方を強調し架橋の方針としてきた。

Question 95

 明治時代に道路について「山道の険悪ナルニ至テハ行旅ノ困難名状ス可ラズ。因テ是ヨリ漸ク沿海険峻ナル山道ヲ平夷シ全道ヲ一周スルノ路ヲ通ゼント欲ス」として、主要地に通ずる道路の整備を施政方針とした北海道庁長官は、次ぎのうち誰か。

①岩村通俊(明治十九年一月~)
②永山武四郎(明治二十一年六月~)
③渡辺千秋(明治二十四年六月~)
④北垣国道(明治二十五年七月~)

Answer

①岩村通俊(明治十九年一月~)

 明治二十年五月、全道郡区長会議において、初代北海道庁長官岩村通俊は

本道内部ハ言フヲ待タズ、沿海ノ地ト(いえど)モ殆ド人造ノ道路ナク、()(てい)()ミ渓流を渉リ陸谷ヲ上下シ、(しん)(ぼう)荊棘(けいきょく)ノ中ヲ経過ス。山道ノ険悪ナルニ至テハ(こう)(りょ)ノ困難名状ス(へか)ラズ。()(いずくん)ゾ貨物運輸ノ便否ヲ論ズルニ(いとま)アラン。因テ是ヨリ(ようや)ク沿海険峻(けんしゅん)ナル山道ヲ(へい)()シ、全道ヲ一周スルノ路ヲ通ゼント欲ス。是レ最要務ニ属セリ…。内部ノ由央ニ道路ヲ貫窄(かんせん)シ、四方ノ支道ニ連絡シテ、各地ノ交通ヲ開カザルベカラズ

と会議の席上で演説する。この方針によって札幌を中心とする各主要地に通ずる幹線道路が完成していった。
 その主なるものは三笠から旭川間の約八八㎞が明治十九~二十二年にかけて完成、また旭川と網走間の約二二五㎞が明治二十二~二十四年に、釧路と網走間約一五〇㎞間が明治二十~二十三年に完成し、このほか札幌・虻田間、鶉山道、礼文華山道などが改修されている。
 なお明治二五年(一八九二)末の全道の道路延長約二、八九〇㎞のうち、馬車が通じ得る道路延長はわずかに約六四八㎞にしか過ぎず、二二・四%であった。そして北海道庁が設置されて以来、馬車が通行し得る道路を目標として、着々と整備が進められていった。この十五年間で約五、四六〇㎞の国・県・里道が造られ、今日の主要道路網の骨格の大部分がこの時代に形成されていったのである。

Question 96

 自からの進退を賭けてまでこの道路の建設に当たった業績を称え「この地に光と未来を この道を拓く」と刻まれた顕彰の碑が建立されている。その栄光を現在に伝え、この道路開削に情熱を傾け、悪戦苦闘の末この道路を完成させた人物とは、次のうち誰か。

