WEBサンプル:北海道命名150年『北海道の道と路を知る事典』道路検定問題集(第二集)Q101~Q200

はじめに

全巻目次

編著者

記念碑等関係

目次

Question 101

 「雪に泣かされたことから生まれた北国の知恵を生かし、全国でも珍しいといわれる覆道・回廊などを設け、本道建設の技術のすべてを投入し」完成したこの道路の、国道名を刻んだ完成記念碑が建立されているのは、次のどこか。

①国道三九号「大雪国道」石北峠
②国道二二九号「積丹国道」神威岬
③国道二七四号「石勝樹海ロード」日勝峠
④国道二三〇号「定山渓国道」中山峠

Answer

④国道二三〇号「定山渓国道」中山峠

昭和四十四年十月、定山渓から中山峠にかけて、延長一七・四㎞の定山渓新道が開通した。五段雷が空に響き、テープがカットされると、道警音楽隊を先頭に関係者の車が峠を目指して行進した。
「雪に泣かされたことから生まれた北国の知恵を生かし、全国でも珍しいといわれる覆道・回廊などを設け、本道建設の技術のすべてを投入した素晴らしい道路。中でも全行程の中間に当たる無意根大橋から定山渓トンネルに至る二・五キロには、薄別渓谷を見下ろしながらあざやかにカーブを描く無意根大橋。山腹の渡り廊下薄別回廊。ガケくずれ防止の巨大なひさしの仙境覆道と、名所が相次ぎ、周囲に展開する見事な景観とマッチして、魅力満点」と開通当時の新聞は報じていたものである。
パレードは、峠の頂上からUターンして、望岳橋の少し過ぎた眺望の良い所に駐車場が設けられ、ここに「定山渓国道」と刻まれた開通記念碑が建立され、開発局長ら三人の手によって除幕された。この道路建設は、昭和三十九年に着工されて以来、六年間の歳月と、開通までに投入された事業費は、五八億四千万円に達し、それ以降に施工されたトンネル換気、地すべり対策の一部をふくめて、総事業費は六六億八千八百万円となっている。
この道路は従来の道路にはなかった新しいアイデアがいっぱいであり、橋梁にしろ、トンネルにしろ、さらには回廊、覆道など、国立公園内の風景とよくマッチして、ドライバーの目を楽しませてくれる。加えて安心して走れる道路というのがこの道路の特徴であって「これからの山岳道路はかくあるべきもの」という方向を示したものとされている。橋梁の曲線、緩やかな曲線を使ったカーブ、最近多くなってきた追越し車線の設置、石張りの側溝など、技術の粋を結集した作品であると評価されている。なおこの道路に架かる橋の名前は、一般から公募したものとなっている。

Question 102

 北海道経済の発展の拠点として、大規模流通基地が造成され、それによって切り替え移設を要することからここに完成された道路の開通を記念して建立された「飛躍」と「飛翔」と刻まれた開通記念碑があるのは、次のうちどこか。

①国道三八号「釧路西港道路」
②国道二三一号「留萌港道路」
③国道三三五号「苫小牧東港道路」
④国道三三六号「広尾港道路」

Answer

③国道三三五号「苫小牧東港道路」

 北海道経済の発展の拠点として、苫小牧東港区の工事が昭和五十一年に着工となった。この苫小牧東部大規模工業基地の開発計画は、堀込み式の苫小牧東港を構築し、臨海・臨空の生産拠点を創り、地方圏における基幹資源型工業の新たなる発展基地をつくる目的のものである。
 工事は急速に進められ、昭和五十五年度までに五百億円を超える投資額となり、着工以来四年目で記念すべき第一船を迎えた。この東港区の建設にあたり、基地の海岸線を通過する国道二三五号は、苫小牧の沼の端と厚真町の浜厚真間の延長一六・三㎞を、JR日高線と同様に移設されるに至った。
 昭和五十八年から工事が始まり、総事業費一三五億四千八百万円(内道路負担五二億九千五百万円)を投じて完成したものである。
 昭和六十二年十二月、沼の端の起点近くで盛大な開通式が行われた。この完成を記念して、樽前山の雄大な姿と、この苫小牧港および道路の飛躍を願って、苫東大橋のたもとに「飛躍」と刻まれた開通記念碑を建立した。また終点の浜厚真橋のたもとには、大空に羽撃く鳥と、太平洋の荒海を表現した「飛翔」と刻まれた碑も建立された。
 しかしこれらの碑は、いずれも道路の完成を記念して建立されたものではあるが「道路完成記念」や「開通記念」という文字はどこにも刻まれていない。したがって記念碑には特別な除幕式も行われていない。ただ碑の完成を祝って担当事務所職員一同が、碑の前でこの道路完成を祝して乾杯し、記念の写真を撮って残しているだけであると伝えられている。
 なおこの苫小牧東部開発は第三期北海道総合開発計画の中で「国民経済の長期的、飛躍的発展を先導する国家的な大規模開発のプロジェクト」と位置付けられたものであった。

Question 103

 永い間「幻の国道」といわれてきたこの地区に、喜びの海岸で結ぶ道路が、地元の悲願がかなって昭和四十六年に「近くて遠い隣り村」が結ばれた。住民百年来の悲願が達成されたのである。「開通記念」と刻まれたこの道路の建立を記念した碑は、次のうちどこか。

①襟裳・広尾間「黄金道路」
②岩内・蘭越町間「雷電道路」
③島牧村・瀬棚町間「茂津多道路」
④厚田・浜益村間「濃昼道路」

Answer

④厚田・浜益村間「濃(ごき)昼(びる)道路」

 明治以来、百年以上にも及ぶ地元の悲願がかなったこの日は、風は冷たいながらも快晴であった。昭和四十六年十一月「幻の国道」といわれてきた国道二三一号の厚田村安瀬と浜益村濃昼間を結ぶ七・四㎞区間の海岸道路がここに開通をみた。式は滝の沢トンネルの前で五段雷花火を合図に、札幌開建部長の手によってくす玉が割られ、紙吹雪の舞う中を事業所長、両村長がテープに鋏を入れる。
 これまで厚田村と浜益村とは「近くて遠い隣り村」であった。それは海岸線道路の七・四㎞区間が難険であって、寸断されていたからである。したがって険わしい昔ながらの山道約一〇㎞を足に頼って歩くか、または青山中央を経て六九㎞の道を迂回しなければ浜益には到着できなかった。この海岸線は集塊岩、凝灰岩からなる海崖が連立しての難工事であった。そこで開通を促進するため太島内地区に資材を陸揚げする拠点を設けるなど、資材、労務者などもこの海上輸送に頼っての工事であった。海岸擁壁、トンネルの連続であり、総事業費三三億一千九百万円を投じたものである。
 工事が完成すると、開通を祝って「開通記念碑」が建立された。天然石を貼り付けたコンクリートのこの碑には「開通記念 札幌開発建設部長 小野 修」とあり、台座に両村の名と施工業者名が刻まれている。
 今回の開通した区間には、百余年前に「濃昼山道」と呼ばれた山道が開削されていたが、ほとんど手がつけられず人がやっと通れる程度の名ばかりの細い道があった。それで海岸線の道路の開削が強く要望されてきたものである。開通式の当日、地元の古老は「きようのくる日を何年もただ待ち続けていました」と、目をうるませ「ただただ有難う、有難うの言葉しかありません」と語っていた。

Question 104

 住民の永い間の念願であったこの道路開通を記念して、この海岸線から眺望する、落日の美しさから、モニュメント「SUNSET WAVE…」と刻まれた開通記念が建立されているのは、次のうちどこか。

①遠別町「冨士見地区」
②天塩町「鏡沼海浜地区」
③増毛町「浜益村・雄冬地区」
④瀬棚町「三本杉地区」

Answer

③増毛町「浜益村・雄冬地区」

 昭和五十五年十一月、同三十三年から工事に着手されていた増毛町歩古丹と雄(お)冬(ふゆ)間工事の完成を祝って、大別苅の山道入り口で、待望の開通式が行われた。開通式では関係者約百人が出席し、まず工事殉職者に対し黙祷を捧げた後、テープカットしてバス、乗用車などに分乗して走り初めを行った。
 標高三二〇mの雄冬山を越え、海岸線に出てトンネル、覆道をいくつか抜け、岩老へと進む。五段雷が轟く中を、住民が小旗をさかんに打ち振る。雄冬に到着するとクス玉が割られ、万歳の連呼がわき起こった。二十三年の歳月と、一四八億六千万円の事業費を投入し、延長二二・六㎞の区間がここに開通を迎えたのであった。
 開通を記念してモニュメント「SUNSET WAVE―二三一号線開通記念」が建立された。この海岸線から眺望する、落日の美しさは格別で、多くの人は車を停めて旅情を慰めている。波間に沈む夕陽の情景は、地元でもさかんにPRしているだけに、素晴らしい眺めを見せてくれる。
 しかし開通はしたものの、落石などを防護する覆道、落石防護柵などの防災施設の整備が行われるため、冬期間が通行止めとなっていた。未だ危険な箇所もあり、供用を渋っていた開建に対し「危険かも知れないが、われわれの生活には不可欠の道路である。通れるものなら通してほしい」と悲痛な声に、苦悩を隠せなかった。この地区の住民にとって、この道路の供用は生活上で不可欠のものであり、それまでは雄冬漁港に水揚げされた鮮魚を早朝、増毛の市場に運べず、半値以下で売らねばならなかった。また地域住民は、病院に通えず痛みをこらえていたお年寄り、他地区の住民は、一日も早い開通を求めていたのである。なお、雄冬地区の住民は、この道路の供用開始まで雄冬~増毛間の雄冬海運・定期船に頼っていたものである。

Question 105

 昭和九年十月に「大低数百尺の断崖絶壁より成り、或いは奇岩怪石が深く海中に突出するあり」などの海岸線に、難工事を克服して六年の歳月と多額の費用を投じて完成された有名な道路の開通を紀年する碑があるが、それは次のどこか。

①国道二二九号「積丹道路」
②国道二三一号「雄冬道路」
③国道二三五号「様似道路」
④国道三三六号「黄金道路」

Answer

④国道三三六号「黄金道路」

 昭和二年五月、国道三三六号の通称「黄金道路」の開削工事が着手され、同九年十月難工事を重ね全線の開通を迎えた。そして道路開通式ならびに慰霊祭が猿留(さるる)橋の橋上で挙行された。開通を記念して「道路全通記念碑」が建立される。

地方費道帯廣浦河線廣尾庶野間改良之概要
総工費 九拾四萬五千五百参圓  総延長 参拾参粁五百弐拾九米
内訳
道路延長 参拾弐粁四百九拾七米   橋梁延長 五百七拾参米 弐拾弐箇所
総道延長 四百五拾九米 拾七箇所  防波堤延長 六千参百四拾六米 弐拾五箇所
着手 昭和弐年五月八日   竣功 昭和九年拾月参拾壱日
右 帯廣室蘭両土木事務所二於テ施工ス   北海道廳

 「本道路の完成は、沿岸町村の開発に寄与するのみならず、日勝両国の交通運輸の便益より、延いては本道拓殖の進展に裨益する所甚大なるものあることを期特する」(北海道庁長官挨拶)。何しろ「まるでお札を敷き並べたように金のかかった道路である」といわれている。この「道路全通記念碑」は、当初設置の場所から、整備された駐車場に移設され、この道路の歴史を今に伝えてくれている。

Question 106

 この道路は、大正七年(一九一八)開削されたものであり、完成すると「當時ノ山道崎嶇紆餘其困難名状シヘカラサルモノアリ 今ヤ工成ル 啻ニ事業者ノ利便ノミナラス、地方開拓二資スル事幾何ソヤ、即テ之ヲ紀年トスト云爾」という記念碑が建立されているのは、次のうちどこか。

①余市町「出足平山道」
②上士幌町「音更山道」
③浜益村「送毛山道」
④黒松内町「黒松内山道」

Answer

②上士幌町「音更(おとふけ)山道」

 糠平国道の端緒は、大正七年(一九一八)、元小屋からメトセップに至る約一〇㎞を、木材の運搬のために開削されたのが始まりである。約三箇月の日数と六〇人の囚人を使役して、開削されたものであった。そもそも踏み分け道が付けられ、清水谷までどうやら馬で通ることができた。しかしそれより先は、川岸が切り立っていて馬車では通ることができず、丸木橋と梯子によって、人間のみが辛うじて歩けるという状態であつた。ここに約一六㎞の道路が十勝監獄の囚人の手によって開削されたのである。たとえ刈り分け道であったにせよ、馬車の通行が可能となった。この道は「音更山道」と呼ばれ、完成すると、黒石平に記念碑が建てられた。当時の苦役、苦難が刻み込まれていた碑は、昭和四十五年に復元され、碑文は当時の看守長が書き、なかなかの達筆である。碑文には

山麓ヨリ山腹ニ至ル道程四里 大正七年六月十勝監獄(かんごく)ハ王子製紙會社、音更山事業請負人、關直右衛門ノ請(こい)ヲ容(い)レ看守長坪井菊野助ニ看守七名ヲ附シ囚人徒出役延人員六千ヲ督(とく)シ仝年九月竣工ス、工費五千圓ハ委託者ノ負担タリ 十勝監獄ハ明治廿八年創メテ帯廣ニ設置シ道ヲ修(おさ)メ地ヲ拓キ十勝國開拓ノ先驅(せんく)ヲ爲ス、更山伐木ノ業モ亦(また)監獄ニ依テ創業セラル當時ノ山道崎嶇(さく)紆餘(うよ)其困難名状シヘカラサルモノアリ、今ヤ工成ル 啻(ただ)ニ事業者ノ利便ノミナラス、地方開拓ニ資スル事幾何(いくばく)ソヤ、即テ之ヲ紀年トスト云爾(しかいう)  大正七年九月一日 典獄(てんごく) 木島正三 識 看守長武田又市 謹書

とある。難工事の末、開削されたこの音更山道は、黙々として歴史を語りながら生きている。この「音更山道」と刻まれたこの碑は、碑文を読む人に山道開削の苦闘の歴史と感動を与えてくれる。

Question 107

 この区間の道路は、開通以来波浪、土砂崩れ、落石などに傷めつけられ、その維持、補修に追われてきた。本格的な改修工事が開始されて以来、十五年の歳月と百三十三億円余の巨費を投じて、昭和五十七年に一次改築工事が完成、記念碑が建立されたが、それは次のうちどこか。

①国道二二八号「松前道路」
②国道二二九号「茂津多道路」
③国道二三一号「雄冬道路」
④国道三三七号「黄金道路」

Answer

②国道三三七号「黄金道路」

 国道三三六号の、日高管内えりも町庶野から、十勝支庁界のビタタヌンケ間、延長一四・八㎞は、急峻な断崖絶壁が連なり、昭和九年(一九三四)に開通以来、波浪、土砂崩れ、落石などに傷めつけられ、その維持、補修に追われてきた道路であった。本格的な改修工事が開始されて以来、十五年の歳月と百三十三億円余の巨費を投じて、ここに一次改築工事が完成をみるにいたった。昭和五十七年十二月七日、黄金道路海岸を一望のもとに見渡せる望洋台に小公園が造られ、ここに完成を記念して「黄金道路」と刻まれた碑が建立された。
 この区間の一次改築は昭和四十二年(一九六七)から始まり、ここに完成となったものである。
黄金道路は日高と十勝を結び、また日高山脈襟裳国定公園「えりも黄金ライン」として重要な道路であり、開削以来この道路にそそがれた先人違の心血を深く銘記すべきである。

