WEBサンプル:北海道命名150年『北海道の道と路を知る事典』道路検定問題集(第四集)Q301~Q400

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橋梁関係〈続〉

目次

Question 301

 道内の数多くある橋梁の中で、種々の事情から橋上から川に身を投げ出して自殺した者や、心中したという橋が数多くあろう。その中で役場吏員と酌婦とが心中し「人々の同情を誘った」という橋は、次のうちどこの橋か。

①北見市「若松大橋」
②札幌市「藻南橋」
③旭川市「永山橋」
④釧路市「久寿里橋」

Answer

①北見市「若松大橋」

 北見市を流れる常呂川に架かる橋に「若松大橋」というのがある。明治四十五年(一九一二)に、長年にわたっての地元民からの請願が実現し、初代の橋が架けられた。当時この橋は部落の名前から「士勇部士内橋」と呼ばれていて、野付牛(現・北見市)から常呂川を渡る唯一の橋であった。川東、若松に住む人々の喜びは大変なものであった。しかしこの橋は、大正八年(一九一九)の大洪水でひとたまりもなく流されてしまった。そこで部落の人たちが運動をおこして再建したのである。大正二年から部落の名が改正となり、同十年に架けられた橋から「若松橋」と呼ばれるようになった。
 この橋について、人々の同情を誘った事件があった。そのことが大正十一年五月二十九日付の新聞に「常呂川若松橋心中」という記事として載っている。その事件のあらましは―野付牛三条通の料理店一旗亭の酌婦で、新潟県出身の〈五郎〉と呼ばれる坂井マツ(当時二十二歳)と、滝上町役場書記の井谷一雄(当時二十五歳)が同月二十六日、若松橋から常呂川に身を投げ出して心中した。橋上には二人のはき物に井谷の中折れ帽子と遺書が残されていた。坂井はその年の三月まで滝上町に住んでおり、そのころから〈深く馴染を重ねて〉いたという。当時の別の記録には〈遊女の恋憐れなり〉とも記されている。こうした悲しい心中物語を持った橋であった。
 大洪水の度に流失を繰り返したこの橋は、昭和五十四年十一月になり、四径間連続合成PC桁で現在の八代目の橋として架けられた。そして「若松大橋」と命名されたものである。

Question 302

 色々な事情から「一緒に死の!」と川に向かい「二人は抱き合って橋の上から薄やみの中に落ちた。だがそこにはおぼれる水も、怪我する岩もなかった」と記されている明治期の著名な作家によって書かれた小説がある。この心中物語の橋は、次のうちのどれか。

①網走市「鏡橋」
②名寄市「名寄大橋」
③旭川市「神居吊橋」
④札幌市「豊平橋」

Answer

④札幌市「豊平橋」

 作家の岩野泡鳴は『憑き物』の中に、この豊平橋のことを書いている。それには札幌にいた泡鳴のもとに東京から愛人のお鳥が追ってきた。この『憑き物』はお鳥の札幌区立病院入院から始まる。二人はやがてどん詰まりにきた。二人は十一月三日の冷え込んだ日の夜〈一緒に死の!〉と豊平川に向かった。月がかげったり、照らしたりする雪道を進む。大通を横切って南一条から二条にでる。まだ大きな店などの電灯が街を照らしていた。無言の影二つは狸小路の掘り割り水道(創成川)を出て、それに沿って少し南へ行き、それを渡ってまた東へと歩いた。つき当たったところが豊平川で、それを札幌から豊平町へ渡す鉄橋は、昨年の大水(札幌も半ば浸水し、石狩川の沿岸はすべて大害を被った)時大破損をした。まだそのままになっていたが、別に木製の仮橋が架けられてあった。
 二人は抱き合って橋の上から薄やみの中に落ちた。だがそこには溺れる水も、怪我する岩もなかった。川床に積み重なった根雪のために死ねなかったのだ。北海道に身の置きどころがない、主人公は知友から餞別を集めてお鳥を伴い札幌駅をあとにする。尾羽打ち枯して札幌を去ったのである。

 この時の豊平橋は、明治三十一年に、本格的に川と闘う橋として錬鉄製のプラットトラスとして架けられたものであった。すなわち鉄の橋が架けられたのである。しかし明治四十二年の洪水で橋脚も傾いてしまう。そこで応急用の仮橋を下流側に架けてしのぐこととしたものであった。

 豊平川は大正のはじめごろ、豊平橋付近で水深四m、東橋付近で七mあり、降雨があると濁流は鉄砲水のように押し寄せ、激流が渦を巻いたとされる。

肌寒き風の夕べや橋通る 車馬の響きてひらく河原      ―田中正美(大正十三年)

Question 303

 橋が完成すると、開通式・渡橋式が行われ、これからの長い命と、安らけきを祈って「神事」による儀式が行われる。この橋は道内で唯一、牧師の祈祷で式が始まり、外国軍人がテープカットしたという橋である。それは次のうちどこか。

①真駒内川「真駒内橋」
②漁川「恵庭大橋」
③豊平川「藻岩橋(現・藻岩上の橋)」
④千歳川「千歳橋」

Answer

③豊平川「藻岩橋(現・藻岩上の橋)」

 橋が完成すると、竣工式(完成式)が行われる。橋の竣工式の特色は一般に修祓式と渡り初め式が行われることである。工事関係者参列のもとに、これからの橋の長い命と、安らけきを祈って「神事」による修祓式が挙行され、工事関係者代表によるテープカット、クス玉が割られ、親子三世代夫婦を先頭に渡り初めが行われる。
 さて、この橋は、藻岩下方面と真駒内方面とを結ぶ橋であり、昭和九年十二月に、橋長一五〇・〇m、幅員五・〇mの鉄筋コンクートT桁形式の橋で架けられた。戦後、昭和二十一年から米国の歩兵師団が真駒内にキャンプを設けたことにより、重車両の交通が目立つようになる。 
 そこで昭和二十八年から日米行政協定による安全保障諸費によって架け換えられることになった。
 昭和二十九年六月に完成した橋長一五〇・〇mのこの「藻岩橋(現・藻岩上の橋)」の渡橋式は、発注者の札幌市長ら関係者二〇〇人が参列して、まず真駒内駐屯の米国第一騎兵師団ランブソン牧師の祈祷で式が始まり、工事関係者から札幌市に引き渡しが行われた。続いて米国第一騎兵師団長代理・スチルマン副参謀長が、橋の両端を結んだ紅白のテープにハサミを入れる。そして副参謀長、市長ら工事関係者二〇〇人が渡り初めを行う。すなわち米国式の渡橋式のものであった。
 橋長一五〇・〇m、幅員六・〇mの鋼単純桁のものであり、恐らく道内の橋の中では唯一のものであろうとされる。そして昭和五十年に現在の「藻岩上の橋」となる。
 この藻岩橋と同日完成した豊平川の先代「幌平橋(橋長一五〇・〇m)」の渡橋式は、従来のように古式ゆかしい神式によって行われた。伊夜日子神社宮司の祝詞奏上の後、市長ら工事関係者が神官を先頭に三世代夫婦がこれに続き渡り初めを行ったものであった。
 同時に完成した藻岩橋が米国式で、幌平橋が日本式という対照的な渡橋式であった。

Question 304

 この橋ほど悲しい歴史を秘めた橋は珍しいといわれる。当時、この街の三分の一を焼きつくすという大火によってこの木橋に多くの人々が殺到、多くの犠牲者が出たものであった。その橋とは次のうちどれか。

①稚内市「柵内橋」
②岩内町「幌内川橋」
③小樽市「岩根内橋」
④函館市「大森橋」

Answer

④函館市「大森橋」

 函館市内を流れる川に亀田川がある。この川には現在二十数橋が架かっているが、この「大森橋」は、最も河口に近い橋であり、この橋ほど悲しい歴史を秘めた橋は、道内でも珍しいといわれる。
 これは昭和九年三月二十一日の函館大火であって、住吉町の民家から出た火は、風速二〇m余の烈風にあおられ、被災戸数二四、一八六戸、全市の三分の一を焼き尽くし、二、〇五四人の死者、重軽傷一二、五九二人、行方不明者六六二人という大変な大火災であった。この火災によって追われた人々は、避難のためこの亀田川に架かるこの橋に殺到した。しかし木橋であったため、避難民の荷物に火が付いて、それが橋に燃え移り、落橋となってしまった。
 しかしそれを知らない人々がこの橋に次々と押し寄せ、そして亀田川に転落したのである。さらに満潮時であり、しかも冷たい水に溺れて凍死したのであった。
 またこの橋の上流部に架かっていた木橋の「高盛橋」や「新川橋」もまた、避難民の重みで壊れてしまった。この時亀田川に呑み込まれた犠牲者は、八四五人にのぼったとされる。しかも最も多くの犠牲者を出したのは「大森橋」であった。
 やがて遅きに失したとはいえ、昭和十一年になって、鉄筋コンクリートの橋となった。橋長一七・三m、幅員二五・〇mのものである。そして昭和五十七年に橋長三四・一mの単純鋼合成鈑桁、幅員二五・〇mの現在の橋となる。
 この函館大火の後、大森橋のたもとに納骨堂が建てられた。「函館大火遭難者祈年慰霊堂」である。昭和十三年に市民の浄財で鉄筋コンクリートの大堂が建立され、引取人のない六七九体が祀られている。

▲余記―歌会初めの儀

 昭和五十七年一月十三日、皇室の伝統的新春行事である「歌会始めの儀」が、皇居宮殿・松の間で行われた。お題は「橋」である、天皇・皇后両陛下、皇族方のお歌や三万三百六十首のなかから選ばれた九首が、古式にのっとって披露された。

ふじのみね雲間に見えて富士川の 橋わたる今の時のま惜しむ     ―天皇陛下

鴨川のほとりにいでてながめやる 荒神橋はなつかしきかも      ―皇后陛下

車窓よりはるけく望む奥浜名湖 東名の橋清かに浮かぶ        ―皇太子殿下

橋ひとつ渡り来れば三月の ひかりに見ゆる海上の都市        ―同妃殿下

三代の夫婦揃いて新設の 橋渡りゆくテレビにて見し         ―三笠宮

瀬戸内の島々を結ぶ橋成りて よろこぶこゑの空にとどろく      ―召人・安東正郎

橋の幅にポール立てて除雪車を 徐々に導く吹雪の中を        ―新潟・岡田邦一

吊橋の風に揺られて軋む音 聞きつつ登校の列区切りゆく       ―山形・渡部繁治

Question 305

 町では、化石が発見されたのを契機に『進化の道』の街づくりを目指し「太古の時代から果てることなく、くり広がられた宇宙スケールのドラマが今、この街を豊かに色彩り始めています。進化の道、それは夢と笑顔の道です」とPRされている町は、次のうちどこか。

①網走管内「雄武町」
②渡島管内「木古内町」
③後志管内「仁木町」
④胆振管内「穂別町」

Answer

④胆振管内「穂別町」

 穂別町は、昭和五十年に町内で「首長竜」の化石が発見されたのを契機に、豊かな自然を背景に「森と化石とロマン」の街づくりに取り組んできた。そこで「進化の道」の整備基本方針として「地球の歴史がみえる商店街モール、街並みの整備。五つのゾーン設定(地球の誕生・海の生命・陸の生物・人類の歴史・穂別のまちづくり)。ポケット広場の整備。公共的施設、駐車場の配置。世界一の恐竜模型の配置(ポケット広場)、モニュメントゾーンの設定」とした。穂別商店街は、町の中心市街地の道道夕張平取線沿いの役場前から郵便局前までの約五〇〇mの区間で、比較的商業密度が高くなっている。「進化の道」として本事業を図る区間は、役場前から鵡川営林署前交差点までの九〇〇mであり、五つの区間に分けて整備をするものである。
 「進化の道」は「化石の里」を構成する重要な要素であり、この道を歩きながら地球の進化を学ぶ屋外自然史・文化史博物館であると同時に本町唯一の商店街として個性ある新しい顔づくりに寄与するものとし、連続街路灯はクビナガリュウをイメージの灯具を使用する。室蘭土現では「太古の時代から果てることなく、くり広がられた宇宙スケールのドラマが今、穂別の街を量かに色彩り始めています。進化の道、それは夢と笑顔の道です」とPRし、「壮大な地球のロマンが穂別の街によみがえる」とする。穂別町「進化の道」沿いに、ぼんやりと闇に浮かぶクビナガリュウやアンモナイトの街路灯は、さまざまな古代の生物たちが顔をそろえる。かつて林業で栄えた山あいの町も、一億年ほど前は、まだ海の底であった。その証として、海ガメや海トカゲなど貴重な化石が数多く町内から見つかっている。「化石の町」を象徴し、街路灯の摸型として長い眠りから目覚めたのである。照らし出され姿は、太古の海を泳いでいたころを思わせる。この街路灯は町民だけでなくこの町を訪れる一人ひとりに温かい光を照らし、その灯の中に、古代からの息吹とロマンと優しさを伝えてくれる。

Question 306

 『綺羅街道』と呼ばれ、自然と調和した街づくりを目指している町がある。「優れた道路景観は、道路自体が持つ美しさ、風景を美しく見せる道路の演出、そして道路利用者が感じる快適性の調和として考えることができる」としている町は、次のうちどこか。

①日高管内「浦河町」
②檜山管内「江差町」
③後志管内「ニセコ町」
④十勝管内「足寄町」

Answer

③後志管内「ニセコ町」

 通称「パノラマライン」とよばれている道道岩内洞爺湖線のニセコ町は、東洋のサンモリッツともてはやされる観光地の一つである。ニセコ町本通地区の延長一六八〇mが、マイウェイ・アワーロード事業として認定され「ニセコ四季の彩り、『綺羅街道』。自然と調和した街づくりを目指して」を方針とし、整備が進められてきた。まちの顔となるメインストリートであるこの地区の拡幅が、マイウェイ・アワーロード事業に採択されたことは非常に意義深く、二一世紀に向けたニセコ町の新しいまちづくりを進める上で、千載一隅の機会となっている。地元住民の意見を取り入れながら検討を進めきた。
 歩道の幅員が六・〇mというもので、この広がりが歩道を通路から空間に変え、さまざまなまちづくりの効果をもたらしている。また道路だけ美しくなっても、沿道の建物が古いままでは意味がない。住民の議論は商店街の再開発に結びついた。屋根や外壁の色調、材質、ドアやシャッターの材質など建物のデザインの基準を細かく定めた。電柱の地下埋設なども陳情して解決する。平成十四年二月に完成となる。
 広い歩道空間を、ヨーロッパの街頭を思い浮かべ、レンガの歩道に白いイスとテーブルを置き、オープンカフェを開いた。このオープンカフェは商店街に人通りを取り戻し、人だまりが人を呼ぶ。綺羅街道の活気に引かれて、車を止めるドライバーが増えた。「これからの道づくりを考えるキーワードが見えてくる。景観とコミュニティー、そしてそれらを支える新しい道路技術だ」とされる。さらに「優れた道路景観は、道路自体が持つ美しさ、風景を美しく見せる道路の演出、そして道路利用者が感じる快適性の調和として考えることができる」とされる。

Question 307

 この事業は、親しみと潤いのある「小さな村の国際通り」であって、この村の美しい自然景観と調和した道づくりを目指し工事が進められてきたものである。また地域の活性化を目的に「ふれあいまちづくり」事業として沿道建物群の整備を一体的に実施したのは、次のうちどこか。

①国道二二九号「泊村」
②国道二三一号「浜益村」
③国道二三七号「占冠村」
④道道古平神恵内線「神恵内村」

Answer

③国道二三七号「占冠村」

 国道二三七号は、旭川を起点に富良野市、占冠村、日高町、門別町を経由、浦河町へ至る主要幹線道路である。この占冠村は、大規模観光施設(アルファリゾート・トマム)の誘致を機に、JR、国道、道道の整備が進んだ。
平成七年度から占冠村中央地区で進めてきた国道二三七号占冠市街道路整備事業が、平成九年十二月に完成した。この事業は、親しみと潤いのある「小さな村の国際通り」であって、占冠の美しい自然景観と調和した道づくりを目指し工事が進められてきたものである。
 この道路は、大規模な観光開発や横断自動車道の通過などで将来、質量ともに大きな変化が予想されるため、幅員が狭い占冠中央地区の拡幅整備が行われてきて旭川開建では、平成元年度に事業化し、同七年度から着工、延長一、五五五mにおいて、幅員を一二mから二〇mに拡幅、歩道部にはカラーコンクリート平板を敷設、街路灯には、村木カエデの葉や姉妹都市アメリカ・コロラド州アスペン市の市木アスペンツリーの葉が描かれた看板を設置した。
また地域の活性化を目的に「ふれあいまちづくり」事業として沿道建物群の整備を一体的に実施、村が建設したショッピングモールセンターは、沿道のサービス施設として休憩、買い物、食事に利用されており、この年度約一四万人の利用があったという。
 住民を対象としたアンケート調査は「市街地の街並みがきれいで明るくなった」との意見が約七割を占めたほか、商店数が六年度に比べて九年に三店、事業所が四年に比べ八年では十二件増加するなど、地元の活性化が図られている。なおJR石勝線の占冠駅と新夕張駅間の三四・三㎞はその間に駅が存在せず、日本一長い駅間距離とされている。

Question 308

 この街は、北海道において、とりわけ歴史と伝統文化を有しており、整備に当たっては、街区全体の景観の統一による個性的な街づくりを進めてきた。昼は勇壮な街並み、夜は情緒豊かな街並みとされる街は、次のうちどこか

①上ノ国町「カササギ・ロード」
②松前町「松前藩屋敷通」
③伊達市「伊達物語回廊」
④江差町「江差街道」

Answer

③伊達市「伊達物語回廊」

 伊達藩士によって開拓のクワが下ろされた歴史的背景と「北海道の湘南」ともいわれる温暖な気候風土がこの伊達市のPRポイントとされる。人々が興味を示す雰囲気、歩きながら伊達の物語を感じることができる街並みを目指した商店街整備は「伊達物語回廊」と全体テーマを掲げ、伊達らしさにこだわった。昭和三十八年、中心市街地から北側への国道三七号の切り替えを機に新国道沿いに企業が張り付き、その後も大型店が相次いで進出、既存商店街は城下街型の道路形態の悪さ、整備の立ち遅れが重なり急速に沈下していった。そうした危機的状況の中で市街地の街路整備計画が浮上し、商店街の近代化の取組みが始まった。平成三年に打ち出された「伊達物語回廊」は、鹿島通を対象とする「歴史街道」、網代通を「フロンティア街道」南大通を「北の湘南街道」、錦大通を「浪漫街道」と四つのゾーンに分け各テーマにふさわしい道づくり、街並みの演出を目指したものである。トップを切ったのは市役所通商店街の「歴史街道」であり、武士によって開拓が行われたという歴史、風土に根ざしたテーマに基づき建物を近代和風に統一し、落ち着きと意外性を感じさせる改造が実施された。
 平成六年までに道路整備を完了、電線の地中化、工夫されたポケットパークも設け、江戸時代ヘタイムスリップしたような街並みは、都市景観大賞、まちづくり建設大臣表彰など高い評価を得ている。
 そうして次々と、北海道開拓の先駆けとなった伊達が有する西洋技術や知識の理解、現在に生きる伝統工芸など体験できるゾーンの「フロンティア街道」、温暖な気候や豊かな自然に恵まれ、健康・スポーツ・文化・産業を大切にするまちのイメージを感じさせるゾーンの「北の湘南街道」、伊達市で最も古い商店街や、飲食店街、住宅などの混在するところであり、花を中心としてまとまりを演出する「浪漫街道」の四つのゾーンが整備された。街路灯のデザインには、街並みの背景として沿道に立ち並ぶことから、特に気を使ったものとなっていて、情緒豊かなものである。

Question 309

 全国街路事業促進協議会が、実施している「全国街路事業コンクール特別賞」を受賞した坂道が道内にある。御影石で舗装し、街路灯なども歴史的景観を生かしたデザインで整備したのが評価されたもので、それは次のうちどれか。

①釧路市「富士見坂」
②室蘭市「測量山坂」
③小樽市「船見坂」
④函館市「基坂」

Answer

④函館市「基坂」

 歴史的なたたずまいを残す函館山のふもと、函館西部地区にあって、数多い坂道の中でも代表的な「基坂」が、平成七年度の全国街路事業コンクールで特別賞を受賞した。函館市は、平成五年に西部地区の「港が丘通」整備で、建設省の手づくり郷土賞を受賞している。
 今回のコンクールは、全国街路事業促進協議会が、平成元年度から実施しているもので、今回この「基坂」が入賞した。この坂道の車道、歩道を御影石の石畳で舗装し、街路灯なども歴史的景観を生かしたデザインで整備したのが評価されたものである。
 市では平成六年度に築後三十年以上たって、傷みが激しかったことから、歴史的な特性を生かした整備計画を策定し、幅員三六m余りの車道、歩道は、往時をしのばせる石畳に仕上げた。電線類は自治体管路方式で地中に埋設し、電柱のないすっきりとした景観を創出し、街路灯やボラードのデザイン、配置が生きている。さらに冬道の安全を確保するために、ロードヒーティングを導入した。都市ガスを熱源とした温水循環方式を採用している。
 なにしろ函館市における代表的な坂道の一つであり、かつては坂の上に、江戸時代中期から役所が存在している。松前藩時代には亀田番所、幕府直轄時代には箱館奉行所、明治になってからは開拓使の支庁、函館県の県庁、北海道庁の支庁などがそれで、そのため江戸時代には〈お役所の坂〉とか、〈御殿坂〉とか呼ばれた。明治になって、この坂の下に里程元標が建った。里数を測る基点である。それで基坂の名が生まれた。坂は明治十二年(一八七九)の大火後、改良工事を行い、石を並べてロールで鎮圧した現在の坂が同十四年に竣工したとされている。

Question 310

 この名前の坂道は、市内に二つあり、一つは警察署や地検支部、税務署などの怖いお役所がそろっているため、もう一つは、急な坂道で吹雪の中を、歯をくいしばって登校したことから命名されたものとされる。それは次のうちのどれか。

①函館市「二十間坂」
②小樽市「地獄坂」
③室薗市「仏坂」
④旭川市「台場坂」

Answer

②小樽市「地獄坂」

 小樽市はいうまでもなく坂の街で、中心市街地は港をカナメとして扇状に山手に延びている。海上から見ると、家並みが段々に連なり、公園や街路樹の緑が豊富に配置されており、落ち着いたうるおいのある街となっている。異国情緒もたっぷりで、北の小樽の景観は、南の坂の街・長崎とともに有名である。
 小樽市の坂道で一番印象の深い坂道と問われれば、やはり「地獄坂」ということになる。小樽には二つの地獄坂がある。一つは市内の中心部にある産業会館前の十字街から山手の方に向かって浅草寺に至る五〇〇mの坂道である。まず右手に小樽警察暑、札幌地検小樽支部、その上に小樽税務署、小樽道税事務所というように「コワーイ役所」がそろっている。それで地獄坂といわれるようになったとされる。
 もう一つは国道五号から山手に小学校、商業高校を経て小樽商大に至る一・五㎞の急坂である。商業高校前で一〇・六%、商大正門のあたりで八・六%の急勾配である。ここが地獄坂であり、小樽商大の前身は、小樽高商。明治四十四年(一九一一)の開校だ。当時は今のように人家も多くなく、冬になると天狗山おろしの吹雪が急坂にまともに吹きつけ、息もつけなかった。この吹雪地獄の中を、歯を食いしばって登校する。そこで学生や教授がこの坂を、いつか地獄坂と呼ぶようになったとされている。
 なお、市街地の市道で最も急勾配なのは、錦町、手宮スーパー前の手宮十間道路の坂で二三・四%。以下、富岡二の船見坂、陸橋から上部一九・七%、石山町の浄応寺坂一九・四%、その頂上から下がる稲穂五の色内小学校前の坂一九・一%、手宮公園から上、末広町三八の小樽稲荷神社への坂一八・四%、これが小樽で五本の指に入る急坂だという。

Question 311

 ロータリーなどというものは、大都市にのみ必要なもので、東京以北にはまだその例もないのに、北海道で初めてのもので先走ったことはだめ、として叱られるが、強引に認めさせて、昭和十五年に完成させたものである。それは次のうちどこか。

①網走市「駅前ロータリー」
②釧路市「幣舞ロータリー」
③旭川市「常磐ロータリー」
④帯広市「大通北ロータリー」

Answer

③旭川市「常磐ロータリー」

 旭川市内を走る国道四〇号の常磐ロータリーのある箇所は、そもそも旧牛朱別川が流れていて、常磐橋が架かっていた所である。昭和四年(一九二九)三月に内務・大蔵両省の起債の認可をえて、旭川市始まって以来の大事業が行われた。そして埋立て完了によって土地が市に寄付されたのであった。当時都市計画課長であった田島豊吉は、常磐橋の架かっていたこの一帯を都市計画により整備し、遠い旭川の将来を考えた。そこで熟慮の結果、ここに北海道で初めてのロータリーの設置を計画したものである。しかし道庁の都市計画課ではこの田島の提案を「ロータリーなどというものは、大都市にのみ必要なもので、東京以北にはまだその例もないのに、旭川あたりでそんな先走ったことはいらぬこと」として叱りつけてしまう。それでも田島は諦めることができなかった。「これは今だから出来るので、やがて人家が立ち並んで必要になった時にはもう出来ぬ」として、強引に認めさせたといわれている。
 「東京以北には例のないロータリーは、誇るべく珍とすべき」とし「今日の交通緩和にどんなに役立っているかを思うとき、また先人の偉功を多とせねばならぬ」とされている。なおこの時には五条一丁目にもロータリーが設けられた。常磐ロータリーは、昭和十一年にほぼ整備が終わり、同十五年に完成を見たのであった。
昭和六十年に、直径四〇m、広さ一、二五六㎡のロータリー整備を開始し、この中央にタワーを建設した。このタワーは旭川開建と、旭川市役所が共同で建設したもので、旭川の雪と氷をイメージしてシンボル化したものである。タワーの全高三五mのうち、下部の二〇mは旭川開建が、またその上部の一五mを旭川市役所が建設した。

Question 312

 かつてこの街の繁華街交差点に、ロータリー・タワーが設置されていたが、交通上の難点から撤去されてしまい、照明灯と時計を備えたものと代わる。その後この地区の工事との関連から撤去され、陳情の結果復旧されたが、それは次のうちのどこか。

①函館市「湯の川温泉交差点」
②札幌市「ススキノ交差点」
③小樽市「新光十字街前交差点」
④旭川市「三・六街交差点」

Answer

②札幌市「ススキノ交差点」

 ロータリーといえば、かつて札幌市内の南四条西四丁目薄野交差点にタワーが設置されていた。このタワーには「飲んだら乗るな」とか「一滴の酒が狂わす目と心」や「一度だけ一杯だけが事故のもと」などの標語が示されていた。しかし夜間、酔眼では読めなかったともされていた。しかしこのタワーは、交通上の難点から撤去されてしまい、代わって照明灯と時計を備えた塔が建てられた。この塔はススキノ交差点の「顔」ともされていたものであって昭和五十八年九月に地元ライオンズクラブなど四団体が設置した、高さ一二mの鉄骨製のもので、工費二、六〇〇万円を投じたものであり、札幌市に寄贈されたものである。
 この時計塔は、市営地下鉄「すすきの駅」の改札口増設工事の支障となることから、撤去されてしまった。四方から時刻が見られ、交差点のシンボルとして市民に永い間親しまれてきたものであった。
 市では工事終了後、現状復帰をする計画であったが、腐朽が激しく、大幅に補修するか、または建て替えの必要性があると判明、改修工事費が数百万円もかかることもあって、このまま引退となるものとされる。したがって薄野交差点のシンボルは消え去ってしまうことになるであろう。これも時代の流れであろうか。と同時に「薄野」の文字も「すすきの」が一般的な表現となり、かつてこの界隈をうろついたことが脳裏に焼きついている市民にとっては、寂しいの一語に尽きる。
 やがて平成二十年十月二十五日、時計付きのものが三年ぶりに復旧された。高さ九mのもので、四面に時計が付いたものであり、すすきの観光協会などが費用約七百万円を拠出、市当局も土台部分に費用約百万円を出して、かつての場所に新設された。平成十七年十一月に撤去されて復旧不可ともされていたものが、ここに見事復活したのであった。

Question 313

 道東地方の都市に、国道・道道・市道など六枝の交差点があり、ここにロータリーがあって、市民自慢のシンボルとなっている。特にタワーの類は設置されていないが、市民にとって愛着の深い道路施設の一つともなっているが、それは次のうちのどこか。