①黄金道路建設「齋藤静脩」
②阿寒横断道路建設「永山在兼」
③弾丸道路建設「高橋敏五郎」
④北見道路建設「永山武四郎」

Answer

②阿寒横断道路建設「永山在兼」

 弟子屈町鐺別原野の地に「永山在兼顕彰之碑」が建立され、昭和五十五年(一九八〇)四月二十九日に除幕された。題字の「この地に光と未来を この道を拓く」の揮毫者は、北海道知事・堂垣内尚弘であり、碑文及び説明文は釧路短大教授・永田洋平である。碑の大きさは高さ一・二m、幅一・〇m、台座の大きさが高さ一・四九m、幅の上部が一・八m、底部が二・二m、奥行きが上部一・一m、底部一・六mであり、福島県産中目御影石を使用したものである。
 碑の説明文には次のように刻まれている。「永山在兼氏は明治二十二年鹿児島県に生まれ、大正四年東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業後北海道庁土木部に赴任、同七年釧路土木派出所長に就任、以後十二年にわたり北海道東部の開発のため数多くの道路新設改良に尽くし恵み薄きこの地方の人たちの未来に限りない希望の灯をともした。在任中その最も大きな事業はこの横断道路の建設で、当時氏の手掛けた事業中もっとも苦渋にみちた作業であった。この建設工事中最大難関は清水の沢前後数キロにわたる断崖で、そこは文字通り自身の進退を賭けた一進一退の自然との攻防であった。そして遂に昭和三年以来三年にわたる悪戦苦闘の末この道路を完成させ阿寒国立公園に栄光の開園をもたらした。ここに氏を偲び、氏と郷土を愛するものたち集い、その業績を称え、豊かな郷土の発展を希ってここにこの碑を建立するものである。 昭和五十五年四月二十五日 阿寒国立公園広域観光協議会」とある。北海道に骨を埋める覚悟で赴任した永山は、その意に反して晩年は鹿児島で過ごし、昭和二十年(一九四五)五月十七日心臓麻痺で五十六歳で死去となる。永山の生涯は、その持てる力を存分に発揮し得たのは、釧路在住十二年間にあったのではなかろうかとされる。阿寒の人々は今でもこの永山の功績を称え、この阿寒横断道路のことを「永山道路」と呼び、また双湖台付近を「また永山峠」と名付けてその遺徳を偲んでいる。

Question 97

 寒地土木開発事業の偉大なる指導者であり、研究・実践ともに優れた道路技術者として、北海道土木史に大きな足跡を残し「道路の神様」ともいわれる人物がいる。北海道の道路建設に残された業績は偉大なものがあるとされるこの人物は、次のうち誰か。

①北垣国道
②杉森文彦
③高橋敏五郎
④名井九介

Answer

③高橋敏五郎

 高橋敏五郎を「道路の神様」であると誰しもが讃えている人物である。高橋は明治三十九年(一九〇六)五月二十八日山形県で生まれ、大正十三年北海道大学予科工類に進み、昭和五年(一九三〇)三月に北海道帝国大学工学部土木科を卒業し、北海道庁に就職する。昭和十四年に土木部道路課勤務、同十八年には根釧地方の海軍飛行場建設に従事、同十九年七月に小樽土木現業所長(当時三十八歳)となる。ここで機械化施工に情熱を燃やし、昭和二十二年一月に土木部道路課長に発令され、昭和二十六年七月、北海道開発局の発足に伴い、初代札幌開発建設部長となった。当時四十五歳であった。そして札幌・千歳間道路の建設など、常に現場の陣頭指揮にあたり、精根を傾けてこれらの工事を完成された。このことは高橋の卓越した技術によるものと、万人ひとしく認めているところのものであり、これらによって「道路の神様」として、土木関係者の尊敬を集めることになったのであった。
 札幌開発建設部長を五年五箇月、昭和三十一年十二月、自ら望んで土木試験所長へ転出、同三十二年六月本局の建設部長に発令となる。一年五箇月勤めた後、昭和三十三年十一月に日本道路公団への転出希望を添えて北海道開発局を辞し、日本道路公団名神道路試験所長となった。この名神高速道路は、わが国で最初の高速道路であることはいうまでもない。昭和三十七年(一九六二)に大阪建設局長兼高速道路試験所長を経て、同三十八年には名神高速道路の初代管理局長を最後に辞職し北海道へ帰ってきた。高橋は、道路に明け暮れた偉大なる道路の技術者であり、北海道の道路技術の向上、積雪寒冷地の道路築造の基本を確立され、日本における自動車専用道路の第一号である「名神高速道路」を完成させた実績は、高く評価されているものである。昭和六十一年一月二十七日に、急性心不全のため行年八十一歳をもって永眠されたのであった。