一般国道三三六号 庶野、ビタタンケ間
工事概要
延長 十四・八粁   工費 百三十三億二千六百万円
覆道 一、八九七米  トンネル 九〇八米  橋梁三〇一米
着工 昭和四十二年五月
竣工 昭和五十八年一月
北海道開発局 室蘭開発建設部

Question 108

 奇岩と断崖が連続する景勝地に、平成八年十一月最後の不通区間の解消で、近くて遠かったこの両隣リ地区の距離は、従来の峠迂回ルートに比べて五分の一の一五㎞と、名実ともに隣り同士となった。それは次のうちどこか。

①国道二二八「号福島町吉岡―-松前町・福山」
②国道二二九号「積丹町・余別―神恵内村・川白」
③国道二三一号「浜益村・千代志別―増毛町・別苅」
④国道二七八号「戸井町・汐首―恵山町・女那川」

Answer

②国道二二九号「積丹町・余別―神恵内・川白」

 北海道開発局が昭和四十五年にこの区間の整備を開始以来、二六年の歳月と総工費約五〇〇億円を投じて進めてきた国道二二九号積丹半島最後の不通区間、積丹町の沼前地区と神恵内(かもえない)村のノット地区とを結ぶ延長約六・七㎞がこのほど完成し、地元にとって明治以来の悲願であった積丹半島を一周ができる道路がここに実現した。新聞は「奇岩と断崖が連続する景勝地に新しい時代の幕開けを告げた。近くて遠かった積丹余別と神恵内川白の両地区の距離は、従来の当丸峠う回ルートに比べて五分の一の十五キロと、名実ともに隣町となった」と報道していた。
 平成八年十一月、特望の全線供用開始となった。開通式では小樽開建部長が「周辺は水産資源が豊富で、雄大な自然を持っている地域であり、道南と道央が結ばれることで、地域の生活利便性に大きく貢献してほしい。今年二月の豊浜トンネルの岩盤崩落事故を教訓に、開通区間三トンネルの安全確保に万全を期したい」と挨拶し、そして「通行開始」を宜言する。七人が紅白のテープをカットし、アーチ上部のくす玉が割られ「祝・開通」の垂れ幕が風に舞う。午後一時半からの一般車両の通行開始を待っていた長い車の列は、積丹側で正午前すでに一〇〇台以上を超え、両町村から記念品が贈られていた。
 同区間は道内海岸線の国道で最後の開通区間である。同区間は不安定な地質のため工事は難航、積丹トンネル(七六五・〇m)、大天狗トンネル(六三八・五m)、西の河原トンネル(一、八三三・五m)の三本を建設し、最先端の非常警報システムを完備しているのが特徴である。
 この積丹半島周回道路の開通を記念して、レストハウス「西の河原」の駐車場に、平成八年十一月十八日に「一般国道二二九号道路開通記念碑」が建立された。ここは景勝地と豊富な海の幸で人気のある所ではあったが、豊浜トンネルの崩落事故の影響で大打撃を受けて観光客の減少があっただけに、待ちに待った開通によって「新しい風が吹いた。道路を地域発展に生かしたい」として喜んでいた。

Question 109

 昭和六十三年、延長四・一㎞、トンネル、橋梁、覆道、擁壁、軟弱地盤処理などを施し、北海道庁の技術の全てを投入した素晴らしい道路がここに誕生、開通を記念して「峠道路史碑」が建立されているのは、次のうちどこか。

①道道旭川幌加内線「幌加内峠」
②道道洞爺湖登別線「オロフレ峠」
③道道滝上西興部線「佐久留峠」
④道道旭川芦別線「新城峠」

Answer

②道道洞爺湖登別線「オロフレ峠」

 主要道道二号線・洞爺湖登別線は、北海道が誇る洞爺湖と登別温泉の二大観光地を結ぶ観光路線であり、今回峠区間の整備が完了し、冬期間も通行が可能となった。昭和六十三年十月に開通式が行われ、駐車場に開通を記念して「オロフレ峠道路史碑」が建立された。
 この道路は支笏洞爺国立公園の洞爺と、地獄谷で知られ、利用する観光客も毎年百万人の多くに達しております。明治十四年に瀧本金蔵が私費を投じ、登別~登別温泉間の道路開さくした事に始まり、以降明治二十四年の客馬車、大正四年の軽便鉄道などの開削を経て、大正十年この道路の一部、登別~カルルス間が、準地方費道として認定されたものです。昭和七年、弁景~オロフレ間(壮瞥側)の道路改良が完成したのを始りに、カルルス~オロフレ間は、昭和八年から三ヶ年を要して一応完成はしましたが、昭和十一年の融雪大水害を始め、満州事変の勃発などにより以降十五年間不通のまま放置されておりました。昭和二十九年道道昇格に伴い、カルルス~オロフレ間の改良工事に着手し、昭和三十七年には登別~カルルス間の舗装工事を完成するに至りました。その後、峠区間の法面保護、落石防止の工事を行なってきましたが、特にオロフレ峠から登別側約七㎞の区間は急勾配、急カーブの連続であり、冬期交通も遮断されていたことと交通の増加に伴って、早急な改良が望まれるようになりました。そこでオロフレトンネル(九三五m)を含む本格的な改良工事のための調査が、昭和四十五年よリ開始され、昭和五十二年より十二年の歳月をかけて昭和六十三年十月、通年交通できる主要道道洞爺湖登別線として、供用を開始するに至ったものです
 ここで一息いれ、この碑文を読んでこれまでの道路建設の歴史と苦労を偲んでいる風景がみられる。

Question 110

 『陸の孤島』といわれていたこの地に、住民悲願であった山道を海岸線に移す工事が戦後間もなく始まるこの海岸線道路の開通によって、交通の不便を解消、生活不安の解消はもとより、水産、林産、観光の開発など、急激な開発と発展をみた。それは次のうちどこか。

①国道二二八号「松前国道」
②国道二二九号「積丹国道」
③国道二三一号「増毛国道」
④国道二三二号『羽幌国道」

Answer

②国道二二九号「積丹国道」

 余市町と古平町間には、尾根から尾根へ、そして沢を上り下りする狭く、かつ勾配のきつい山道があった。あまりにも屈曲が多かったことから、別名「一年曲がり」ともいわれる山道で交通の難所であって、北海道でも有数な危険な道路とされていた。古平・積丹両町民の悲願であったこの山道を海岸線に移す工事が戦後間もない昭和二十三年から始まった。このころは戦後の影響もあって、失業者は街に溢れていた。そこで地元の人々に就労の場を与えるということから、工事は直営で進められた。海岸線は断崖絶壁の連続する地形であったが、地元の作業員たちは「自分たちの生活道路を造るんだ」という意欲に燃えて作業した。工事が完成すると古平町沖村のセタカムイトンネル出口に、開通の喜びを後世に伝えるため「積丹国道」碑が建立された。碑には

積丹国道 昭和三十三年十月竣功  北海道開発次官 池田一男
二級国道小樽江差線古平余市間  海岸道路延長十四粁二二三米  工費九億二千八百万円
起工昭和二十三年九月二十四日  竣工昭和三十三年十月一日
海陸の資源この国道によって開かれ、民生ここに定まる。恩恵限りなし。満腔の感謝をこめてこの
碑を建てる。   竣功の日 余市町 古平町 積丹町

とある。竣功のこの日、この道路は「積丹国道」と命名され、古くから開かれてきたこの地域の住民にとって、ここに初めて冬でも自動車が走れる道路が完成したのであった。長い間住民の足となっていた定期船は、船からバスに代わったことから、その運航の歴史を閉じた。

Question 111

 昭和九年国道の開通を記念して碑が建立され、平成十二年、この碑は道路拡張工事に伴って、新しく設けられたチェーン装着場に移設された。「江戸時代以来の道路の変遷を語るように」建っているとされるこの開通記念碑は、次のうちどれか。

①「定山渓国道完成記念碑」
②「大沼国道完成記念碑」
③「積丹国道開通記念碑」
④「札樽国道開通記念碑」

Answer

④「札樽国道開通記念碑」

 昭和九年六月、朝里村では札樽国道の開通を記念して張碓隧道小樽口に「札樽國道開通記念碑」を建立した。この碑は「江戸時代以来の道路の変遷を語るように、ひっそりと建っている」というものであった。平成十二年九月、この碑は道路拡張工事に伴って、新しく設けられた柾里チェーン装着場に移設された。移設後台座に付けられた、銘板には次のように刻まれている。

…ここは 小樽・札幌間の最大の難所であり安政四年(一八五七)小樽場所請負人恵比須屋半兵衛が自費をもつて丘上に新道を開削した 明治五年から六年にかけ開拓使は札幌本庁と小樽を結ぶため 銭函より海岸沿いに小樽市街に達する道路改修に着手 明治十二年手宮・札幌間を結ぶ鉄道敷設を急ぐためにこの道路が利用され これが東京・大阪に次ぐ日本で三番目の鉄道開通(十三年)となる その後 明治三十八年になつて小樽市潮見台から山背を迂回して毛無山の鞍部を越えて銭函に達する通称「軍事道路」が開削された 大正九年に この道路は国道に編入されたが 急勾配かつ連続するカーブのため 普通車馬の通行にも不自由な状態で利用者も少なく廃道に近い状態であった そのため政府は  昭和六年から九年にかけて小樽・銭函間の改修工事を進め 昭和八年には難関の張碓トンネルも完成し翌九年小樽・札幌間が全線開通する 昭和二十六年には北海道開発局が設置され昭和三十年には砂利道から舗装道路となる この碑は昭和九年 小樽・札幌間の工事完成を記念し張碓トンネル小樽側坑口に建立されたが その後交通量の増大に対応するため 平成十年から着手した四車線拡幅事業を機に 先人の苦労をしのび交通の安全を祈念してこの地に移設する
平成十二年九月  北海道開発局小樽開発建設部

Question 112

 目本海を銀色で塗りつぶして押し寄せた鰊の大群。それによって道が開かれていった。当時、人々は危険をおかして海岸線の波打ち際や、山道を歩行した。そこで「澤口庄助氏深ク之ヲ慨シ 五萬金ヲ寄附シ」海岸道路を開削、記念碑が建立されているのは、次のうちどこか。

①「神恵内村・大森」
②「泊村・祈石」
③「浜益村・茂生」
④「江差町・鴨島」

Answer

②「泊村・祈石」

 泊村の道路は、海岸線の難所が多く、明治四十年ごろでも海上交通が大きな役割を果たしてきていた。人々は海岸線の波打ち際や、山道を歩行していた。大正十年(一九二一)になって、茂岩~神恵内間の難工事に着手、翌十一年に完成した。ここに、「陸の孤島」が解消され、喜びの記念碑が建立された。工事の着工式当日は、児童の旗行列や夜には青年たちにより提灯行列も行われ、盛大に着工を祝った。そして工事の完成を祝って開通記念碑が建立された。それには、

本村ハ海産豊富ニシテ住民喜和(きわ)ス 然レドモ地勢山ヲ負ヒ海ニ面シテ概険峻僅ニ九折坂道ヲ通ス 海上賈艘(こそう)ノ往來スルアルニ因リテ 運輸ノ利便ヲ保チノミ 一旦風濤怒號スルヤ連日交通杜絶シ 商旅(しょうりょ)遥カニ恨ミキ 明治四十一年村議初メテ道路開鑿ヲ企シモ 其ノ工事困難ナル意ノ如クナラス爲ニ遷延(せんえん)セリ 然ニ本村澤口庄助深ク之ヲ概シ五萬金ヲ寄附シ道路開鑿期成會委員等又測量費二千余金ヲ據出シ 以テ之ノ速成ヲ促シ 當局亦其ノ急設ノ必要ヲ認メ 乃チ大正十年七月起工 爾来半歳余ノ日数ト工費二十余萬金ヲ費シ茲ニ全ク竣成ス 惟(おもう)ニ本道路ノ開通ハ獨リ本村ノ福祉ヲ進ムルノモナラス 行客(こうきゃく)亦長ク恩(おん)澤(たく)ニ浴スモノアラン
    大正十一年九月 神恵内村
と刻まれている。碑文にあるように「澤口庄助氏深ク之ヲ慨シ 五萬金ヲ寄附シ」ということは、当時の五万円は現在の価格に換算するといかほどになるのであろうか。付近に残された旧道の一部もまた当時の歴史を伝える何かを感じさせられる。この記念碑は、苦労して開削に当たった人たちの涙と、汗の結晶でもあろう。

Question 113

 「幻の国道」の名を返上すべく工事が始まってから今、その名を返上することができた。断崖絶壁の厳しい自然条件の箇所を見事克服し、住民百年来の悲願が達成されたのである。この岬に開通記念碑が建立されているが、それは次のうちどれか。

①国道二二八号「白神岬」
②国道二二九号「厚苫岬」
③国道二三一号「雄冬岬」
④国道二三八号「神威岬」

Answer

③国道二三一号「雄冬岬」

 長い間、「幻の国道」と呼ばれていた国道二三一号が、昭和五十六年十一月、今ここに全線の開通を迎えた。この工事が始まってからやや半世紀ぶりで「幻の国道」の名を返上することができたのである。浜益村毘砂別で工事に着手して以来、地図の上でしか存在しなかった、一四四・一㎞の国道がついに現実のものとなった。
 この日留萌開建が増毛町大別苅で、札幌開建が浜益村千代志別でそれぞれテープカットし、走り初めをして合同の開通式会場の雄冬地区に集まった。この日、雄冬地区全住民は、手に手に日の丸の小旗をもって、一行を出迎えた。地区始まって以来の大行事であり、長い間の念願であったこの道路全通に涙を浮かべていたお年寄りの姿が見られた。関係者がテープカットし、クス玉が割られ、喜びにわきたった。
 開通式につづいて、雄冬岬・白銀の滝の下の駐車場に建立された、開通記念碑が除幕される。高さ二・五mの白御影石が中央の玄昌石(高さ一・五m)を抱きかかえるかのように立っていて、開通記念の「雄冬岬」と刻まれた文字は、この国道開通の喜びを永遠に伝えるかのようである。碑陰には黒御影石に碑文が刻まれていて、
国道開通記念 日本海に迫る断崖絶壁の厳しい自然条件のもと、陸の孤島といわれてきたこの地に、北海道開発局が二十年余の歳月をかけて難関に挑み、ここに開通した。住民百年来の悲願達成の喜びと明るい未来への希望こめて、この碑を建立する。昭和五十六年十一月十日
と刻まれている。今回の開通時の新聞は「一メートルあたり百万円を超し、日高―十勝を結ぶ黄金道路に対しダイヤモンドとも称される」としていた。