①十勝交差点
②幣舞交差点
③帯広交差点
④根室交差点

Answer

②幣舞交差点

 釧路市の幣舞橋のたもとに「幣舞ロータリー」がある。国道三八号の終点に位置し、旧国道四四号と道道二路線を含む六枝交差点となっている。
 この交差点は道内でも珍しいものであり、釧路市のシンボル的な景観から、近接する幣舞公園の花時計とともに市民にとって愛着の深い道路施設の一つともなっている。
 設置の時期は定かでないが、四代目幣舞橋の架橋の時に整備されたものとされている。昭和三十六年になって舗装補修がなされ、同五十年にロータリー島付近に排水溝を設置、オーバーレイにより縦断の調整がなされ、交差点容量の増大を目指して巻き込み部分の形状変更がなされて現在の形となったものである。
 このロータリーは、すぐ近くの「花時計」や幣舞橋上の「四季の像」とともに、釧路の観光の目玉ともされ、市民自慢のものともなっている。なにしろ釧路といえば「幣舞橋」となろう。この橋を飾る春・夏・秋・冬の「四季の像」はエキゾチックな雰囲気の橋である。釧路といえば「海霧」である。そんな霧も夕日を浴びて桃色に輝くのを見れば、ロマンチックになる。
 この交差点の近くに「出世坂」がある。市政六〇周年を記念して昭和五十七年に整備されたもので、自然石の石畳にロードヒーティングが施され、情緒と機能性を兼ねていて「長崎のオランダ坂にも負けないよ!」と市民は自慢する。かつて「地獄坂」ともいわれていたことがあったが、エリート校だった旧制釧路中学(現・釧路湖陵高校)の生徒の通学路だったことから、いつしか「出世坂」となったとされる。釧路の新名所の一つともされていて、このロータリーに落ち着いたムードを醸し出している。

Question 314

 現在通行している道路が、その開通以前にどうなっていたかということで旧道を訪ね歩き、道路事業の進展ぶりを体験してもらう目的で「山道歩こう会」というのが、昭和六十三年に初めて行われた。次のうち最初にこれが行われたのはどこか。

①国道二二九号 岩内町「雷電山道」
②国道三三六号 えりも町「猿留(さるる)山道」
③国道二三一号 浜益村「雄(お)冬(ふゆ)山道」
④道道函館南茅部線「川汲(かっくみ)山道」

Answer

④道道函館南茅部線「川汲山道」

 昭和六十三年十月二日、函館土現と南茅部町が「川汲山道歩こう会」を開催した。これは現在のこの道道が開通する以前はどうなっていたかということで旧道を訪ね歩き、道路事業の進展ぶりを、身をもって体験してもらうのが一番の狙いのものであった。当日は子供から老人まで約二百人が参加し晴天のもと約八㎞の山道を歩いて秋の一日を楽しんだものであった。
 現在の川汲道路は昭和四十三年に開通し、函館市と南茅部町とをつなぐ幹線道路として、重要な役割を果たしている。また大正十四年に開削された川汲山道の一部はNTTの管理用道路としても使われている。
 この歩こう会のテーマを「眠りを覚ます昔のみち」とし、函館市砥の沢の旧山道入口から川汲公園までの約八㎞を、森林浴を楽しみに歩いたものであった。急カーブが連続する旧道は、険わしい山道であって、子供たちは新しい発見をし、また昔を知る老人は苦労して山越えをしたことなどを思い出し、それぞれに思いをめぐらしながら山歩きを楽しんだものである。
 またこのために、地元の施工業者や地域の人々の協力により、危険箇所の補修をはじめ、道しるべなども整備されたものである。そしてゴールの川汲公園では、記念植樹を行い、豪華(?)な昼食会などを楽しんだのである。
 これからは多くの「歩こう会」のような企画が各地でされ、人間本来の姿からしてでも、自然との触れあいも大切なことはいうまでもない。ふれあいこれによって、その後各地でも山道を歩く会が開かれることを期特したい。その始まりがこの「川汲山道を歩こう会」であった。

Question 315

 蝦夷地の時代に開削されたこの山道を、町の文化財として指定し、保存を図るとともに、歩くことによって、たっぷりと歴史のロマンに浸ることができるとして「山道歩こう会」を実施しているのは、次のうちのどこか。

①仁木・共和町間「餘市山道」
②様似町「様似山道」
③豊浦町「礼文華山道」
④赤平市「赤間沢山道」

Answer

②様似町「様似(さまに)山道」

 様似町教育委員会では、古地図を頼りに山道の現地調査を繰り返し調査し、ルートを探し当てた。山道は険わしい中にも絶景が続き、踏査に要する五時間、たっぷりと歴史のロマンに浸ることがでるとして「様似山道歩こう会」などを実施している。
 町では山道入り口に標柱を立て案内板に「様似町指定文化財(昭和六十年十一月十九日指定)様似山道 幕府は寛政十一年(一七九九)東蝦夷地を直轄地とすると同時に警備及び産業上から道路の開削を急務としました。この年蝦夷地取締御用を命ぜられた大河内善兵衛政寿はシャマニに至って中村小市郎、最上徳内を難所のシャマニ山道(冬島―幌満間)などの開削工事を担当させました。三里(十二キロ)弱の山道には〈コトニ小休憩所〉が設けられ、明治六年(一八七三)には山中に旅籠屋〈原田宿〉が建ちました。海岸工事は、昭和二年(一九二七)には完成し〈シャマニ山道〉は自然と廃道になりましたが、現在〈様似山道〉(約七キロ)として様似町の文化財に指定し、保存をはかり往時の姿をほぼ保っています。 様似町教育委員会」とある。
 地元では「風光明媚な探索ルートとして」春と秋には「様似山道歩こう会」を開いている。これによって「何はともあれ、眠っていた様似山道は蘇った」のであった。山道は「洋々たる太平洋や絶壁にかかるいくつもの滝、そして岩間に咲く美しい高山植物を眺めながらの様似山道紀行、汗して歩くだけの価値はある」と町ではPRしている。
 「落ち葉を踏みしめ、露出する岩は苔むし、歩くと、タイムスリップして旅装の侍にでも遭遇しそうな錯覚に酔うのも楽しい」とされる。最近は「疲れた現代人を蘇生させるために、峠道を自分の足で踏み締めて歩き、失いつつある感動性の復活を願って」各地で山道を歩こう会などが盛んになってきている。

Question 316

 「観光客などから快適なトイレだ、と喜ばれる施設とするため、思いきって全額町費で建設しました。内部の設備についてはいろいろ配慮しましたので、峠のイメージアップに一役買う施設になると自信をもっております」とされる町自慢の豪華トイレは、次のうちのどこか。

①由仁町「馬追峠」
②和寒町「和寒峠」
③幌加内町「幌加内峠」
④新得町「狩勝峠」

Answer

④新得町「狩勝峠」

 この峠には、年間百万人を超える観光客が訪れ、車両も一日数千台にのぼる。これまであったトイレは、昭和三十七年に設けられたもので老朽化も著しく、しかも汲み取り式で照明設備もなく、夜間は手さぐりで始末する有様で、観光客から不評をかっていた。
 そこで、町では鉄筋コンクリート平屋建て一一六㎡総事業費一億八百五十六万円(一般財源)の水洗式のもので建設した。外壁は訪れる人に、さわやかな感じを与えるため、町の花のエゾヤマザクラをモチーフにした花弁や樹木の模様を配し、全体的にピンク色で彩っている。トイレの用水は五〇〇m離れた新設の井戸から汲み上げて引き、内部は床暖房が完備、女子用にはベビーベッドが設備され、身障者のために、入口にゆるやかなスロープを設け、身障者専用のトイレもある。
 町では「観光客などから快適なトイレだ、と喜ばれる施設とするため、思いきって全額町費で建設しました。内部の設備についてはいろいろ配慮しましたので、狩勝峠のイメージアップに一役買う施設になると自信をもっております」と語る。
 新得は広大な面積を有し、東京都の約半分であって、その八〇%が森林で占められ大部分が天然林である。特に狩勝峠は道内の景勝の地の中でも上位にランクされ、峠からの眺望についても評判が高い。
 なお道内のファッショントイレの先鞭をつけたのは、室蘭市の昭和六十二年に完成した「入江運動公園東トイレ」であって、日本トイレ協会主催の「グッドトイレ一〇」に道内から初入選したものである。室蘭文化の中心的役割を果たした室蘭公会堂をモデルにしたもので、正面の円柱や窓に大正時代のロマンを再現、内部は吹き抜けで、当時の駅前風景を描いたカラータイル、ベンチまで設置しているものである。

Question 317

 「人は何気なしに道を歩み、道はそれぞれの歴史を刻む」が、この道には「二つの〈栄誉〉を持っている」とされる。その一つは「市内で最初のアスファルト舗装にしたこと」、次に「車の締め出し(今でいう歩行者天国)である。それは次のうちのどこか。

①旭川市「昭和通」
②函館市「若松広路」
③札幌市「狸小路」
④小樽市「色内大通」

Answer

③札幌市「狸小路」

 札幌狸小路は「人を集め、親しみを感じさせる裏の盛り場的要素の一つで独特の雰囲気を作った」といわれ「狸小路の道は二つの〈栄誉を〉持っている。その一つは市内で最初のアスファルト舗装にしたこと。大正時代、全国で舗装が進められるなか、道内は凍上現象のため不可能だろう、と言われていた。ところが雨が降ればぬかるみ、乾けば馬ふん風の吹き荒れる道に悩んでいた商店街は大正十四年、二、三、四丁目の舗装工事を完成させた」。もう一つは「車を締め出した。今でいう〈歩行者天国〉の実施だ。当時、こんなしゃれた言葉のカケラも聞かれなかったころで、時代の先どりを見せる話。〈公道である市道から、時間時間制限はあるとは言え車を締め出すなんて思い切ったものだと、(昭和二十六年十月)〉古い人々は今、振り返るが、この発案者は定かでない。
 もう一つ狸小路といえば、装飾電灯―鈴蘭灯というのがある。道内で最初のものであって、当初はその明るさときらびやかさに市民は驚き、タ暮れになると、鈴蘭灯を眺めるためにたくさんの人が集まり、汽車に乗って見物に来る人さえあったといわれている。昭和二年五丁目町内会一四ヶ所に最初の鈴蘭灯を設置、舗装を実施する。そして六丁目は道路舗装ととともに、道路の上に渡していた街路灯をやめた。「葉茎をかたどった鉄柱にスズランの花形の電灯ガサを付けた鈴蘭灯は、道内各地に春を告げて咲き乱れるスズランをデザインした最初のもので、鈴蘭灯が狸小路を埋めた」。昭和十四年七~八丁目舗装完成、十二月鈴蘭灯は消灯となる。昭和十七年戦争の貴金属類供出で取り壊され、戦後昭和二十四年にアーチ型に装いを新たにした鈴蘭灯三七基が再建された。この鈴蘭灯も三十三年からのアーケード建設で撤去される。本格的なアーケードも道内ではここが最初のものである。昭和三十五年一~七丁目間のアーケードが完成、記念式典が行われた。
なお昭和五十七年、一~六丁目間に新アーケードとカラー舗装が完成となる。

▲余記―狸小路話題

 「女性が男性を巧みに誘って財布の底をたたかせる、その化かし方が狸より上手だったので人々はここを狸小路と呼んだ、という。寄席、芝居小屋、活動写真、遊技場などが建ち商店も出現して道内随一の歓楽街となっても狸小路の名称は残った」。
 「あまたの不況や苦境を乗り越える老舗商店街らしい逞しい商魂がここにある。戦前の観音像、二代目の狸地蔵による狸祭りも当たった。アーケードもすべて新装し華やかな飾り付けが〈ポンポコサンバ〉と人の波に揺られている」(『さっぽろ文庫』)。

野分過ぐ狸小路をかがやきて   ―園田夢蒼花

福壽草狸小路で購ふとせむ    ―北  光星

瀬戸物屋の店先に据ゑし大狸 大きふぐりを土にひきずれる   ―長野英樹

人影の少なき朝の商店街 アーケードのみ明るく続く      ―原 幹子

道路附属物関係

Question 318

 道路の中央分離帯は、交通安全上、また車の流れなどから重要な施設の一つであるが、北海道では当初除雪などの問題からなかなか設置されなかった。やがてまずは試行でということで設置されたが、北海道の国道で最初に設置された場所は次のうちどこか。

①国道五号札幌市北一条通り
②国道十二号旭川バイパス四条通り
③国道三六号札幌市南四条通り
④国道二三〇号札幌市石山通り

Answer

②国道十二号旭川バイパス四条通り

 中央分離帯は、道路整備状況を見る一つの目安ともされている。東京・大阪などの大都市では、他を大きく引き離して設置率が高い。
 中央分離帯には大きく分けて二つの機能があるとされる。その一つは交通機能である。すなわち往復の交通流を分離することにより、対向車線への逸走による重大事故を防止すること、転回(Uターン)等を防止し、交通流の乱れをなくして安全性を高めることである。中央分離帯があれば夜間走行時の眩光が防止され、歩行者の横断が安全でかつ容易になることもある。二つ目は空間機能である。これは市街形成、防災、景観形成機能を有したシンボル道路形成の一部となること、空間確保による騒音の減衰、樹木による大気の浄化などの生活環境保全機能や、樹木による緑陰形成機能を有した緑化空間となることである。
 北海道の国道においては、昭和四十四年に国道十二号の旭川バイパスの神居町一丁目から四条二丁目にかけての延長二〇四三mが完成したので、そこでこの区間に中央分離帯を設置して、除雪の対応など試行しようとしたものが最初である。続いて札幌駅前から北一条(但し道道区間)までと、それに続く国道三六号の薄野までの区間が、昭和四十六年に設置され、さらに薄野から豊平橋までの間がオリンピック開催から豊平線の市電廃止にともない設置となる。
 なお、道路構造令では「車線の数が四以上である第一種、第二種または、第三種第一級の道路には、トンネル区間等上下車線が独立して設けられている場合を除き、必ず中央帯を設けることとする」と定められている。

Question 319

 一般に中央分離帯は地形、土地利用の状況などから幅員を広く取ることができない。したがって一般的には幅員が小さく、車道面から高めた分離帯を設けることが基本方針となっている。しかし、北海道において日本で唯一の広幅分離帯一二mという自然林をそのまま残したものがあるが、次のうちどこか。

①国道三六号千歳市美々
②国道二三五号日高自動車道苫小牧市静川
③高速自動車道千歳市・苫小牧市間
④高速自動車道芽室町祥栄

Answer

③高速自動車道千歳市・苫小牧市間

 中央分離帯には、表面処理に張芝、地被類植栽、舗装などがあり、張芝、地被類は広い分離帯で、舗装は狭い分離帯で使われるのが普通である。広い分離帯での張芝、植樹類は美観上でも好ましいが、手入れがなかなか大変である。
 昭和五十三年に開通した高速自動車道の千歳・苫小牧間一一・六㎞の区間に、日本で唯一の広幅分離帯一二mというのがある。
 当初の計画案では、できるだけ広幅とする二〇mであったが「対向車線の幅が道路を踏み外した時に、なんとか止まって反対車線に入らない距離は、一二mとされているので」ということで、この二〇m案が採用されず、一二mとなったものである。
 この分離帯は自然林をそのまま残すというものであって、対向車線の車が見えない道路は外国にはあるが、日本にはまだないことと、それを造れる道路としてはここしかないということで、自然林を残した広幅分離帯が採用されたものである。もちろん全国の高速自動車道では最初で最後のものであろうとされている。
 この既存林を生かした広幅中央分離帯一二mの認可について「当時これの認可をもらうのに、知恵を出し合った。この区間はなだらかな自然林の丘陵で、沿線には一軒の家もない。高速道路には最も恵まれた条件である。…環境施設帯として中央分離帯に自然を残すため、二〇mの幅を認めて欲しい。恐らく全国的に見ても、此処でしか出来ないであろう、最も望ましい高速道路を築造したい。と熱烈な想いを込めて」熱心に関係機関に説明したが、結果的に検討の結果、一二mに決定したのであった。

Question 320

 幹線道路の中でも交通量が特に多いことから、車道の幅員を一挙に従来の幅員から三・四倍とし、中央分離帯の設置が要望されたが、種々の問題から設置されず、暫定的に道路の中央に歩行者のための「安全島」を設け、中央分離帯の設置が二十数年後に実現したという道路は、次のうちのどこか。

①国道三六号千歳市美々地区
②国道三六号札幌市駅前通り
③国道二三〇号札幌市北一条―南六条間
④道道西野真駒内清田線真駒内曙地区

Answer

③国道二三〇号札幌市北一条―南六条間

 札幌市内の国道の中でも国道二三〇号の札幌市北一条から南六条間は特に交通量が多く、従来の車道九・〇mの幅員では交通処理に困難があった。そこで昭和三十八年までに一挙に車道幅員を三〇・五mと拡幅した。
 そこで通過車両や横断歩行者安全対策のため、中央分離帯(マウントアップ)の設置を要望したが、冬期の除雪対応などから、当時はまだ中央分離帯の設置は検討の段階であったこと等から設置が認められなかった。したがって、歩行者の横断対策のために、信号機のある場所以外での横断は危険であったことから、横断する歩行者が、一旦車道の中央に設けられた「安全島」で立ち止まり、車の流れを確かめて再び歩き出すという施設を設けたものである。
 この安全島は、地域住民と道警本部とも打ち合わせて、南大通り、南二条通り、南五条通りの信号機のない横断歩道の三個所に設置したものであった。この安全島には島の前後にガードフェンスを設け、島(一・八×三・〇m)にはカラー舗装を施工し、夜間はライトアップをしたものである。
 やがて昭和六十二年になって、やっと中央分離帯が設置された。延長一、〇〇〇mにわたり、幅員五・五mの中央分離帯を設け、中央分離帯および歩道部にトチノ木、トウヒ、ツツジなど全部で四、二六一本が植えられたものである。
 この中央帯の整備によって、幅員構成は、歩道七・二五+車道一二・五+中央分離帯五・五+車道一二・五+歩道七・二五mの合計四五・〇mの快適で安全な幹線道路として生まれ変わったのであった。

Question 321

 防護柵は古く「駒止め」と称する施設があり、多くは海岸擁壁や高盛土個所に設けられていた。昭和三十年ころから、従来のコンクリート、木柵、石などによる駒止めに代わってガードレールやガードケーブルが登場してきた。道内で本格的に設置された最初の道路は、次のうちのどこか。

①国道五号「小樽市張碓」
②国道十二号「旭川市神居古潭」
③国道三六号「北広島市大曲」
④国道二三〇号「札幌市板割沢」

Answer

①国道五号「小樽市張碓」

 防護柵は主として車両が走行中に進行を誤って、車道外に逸脱するのを防ぐとともに、乗員や車両の傷害、破損を最小限にくい止め、さらに車両を正常に進行方向に復元させるための施設である。昭和三十、三十一年の両年にわたりガードレールの静荷重および衝突試験が、また同三十二年にはガードケーブルの室内模型実験や、実車試験が建設省やメーカーによって行われてきた。そして昭和三十一年にわが国で初めて神奈川県箱根道路で使用され製品が市場に登場する。
 北海道では国道三八号釧路市鳥取で昭和三十二年にガードレールが初めて設置され、ガードケーブルもこのころに、道道千歳鵡川線鹿沼で設置されたのが始まりであった。本格的に設置されたのは、昭和三十四年国道五号の小樽市張碓地区(六ヶ所七七〇m)および、国道十二号江別市地区の舗装工事であり、その後各地にガードケーブルが設置されるようになってきた。北海道開発局では昭和三十五年に防護柵の設置基準を定める。それには盛高八m以上の個所で事故の場合に危険を及ぼす区間、または盛高四m以上で曲線半径一五〇m以下の区間に、鋪装工事の際に設置するとした。この場合は除雪等の問題を勘案して、ガードケーブルを採用することを原則とした。しかし短区間の場合や積雪の少ない地方では、ガードレールを使用しても差し支えないとしていた。
 一般に盛高の大きい所には両側に、盛高が小さく曲線半径の小さな所には、曲線部の外側部のみに設置していた。昭和四十年代に入ると、設置の基準も「盛高五m以上の区間、盛高三m以上で曲線半径一五〇m以下の必要な区間。道路が海、湖、川等に接近しているため必要と認められる区間」となる。昭和四十年には「防護柵設置要綱」が、道路交通を守るべき安全諸施設の中で、防護柵の果たす役割は極めて重要であると定められ、その後の改訂を経て現在に至っている。いずれもその時代時代の防護柵のニーズに応じて改定されてきたものであった。

Question 322

 昭和三十年代中ごろから、路線の定期バスの発着により、本線交通流が乱されるということで、各方面で「バス停車帯」設置の必要性が議論され、各地で設置されるようになってきた。道内でその最初に設置されたのは、次のうちのどこか。

①国道五号「札幌市琴似地区」
②国道十二号「札幌市白石地区」
③国道三六号「札幌市月寒地区」
④国道二三〇号「札幌市藤野地区」

Answer

②国道十二号「札幌市白石地区」

 定期バスの発着により、本線交通流が乱され、特に二車線の郊外地道路においては、定期バスの発着によって、後続車が一旦停車し交通流を阻害する。そこで「営利企業であるバス会社がこの路線を利用している以上、彼らに設置させるべき」という意見もあった。
 昭和四十一年に国道十二号白石地区で、市街部の四車線化に合わせて、定期バス運行の国鉄バス、札幌市営バスの停留所を統合すると共に、バス停車帯を設け、バスの発着による交通流をスムーズにしようと考えた。道内で最初のものであった。この白石地区の歩道幅員は四・五mであり、一般歩行者および乗降客のたまり場等を考慮して、最小限の歩道幅員が二・五mは必要とし、歩道部に二・〇m食い込む形の停車帯を設けることとした。すなわち車道部の路肩一・〇mを加えると三・〇mとなるものであった。
 北海道開発局では、この地区での設置状況から検討し、昭和四十四年の道路設計基準に「バス停留所の設置基準」を設けた。すなわち「停車帯のない市街部の道路で、定期バスが運行しておりその発着により本線の交通流を乱すおそれのある場合はバス停留所を設ける」とした。
 昭和四十五年の設計基準では、全国的な動きに合わせて「バス停車帯」という名称となり、設置基準も「第三種一級の道路で定期バスが運行している場合は、バス停車帯を設置するもの」とし、第三種二級の道路においてもバスの発着により本線交通流を乱されるおそれのある場合には、バス停車帯を設けることとした。もちろん第四種一級(市街地部)の道路においても設けることができるとした。
 これの設置によって交通流の混乱と、それに伴う事故発生を防ぐことができ、交通流の円滑化、交通容量の増加が図られたものであった。

Question 323

 都心部では駐車場が立体化され、駐車場ビルも建ったが、依然として路上駐車が目立っている。なにしろ都心部の商業区域では絶対数が不足している現状にある。そこで慢性的な渋滞が問題となっているこの地区に、有料道路融資事業等による駐車場を建設したのは、次のうちのどこか。

①帯広市「駅前駐車場」
②旭川市「七条駐車場」
③釧路市「幣舞駐車場」
④小樽市「東雲駐車場」

Answer

②旭川市「七条駐車場」

 自動車駐車場とは、道路法第二条第二項第六号および道路法施行令第三四条の三第六号に定義する道路附属物をいう。すなわち道路管理者が道路の附属物として道路に接して設ける自動車駐車場である。道路構造令第三二条には「安全かつ円滑な交通を確保し、又公衆の利便に資するため必要がある場合においては、自動車駐車場…国土交通省令で定めるものを設けるものとする」とある。
 道路には、道路利用者の各要求に対して、その道路の性格に応じて各種のサービス施設を設けることが必要な場合がある。その一つが自動車駐車場である。これには路面上の駐車場と、地下駐車場がある。駐車場問題はモータリゼーションの進展を背景に、都市における違法駐車問題、商店街の駐車場不足による地盤沈下、住宅地における車庫不足問題において顕著化しているものである。この問題の解決には、適正な交通機関分担、駐車施設の整備・有効利用、適正な規制・取締り、モラルの向上など総合的な施策が必要とされている。
 国土交通省では、民間と公共の役割分担のもと駐車設備を推進してきている。そして有料融資事業について、安全かつ円滑な道路交通を確保するために必要とされる公共性の高い駐車場で、民間では採算的に経費が困難なものについて、地方道路公社または道路管理者が設置する道路附属物である駐車場に対して無利子長期貸付を行っている。北海道においては有料道路融資事業等による駐車場に「旭川市七条駐車場」がある。
 また交通安全事業による駐車場としては、帯広市駅北地下駐車場(二〇〇台)、札幌駅北口地下駐車場(二三〇台)、真駒内パークアンドライド駐車場(一五〇台)がある。

Question 324

 国道下の地下駐車場は、平成三年、建設省では東京など大都市の駐車場不足を解決するため、道路法改定に伴い、全国で一斉に工事を始めた。道内でも国道下に地下駐車場の建設が始まり、平成十三年に完成したのは、次のどこか。

①国道五号「小樽駅前通地下駐車場」
②国道十二号「旭川四条通地下駐車場」
③国道三八号「依田町地下駐車場」
④国道二三〇号「北一条地下駐車場」

Answer

④国道二三〇号「北一条地下駐車場」

 地下駐車場は大都市から地方都市へと波及して行った。この地下駐車場は限られた空間を有効活用するために、今後も建設されて行くであろう。国道下の地下駐車場は、平成三年建設省では東京など大都市の駐車場不足を解決するため、道路法改定に伴い、全国で一斉に工事を始めた。そし札幌市の国道二三〇号「北一条地下駐車場」が、平成十三年三月七日に完成し、開発局長外六名によって喜びのテープカットが行われた。
 この駐車場は北一条西四丁目から西六丁目間の国道二三〇号の国道四車線拡幅工事と並行して駐車場工事を施工したものである。工事規模はRC造り、地下二層構造(地下一階は通路、地下二階は駐車場)のもので、延長三一五m、全体面積一一、六〇〇㎡、全体幅三三・七mで、車椅子使用者用四台を含む一六三台が駐車可能なものである。工事は平成七年から建設を進めてきたものであって、総事業費約七〇億円を投じて、慢性的な渋滞が問題となっている北一条通の路上対策として建設したものであり、駐車形式は自走式である。なお駐車場は(財)駐車場整備推進機構が今後、管理・運営を行うものである。
 この北一条地下駐車場が完成時には、全国で十一個所の地下駐車場ができ、その管理運営のため、平成五年に(財)駐車場整備推進機構(東京)が作られる。この北一条駐車場一階には煉瓦調の壁、数百人が集まれる広場、端末で中山峠などの映像を呼び出せる大型スクリーン、トイレ、公衆電話の設備もある。「車に依存する市民が多い現状で、路上駐車の削減と渋滞緩和につながると考える。多額の建設費がかかってはいるが、公共施設は長い目で見て効果を判断する」という意見と、また「都心に今以上の車を呼び込むような施設を作るとは、市の交通対策との整合性が理解できない」という意見もあった。

Question 325

 駐車場には路側に設けられたものがあり、北海道は特有の長距離運転が多く、運転者の過労による交通事故防止のため、従来から路側駐車場が積極的に設置されてきた。道内で路側駐車場が最初に設けられたのは、次のうちどこか。

①大雪国道・留辺蘂
②積丹国道・沼前
③黄金道路・音調津
④屈斜路摩周第一展望台

Answer

④屈斜路摩周第一展望台

 北海道は特有の長距離運転が多く、運転者の過労による交通事故防止のため、従来から路側駐車場が積極的に設置されてきた。特に最近では第三種道路において、できるだけ旧道敷地、土捨場、切土跡などを利用して各地に設置されてきた。北海道における路側駐車場の最初のものは、昭和二十七年の屈斜路摩周第一展望台とされ、舗装はされていなく、特別な設備もされていなかった。
 昭和三十四年に国道三九号当麻町伊香牛に小型車一三台、大型車三台が駐車できるものが設置されている。その後、各路線に空き地を利用して設置されるようになる。その多くはゴミ箱のみという設備であったが、やがてトイレを設備した大規模なものが設置されるようになってきた。
 路側駐車場はあくまでもパーキングエリアであって、短時間の点検・整備および運転者の疲労回復のための施設である。したがって人と自動車が必要とするサービスをほぼ完全に満たすサービスエリアとは異なる。
 大型の路側駐車場は、幹線道路かまたは観光地に関連する道路に設けられるものが多い。路肩が狭い道路においては、車両の故障、パンク時等に、他の交通に支障を及ぼさないようにするため、一時的に退避できるように非常停車帯を設けることになっている。すなわち「第一種第一級、第二種の道路で、左側路側幅員が二・五m未満の区間が長い場合には、非常駐車帯を設置するものとする」と定められている。またその他の規格の道路でも「計画交通量が少ない場合を除き非常駐車帯を設置するものとする」ことになっている。
 国道三三六号、黄金道路の広尾町ビタタヌンケ路側駐車場には「近藤重蔵蝦夷地探検道路開削二百年記念碑」や、黄金道路「全通記念碑」、道路建設にあたり殉職した技師、作業員ら二一人の足跡をしるす「殉職者祈念碑」が並んで建てられている。

Question 326

 昭和四十年代に入ると、交通事故が多発しこれに対処するため、立体横断施設がその対策の一手段として各地に建設されていった。この中で歩行者横断歩道橋が、道内国道で最初に架設されたのは、次のうちのどこか。