Question 98

 「十勝川治水の父」とも「十勝地方の道路の父」とも呼ばれ、この偉大なる功績を来世まで伝え残そうと「今ここに在りしを偲び、官民相まって記念碑建立の胎動となった。十勝人今一度深い恩恵を思い、功績を讃えて」とされたその人物とは、次のうち誰か。

①名井九介
②杉森文彦
③斎藤静脩
④永山在兼

Answer

③斎藤静脩

 斎藤静脩は「十勝川治水の父」と呼ばれると同時に「十勝地方の道路の父」でもある。「黄金道路」の建設に当たり、佐上長官を案内してこの道路を踏破し、地元住民と相俟って、この道路建設の強力な推進力となった。そして静脩の努力が実を結び、昭和九年に完成したこの黄金道路建設は、偉大なる功績として語り残されている。また、昭和十五年十月、当時東洋一を誇るスパンの「十勝大橋」の建設に対して、悪条件の中で全力投球し、見事完成させた功績もまた偉大であると、誰しもがこの橋の完成は、先見の明と技術への賛辞を贈っているものである。
 一九四〇年(昭和一五)土木部河川課長を経て土木部勅任技師を務め、北海道土木界の大御所的存在となる、土木部勤務三一年ののち、北海道建設業信用保証会社社長を経て北海道開発コンサルタント会社代表取締役、一九六六年同社会長となる。
 静脩は戦後の北海道建設業界の偉大なる指導者として、忘れることのできない人の一人でもあった。官界、業界と六十年近い間、北海道の開発に貢献されるとともに、大きな足跡を残されたのであった。土木技術者として、道庁で最高位まで登りつめ、業界に入ってからもその豊富な識見がかわれ、戦後の混乱期にその道を誤らせなかった。この偉大なる功績を後世に伝え残そうと「今ここに在りしを偲官民相まって記念碑建立の胎動となった。十勝人今一度深い恩恵を思い、功績を讃えてその名を来世まで残そう」として、この顕彰碑が建立された。
 斎藤は「才知に勝れており、先見の明高く、旺盛な責任感と決断力に富み、また大きな包容力を持った人で、部下を愛し、信頼し、意見には、良く耳を傾け温かく激励した人であったため、全所員から慕われ、したがって上層部からの信望も厚く」と誰しもが語っている。
 まさに北海道開発と建設業界に生涯を捧げた清冽な人生であった。

Question 99

 道路の神様と呼ばれた「高橋学校」で教えを受けた生徒は数多くいるが、道路の技術開発に、そして指導にと全力を尽くし、センスも抜群であって「高橋学校の後継者」ともいわれた人物は、次のうちで誰か。

①戸部智弘
②佐藤幸男
③大窪敏夫
④加来照俊

Answer

②佐藤幸男

 佐藤は昭和二年十月東京市杉並区で生まれ、昭和二十五年三月北大工学部を卒業、室蘭土現、室蘭開建、同四十二年に道路公団札幌小樽工事事務所長、同四十五年旭川そして札幌開建技術長、同五十年室蘭開建部長、同五十二年札幌開建部長、同五十四年に第十二代北海道開発局長となる。同五十六年七月に退官する。
 昭和五十八年北海道開発コンサルタント専務取締役、副社長を経て社長、平成七年同社会長、相談役、顧問となる。この間開発技術センター理事長や会長を歴任、平成九年に長年にわたる北海道開発行政に携われ、その後も北海道の発展のため多くの活動に取り組まれた功績により勲三等瑞宝章受章する。
 佐藤は卒業して以来、室蘭開建に四年(内部長二年)、旭川開建技術長として三ヶ月赴任した以外は全て札幌勤務(道路公団を含む)である。佐藤の人柄は清濁あわせのむ親分肌であり、どんなつまらないことでも親身になって相談に乗り、ズバリと助言してくれる。親分肌だからルーズかと思いがちだが、そうではなく、けじめをきちんとつける。頭の良さを感じさせず、センスも抜群である。こういう人柄であったから、たちまち部下の人望を集め「佐藤学校」の門下生が徐々に増えていった。
 そして門下生達は各地に転勤・赴任して「高橋・佐藤学校」で学んだ技術を伝えていった。今日の道路技術の進展は、この学校の教え子たちによる影響が大きなものがあったと誰しもが認めているものである。 
 平成十七年一月、病気のために逝去、享年七九歳であった。葬儀は個人の強い意志で近親者のみによる密葬として執り行い、後日、故人の功績をしのびご冥福を祈る「お別れ会」が執り行われた。