Question 114

 日高開発促進上、道路改良の緊急を痛感し、当時の村長は、議会議長と共に協力して政治活動を展開、遂に昭和二十四年全線海岸に沿う新路線の完工をみた。町議会議長でこれに尽力した功績を讃えてその名を碑に刻みて建立した道路は、次のうちどれか。

①三石町「住友街道」
②静内町「青柳街道」
③新冠村「高江街道」
④浦河町「境街道」

Answer

①三石町「住友街道」

 日高管内の三石町に「住友街道」と刻まれた碑が建っている。この碑は当時三石町議会の議長であった住友辰助が、これが道路改良に尽力した功績を讃えて、その名を刻み記念碑を建立したものであった。この路線は大正九年(一九二〇)に認定になっているが、本線は起点より終点まで一〇、九〇九米余、上級道路札幌浦河線地方費道に重用するものから北海道庁の管理となっていた。路線の中では途中鳧(けり)舞(まい)山道と称する百八曲がりを有するものだけに日高最大の難所とされていた。日高総合開発促進上その改良の緊急なるを痛感されていたが、終戦間もない混乱期だけに誰一人とし手をつけるものがなかった。当時村長の広田時治は、議会議長の住友辰助と共にこれを憂い、相協力して政治活動を展開、遂に昭和二十四年全線海岸に沿う新路線の完工をみたものである。住友辰助は三十有余年の長期間町政に参与し、その間本道路の完成に尽くした功績は多大のものであり、永久に顕彰するに値するものとして、広田町長は住友街道と命名し、昭和三十二年九月に記念碑を三石寄り街道入口の小高い丘に建てた。
 なにしろこの鳧舞山道は「崎嶇(険しいさま)雲棧(高く雲に入かけ橋)渡る思ひがあって、途中自動車のすれ違ひなど思ひも寄らぬ」ものであって「本道では自動車の通る山道は日高の三石から登って行く鳧舞山道、福山に通ずる吉岡山道などは、随分峻嶮である」と、作家の河合裸石が『蝦夷地は歌ふ』に記していたものであった。それが海岸線を通る道として改良されたのであった。住民は大変便利になったとして感謝したものであった。廃道となったこの鳧舞山道は「昔は難所と云いながら桜咲き紅葉で色どり、百八曲がりのうねりはまた一面観光的風物詩の一つであったが、今は人一人として通らず荒れ放題」となっている。

Question 115

 かつての山道を海岸に移す工事が始まり、昭和三十八年十月に完成、トンネル入り口に、完成を記念して「開通記念碑」が建立された。四十年間に亘る地方住民多年の願望を達したこの道路は、次のうちのどれか。

①国道二二八号「松前街道」
②国道二二九号「雷電国道」
③国道二三一号「濃昼道路」
④道道襟裳公園線「襟裳道路」

Answer

②国道二二九号「雷電国道」

 昭和二十六年、難路であったこの山道を海岸に移す工事が岩内町島野側から始まった。工事は海中に擁壁を築き、トンネルを堀り、資材は船によって運び、同三十四年には蘭越町磯谷側からも工事が始まり、それによって工事は急速に進んだ。延長一三㎞の区間にトンネルが九箇所、延長二・四㎞という難工事であった。九年の歳月と延べ四七万七、〇〇〇人の労力を投入して、昭和三十八年十月に完成した。完成を記念して鵜の岩トンネル入り口に「雷電国道開通記念碑」が建立された。碑には

ここには昔海岸に道路なく山越えをした処である。旧山道は安政三年幕府の命によって当時の運上屋これを改修し、昭和六年池田北海道庁長官が親しくここを視察されたのを機に海岸道路の開削の議が起き其の後、昭和二十六年六月起工、昭和三十八年十月完工、八億四千万円をもって四十年間に亘る地方住民多年の願望を達したものである。

とある。引き続き舗装工事を実施することとなったが、旧規格で建設された道路を全面的に見直し、安全で快適な道路とすべく改築が始まった。交通の安全と防災体躯を基本的な方針とし、平面線形の改良、車道の拡幅、トンネル、覆道、スノーシェッドなどを新設した。岩内町敷島内から蘭越町港までの間に、弁慶、刀掛、雷電トンネルなど一〇箇所、延長三、一二一m、覆道が親子別、雷電、弁慶など八箇所、延長二、三二〇mとなっている。昭和二十六年から始まったこの道路に、昭和六十年までに投入された事業費は、九五億二、二〇〇万円にのぼっている。この雷電岬を中心とする海岸には、荒削りの風景とそれに伝説、文学、そして温泉があり、神秘的な大自然は、見る人に深い感動を与える海岸道路である。

Question 116

 工事は、断崖絶壁などによって難航し、昭和六十一年十一月一次改築の工事が完工、永い歳月と巨費を投じて完成した海岸道路だけに誰が何といおうと、北海道の道路史上、輝かしいその歴史を持っていることは事実である。完成を記念して碑が建立されているが、それは次のうちどこか。

①国道二二八号「松前道路」
②国道二二九「古平道路」
③国道二三一号「雄冬道路」
④国道三三六号「広尾道路」

Answer

④国道三三六号「広尾道路」

 黄金道路の広尾側は、全延長の三五%を占める覆道工、それに覆式落石防護網、波返付重力式擁壁工、各種消波ブロックを設置して、昭和六十一年十一月に一次改築の工事が完工した。永い歳月と黄金道路といわれるほどの巨費を投じて完成しただけに、その喜びは地域住民にとって大きなものがあった。えりも町側が昭和五十八年に工事が完了したが、難所の多い広尾側はそれより四年の遅れで完成をみたものである。工事の完成を記念して、広尾橋近くの黄金道路入り口に「黄金道路」と刻まれた記念碑が建立された。碑文には

一般国道三三六号 日高・十勝支庁界~広尾橋間
工事概要   総工費 一六、九三九、四〇〇千円   総延長一五、一四二M
内訳 道路延長 九、六〇九M    橋梁延長 五箇所 二〇三M
隧道延長 六箇所 七一〇M  覆道延長 十五箇所 四、六二〇M
着手 一九五一・四  完成 一九八六・一一(全線舗装完工)
北海道開発局帯広開発建設部   揮毫者 帯広開発建設部長 上野正人

とある。一次改築が断崖絶壁などによって難航し、まだまだ多くの事業費が投入される道路である。誰が何といおうと、この道路は北海道の道路史上、輝かしいその歴史を持っていることは事実で、風光明媚な景観はまさに自然美の極地であり、この記念碑は、苦闘の末に勝利を収めた人々の遺産でもあり、新しい時代への希望の碑でもある。

Question 117

 この道路の開削は、昭和三十八年の着工以来、開発か自然保護かで大論争の中、十八年の歳月と、約八八億円余を投じて、自然環境の保全に配慮し、昭和五十五年に地元悲願の道路が開通した。それは次のうちどれか。

①国道五号「大沼周遊道路」
②国道二二九号「積丹横断道路」
③国道二三〇号「定山渓新道」
④国道三三四号「知床横断道路」

Answer

④国道三三四号「知床横断道路」

 北海道の東北端の知床半島は、一、〇〇〇m級を超す連峰を境界にして、網走、根室の両支庁に分れ、鉄道を利用すると遠く釧網線を、また海路では潮流の激しい半島を迂回するしかなく、両支庁間の交通は著しく途絶されていた。地元では半島を横断するこの道路の開削を願って運動を永い間に亘り続けてきた。ここの地形は特に急峻で、気象の変化も激しく、さらに加えて国立公園の中を通るという制約をうけ、自然環境の保全ということに配慮しながら工事を進めなければならなかった。この知床横断道路(羅臼~宇登呂間)は、着工以来、開発か自然保護かの大論争の中で、十八年の歳月と、十八億三、三六〇万円を投じて、昭和五十五年九月に開通した。この道路は、産業道路として、また観光道路として大きなメリットをもつため、地元には大きな計り知れない利益をもたらす道路として、期待されたものであった。開通のこの日、工事関係者、地元関係者らが出席して、知床峠の頂上で喜びの開通式が行われた。道路開通記念碑には、

知床横断道路 この国道は羅臼、斜里両町民の悲願のもとに、昭和三十八年九月に着工し、自然環境の保全につとめながら、厳しい気象と劣悪な地理的条件を克服し、十八年の歳月をもって開通した。ここに本国道の開通を記念してこれを建立する。区間 羅臼市街~斜里幌別分岐点 延長二二・三キロメートル

とある。開通以来沿線に広がる美しい針広樹の混合林、高山植物、峠から見る国後島の雄大な景色が人気を呼び、八月のお盆、紅葉の九月の休日などには、峠の駐車場は満杯となる。なお知床の名を一躍全国に広げたのは、森繁久弥の情感あふれる「知床旅情」であろう。

Question 118

 古くから西蝦夷地三険岬の一つといわれ、山肌を折り曲がって山道があったが難所であり、昭和五十一年に当時道内一の長さのトンネルが完成、ここを走る追分ソーランラインの通行の喜びの開通記念碑が建立された岬は、次のうちどれか。

①瀬棚町・島牧村「茂津多岬」
②大成町「帆越岬」
③岩内町・蘭越町「雷電岬」
④積丹町「神威岬」

Answer

①瀬棚町・島牧村「茂津(もつ)多(た)岬」

 茂津多岬は日本海に沿い、檜山と後志との国境にある航海上の難所であった。ここは標高一五二〇mの狩場山がそのまま海へ突っ込む形となっているため、国道二二九号は、長い間この岬で中断されたままになっていた。
 この「茂津多岬」は「神威岬」「雄冬岬」と並んで西蝦夷地三険岬の一つと呼ばれ航海者に恐れられていた所であった。安政四年(一八五七)に山道が開削されたものの車の通行はできず、瀬棚町の人々は一度長万部町に出て、それから小樽方面に向かっていた。
 工事は昭和三十五年に瀬棚町から茂津多岬へ、同四十一年から島牧村に海岸道路開削着手、十七年の歳月と百三億二千六百九十八万円の事業費を投入し、昭和五十一年十一月六日開通式を迎えた。ここの区間に延長一、九七四mの茂津多トンネルがある。完成した当時は、全道で一番長いトンネルであった。
 このトンネルの横の広場に、狩場山産の大きな自然石で「茂津多岬 国道開通記念」と刻まれた記念碑が建立されている。高さ二・二m、横三m、厚一・七mのものであり、倉橋力雄開発局長の揮毫になるものである。この道路の開通によって小樽と函館を結ぶ観光ルートの迫分ソーランラインが完成し「茂津多の夜明け」の胎動が始まった。この岬の前後は大小さまざまな奇岩が並び、景勝の地ともなっている。駐車場で一息入れた人々は、この開通記念碑を背に写真を撮り、足早にここを走り去っていく。なお昭和十二年に点灯された茂津多岬灯台は、海上二八〇mの崖の上にあり、道内の灯台で一番高いものとなっている。

Question 119

 この町の町道整備は、国道、道道と比較ならないほど遅れていた。このため町では過疎債、辺地債、臨時地方道路整備債等の有利な起債を借入れして、積極的に道路の整備を進め「現在では人家の軒先まで舗装され」とされている。それは次のうちどこか。

①奥尻町道「青苗米岡線」
②上ノ国町道「小安在線」
③知内町道「森越鶴岡線」
④大成町道「白浜通線」

Answer

④大成町道「白浜通線」

 檜山管内大成町の町道整備は、国道、道道と比較ならないほど遅れていた。このため町では過疎債、辺地債、臨時地方道路整備債等の有利な起債を借入れして、積極的に道路の整備を進めてきた。この久遠市街地と小歌、上浦市街地とを結ぶ白浜通線は、道に陳情し昭和五十一年から過疎代行事業として、道が事業を実施したものである。昭和五十二年七月起工、海に迫る断崖、岩礁地帯を開削し、海岸線に沿って新たに道路を新設したものである。喜びを後世に伝えるため「町道白浜通線過疎代行事業 完成記念碑」を建立した。碑の裏面には、つぎのように刻まれている。

予てから 上浦・都・本陣・西部の地域住民が 水産物の流通体制の確立と 交通利便並びに 安全対策上重要生活道路として 上浦漁港と久遠漁港とを結ぶ 海岸幹線道路新設が望まれてきた 昭和四十二年 上浦漁港の整備と並行し 漁港関連道路として小歌地区まで整備されたが 初期の目的に程遠く 過疎地域の振興 沿岸漁業推進の重要性から 爾来住民と共に関係機関に対し 本道路の建設方の要請を続けてきたところ 昭和五十一年過疎代行事業として採択 着工 この町道を白浜通線と称し 実に八年間の長き工期を要して 昭和五十八年度に完成を見ました この間における 北海道土木部道路課 及び高速道市町村道室 函館土木現業所等関係機関の精力的な御尽力に対し深く感謝の意を表するものであります この総事業費は実に七五、七七〇万円 延長八五〇米 幅員八・五米 歩道九〇八米 舗装七七〇米 附帯工事として船着場一四五平方米二箇所 一、〇三九平方米一箇所を舗設し 此処に地域住民の生活基盤が確保され この大事業の成果と 完成の喜びを記念し 永久に後世へ継承するため之を建立する
昭和五十八年四月五日 久遠郡大成町長 高薄登

Question 120

 市街地をバイパスする道路が完成し、その完成を記念して「東経一四五度の標」を設置し、地域の活性化を図った町がある。それは次のどこか。

①釧路管内「浜中町」
②網走管内「斜里町」
③釧路管内「弟子屈町」
④根室管内「中標津町」

Answer

④根室管内「中標津町」

 平成五年十二月、国道二七二号中標津町において、平成元年から工事に着手していた「中標津バイパス」が、全線完成し、喜びの開通式が行われた。このバイパスは「雪に強い緑豊かな街を造ろう」ということで、昭和六十二年に事業化された延長六・六㎞のバイパスである。
 町ではこのバイパスの完成を記念して、記念のモニュメント「東経一四五度の標」を設置した。このモニュメントは、バイパスのパーキングエリア付近に設置されたもので、三角の羽が子午線である銀のポールをとり囲んだものであって、町民の生命力、躍動感を表しているものである。

〈東経一四五度の標〉 大地が丸く見えることで知られる中標津。この地はまた、子午線〈一四五度〉が縦貫し、時の刻みの「標」ともなっています。空に向かって手を広げている人間をモチーフにしたこのモニュメントの立つ地点が、ちょうど東経一四五度になります。地球をデザインした半球から突き出した銀のポールは子午線。三角の羽は中標津に暮らす人々の生命力と躍動感を表わしております。
■日本の標準時の基点となる兵庫県明石市は東経一三五度に位置します。中標津はちょうど一〇度の違いで、時間にして四〇分の差、距離にすると一、三一〇キロメートルになります。
■中標津と同一経度上には、南半球オーストラリアのメルボルン市(約九、〇二〇キロメートル)とタスマニア島(約九、五七〇キロメートル)があります。    中標津町