①函館市五稜郭横断歩道橋
②余市町大川横断歩道橋
③札幌市菊水横断歩道橋
④室蘭市輪西横断歩道橋

Answer

④室蘭市輪西横断歩道橋

 歩行者横断歩道橋は、「車道を横断する歩行者を車道から立体的に分離することにより、横断歩行者の交通事故を防止し、合わせて自動車の安全かつ円滑な交通を確保することを目的」としたものである。この立体横断施設は、設置の形式によって横断歩道橋と地下横断歩道に大別される。横断歩道橋は車道面より上方に分離した立体施設であり、地下横断歩道は車道面より下方に分離した立体施設である。横断歩道橋は、立体横断施設の中で最も一般的な形式のものであって、学童(幼稚園児を含む)の横断を主目的として設けられたもので、設置にあたっては、ピーク時一時間当たり横断者が一〇〇人以上、または横断幅員と道路の交通量の三要素によって決まる。もう一つは信号機を設置しても事故の防止が期待できない場所や、横断歩行者が極めて多い(おおむね五〇〇人/時以上)の場所に設置されるものである。
 立体横断施設は全国的に見ると、戦前から昭和三十年代後半まで、地下横断形式のものが圧倒的に多く、同四十年代に入ると通学路等安全施設のため、緊急に措置しなければならなくなってきた。いうまでもなく交通事故の多発にともない、横断歩道橋が全盛時代を迎えることになった。
 道内の国道で、昭和四十一年に国道三六号室蘭市輪西横断歩道橋が最初に架けられたものである。橋長六二m、幅員二・二五m、工費六百五十八万円であった。国道以外で札幌市内を見ると、昭和四十一年十一月北海道が平岸中学校前に設置したのが最初のものである。
 なお昭和六十一年時点では北海道開発局所管のものが一二四橋、北海道所管のものが七一橋、市町村所管のものが五四橋であったが、平成十六年現在では、北海道開発局所管のものが一二三橋となっている。

Question 327

 昭和四十年代に入ると、新設道路では横断歩道橋が改築事業に合わせて三差路、五差路などの変形交差点、あるいは交通停滞の予想される筒所に設置されるようになってきた。交差点をうまく生かした円形(○型)の横断歩道橋があるが、それは次のうちのどれか。

①国道五号「稲穂横断歩道橋」
②国道十二号「北一条東七丁目横断歩道橋」
③南郷通「菊水横断歩道橋」
④国道五号「北陽中学校横断歩道橋」

Answer

③南郷通「菊水横断歩道橋」

 歩道橋には、歩行者の横断対策として、ロードヒーティングが施され、中には屋根付きのものもある。また自転車、乳母車、車椅子の通行を考慮して、昇降方式を斜路とするものがある。階段部の勾配は一対二が標準とされ、斜路では一二%を超えないようにと規定されている。一般の歩道橋はI型ものであるが、地形や交差点の関係から、○型、□型、X型、H型などもある。歩道橋は地下横断形式のものより階段部が多い。
 南郷通の六差路に架けられた円形(○型)の菊水歩道橋は、南郷通りの改良工事に合わせて昭和四十六年に六差路の交差点の地形を巧みに利用して、直径五六mの円型歩道橋を完成させた。全国的にもユニークな橋で、全日本建設技術協会から賞を受けている。国道十二号の北一条東七丁目の横断歩道橋はX型のものである。また創成川横断歩道橋は、揺れる橋として話題になり、螺旋階段から歩道部分までを屋根ですっぽり覆った真駒内横断歩道橋も話題の一つの横断歩道橋である。
 昭和四十一年からは交通安全施設整備五箇年計画に基づき、横断歩道橋の設置が促進されてきた。昭和四十二年に札幌市が創成小学校前に一基、北海道が琴似駅前など五基、北海道開発局が豊平駅前など四基を建設し、以降年々新設されていった。国道の横断歩道橋の設置状況をみると、昭和四十二年に一五橋、同四十三年には二六橋、同四十四年には一三橋とこの三箇年で五四橋が架けられたものである。
 このころは、車道を横断する歩行者を、自動車交通から立体的に分離することにより、歩行者等の安全を確保しなければならない施設として「道路の状況、交通の状況を考慮し、経済的な効果もあわせて検討したうえで、立体横断施設の設置を決定しなければならない」とされ、多くの歩道橋が架けられたのであった。以後は横断歩道橋の批判が高まり、昭和五十一年の石山市街を最後に新設されたものがない。

Question 328

 平面交差点において交通事故を防止し、交通の混乱、渋滞の発生を防止するため、必要ある場合においては、交通信号機を設けるものとす、と定められているものである。道内で最初に信号機が設置されたのは、次のうちのどこか。

①函館市・駅前若松交差点
②小樽市・駅前稲穂交差点
③札幌市・北一条駅前通交差点
④札幌市・南一条四丁目十字街

Answer

④札幌市・南一条四丁目十字街

 大正八年(一九一九)に、わが国に信号機が登場し、東京・上野広小路交差点が第一号であった。この信号機は「トマレ」と「ススメ」という文字が書かれた板を、手動で動かすというシンプルなものであった。やがて交通事故が増えるにしたがって、信号機の設置が要望されるようになってきた。わが国で初めての電気で動く交通信号機が登場するのは、昭和五年の東京・日比谷交差点であった。
 北海道に自動式信号機が登場したのは、昭和二十四年九月十日のことであり、札幌市南一条西四丁目十字街である。赤・黄・青が定時間毎に変わる「定周期式信号機」で、夜間になると電源を切り休止していた。またラッシュ時には警察官が立って交通整理をしたものである。北一条西四丁目交差点には二年後の昭和二十六年五月に、札幌駅前交差点には昭和二十八年六月に設置となる。
 当時は主要交差点の中央に台を置き、警察官の手信号によって交通をさばいていたものである。信号機の使命は道路交通の安全を図るということと、いかに交通をスムーズに走行させることにある。そこで現在では、他の信号機と連動して、総合的コントーロルする系統式のものになってきた。現在では交通管理センターでコンピューター操作によって制御されている。さらには交通量の変化に対応させるために、専用感知器を使って赤や青の時間を自動的に調整する感応制御式のものが普及してきた。なお左折、直進、矢印の信号だけを出し交通制御するセパレート方式のものがある。これは渋滞解消に大きな威力を発揮していると好評である。
 信号機の話題としては、札幌駅前通の四丁目十字街のことである。ここには車道と歩道との境目の縁石に、信号のシグナルが埋め込まれていた。この考え方は「人間は元来、上を向いて歩くことは不向きである。特にお年寄りや子供はなおさらです」。だからということで、昭和五十七年九月に、全国で初めての歩行者専用の埋込式信号機が四隅に誕生したが、現在は存在しない。

Question 29

 信号機の色は「赤・青・黄」の三色であるが、昭和五年に初めて登場した時は、警察は「止まれは赤色、進めは緑色、注意は黄色」としていた。それでは、現在の「赤・青・黄」となったのはなぜなのか。誤っているのは次のうちのどれか。

①新聞が「緑」のことを「青」と誤報
②「赤・青・黄」は色の三原色で
③現在「緑色」から「青色」に
④国際的にはまちまち

Answer

④国際的にはまちまち

 昭和五年に初めて信号機が登場した時、警察は「止まれは赤色、進めは緑色、注意は黄色」としていた。ところがなぜか新聞は「ススメは緑」のことを「青」と書いて報じてしまったからだとされる。しかしながら「赤・青・黄」は色の三原色であるので、一般には「覚え易い色」と好評であった。
 そして信号機の色は「青」と定められていたのに、なぜか実際の色は、しばらくの間「緑色」であったのにもかかわらず「青信号」と呼ばれていた。しかし一九七〇年代に入ると、本当の青色信号が作られようになり、現在では青信号が従来からの「緑色」から本当の「青色」となっている。
 信号機の色は国際的に決められている色である。イギリスで最初に決められたものが始まりである。それではなぜ「青・赤・黄」としたのであろうか。これには色々な説があるが、なんといっても「赤」は最も目立つ色であり、血の色でもあるためか、ひときわ目立つ色でもある。まず重要な「止まれ」に選ばれたのであろう。また西洋では「悪魔の色」とされている説もある。なんといっても目立つ色で、他の色よりも刺激の強い色であって、危険を知らせるにも最も良い色であろう。
 「青」は世界的にもなんとなく「平和な色」とか「希望の色」とかというイメージがある。空と海の色も青である。キリスト教では「神聖な色」ともされている。それで選ばれたという説がある。「黄」は一般的に「派手な」とか「明るい」とか「陽気な」という意味がある色である。この黄色は他の色よりも明るく、視認性が優れていることから「注意」を引く色としては最適である。しかしなんといっても「赤・青・黄」というのは、色の三原色であるので、信号機の色としては必然的であろう。

Question 330

 「道路には火災、交通事故、車両故障等の発生を関係機関に緊急連絡するため、必要がある場合においては、適切な間隔で非常電話を設けるものとす」とされている。北海道のトンネルにおいて、初めて非常警報装置が設けられたのは、次のうちのどこか。

①小樽市「平磯・張碓トンネル」
②札幌市「定山渓トンネル」
③上磯町「茂辺地トンネル」
④積丹町「厚苫トンネル」

Answer

①小樽市「平磯・張碓トンネル」

 北海道のトンネルにおいて、初めて非常警報装置が設けられたのは、昭和四十三年、国道五号小樽市内の「平磯トンネル」であった。また同国道五号の張碓トンネルにも設置され、翌四十四年に両トンネルに非常電話が設置されている。当時としては画期的なことであった。
 道路情報提供装置の一つとしての「非常電話」は「道路には火災、交通事故、車両故障等の発生を関係機関に緊急連絡するため、必要がある場合においては、適切な間隔で非常電話を設けるものとす」とされている。これには通話先が警察と消防のみの場合と道路管理者へと通じる場合がある。非常電話の設置場所には「非常電話」標識を設ける。特にトンネルの場合には視認性を高めるため、標識の内部照明を行うことが多い。設置間隔は、トンネル等に設置する場合で二〇〇m以下とされ、その他の場所では一、〇〇〇mが標準である。トンネル内には「非常電話」と「押しボタン式通報装置」が併設されている。トンネル内で「事故・火災などの発生などがあった場合には、警察、消防に、いつ、どこで、誰が、何にをどうしたかを、あわてずに伝えるためのものが非常電話である。
 押しボタン式通報装置は、事故・火災などの発生を、道路を管理している事務所などに伝えるための装置である。この通報によりトンネル出入口の表示板に事故の発生が表示され、赤信号が点灯して警報音が鳴るものである。
 またサービスエリア、パーキングエリア等についても設けることが原則となっていて、あくまでも事故等の通報、援助を求めることであり路側やサービス施設内に設ける専用の電話である。もちろん道路管理者は、発信個所が自動的に確認できるものである。

Question 331

 ぼんやり居眠り運転により、対向車線にはみ出し、正面衝突事故の発生を防止するということから、整備が進められている「ランブルストリップス」というものがあるが、それは次のうちで誤っているのはどれか。

①舗装路面上に隆起伏あるいは溝状の直線パターンを設置
②正面衝突事故が、施工前に比べて五五%も減った(平成十七年七月に報告)
③うっかり、ぼんやりや居眠りによる事故に対し、有効な事故対策手法のもの
④中央分離として設置する、樹脂製ポールの一m当たり五千五百円よりやや高価

Answer

④中央分離として設置する、樹脂製ポールの一m当たり五千五百円よりやや高価

北 海道は交通事故による死者が多く、この死者を減少させることが急務となっている。特に国道では事故発生件数の割に死亡者の割合が高い。人対車両を除いては正面衝突、路外逸脱、工作物衝突事故など、郊外での発生件数が多くなっている。このような事故を減少させようとするのが、このランブルストリップス(rumble strips)である。
 これは道路の路肩またはセンターの舗装路面上に隆起伏あるいは溝状の直線パターンを設置して、車両が部分的あるいは完全に車線を逸脱したさい、タイヤがランブルストリップ状を通過することにより突然ゴロゴロと音が発生し、さらには車両やハンドルも振動させ、運転者に対し覚醒や注意を促すものである。したがって、うっかり、ぼんやりや居眠りによる事故に対し、有効な事故対策手法のものである。開土研では、平成十四年に国道五号の八雲で試験施工を行い「北海道の正面事故防止対策として最適」という結果が得られた。それで平成十五年には札幌・函館・小樽・旭川・室蘭・釧路・帯広・網走の八建設部管内で施工されたものであった。
 この工事は既存の切削機に専用のアタッチメントを付けた施工機械で、センターラインに沿って溝を付けていく方法で施工されるものである。溝一個の大きさは縦一五㎝、横三五㎝、深さ一・二㎝のもので、平成十七年度末までに全道五七個所(二一路線)一三九㎞の整備が行われた。
 通常の中央分離帯の整備費は一m当たり二五万円、樹脂製ポールでは一m当たり五千五百円に対し、ランブルストリップスは一m当たり千五百円と安く、工期も短い。ぼんやり居眠り運転により、対向車線にはみ出し、正面衝突事故の発生を防止するということから、整備が進められているものである。なお、このランブルとは「車などがガラガラ、ガタガタ音を立てて進むこと」で、ストリップスとは「細長い帯」のことである。

Question 332

 明治六年「東京ハ日本橋、京都ハ三條橋ノ中央ヲ以テ國内諸街道起程ノ元標トナシ、大阪府各縣ハ其本廳所在地ニ於テ四遠樞要ノ場所へ木標ヲ建テ之ヲ管内諸道起点ノ元標ト可定事」と定められた。そして道庁敷地に建てられた元標は次のうちのどれか。

①北海道開拓使道路元標
②北海道道路元標
③札幌區道路元標
④札幌市道路元標

Answer

③札幌區道路元標

 日本橋は慶長九年(一六〇四)徳川家康によって諸街道の起点と定められ、明治六年の太政官達によって再び国内諸街道の起点として確認された。その後大正八年に定めらた道路法施行令でも「日本橋ノ中央トス」とされていた。
 『慶長見聞集』には「武州は凡日本東西の中國にあたれりと御定有て、江城日本橋を一里塚のものと定め…是より東のはて西のはて五畿七道のこる所なく一里塚を」築いたという。それ以来、全国道路距離の原点となり、現在にいたっているものである。
 現在の日本橋は、明治四十四年(一九一一)に竣工したものである。この時、橋の中央に高さ七mの「東京市道路元標」がたてられ、これが国道の道路元標を兼ね、路面電車のトロリー線の支柱ともなっていて、この標柱は日本橋既存の装飾物と調和のとれた風格のある作品である。
 橋上橋を重ねて頭上を高速道路が開通したのは、昭和三十八年十二月のことである。この時「東京市道路元標」が撤去され、そして橋の中央に新たに青銅五〇㎝角の「日本国道路元標」がキリシタンの踏絵よろしくはめられた。この「日本国道路元標」の文字は、時の内閣総理大臣・佐藤栄作の筆になるものであり、現在では橋の北詰め西側の園地に、古い元標と新しい元標の複製、それに主な都市への粁程表が、れいれいしく大理石に彫って置かれている。昭和四十七年六月に除幕されたものである。
 旧道路法では、道路付属物として設置義務等が色々と定められていたが、新道路法では、その設置義務や様式などは定められていない。

Question 333

 この標柱は、明治十四年まで、本庁舎敷地の真中にあったもので、大正八年に現在位置に移設、昭和三年に設置したが、やがて半分埋もれてしまったため、昭和五十七年に再建されたものである。それは次のうちのどれか。

①札幌市道路地点標
②札幌市道路元標
③札幌市国道起終点標
④札幌市里程元標

Answer

②札幌市道路元標

 北海道庁の正門前に半分舗装に埋まっていたコンクリート製の標柱が立っていた。右側の文字は「札幌市道」としか読めず、左側の文字にいたっては「昭」の文字が欠けていて「和三年建設 北海」としか読めなかった。これは「札幌市道路元標」と「昭和三年建設北海道廳」と刻まれていたものである。大正九年(一九二〇)四月一日、内務省令告示第二八号により国道四号線として「東京ヨリ北海道廳所在地ニ達スル路線」が定められ、その終点がこの北海道庁正門前のこの道路元標であった。この国道四号線は東京市日本橋を起点として宇都宮、仙台、青森、函館、小樽を主なる経過地として、札幌市北三条西五丁目までの路線であった。
 大正八年に省令で定められた「道路元標」は「明治十四年開拓使札幌本庁が、本庁敷地の真ん中に道路元標を決めたが、それが道路に面していないので、これを移して今の道路元標の地を基点とした。大正八年には、この基点に「札幌區道路元標の石柱が建てられ、同時に各区町村にも建てられた」とある。すなわちそれまで「札幌區」と記した道路元標があったというものである。大正九年(一九二〇)三月三十一日、五区三十二町二百六十四村の道路元標の位置が北海道庁公報によって告示されている。それには「道路元標位置ヲ左ノ通定ム」とし「札幌區元標 札幌区北三條西五丁目道廳正門前」とある。なお「札幌區」が「札幌市」となって市制が実施されたのは、大正十一年(一九二二)八月一日であるので、昭和三年まで「札幅區道路元標」としてそのまま立っていたのであろう。
 昭和五十七年三月、北海道では新道路元標として同位置に「札幌市道路元標」を復元、新設した。今回復元したものは白御影石であり堂垣内知事の揮毫によるものである。説明板には「この道路元標は、北海道および札幌市の道路起点として、昭和三年にはじめて設置したが、昭和五十七年三月に再建したものである。道路元標とは、各市町村の国道、道道の起終点となっていたものである」とある。

Question 334

 街の中心街活性化と将来の沿線商店街の振興に向けた起爆剤として、新規のシンボルロード整備事業による改築工事の一部が完成し、平成五年に、道標「夜明けの1マイル」が除幕された。それは次のうちのどこか。

①小樽市「花園十字街」
②苫小牧市「明野元町交差点」
③函館市「宝来町交差点」
④岩見沢市「美園交差点」

Answer

③函館市「宝来町交差点」

 函館市が市電東雲線廃止を機会に、平成四年からシンボルロード整備事業として改築を進めていた「市道放射2―1号線」の宝来町の一部が完成し、交差点の一角に、平成五年七月、道標「夜明けの1マイル」が、関係者により除幕された。この路線は、松風町と宝来町間、延長一、五五〇m、幅員二五mの区間で、市電東雲線が廃止されたのを受けて、市中心街の活性化と将来の沿線商店街の振興に向けた起爆剤として、新規のシンボルロード事業を実施することになったものである。現行の幅員二五mはそのままに、歩道を四・二五mから五・五mに拡幅、電車軌道を撤去した部分は片側五・五m一車線から六・五m二車線通行とするもので、全線にわたり、歩車道境界段差を少なくし、防護柵を設けない人に優しい道づくりを志向、歩道部は自然石や疑石、インターロッキングブロック等による石畳の舗装を施し、随所にベンチ、パーゴラ、ゴミ入れ、吸い殻入れ、鉄柵、モニュメントなどのストリートファニュチャーを配置、街路樹や花壇なども含め、歩車道境界を分ける防護柵の代替えとして安全性を図るほか、電柱と街路灯もこれらと同じく色彩をダークブラウンに統一するなど、景観形成に最大限の配慮が払われている。
 総事業費は約十億円、五ヶ年計画で事業の完成を目指しているが、まず宝来町側七〇mが完成したので交差点の一角に「道標」の設置が進められていたものである。除幕式には市助役や土木部関係者、町内会、道南建設二世会メンバーなどが参加、助役ら三人の手によって「夜明けの1マイル シンボルロード(市道放射2―1号線)の銘と路線図、名所案内、大正期の宝来町風景、廃止前の市電東雲線の写真が入った白御影石とステンレスでできた道標を除幕、助役から感謝状が贈られ、セレモニーを終えたのであった。なおこれは、函館建協と道南二世会が寄贈したものである。

Question 335

 「里塚」という制度は、イギリスの里程標の制よりも約一五〇年も前のこと、織田信長の時代、支那の制度にならって三六町(六〇間)を一里(三、九二七・三m)と定め、一里塚とした。この一里塚の起点は札幌の場合は次のうちどこか。

①創成川「創成橋たもと」
②北海道庁「正門前」
③札幌区役所「正面玄関前」
④札幌区「北海道神宮第一鳥居前」

Answer

①創成川「創成橋たもと」

 札幌の場合、この一里塚とか二里塚などの起点は、創成橋のたもとに立っていた木の標柱を基準にして測定されたものである。この標柱は明治六年の太政官達によるもので「各驛及郵便局或ハ陸運會社ノアル村市ハ髙札掲示場其肝要ニシテ便宜ノ地ニ里程標ヲ立テ」とされていたものである。
創成橋のたもとのものには「北海道里程元標」とあり、表面に

距東京二百八十八里二十丁五十八間(約一、一四四・一㎞)京都四百十六里二十九丁四十二間(約一、七三八・一㎞)」とあり、左側には「留萌支廳三十六里二十丁五十五間(約一四三・八㎞)宗谷渡海場八十五里一丁二十五間(三四〇・二㎞)」、右側には「函館支廳七十一里五丁(約二七九・五㎞)根室支廳百四十里十一丁十三間(約五五一・四㎞)

とあった。裏面には
島松驛ヘ五里二十七丁四十五間(約二二・七㎞)室蘭港へ三十四里五丁(約一三四・一㎞)銭函驛五里、十丁三十間(約二〇・九㎞)小樽港九里八丁三十間(約三六・四㎞)

と記されていたものである。なおこの標柱は明治八年四月八日とある。そして「里程ハ總テ札幌創成橋ノ東掲示場側ノ元標ヲ基点トシテ」とあった。

Question 336

 わが国では古くから「里塚」という制度があり、道路の両側に土を盛り、その上に榎を植えて一里塚とした。明治時代にその「里塚」制度が設けられ、道内にその道標の記念の碑があるが、それは次のうちどこか。

①札幌市清田区
②旭川市永山
③函館市堀川
④室蘭市輪西

Answer

①札幌市清田区

 平成十六年十月、札幌市清田区里塚の地名の由来である明治時代の道標「三里塚」の碑が建てられ、塚碑の除幕が行われた。この塚碑は、道道厚別平岡線の平岡二条六丁目と、旧国道三六号の里塚二条一丁目の界の歩道の上に建てられたもので、三里塚小学校に児童や住民ら約一五〇人が集まり、碑の完成を祝った。三里塚は札幌市中央区の創成橋を基点として「一里塚」が豊平区月寒中央通一付近に、六寸角の木製道標を立てたとされる。この三里塚の道標は創成橋から三里(約十二㎞)の距離を示す塚であり、明治五年(一八七二)に、札幌から函館までの「札幌本道」を建設したときに測ったものという説、また同十二年に明治天皇来道の前年、札幌―室蘭間の測量の際に設置されたとの説がある。
 しかしこの三里塚がどこにあったのか不明であった。そこで住民団体らが場所の特定に努め、ほぼこの位置であると確定したものである。当時は木製であったが、長持ちするようにと、今回は大理石製とし、案内板も設置して、地域のルーツを明らかにして、後世に伝えたいとしたものであった。
 以前から豊平区羊ヶ岡の二里塚と、北広島市大曲の四里塚の位置はわかっていたので、それを参考にし、さらにお年寄りの証言などを参考にして決定された。
 厚別区の「里塚」という地名は、もともと「三里塚」と呼ばれていたもので、昭和十九年の字名改称により「三里塚」の三の字を削って改称したものである。ちなみに小学校の名は今ももとのままの「三里塚小学校」という。

Question 337

 この「北海道第一歩の地」碑は、北海道に渡ってきた人々が、その上陸第一歩を印したことの記念の場所として、栄光の歴史を伝えるモニュメントである。そのユニークさがうけて、足を留めシャッターを切る観光客も多い。これは次のうちのどこか。

①福島町「矢越岬」
②函館市「東浜桟橋」
③松前町「弁天島」
④江差町「鴎島」

Answer

②函館市「東浜桟橋」

 日本最初の貿易港の一つとして、世界の風をいち早くに受け、繁栄したのが函館である。本州各地から北海道を目指してやってきた人は、まずここ函館東桟橋のこの地で、北海道への第一歩を印したのである。明治維新後、函館は名実共に、北海道の門戸となった。
 これは、北海道開道百年を記念して、日本中央競馬会が寄贈し、イカリと熊のいかにも北海道らしい碑で、この東浜桟橋横に建てられている。この「北海道第一歩の地」碑を設計したのは、明石信道であり、函館の町造りでその名を残す堀川乗経(願乗川で有名)の孫にあたる縁の早大教授である。昭和四十三年十一月に建てられたこの碑には、

北海道第一歩の地碑
明治維新後、函館は名実共に北海道の門戸となった。そして北海道の地を踏む者が、その第一歩を印したのがこの東浜桟橋である。後に若松町に鉄道桟橋ができてからは、旧桟橋ともよばれた。国道四号線が認定されるや、北海道の道路起点として、ここに道路元標が建てられた。明治百年を迎えるに当たり、此の地に記念碑をたてて、開拓に渡道した先人の足跡をしのぶ。
昭和四十三年十一月三日 寄贈 日本中央競馬会 碑文 阿部龍夫 設計 明石信道
彫刻 根本土龍 施工 大成建設株式会社

とある。函館港を背にして建つこの碑は、レンガの台座に単純な線と面えを生かして、白い熊が空をにらんでいる。その前に船のイカリが並んでいる。ここを訪れた観光客にとっては、欠かすことのできないモニュメントである。

▲余記―亀田村・札幌村・函館市

 北海道の各地には当時の「道路元標」が残っている。その多くは長い年月のために相当に傷みがひどいものもあり、やっと形だけがというものもある。
 旧亀田村役場前には「亀田村道路元標」があった。昭和四十七年ころのことである。赤川通りの道路拡幅工事が行われた時、工事の邪魔になるとして土砂といっしょにこの元標が積み込まれた。それを見ていた地元の人が、現場責任者に対して「それが欲しいが」といったところ「自分で持って行くのなら良いよ」といわれ、人夫を雇い自分の庭に運んだというものである。近所のお年寄りが信仰?しているのかどうかは定かでないが、賽銭が上げられたりしていた。
 札幌村の歴史を伝える郷土記念館が昭和五十二年に開館された。ここの玄関に「札幌村道路元標」が飾られている。このほかにも「多度志村道路元標」や、また「沼田村道路元標」、「西足寄村道路元標」をはじめ「増毛町道路元標」、「室蘭市道路元標」、「幕別村道路元標」、「七飯村道路元標」、「浦河町道路元標」なども残されている。
 函館市の末広町の旧桟橋たもとに、コンクリート製の標柱が立っている。表面には「函館市道路元標」とあり、裏面には「昭和三年建設 北海道廳」と刻まれている。大正九年(一九二〇)四月、旧桟橋のこの地点が北海道の道路の始まりであったもので、すなわち「北海道の道路起点」であった。その後の昭和二十七年六月施行の新道路法によって、国道四号線は国道五号線となり、建設省の告示によって若松町百番地先にその起点が決定された。函館駅前交差点の中央の電車軌道の下に、起点標が埋設されたため、この道路元標は、お役ご免となってしまった。
 昭和四十三年に北海道開道百年を記念して、函館駅前拓銀ビルの交差点に面した外壁に地元ライオンズクラブが寄付した青銅の銘板がはめこまれた。これには「北海道〇メートル躍進する北海道の道路、一般国道五号線は前方軌道内の元標を起点として北へ向かっている。この道路元標は、北海道〇メートルと呼ばれている。一九六八年九月 北海道開道百年を記念して 札幌市まで二八三粁」とあって、道行く人々に国道の起点を伝えていたが、現在ではこの銘板は外されてしまった。


舗装関係
車道舗装・歩道舗装・自転車道

Question 338

 大正時代において、北海道のような北国の小都市で、たとえ試験的とはいえ当時高級舗装といわれたアスファルト舗装が行われたのは、異例中の異例であったとされる。その舗装が行われた初めは次のうちどこか。

①札幌市「道庁正門前通り」
②函館市「豊川町地内」
③旭川市「宮下通り」
④小樽市「堺町地内」

Answer

②函館市「豊川町地内」

 北海道において舗装らしい舗装が初めて登場したのは、大正九年(一九二〇)の函館市豊川町一〇番地地先の舗装である。函館は北海道でも早くから開けた町であり、江戸後期には日本で最初の開港場となった所の一つであった。その函館で最初の舗装が行われたのは当然のことであった。大正九年九月二十八日付けの新聞によると、試験的舗装道路として数ヶ月前に「函館区役所前に試験的道路改良工事に着手、幅二間(三・六m)、長百間(一八一・八m)の一八六坪(約六一四㎡)。其の上にアスファルト舗装を施す。二尺一寸(六四㎝)の厚みは、コンクリート二間幅に長さ八尺(二四㎝)毎に、鉄筋七貫目(二六・三㎏)ずつを加えたもの。一坪(三・三㎡)四九円六〇銭がかかる。一万円近くがかかる。荷馬車の改良も必要となる。冬期凍る時季に、凍み上るかどうか。この試験道路の、今後の成績によって駅前なども考える」とあった。また当時から凍上についても深刻な問題であったことが伺える。
 この時の舗装構成は、貧配合のコンクリート基礎が一三㎝、その上に粗粒度のアスファルトコンクリートが六㎝、そしてアスファルトモルタルが三㎝のものであったと推定される。工事費は一万一六四円六〇銭とされている。当時の舗装工法の中では、コンクリート舗装が中級舗装と位置付けられ、それに対してアスファルト舗装は高級舗装とされていたものであった。
 またこの舗装は、わが国においても決して遅いものではなかった。大正十三年にわが国の舗装工事で歴史的な意義を持つものである。明治神宮外苑の舗装工事が実施されたのであるから、決して遅いものではなかった。道路法の施行が大正八年であるし、内務省土木局に道路課が出来たのも大正七年のことであった。当時の函館市(大正十三年)の人口は、一五二、三八三人とされ、自動車の台数も二一台とされている。そのような時期に地方の小都市で舗装が実施されたのは、実に異例のことであった。もちろん札幌市ではまだ舗装がされていなかった。