Question 100

 山岳道路の建設は、平坦部と違い、山や谷が複雑に入り込むもので、技術者冥利に尽きる。「道路は公園のようにー」。高橋敏五郎から受け継がれたこの言葉を、北海道の道路づくりの財産として、次代の技術者に受け継がれていくに違いないとして後輩を育てた人物は、次の誰が。

①大窪敏夫
②佐藤義行
③大谷光信
④田ロ雍也

Answer

③大谷光信

 大谷光信は、昭和三年当別村で生まれ、北海道庁土木部道路課に就職、昭和二六年北海道開発局が発足すると札幌開発建設部に移る。国道三六号の札幌・千歳道路、国道一二号の江別道路、札幌出張所や同三十五年から国道二三〇号札幌・定山渓の道路に従事する。昭和三十九年から定山渓道路改良事業所長として、平均年齢二十六歳というスタッフを率いて同四十四年に「中山新道」を完成させる。
 この山岳道路は道路技術者にとって一度は挑戦してみたいテーマである。平坦部と違い、山や谷が複雑に入り込む山岳道路は、技術者冥利に尽きる。大谷はかつてない難工事の担当を命じられたとき、その栄誉に身が震える思いがしたという。大谷は高橋部長から「道路は公園と同じように通ることによって心が和むようにつくられ、維持されなければならない」と教えられた。公園のような道路、そのために定山渓の美しい景観と道路線形の調和を第一と考え、線形は快適な速度を保ちながら景観が自然に目に入るようにとし、構造物についても、誰もが気をとめなかった部分にも、特に配慮した。
 無意根大橋は弓のように緩やかなカーブ橋とし、定山渓トンネルの出入口にルーバーと呼ばれる日本で初めてのものが設けられた。道路景観と並んで大谷は冬季対策を考えて、風向きと雪との関係を把握、できるだけ両側を切土にしないようにもした。
 大谷は「すべての道路構造物は特別な理由のない限り、子孫に引き継ぐべき財産を作っているのであって、道路技術者は同じ金で、見た人が美しいと感じるものを作る義務があると私は信じている」という。この道路には従来なかった新しいアイデアがいっぱいあり、橋梁にしろトンネルにしろ、回廊、覆道にしろ、国立公園内の風景とよくマッチして、ドライバーの目を楽しませてくれる。加えて安心して走れる道路というのがこの道路の特徴であって「これからの山岳道路はかくあるべきもの」という方向を示したものといえよう。


参考・引用文献

鈴木通雄編著「道路用語事典」山海堂、昭和六一年
国土交通省道路局監修「道路行政」全国道路利用者会議、二〇〇四年
浅井健一編著「道と路がわかる事典」日本実業出版社、二〇〇二年
高倉新一郎監修「郷土史事典―北海道」昌平社、一九八〇年
北海道新聞社編著「北海道一〇〇の道」北海道新聞社、二〇一三年
北海道新聞社編「北の道づくり」北海道新聞社、二〇〇四年
札幌市教育委員会文化資料室編「さっぽろ文庫1」北海道新聞社
北海道新聞社編「北海道の道路五三話」北海道新聞社、昭和五四年
「北海道道路史1」北海道道路史調査会、平成二年
三浦 宏編著「北海道の峠物語」北海道開発技術センター、平成四年

  • URLをコピーしました!

コメント

コメント一覧 (1件)

コメントする

目次