 これを機会に町民の間では、新たな市街地開発の機運が高まっていることから、地域の活性化が図られそうである。このモニュメントを、道行く車からじっと見入っている姿があった。

蝦夷地の山道

Question 121

 北海道における高速自動車道は、昭和四十七年のオリンピック札幌大会のため開通した千歳IC~北広島間が幕開けで、その後に開通した高速自動車道で、最初に開通記念碑が建立されたのは、次のうちどこか。

①札幌市「米里JCT」
②札幌市「札幌南IC」
③江別市「野幌PA」
④千歳市「千歳IC」

Answer

②札幌市「札幌南IC」

 北海道における日本道路公団施工による高速自動車道は、昭和四十六年十二月に札幌西IC~小樽IC間二四・三㎞が一五七億円で千歳IC~北広島IC間二三・三㎞が一六五億円で開通となり、北海道における高速自動車道の幕開けとなった。
 続いて昭和五十三年十二月苫小牧東IC~千歳IC間一一・六㎞が一一一億円で開通、同五十四年十月に、北広島~札幌南IC間四・五㎞が九三億円で開通した。喜びの開通式があり、完成を記念して「開通記念碑」が札幌南IC料金所の上り車線北広島側に建てられ、碑には

開通記念 道央自動車道 北広島~札幌南間
一九七九・一〇・二九 日本道路公団札幌工事事務所

とあり、碑陰に工事に関係した公団職員、施工業者の名前が刻まれている。
昭和五十五年十月、苫小牧東IC~苫小牧西IC間一七・六㎞が二九二億円で開通し、同五十八年十一月、日本道路公団が建設を進めてきた「道央自動車道札幌~岩見沢間」が完成し、札幌側の起点である白石区米里札幌JCTで喜びの開通式が挙行された。今回開通した区間は、札幌JCTから岩見沢IC間の延長三一・九㎞であって、昭和五十二年から本格的に工事が着手されてきた。この区間には、超軟弱地盤である泥炭地帯があり、工事費は嵩んだ。事業費は実に千四百三十四億円となり、一㎞あたり四五億円となっている。この開通によって道央自動車道は、苫小牧西~札幌南間と合わせて八九・四㎞となった。この区間の開通を記念して、野幌PAの下り線、売店の札幌側園地に立てられた。

Question 122

 戦後間もなく、ここの市街地が舗装された。しかし両側が商店街であるにもかかわらず歩道がなく、買物客や通学などは危険であった。そこで拡幅・整備が行われ、それを記念して「和處」と刻まれた記念碑が建立されたのは、次のうちどこか。

①旭川市「平和通り」
②函館市「八幡通り」
③小樽市「花園通り」
④豊平町「月寒通り」

Answer

④豊平町「月寒通り」

昭和二十八年、通称弾丸道路が舗装され、豊平町(現・札幌市豊平区)月寒市街は、両側が商店街であるのにもかかわらず歩道がなく、通学などにも危険があった。そこで拡幅期成会が結成され、その陳情の結果が効を奏し、月寒坂下~月寒市街地間、延長一・五㎞の拡幅・整備が決定した。支障家屋の移転、土地の買収等の対象世帯は、地主八四人、家主一五五人、借家人八六人にも及んだが無事解決、昭和三十三年早々工事が着手された。そして北海道博覧会に間に合わせるという突貫工事で完成を見たものである。
それまでは豊平町の交通事故の八割がここの道路で発生したとされ、住民からは「魔の道路」といわれ、交通量は東京なみの激しさとされていた。
拡幅完成を記念して記念碑が建立された。公園の老木を従えて建つこの碑に刻まれた群像は、安政の昔から多くの先人立ちが、苦労を共にして営々と道路整備のために努力を積み重ねてきたことを、見事に象徴しているのみならず、芸術的な作品としても高い評価を得えているものである。設置当初は横断歩道橋の陰にかくれていて、気が付かなかった人が多かったことから、現在は月寒中央公園の国道三六号に面した場所に移設されている。碑陽には

一般国道三十六号線月寒地内拡幅舗装竣工記念 昭和三十三年十一月一日建之 豊平町
とある。この「和處」という漢籍からとった碑名の揮毫は本間町長であって、白地のコンクリート・レリーフ像は、帽子を被った男が力強く鶴ハシを握り、かたわらの正面を向いたた女は、未来への希望を込めて、樹木の枝をかき抱き、多くの先人が苦労して道路の整備に努力してきたことを象徴している。この碑は、いつも本道の大動脈としての使命を担う国道三六号の姿を見守ってくれている。

Question 123

 昭和四十年十月、住民の悲願をかけたこの道路が完成し、産業の開発、道東、道南との交流ここに実現した。完成を記念して峠の頂上に「陸孤島今化枢要 町民歓喜撼山川」という漢詩が刻まれた完成記念碑が建立されているのは、次のうちどれか。

①国道二七四号「日勝峠」
②国道三三四号「知床峠」
③国道三九一号「野上峠」
④道道洞爺湖登別線「オロフレ峠」

Answer

①国道二七四号「日勝峠」

 昭和四十年十月十五日、五段雷の打ち上げ花火が、街全体を揺るがすように大空に砕ける。日高町市街地で開通式が挙行された。この祝典に臨席された町村知事は、道路の完成を祝して、この七言絶句を賦して寄せられた。その一年後に、これを記念して「祝日勝新道開通」記念碑が日勝トンネルの日高側入口に建立された。

祝日勝新道開通
一過随道樹海鮮(いっかずいどうじゅかいあざやかに) 日勝新途縫嶮旋(にっしょうしんどうけんをぬってめぐる) 陸孤島今化枢要(りくのことういますうようとかし) 町民歓喜撼山川(ちょうみんかんきしてさんせんをゆるがす)
昭和四十年十月  北海道知事  町村金五

 昭和四十年十月十五日、北海道知事町村金五氏は日勝道路開通の祝典に臨席され町民と喜びを共にされたあと、その感想をこの詩に託された。日勝道路は昭和三十年に着工し、十一年の歳月と十九億円余の巨費を投じて開通した。これによって道央、道南、道東との経済の交流はもとより、さらに沿線の資源開発に果たす役割ははかり知れないものがあり、一方雄大な眺望を誇るこの路線は、新たな観光ルートとしても一躍脚光を浴びるに至った。開基以来陸の孤島とされてきた当町にとって、町民の喜びは筆舌に尽くしがたく・・・。ここに明治末期の頃、前人未踏の山野に野営し身の危険をおかして踏査を重ねた先人の偉業を偲ぶとともに、建設に寄せられた関係者の努力に感謝し、六十年来の念願を遂げた町民の喜びを後世に伝えるために、この碑文を建立す。
昭和四十一年十月 日高町長 占部久重

Question 124

 増え続ける幹線国道の交通緩和を大きな目的として、川沿いに昭和四十五年から札幌冬季オリンピックの関連事業の一部としても整備が進められてきたこの道路が、昭和六十年に完了して開通記念碑が建立された。それは次のうちどこか。

①札幌市「創成川通」
②札幌市「豊平川堤防通」
③札幌市「前田新川通」
④札幌市「鴨々川通」

Answer

①札幌市「創成川通」

 札幌市中心部と石狩方面を結ぶ幹線道路、国道二三一号(現・国道五号の一部)の「創成川通」は、昭和六十年十二月、着工以来十五年ぶりで完成した。区間は、北十三条~北四五条間の延長四・五㎞であって、増え続ける幹線国道の交通緩和を大きな目的として昭和四十五年から整備が進められてきたものである。この道路の整備完了によって、東側を並行して走っていた旧石狩街道は、南進一方通行から十四年ぶりで対面交通となった。札幌冬季オリンピックを機に一変した石狩街道は、ここに昔の姿になったのである。
 昭和四十一年、六年後に札幌冬季オリンピック大会が開催されることに決定、真駒内の選手村と、手稲会場を結ぶ道路の一環として、北五条から北三四条札幌新道間(第一工区)の整備が急がれた。延長は三・五㎞で取敢えず創成川の左岸に北進一方通行の三車線を新設し、現道の石狩街道を南進一方通行として処理することとして整備された。その後昭和五十三年に北三十一条から北四十五条間(第二工区)の延長一・六㎞が着手され、第一工区の第Ⅱ期工事に着手、そして今回の完成となったものである。この区間には一三八億五千万円の事業費が投入された。そして完成を記念し創成川下水処理場の前に「創成川通」と刻まれた碑が建立された。
 国道創成川通の新設を記念して 創成川をはさみ都心部の北十三条から北四十五条までの六車線の国道を新設した。かつて国道は東一丁目の石狩街道を通っていた。この街道は明治二十年代に建設され、その後改修を重ねて昭和四十年に全線の舗装を完成した。その後大幅な交通量の増大に対処するため、都市計画されている創成川通を新しい国道ときめ昭和四十五年着手、この度完成をみたものである。
 昭和六十年十二月  札幌開発建設部

Question 125

 昭和四十五年国道の改良工事に着手し、十三年の年月と多大な労苦のもとに同五十七年に開通、記念碑が建立されている道東のこの道路は、全国でも最大級を誇る橋とともに、沿線住民の生活に大きな貢献をなすと期待されているものは、次のうちどれか。

国道二三六号「広尾国道」
②国道二四一号「足寄国道」
③国道二四二号「陸別国道」
④国道二七三号「糠平国道」

Answer

④国道二七三号「糠平国道」

 昭和五十七十月秋深まるこの日、国道二七三号の糠平国道が地元住民や関係者約三百人の見守るなか、盛大な開通式が挙行された。着工以来十三年の歳月と総事業費一一七億円を投じて進められ、清水谷~糠平温泉間の改良が住民期待の中、完成を見たのである。これを祝って、「糠平国道開通式」と「糠平大橋渡橋式」が行われた。つづいて「糠平国道」と刻まれた記念碑が除幕された。

 断崖絶壁、原始林に覆われた人跡未踏の地であったここに、道と呼べるものが造られたのは、明治二五年、官有林野の森林改修ため人だけがやっと歩ける道を十勝監獄の囚人の汗によって造られたのが嚆矢である。その後、十勝と上川とを結ぶ開発道路として、昭和三十六年、改良工事に着手、昭和四十四年住民待望の国道昇格、昭和四十七年、三国トンネルの完成により三国越えの道路が開通し大きく変貌をとげた。しかし、未だ幅員が狭く砂利道であったため、昭和四十五年清水谷・糠平温泉間の改良工事に着手し、十三年の年月と多大な労苦のもとに本日ここに糠平国道の開通を見たことは地域住民にとり喜びこの上もない。この国道が大雪国立公園を縦貫し、道東と道北を繋ぐ大動脈として北海道が更に発展する礎となることを祈年し、併せて国道建設に御尽力された各位に深甚なる感謝をこめて記念碑を建立する。        昭和五十七年十月   糠平国道整備促進期成会

 この一二・三㎞の区間にはトンネルが六箇所(一、七九一m)、覆道二箇所(三七四m)、橋梁五箇所(七八一m)の構造物が設けられ、土木技術の粋を駆使して新工法・新技術をいたるところに採用している。なかでも逆ローゼ桁の糠平大橋は新しい十勝の名物橋と評判が高い。地域の発展に大きく寄与するこの道路の完成は多くの人々の汗の結晶であることはいうまでもない。

Question 126

 平成三年九月、道央と道東を結ぶ北海道の骨格の道路で、唯一の不通区間一九・八㎞が幾多の難工事を克服して完成した。その歴史を語る開通記念の碑が、路側駐車帯に建立されている。それは次のうちどこか。

①国道三八号「十勝国道」
②国道二三六号「天馬街道」
③国道二三七号「日高国道」
④国道二七四号「石勝樹海ロード」

Answer

④国道二七四号「石勝樹海ロード」

 道央と道東を結ぶ国道二七四号で唯一の不通区間であった穂別町福山~日高町日高間が平成三年九月十九日に完成、着工以来二六年目にして全線の開通となった。今回開通した不通区間は、日高山脈の西部および夕張山地の山部を通過するもので、標高九〇〇mの山脈を、五五〇mの高さで通過することになり、穂高トンネル⌒一、九九一m)をはじめモトツトンネルなど四箇所のトンネルを堀り、トンネル延長は四、四八四mとなっている。またオコタン橋(三三八m)など一一筒所の橋梁が架設され、これによって、全延長の約三割が構造物を占めている。オコタン橋の手前に開通を記念した「石勝樹海ロード」と刻まれた記念碑が建立された。

石勝樹海ロード 一般国道二七四号は道央の石狩と道東の十勝を結ぶ北海道を横断する骨格幹線道路です。この一般国道二七四号の建設は北海道の背梁である急峻な日高山脈を開削するもので、日高町から清水町の区間は、昭和三〇年に着工され昭和四〇年一〇月に開通しました。穂別町から日高町の区間は、夕張山地の急峻な地形と相まって、道内有数の地すべり地帯を擁し、昭和四十一年の着工以来、幾多の難工事を克服し、二十五年の歳月を経た平成三年九月に開通し、ここに全線が開通しました。一般国道二七四号の全線開通を記念して、長沼町から清水町の区間の愛称を広く公募し、雄大で緑豊かな森林につつまれた新しいみち「石勝樹海ロード」と命名されました。今後、「石勝樹海ロード」が、北海道ひいては我が国の経済・社会の発展に大きく貢献する道路として、国民・道民に末永く親しまれていくことを期待いたします。なお、記念碑の題字は、北海道開発局長、戸部智弘書によるものです。
    平成三年九月  北海道開発局   室蘭開発建設部

Question 127

 国道沿いの広場内に、道路防災を記念する広場が開設され、道路防災と交通安全を祈ったモニュメントが建立された。「これを機に安全な道づくり展開していく」とされ、災害の再発防止を祈念するこの広場は、次のうちどこか。

①国道五号「大沼地内」
②国道二二九号「古平地内」
③国道二三一号「雄冬地内」
④国道二三八号「雄武地内」

Answer

②国道二二九号「古平地内」

 国道二二九号セタカムイトンネル古平町側出口に「セタカムイ道路防災祈念広場」が完成し、平成十年七月十八日に開設式が行われた。式典には北海道開発局長をはじめ、豊浜トンネル事故の遺族会や関係者約六〇人が参列し、広場内に設置された祈念碑を前に、小樽開建部長は「祈念広場の開設を機に、今後も安全な道づくりを展開していきたい」と挨拶、災害の再発防止を祈念した。
 北海道開発局長ら七人が広場入口で紅白のテープカットし、後志支庁長ら四人の手で関係自治体が建立した道路防災と交通安全を祈ったモニュメントにかけられた布が外される。関係自治体を代表して岩内町長は「国道二二九号にとって、災害再発防止は最も重要な課題です。今後も道路の安全・万全と防災化を切に望みます」と述べる。
 この広場は平成九年五月に着手され、工費約三億円を投じて建設を進めてきたものである。面積約四、〇〇〇㎡のもので、大型バス三台、乗用車二四台が駐車可能な駐車場を造成し、緊急時には退避所に、また平時にはパーキングエリアとして利用できるものである。また冬期間も二十四時間利用できるトイレや、トンネル内で事故発生の際の非常警報システムの説明や、非常用スイッチを押すと「異常」がどんな経路で外部に知られるかが分かるなど、道内で初めての体験コーナー、防災対策車などのパネルをディスプレーした道路防災資料展示室が設置されている。
 北海道開発局では、豊浜トンネル事故以来、事故の後の点検を実施し「対策が必要とする」と判定した国道のトンネル・覆道は全道で一〇九個所に上った。そのうち九五%が平成十八年度末までにルート変更、岩の撤去などの工事が終わる。道道でも必要な個所が五六個所で対策が講じられた。事故が契機とはいえ、道路の安全性が高かまったことは、一応の評価ができるものであるとされている。