Question 339

 大正時代において「其の道路の劣悪さは想像以上」であったことから「目覚めよ、道路改善に」として「全国稀に見る道路熱の盛んな所と云うベき」と、市民が熱心に「市内の道路を徹底的に舗装して他に模範たらしめたい」と力説した都市は、次のうちどこの都市か。

①道内の首都「札幌市」
②北海道の関門「函館市」
③道北の中心「旭川市」
④繁栄の港まち「小樽市」

Answer

②北海道の関門「函館市」

 北海道の関門として全国有数の都市ではあったが、当時「其の道路の劣悪さは想像以上」であったとし、特に「初秋より融雪時季に際し縦横に馳駆する鉄輪は遠慮なく道路をこね廻し、市内到るところ泥濘脛をも没し歩行困難を極めたる」道路であったとする。そして「男子も女子も皆一斉に護謨長靴を穿って武装を整え」て歩いたと記述している。「全く道路の粗悪さを裏書きするようなものだった」と嘆いていた。そこに舗装道路がお目見栄えしたのであったから、市民は喜びに沸き返ったのであった。
 函館市民が舗装に熱心であったのには、次のようなエピソードが残されている。すなわち大正九年に函館の知識階級によって「道路改善会」なるものが発足した。そして道路の改善・促進に、また愛護・宣伝に奉仕活動を展開し、市民の世論喚起を求めるとともに、市の理事者に働きかけた。
 道路改善会のポスターには、「目覚めよ。道路改善に」とか、オペラ歌手の三浦環女史を呼んで演奏会を実施したりしてPR活動をしている。また函館市長も「市内の道路を徹底的に舗装して他に模範たらしめたい」と力説していたものであった。
 試験舗装の結果が良好であったことで大正十二年から十四年度に至る三ヶ年の継続事業として幹線中央幅四・五米に硬質舗装を行い市内道路の面目を一新したのであった。大正十四年現在実に一四、五一五mにも及んだのであった。
 市民もまた「陸続として各町民より市役所に向かって寄付を申し出た」ため、市の理事者も取り扱いに忙殺されたと伝えられている。そして「全国稀に見る道路熱の盛んな所と云うべき」と自慢していた。道庁も「都市道路の舗装は文運発展の基礎なり」と舗装に対して深い理解を示したことも幸いしたのであった。

Question 340

 道都・札幌市内の舗装は、他の函館・小樽・室蘭などの都市よりも遅れて、大正十三年になって初めて道庁正門前の舗装が実施された。この理由については、種々のことが考えられるが、その中で誤っているのは次のうちのどれか。

①道路幅員が広く、工事費が嵩む
②上下水道などの埋設が遅れていた
③良質な砂利などが豊富で良好な路面であった
④舗装への関心が弱かったこと

Answer

④舗装への関心が弱かったこと

 札幌市内の舗装は、他の都市に比べて非常に遅れていた。道内では、函館市豊川町に延長一〇九mのアスファルト舗装が大正九年に施工され、同十年に、小樽市界町で延長一二〇mが、張石・木塊舗装で施工、同十一年に室蘭市海岸町に延長二一八mのアスファルト舗装が施工された。これに対し札幌市内では、同十三年の道庁正門前通が木塊舗装で施工されたのが始まりである。なお旭川市宮下通~二条通間延長二四五mにアスファルト舗装が施工されたのは大正十四年のことである。
 札幌市内の舗装施工が他の都市より遅れて施工された理由としては、
①札幌市の道路は幅員が広く、工事費が嵩むこと、
②上下水道や電信電話線などの埋設が遅れていたこと、
③近くに豊富な良質の砂利などがあるので、安価な敷き砂利で立派な路面が形成できること、
④寒冷地の舗装は、凍上現象のため不成功に終わること
などが考えられていたからだとされている。函館・小樽などの都市は、車道幅員が狭いという関係もあって、まず車道の舗装を行い、産業都市の特色を現していた。札幌市内の舗装は、大正十三年に国道四号線北三条西四~西五丁目間、道庁正門前通りの延長一一七・三mが木塊舗装で施工されたのが最初の舗装であり、それに続いて、同十四年に狸小路の西二~西四丁目間、延長二七四・八mがアスファルト舗装で施工された。函館市内の舗装は「他の模範というか、奨励というか、試験的に」施工したものという。なお札幌市内の道庁正門前舗装については、道議会で「あれだけの巨費(工費約四万一千六百円)を投じて、模範道路(約一一七m)を造る必要があったのか」と話題になった。なにしろこの金額では四里(約一二㎞)の新設道路ができるものであったからである。

Question 341

 札幌・千歳間の舗装道路は、完全除雪によって、露出した路面が、タイヤチェーンによって激しく叩かれ、大きなすり減り被害が出た。その対策として検討の結果、一級国道の幹線道路の舗装工法に採用されたのは、次のうちのどれか。

①重油またはクレオソートの塗布
②富配合アスファルトモルタルによる被覆(厚さ一・五㎝)
③改質アスファルトの使用
④軟質(カットバック)アスファルトの塗布

Answer

②富配合アスファルトモルタルによる被覆(厚さ一・五㎝)

 昭和二十八年十一月に完成した一級国道三六号札幌・千歳間道路は、完全除雪によって舗装路面が露出し、タイヤチェーンで路面が激しく叩かれ、大きな被害が生じた。すりへり量は、一冬で五~一〇㎜にも及んだのである。よく調べてみると、車線分離のペイント塗装をした部分は、摩耗が比較的少なく、また舗装のクラックに流し込んだカットバック・アスファルトの摩耗していない状況が「柔よく剛を制す」の諺どおりの暗示を与えてくれた。翌二十九年、上輸厚地区において「耐摩耗対策」の試験舗装を実施し、アスファルトを多く入れたアスファルト混合物に見るべき大きな効果があることがわかった。そこでアスファルト量をできるだけ多く使用し、針入度は一〇〇~一五〇程度の柔らかいものが良く、石粉は多いほど良いと思われ、砂も細粒で良質なものであれば、摩耗量は極めて少ないものと推定された。この試験舗装結果から、一応の対策として、

①重油またはクレオソートの塗布
②軟質(カットバック)アスファルトの塗布
③富配合アスファルトモルタルによる被覆(厚さ一・五㎝)

である。しかし、①と②は、既設舗装に対する一時的な維持的性格のものであることから、新設舗装には、③を採用することに決定したのである。この試験舗装で採用が決まった富配合アスファルトモルタル工法(厚さ一・五㎝)は、翌昭和三十年に国道五号、札幌市北一条舗装工事で本格的に実施されて以来、このワービットタイプと呼ばれていた表層舗装が、一級国道の標準タイプとして、各地で施工されるようになった。やがて昭和四十年代初めからは、細粒度ギヤップアスコンが幹線国道の主流となり、この混合物は施工されなくなってゆく。

Question 342

 昭和四十年になると、市揚に耐摩耗性という観点から、改質アスファルトが登場してきた。そこで、室内試験と、現地での試験施工の結果から、積雪・寒冷地の表層アスファルトとして、大々的に採用されたのは、次のうちのどれか。

①ゴム系アスファルト
②樹脂系アスファルト
③触媒系アスプァルト
④ゴム+触媒系アスファルト

Answer

①ゴム系アスファルト

 昭和四十年代に入ると、耐摩耗性に優れたアスファルトということから、改質アスファルトが市場に登場してきた。そこでこれらの改質アスファルトを、耐摩耗性を中心に、各種の性状変化を比較検討して、積雪・寒冷地の表層用アスファルトとしての方向を見い出すことにした。当時市場に登場したこの改質アスファルトは、ゴム系七種類、樹脂系二種類、触媒系二種類、ゴム+触媒系二種類であった。ゴム系のものでは、現場で混入するタイプのもの(三種類)、工場で混入するタイプのもの(四種類)があった。これだけの多くの改質アスファルトがあったということは、各メーカーが競ってこの改質アスファルトに取り組んでいたということである。各種改質アスファルトのすり減り量は、室内のラベリング試験および、現場でのすり減り量の測定によって調査された。この結果からは、ゴム系のものが優れていることが確認された。昭和四十一年に札幌開建では、このゴム入りアスファルトを幹線国道の表層混合物に、大々的に採用することにした。昭和四十一年に札幌市内の国道では五五、四〇〇㎡が施工され、四十三年に一一六、〇〇〇㎡、同四十四年に一〇二、〇〇〇㎡が施工されている。昭和五十二年に開発局では「改質アスファルトの使用基準」の通達を出す。それには、

①ゴム分は四%
②自動車交通量が一五、〇〇〇台/日以上、C交通対応区間以上
③ラベリング基準値が一・三㎠以上になりゴム使用が有利な場合
④特殊な橋梁部、曲線の連続している区間
⑤ワダチ掘れ対策等で有利な場合

とし、スパイクタイヤ使用禁止まで幹線国道における表層混合物の主流となる。

Question 343

 昭和三十年代初期、国道における歩道舗装は、工費の二分の一を地元が負担するという条件でなければ施工されず市当局は地元民を説得し、市と地域住民が半々負担で施工した都市がある。それは次のうちのどこか。

①空知管内砂川市
②上川管内旭川市
③十勝管内帯広市
④釧路管内釧路市

Answer

②上川管内旭川市

 この歩道舗装は、昭和三十二年施工の国道四〇号、旭川市内旭橋・護国神社間における舗装の話題である。昭和三十一年十月旭川開建では、車道部の舗装計画を市当局に示した。市当局は了承するとともに、歩道舗装についても強く舗装を要請してきた。
 当時、国道の舗装工事では、車道部のみの舗装を実施するのが原則で、歩道部の舗装は地元からの強い要請があれば、工費の二分の一を負担する条件で施工する方針であった。ここ旭川市では、近年人口が急激に増加し、市の財政状況が苦しかったからこれに応ずることができず、地域に協力を求めてきた。延長は一、三〇〇m、幅員が五mで、工費が一、六五〇万円であった。その半分の八二五万円が地域負担となる。そこで、市がその二分の一の四一三万円を負担し、残りの二分の一の四一二万円を地域住民が負担せよということになった。間口一間あたり四、四〇〇円となり、沿道に住む一五〇戸ほどの人たちが負担しなければならない。借家は家主と店子が半々としたがなかなかまとまらなかった。歩道舗装期成会長は「この際、断行しなければ、いつ歩道の舗装ができるかわからない」として「踏み切った以上全力を尽くして欠損が出たら俺が引き受ける」と決意した。工事の内容を地元住民に細かく説明し了承を求め「金を取られるという気持ちでなく、自分の生活を豊かにするために金を出すのだ」というように説得した。
 このとき会長は舗装と同時に「この際ガス管を埋設しなければ、将来また掘り起こさねばならない」と考え、ガス会社に交渉したが、会社では「採算が取れない」と躊躇する。会社がやらないのならば私は別にガス会社を創立して埋設すると譲らず、遂に会社がガス管を埋設させたというエピソードがあったと伝えられている。その後、砂川市では、東洋高圧会社の協力を得て、この二分の一負担の条件を了承し、国道の車道部舗装と同時に、歩道部の舗装が誕生している。

Question 344

 歩道舗装は大正時代に函館市などで施工されてきたが、国道の路線において、地元の商店街が「波」をテーマにして、磁器乾質タイルを接着剤で張り合わせたカラータイルによる歩道舗装が施工された。それは次のうちのどこか。

①池田町ワイン城通り歩道
②狸小路舗装
③札幌駅前通り歩道
④旭川市買物公園通り

Answer

③札幌駅前通り歩道

 この歩道舗装は、国道三六号札幌市の南大通りから南四条通りまでの歩道舗装で、地元の商店街である「四番街商店街振興組合」が施工したものである。当時の理事長は「街路灯と舗装に統一性を持たせることを北大助教授らと真剣に考えました。街のにぎわいを象徴するために〈波〉をテーマにしようと決めました。街路灯のポールの高さに変化を持たせ、舗装のタイルは色彩で波の盛り上がりを表現する事にしました。ロードヒィーテングの熱伝導率、凍上、沈下などいろいろな条件を想定したうえ、さらに歩行する女性の服装が引き立つように留意しなければなりません。それらを考慮して、助教授の発想で、磁器乾質タイルを接着剤で張り合わせる方法」をとったものである。
 そして「名古屋の佐治タイルにテスト焼きを依頼、白地に黒斑点、黒地の二種類のタイルに決めました。美しい街路灯と舗装が登場するまで、協力者の並々ならぬ苦労がありました」と述べている。
 昭和四十六年十二月に完成をみたこの舗装は、国当局ができるのは単純なアスファルト舗装であるということで、四番街では難色を示し、数多くの陳情がされたのであるが、地元が全額負担ということで施工されたものであった。
 このことが刺激となり、各地で歩道のカラー舗装や、ブロック舗装、レンガ舗装などが施工されるようになってきた。
 十勝管内の池田町のように、ワインの収益を地元に還元するということで、市街の歩道にワインカラーで舗装が実施されたりもしている。

Question 345

 北海道の道路において、最初に歩道を区分して、自転車専用道路と歩行者専用道路を延長二、〇一五m、幅員二・〇mのものが設置されたのは、次のうちのどこか。

①国道二二七号函館市内
②国道五号札幌市内
③国道四〇号旭川市内
④国道二三〇号札幌市内

Answer

③国道四〇号旭川市内

 自転車専用道路というのは、道路法第四八条の七第一項の規定により、専ら自転車の一般交通の用に供するものとして指定された道路のことである。道路管理者は交通の安全と円滑を図るために必要があると認めるときは、まだ供用の開始のない道路または道路の部分(当該道路の他の部分と構造的に分離されているものに限る)について、区間を定めて自転車専用道路の指定をすることができるものとされている。また自転車歩行者専用道路というのは、もっぱら自転車および歩行者の一般交通の用に供するものとして指定された道路または道路の部分(道路法第四八条の七第二項)をいう。その指定の要件については、自転車専用道路と同様であり、何人も自転車歩行者専用道路を自転車(自転車以外の軽車両および農耕用の小型特殊自転車などを含む)以外の車両により通行してはならないものとされている。
 この「自転車道」というのは、自転車歩行者道、自転車専用道路、自転車歩行者専用道路を総称して広義の意味で用いられている。交通事故の防止と交道の円滑化に寄与し、あわせて自転車の利用による国民の心身の健全な発達に資することを目的とする「自転車道の整備等に関する法律」(昭和四十五年法律第一六号)にいう自転車道がこれに該当するものである。
 北海道においては、昭和四十二年(一九六七)に国道の二次改築にあわせて、車道から分離した自転車専用道路を設置することとなった。これは旭川市の国道四〇号、護国神社・国立道北病院間、延長二、〇一五m、幅員二・〇mのものである。
 昭和四十一年調査によると、この区間の自動車交通量は一五、五四〇台/日、自転車交通が三、九六〇台/日であった。自転車による交通事故が昭和四〇、四一年度に三〇%あったものが、同四十二年にこれの設置によって五%以下となった。さらにまた、自転車通学生の増加という効果もあったのである。

Question 346

 自転車専用道路は、スポーツ・レクリエーションとしてのサイクリングやハイキングによる健康の増進などに寄与していることを目的として設置されている場合が多い。サイクリング道路として北海道で最初に本格的に設置されたのは次うちどこか。

①豊平川自転車道
②滝野上野幌自転車道
③旭川サイクリングロード
④札幌支笏湖サイクリングロード

Answer

④札幌支笏湖サイクリングロード

 自転車専用道路等は、自転車および歩行者交通の安全を図ることを目的としているほかに、サイクリングロードとして、スポーツ・レクリエーションのために設置されている。
 札幌支笏湖サイクリングロードは、主要道道札幌支笏湖線沿いに青少年の健全な地体位の向上とスポーツ・レクリエーションの普及を図る目的で昭和四十三年に着手され、同四十六年に完成する。
このサイクリングロードは、延長三一・四㎞、幅員二・〇m、総事業費七億八千万円を投じて完成されたものである。この事業は大規模自転車道の国費補助制度が運用される以前であり全額道費で造られたものであった。

 計画・設計にあたっては全国的に例がまだなく、このため西ドイツ、オランダなどの自転車道の写真や、文献を参考にして、札幌土木現業所職員による走行実験を加え、勾配や線形を工夫して建設された。すなわち「実際に舗装されている坂道で、年齢の異なる試験員により各人のフリッカー値による疲労度や、自覚症状によって実験を行い勾配と制限長」を決めている。勾配は五%以下が全体の六五%、六~七%が三四%、最急勾配は八%としている。また展望台や休憩所、トイレ、ベンチ、広場、自転車置場等も設置したものである。
これ以降において、豊平川自転車道、真駒内手稲豊平川自転車道、釧路阿寒自転車道、支笏湖公園自転車道、十勝大平原自転車道、石狩川自転車道、利尻島自転車道、網走常呂自転車道、旭川層雲峡自転車道、札幌北広島自転車道などが次々に建設されていった。その先駆けとなったのが、このサイクリングロードであった。

Question 347

 道内に「自転車道の駅」が平成十八年に誕生した。ここでは休憩所や自転車の貸出所など多様な機能を備えており、自転車道の拠点として活用されているが、この「自転車道の駅」が設置されたのは、次のうちどこか。

①釧路阿寒自転車道線
②札幌恵庭自転車道線
③十勝川温泉帯広自転車道線
④旭川層雲峡自転車道線

Answer

②札幌恵庭自転車道線

 道道札幌恵庭自転車道線の札幌―北広島間に、ユニークな施設がある。平成十八年五月、道内初の「自転車道の駅」がオープンした。ここには休憩所や自転車貸出所など多様な機能を備えており、自転車の拠点として活用されている。
 自転車道の駅は市内西の里に位置し、約八㎞あるエルフィンロードのほぼ中間にある。この自転車道全体は、白石区東札幌からJR北広島駅まで約二〇㎞と長く、利用者から休憩施設の設置を望む声が寄せられていたものであった。
 自転車道の駅は道庁が設け、敷地二・七㏊、約一二〇㎡の平屋の管理棟には休憩コーナーやトイレ、自転車車庫がある。約四〇台分の自動車用の駐車場も備え、園路のほか、マウンテンバイクも楽しめる起伏のある自転車コースも備えた。
 北広島駅直結の市営駐車場と合わせて、自転車の駅でも貸出しをおこなっている。十一月十日まで毎月第一、第三月曜日を除く午前九時から午後五時まで、料金(一日)高校生以上三百円、中学生以下百円である。道庁では「学習の森や水辺の広場など、自然と触れ合う既存の施設同様、多くの人に利用してほしい」と呼び掛けている。
 マイカーで来て自転車を借りて走ったり、散歩したり、イベントの集合場所にもなる。

Question 348

 一般公募により付けられた愛称「エルフィンロード」という自転車道路がある。このエルフィンとは英語で「小さな妖精」という意味で、春は新緑、夏は蝉の声、秋は紅葉という、自然景観がすばらしいと評判の自転車道路であるこれは次のうちどこか。

①滝野上野幌自転車道線
②真駒内茨戸東雁来自転車道線
③旭川層雲峡自転車道線
④札幌恵庭自転車道線

Answer

④札幌恵庭自転車道線

 この自転車道線は、札幌白石区東札幌とJR北広島駅とを結ぶ約二〇㎞の道道札幌恵庭自転車道線の北広島側約八㎞区間の愛称である。
 「両脇に住宅やマンションが立ち並ぶ札幌の白石サイクリングロード。自転車だけでなく、犬を連れた市民や買い物袋を下げた歩行者が行き交う生活道路の雰囲気だ。このサイクリングロードを奥まで進み、北広島の〈エルフィンロード〉に入ると、がらっと趣きが変わる。細くなった自転車道は、林に囲まれ、歩行者は極端に少なくなる。聞こえるのは喧騒ではなく、小鳥のさえずりだ」とされる。
 公募によって付けられた「エルフィン」とは英語で「小さな妖精」という意味で「豊かな自然に囲まれ、北広島のシンボルでもある妖精エルフィンが潜んでいそう」とされる。
 この自転車道は、旧JR千歳線跡地に沿って建設され、平成十六年に開通となったものである。木をバックに自転車が走る様子を描いたシンボルマークは、森の中をゆっくり自転車で走るようなイメージをデザインしたものとされ「春は新緑、夏は蝉の声、秋は紅葉。鳥や昆虫もいっぱい。とにかく自然が素晴らしい」自転車道路と地元ではPRしている。北広島駅から札幌方面へ約八㎞の間には「水辺の広場」「自転車道の駅」などの施設がある。
 北広島市は札幌市と新千歳空港の間に位置する札幌圏のベッドタウンであり、昭和四十五年代以降、道営北広島団地などの宅地開発や、大曲工業団地造成などで急速に都市化し、平成八年に市となった。工業団地には、約三〇〇社の企業が立地、薬品、食品製造、物流センターなど業種も多様で、なかでも新聞社の印刷工場は五社も集中する。「きたひろしまエルフィンロード・ハーフマラソン」は、エルフィンロードを駆け抜ける小学生以上の市民ランナーの大会である。

Question 349

 この自転車道は、屋外のレクリエーションを通じて、住民の健康増進と、観光に活用させるのが目的で進められてきたものである。マスコット・キャラクターのシマリス「リップ君」は、この自転車道を走る姿を町のカントリーサインに描かれたものであって、それは次のうちのどこか。

①「十勝川温泉帯広自転車道」
②「利尻富士利尻自転車道」
③「オホーツクサイクリングロード」
④「旭川サイクリングロード」

Answer

②「利尻富士利尻自転車道」

 稚内土現が昭和六十二年から整備を進めてきた「利尻富士利尻自転車道」が、事業の進捗にあわせて順次供用され、平成九年に全面開通となった。この自転車道は、屋外のレクリエーションを通じて、島民の健康増進と、観光に活用させるのが目的で進められてきたものであった。この道路整備には、十年の歳月と総工費約六一億円が投じられたものである。利尻島北部の利尻富士鴬泊野塚を起点にして、利尻町沓形神居までの延長二四・九㎞(内車道併用区間三・四㎞)のもので、幅員が二・〇m、数多くの橋梁があり、道道との交差はアンダーパスとなっている。平成八年に完成の連続鋼床版箱桁の「湾内大橋(一九三・〇m)」があり、また「富士見橋(一六五・〇m)などがある。さらに管内でも珍しいといわれる中路式ローゼ桁、橋長が八〇・〇mの「姫沼橋」がある。
 この自転車道には、駐輪・駐車公園や、休憩所、トイレ、天気情報板などが各地点に配置され、気軽に利用できるようにと整備されている。自転車の利用は、時代の流れの中で大きく変容してきた。スポーツやレジャーとしてのサイクリング、さらに観光客の旅情旅行といった風潮が年々高まってきている。これに対応するため、自転車専用道路の必要性から、各地でも整備がされてきている。
 「小高い夏草の丘に上れば、自然と自分だけの時が約束される。沓形岬の落日は、人間がいかに小さな存在かを、美しさを通り越して何かで教えてくれる。そこで新しい自分に巡り合ればそれでいい」とか「晴れた日には夕日が海を染め、一〇数キロ先の礼文島のシルエットとともに幻想的な風景になる」とPRされている。そんなことからこの島を訪れサイクリングをしながらまた利尻山を登る登山者が訪れる。町のマスコット・キャラクーであるシマリスの「リップ君」は、この自転車道を走る姿を町のカントリーサインに描かれたものである。なおこの自転車道は、島を一巡する総距離六〇㎞の「利尻富士一周コース」の一部ともなっている。

Question 350

 アルミニウムを製造する過程で生ずる赤(せき)泥(でい)を焼成して粉末にし、それをアスファルト舗装混合物のフィラーとして使用したレンガ・カラー舗装が、この自転車道に使用された。延長二一・二㎞のこの自転車道とは、次のうちのどこか。

①「十勝川温泉帯広自転車道」
②「札幌恵庭自転車道」
③「苫小牧・支笏湖間自転車道」
④「オホーツクサイクリングロード」

Answer

③「苫小牧・支笏湖間自転車道」

 従来、赤泥は海洋投棄または埋立て用とされていた。そこで道路用に使用できないかと検討され、舗装材料の一つとして検討されたきたものである。赤泥焼成フィラー(レンガ色)は、原鉱石ボーキサイトから、アルミナを取り出した残りの赤泥と呼ばれるものから製造される。
 赤泥には酸化鉄、珪酸などが含まれた、微細な粒子の凝集体である。これを脱水機により脱水して、水分三〇%以下の赤土とする。これをロータリーキルンによって、約一、二〇〇℃で焼成し四〇㎜以下の焼結体とし、この焼結体をハンマーミルによって五㎜以下に粉砕する。さらに震動ミルによって○・三㎜以下が一〇〇%、〇・〇七四㎜以下を八〇~一〇〇%に粉砕して製造されるものである。
 昭和五十一年に国道二七六号の苫小牧・支笏湖間の自転車道に使用された。この自転車道は延長二一・二㎞で、路盤厚二七㎝の上に三㎝厚の細粒のアスファルトコンクリートで施工された。配合はアスファルト七・〇%、赤泥フィラーが一四・六%となっている。
 昭和五十一年に国道三六号苫小牧市明野の歩道(七〇〇㎡)に使用されてから、日高町町営スキー場の駐車場、札幌市内の歩道などにも使用された。昭和五十三年には札幌市内の住宅地で、翌五十四年には国道二三四号早来・安平間の一三、三〇〇㎡、国道三六号苫小牧・ウトナイ間の減速マーキングや、ゴルフ場のレストハウス、札幌市内の公園や、函館市内の公園などにも使用されている。
 また道央自動車道千歳・苫小牧間美沢パーキングエリアの舗装にも、この赤泥フィラーが用いられている。

Question 351

 国鉄の廃線跡を利用した自転車道は各地にあるが、北海道体育協会が、北海道などの補助を受けて市内から川沿いに、旧国鉄本線跡などを利用し、延長一九・四㎞の自転車道を建設したものがある。それは次のうちのどこか。

①オホーツクサイクリングロード
②十勝川温泉帯広自転車道
③旭川サイクリングロード
④釧路阿寒自転車道

Answer

③旭川サイクリングロード

 このサイクリングロードは、旭川市の開基八○周年記念事業として、国鉄函館本線の跡地を主に利用して造られた、延長が一九・四㎞のものである。事業主体の北海道体育協会が、北海道補助・旭川市補助・自転車振興協会の補助によって、事業費一億二千万円で建設したものであった。
 コースは、市内から石狩川右岸沿いに石狩川築堤、旧国鉄函館本線跡、用水路築堤上などを経て神居古潭までのコースであって、コースの全線が平坦であり、幅員二・五mに路肩が各〇・五mの三・五mが標準となっている。路面はアスファルト安定処理工五㎝の上に、シールコートされ、橋梁二七七m、トンネル三個所で二八八m、休憩所一個所(面積三二五㎡)、水飲所、トイレなどが設備されている。
 従来の深川市・納内から石狩川に沿って旭川へ向かう国鉄の路線は、昭和五十五年に、災害の多い急曲線の連続であったことから、蛇紋岩の山地に五つのトンネルを掘り、複線化の工事を行ってきた。そして昭和六十一年三月に完成となり、従来線は廃止となる。それを利用してこの自転車道を開設したものであった。
 この石狩川は、神居古潭附近で川幅が急に狭くなる。石狩川の激流がつくり上げた渓谷―。河原には奇岩、怪石が連なり、変化に富んだ風景が見られる。ここは紅葉のころ渓谷が錦模様に染まってしまう。またアイヌ伝説に富んだ所でもあり、一つひとつの岩にそれぞれアイヌ伝説が残されていて、訪れる人に神秘的なものを感じさせる。旧国鉄時代の神居古潭駅舎は、昭和四十四年に廃止となり、サイクリングロードの休憩所として利用されている。
 かつてこの地を訪れた九條武子は「たきつ波ましろう白う岩にちる 神居古潭のくもれる眞晝」と詠じている。

Question 352

 この自転車コースの一部では、春から夏にかけて潮干狩りで賑わい、また一部では九月中旬となるとサンゴ草の群生地が辺り一面を深紅色に染めるという、素敵なサイクリングロードがあるが、それは次のうちのどれか。