Question 128

 札幌市内に「札幌建設の地」という、大地を象徴する球体の上に東西南北の基点を示す菱形、さらに将来の発展を祈る指月形が積み重ねられた碑が建立されている。それは次のうち、どこか。

①札幌市中央区「市役所前」
②札幌市中央区「札幌駅前」
③札幌市中央区「道庁正門前」
④札幌市中央区「創成橋前」

Answer

④札幌市中央区「創成橋前」

 中央区南一条西一丁目の創成橋のたもとの、北角ビルの前に、高さ一・四mの碑が建立されている。この碑はスエーデン産の黒ミカゲ石で造られたものであり、大地を象徴する球体の上に東西南北の基点を示す菱形、さらに将来の発展を祈る指月形が積み重ねられたものである。デザインは剣持 勇、関 敏の制作になるもので、台座に原田市長の書による碑文が刻まれている。
 この地は、銭函から千歳に抜ける道と藻岩山麓を通り篠路に行く道路との交差点に当たり、明治弐年拾壱月拾日、開拓判官島 義勇が石狩大府建設をこの地から始め、その志をついだ岩村判官は同四年参月、札幌の町割をここを中心として行い民家を建てることを許した。今日の札幌はこの付近を基点として発達したのである。
 昭和四十一年までは道路の基点ということがわずかに分る程度の粗末な石が置かれているだけであったが、この地が島判官によって始められた札幌の区割りの基点となった礎石と判明、そこで後世に残そうとして、この碑を建立したものである。
 碑文にあるように札幌の市街地はこの創成橋の東たもとを基点にして、南一条通りをもって南北、大友堀(創成川)をもって東西に分け、これを組み合わせて四つの区分ができた。その東側に堀と並行して東創成通、これと直角に円山方面に向けて渡島通を設けた。明治四年札幌本府の建設を進めていた岩村判官は、市街地を一町(六〇間―一〇八m)四方に区分し、一一間(二〇m)幅の道路を配置した。
 また鉄道開通(明治十三年)までは、ここが事実上の札幌の中心地であった。なお創成橋のたもとには、札幌の基点を示す「道路里程元標」が建てられている。

Question 129

 明治期において、この道路開削に酷使されて犠牲となった人々の霊を慰め、併せて北海道開道百年を記念して、昭和四十四年に「道路開鑿記念碑」が、建立されたが、それは次のうちどれか。

①国道十二号「砂川市空知太」
②国道三十六号「室蘭市輸西」
③国道二三〇号「札幌市定山渓」
④国道三三六号「広尾町ルベシベツ」

Answer

①国道十二号「砂川市空知太」

 明治十九年初代北海道庁長官・岩村通俊は、市来知(現・三笠市)から忠別太(現・旭川市)間の道路開削を樺戸(月形)・空知(三笠)の両集治監に命じた。ここに収容されていた囚人が「霖雨(りんう)連日、且蚊(ぶん)虻(ぼう)毒虫甚だしき」中を「少しも怠惰(たいだ)の心なく、能(よ)く囚徒を使役せしめて」、明治二十二年に全線が完成された。
 この道路開削に従事して犠牲となった囚人の霊を慰め、併せて北海道開道百年を記念して、昭和四十四年九月に北海道知事・町村金五の筆になる「上川道路開鑿記念碑」が、空知太神社境内に建立された。この碑は高さ五mのコンクリートおよび黒ミカゲ石を併用、白く細く伸び、正面から見ると囚人の霊を慰めるかのように、人の手が合掌する様子をデザインしたものである。ここで初めてこの道路建設に当たった幾多の犠牲者の霊が弔われたのであった。碑文には次のように刻まれている。

 国道十二号線は、明治十九年に樺戸及び空知集治監の囚人を使役して、空知太に集治監出張所を設置、南北二工区に分け、悪条件の下に工事を進め、九十粁の上川仮道路を完成したのがこの始まりである。この難工事に苦役された幾多の無名の犠牲者の霊を慰め輝く未来建設の為に、開道百年を記念してこの碑を建立する。                昭和四十四年九月  砂川市長 山口正直

 この囚人労働は北海道開拓初期において、広範囲に使用された労働の形態であり、また特異な労働でもあった。なお平成二年十一月、滝川バイパスの一環として工事が進められてきた「新空知大橋」が完成し、渡橋式が行われた。これによって、日本の国道で一番長い直線二九・二㎞が誕生となったものである。

Question 130

 北海道開道百年を記念して「国難のために身を犠牲にした」として、国道沿いの岡にこの道路開削工事に殉じた囚人の霊を慰めるため「国道創設 殉難者慰霊の碑」が建立されているが、それは次のうちどこか。

①網走市「二見ヶ岡」
②白滝村「北見峠」
③遠軽町「瀬戸瀬」
④端野町「緋牛内」

Answer

①網走市「二見ヶ岡」

 北海道開道百年を記念して、囚人の墓を持つ市町村が協賛し、昭和四十三年に網走湖畔の国道沿いの二見ヶ岡に「国道創設 殉難者慰霊の碑」が建立された。北海道庁では開道百年を記念して、開拓使長官や外国人顧問など、豪華な顕彰の碑を建立したが、これに劣らない囚人の慰霊碑がここに建立されたことは、喜びにたえない。この碑は「囚人こそ北海道の開拓者である」という思いを語ってくれていて、血と汗との記録を後世に語り継いでくれる碑である。碑文には

 百年にわたり開拓者精神に燃えた父祖先人の高い理想と労苦が今日の網走管内の発展となってあらわれておりますがとくに当地開発の端緒となった網走と旭川を結ぶ国道建設は明治二十四年四月「東北北海道貫通中央道路」として工事を開始し当時現在の網走刑務所に服役中の受刑者の多数の血と汗の協力より完成したものであります。北海道百年の意義ある年にあたり殉難者の慰霊の誠を捧げるために「国道創設殉難者慰霊の碑」を建設し、さらに近年とみに増嵩しつつある交通事故の減少と交通安全を祈念し「交通安全観音像」を建立したものであります。
昭和四十三年十月   国道創設殉難慰霊の碑建設期成会 会長 佐藤忠吉

とある。町村金五知事の筆になる碑であり、昭和四十三年十一月九日に除幕されたもので、この碑の中には、殉難者の血のにじんだ土が、白木の箱に入れられて納められている。この碑の建立に当たり、留辺蘂町白竜山遍照寺・林隆弘師は「開道百年の年でした。開拓の功労者のはずの囚人なのに、埋められっ放しなのがふびんでたまらず、埋まったままの土を寺に持ち帰って供養し、網走刑務所に交渉したんです」という。

Question 131

 この道路の開削は、政府の北辺警備とこの地方の開拓促進のため、明治十九年に着工され、多くの犠牲者を出して完成された。身は囚人であっても殉難の歴史は歴史として後世に残すのが義務として慰霊碑が建立されたのは、次のうちどこか。

①遠軽町「瀬戸瀬」
②留辺蘂町「丸山峠」
③白滝村「北見峠」
④女満別町「役場前」

Answer

①遠軽町「瀬戸瀬」

 昭和三十三年五月、瀬戸瀬青年団は「この地方の発展をもたらした貢献者であり、その犠牲となった人々を、たとえその身は囚人であったとはいえ、畑の中に埋もらせたままにしておくのは偲びない」として遺体の発掘に当たった。この場所は囚人小屋が置かれた場所であり、木の墓標が六七体建っていた。そこで地元では「国家の危機を救うため身命を投げ出した」彼らのために慰霊碑を建立した。この国道三三三号沿いの場所に、地元の瀬戸瀬婦人会の手で「国道開削殉難慰霊之碑」が建立され、昭和五十一年九月に除幕された。この碑文には

建立の趣旨  中央道路は政府の北辺警備と北見地方の開拓促進のため、明治十九年に着工され、明治二十四年に完成された札幌・旭川・網走・釧路を結ぶ当時の大動脈でした。このうち明治二十四年四月から同年十二月にかけて集治監網走分監の囚徒一、九七〇人を使役して工事を行いました。網走・中越間一六二・七キロの開削では難工事で極めて激しい労働と栄養失調のため二三八人に及ぶ死者を出しております。この場所は仮監跡で六七体が仮埋葬されておりましたので、昭和三十三年四六体を発掘いたしまして供養を続けてまいりましたが未だ二一体が地下に眠っております。こうして北見地方開発の礎となった犠牲者をこのまま放置したのでは忘れられた霊が浮かばれないのではと思いつき歴史は歴史として真実を後世に残すのが七〇年代に生きる私達に課せられた義務と考え囚徒の霊の安らかなに永眠されることを祈念いたしここに四六体の遺骨を納め地下に眠れる二一体と合わせて殉難慰霊之碑を建立するものであります。
昭和五十一年九月 瀬戸瀬婦人会

とある。殉難者として地下に眠る霊にとって、この碑に鄭重に葬られたことは喜びでなかろうか。

明治期の道路開削

Question 132

 平成十年、広尾町ビタタヌンケに「蝦夷地山道開削二百年記念」という碑が建立された。これは誰を顕彰する碑であるか。

①木村謙次
②近藤重蔵
③最上徳内
④松浦武四郎

Answer

②近藤重蔵

 平成十年(一九九八)九月二十二日、黄金道路に面した広尾町ビタタヌンケの駐車場に「近藤重藏蝦夷地山道開削二百年記念」という碑が建立され除幕された。平成十年はちょうど重藏の山道開削二百年の年にあたるものであった。

 江戸幕府蝦夷地探検の別働隊として近藤重蔵守重が率いた一行は、寛政十年(一七九八)四月江戸を出発、六月にトカチ(広尾)到着、海岸の嶮難に九死に一生を得、艱難に耐え国後、択捉島に渡り七月択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建て日本領土であることを宣言した。帰途十月、トカチに立ち寄り、海岸の嶮に山道を開削するために資を投じ、アイヌ六十八人を使い、ルベシベツからビタタヌンケ間約三里(十キロ)に山道を開削した。後世の史家は、松前藩治下にあって重蔵の決断を「その果敢、実に蝦夷地道路開削の嚆矢」として讃えている。工事の模様を記した「山道開発之記」「写」(弘化四年=一八四七)、寛政十年下野源輔(助)=木村謙次の録した「東蝦新道記」(万延元年=一八六〇、函館奉行再せん)の彫字板がそれぞれ広尾町の禅林寺、十勝神社に所蔵されている。重蔵は文化四年(一八〇七)まで実に五回に亘る蝦夷地探検を行い、その著述も多い。重蔵は明和元年(一七七一)江戸に生まれ、湯島聖堂の学問試験に合格、長崎奉行手付、関東郡代出役を経て蝦夷地探検にあたり、文化四年(一八〇七)幕府書物奉行に任ぜられ、後、大阪弓奉行を経て文政四年(一八二一)小普請入り、息子富蔵の殺傷事件の咎で滋賀県大溝藩(高島町)にお預けとなり、文政十二年(一八二九)雷鳴とどろくなかに死亡した。時に五十九歳。この山道はその後トカチ場所、ホロイズミ場所請負人により補修が繰り返され、明治に至り海岸道に墜道ができ、大正、昭和と、山道とともに併用され、昭和九年(一九三四)黄金道路が完成、開通するまで利用された。(以下略)

Question 133

 開発局の開局四十周年を記念じて、国道の交点に「ゆとりと潤いの旅」の場として「みどりの一里塚」と名付け、植樹および石碑を建立して造成した所がある。それは次ぎのどこか。

①国道五号と三七号の交点
②国道十二号と二三四号交点
③国道三六号と二三五号交点
④国道三八号と二四〇号の交点

Answer

④国道三八号と二四〇号の交点

 釧路開建では、開局四十周年記念事業として、平成三年九月に国道三八号と二四〇号の交点に「みどりの一里塚」を造成し、完成を記念して記念植樹と石碑の除幕式を行った。この一里塚は、主要観光地を結ぶ幹線道路に『ゆとりと潤いの旅』の場として、駐車場付きの公園を造成したものである。
 この一里塚は約六〇〇㎡の路側植樹帯で、十七種類七〇〇本余りの樹木を植樹し、その周りを二七〇〇株の芝桜で彩っているものである。また、国道二四〇号の愛称「まりも国道」の起点を示す石碑の建立、歩道のカラーブロック化など全体に潤いと親しみを感じさせるものとした。
 開建部長は「全国から観光地阿寒や釧路を訪れる人の心のオアシスになってほしい」と挨拶、釧路建協からは伽羅木の苗木十本が寄贈された。記念植樹では、地域町内会、開建の新規採用職員、三役がそれぞれブンゲンストウヒ、ヨドガワツツジ、ハクサンシャクナゲを植え、水をかけた。
 この後、幼稚園の園児三十人が元気よく「まりも国道」の尾幌産安山岩による石碑の除幕を行うと、集まった関係者約八十人が一斉に拍手し、一里塚の誕生を祝った。
この碑の前には「緑の一里塚」の案内板が設置されている。

緑の一里塚  この一里塚は、観光地阿寒と釧路の町に入る、旅人の〈道しるべ〉と、憩いの場として、北海道開発局四〇周年を記念して〈まりも国道〉の石碑と記念植樹をしたものです。
釧路開発建設部  平成三年九月二〇日

Question 134

 建設省では昭和六一・六二年の二回にわたリ、道路の意義・重要性に対する関心と道路愛護の精神を高める目的で「日本の道一〇〇選」を選定し、道内から四箇所が選ばれたが、それは次のうちどれか。

①「北一条通アカシア並木道」
②「道庁正門前通公孫樹並木道」
③「旭川乎和通(買物公園)」
④「札幌大通北線・南線(通称大通公園)」

Answer

④「札幌大通北線・南線(通称大通公園)」

 建設省は「道の日」を制定したのにちなみ「目本の特色ある優れた道路を選定、顕彰することによって道路の意義・重要性に対する関心と道路愛護の精神を高める目的」として「日本の道一〇〇選」を選定した。これに札幌市の大通公園・函館市大三坂など全国の五一道路が昭和六十二年度分として選ばれた。これは昭和六十一年度と二回に分けて選定したもので、前年度が渡島管内の七飯町国道五号の松並木と日高管内静内町道二十間桜並木が北海道から選ばれている。
 札幌市の大通北線・南線(通称大通公園)が「他都市には見られない大規模な道路公園。幅約六五メートルの中央帯は公園として整備され、手稲山を背景に大倉山シャンツェが望まれ、四季の景観は素晴らしい。また、さっぽろ雪まつりなど多くの行事の拠点としても重要な役割を果たしている」という理由から見事選定の栄誉に輝いたものである。これを記念して「道」碑が昭和六十二年十二月二十二日に建立され、建設省から贈られた記念のプレートが填め込まれている。碑陽には「日本の道一〇〇選 札幌大通 昭和六十二年八月十日 建設省『道の日』実行委貝会」とあり、碑陰には