①網走常呂川自転車道
②利尻富士利尻自転車道
③釧路阿寒自転車道
④オホーツクサイクリングロード

Answer

④オホーツクサイクリングロード

 網走市大曲公園を起点に網走湖畔から能取湖畔を通って常呂町へ、そして旧国鉄湧網線の廃線跡に整備された自転車道を往復する「オホーツクサイクリングロード」がある。総距離が五四㎞、所要時間が四~五時間のもので、コースは網走市大曲公園(オホーツクサイクリングコース入口)→一〇・〇㎞→卯原内鉄道公園→九・〇㎞→能取湖畔駐車場→六・〇㎞→常呂漁港入口(オホーツクサイクリングロード出口)→二・〇㎞→常呂町交通ターミナルまでの往復のものである。  
能取湖は海水が混ざり合う汽水湖で、春から夏にかけては潮干狩りで賑わい、九月中旬となると卯原内附近のサンゴ草の群生地が辺り一面を深紅色に染める。卯原内鉄道公園は、昭和六十二年まで中湧別、網走間を走っていた旧国鉄湧網線の卯原内駅跡に整備された公園で、駅舎跡は鉄道記念館になっている
 また、オホーツク海沿いに濤沸(とうふつ)湖(こ)、小清水原生花園を回り浦士別から続くアップダウンの道を走って白鳥公園に、そこから再び海岸線に出て網走駅に戻る「濤沸湖・原生花園周遊コース」の自転車道がある。総距離数が五六㎞、所要時間が四~五時間のものとなっている。
コースは、JR網走駅前→七・五㎞→鱒浦→六・〇㎞→北浜→五・五㎞→小清水原生花園→三・〇㎞→はなやか小清水・道の駅→七・〇㎞→浦士別→四・五㎞→音根内→八・〇㎞→北浜(白鳥公園) →五・〇㎞→藻琴・網走原生牧場観光センター→二・〇㎞→鱒浦→七・五㎞→JR網走駅前のものである。はなやか小清水・道の駅で休憩するのも楽しいものとされている。

▲余記―北海道一〇〇の道・道道の自転車道

 北海道新聞社では、創刊七〇周年記念事業として、後世に残したい道を紹介するため「ほっかいどう 一〇〇の道」を公募した。そして「通ってみたい道」「思い出の道」「後世に残したい道」を、記者とカメラマンがそれぞれの道が持つ歴史や地域の人々の思いなどを写真とともに伝えることにして、平成二十四年一月から連載した。その「一〇〇の道」の中に、特に自転車道に関係するものとしては、次の三話がある。

①札幌恵庭自転車道 札幌市白石区東札幌―北広島市。都市型のサイクリングロード。標識などが整備され、ランニング、散歩も楽しめる。
②オホーツクサイクリングロード 網走市中央公園―常呂町サロマ湖駐車公園。網走湖、能取湖、サロマ湖などを巡るサイクリングロード。
③湿原の夢ロード 釧路市昭和―阿寒町。雄別鉄道の廃止跡が自転車線に変わった。動物園や湿原のそばを走る。ランニングの利用者も多い。

なお「道道自転車道」としての自転車道は、次のものがある。

①滝野上野幌自転車道線 一・一+二五・八(札幌市所管)=二六・九㎞
②釧路阿寒自転車道線 二五・三㎞
③支笏湖公園自転車道 二〇・五㎞
④十勝川温泉帯広自転車道線 一六・九㎞
⑤深川砂川自転車道線 三八・三㎞
⑥利尻富士利尻自転車道線 二一・五㎞
⑦網走常呂川自転車道線 二六・四㎞
⑧旭川層雲峡自転車道線 二〇・〇㎞
⑨札幌恵庭自転車道線 一・六+一一・一㎞(札幌市所管)=一二・七㎞
⑩真駒内茨戸自転車道線 一一・五㎞(札幌市所管)

Question 353

 冬道の走行には、タイヤチェーンが用いられていたがスノータイヤが販売されると、急速に普及していってそして、スノータイヤに鋲を付けたスノースパイクタイヤが現れてくる。「道路の損傷、補修費の増、健康被害」として騒がれたこのタイヤの出現は、次のどの時点のころか。

①昭和三十七年ごろ
②昭和四十年ごろ
③昭和四十五年ごろ
④昭和五十年ごろ

Answer

①昭和三十七年ごろ

 昭和二十年代の冬道走行には、タイヤチェーンが用いられていたが、同三十四年にスノータイヤが販売されると、走行時の振動・騒音がなく、寿命も長いということで、急速に普及して行った。
 昭和三十七年ごろからスノータイヤに鋲を付けたスノースパイクタイヤが現れ、制動効果などが優れていることから、ほとんどの車が、このタイヤを装着するようになる。この割合をみると、昭和四十五年時点では全車種の三〇%程度であったものが、同五十五年では九七%となっている。このスパイクタイヤには、諸種によって六五~一五〇本のピンが打ち込まれていた。
 昭和五十一年ごろから一部のマスコミが「春のほこり 犯人冬タイヤ」と報道したことから、スパイクタイヤ問題が大きく社会の耳目を集めるようになってきた。昭和五十三年になり、北海道議会では「スパイクタイヤによる道路摩耗問題」を取り上げ「道路の損傷、補修費の増、健康被害」という観点から、ますます大きな社会問題として騒がれるようになってきた。昭和五十四年の新聞には「スパイクタイヤ迫る見直し 削り取られるアスファルト 一冬、百億円にも」という見出しで、舗装被害、大気汚染、規制、欧米諸国の現状について、詳しく報道される。
 翌五十五年になると、スパイクタイヤの交換を呼び掛けるポスターが、官公庁、ガソリンスタンドに掲示されるようになる。ポスターには、太く赤い文字で「粉失三㎝」とあり、さらに「スパイクタイヤで走ると一年で道路が三㎝もけずられてしまうことがあります」とあった。
この年の七月に「スパイクタイヤ問題研究会」が発足し、この間題解決に一歩踏み出したのである。
 昭和五十六年になると、スタッドレスタイヤが市場に登場してくる。

Question 354

 参議院の本会議において、寒冷地域でのスパイクタイヤの使用を規制する「スパイクタイヤ粉じんの発生の防止に関する法律」が、将来は全面禁止への見直しの含みを残した付帯議決を付けて、全会一致で可決成立となった。これは、次のうち、いつのことであるか。

①昭和五十九年
②昭和六十二年
③平成二年
④平成八年

Answer

③平成二年

 平成二年四月からは、北海道公安委員会規則(道路交通法施行細則)の一部を改正する規則が公布となる。中公審はスパイクタイヤ規制の法制化を答申、北海道では冬を除く期間の使用に対し、反則金適用を開始した。同年六月十八日、参議院本会議では、寒冷地域でのスパイクタイヤの使用を規制する「スパイクタイヤ粉じんの発生の防止に関する法律」が、将来は全面禁止への見直しの含みを残した付帯議決を付けて、全会一致で可決成立となった。これによって、北海道をはじめとする雪国住民を長い間、苦しめてきたスパイクタイヤによる粉じんも、ようやく法で規制されることになったのである。
 昭和五十六年になるとスタッドレスタイヤが市場に登場してきた。新しい都市公害の追放に市民の関心が高まってきた。そこで環境庁は「車粉公害」の解消に向けて、学者等の専門家により「自動車タイヤによる粉じん対策調査検討会」を設立し「車粉」対策に動き出した。昭和五十八年札幌市は「スパイクタイヤ使用自粛にかかる指導基準」を制定、新聞は「車粉へ挑戦 いま研究現揚で」(昭和五七・十一)とかと、スパイクタイヤ問題に対してキャンペーンを繰り広げてきた。昭和五十九年二月、北海道は「北海道スパイクタイヤ使用自粛に関する実施要項」を制定、同年の四月から施行する。知事は「スパイクタイヤの使用全面禁止、制限の法制化を検討」と発言する。昭和六十二年四月から「札幌の街を車粉から守るためのスパイクタイヤの使用を規制する条例」が施行された。平成三年三月に環境庁ではスパイクタイヤ粉じん発生防止法に基づく使用禁止地域に、札幌圏七市町村をはじめ、五道県の四五市町村を申請通り第三次指定することにした。なお札幌圏とは札幌・江別など四市三町で、全道の面積で三%、人口は二〇一万人で三五%、保有車両台数では三二%であった。そして、平成八年にスパイクタイヤ使用規制対象区域指定が完了(対象一一六市町村)となった。

Question 355

 道路路面の融雪の一方法として、路面を電熱で加熱する方式がある。この方式はわが国では、昭和三十六年に、岩手県仙人トンネルで日本道路公団が試験設備をしたのが始まりである。北海道において初めてロードヒーティングが施工されたのは、次のうちのどこか。

①札幌市「薄野歩道」
②札幌市「定山渓温泉街」
③小樽市「地獄坂」
④釧路市「出世坂」

Answer

①札幌市「薄野歩道」 

 路面を電熱で加熱する方式のロードヒーティングが、道内で最初に施工されたのは、国道三六号札幌市内の薄野地区歩道である。昭和三十八年北海道大学の指導で、航空局、札幌市、国鉄、北海道電力、古河電工、北海道開発局などで組織された「路面融雪共同研究会」が実施したものであった。この地区で実施したのは古河電工方式のものであって、舗装面下に特殊設計のケーブルを蛇行状に埋設し、通電により発生する熱を周囲に伝えて路面を暖め、融雪の効果をあげようとしたものであった。
 埋設したケーブルは心線をブチルゴムで絶縁し、厚さ一㎜のビニールで被覆したものである。ケーブルは施工の能率を良くするために、あらかじめ蛇行状に配置して、これをスペーサーによってマット状にしたものを標準ユニットとしてある。一ユニットは一・二五×四mの五㎡としていた。
 施工は切込砕石路盤の上に、二㎝のアスファルトモルタルを舗設し、その上にユニットを布設、細粒式アスファルトコンクリートを三㎝敷均して転庄仕上げを行ったものである。
 当時の新聞は「雪のない道路づくり 薄野でテスト上々 地下に電熱マットを埋め」という見出しで「雪のない道路という道民のユメにこたえる電熱加温の融雪道路の初のテストが十五日(昭和三十八年十二月)札幌市内で行われた…本格的に雪をまっていたが、十四日夕方から本格的に雪が降り出したため、午後五時ごろから電源スイッチを入れ…テスト結果は上々。一面の銀世界の中でただ一ヵ所だけ黒々とした素肌を見せている道路に通行人も珍しそうに立ち止まって眺めていた」。そして北大の板倉教授の談話として、「この装置は立体交差などの特殊な部分なら効果があろう。また凍上防止には役立つかも知れない」と伝えていた。また別の新聞も「雪も降参の電熱道路」という見出しで「すでに効果は十分と現在新築中のローヤルホテル、道銀本店などが設置を名のりあげており、…電熱ブームをつくりそうだ」と報じていた。

Question 356

 市では、スタッドレスタイヤの性能向上、運転者の慣れなどから、勾配の緩い区間は凍結防止剤などで安全が確保されると判断して、ロードヒーティングの廃止を検討することにした。それは次のうちのどこか。

①札幌市
②旭川市
③小樽市
④釧路市

Answer

①札幌市

 平成十年現在の札幌市におけるヒーティングは、車道部で四九九個所四五・二㎞、二四二、六〇〇㎡におよび、側帯で一・五㎞、二、一四〇㎡、歩道では四二個所、六・八㎞、一七、一〇〇㎡、そのほかに歩道橋、階段が一二四個所、八・四㎞、一一、五〇〇㎡となっている。合計では六六八個所、六一・九㎞、二七八、一三〇㎡である。この熱源は電気が三九五個所、ガスが九九個所、温泉が一個所、空気が三個所、工場廃熱が一個所である。なお平成九年度におけるランニングコスト・トータルは、一〇億一千四百万円であった。参考までに一㎞あたり年間道路の除雪費は約五〇万円、ヒーティング維持費は約五千四百万円である。すなわち、ヒーティングには車道除雪費の一〇〇倍以上の路面管理となる。なお設計は、降雪量が三㎝/h、気温がマイナス七℃、風速五m/sとし、電気発熱線方式で二五〇w/㎡を設計標準としている。札幌市の車道内約八割が発熱線方式であり、残りが北ガス温水式となっている。なにしろこのロードヒーティングは、運転経費が高いことが課題となっている。各都市ではスパイク規制法の施行で指定地域とされる数年前から敷設が本格化してきた。
 札幌市では平成十三年に、スパイク規制法から十年を迎えスタッドレスタイヤの性能向上、運転者の慣れなどから、勾配の緩い区間は凍結防止剤などで安全が確保されると判断して廃止を検討する。従来縦断勾配が四%以上の幹線や重要生活道路に二六〇区間を敷設してきたが、電気、ガスなどの融雪費が年間約十億円に上る。それに敷設後十五~十八年にわたるためその改修費も必要となるからであった。それで今後十年間で、六%未満の区間、三分の一の八四区間を十年間で順次廃止することとした。きめ細かく除雪し、凍結防止の融雪剤をまくことによって、安全を確保したいというものであった。この時点では、ロードヒーティングの計画的な停止は、道内市町村では例がない。

Question 357

 「冬道の安全維持にロードヒーティングは重要」という意見、また「莫大な費用で冬道を夏場と同じ状態に保とうというのは過剰な行政サービス」という意見の中で、交差点の横断歩道ロードヒーティングを試験的にほぼ全面的に中止した都市がある。それは次のうちのどこか。

①小樽市
②釧路市
③旭川市
④名寄市

Answer

③旭川市

 「雪国に住む以上、雪による恩恵とともに弊害も応分に負担していくのが市民の義務」という声も出てきた。「融雪・改修費の増加は他の市町村も頭の痛い問題」であることは間違いない。「除雪や凍結防止剤散布強化で安全を保てて、廃止計画は妥当。そもそも其大な費用で冬道を夏道と同じ状態に保とうというのは過剰な行政サービスといい、世界でも例がない」ともされている。
 平成十四年一月、旭川市では、市中心部の市道交差点の横断歩道に設置されているロードヒーティングを試験的にほぼ全面的に中止した。これは電気代やガス代など年間千九百万円の経費減を図ることと、横断歩道と車道との段差の解消を狙ったものである。
 ロードヒーティングを止めた横断歩道は、二六個所の交差点、五三個所であって、歩道と連動している横断歩道部分だけの電源が切れない三交差点の三個所は稼働している。旭川市は歩行者の安全対策として、平成七年から、横断歩道のヒーティング化を進めてきた。しかし平成十四年度からは財政難から新設が見送られてきている。
 何しろ平成十四年度では二億六千万円の維持管理費がかかることから、砂の散布や除雪の徹底で対応出来るからだとしている。今回の停止により経費の削減は一割未満ではあるが、車道部や歩道については停止する考え方はないとしているものである。
 かつて札幌市が打ち出した計画は波紋を呼ぶ。道議会では「冬道の安全維持にロードヒーティングは重要だ」と強調し、そして「安全と引換えに予算節約を行うべきではない」とただした。知事は「廃止は慎重に」と札幌市に求める。市議会でも「財政的視点のみを優先して、交通安全を後回しにすることは許されず、廃止計画は撤回すベきだ」と反対する。札幌市をはじめ多大な経費を投じるロードヒーティングには頭を傷める自治体が多い。

Question 358

 積雪地域において、冬の雪の処理という作業は大変なもので、いかにして軽減するかという一つの方策がこの流雪溝である。この施設があれば排雪よりも有効とされているが、道内で最初に設備されたのは次のうちのどこか。

①札幌市「藻岩下」
②喜茂別・倶知安町「市街」
③砂川市「市街」
④旭川市「市街」

Answer

②喜茂別・倶知安町「市街」

 積雪地域において、冬の雪の処理というのは大変な作業である。この作業をいかにして軽減する一つの方策がこの流雪溝である。この流雪溝は、家屋が連担する市街地において、河川水等の水量が豊富に得られ、流下勾配もあり、流末処理も適度に容易であれば、雪捨て処理として運搬排雪よりも有効とされている。この流雪溝によって交通環境の充実により、住民の心の活性化は、商業にとどまらず広く産業活動全体の好影響を与えるものである。
 道路の施設としては、昭和五十四年に、国道二三〇号喜茂別町で、河川水利用の流雪溝が延長一、二八二mと、同じく道道喜茂別停車場線に四五〇m、町道二条通に四七七mが設置されたのが始まりである。また同じ年に国道五号の倶知安町で河川水を利用した延長一、八八七m、道道倶知安停車場線で四八〇mが設置をみている。昭和五十九年には、国道十二号砂川市で温水利用の延長三、一七八mが設置となった。ここでは砂川火力発電所の温排水(十二℃)を利用したもので、昭和五十四年から始まった砂川拡幅工事に合わせて実施したものである。工費六億四、四〇〇万円となっている。この砂川流雪溝について「冬になると街の中に人々を分断するようにそびえたつ雪山が消えて、明るい日の光がさしこみ、人々が気軽に街に出られるようになりました。流雪溝は市民の明るい心とコミュニケーションを生み出し産業活動に弾みをつけます。流雪溝は、冬の砂川の表情を大きく変え、快適な冬の生活環境を目指す『ふゆトピア』をまた一歩現実に近づけました」とPRしている。
 なにしろこれからの冬の雪対策は、流雪溝の整備とされる。これによって生活道路が確保されると同時に、雪投げの共同作業を行う中でコミュニケーションづくりにも一役買っているというメリットもある。各地ではその後、この流雪溝の設置が行われてきて地域住民に喜ばれ、冬の雪投げ作業が楽になったといわれている。

Question 359

 冬の雪の処理のために設けられた流雪溝には、河川水の利用のものから、砂川市内のように火力発電所の温水を利用するなどがあるが、温泉熱を有効に利用した融雪溝が設備されている所がある。それは次のうちのどこか。

①十勝管内「音更町」
②空知管内「長沼町」
③石狩管内「恵庭市」
④後志管内「余市町」

Answer

②空知管内「長沼町」

 流雪溝が設置されたことによって、整備前の道路では道路脇に高く積まれた雪山が、通行の障害となり、これに違法駐車も加わって交通事故等も懸念されていたが、これらが一挙に解決となったのであった。
長沼町では温泉熱を有効に利用した融雪溝が設備されている。これは、ながぬま温泉や農協の育苗ハウス、室内ゲートボール場などからの排湯を導水管で導き、融雪溝で使用後、馬追川に排水するものである。水温は二二℃であって一日一〇㎝程度の雪を解かすことができるというものである。
 市街地を中心に整備が行われてきた増毛町の例では、永寿川から取水し、自然流下方式によって水を導き、ポンプアップした水を利用、投雪口をほぼ一軒に一個所の割合で設けられている。そして除雪車によって道路脇に寄せられた雪と、歩道や各戸から出された雪を投げ込むものである。ここでは水利権の確保などの問題から二十四時間体制は無理であるとしている。
 各地では河川や温水、温泉熱などのローカルエネルギーを有効に活用した流雪溝の整備が進められ、快適な冬の対策が各地で試みられている。「雪国の楽々快適空間の創造」に向けてこの流雪溝は活躍している。

▲余記―ヒーティングの話題 札幌市・小樽市・釧路市

 札幌市では、昭和四十一年「札幌市ロードヒーティング補助金交付規則」を設けて奨励する。対象は歩道延長一五m以上、または面積五〇㎡以上のロードヒーティングを施す民間の個人、団体に補助金(昭和五十四年で四、○○○円/㎡)を出している。これによって百貨店、スーパー、病院など、大型建物の前、商店街の中が多く施工された。
また温泉熱を利用したヒーティングが定山渓温泉の通称見返り坂で面積一、四四〇㎡が、昭和四十年に施工されている。この施工によって融雪が促進され、札幌市道の車道部ロードヒーティングの始まりであった。それ以来さまざまな材料が使用され、気象の条件などを考え、組み合わされている。その後各地で歩道部や、こ線橋の前後、勾配のきつい坂道などが、電熱線の布設によるものや、温水管によるものなどのヒーティングが施工されている。そしてスパイクタイヤの禁止によって各都市の坂道で大々的に施工されてきたのであった。

 最も坂道の多い小樽市内では「住民の要望が強く、交通安全上交通対策に欠かすことのできない施設」と位置付けられ、小樽環状線などをはじめ、多くの設備がなされている。最近ではヒーティングの熱を供給するための運転指令を適切に制御することで、経費の低減をはかるヒーティング制御システムが研究されている。

 釧路市の例では、路面融雪制御システムを導入し、パソコンなどでの遠隔操作による融雪制御を行い、さらに気象情報を活用した最適の予熱制御を取り入れ、経費を大幅に軽減させている。

Question 360

 この街の、南北約二㎞区間の通りを歩いてみると、通りを挟んで前後左右に見える街路灯は、それぞれ管理者が異なるため、それぞれがデザインしたものを設置している。この設置されている街路灯のデザインが十五種類見られるが、それば次のうちのどこか。

①函館駅前通り
②旭川駅前通り
③釧路駅前通り
④札幌駅前通り

Answer

④札幌駅前通り

 各市町村の市街地では、それぞれに艶を競っているかのように、お酒落な街路灯が立ち並んでいる。どの街路灯をみても「照らすだけが能ではない」といわんばかりに、それぞれが街の特徴、そして通りの特長をPRしたものとなっている。初期の道路や街路には、ただ明るくして防犯を目的にしたものが多かったが、近ごろは様相を一変した。「街路灯は街の顔、通りの顔である」とさえいわれるようになってきたのであった。
 札幌市の南北駅前通り約二㎞区間は、道道(JR札幌駅前―北一条間約五四〇m・札幌市街路課)、国道(北一条―南四条薄野交差点間約七七〇m・札幌開発建設部)、市道(薄野交差点―中島公園間約七六〇m・札幌市中央区土木部)がそれぞれ管理している。
 札幌駅前通りを挟んで前後左右に見える街路灯は、それぞれ管理者が異なるるため、それぞれがデザインしたものを立てている。管理者が異なるとそれぞれが、それぞれの考え方で設置しているため、一五種類のものが立っている。昔懐かしいカンテラ風、直線を駆使した近未来的なものなど、デザインは多様である。
 市街路課は「明治開拓期の農機具がモチーフ。札幌の歴史を踏まえノスタルジックな雰囲気へとした」といい、札幌開建は「国道は都会性を重視したシンプルさが特徴」とする。中央区土木部では「キーワードは界隈性。アーケードをイメージして混然一体感を出しました」と、街路灯のデザイン決定の理由を説明しているものである。
 一つの通りであることから、これらは統一すべきという意見もあるが、統一性なんて必要ない、オフィス街、ショッピング街、飲食街とそれぞれ顔が違うからとする意見もある。通り一本を隔てただけで、全く趣の違う街路灯が並んでいる。

Question 361

 水面に映えるガス灯の淡い光が、明治、大正時代に繁栄したこの街の歴史を感じさせるとされ、この街の観光名所の通りに設置されているものであって、観光客にも大好評であるが、それは次のうちのどこか。

①釧路管内「釧路市」
②渡島管内「函館市」
③網走管内「北見市」
④後志管内「小樽市」

Answer

②後志管内「小樽市」

 かつて、北海道の玄関口として栄えた小樽の街の名所、小樽運河沿いの散策路は、冬でも観光客の散策する人影が絶えない。この一・一㎞の散策路に、明治、大正時代を通じて商都・小樽の歴史を感じさせるガス灯が六三基並んでいる。
 かつて「埋め立てか保存か」で大論争の末、運河の一部が埋め立てられたものであった。昭和六十一年に南側が、そして平成二年に北側の整備工事が完了し、これを期に歴史的風情を活かすため、散策路や街園、ガス灯が順次設置され、新たな装いのものになったのである。
 「日本のガス灯は、明治五年に横浜で点灯したのが最初といわれ、小樽でも明治期には料亭などで盛んに使われていたという。ガス灯の灯(あかり)は文明開花と小樽の繁栄を照らした光であり、夕暮れ時、小樽運河にガス灯がほんのりと灯り、ライトアップされた石造倉庫群とともに、水面にゆらゆらとゆらめく光景は、あたかも過去へとタイムスリップするかのような錯覚を感じさせる。小樽は古いものと新しいものとが微妙なバランスで溶け込む〈時の街〉である」という。
 ガス灯は高さが四mのブロンズ製で「マントル」と呼ばれる球状の石綿にガスを吹き付け点火するしくみで、明るさは一〇〇wほどで、デザインは市民公募三六点の中から選ばれ「大正モダン風」の意匠となっている。
 なんといっても、この散策路の倉庫群などと相まって、景観と風情が観光客に好評である。しかし一基当たり月約五、六〇〇円と、通常の約三倍のコストが悩みの種ともされている。
 「新旧が徴妙なバランスで溶け込む〈時の街〉に歴史の光を伝えるガス灯」とされている。

Question 362

 この商店街の川沿いに、ランプの上で鉄板をくり抜いて作ったサケの飾りが、波打つ川をさかのぼっていて、今にも空に躍り出そうな街路灯が並んでいる。「市内で一番、明るいんです」と自慢している街路灯があるが、それは次のうちのどこか。

①根室管内「標津町」
②石狩管内「千歳市」
③十勝管内「広尾町」
④渡島管内「八雲町」

Answer

②石狩管内「千歳市」

 千歳川沿いの千歳市末広商店街は、国道三三七号沿いの商店街である。この通りには世界的にも数少ないサケを捕獲するインディアン水車があり、シーズンには、観光客の往来が激しい観光道路でもある。
 このインディアン水車は、清流千歳川に掛けられた水車で「サケをすくい取る漁法で、歴史的にも大変由緒あるもの」である。平成六年に「千歳サケふるさと館」が完成し、サケ捕獲の醍醐味と巨大水槽のサケ科の魚観賞が満喫できるサーモンパークと、商店街通りとが連動して名称も「サーモン通り」と名付けられた。
 街路灯はこの通りの両側に四四基が設置され、水銀灯とナトリウム灯の二灯式であり「他の町村ではなかなか見ることのできない鮮やかな明るさを誇っており、世界的な雰囲気を醸し出している」とされる。街路灯本体にサケのモチーフを付けて、いかにも「サーモン通り」を象徴しているようである。「ランプの上で鉄板をくり抜いて作ったサケの飾りが、波打つ川をさかのぼっていて、今にも空に躍り出そうとされるもので、商店街では、平成六年に設置したものである。街路灯のサケは昼間、銀色に輝く。「日光の加減でしょうか」とされる。
 また街路灯が非常に明るく防犯効果にも十分役立っていると商店街の人が自慢気に話をしてくれた。まさに末広商店街の夜の顔とも言えるが街路灯でありサーモン通りに相応しくサケのモチーフを付けた街路灯である。

Question 363

 「マチのシンボルがまぶしい!町の木・花・特産品・スズランなど七種類のレリーフをあしらった街路灯」。この町に「ハミングロード」と命名された道があり、北海道が選んだ広告景観優良地区として最初に受けたこの町とは、次のうちのどれか。

①釧路管内「白糠町」
②空知管内「南幌町」
③留萌管内「羽幌町」
④十勝管内「音更町」

Answer

①釧路管内「白糠町」  

 夕暮れどき、釧路管内白糠町の海岸を走る国道三八号は、ナトリウム灯のオレンジの淡い光で満たされる。スズラン、サケ、毛ガニ、町花のキンセンカに町木のナナカマド。町のシンボルや特産品などをイメージして作られた街路灯は、七種類二七七基。「道が暗い」と住民から声が上がったため、町が総工費一億五千万円をかけて、町の端から端まで約二〇㎞の区間を四年ががりで整備した。
 ナトリウム灯の採用は、霧や雨の多い道東ならではの工夫だが、何ともいえぬ不思議な雰囲気を醸し出している。「ハミングロード」と命名された道は、白糠南通り商店街を擁してこのエリアの近代化を目指したもので、北海道が選んだ広告景観優良地区として最初に指定を受けたところである。
 街路灯の設置については町全体を視野に入れ、街路灯整備事業として地域の特性を生かしながら、平成二年度から同五年度までに七種類で二七七基を設置した。その支柱には「町の木や花である〈ななかまど〉や〈きんせんか〉。特産の〈カニ〉、〈サケ〉、〈タコ〉。海のシンボル〈カモメ〉。北海道をイメージさせる〈スズラン〉の七種類がレリーフとしてあしらわれている。またレリーフの下の部分には、フラッグ(旗)を下げる棒が付いており、交通安全や防犯を呼び掛ける三角形の旗が取り付けられている。この街路灯が設置されている場所は、庶路市街が〈スズラン〉型で一六基設置。自糠市街は〈サケ〉、〈タコ〉、〈カモメ〉の型で一〇〇基。石炭岬、西庶路、恋問のエリアは〈ななかまど〉、〈スズラン〉、〈カニ〉の型で九八基。そして坂の上、刺牛、西庶路のエリアは〈きんせんか〉、〈カニ〉、〈サケ〉、〈ななかまど〉で六三基が設置されている」。
 これだけの街路灯に灯がともると「すばらしい」の一語に尽きる。住民の人たちは「香港や函館の夜景は有名だが、白糠の夜景だって東山公園から観ると、そう遜色ないよ!」という。