この札幌大通は 日本の特色のある優れた道路公園として 昭和六十二年八月「日本の道一〇〇選」に選ばれました この碑は札幌大通が これからも時計台の鐘の音とともに 市民の心のよりどころ
として永く後世に親しまれることを記念して 建立したものです  札幌市

とある。大通公園は緑豊かで安らぎとイベントの都市公園として「札幌の顔」でもあり、札幌を代表する「道」でもある。この記念碑の「道」標は、上部が階段状になっていて、公園の樹木を表現しており、ステンレス製で高さ一・七m、幅四二㎝、金井英明の制作によるものである。

Question 135

 道路の直営現場で、ちょうど現場の打合せに来た担当職員と、朝食をとっていた作業員十六人が、大音響と共に崩れた雪によって死亡したという事故があった。現場にはこの時の雪崩の事故によって殉職した十八人の霊を慰めるため、殉職祈年碑が建立された。それは次のうちどれか。

①積丹半島「滝ノ澗岬」
②黄金道路「タニイソ」
③日高道路「富岡」
④豊浦町「礼文華」

Answer

②黄金道路「タニイソ」

 黄金道路の建設に当たって、二〇名にも及ぶ尊い命が失われた。特に最大の事故は、昭和九年三月十四日、第八号隧道と第九号隧道の中間の渓流沿いに建てられた飯場を直撃した大雪崩であった。午前九時ころ大音響と共に崩れた雪は、二棟の作業員飯場を呑み込んでしまった。
 たまたま帯広土木事務所・監督員の高橋恒太郎技手と、助手の佐々木浩太郎の二人が、仕事の打合せのためにこの飯場に来ていて、この雪崩に巻き込まれてしまったのである。この現場はタニイソ、ビタタヌンケ間延長一、八七九mの直営現場であり、昭和八年八月二十五日に着工、翌九年八月二十五日に完成したものである。ちょうど現場の打合せに来た時、作業員十六人が朝食をとっていた。
 高橋技手はその場で死亡、佐々木助手はストーブを両足で抱えるようにしていたため、大火傷をし一夜がかりで広尾の病院に運び込まれたが、三日後に死亡した。現場にはこの時の雪崩とその他の事故によって殉職した、十六人の霊を慰めるため、殉職祈年碑が建立された。碑の裏面には

地方費道帯廣浦河線道路改良直営工事施工中昭和九年三月十四日ノ雪崩其他ノ作業ニ殉職セル者 技手高橋恒太郎 技手佐々木浩太郎 人夫木村静雄 外十三名 昭和九年八月本碑を建設

と刻まれている。この工事で犠牲となった殉職者が帯広側で十六名、室蘭側で四名の計二〇名となっている。事故現場に建立されたこの碑は昭和六十一年に全線の舗装が完成したことを機に、それまで人の目につかない場所に建立されていたのを、ビタタヌンケの駐車場の「日の当たる場所」へと、約五十万円の費用をかけて台座を設けるなどして移設されている。

Question 136

 「道路交通に危険を及ぼす山崩れの発生の恐れは予見できた」はずで「通行禁止等」の措置をすることによって「危険の発生を未然に防止することができた」ので「道路管理に暇疵があった」という判決があった昭和三十七年の道路災害があった所は、次のうちどこか。

①上川町「層雲峡地区」
②浜益村「雄冬地区」
③南茅部町「川汲地区」
④乙部町「豊浜地区」

Answer

④乙部(おとべ)町「豊浜地区」

 昭和三十七年十月十七日午前十時四十分ころ、檜山管内乙部町(当時は村)豊浜地区の国道二二九号第三トンネルと第四トンネルの間で、推定土量約三五〇万㎥に及ぶ大規模な地すべりが発生した。そこをたまたま通りかかった定期バスが海中に押し流され、乗客十三人と、道路工手一人が死亡、二四人が重軽傷を負うという大事故が起こった。当時としては道路災害史上、類を見ない大災害であった。
 事故当日、午前八時過ぎに、現場通行中の運転手から擁壁の倒壊、路面の亀裂、落石等があるという通報があった。早速現場確認のため江差出張所長らが計測、確認、そして三人の道路工手を残して事務所に帰った。やがて十時過ぎ地滑りが発生し、そこヘバスが接近して事故に遭遇したのである。そして開発局職員、自衛隊の応援のもと、昼夜をわかたず懸命に捜索が行われ、復旧作業が二ヶ月に及んだ。犠牲者のうち三人はその後の捜査も空しく、いまだに行方不明となっている。
 昭和三十年十月災害現場で一周忌法要を営み、犠牲者の冥福を祈った。この事故により死亡した十三人のバス乗客遺族から「道路管理に暇疵があった」として慰謝料請求の訴訟が出された。函館地裁では「道路交通に危険を及ぼす程度の地すべり、ないし山崩れの発生の恐れは予見できた」はずであり、また「相当数の職員に現場の状況を監視』させ「通行禁止等」の措置をすることによって「危険の発生を未然に防止」が可能であったのに、それをしなかった。「道路管理の方法としては、著しく適切性を欠くものである」との判決により、慰謝料の支払いを命じた事故であった。
 その後犠牲者を慰める慰霊碑が、昭和四十五年十二月に新ルートの国道沿いに建立されている。慰霊碑には犠牲者の名前が刻まれ、その霊が安らかに眠ることを祈っている。

トンネル関係

Question 137

 昭和の初期の道路は、どこの道路でも、冬期の砂利敷きなどは地域住民に課せられた義務であった。その砂利採取などの作業に従事していた部落民に堅い盤が崩れ落ち一度に五人が圧死したという事故があったが、それは次のうちどれか。

①新十津川(村)町「北幌加地区」
②南茅部(村)町「木直地区」
③大樹(村)町「開進地区」
④神恵内村「赤石地区」

Answer

①新十津川(村)町「北幌(きたほろ)加(か)地区」

 昭和初期の道路は、どこでもそうであったが、晴天続きの時には道路が固まっているものの、一旦雨が降り続けると、たちまちにしてぬかるみとなってしまう。そこで樹木を伐り倒して割り板を並べ、その上に土砂や砂利を敷く方法などがとられていた。当時は冬期の砂利敷きは、地域住民に課せられた義務であって、したがって道路の維持・補修が地域住民の労役によって行われていたから、作業中に人命が失われることもあった。
 昭和四年の四月のこと、滝川浜益線の新十津川村北幌加地区で砂利採取作業に従事していた部落民の頭上に、雪と砂利が凍りついた堅い盤が崩れ落ち、一度に五人が圧死するという痛ましい事故が起きた。
 昭和十五年になり、その殉職を悼んで「殉公之碑」を、北幌加小学校跡(現在の西部地区簡易水道浄水場)の東南、道路をはさんで筋向かいに建立された。松実喜代太の筆になるこの碑文には

昭和四年四月十日当部落道路用砂利採取作業中突如雪盤崩壊(ほうかい)、左ノ五氏ハ不慮(ふりょ)ノ圧死ヲ遂ゲラル。其ノ公益事業ニ殉ゼラレタルハ、洵(まこと)ニ敬仰追惜措(けいぎょうついせきお)カザル処ナリ 茲ニ区民相図リ其ノ霊ヲ慰ムルト共ニ功績ヲ後(ごん)昆(こう)(後の子孫、後世の意)に伝フ
山崎新吉 三十七歳  中川めつい 二十六歳  中川正司 十八歳
大井トクシ ニ十五歳  吉原ケイ 三十五歳     昭和十五年十一月 第十五区民一同
とある。区内の道路はその区民の出役と責任によって改修が行われた。こうして二〇年後には新十津川の村道は全道の模範であるいわれるようになったとされている。

Question 138

 建設省では、日本の特色のある優れた道路を選定、顕彰し、道路愛護の精神などを高めることなどを目的とした「日本の道一〇〇選」を選定した。この中で北海道内では四箇所が選ばれたが、その中の一つに「坂道」がある。それは次のうちのどこか。

①札幌市「見返り坂」
②小樽市「船見坂」
③釧路市「富士見坂」
④函館市「大三坂」

Answer

④函館市「大三坂」

 建設省では「日本の特色のある優れた道路を選定、顕彰することによって道路の意義・重要性に対する関心と道路愛護の精神を高める」ことを目的として「日本の道一〇〇選」を選定した。このうち道内では四箇所が選定された。「札幌市の大通公園」・「函館市大三坂」が昭和六十二年に「七飯町松並木」・「静内町二十間桜並木」が前年度の六十一年となっている。
 坂道は、各都市でも有名なものが多いが、特に函館市には、歴史のあるロマンにあふれる有名な坂道が多く、その中から「函館市大三坂(市道末広八号線)」が選ばれたのであった。この栄誉を記念して昭和六十三年六月二十九日、白みかげ石で造られた記念碑が建立され除幕された。なにしろこの坂道はエキゾチックな坂道として、市民や観光客に親しまれていて、碑陽には

道 日本の道一〇〇選 大三坂 昭和六十二年八月十日 建設省「道の日」実行委員会

とあり、高さ一・四m、幅三五㎝のもので、建設省から贈られた記念のプレートが填め込まれている。
 この大三坂という名の由来は「昔、この坂の下に木下という人が住んでいたので〈木下の坂〉といったが、その後大三という家印の人が住んでいたので〈大三の坂〉というようになった」とされている。選定の理由には「道路周辺には、ハリスト教会など歴史的建造物が多く、ロマンと異国情緒を出すために坂の石畳化やガス灯など、景観形成街路として整備されている。街並みや函館港を見下ろす遠景は美しく、市民に親しまれているとともに、代表的な観光コースでもある」ということである。

Question 139

 この道路開削にあたり、国難のために身を犠牲にした多くの殉難者たちの霊の安らかな眠りを念じて「村があるのはこの道路のおかげ、道路はこの殉難者のおかげ」として、この峠の頂上に「中央道路開削殉難者慰霊の碑」が建立されているが、それは次のうちのどこか。

①端野町「端野峠」
②白滝村「北見峠」
③常呂町「仁倉峠」
④留辺藁町「金華峠」

Answer

②白滝村「北見峠」

 上川町と白滝村との境界に「北見峠」があり、ここに「中央道路開削 殉難慰霊の碑」が建っている。この道路は札幌・旭川間の上川道路の延長となるもので、オホーツク海岸に達するものであり、多くの囚人が使役された。「多数の犠牲者を出し、北海道開拓初期の土木工事にあまた投入され、最も悲惨な事例として、北海道史上特記すべき位置を占めている」とされる。碑は昭和四十九年九月に除幕が行われた。碑文には次のように刻まれている。
 中央道路は網走に起こり、北見・留辺蘂・佐呂間・野上を経てこの「北見峠」を越え、上川・愛別・旭川に至る当時全長五十七里十四町十一間(二二五粁四〇二米)の殖民道路であり、拓殖と北辺防衛上極めて重要視されて開削されました。しかしこの道路の北見側は、その大半が釧路集治監より網走分監に移された千百余名の囚人を使役として開削されたものであり、明治二十四年春着工以来わずか七ヵ月余りを経た同年十一月には、この北見峠まで網走から三十九里(一五六粁)の道路が完成を見るに至り、その作業能率は今にしてみれば、驚異的なものでありました。したがって作業内容は想像を絶する酷使につぐ酷使、不眠不休の労役が続けられ、特に惨を極めた野上(遠軽町)北見峠間は、過度の労役と病にたおれた死者百八十余人にも及び、死者は路傍に仮埋葬されたまま弔う人もなく、粗末な名もない墓標は風雨にさらされて場所もほとんどが不明になりました。その後、昭和三十二年春白滝村字下白滝で六体を発見収容、…更に昭和四十八年十月白滝村白滝東区で六体を発見収容、それぞれ供養の上改葬しましたが、未だ当時埋葬のまま地に眠る霊の多いことを想い、ここに殉難慰霊の碑を建立し、この道路建設のいしづえとなった囚徒の霊の安らかな眠りを念ずるものであります。

Question 140

 平成五年七月の地震と津波によって、多くの人命と公共施設にも甚大な被害があり、道路も各所で寸断され通行中の車両を巻き込んだ。その災害の恐ろしさとそれに立ち向かった人々の意思を教訓にしようと記念碑が建立されたが、それは次のうちのどこか。

①瀬棚町「三本杉地区」
②根室市「落石地区」
③長万部町「知来地区」
④浜中町「霧多布地区」

Answer

③長万部町「知来地区」

 平成五年七月十二日に発生した奥尻島を中心とした南西沖地震により、多くの人命と公共施設にも甚大な被害が及んだ。この地震による函館開建所管の公共施設被害総額は、約三七〇億円にのぼり、なかでも国道は全路線五八個所、約十四億円の被害が生じた。函館開建では、災害の恐ろしさとそれに立ち向かった多くの人々の意思を教訓にしようと、国道五号長万部知来地区に記念碑を建立した。
 記念碑は高さが約三・四m(盛土部分が六〇㎝)、幅二・六m、奥行き二・五mの御影石製で「決して忘れない」という碑文を刻み込んで、地震の恐怖、災害の恐ろしさ、そして復旧に立ち向かった多くの人々の意思を教訓とするモニュメントである。碑文には次のようにある。

 平成五年七月十二日午後十時十七分、奥尻島の北東沖を震源とするマグニチュード七・八の北海道南西沖地震が闇を引き裂き、大地を揺るがした。さらに、大津波が奥尻島を中心に襲った。この巨大地震により二三〇名の尊い生命を奪い、多数の家屋が崩壊、流出するなど甚大な被害を受けた。そして人々の生活を支える道路も各所で寸断された。国道五号のこの場所も、基盤が軟弱なため、道路が約一〇〇mにわたて崩壊し、通行中の車両を巻き込んだ。復旧工事は昼夜を通して行われ、平成五年七月二四日には仮道により交通が可能となり、同年十一月二九日には本線が復旧した。地震による断層をイメージしたこのモニュメントは、災害の恐ろしさと復旧に立ち向かった多くの人々の意思を教訓とするため、仮道としたこの場所に設置したものである。
平成六年七月  北海道開発局 函館開発建設部

Question 141

 大正時代において、この舗装道路を「百間内外を通りますときは、如何にも亜米利加にでも往ったような気がいたすもの」と、あれだけの巨費をかけて造るとはと、道議会で質問された舗装道路は、次のうちどれか。