Question 364

 この街の商店街に「ギャラリー街路灯」と呼ばれるユニークな街路灯が立ち並んでいる。これは陶芸作品が展示されているギャラリーボックスを備えた街路灯で、日中も十分楽しめるが、夜には幻想的なギャラリーになるものであるが、それは次のうちのどこか。

①石狩管内「江別市」
②空知管内「長沼町」
③胆振管内「登別市」
④渡島管内「七飯町」

Answer

①石狩管内「江別市」

 JR江別市駅から国道十二号へ向かって歩く間に、本通商店街がある。この商店街に立ち並ぶ街路灯を「ギャラリー街路灯」といい、レンガとやきものの街・江別に、ピッタリなのがこの街路灯である。
 高さ四m、太さ二五㎝ほどの鉄製角柱で、合計三二基がある。胸の高さあたりの、一・二mがガラスケース状になっており、中には個性あふれる陶芸作品が収められている。この作品は、毎年七月に行われている「えべつやきもの市」に参加している陶芸家の方々の作品である。
 どの作品を一つひとつ見ても、個性的で素晴らしく、ちょっとした焼き物展会場のようである。この街路灯は、平成六年十二月に本町通り商店街振興組合が二千八百万円かけて設けたもので、レンガの街・江別に相応しく、地元産の赤レンガを使っている。散歩や買い物をしながらのぞき込む市民も多い。
 かつてこのあたりは、江別市の繁華街として賑わっていたが、最近は商店街の老朽化も目立ってきた。そこで市では新たに路面と街路灯の整備を行ったものである。「それぞれの街路灯ギャラリーボックスの中が、全て市内の陶芸家一人ひとりのものに入れ替えることもあり、まさに〈野外ギャラリー〉として楽しめる。この街路灯は第八回北の生活産業デザインコンペティション・工業デザイン部門において銅賞を受賞している。このようにギャラリーボックスの中の作品だけでなく、街路灯デザインも素晴らしい」。
 まちのシンボルとして市民に親しまれ、ここを訪れる人にも立ち寄ってみてはと、勧められている街路灯である。

Question 365

 この町の街路灯デザインは、町の歴史と未来を表したもので、疾走する馬。その上下には、ステンドグラスがはめこまれ、太陽と牧場をステンドグラスに、その中を若駒が疾走しているもので、さわやかさと未来へ駆ける力強さを感じさせる。この街路灯は、次のうちのどこか。

①胆振管内「早来町」
②日高管内「浦河町」
③渡島管内「八雲町」
④十勝管内「大樹町」

Answer

②日高管内「浦河町」

 浦河町中心部の国道の拡幅工事が終了し、街に新しいデザインの街路灯が設置された。この市街地一帯は、商店の近代化が進められ、店舗のデザインも三角屋根に統一、電線は地下に埋設となり、従来の古びたイメージを一新した。
 浦河町は古くから開けた町で、市街地の道路は昔ながら狭く、最近の交通状況から渋滞することも度々ということであったが、この解消のため、国道の拡幅を計画し〈ふれあいの道〉整備と称し実施された。もちろんこれに伴って、商店街の近代化事業も進められた。それぞれの店舗は、個性あふれる色彩で包まれ、三角屋根には緑のボーダーラインを取り入れるなど、町並み全体が調和のとれた、落ち着いた景観をかもし出している。この中で、街路灯もその一翼を担っているものである。新しい街路灯のデザインは、町の歴史と未来を表したもので「疾走する馬。その上下には、山の紅葉のイメージを表す暖色系、海を象徴する寒色系のステンドグラスがはめこまれて」いるものである。「太陽と牧場をステンドグラスに、その中を若駒が疾走しているもので、さわやかさと未来へ駆ける力強さを感じさせる。照明部は水銀灯とナトリウム灯を併用し、単一照明では保ちにくい、やさしさあふれる明かりとなっている。夜霧に浮かぶ町並みを照らす街路灯。 その雰囲気は昼とは一変する。街路灯の材質をみると、海に面した町ということを考慮し、耐腐食性のアルミ合金を採用、主柱にはイベントなどの垂れ幕も設置できるように工夫されている。街路灯の数は、現在八〇基あるが、町内景観の整合性を加味すると、他地区での設置も考えられるので、これからその数も増えていくものと思われる」という。
 参考までに平成七年十一月未明のこと、乗用車がこの街路灯に激突、このうちの一本が根元から折れた。弁償額は約四百万円にもなるとされていた。

Question 366

 このまちの中心街には、さまざまな古代の生物たちが顔をそろえた街路灯が立ち並ぶ。このまちを象徴する「化石のまち」のあかしとして、街路灯の模型により、長い眠りから目覚めたとされているが、それは次のうちのどこか。

①胆振管内「穂別町」
②日高管内「静内町」
③空知管内「三笠市」
④渡島管内「八雲町」

Answer

①胆振管内「穂別町」

 「ぼんやりと闇に浮かぶクビナガリュウやアンモナイト。胆振管内穂別町の〈進化の道〉(延長九〇〇m)沿いに立ち並ぶ街路灯には、様々な古代の生物たちが顔をそろえる。かつて林業で栄えた山あいの町も、一億年ほど前は、まだ海の底だった。そのあかしとして、海ガメや海トカゲなど貴重な化石が数多く町内から見つかっている。〈化石の町〉を象徴し、街路灯の模型として長い眠りから目覚めた。照らし出される姿は、太古の海を泳いでいたことを思わせる」。
 この「〈進化の道〉は、地球が進化してきた節目を〈地球の誕生〉・〈海の生命〉・〈陸の生命〉・〈人類の歴史〉・〈穂別のまちづくり〉の五つのゾーンコンセプトに区分し、それぞれのコンセプトにそった平板や絵などを取り付けた。歩きながら地球の進化を学ぶ屋外自然史博物館であると同時に、町唯一の商店街である〈ホッピー商店街〉の個性ある新しい顔づくりにも寄与するようにと、つくられた〈道〉である」。
 この「進化の道」沿いの街路灯は、クビナガリュウやアンモナイトがデザインされていて、ホッピー商店街に三七基が立ち並び、「町民だけでなく、この町をおとずれる一人ひとりにも温かい光をてらし、その灯の中に、古代からの息吹とロマンが、加えて町民の優しさが伝わってくる」とされる。
 この穂別町は昭和五十二年にクビナガリュウの化石が発掘されて以来、さまざまな化石の資料を収集し博物館に展示したり、太古と現代の地球極地・秘境を体験できる地球体験館などの教育施設も造り充実させながら〈森と化石とロマンの里〉づくりに町民が挙って力を注いできた。
 なお穂別町は平成十八年に鵡川町と合併し「むかわ町」となる。この街路灯は「古代からの息吹とロマンを漂わすホッピーやアンモナイトがデザインされた街路灯」である。

Question 367

 北海道において、とりわけ古い歴史と伝統文化を有しているこの街の街路灯は「日中の勇壮感溢れる街も、夜になると街路灯の演出によって情緒感豊かな街並みへと変わる」とされ「全体が黒基調なので一層歴史の重みを醸し出す街路灯」となっているのは、次のうちのどれか。

①渡島管内「福島町」
②檜山管内「江差町」
③日高管内「白老町」
④胆振管内「伊達市」

Answer

④胆振管内「伊達市」

 「かわら屋根、白壁の近代和風建築で統一された伊達市の市役所通り〈伊達街道〉は一瞬、通行人を江戸時代にタイムスリップさせる。そんな街並みにマッチした街路灯の照明部分についているのは伊達家の家紋〈竪(たて)三ツ引両紋〉。伊達家初代朝宗公が戦功で源頼朝公から贈られたものをアレンジ、数多い伊達家家紋のなかでも公的な場合に使う格式の高いもの。亘理伊達家が開拓した伊達の歴史を象徴するものとして採用された。延長四百八十mの両側に三十本立てられ、街路樹は道内では珍しい柿の木。愛称の〈あいあいタウン〉とマスコットを紹介した飾り板も鮮やかな柿色だ」と紹介されている。
 伊達市は仙台藩の一門亘理領主、伊達邦成とその家臣たちの自費により明治三年(一八七〇)四月から十四年四月まで九回に亘る二、六〇〇人余人に達する集団移住によって開かれた地である。北海道においては、とりわけ古い歴史と伝統文化を有している。
 伊達市では商店街街路整備のテーマを「伊達物語回廊」に設定し、四つのゾーンからなる夢のまちづくりを進めてきた。そしてそれにマッチした街路灯を立てた。「街路灯はまち並みを背景として沿道に立ち並ぶことから、デザインには特に気を使い、瓦屋根をモチーフにし、白壁に映えるように黒を基調とした近代和風をイメージしたものとした。そして、夜は行灯を思わせる。また、武士がかつぐ幟をフラッグとして取り付けることによって、勇壮感をかもし出すようにしたりした」。
 この街路灯は日中の勇壮感溢れる街も、夜になると街路灯の演出によって情緒感豊かな街並みへと変わるとされ全体が黒基調なので一層歴史の重みを醸し出す街路灯となっているとされる。

Question 368

 民家と旅館が混在するこの地区の〈範囲が分りにくい〉〈らしさがほしい〉といった声にこたえて、町並みに合わせて灯籠型の街路灯や、ステンドグラスを使った街路灯を設置した。それは次のうちのどこか。

①渡島管内「函館・湯の川」
②檜山管内「乙部町・館浦」
③胆振管内「登別市・温泉街」
④後志管内「小樽市・朝里川」

Answer

①渡島管内「函館・湯の川」

 函館は安政六年(一八五八)、横浜、長崎と共に国際貿易港として世界に門戸を開いた街であり、早くから海外との交流を行い、国内においては、いち早く欧米文化に触れながら発展をしてきた街である。函館の街路灯の歴史は古く、明治五年に函館駐在のイギリス領事が、市内のいくつかの地区に灯油ランプで夜間照明を行ったのが始まりであるといわれている。これが電灯に替わったのが、明治三十年で、ガス灯型風の街路灯の初点火は大正元年だというから、ここから数えても八五年が経っている。
 「函館・湯の川温泉街を流れる松倉川の両岸に色とりどりのステンドグラスが連なる。トラピスチヌ修道院、五稜郭、外人墓地…。観光名所をモチーフに、四〇mごとに計二〇基。高さ五mの街路灯の先端に取り付けられている。札幌の専門業者が製作した。民家と旅館が混在する湯の川温泉の〈範囲が分りにくい〉〈らしさがほしい〉といった声にこたえようと、湯の川温泉街活性化事業の一環として函館湯の川温泉旅館協同組合と函館市が協力して平成三年十二月に設置した。日中も楽しめる街路灯として歩行者の目をひいている」。
 湯の川温泉は、発祥が承応三年(一六五四)というから、三〇〇年以上の古い歴史を持つ温泉である。古くからは函館観光の拠点として、多くの観光客を受け入れてきたが、市街地に位置するため、ホテルや旅館が住宅と混在しており、温泉街としての情緒に欠けるという課題があった。そこで温泉街らしさを演出しようと、歩道をカラー化したり、町並みに合わせて灯龍型の街路灯や、ステンドグラスを使った街路灯を設置することで、地域が衆議一決、準備を進め、今では昼夜を問わず温泉街の散策が楽しめるとなかなかの好評である。

Question 369

 「明治をしのばせる温かみを」とガス灯がこの通りに設置され、平成二年四月に点火された。この日情緒豊かな明かりがビルの谷間に灯った。明治の風情がなんともいえない感激の日であったとされた通りは、これは次のうちのどこか。

①旭川市「永山通り」
②札幌市「北三条通り」
③小樽市「日銀通り」
④函館市「八幡坂」

Answer

②札幌市「北三条通り」

 「道都。札幌のメインストリート〈駅前通り〉。球形などにかたどられた街路灯のやわらかな光が雪の通りに映える。北五条から南九条までの市道の両側に札幌市が設置している街路灯は合わせて百三十六基。…派手なネオン広告や自動車のライト、ビルの明かりと溶け合いながら、都会の夜を演出している。冬はこれにホワイトイルミネーションの無数の小さな電球も加わり、光の競演は一段と輝きを増している」。
 「北三条通りは、歴史文化資源として、旧道庁、道庁正門、開拓使札幌本庁舎跡、札幌市道路元標、〈札幌舗装道路発祥の地〉碑などを持ち、その他イチョウ並木、景観散歩歩道サイン…などがあり、〈歴史散歩・交流〉を中心とした札幌を代表するゾーンであることから、歴史的なシンボル都市の軸として北三条通りが、札幌を代表する国際的な歴史景観ゾーンとするとともに、札幌の歴史とフロンティアスピリットをテーマとした交流や、産業の道づくりへの参加を提供することを目的として、整備をした」とされている。
 区間は札幌市中央区北三条西四丁目(駅前通りから西五丁目線)の一二〇mの区間であり、明治や大正をしのばせる温かみのある街を復活させるため、重厚で落ち着いた色彩とデザインのガス灯を採用したものである。札幌市の都心部ロマネット計画のシンボルゾーンとして、レンガ舗装の街路などが整備された北三条通りであり、平成二年四月に「明治をしのばせる温かみを」とガス灯十五基が点火された。この日情緒豊かな明かりがビルの谷間に灯ったのである。これは鉄製の支柱にガラスの部分を千葉県などのメーカーに特注したものであって、一基あたりの費用は二五〇万円から三〇〇万円という。四月十一日の夕暮れの中で、一斉に点灯された。黄色がかったオレンジ色の光がほのかに灯ったのである。明治の風情がなんともいえないものとなっている。

▲余記 

 このほかに、話題となった街路灯に、上川管内名寄市の街路灯がある。市はスキーを市技と定めているまちである。したがって三つの通に「スキーヤーをイメージした街路灯が設置されている。アカシア通りには、ひざを曲げながら前傾姿勢で滑るスキーヤーを表した街路灯が設置された。この街路灯のデザインを公募したところ高校の生徒の作品が採用されたものであった。直滑降のイメージのシンプルなこの街灯は、雪化粧をした夜の街並みを、オレンジ色でやさしく照らしていて、市民には好評のものとなっている。

 網走管内滝上町のものは、交通案内板付きの街路灯でこの町の特色である。「童話の村」のイメージにふさわしく、分かりやすい道案内をめざすユニークなデザインと評判である。統一されたデザインの標識二十一基と、うち十三基が標識付き街路灯となっているもので、高さは四・二mのアルミ鋳物製支柱に水銀灯が二つ、公共施設名とそこまでの距離を記した標識を照らしている。町では道が入り組んでいるため、まごつきながら芝桜見物に訪れる観光客の道しるべともなっている。

 上川管内富良野市は、ワインの街である。ワインの丘への道は、ワインづくしである。ワイン工場への道路沿いにはワイングラス形のナトリウム灯が道道に十九基、市道には三十八基が並んでいる。ランプはグラス形の共通のデザインであって、橋の上の六基だけが二つのランプを並ベたものとなっている。街路灯のプレートはブドウ形をしていて、歩道の植樹ますはグラスとブドウの模様、移動花壇はワインの樽を半分に切って使うというワインずくしのものとなっている。

 渡島管内福島町からは、横綱が二人誕生している。この二大横綱にちなんで、街の通りや橋、街路灯などが相撲一色となっている。本町商店街の街路灯は、吊り天井をデザインしたユニークなもので、照明部分に町花のヤマユリを描き、軍配と横綱のミニチュアを飾ったものが二種類の十一基がある。

 渡島管内函館市の、旧桟橋に、明治の風情をしのばせるガス灯が一九九一年六月に点灯された。これは「夜景の街」を積極的に整備する市のファンタジー・フラッシュ・タウン計画にライオンズクラブが協力・寄贈したものであった。赤レンガ倉庫群が夜景を彩る港。「その一角にともる柔らかな明かりは、観光客の感傷を誘う」というものである。また、十字街から坂の下まで、国道沿いに「往時の華やかさが薄れた十字街の夜に、ひと際まぶしい」街路灯が建ち並んでいる。この周辺は明治期の函館経済の中心地であり、市の歴史的景観条例指定地域ともなっている。古い鉄筋コンクリート建物が並ぶシックな街並みに配慮して柱を青銅色にし、オレンジ色の光は通りを明るく照らしている。このエキゾチックな街並みに調和するようにとデザインされたものだけに、夜景のグレードアップに役立っているものである。

 網走管内網走市の市内を流れる川の左岸「水の広場」には、月々の星座を散りばめたロマンチックな街路灯が十二本設置されている。一本一本には、毎月一日午後八時に見上げた状態の星座早見盤が、取り付けられていて、内部のライトによって星座の部分が淡い緑色に輝くというものである。
下流から上流にかけて一~十二月の星空が順に並んでいる。なおこの川の右岸にも十一基が設置されていている。この街路灯は港町的な雰囲気を表現した特徴になっている。この河畔公園は市民の散策や憩いの場所となっていて市民に親しまれているものである。

宗谷管内歌登町で平成二年、鉄道や国道、港などがない全国自治体が集まって「ないないサミット」が開催された。これの開催にあわせて、過疎化に沈む町を明るく―の願いを込めて町内に一一五基の街路灯を建設した。町の木トドマツをイメージしたデザインで、上部には町の鳥セキレイをあしらった。通常の二倍ほどの明るいライトが市街の主要道路をこうこうと照らしている。

 空知管内秩父別町は、屯田兵の入植で開拓が始まったまち。開拓時代に時刻を知らせるために響き渡った「屯田の鐘」をイメージした鐘型街路灯三一九基が、平成四年から三ヵ年で国道、道道、町道など四十路線以上に設置された。七〇w(歩道用)と一一〇w(車道用)の二種類のナトリウム灯がついたものと、一灯だけのものであり、キャッチフレーズの「鐘の鳴るまち」の夜空をオレンジ色で照らし出している。

 このほかにも多くの町には、それぞれに特徴をもった街路灯が設置されている。札幌の駅前通りの街路灯も、派手なネオンやビルの明かりに溶け合いながら、都会の夜を演出しているし、帯広市の電信通りの純日本風の三十基も淡い黄色の光に夜を温かく包んでいる。各市町村の街路灯はとても艶を競っているかのように、お酒落なものとなっている。どの街路灯を見ても「照らすだけが能ではない」といわんばかりに、それぞれに街の特徴を発揮したものとなっている。それぞれは情緒豊かに、またあるものはシックに、そしてあるものは純和風のものもあって、光の競演を競っている。特に橋上に設置されたものにユニークな、かつ上品な雰囲気を出しているものが多い。初期の道路の街路灯は、ただ明るく照らせば良いというものばかりであったが、近ごろは様相を一変した。「街路灯は街の顔である」とさえいわれるようになってきたこの頃である。独特の表情を醸し出している各地の街路灯は、車を走らせていて楽しくさせてくれる。

Question 370

 平成三年北海道開発局は、開局四十周年を記念し、開発事業の成果として特に優れているものを広く紹介し、道民の開発事業に対する理解を深めてもらおうと「名評四十選」の選定をした。その中で道路に関するものとして選定されたのは、次のうちのどれか。

①札幌千歳間道路(札幌~千歳市)
②札樽国道(札幌~小樽市)
③石狩河口橋(石狩~当別町)
④知床横断道路(羅臼~斜里町)

Answer

④知床横断道路(羅臼~斜里町)

 北海道開発局では、道路やダム、トンネル、橋など開発事業の成果として特に優れているものを広く紹介し、道民の開発事業に対する理解を深めてもらおうと、七月の開局四十周年記念の一環として「名評四十選」の選定作業を進め、知床横断道路など四十の施設を決めた。開発局は昭和二十六年に発足以来、五期にわたる総合開発計画に基づいて道路、河川、農業、港湾、官庁営繕などの広範囲に及ぶ社会資本整備を総合的に実施してきた。そこで開局四十周年にちなみ、名評四十選「北をクリエート四〇」と名付けてこれまで担当した公共事業のうち、特に優れている施設四十点を厳選、一般に広く紹介し、開発事業と認識を深めてもらうことにした。
 各開発建設部、営繕部から推薦のあった一一九施設について局内選考を行い、うち六九施設を対象に道内有識者による選考委員会が、修景、景観への配慮、技術的な特徴等を考え合わせて選んだ。
 道路では、昭和五十八年度に完成した国道三三六号黄金道路(えりも~広尾町)、同三十八年から十八年の歳月をかけた国道三三四号知床横断道路(羅臼~斜里町)をはじめ、全長四一七mの国道二七三号の糠平大橋(上士幌町)、平成二年度の国道二三一号の花畔大橋(石狩町)、などが選ばれた。このほか定山渓国道(札幌市)、直線道路(美唄~滝川市)、上姫川橋(森町)、室蘭新道(室蘭市)、山部沿い道路(富良野市)、留萌川栄萌橋と修景護岸、浮島トンネル(上川~滝上町)、美幌峠(美幌町)、日勝峠(清水町)、幣舞橋と釧路フィッシャーマンズワーフ錦町護岸(釧路市)などであった。
 したがって、昭和二十八年完成の国道三六号、札幌千歳間道路(札幌~千歳市)や、同三十年に完成した札樽国道(札幌~小樽市)、名橋としての誉れも高い石狩河口橋(石狩~当別町)などは、この選に入っていない。

Question 371

 太平洋戦争が終わって昭和二十三年から、三年間にわたり道路工事に関係した「名誉作業班囚人部隊(Honour Camp)というのがあり各地で道路の建設作業に従事したが、次のうちでどこか。

①国道五号―余市・稲穂峠道路
②国道十二号―峰延・中央道路
③国道三七号―伊達・礼文華山道
④国道二三六号―黄金道路

Answer

④国道二三六号―黄金道路

 戦時中は軍事産業に動員された囚人が、戦後になった二十三年から再び外役作業に従事することになった。この「名誉班」というのは「厳格な条件で選んだ優秀受刑者に名誉の名を冠して、希望と誇を自覚させる」ことから、北海道開発事業に投入するべくことになったものである。
 昭和二十五年北海道開発名誉作業班五〇人が、黄金道路の猿留(現・目黒)に入った。帯広刑務所から刑期の軽い模範囚人で災害防除工事にあたった。猿留橋上流右岸に仮監が建てられ、猿留(さるる)~庶野間の作業に従事した。民間人の小頭五人が作業の指揮にあたった。幅員五mのコンクリート舗装などを手がけたという。帯広土木現業所の当時の監督員であった人は「苛烈な時代の維持補修にはいろいろ工夫をこらしました。囚人を維持補修に使役しましたが、四月から十一月までで、在所二日間が三日間に、成績が優秀であれば四日間に換算するという思いきった措置をとっていたようです。 刑期が短くなり真面目に働き地元から喜ばれ、スルメやキビダンゴの差し入れもありました。護送は省営バスを使い空車には資材を運んだりしました」と語っている。
 なお参考までに、初年度の昭和二十三年には、壮瞥村の昭和新山噴火による新道開削工事など二五個所に二、八二〇人が使役され、二年目の二十四年度は二八個所で二、九七〇人が使役されている。そして三年目の昭和二十五年度は、二二個所に二、三〇五人が各地に出向き、北海道の開発のために働いたのであった。
 この昭和二十五年度には「黄金道路」の幌泉村(現・えりも町)や、門別町、豊浦町、幌加内町、美瑛町、斜里町、白糠町、千歳市などがあった。もちろんこの道路関係ばかりでなく、河川事業などにも使役され、全体で三年間に延べ六四万人が出役したとされている。

Question 372

 「死に顔の最も美しい死に方はなんであろうか」という書き出しで始まる小説で、魅惑的な妖精のような少女の死を、白一色の静寂の峠で、その幕を閉じさせている。この少女の死の物語の峠は、次のうちのどれか。

①弟子屈・美幌町「美幌峠」
②津別町「津別峠」
③阿寒町・足寄町「足寄峠」
④阿寒・津別町「釧北峠」

Answer

④阿寒・津別町「釧北峠」

 阿寒町と津別町との境にある国道二四〇号の釧北峠は、標高五九四mであって、かつては阿寒湖に袖をひく雄大な雄阿寒岳や、雌阿寒岳が一目で見ることができた。昭和四十二年から道路改良が施工され、峠付近の約一三㎞区間が西側に移され、峠からは阿寒湖がみることができなくなる。峠の駐車場からは、広々としたエゾマツ、トドマツの分厚い壁しか見えなくなってしまった。

 作家・渡辺淳一は『阿寒に果つ』の小説で、魅惑的な妖精の天才少女画家、時任純子の死を、阿寒湖を背景にしたこの「釧北峠」でその幕を投じさせている。
「一九五二年四月十三日。二十年前のこの日、純子は雪のなかから現われた。場所は針葉樹林のきれた釧北峠の一角で、その位置からは裸の樹間を通して阿寒湖を見下ろせた…白一色の静寂の峠で、雪から浮かび出た赤いコートと手の点景は、異国の絵のように不思議で鮮やかであった」。
 昭和二十七年一月二十九日の新聞に「女学生画家、加清嬢自殺か、雄阿寒ホテルから失跡、当分帰らないと置き手紙」という記事が載っていた。新聞は顔写真入りで札幌南高校三年生の加清純子(一九三三~一九五二)のことを四段抜きで報道していた。加清純子は北海道女流画家のホープとして注目されていた。彼女が小説『阿寒に果つ』のモデルとなった天才画家のことである。彼女は恋と絵に行き詰まって自殺したと伝えられている。彼女は札幌から釧路に向かい、四月十三日に阿寒湖を見下ろす釧北峠の一角で、美しい表情の遺体が発見されたのであった。
昭和五十年に、渡辺邦彦監督、東宝作品として映画化され「雪が狂ったように舞う釧北峠へ向かい、雪が乱舞する中で倒れる。三箇月後に眠るようにした美し純子が、雪の中から発見された」というのが筋である。

Question 373

 峠では、古来から多くの人々が命を落としてきた。この峠に汽車が走るようになって、一人の鉄道職員が命を落とした。なんの変哲もないこの峠を有名にしたのが、この鉄道事故を題材にした小説の峠と同名であるが、次のうちのどこか。

①木古内・上の国町「稲穂峠」
②倶知安・共和町「倶知安峠」
③比布・和寒町「塩狩峠」
④美深・幌加内町「美深峠」

Answer

③比布・和寒町「塩狩峠」

 旭川と稚内とを結ぶ国道四〇号の石狩国・比布町と天塩国・和寒町との境界に、標高二六三mの「塩狩峠」がある。なんの変哲もないこの峠を有名にしたのは、明治四十二年(一九〇九)に起きた鉄道事故を題材にした三浦綾子の小説『塩狩峠』である。
 「汽車は今、塩狩峠の頂上に近づいていた。この塩狩峠は、天塩の国と石狩の国の国境にある大きな峠である。旭川から北へ約三〇キロの地点にあった。深い山林の中をいく曲がりして越える。かなり険しい峠で、列車はふもとの駅から後端にも機関車をつけ、あえぎあえぎ上るのである。…一瞬客車がガクンと止まったような気がした。次の瞬間、客車は妙に頼りなくゆっくりとあとずさりを始めた。体に伝わっていた機関車の振動がぷっつりととだえた。と見るまに客車は加速度的に速さを増した。いままで後方に流れていた窓の景色がぐんぐん逆に流れていく。不気味な沈黙が車内をおおった。だがそれは、ほんの数秒だった。〈あっ、汽車が離れた!〉だれかが叫んだ。さっと車内を恐怖が走った。〈たいへんだ!転覆するぞー!〉……」。この小説は、この峠で突然、後戻りを始めた汽車を自らの体で止め、多くの乗客の命を救ったクリスチャンの鉄道員・長野政雄の物語である。
 政雄の「殉難顕彰碑」は、昭和四十四年にJR塩狩駅ホームの片隅に建てられた。この小説はその後、昭和四十八年に映画化され、塩狩峠の名が一躍全国に知られるようになった。
 さて事実は『和寒町史』にあるように「凍りついた床と、振動のため線路上に転落」したのであろうか。また小説にあるように「自ら一個の生命を線路に投げ出し、暴走する客車を止めた」のであろうか。ともあれ「政雄の手はハンドルブレーキから離れその体は線路を目掛けて飛び降りた。政雄の体の上に客車が乗り上げ、完全に停止したのであった。この政雄の体によって、多くの乗客の生命が救われたのである。国道峠の頂上にある「塩狩峠」碑は三浦綾子の小説の文字によるものである。

Question 374

 道路を一定の速度で走ると、道路に切り込まれた溝と車のタイヤの摩擦で音楽を奏でる「メロディロード」というのがあり、音楽を奏でるとともに、居眠り運転防止などの目的で開発されたものであるが、最初に施されたのは、次のうちのどこか。

①空知管内「砂川市」
②胆振管内「登別市」
③十勝管内「広尾町」
④根室管内「標津町」

Answer

④根室管内「標津町」

 一定の速度で車を走らせると、舗装道路に、深さ六㎜、幅一五㎜の溝を切り込み、車のタイヤとの摩擦で、音を発生させる「メロディロード」というのがある。
 これは、溝の間隔で音階を調整し、音楽を奏でることができるもので、平成十七年に根室管内標津町の篠田興業㈱が開発したものである。
 音を鳴らすだけではなく、居眠り運転防止のためにも役立つものとして、標津町の「知床旅情」を奏でる町道をはじめ、愛知県や長野県など全国六自治体、一〇個所に敷設されている。 
 また「しゃべるロード」というのがあり、これは溝の幅を一二~二四㎜とし、溝の間隔を変えることによって、人の声に似せたものである。これは標津環状線の二個所に施工されたもので、車を運転していると、丁字路の手前二〇〇m地点から、ややこもった女性の声で「交差点です」と二回聞こえた後「止まってください」。カーブ手前二〇〇mからは「カーブです」の後「スピードを落として下さい」と聞こえる。開発した社長は「運転者に交通安全を意識してもらえたら。そして笑ってもらえると、なおいいですね」と語る。
 平成二十四年七月には、中国の河南省鄭州市郊外で建設中の、ゴルフ場や宿拍施設などのリゾート施設の、出入り口となる約二六〇mでもメロディロードの工事が行われる。

Question 375

 一般公募によって橋名が付けられている橋は各地にあるが、この橋の名称は、出身地の有名な作家の代表作にちなんで採用され、地域住民に親しまれ、愛されている橋である。それは次のうちのどれか。

①渡辺淳一作「花埋み」橋
②三浦綾子作「氷点」橋
③原田康子作「挽歌」橋
④辻村もと子作「馬追(まおい)原野」橋

Answer

②三浦綾子作「氷点」橋

 JR旭川駅の南側を流れる忠別川に架けられた「氷点橋」が、平成二十三年四月一日、供用が開始された。この橋は旭川市中心部と駅南側の神楽地区とを結ぶ橋である。
 橋長が一七八・六mで、駅周辺開発事業〈北彩都あさひかわ〉の一環で、北海道が旭川駅の高架事業に合わせて平成十五年から市内宮下通九丁目~神楽一条で建設を進めてきたものであり、総事業費が約四〇億円となっている。
 橋の名称は公募され、旭川市出身の作家・三浦綾子の代表作である「氷点」にちなんで名付けられたものである。氷点橋から神楽地区に向かって一・三㎞ほどの道程を歩くと、小説の舞台となった外国樹種見本林に着く。入り口には三浦綾子記念館がある。なおこの一・三㎞の区間の通りには「氷点通り」の愛称が付けられている。
 開通の初日は市民約三〇〇人が渡り初めをし「これまではバスで遠回りしていたが、歩いて街に行けるようになって、とてもうれしい」という声が聞こえていた。この橋を渡ると大雪アリーナや大雪クリスタルホール、旭川市立博物館などの文化施設があり、これにも大きな追い風となろう。
 この氷点橋の開通による直接効果への期特は、空き店舗が増える買物公園や、道北最大の歓楽街である「三・六街」の商業者の間でも高まっている。神楽地区の人口は約三万三千人、神居地区は約三万四千人であり、神楽地区から中心部に行くには従来二㎞以上迂回する必要があったが、橋が完成したことによって、気軽に買物公園に足を延ばすことができることで、中心部の賑わいに弾みが付いたと大きな期特が寄せられている。この橋によって人や物の流れの活発化は予想されるところであり、旭川の交通アクセスが大きく変わったことも事実である。
 なお、氷点橋と忠別橋との間に「クリスタル橋(一九一m)の架橋も予定されている。

Question 376

 この道路は、農産物、農業資材の流通促進、農業施設の利用促進を目的とし、さらには国道のバイパス機能を合わせもち、レジャー・生活路線として、重要な機能を果たす道路であり「フルーツ街道」という愛称が付けられている。それは次のうちのどこか。

①ニセコ町「南西地区農免道」
②仁木町「北後志東部地区広域農道」
③芽室町「十勝中西部地区広域農道」
④岩見沢市「空知東部南地区広域農道」

Answer

②仁木町「北後志東部地区広域農道」

 近年の道路新設の中で、広域農道の完成は実に大きいものがある。昭和五十六年三月、小樽市、余市町、仁木町で北後志東部地区広域営農団地農道整備事業促進期成会が設置され、敷設運動が開始された。これは札幌市・小樽市と仁木町間の農産物、農業資材の流通促進、農業施設利用の促進を目的とし、小樽市塩谷と仁木町大江間の広域農道を造成するものであった。
 昭和五十七年に調査費がつき、翌五十八年から工事に着手、まず平成四年六月に小樽・余市間の一三㎞が開通となる。そして仁木町平内までの約二〇㎞が十一年の工期と一一〇億円の事業費を投入して平成五年七月に完成した。
 特に難工事であったとされるのが、西崎山トンネル(一六三m)と、余市町栄町のフゴッペ大橋であったとされる。フゴッペ大橋は平成三年に橋長一六二・五mの四径間連続PC中空床版・PC単純T桁のものである。
 「この北後志東部地区広域農道は、余市町・仁木町の果樹園の中を通っているのでフルーツ街道と愛称が付けられ、国道五号線のバイパス機能を併せもつレジャー・生活路線として重要な機能を果たす」道路として活用されている。
 余市町の果樹栽培は、リンゴ、ブドウ、ナシなどであり、観光農園も人気を集め、一八七九年に日本で初めて民間栽培によるリンゴが結実した。リンゴの作付面積二七八㏊、生産量三、三一〇t(二〇〇五年度)はいずれも全道一を誇る。 仁木町は、サクランボ、リンゴ、ブドウなどの果樹栽培が盛んで、観光農園があり、約半年間にわたりさまざまな果物狩りが体験できる。特にサクランボの作付面積は二〇〇㏊を誇り、全道一の産地である。サクランボ狩りなど食べたいものを自分でつまむ〈もぎとり観光農園〉発祥の地で〈果実とやすらぎの里〉をテーマに観光農業に力を入れる町である。

Question 377

 江戸末期、南下政策を進めるロシアの脅威に備え、江戸幕府が道内各地に「山道」を整備した。民間団体や自治体関係者らが、その活用などについて「道内山道サミット」を五つの山道関係者が集まり開催、これに参加しなかった山道は次のうちのどれか。

①猿留山道(えりも町)
②様似山道(様似町)
③濃昼山道(厚田村)
④余市山道(仁木町)

Answer

④余市山道(仁木町)

 江戸時代の末期、道内には三三箇所の山道が開削されたとされる。これはロシアの南下に対する脅威に備え、その動向を確実に伝達するため、江戸幕府が整備した山道である。
 この山道を活用するため、民間団体や自治体関係者が意見を交換する、道内で初めての「山道サミット」が、平成二十三年三月に開催された。これに参加したのは、道内に存在した三三の山道の内、増毛山道、猿留山道、様似山道、礼文華山道、濃昼山道の復元へと取り組む関係者であった。いずれの山道も散策コースなどとして活用されているものである。「先人が切り開いた山道の復元と観光活用に向けた知恵を出し合い、山道が注目を集めるきっかけ」にしたいというものである。
 サミットは、山道の歴史や観光振興の取り組みなど、これまでの活動を紹介し、今後の展望などについで語り合い、連携強化を図ったものであった。
 当日は、スライド地図を示しながら山道の魅力を紹介した。詰めかけた約一〇〇人の聴衆は、山道復元への熱意に「賛同」の拍手を送っていた。
 地元民らでつくるNPO法人「増毛山道の会」と留萌振興局の主催で、江戸末期に開削された「増毛山道」を、約九時間かけて歩く体験トレッキングが、平成二十四年七月に行われた。同会の会員がガイド役を務め、宿場跡など山道内の見所を説明しながら歩いたのであった。山道からは暑寒別岳や日本海などの風景も楽しめ、参加者全員が距離約一六㎞、高低差最大七〇〇mのコースを歩き抜いたものである。
 この増毛町別苅―浜益村幌の約二七㎞の山道は、伊達林右衛門が、私費で整備・改修したもので、ニシン景気に沸いた明治後期を中心に物資輸送に活用された山道である。また昭和二十年代まで使われていた山道であった。

Question 378

 蝦夷地の山道では、いつも「熊」の恐怖におびえながら歩いた。薮にかくれている熊をびっくりさせ追い払うため、下手な都々逸(どどいつ)など銅鑼声(どらごえ)を張り上げて越えていったと、旅行記に記されているものがあるが、それは次のうちのどれか。

①羽太庄左衛門正養「休明光記」
②遠山金四郎「未曾有之記」
③菅江眞澄「蝦夷喧嘩瓣」
④岩野泡鳴「日高・十勝の記憶」

Answer

④岩野泡鳴「日高・十勝の記憶」

 明治四十二年十月、作家・岩野抱鳴は道議会議員田口源太郎の随行員としてこの日高・十勝の旅に出かけた。浦河で田口道議と別かれて岡崎技手と二人となり、いよいよ猿留の難道にさしかかる。猿留村から徒歩になり山道を越えた。その時のことを『日高・十勝の記憶』の中で「難道は降りだ。俗に七曲りと云ふのは、その實十三曲りも十四曲りもあって…何百尺の谷底に落ちて行くのだ。馬上から見上げ、見下ろすとぞっとして目も暗んでしまふ」。
 「熊よけ喇叭(らっぱ)の用意がないので、下手な調子で銅鑼声を張り上げて清元(きよもと)や長唄(ながうた)やら常磐津(ときわづ)やら新内(しんない)やら、都々逸(どどいつ)やらお浚(さら)いをして歩いた。その功徳によってか、幸ひ、おやじの黒い影も自い影もあらわれなかった」と書いている。
 旅行者たちは、通常薮にかくれている熊をびっくりさせて追い払うために、大声で歌を唄いながら歩いた。これは、突然熊に遭遇すると大変なはめに陥るからであった。
 作家河合裸石は『蝦夷地は歌ふ』の中に「是からは名にし負うふ猿留山道で、丈なす雑草道を埋め、たゞ巨(きょ)熊(ゆう)の跋扈(ばっこ)にゆだねてあって、行人の足も絶えてゐる。往年所澤から十勝の帯廣へ長距離飛行が企てられた際、コースは日高海岸線の上空から猿留山道を掠める事になってゐたのを、飛行士は所澤を出發する時、僚友から猿留山道は熊の巣窟だと言ふ事を聞かされたので、萬一山道附近で不時着した場合猛熊の群れに襲われては大變だとあって、俄かにコースを苫小牧から金山の上空を経由することに變更したといふ挿話がある」と書いている。
 当時は、ここ猿留山道に限らず、どこの山道であっても「巨熊の跋扈にゆだね」てあって、行人は常に危険を覚悟しての山道越えであった。

▲余記―木古内山道・中山峠

 作家菅江眞澄は、木古内山道という所では、住民から昼も仏法僧が鳴いている物凄い山中であって、熊も出るから決して一人で通行する道ではないと聞かされていた。菅江は太田神社に参詣するため、この山道を越えた。著書の『蝦夷喧嘩瓣(えぞのえみし)』に「杣人ならむ山路に入り込む。此の筋(北村)よりも上ノ國よりも、トカフ(トマップ)と言ふ山里かゝりて、荒山中を遥々行く道有り。浦人らなべてチコナヰ(キコナイ)越へと云ふ。この山越して來るすぎょうしゃ(修業者)、佛法(ぶっぽう)僧(そう)の聲晝さへ聞え、いとも物凄き山中にて、鬼熊のあらわれくれば、人多からずば、ゆめゆめ行くまじきみちなり。…さらばとて鉦打ちならし、太田まうですとて急ぎたり」と記している。
 これは昭和十三年の晩秋のこと、熊に襲われて現場従業員が殉職したという事件である。北海道庁土木部長が、定山渓から中山峠を通って喜茂別へと抜ける道路の、山道改修工事現場へ視察にやってきた。現場従業員の前鼻幸次郎(当時二十一歳)は、騎馬で部長を送り中山峠で小樽事務所に引継ぐ。そしてその帰途、巨熊に襲われて殉職となったのである。この青年の殉職碑が旧道脇にあったが、今は現存していない。この熊は間もなく、喜茂別の熊捕り名人・大木老人の手によって仕留められている。

道路と歌謡曲

Question 379

 多くの北海道の峠道・橋梁などを歌った歌謡曲の中に「貴方のつめたいそのひとみ なぜに私をいじめるの やさしく抱いてほしいのに・・・・」そして「一人歩きの○○橋」と美川憲一が唄った歌碑があるのは、次のうちどこか。

①旭川市「石狩川河畔公園」
②釧路市「釧路川河畔公園」
③小樽市「運河散策路」
④札幌市「豊平川河畔公園」

Answer

②釧路市・釧路川河畔公園

 釧路市内の釧路川に架かる橋に「幣舞橋」がある。この橋は朝霧・夜霧に霞む姿、あるいは川に浮かぶ姿は、幻想的詩情を漂わせ、霧・夕焼け・漁船などの取合せで、文学・絵画・詩歌・歌謡曲などの格好の題材となり、数多く登場する橋である。
 この橋の袂に釧路川河畔公園あり、ここの広場に黒御影石の台座に艶消しされたステンレス製で、波をイメージした三角形の「釧路の夜」碑がある。この碑の前に立つと、内部にセンサーが組み込まれていて、昭和四十二年に作詞・作曲され、美川憲一が歌って一大ヒット曲となった「釧路の夜」が流れてくる。美川は「霧と幣舞橋と釧路川」を歌ったこの曲が大ヒットし、昭和四十八年の紅白歌合戦に初出場することが出来たという美川にとっては思い出の深い橋である。
 平成五年の釧路沖地震で釧路市は大きな被害にあった。そこで「この曲のヒットで釧路を恩人」と思っていた美川は、全国チャリティーコンサートを開き、集まった募金と見舞金を市長に手渡す。そして平成五年九月に市の助成、一般の寄付によりこの碑が建立されたものであった。
釧路の夜   作詞・作曲  宇佐美英雄

貴方のつめたいそのひとみ なぜに私をいじめるの やさしく抱いてほしいのに
女心も知らないで 貴方がにくい貴方がにくい
風のつめたい釧路川 今日も一人で来てみたの しばれた心を抱きしめて
女心も知らないで 貴方がにくい貴方がにくい
霧は降る降る今日もまた 一人歩きのヌサマイ(・・・・)橋よ 船の汽笛も泣いている
女心も知らないで 貴方がにくい貴方がにくい

Question 380

 平成二年に、美空ひばりが唄った峠の曲の碑が、北海道の峠に唯一建立されている。「あなた忘れる旅だけど 霧が心をまよわせる なにも見えない峠に立てば…」というもので、この歌謡曲碑が建立されている峠とは、次のうちどこか。

①喜茂別町・札幌市「中山峠」
②南富良野町・新得町「狩勝峠」
③上川町・留辺蘂町「石北峠」
④美幌町・弟子屈町「美幌峠」

Answer

④美幌町・弟子屈町「美幌峠」

 北見国と釧路国との国境にあり、国立公園の阿寒・摩周を結ぶルートの観光のメッカとして有名な峠に、標高四九三mの「美幌峠」がある。
 平成二年十月八日、この美幌峠の頂上に、美空ひばりが唄った「美幌峠」の歌碑が建立されて除幕された。ひばりの歌碑は全国で福島県いわき市の「みだれ髪」に次いで二番目のものとなっている。
 この歌はひばりが亡くなる三年前の昭和六十一年九月に発売されたものであった。なにしろ、ひばりのご当地ソングは三曲だけともいわれている。
美幌峠   作詞・志賀 貢  作曲・岡 千秋

あなた忘れる旅だけど 霧が心をまよわせる なにも見えない峠に立てば
にくしみだけが遠ざかる ああさいはての美幌峠に霧が降る
あすはサロマか裏摩周 つらくなりそなしぐれ空 あれは和琴と指さす人の
どこか似ているうしろかげ ああさいはての 美幌峠に風が哭く
胸にすがったこの指が いまはみぞれに泣いている 蓮(はす)葉(は)氷にしずんだ湖に
愛のもろさがにじんでる ああさいはての 美幌峠に雪が舞う

 コロンビア・レコードから発売された、この美空ひばり晩年の曲は、北の旅情を切々と唄いあげた〈ご当地ソング〉として、美幌町は盛んにPRし「美空ひばりの名声を美幌峠に永遠に」ということで募金活動を行い建立されたこの碑は「新たな観光の名所」になることを期待したものであった。

Question 381

 「風はひゅるひゅる 波はざんぶりこ 誰か私を呼んでるような… 泣いてみたいな霧笛のように 泣けば思いも晴れるのに」と島倉千代子が唄った岬の碑が展望台のそばに建立されているのは次のうちどこか。
   
①えりも町「襟裳岬」
②福島町「白神岬」
③積丹町「神威岬」
④根室市「納沙布岬」

Answer

①えりも町「襟裳岬」

 北海道の背梁をなす日高山脈の南端に、半島状に太平洋に突出し、一部は海中に約一・三㎞に達する干出礁を形成しているのが襟裳岬である。この岬は怒涛とたたかって削り取られた岩礁、断崖絶壁が深く海中に走り、豪放な景観を呈している。沖合遠く無数の暗礁が散在し、四時風波が絶えず、ことに春、夏の候は特有の濃霧に閉ざされ、難破する船も多く、古来から魔の海と恐れられてきた。
襟裳岬   作詞・丘 灯至夫  作曲・遠藤 実

風はひゅるひゅる 波はざんぶりこ 誰か私を呼んでるような 襟裳岬の風と波
にくいにくいと怨んだけれど いまじゃ恋いしいあの人が
風はひゅるひゅる 波はざんぶりこ 浜の日暮れは淋しいものよ たった一人はなおさらに
    こんぶとる手にほろりと涙 背のびしてみる遠い空
風はひゅるひゅる 波はざんぶりこ 春はいつくる燈台守と 襟裳岬の女の子
泣いてみたいな霧笛のように 泣けば思いも晴れるのに

 この島倉千代子が唄った「襟裳岬」碑は、昭和四十五年に開基九十周年を祝って町が建立したものである。この襟裳岬という歌は、森 進一も唄っているが、島倉の方が先輩で、襟裳岬の名声を高めたものであった。町では昭和四十五年に九十年の一くぎりに町名を幌泉からえりも(・・・)と改称したものである。森 進一の「襟裳岬」では「えりもの春は何もない春です」と唄い、レコード大賞を受賞、昭和四十九年のNHK紅白歌合戦で、島倉と森はそれぞれに男女のトリを務め「襟裳岬」で競演したのであった。

Question 382

 「山へ行こう次の日曜 昔みたいに雨降れば 川底に沈む橋越えて…」と唄われたかつての「潜(もぐ)り橋」は、現在橋名が変わっているが、吉田美和(ドリカム)が唄ったこの橋はどこに架かっている橋か。

①音更町・音更川「万年橋」
②帯広市・中札内村・札内川「中札内橋」
③帯広市・札内川「愛国橋」
④池田町・利別川「川合橋」

Answer

④池田町・利別川「川合橋」

 池田町を流れる利別川の切り替えによって生まれた新水路に、先代の橋である川合橋(通称・潜り橋)が、昭和三十一年九月に架けられた。橋長一三〇・七m、幅員三・〇mの橋である。この橋の高さは堤外陸地と同じであり、しかも流水部にだけ架けられたもので、高欄もなく地覆のみであって、増水時は流木などが橋に引っかからないように水没させるものとした。それで地元では通称「潜り橋」と名付けたものである。その後交通量が増加してきたので昭和四十八年に「川合大橋」の建設に着手し、橋長四三二・〇mのワーレントラスとなった。これによって二十一年間にわたり親しまれてきた「潜り橋」は昭和五十二年に解体される。
 この橋が有名となったのは、ドリームズ・カム・トゥルー「通称ドリカム」のボーカル吉田美和が唄った「晴れたらいいね」がヒットしたからである。この歌は
晴れたらいいね  作詞・作曲 吉田美和

山へ行こう次の日曜 昔みたいに雨降れば 川底に沈む橋越えて 胸まである草分けて
ぐんぐん進む背中を 追いかけていた見失わないように 抱えられて渡った小川
今はひらり飛び越えられる 一緒に行こうよこくわの実
また採ってね かなり頼れるナビゲーターになるよ
     平成四年

 吉田は池田や川合で遊んだころを懐かしく思い出し唄ったものである。なんといっても古里への愛情実感の自然と遊んだ体験を基にしたこの「晴れたらいいね」という歌は「斬新さと伝統美、スマートさと不器用さの調和した一曲。広々なる大地に足が付いている歌声も素晴らしい」とされている。

Question 383

 「飛ばすこの道八十キロの 夢のスピード頰をよすれば 君なくてなんでこの世が…」と三船 浩が唄い大ヒットし、若者たちに評判となったこの道路は、次のうちどこか。

①国道十二号・旭川市「神居古潭」
②国道五号・小樽市「張碓(はりうす)峠」
③国道三六号・北広島市「島松沢」
④国道十二号・美唄市「茶(ちゃ)志内(しない)」

Answer

②国道五号・小樽市「張碓峠」

 戦後の経済復興と併せて駐留米軍の要請から、札樽国道の舗装工事が始まり、昭和三十年に延長三七・三㎞の見事なハイウェイが誕生した。今回の整備によって安心して四季に変化する風景を眺め、眼下に青々とした日本海と、遠くに霞む増毛連峰を心ゆくまで満喫できるようになった。
 昭和三十五年にこの札樽国道を車で走った「雪の降る街」の作詞者・内村直也は、そこに「人間のぬくもりを伝える灯が、海面にユラユラと揺れなごむ」夜景をこの張碓峠で見た。そして「小樽の赤い灯が見える」の歌を作った。内村はこの日、ススキノで酒を飲んでいたが「野郎とドライブしてもつまらないからということになり」手近かにいた女性を誘ってドライブしたのである。
小樽の赤い灯が見える  作詞・内村直也  作曲・飯田三郎

夜の闇ゆくヘッドライトに はねありの散る札樽国道
君と肩かすかにふれて あゝ赤い小樽の灯が見える
姿うるわしテイネの山の 影迫りくる張碓峠
君の手の熱き言葉に あゝ赤い小樽の灯が見える
飛ばすこの道八十キロの 夢のスピード頬をよすれば
君なくてなんでこの世が あゝ赤い小樽の灯が見える

 ヒットしたこのころは、三番にある「飛ばすこの道」が話題となり、スピード違反が続出、大事故が起きかねなかった。小樽署では「頬をよせるのは勝手自由だが、制限速度の六十キロを厳守すべき」と警告していた。

Question 384

 文字通りあしたの夢と期待を運ぶ大動脈で「山のむこうも山だろか あこがれ胸にだきしめて… 峰ふりあおぐ恋心」と長坂純一が唄いヒットした峠はどこか。

①国道三七号 豊浦町「礼文華峠」
②道道函館南茅部線 函館市・南茅部町「川汲(かっくみ)峠」
③国道三九号 上川町・留辺蘂町「石北峠」
④国道四〇号 比布町・和寒町「塩狩峠」

Answer

③国道三九号 上川町・留辺蘂町「石北峠」

 昭和三十二年十月石狩国と北見国の境にある「石北峠」で工事完成の修祓式と開通式が行われた。昭和二十九年の洞爺丸台風によって風倒木などの処理のため、峠の開削が促進され完成となったものである。そして従来の遠軽経由から国道ルートが変わり、北海道の観光ブームを生むきっかけとなった。昭和五十四年にこの「石北峠」の歌がヒットすると、この峠を訪れる人々が増え、大雪山連峰や阿寒の山並みが一望でき、この付近のトド松、エゾ松、ダケカンバなどの原生林が鬱蒼と茂り、秋は雄大な紅葉が峠を訪れる人々の目を楽しませてくれる。

石北峠    作詞・高木隆春  作曲・桑山真弓

山の向うも山だろか あこがれ胸にだきしめて
国道行けば石北峠 あゝ雪積む緑えぞ松の 峰ふりあおぐ恋心
雲の向うも雲だろか さすらい続く青春の
行方ききたい石北峠 あゝ果てなく遠い北国に 幸せ一つ呼ぶ心
道の向うも道だろか 愛しい人のおもかげを
はるかに偲ぶ石北峠 あゝ北海道の屋根という 大雪こえる旅心

 この大雪山連峰の雄大な山々を眺めながら、見事な整然とした大函あたりの柱状節理の景観を楽しみ眺めながら、多くの観光バスやマイカーが今日もこの峠を訪れる。

Question 385

 峠付近はエゾ松、トド松、シラカバの原生林に囲まれた見事なこの情景を歌った「思いつづけるあなたの胸に ここが一番近い道…面影みたいな白い雲」と、真狩村出身の若山ゆきおが唄い、ヒットした道内で王様級の峠といわれるのはどこか。

①国道二三〇号 札幌市・喜茂別町「中山峠」
②国道二二九号 余市町「出足(でたり)平(ひら)峠」
③国道二三九号 幌加内町・苫前町「霧立峠」
④道道小樽定山渓線 札幌市・小樽市「朝里峠」

Answer

①国道二三〇号 札幌市・喜茂別町「中山峠」

 標高八三六mの「中山峠」は、北海道の王様級の峠である。峠付近一帯はエゾ松、トド松、シラカバの原生林に囲まれ、初夏の新緑、秋の紅葉、冬の樹氷と、四季を問わず峠は旅人を魅了する。晴れた日には秀峰羊蹄山をはじめ、ニセコ連峰や札幌岳、恵庭岳などを望むことができる一大パノラマが見事である。この峠を歌ったものは数多くあるが、その中の一つがこれである。

中山峠   作詞・高木隆春  作曲・桑山真弓

思いつづけるあなたの胸に ここが一番近い道
北の国道中山峠 羊蹄山のいただきに 面影みたいな白い雲
北へ南へ旅する人の 愛がふれあう交差点
北の国道中山峠 恋しさ集め染めたよな 緑の木立に旅ごころ
支笏・洞爺湖・定山渓と 結ぶしあわせ通り道
北の国道中山峠 トンネル越えて橋越えて あなたに向かって七曲り

 昭和四十四年峠を通る新道が完成し、雪に泣かさたことから生まれた北国の知恵を生かし、全国にも珍しいと言われる覆道・回廊などが設けられ、北海道の道路建設技術の全てを投入したという素晴らしい道路である。道路構造物は周囲に展開する見事な景観とマッチし、魅力満点なものとなっている。峠付近は十月に入るともう真っ赤に燃える。強い霜が降りた朝には、見事な紅葉で目をみはるものがあり、全山が一気に紅葉する。宝石のようにキラキラと輝き、どこの峠にも負けない天下一品のものと評判が高い峠である。

Question 386

 北海道の多くの峠の中で、眺望は一望千里と評判が高く「細く儚い希望を胸に たどる山路は落葉散る…谺かえるよ恋の…」と淋しく別れた人を思い出すと、三船 浩が唄った道東の峠はどこか。

①国道二七四号 日高町・清水町「日勝峠」
②国道二四〇号 津別町・阿寒町「釧北峠」
③国道二四一号 阿寒町「永山峠」
④国道三八号 南富良野町・新得町「狩勝峠」

Answer

④国道三八号 南富良野町・新得町「狩勝峠」

 道央と道東の国境、佐幌岳の山腹を大きく蛇行しながら、日高山脈の北の尾根を横断した走る国道三八号に「狩勝峠」がある。この峠から眼下一望に広がる十勝の大平原は雄大である。
 「石狩から車で峠にさしかかる。急に目の前がひらけ、一瞬明るさが増す。気がつくと眼下に十勝大平原の大パノラマが展開される。大自然の織り成すドラマに息をのむ。音楽が聞こえてきた。シンフォニーだ。繊細なバイオリン。優雅なクラリネット。勇壮なホルン。それらが一体となり、壮大な交響曲を演じている。私は峠でカラヤンになった」とPRする。

たそがれの狩勝峠   作詞・たなかゆきお  作曲・川上英一

細く儚ない希望を胸に たどる山路は落葉散る
ああ声をかぎりに 君の名呼べども面影はなく 谺かえるよ恋の狩勝峠
髪にひと花手を持ちそえて 結ぶ涙のエゾニシキ
ああ別れ惜しんだ あの日はいつまた帰るやら 遠い想い出偲ぶ狩勝峠
君は都へこの身は北へ 夜はむなしく消えてゆく
ああ瞼あわせて 幸福祈ればむらさきの 雲は流れて暮れる狩勝峠

 この外にも「十勝小唄」「狩勝小唄」「狩勝の白い花」「「狩勝ブルース」などがある。
「現代の秘境・新得に棲む幻の鳥〈えぞ雷鳥〉。その鳴き声を聞くことができたら、もうそれだけで新得にきた価値がある」と地元ではPRする。

Question 387

 夜の帳が静かに降りるころ、昼とは趣の異なったノスタルジックな空間が広がる。「精進おとしの酒をのみ 別の生き方あったねと…セピア色した雨が降る」と、都はるみが唄ったロマンチックな観光客に評判なこの通りはどこか。