①函館市「桟橋通り道路」
②旭川市「師団通り道路」
③小樽市「運河沿い道路」
④札幌市「道庁正門前通り道路」

Answer

④札幌市「道庁正門前通り道路」

 大正十三年(一九二四)、国道四号線の、この道庁正門前通りに、札幌市内で初めての舗装道路が施工された。北海道庁では取り敢えず試験舗装ということで、延長一一八mを「木塊舗装」で実施したものである。同年十一月に開かれた道議会では「地方より札幌市に参りまして奇異に思いますのは、第一に道庁前の彼の舗装であります。又当局が東京以北には無い第一であると誇って居ります豊平橋であります。また共同便所の少ない事、雑誌社の多い事、鉄道管理局倶楽部の立派な事であります」と前おきして「道庁正門前に実に立派な道路が出来ましたことは、まことに結構な事であります。百間内外を通りますときには、如何にも亜米利加にでも往ったような気がいたすものであります」。現在「一尺一間の道路でも付けて貰いたいことを要望して居ります今日」においてあれだけの金をかけて「僅か百間の模範道路を造る必要がありましょうか」あれだけの巨費を投ずるならば「耕作いたしましたる産物を運ぶに死物狂いになっております所の植民道路の五本も十本も付けてやったほうが、否一本でも付けてやったほうが、いかに道民のためであろうかと思うのであります」と理事者側に質問する。事実開拓初期の当時では、植民道路の開削が急務であった。理事者側は、まず国道に模範を示し「斯くのごとくに道路を良くするところの刺激を与えたい」とし「いろいろ研究致しまして彼の道路が一番適当であると信じ」たものとする。当時の舗装道路工法ではこの「木塊舗装」が高級舗装とされていたものであった。
 昭和五十八年、札幌市ではこの通りの北角に「札幌舗装道路発祥の地」という記念碑を建立した。碑の高さは一m、幅四○㎝、木塊をあしらったブロンズの碑の両側を、道路の縁石にみたてた御影石でかたどり、上部には当時使われた木塊四個が飾られている。また「赤レンガへの道は木の舗装」という案丙の板も立てられ、この舗装について詳しく説明されている。

▲余記―殉職者(祈石、中山峠)・稲穂峠(交通安全祈願の碑)

                  ◇
 後志管内神恵内村祈石地区の、国道二二九号脇にある旧道に「道路開鑿工事殉職者供養の塔 大正十一年九月 神恵内村」と刻まれた碑が建っている。この碑は、茂岩~神恵内間の道路開削に当たり、工事中に殉職した者の霊を慰めるために建立されたものである。当時の労働形態からすれば、過酷な労働により、多くの犠牲者(殉職者)があったことは、容易に想像される。記録もなく碑にも刻まれていないので人数は不明である。またこの碑のそばには「旧道通行横死者 交通事故横死者 供養場也」という塔婆も立っている。

                 ◇
 昭和十三年の晩秋のことである。道庁の中村土木部長が、定山渓から中山峠の工事現場の視察にやってきた。現場従業員の前鼻幸次郎(当時二一歳)は、視察の終わった土木部長を中山峠で隣の土木事務所に引継ぎその帰途、巨熊に襲われて殉職したのである。この青年の受難碑が、旧道脇に建立されていたが、現在は不明である。この熊は後に熊捕りの名人といわれた大木老人の手によって仕留められている。
                  ◇
 昭和二十九年九月の洞爺丸台風によって、岩内町は一夜のうちに町の八割に相当する三、二九八戸が焼け尽くされた。死者三六人、負傷者二五〇人、家屋の損害約八五億円、船・漁具の損害約二九億円となったものであった。この災害の救援に向かっていた日通のトラックが、救援物資の押麦を満載して国道五号の稲穂峠を越えようとした際、八合目付近で転落し運転手が即死した。二度とこのような悲劇が繰り返されないようにと、職場の人たちが事故地点に「安全祈願之碑」を建立した。碑の側面には「山口鉄雄殉職の地」と刻まれ、昭和二十九年九月二十九日とある。そうしてやがて昭和三十四年になり難所の峠にトンネルが完成、この碑も余市側に移設された。この碑は道往く車両に、交通の安全を祈願して見守ってくれている。

道の駅関係

Question 142

 建設省では、休憩機能、情報交流機能、地域の連携機能を持った、地域とともにつくる「個性豊かなにぎわいの場」として、多機能型など施設を設けることにしたが、それは次の施設のうちどれか。

①高速道路S・A
②道の駅
③路側駐車場
④有料駐車場

Answer

②道の駅

 「道の駅」とは、ドライバーのための駐車場など休憩施設と、市町村や第三セクター等が設置する物産館などの各種地域振興施設を一体的に整備した快適な「たまり」空間であって、地域の情報発信の場として、交流の拠点づくりに寄与する多機能型施設である。
 わが国の「駅」としては律令制により公用の旅行や緊急の通信のため、五畿七道ごとに駅、渡し場に水駅を置いたという記録が残されている。これまでの道路といえば、人や車の円滑な通行が重視された「ながれ」で進められて来た。したがって駐車や休憩といった「たまり」の機能は立ち遅れた状況にあった。そこで「道の駅」という「たまり」空間を高速道路のサービスエリアのような安心して利用できる休憩施設を一般道路の各所に設け、さらに休息の場だけではなく、道路情報や地域情報の発信地として、それぞれの地域に相応しい内容を盛り込んだ基地にしようとしたものであった。
 平成五年度から始まった「第十一次道路整備五箇年計画」の施策の一つとして「道の駅」が重点的に取リ込むことにした。「道の駅」は地域の玄関となる重要な公共施設である。したがって地域を代表する市町村・公益怯人等と、道路管理者とが一体となって整備する必要があり、「道の駅」は地域に密着した国民と行政が一緒になって創っていくプロジェクトであり、この整備によってドライブも快適になることは間違いない。なお第一回の「道の駅」登録は、全国で一〇三個所であり、うち北海道では三笠市の「三笠」をはじめ十四個所であった。

Question 143

 峠のトンネルを抜けて、深い森の道を走ると、忽然と巨大なログハウスが姿を現す。道外からの観光客には、北海道らしいリゾート気分を演出し「世界最大級のログハウス」と、地元とではPRしている「道の駅」があるが、それは次のうちのどれか。

①喜茂別町「望羊中山」
②大滝村「フォーレスト276大滝」
③南富良野町「南ふらの」
④芦別市「スタープラザ芦別」

Answer

②大滝村「フォーレスト276大滝」

 ニセコ、支笏洞爺という観光地をつなぐ国道二七六号の中継ポイントに位置し「約二〇〇mログハウス、ピアノの自動演奏トイレ」というキャッチフレーズの「道の駅」である。
 国道で支笏湖の南側を走り、美笛トンネルを抜けて、深い森の中を走ると、やがて巨大なログハウスが姿を現す。全長約二〇〇m、総床面積は約二、八〇〇㎡であって「世界最大級のログハウス」といううたい文句通りの迫力である。館内に入るとカナダ産の丸太の木肌から醸し出される木の香りに包まれる。土産物コーナー、レストランでは、いつも祭り気分の賑わいが味わえるとされる。レストラン「森のこびと」は、大滝ならではの森の恵みを届けるという、きのこづくしメニューが自慢のウッディーなレストランである。
 なんといっても総工費一億円といわれる大理石づくりのトイレがあって、入り口には、自動演奏するグランドピアノが置かれ、ドライブに疲れた人々の神経を休ませてくれる。女性トイレには化粧室や授乳室が完備され、快適なシャワートイレもある。この自慢の一億円トイレは、二〇年ほど前の竹下内閣時代に配られたふるさと創生基金を活用したもので、当時はマスコミにも度々取材され、観光バスの運行ルートを変えたといわれるほど話題を呼んだとか。当時の観光施設のトイレ事情からすると、画期的なことで、自動演奏のグランドピアノは土産品の売上げアップに多大な貢献をした。そして、各駅にどんどん快適トイレが登場する今も、結構輝いているのですごいアイディアだったとされている。
 新千歳空港から車で約一時間、洞爺湖方面に向かう観光バスやレンタカードライバーなど、道外観光客にとっては、周囲の森林の雰囲気に合ったログハウスが、北海道らしいリゾート気分を演出しているようだとされる。

Question 144

 道路の工事現場から発見された化石によって、この農村はその姿を大きく変え、観光への道を歩みはじめた。この「道の駅」は温泉を中心に、記念館や公園、パークゴルフ場と豪華ラインアップで、地元民や観光客の憩いの場となっている。それは、次のうちのどこか。

①忠類村「忠類」
②日高町「樹海ロード日高」
③森町「YOU・遊・もり」
④ニセコ町「ニセコビュープラザ」

Answer

①忠類村「忠類」

 昭和四十四年七月、農道の工事現場から見つかったナウマン象の化石は、北海道には生息していなかったという従来の学説を覆す大発見となった。この化石が純農村だったこの村を大きく変えた。当時「世界的発見」とマスコミに報じられたことなどから「ナウマン象の里」として観光の道を歩みはじめた。
 この道の駅は「その関連施設が集結した観光スポット」なのである。ここはナウマン温泉アルコ236を中心にする、ナウマン象記念館、ナウマン公園(キャンプ場併設)、パークゴルフ場と豪華なラインナップで地元の人や観光客の憩いの場となっている。ナウマン公園は噴水や水遊び場もあり、広く緑が量かで弁当を食べるには最高のロケーション。バーベキューも出来るので肉持参で出かけてもいいという。
 ナウマン象記念館には一九六九年に工事現場で、偶然発見された象の化石があり、慎重に採掘を進めると世界でも珍しい、全身骨格そのままに近い形で埋もれていたものだった。北海道にもナウマン象がいたことを証明したこの化石はメーンテーブルに復元され、太古のロマンを伝えている。標本や関係文献も充実していて専門家の研究にも利用されている。
 新しくなった道の駅には、パン工房やテイクアウトコーナーのほか、道路情報のモニターがあり、黄金道路や野塚峠、日勝峠の映像がリアルタイムで流れている。天候が心配な時などはここでチェックして行きたい。またホテルに近く、食事や温泉を利用するにも歩いて行けるので周辺の十勝ならではの雄大な自然美も味わえる道の駅である。

Question 145

 冬のスキーをはじめ夏の川下り、登山など四季を通じてのアウトドアのこの地。この道の駅はこうした豊かなフィールドを擁する町の玄関口であり、地の利にも恵まれている「道の駅」は、次のうちのどれか。

①南富良野町「南ふらの」
②ニセコ町「ニセコビュープラザ」
③美瑛町「びえい丘のくら」
④東川町「ひがしかわ道草館」

Answer

②ニセコ町「ニセコビュープラザ」

 駐車場に降り立つと、前方にニセコ連山を望むさわやかな展望と山麓にホテルやペンション、スーベニァショップなどが集まるニセコリゾートの玄関口にある。また札幌―函館をつなぐ国道五号と道道岩内洞爺線が交わる交通の要衝でもある。
 道の駅は〈情報プラザ棟〉〈フリースペス棟〉〈トイレ棟〉の三棟からなっており、温泉やスキー、カヌーなどの観光情報の提供はもちろん、地場産の農産物や人気フードの販売もあり年間一五〇万人以上の利用客を集める人気スポットとなっている。ここの農産物直売場は道内外からも視察者が訪れるという注目の場所だ。売り場の農産物にバーコードシールを張り、レジを通すことで在庫状態がわかり、それを携帯電話などで生産者に知らせて品切れを防いでいるのだ。このシステムを応用してホテルなどからの大口注文にも役立てており、平成二〇年北海道IT経営表彰〈産直改革賞〉を受けたものであった。
 駅名の英語の「ビュー(景色)」には「見晴らしのよい」の意味もこもり、人目を引く黒い樽状の外観が〈情報プラザ棟〉で「どっしりした山のイメージを込め、周囲の緑に黒が映えるんです」と町ではPRする。内部は高さ約六mの吹き抜けで、白い壁面はニセコの雪に通じる。観光協会の職員が常駐していて、きめこまかに対応していて、この情報プラザは好評で、宿泊施設や飲食店などの情報もおさえている。
 ニセコ町は、ニセコ積丹海岸国定公園の中心として、羊蹄山、ニセコ連山、昆布岳などに囲まれた全国有数のリゾート地であり、全国屈指のスキー環境を背景に、多くの観光客が訪れる。夏場もラフティングやカヌーなど多彩なアウトドアスポーツを楽しむ環境整備が進み、通年観光が可能となった。
 また、文豪有島武郎の記念館も訪れて有島の生涯と文学に触れてみては?

Question 146

 各地にある道の駅のトイレの中で、平成六年に開設され大きな話題となった豪華トイレ「森のしずく」と名付けられているのがあり、おそらく道内の道の駅のトイレでは最高級のものであろう。それは次の内のどれか。

①恵山町「なとわ・えさん」
②大樹町「コスモール大樹」
③喜茂別町「望羊中山」
④美幌町「ぐるっとパノラマ美幌峠」

Answer

③喜茂別町「望羊中山」

 中山峠の頂上、道の駅に総工費二億六一〇万円を投じて造られたトイレ「森のしずく」が、平成六年十二月十五日に完成した。おそらく道内の道の駅のトイレでは最高額のものであろう。年間の入り込みが五五〇万人とも六〇〇万人にも及ぶというこの「中山峠」である。昭和五十八年に喜茂別町が峠のこの頂上に公衆トイレを設置して、利用者の便宜を図ってきたが、ゴールデンウイークやお盆などでは、三〇分待ちの行列ができたものであった。
 この新しいトイレは、鉄筋コンクリート造りの平屋建てで、建物の延べ面積が二七七・七㎡、男子用小便器一〇基、大便器五器(和三、洋二)、女子用が一八器(和一一、洋七)、身障者用一器と、従来のものより二一器増えたものである。
 工事費が高額になった理由は、付近の景観に合うような外壁をタイル張りにし、天井を高くしてシャレタ雰囲気に造ったためとされる。全館床暖房で、汚水の再利用システムを導入したり、また省エネを考えてセンサーで照明を点滅するほか、夜間専用のトイレも造り、利用者が少ない場合は、この部分だけ使うということにしている。トイレの入口付近には休憩コーナも設けられていて、観光ポスターを張ったり、イベント情報を置いたりして観光PRもしている。立派で綺麗なトイレであるということから、日本トイレ協会選考による「グッドトイレ一〇」にも選ばれた。喜茂別町では、この豪華町営トイレが自慢のものであって、その名も「森のしずく」としゃれている。このトイレのネーミングは、八八〇点の応募の中から選ばれたもので「中山峠は森林が多く、また高地のため霧の発生も多い。樹木の葉にしずくがしたたるイメージ」としたものである。またベビーべッドなども設け、使い勝手を良くしたうえ、音楽を流してゆったり利用してもらうというものである。

Question 147

 この駅は秀峰駒ヶ岳を望むビューポイントの国道沿いにあり、樹木も多く、噴水広場もあって、暑い夏は最高の休憩所とされ、ドライブ疲れを癒すには好適な場所ともされる。また二階の展望ラウンジからの雄大な眺めは格別とされる道の駅は、次のうちのどれか。