①国道二三〇号 札幌市「北一条通り」
②道道札幌停車場線 札幌市「駅前通り」
③道道小樽臨港線 小樽市「小樽運河散策路」
④市道北三条線 札幌市「道庁正門前通り」

Answer

③道道小樽臨港線 小樽市「小樽運河散策路」

 昭和六十一年多くの問題を解決し「小樽運河の散策路」が完成、ガス灯が運河を照らし、訪れる観光客を暖かく歓迎する。北海道経済を担った小樽港と小樽運河。夜の帳が静かに降りたころ、ガス燈が灯り、運河沿いの倉庫がライトアップされる。水面に映る風景を小さく揺らして風が走り抜けてゆく。市では運河沿いの石造り倉庫群と合わせて、ウォール街とかつて呼ばれていた日銀小樽支店などのあるところを景観地に指定し、ここにも観光客がやってくる。

小樽運河   作詞・吉岡 治  作曲・弦 哲也

精進おとしの酒をのみ 別の生き方あったねと 四十路半ばの秋が逝き
セピア色した雨が降る イエスタディを聴きながら ふたり歩いたあァ小樽運河
誰のせいでもないけれど これで終わるの始まるの あなたほんとの男なら
わたし独りにさせないわ イエスタディを抱きしめて 揺らぐガス燈あァ小樽運河
上りのディーゼル待ちながら やっぱり明日も漂って 傘はあなたに貸したまま
セピア色した雨がふるイエスタディをもう一度 窓の向うにあァ小樽運河

 都はるみは一且引退したが歌への思いは断ちがたく平成二年に復活したその最初の歌がこの「小樽運河」である。小樽へは、運河・寿司・ガラスの三点セットにより、多くの観光客がやって来る。小樽運河は「小樽観光のシンボル」である。観光客は、この歌を口ずさみながら運河とその周辺の倉庫群などを楽しんで散策する。

Question 388

 歴史と伝統、ロマンの香りのする半島を、天童よしみが唄う「春が来たから錬ががくると 騒ぎ始める半島鴎」というのがあるが、これはどこの半島を唄ったものであるか。

①網走管内 知床半島
②根室管内 根室半島
③後志管内 積丹(しゃこたん)半島
④渡島管内 松前半島

Answer

③後志管内 積丹半島

 後志管内の積丹半島は、日本海の荒海の海蝕による断崖の地となっていて、紺碧の海にそそり立つ奇岩・怪石があり、数々の義経などの逸話やアイヌ伝説のロマンが残され、半島の美しい景観をよりロマンチックにしている。かつて未曾有な鰊景気に賑わった半島の港町であった。この半島を天童よしみは唄う。

積丹半島   作詞・石本美由紀  作曲・岡 千秋

春が来たから鰊(にしん)がくると 騒ぎ始める半島かもめ こゝは積丹神恵内(かもえない)
漁を仕掛ける角網に 男銀次郎血が通う ドッコイ度胸の日本海
舟を出したら一心不乱 海は稼ぎ場男の世界 こゝは積丹神恵内
獲れた鰊を始末する 浜じゃ元気な女子衆 ドッコイ繁盛の花が咲く
漁師冥利は荒海勝負 舟は鰊の宝の山だ こゝは積丹神恵内
今日も稼いだ喜びに 大漁目出度い漁師町 ドッコイ笑顔の夫婦酒

 また白根一男は「海の青さよ恋しかないかよ 北のふるさと積丹岬…」と「積丹哀歌」を唄う。九条まりこは「許してほしいのあの日のことは…呼べど呼べど夜霧に 声のとぎれる積丹岬」と哀調込めて「積丹岬に泣く女」を唄う。まさに積丹半島を走るこの国道二二九号は「大自然と技術の協奏曲」であり、感動的な自然と魅惑的なアイテムがそろっている道路である。

海に迫る断崖いくつくりぬきて 遥かにつづく積丹の道   ―北見惇吉

Question 389

 街のシンボルとして、またふるさとの橋として市民に親しまれ「涙いろした夜霧の街に 咲いているだろ楡花…すきで別れたあの人を」と、若山彰が唄った橋がある。その橋は次のうちどれか。

①旭川市・旭橋
②札幌市・豊平橋
③釧路市・幣舞橋
④帯広市・十勝大橋

Answer

③釧路市・幣舞橋

 釧路の朝は、おびただしい漁船のエンジン音とともに夜が明ける。ミルク色した霧の中から朝日が登るころ、川面に映える小浪に、幣舞橋の優美なその姿を浮き立たせてくれる。

霧のヌサマイ橋   作詞・黒木曜子  作曲・山口祐功

涙いろした夜霧の街に 咲いているだろ楡の花 忘れましょかヌサマイ橋で
すきですきで すきで別れたあの人を
星が隆る降る釧路の街に 遠い瞳に似た星が 今もやさしくまたたいてる
過ぎた過ぎた 過ぎたあの日を呼ぶように
霧が散る散る霧笛の街に 青いネオンに燃えて散る 君と歩いたヌサマイ橋よ
今も今も いまもせつなくあゝこの胸に

 このほかにも、多くの幣舞橋を唄ったものがある。宮野社風作詞による『新港まつり音頭』の中には「ハアーネオンしぶきの幣(・)舞(・)橋(・)を あの娘見染めて押されて渡る みなと釧路は人の波 ソレ人の波」とか、また滝野幸逸作詞の『釧路さのさ節』があり、ここでは「幣(・)舞(・)橋(・)のたもとにたたずんで いとしの人待つ仇姿 秋の夜ネしんしんと 月もにっこり雲がくれ」というのがある。

海霧はミルクの香して四季の像 幣舞橋をつつみ来りぬ    ―富士田夏子

Question 390

 昭和五十五年九月「人の心の奥底までとけこんで、魂を揺さぶり、いつまでも捉えて放さないという自然美をもっている」といわれる道路が開通した。この道路が開通する前にこの付近でロケした際、主演者が「はまなすの咲く頃 思い出しておくれよ」と唄った岬は、次のうちどれか。

①国道五号「稲穂岬」
②国道三九号「宗谷岬」
③国道三三四号「知床岬」
④国道二三一号「雄(お)冬(ふゆ)岬」

Answer

③国道三三四号「知床岬」

 作家・戸川幸夫は、北海道の冬を舞台にした秀作、知床番屋残酷物語の『オホーツクの老人』を、昭和三十五年に書いた。そして知床観光は、森繁久弥主演の『地の涯に生きるもの』でブームが起き、以降十年間は前年度の二倍以上の入り込み客が増えていった。その時、森繁はロケを終えて羅臼の街を去るとき、世話になった町民へのお礼として、即興に作った「さらばラウスよ」が、この「知床旅情」の原曲となったものである。

知床旅情   作詞・作曲  森繁久弥

しれとこの岬にはまなすの咲く頃 思い出しておくれよ俺たちのことを
飲んで騒いで丘に登れば はるかクナシリに白夜は明ける
旅の情けか酔う程にさまよい 浜に出て見れば月は照る波の上
君を今宵こそ抱きしめんと 岩陰によればピリカが笑う
別れの日が来たしれとこの村にも 君は出て行く峠を越えて
忘れちゃいやだよ気まぐれカラスさん 私を泣かすな白いかもめよ 白いかもめよ

 この曲には、どこにも「知床峠」という名が出てこないが、ただ「峠を越えて」とあるので、知床峠のことを唄っているものであるとされる。なお斜里町宇登呂に「知床旅情」の歌碑があり、羅臼町しおかぜ公園には、映画「地の涯てに生きるもの」のロケ地を記念して、オホーツクの老人像も建っている。

Question 391

 かつて鹿の通る路と、狩人の踏み分け路でしかなかった峻険の山脈に、人間の英知と力によって山肌を削り、岩をくだいて道路が完成した。「恋の想い出忘られなくて…かすかにゆれて想い出さすかあの瞳」と唄われた峠は、次のうちどこか。

①国道二七四号「日勝峠」
②国道二三〇号「中山峠」
③国道三九号「石北峠」
④国道三三四号「知床峠」

Answer

①国道二七四号「日勝峠」

 昭和四十年十月、国道二七四号の日勝峠を通る道路が、着工以来十一年の歳月と十九億六千万円余を投じて開通となった。この日、五段雷の打ち上げ花火が大空に砕ける。日高町の目抜き通りは旗行列の波が続き、町民あげて完成を祝った。まさに「町民歓喜して山川を撼した」のであった。半世紀という長い間の悲願をかけた道路がここに開通したのであった。

恋の日勝峠

恋の想い出忘られなくて 逃げてきたのに街の灯が あああぁ
かすかにゆれて想い出すかあの瞳 涙で越える日勝峠
青く霞んで阿寒の山や 霧に煙った十勝の原野も あああぁ
心に消えぬあの日別れを告げたとこ 標高千米の日勝峠
君のルージュか唇山の 肌へ眼に沁む展望台よ あああぁ
何時また辿る自樺そよぐこの道を 風もないてる日勝峠

 この道路は、道央・道南・道東を再短距離で結ぶものであって、産業の開発はもちろんのこと、日勝峠からの雄大な平野と、阿寒、大雪蓮峰を一望に見下ろし、峠付近の原生林、沙流川上流の渓谷美を堪能する新しい観光道路として、一躍脚光を浴びたものであった。

まなかひの日高嶺白くほつほつと 墨に描きたる如きはだか樹  ―近江道子

Question 392

 地元では、他の峠を「遥かに凌ぐ一段とスケールの雄大なパノラマのような景観!大自然が織りなす造形美の極地」とPRし、「緑の息吹に青い風たち…君に運んでくる森の歌声とやさしさを」と唄われている峠は、次のうちどこか。

①道道屈斜路津別線「津別峠」
②国道二四三号「美幌峠」
③国道三八号「狩勝峠」
④道道洞爺湖登別線「オロフレ峠」

Answer

①道道屈斜路津別線「津別峠」

 この峠からは「原始林の樹海を右曲左曲して縫う山道と清流のせせらぎが前奏曲を奏でる中を進み、やがて、その頂上に至れば、眺望が一瞬に開け、屈斜路湖を取り巻く雄大で美しい自然と、はるか知床の連山を一望におさめることができる」。峠に立つと「いきなり、屈斜路湖の横たわる姿が現れた。その巨大な湖の全貌が、そのままのスケールで目に飛び込んできた。ここにきて、屈斜路湖のほんとうの大きさをはじめて知ったような気がする。…津別峠―ここは感動のスケールを、またひとつ大きくしてくれた」。

森の歌声   作詞・作曲  梶原まさき

緑の息吹に青い風たち ほら歌っている 耳をすませば聞こえてきます天使のささやき
いつかどこかで 流れていたよなつかしい香り 瞳を閉じて心の中にふるさとが見える
ここは津別峠 君に運んでくるなつかしい夢を…
ここは津別峠 君に運んでくる森の歌声とやさしさを
ふうっと目を上げ見渡す空の下にかすんでいる 淡いブルーに煙る海原 オホーツクの海
山ふところの頂だけが知っていた眺め いまは心に忘れはしない広がる世界を
ここは津別峠 君に運んでくるなつかしい夢を…
ここは津別峠 君に運んでくる森の歌声とやさしさを…
いつまでも…やさしさを…WOO…

Question 393

 例年五月の初旬まで春山スキーで賑い、ひとしお鮮やかな新緑の夏を迎えると、短い夏がすぐに終わり、満山燃えるような一面紅葉がこの峠を飾る。とするとすぐに駈け足で冬が訪れる。「山のゲレンデしろがね染めて ツアースキーに朝日が昇る」という峠は、次のうちどこか。

①道道小樽定山渓線「朝里峠」
②国道二三〇号「中山峠」
③道道ニセコ高原比羅夫線「サンモリッツ」
④国道三九三号「毛無山峠」

Answer

②国道二三〇号「中山峠」

 地元では、中山峠は「支笏・洞爺国立公園の洞爺湖・定山渓の中間にあって、景勝蝦夷富士を望む中山峠は北海道有数の観光道路である国道二三〇号のほぼ中間に位置し、北海道特有の白樺・とど松・えぞ松等の自然に囲まれ、秀峰の羊蹄山を中心に、ニセコ連峰・ムイネ連峰を一望できる景観にある」とPRする。

中山峠賛歌  作詞・岩瀬ひろし 作曲・八洲秀章

山のゲレンデしろがね染めて ツアースキーに朝日が昇る
冬去りて春近し中山峠 風もほほえむ健康民センター
若い心を呼びよせる
青い大空羊蹄山の 峰の光がみどりを誘う
春去りて夏来る中山峠 夢も明るいスポーツハウス
明日の力をつくり出す
紅葉模様の国道縫って バスがゆくゆくとど松林
夏すぎて秋深し 峠そばにも郷土のかおり
味と旅情をかみしめる
山と森との大パノラマに 夢をちりばめ夕陽はもえる
秋去りて冬来る中山峠 四季の織りなす自然のめぐみ
若い希望を連れてくる連れてくる

Question 394

 地元のバス会社が「夢のパノラマコース」と名付けてPRしているルートがある。「涙で今日も暮れて行く 忘れるための旅なのに」とこの峠の夜を唄った有田弘二のものがあり、北海道の観光の名所として有名なこの峠とは次のどこか。

①札幌市・喜茂別町界「中山峠」
②小樽市・札幌市界「朝里峠」
③美幌町・弟子屈町界「美幌峠」
④上川町・留辺蘂町界「石北峠」

Answer

③美幌町・弟子屈町界「美幌峠」

 今日も一面を覆いつくす広大なクマ笹とハイ松の緑が波打つ中を走ってきた観光バスが峠に到着する。この峠からの眺めについて「美しい笹山の黄緑色の起伏。さびさびとしたとど松の黒い緑をこえて遠く雲上に抜き立つ大雪の山々。この絶対ともいうべき高原の雄大さは、深く人の魂に沁みいるものがある」(『美幌町史』)と、屈斜路湖を背にして峠に立ったときの景観を紹介している。
 たしかに湖を背にして美幌町の方を見ると、ゆるやかにうねるササ原、薄い黄緑色のところどころに、アカ色エゾ松の濃い緑があり、なんともいえない。

美幌峠の夜  作詞・三浦康照 作曲・和田香苗 唄・有田弘二

阿寒の森よ 摩周湖 涙で今日も暮れて行く 忘れるための 旅なのに
美幌峠 振り返る 霧の釧路は あゝ 君の町
ネオンに咲いた 花だけど 心の清い ひとだった 悲しい愛の形見よと
美幌峠の 星の夜 僕にくれたね あゝ この指輪
マリモのように いつの日か 二人の恋も 消えて行く 別れて君の しあわせを
美幌峠で 祈りつつ 明日も網走 あゝ オホーツク

美幌峠にさびしくもあるか夕月は しらじらとあり風に澄みつつ   ―橋本徳寿

Question 395

 「時計台の下で逢って…忘れはしない恋の町札幌」と、石原裕次郎が札幌の北一条通りを唄いレコード大賞に輝いた。そしてそれを記念して「恋の町札幌」の歌碑が建立されたが、それは次のうちどこか。

①円山公園内
②羊ヶ丘展望台
③時計台前庭
④市役所正面玄関前

Answer

②羊ケ丘展望台

 昭和四十七年、札幌が大好きだった浜口庫之助が作詞・作曲し、石原裕次郎が唄ってレコード大賞に輝いた。そして「恋の町札幌」の歌碑が平成三年の六月六日、羊ヶ丘展望台に完成し、除幕された。この碑は札幌観光協会が建立したもので、高さが二m、碑の中央に譜面と歌詞が刻まれ、碑の上には浜口庫之助と石原裕次郎のブロンズ像が飾られている。 この像は道女子短大・坂 担道教授が制作したもので、除幕式の当日、石原まき子、浜口真弓の両夫人をはじめ、約五〇〇人が出席、ライラックを献花して故人を偲んだ。

恋の町札幌  作詞・作曲 浜口庫之助  唄・石原裕次郎

時計台の下で逢って 私の恋は はじまりました だまってあなたに ついてくだけで
私はとても 幸せだった 夢のような 恋のはじめ 忘れはしない恋の町 札幌
はじめて恋を知った私 やさしい空を 見上げて泣いたの 女になる日 だれかの愛が
見知らぬ夜 扉を開く 私だけの 心の町 アカシアも散った恋の町 札幌
淋しい時 むなしい時 私はいつも この町に来るの どこかちがうの この町だけは
なぜか私にやさしくするの 恋人なのね ふるさとなのね 有難う私の恋の町 札幌

 大眺望の中に羊を点在させるこの展望台には、観光客がやってきてクラーク博士像を背に写真、ジンギスカン鍋、羊群タ日を受け牧舎に帰る札幌情緒を満喫する。

牧草をいろどる夕陽の縞のなか 移動する羊群しだいにとほく     ―村田豊雄

Question 396

 「流氷溶けて春風ふいて ハマナス咲いて カモメも啼いて」と、ダ・カーポが唄って大ヒットした歌碑が建立されているが、それはどこの岬か。

①斜里町「知床岬」
②稚内市「宗谷岬」
③根室市「納沙布(のさっぷ)岬」
④網走市「能取岬」

Answer

②稚内市「宗谷岬」

 宗谷岬は稚内市の東方約三三㎞、オホーツク海に面した宗谷丘陵の先端に位置している。この岬の広場にダ・カーポが唄って大ヒットした「宗谷岬」の歌碑があり、観光客はこの唄を口ずさんで最果ての地の感慨を強める。建ち並ぶ土産物屋や食堂からは「流氷溶けて春風吹いて…」の曲が流れる。
 この歌は「かつて作曲家の船村氏自身の手でレコード化されたことのある曲。それをダ・カーポが〈たまには感じの違った曲も歌ってみたい〉とNHKテレビが『みんなの歌』でとりあげたと同時に、再レコーディングしたもの。売り出したとたん、宗谷岬をかかえる稚内市から大きな反響があり、ヒット。ダ・カーポは大喜びで早速現地へ。日本最北端の地・宗谷岬に初めて立ち〈海が壮大ですね(榊原政敏)〉〈海の色がさびしくて、曲のイメージにぴったり(久保田広子)〉とオホーツクの海を前に感激していた」と、当時の新聞は報じていた。

宗谷岬  作詞・吉田 弘  作曲・船村 徹  唄・ダ・カーポ

流氷溶けて 春風ふいて ハマナス咲いて カモメも啼いて 遥か沖ゆく 外国船の
煙もうれし 宗谷の岬 流氷とけて 春風吹いて ハマナス揺れる 宗谷の岬
吹雪が晴れて 凍れがゆるみ 渚の貝も 眠りが覚めた 人の心の 扉を開き
海鳴り響く 宗谷の岬 流氷とけて 春風吹いて ハマナス揺れる 宗谷の岬
幸せ求め 最果ての地に それぞれ人は 明日を祈る 波もピリカの 子守のように
思い出残る 宗谷の岬 流氷とけて 春風吹いて ハマナス揺れる 宗谷の岬

Question 397

 車が主体となった現在、峠越えなどはもう旅の匂いなど全く感じさせなくなったが、この峠だけは別格で「旅路は楽しや雲呼ぶ彼方 バスはゆくゆくこの道この道」と歌われている峠道があるが、それは次のうちどこか。

①国道三八号「狩勝峠」
②国道二四三号「美幌峠」
③国道二三〇号「中山峠」
④道道洞爺湖登別線「オロフレ峠」

Answer

③国道二三〇号「中山峠」

 「今のように車が主流になってしまうと、峠の中には単なる道路の起伏になってしまって、旅の匂いなど全く感じさせない所が多くなったけれど、もうそれは〈峠〉と呼ぶべきではないだろう。中山峠は今でも見事に峠だ。北海道外からの観光客ばかりでなく、札幌に住んでいてさえここまでやってくる道のりの中に〈峠〉を感じさせる。…」(朝倉 賢)とされ、そして「この峠には〈旅の匂い〉がある」という。

バスに峠の夢のせて

静かな木立の峠の小道 ロマンスシートにゆられてゆれて 旅路は楽しや雲呼ぶ彼方(かなた)
バスはゆくゆくこの道この道 中山峠につづく道
山坂登ればカーブのスリル ハンドル捌(さば)きもいと鮮やかに そよ風ささやくボディの小窓
バスよ走れよエンジンも軽やかに 中山峠はもう近い
あこがれ夢みて峠に立てば 樹海の濃みおどり山脈はれて 見下ろす渓谷一望千里
飽かぬ眺めよパノラマの絵のような 中山峠のユートピア
峠になごりは尽きないけれど 今日の想い出静かにとじりゃ 別れが辛いよ旅行く身には
こんどまた来るその日までその日まで 中山峠よさようなら

 ほとんどの人はここで一旦車を降り、景色を眺め、茶屋(道の駅)に立ち寄っていく。徒歩にしろ車にしろ、峠で立ち寄るのは旅人の常となっている。

Question 398

 札幌市の北一条通りは、アカシアと時計台に代表される通りとなっている。この通りを詠った数多くのなかに「この道はいつかきた道…あかしやの花が咲いている」という、誰しもが口ずさむ歌があるが、これを作詞した詩人は、次のうちの誰か。

①与謝野晶子
②徳富蘆花
③佐々木信綱
④北原白秋

Answer

④北原白秋

 大正十四年の夏、北原白秋が北海道を旅した時に、札幌の思い出を詠じたものとされる。アカシアの花、時計台、馬車、山査子など広々として落ち着いた当時の札幌の風景に感情移入をして、街の情景が眼前にくっきりと浮かび、追憶を格調高く詠いあげ、優しさのなかに心を洗われるような作品とされている。また歌詞の内容を最高に美しく表現するため、三拍子と二拍子を巧みに組み合わせている点が、この曲の特色ともなっている。曲は昭和二年に山田耕筰が作曲し、そして翌昭和三年にテノール歌手の藤原義江がレコードに吹き込んだものである。

この道 作詞・北原白秋  作曲・山田耕筰  唄・藤原義江

この道はいつかきた道 ああそうだよ あかしやの花が咲いてる
あの丘はいつかみた丘 ああそうだよ ほら白い時計台だよ
あの丘はいつかみた丘 ああそうだよ お母さまと馬車で行ったよ
あの雲はいつかみた雲 ああそうだよ 山査子(さんざし)の枝も垂れてる

あかしあの並木のそよび初秋の 灯のまたたきも澄める町なり    ―九條 武子

北一条通の両側のアカシア並木枝ひろげ 若葉する日にわれ旅を来し ―結城哀草果

Question 399

 母なる河・石狩川には多くの橋が架けられている。そのなかで「母なる川に架けたる橋は(コリャ)…ドントドントコリャソレサナー虹の橋」と唄われている「橋の音頭」があるが、それは次のどれか。

①旭川市「北旭川大橋」
②石狩市「石狩河口橋」
③新篠津村「たっぷ大橋」
④旭川市「神納橋」

Answer

②石狩市「石狩河口橋」

 この石狩河口橋は、石狩川の河口に架かる橋であり日本海に沈む落日は、川をあかね色に染め、二つの塔と横に延びる斜材を美しく浮かび上がらせる、息をのむような自然のドラマ。石狩川の数多い風景の中でも、見逃せないのが河口橋の落日であるとされる。

石狩河ロ橋音頭  作胴・吉田繁雄  作曲・勝目 有  編曲・福田 正

ハー
石狩厚田と浜益(はまます)ぬしの(コリャ)思い叶った 夢の橋(ヨイヤサ)
ドントドントコリャソレサナー夢の橋
母なる川に架けたる橋(コリャ)石狩原野の 虹の橋(ヨイヤサ)
ドントドントコリャソレサナー虹の橋
濃(ごき)昼(びる)トンネル 石狩橋が(コリャ)ここを通って 夢の浜(ヨイヤサ)
ドントドントコリャソレサナー夢の浜
雄(お)冬(ふゆ)はるかな 石狩橋が(コリャ)夢と希望を 運びゆく(ヨイヤサ)
ドントドントコリャソレサナー運びゆく
毘(び)砂(しゃ)別(べつ) 柏木 郡(くん)別(べつ) 幌(ぽろ)と(コリャ)床(とこ)丹(たん) 千代志につなぐ橋(ヨイヤサ)
ドントドントコリヤソレサナーつなぐ橋
苦労重ねた 三町村の(コリャ)ともに喜ぶ 河口橋(ヨイヤサ)
ドントドントコリャソレサナー河口橋

Question 400

 アイヌの人たちが大陸の中央に変わることなく雪を冠り、雲表に輝く神々しく連なっている山岳を「ヌタクカムウシュッペ」と呼んだ。その北海道の屋根の下に道が走り「呼べばこたえる大雪山が のぞく国道バスの窓」と唄われている道路は、次のどこか。

①国道三八号「狩勝国道」
②国道三九号「大雪国道」
③国道二三七号「富良野国道」
④国道二七四号「石勝樹海ロード」

Answer

②国道三九号「大雪国道」

 この道は「大雪国道」が開通するまでほとんど、人を寄せ付けない太古の森林であった。この雄大な山々を眺めながら、柱状節理のそそり立つ絶壁を眺めながら、秋の紅葉を求めて、多くの観光バスや、マイカーが走り去る。この石北峠を越える大雪国道は、文字通り北海道の屋根の下を行く道路であって、北海道のシンボルロードであると同時に、あしたの夢と期待を運ぶ大動脈の「道」である。

大雪国道  作詞・時雨音羽  作曲・八木 傅

越路(こしじ)峠の 上川桜 雪の大雪 山見て咲いた みんな見上げる 大函小函
霧にぬれてる 岩つばめ ヤッホー ヤッホー ヤッホー
唄が流れる 石狩川の 岸であの花 揺れている 呼べばこたえる 大雪山が
のぞく国道 バスの窓 ヤッホー ヤッホー ヤッホー
天下一つの 層雲峡を 君と眺める 今日のよさ 滝はしぶきに しぶきは空に
とんでくだけて 虹となる ヤッホー ヤッホー ヤッホー
小鹿呼んでる 石北峠 あの娘手をふる 国境 あれは阿寒か 湧きたつ雲か
山も目の下 窓の下 ヤッホー ヤッホー ヤッホー
東洋一だよ 水銀ぶしが ひびひびイトムカ 水銀の街 エゾ松 流れる川の
こだま呼んでる 原始林 ヤッホー ヤッホー ヤッホー
花のトンネル くぐれば温根湯 湯の香なつかし ほのぼのと 丘の自樺 湯ぶねの月に
阿寒結びの バスの唄 ヤッホー ヤッホー ヤッホー

▲余記―道路の歌・道の歌

道路の歌   作詞・松実菱三  作曲・八洲秀章

輝け道路 ひろがれ路線 南へ北へ くまなく伸びて 道路はつなぐ 日本をつなぐ
晴れの新線 近代舗装 とても快適 町から村へ つづくあの道 地平まで
とどろけ技術 誇れよプラン 夢の大橋 スピードあげて 道路は運ぶ 幸福運ぶ
ゆたかなくらし 希望を積んで とても快適 港へ街へ 通うあの道 風が呼ぶ
讃(たた)えよ道路 手を組め愛護 もちよる汗に 雪さえ消えて 道路は結ぶ 心をむすぶ
熊笹わけて 拓いた径に とても快適 並木のみどり そよぐあの道 雲がとぶ

道の歌   作詞・三浦 宏  作曲・三本松順一

君と歩いたこの道は 秘めたロマンの香りして 肩抱き寄せた あの娘(ひと)の
淡(あわ)き思い出 残しゆく なんてすてきな 道でしょう
緑豊かな この道は アカシア並木の 影うつし 遠くにかすむ 山脈(やまなみ)の
日ぐれの雲が 映(は)えている なんてすてきな道でしょう
思い出多き この道は 朝(あした)になったら雪化粧 北斗の星の 影うつし
静かに街は 暮れてゆく なんてすてきな道でしょう


参考・引用文献

建設省道路局監修「日本の道一〇〇選」ぎょうせい、昭和六三年
浅井健一編著「道と路がわかる事典」日本実業出版社、二〇〇二年
紺野勝歳著「北海道の街路灯」北海道出版企画センター、一九九八年
北海道新聞社編「北海道の道路五三話」北海道新聞社、昭和五四年
「北海道における鋼道路橋の歴史」北海道土木技術会鋼道路橋研究委員会、昭和五九年
「北海道道路史1」北海道道路史調査会、平成二年
「北海道鋪装史」北海道土木技術会鋪装研究委員会、昭和六一年
鈴木通雄編著「道路用語事典」山海堂、昭和六一年
北海道新聞社編「北の道づくり」北海道新聞社、二〇〇四年
北海道新聞社編著「北海道一〇〇の道」北海道新聞社、二〇一三年
高倉新一郎監修「郷土史事典―北海道」昌平社、一九八〇年
国土交通省道路局監修「道路行政」全国道路利用者会議、二〇〇四年
札幌市教育委員会文化資料室編「さっぽろ文庫」北海道新聞社
「北のうたベストセレクション」ハニー音楽出版、昭和六二年
三浦 宏編著「北海道の峠物語」北海道開発技術センター、平成四年
三浦 宏編著「北海道の碑物語」北海道開発技術センター、平成七年

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