①森町「YOU・遊・もり」
②砂原町「つど~る・プラザ・さはら」
③豊浦町「とようら」
④壮瞥町「そうべつ情報館i(アイ)」

Answer

①森町「YOU・遊・もり」

 秀峰駒ヶ岳と噴火湾を望む国道五号沿いの景勝地にあり「入リロゲートを通ると、総面積一七㏊もの広大なオニウシ公園が迎えてくれる。国道からはわからないが、公園はかなりの下り斜面になっていて展望がいい。市街地の向こうに内浦湾、天気の良い日は羊蹄山まで見えるのだそう。樹木が多く桜の名所としても人気のある所だ。噴水広場もあり、暑い夏は最高の休憩所。ドライブ疲れを癒すには、ここで時間を割いていきたい。…右に物産館、左にトイレ。この二つの縦長の建物の間をゲート状につないでいる所が〈休憩室兼展望ラウンジ〉という、モダンでおしゃれな造りの道の駅だが、この展望ラウンジの存在を知らないで通過している人が多い。階段を上らなくてはならないが、両サイドが総ガラスの部屋からの眺めは気分を爽快にしてくれる。物産館には休憩スペースがないだけに、ソフトクリームでもなめながらゆっくりしてほしい」とされている。
 裏手にある桜の名所オニウシ(アイヌ語で森の意)公園の散策もおすすめという。オニウシ公園には五百本のソメイヨシノがあり、近くの青葉ヶ丘公園とともにシーズンには花見客でにぎわう。ソメイヨシノは「町の花」で、園内には噴水広場、遊具施設がそろい、静かな雰囲気は休憩に最適とされる。
 平成七年十月のオープンで、物産館は特産品の海の幸、山の幸が豊富である。しかしなんといっても森町の代名詞となっている「いかめし」は有名である。もともと駅弁から評判を呼んだご当地・阿部商店手作りの味であり、この元祖いかめしは、今もJR森駅のキヨスクと駅前の柴田商店で売っている。
 道の駅スタンプに登場する「ひじかた君」は、新撰組副長として名高い土方歳三のこと。榎本武揚
が率い、土方も加わった旧幕府艦隊は、一八六八年八月、同町鷲の木から上陸、箱館戦争へと進軍した。上陸の地は道の駅から車で数分、資料館もある。

Question 148

 国道を走っていると、直径一〇mの大型水車が見えてきて、道の駅の目印にもなっている。平成五年に一次認定された道内一四個所の道の駅のうちの一つで、「一期生」として先頭を走ってきた道の駅は、次のうちのどれか。

①小清水町「はなやか小清水」
②長沼町「マオイの丘公園」
③三笠市「三笠」
④占冠村「自然体感しむかっぷ」

Answer

③三笠市「三笠」

 北海道第一号の道の駅。道の駅制度が始まった平成五年には、すでに公営ドライブインとして営業しており、一番先に名乗りを上げた。炭鉱閉山後の地域振興策の一つと建設された〈サンファーム三笠〉が前身で、今も道の駅裏には観光農園がある。札幌―旭川をむすぶ大動脈・国道一二号に面し、「望羊中山」と並ぶ集客力を誇っている。当初この〈農の館〉前にある巨大水車が人目を引き、話題にもなっていたが、周辺の開発が進み、往時の存在感はない。大型車を操る陸送ドライバーにとって、ここは貴重な休憩場所。ここを過ぎれば札幌圏に抜けるまでは道の駅がないのだ。一般車と分けて大型専用の駐車場が用意されているのもそのためらしいものである。
 レストラン「しいたけ飯店」は、道内の道の駅の中でも知られた中華料理店であり、本場のコックを招いて本格的な料理を出している。
 三笠市は幌内炭鉱によって生まれ、発展したまちである。日本で三番目に鉄道が引かれ、義経号が石炭を満載して走った。労働力確保のため空知集治監も建てられた。こんな特異な歴史をのぞきに〈三笠鉄道記念館〉や〈市立博物館〉を訪ねてみたい。〈桂沢湖〉で遊ぶよりは、きっと楽しいと思う人たちも多い。
 なお、三十分ほどの距離にある桂沢湖の周辺には、アンモナイトや恐竜など、道内有数の化石の産地としても知られる。三笠市立博物館のコレクションは世界に誇れる充実ぶりで、地元で採取された数多くの化石が観察でき、ぜひ立ち寄りたい。
 この道の駅のサンファーム三笠には、農業体験施設もあり、開拓当時の農機具や、水車の粉ひきを見学できる。なんといってもこの「道の駅」は、道内〈道の駅〉登録第一号であることが、地元の自慢の一つでもある。

駅逓所関係

Question 149

 この道の駅は、現役のJR駅の駅舎を兼ねる道内の駅のなかでもユニークな存在である。木をふんだんに使ったおしゃれな外観の建物は、ともすれば競合する間柄の道路と鉄道とを結びつけている。それは、次のうちのどれか。

①女満別町「メルヘンの丘めまんべつ」
②斜里町「うとろ・シリエトク」
③厚岸町「厚岸グルメパーク」
④小清水町「はなやか(葉菜野花)小清水」

Answer

④小清水町「はなやか(葉菜野花)小清水」

 緩やかなカーブを描いて、どこまでも続く海岸。感動して走っていたら、JR釧網線の浜小清水駅舎を兼ねる道内の道の駅の中で、ユニークな存在の建物が見えてきた。夏は原生花園、冬は白鳥でにぎわう国道二四四号沿いにある駅であり、駅から三㎞ほど網走側に、六月から八月にかけてオホーツク海と濤沸湖にはさまれ約八㎞の砂丘草原約七〇種類の野生の花が咲き乱れる「小清水原生花園」や白烏などの水鳥が集まり、バードウオッチングに最適な「濤沸湖」があり、網走国定公園の観光スポットになっている。遊歩道をのんびり歩けばオホーツクの景色を満喫できる。
 国道沿いの砂丘にクロユリやセンダイハギなど約四〇種類の花々がみられる小清水原生花園は有名であり、観光施設も整っている。インフォメーションセンターにはパソコンで検索できる花図鑑や花占い、花畑や流氷などの画像をバックに記念写真ができる〈バーチャルスタジオ〉も。それに毎年四〇〇〇羽ものオオハクチョウが飛来する濤沸湖、一〇㎞ほど先には約七〇〇万輪の世界のユリが咲き誇る〈リリーパーク〉などがある。寄り道にお勧めなのは〈じゃがいも街道〉で、沿道のジャガイモの花もいいけれど、季節の野菜が格安で買える〈農産物直売所〉が見逃せない。アスパラやキュウリ、トウキビなどが産直ならではの値段で手に入る。また、カサブランカ、ポリアナなど一〇〇種類以上の世界のユリが咲き競う〈リリーパーク〉も必見とされる。
 なお先般、JR北海道が世界で初めて実用化に成功した、線路と道路の両方を走るDMV(デュアル・モード・ビークル)の試験的営業運行を平成十九年四月から開始。九月までは小清水町にある浜小清水駅と網走駅で発着したことが、話題を呼んだ。なお平成十七年には濤沸湖がラムサール条約登録湿原となる。

Question 150

 かつてNHK朝のテレビ小説「君の名は」のロケで日本中の注目を集め、一躍観光の名所となった所で、今も年間一〇〇万人以上の観光客が訪れるという、峠の頂上にある道の駅は、次のうちのどれか。

①美幌町「ぐるっとパノラマ美幌峠」
②東川町「ひがしかわ道草館」
③美瑛町「びえい丘のくら」
④滝上町「香りの里たきのうえ」

Answer

①美幌町「ぐるっとパノラマ美幌峠」

 美幌峠は、眼前に屈斜路湖や硫黄山、斜里岳を見渡すダイナミックなパノラマが広がる。国道二四三号が屈斜路湖を過ぎると、一路、美幌峠に向かう。標高五二五m、峠の頂上にある道の駅だ。NHK朝のテレビ小説〈君の名は〉のロケで日本中の注目を集め、一躍観光名所となった所で、いまも年間一〇〇万人以上の観光客が訪れる。当時のレストハウスは平成十四年に改築され、モダンな造りの道の駅になり、一階はレストラン付き物産館、二階は撮影に使われた幌馬車やスチール写真、美空ひばり(演歌「美幌峠」を美幌観光和牛まつりで発表)の直筆の手紙などが展示された休憩所になっている。駅舎裏の道から階段を登る展望台があり、そこから屈斜路湖や周囲の山々を一望する景観はまさに〈ぐるっとパノラマ〉だという。山頂に美空ひばりの歌碑が建てられ、歌声が流れている。「道の駅を会場に〈美幌峠まつり〉が観光シーズン幕開けの五月に行われ、一年の無事を祈願するアイヌ民族舞踏が奉納される。ここではまた、元旦には〈美幌峠初日の出フェスティバル〉も行われるので感動を与えてくれる。
 この屈斜路湖は「幻の怪獣クッシー」が住むという湖であり、昭和四十八年の夏、北見の中学生が藻琴山からこの湖を眺めていたところ、突然異様なものが白い線を湖面に引いて猛スピードで走るのを見たという。恐竜の話が突然降ってわいたように出て、目撃者が相次いで名乗りをあげ、夢をうむことになった。「モーターボートではないか」と調べたが、この時間には走っていなかった。体長は一〇~一五m、背中にコブがあり、首は長くて頭が丸かった。この話は観光ベースで忽ち広がり「クッシー」と名が付けられ、美幌駅前に長い首をもたげた木彫りのクッシー像が飾られている。

美幌峠にさびしくもあるか夕月は しらじらとあり風に澄みつつ      ―橋本徳寿

Question 151

 夜空が美しいこの街に「星の降る里」のキャッチフレーズを冠した道の駅がある。かつて多くの炭鉱で栄え賑わっていたが、次々に閉山し「炭鉱から観光へ」の合言葉で、様々な試みがあり、この道の駅もその一翼を担っている。それは次のうちどれか。

①芦別市「スタープラザ芦別」
②歌志内市「うたしないチロルの湯」
③奈井江町「ハウスヤルビ奈井江」
④白糠町「しらぬか恋問」

Answer

①芦別市「スタープラザ芦別」

 芦別市内に入ると、国道三八号が二つに別れ、空知川沿いに走るバイパスは国道四五二号になっている。道の駅はこれに面しており、背後に空知川を渡る風に涼みながら、目を正面に向けると、対岸には大仏像や五重塔が見え、北の京芦別の雄大な景観が広がる。
 中心施設は、農産物・特産品の販売所や、レストラン、観光物産センターである。芦別は最盛期に五つの炭鉱で賑わって石炭のまちであったが、平成四年に三井芦別鉱の閉山で基幹産業のひとつを失った。「炭鉱から観光のまちへ」を合言葉に様々な試みがあり、この道の駅もその夢の一翼を担うものである。
 物産センターの隣に「星の降る里百年記念館」があり、ミニプラネタリウムや炭鉱のマジックビジョン、芦別ゆかりの作家、歌人の貴重な資料が展示さていて、まちの歴史や文学、自然の素晴らしさを知ることができる。特にパソコンを使って星座観察のできる〈スタードーム〉は子供にも大人にも人気がある。
 〈星の降る里〉づくりを進めるこのまちには、道の駅スタープラザ芦別をはじめ、温泉が星遊館、ホテルがスターライトなど、星にちなんだ名称がぞくぞく誕生。環境省からも〈星空の街〉として認定されている。また、駅の利用者の多くが立ち寄るトイレは、ふるさと創生基金一億円を投じて誕生、トイレ棟も、星形になっているという。
 芦別市は全街の九割近くを山林が占める。大正から昭和にかけて有数の産炭地だったが、閉山後は「星の降る里」を掲げ観光や合宿誘致など交流人ロの増加に努めている。星空の美しさはもちろん、自然公園やオートキャンプ場、パークゴルフ場など多くのレクリエーション施設がある。

Question 152

 港を渡る風が頬に心地良い。港をまたいで架けられた大橋のプロジェクトを後世に伝える橋の記念館が道の駅として開放され、二階ラウンジから見るライトアップされた橋の美しさは格別とされる道の駅があるが、次のうちどれか。

①根室市「スワン44ねむろ」
②知内町「しりうち」
③室蘭市「みたら室蘭」
④紋別市「オホーツク紋別」

Answer

③室蘭市「みたら室蘭」

 白鳥大橋のたもとに広がる一大プレーゾーンの入り口に、この「道の駅」がある。別名を白鳥大橋記念館ともいい、平成十年六月に開通した大橋を記念する資料館でもある。一階の資料展示室では、動く模型やパネルで全長一、三八〇mの関東以北最大の吊橋の全貌を紹介、構想から四〇年、着工から一四年の歳月をかけた橋造りのドラマがよみがえる。港の歴史を学べる二階の展示室と合わせて、港まちの今昔に思いをはせてみるのもいい。
 同じ二階の展望デッキからは、大橋と港の風景を手前に置いて有珠山や昭和新山、羊蹄山が遠望できる。駅のそばに風力発電機が二基そびえ、橋のライトアップや家庭用電力に活用されている。駅裏手の一八ホールのパークゴルフ場はこの電力を使ったナイター設備付きとなっている。駅では一階ラウンジで簡単な軽食と土産物のショッピングを楽しめる。土産物売場で、お客の関心を集めているのが「ボルタ」と名付けられたボルトやナットを組み合わせて作られた人形であり室蘭の文化「鉄」をキーワードに街おこしを!と集まった人たちの手作りのものである。多くのマスコミにも紹介され、一番売れ筋のヒット商品になっている。
 すぐそばの「むろらん屋台村」では、道の駅の食を補完してくれる。家族そろってラーメンや生ビールもいい。向かいには室蘭水族館があり、ダイナミックなトドのジャンプを堪能したあと、観覧車や豆汽車にのって、ぐるりと一巡すればレジャー気分は十分に満たされる、老若男女とも遊び心が刺激される立地になっている。

金屏風銀屏風岩巡らせて 白鳥湾に夢の大橋           ―平田美和子
鮮やかに白鳥大橋の橋脚が タ陽のなかにシルエットなす     ―阿部 俊枝

Question 153

 廃止されたJR線の「駅」の跡にできたのが、この道の駅である。鉄路が消えて駅は、その代替バスのターミナルになり、ドライバーのための「道の駅」も兼ねる施設になった。それは次のうちのどれか。

①佐呂間町「サロマ湖一
②西興部村「にしおこっぺ花夢」
③湧別町「愛ランド湧別」
④興部町「おこっぺ」

Answer

④興部町「おこっぺ」

 オホーツク海沿岸を北上する国道二三八号が興部で分れ、内陸に向かう国道二三九号に、かつて旧国鉄の鉄道があった。昭和六十四年に廃止されたJR名寄線の「興部駅」の跡にできたのが、この道の駅「おこっぺ」である。
 鉄路が消えて駅は、その代替バスのターミナルになり、ドライバーのための「道の駅」も兼ねる施設になった。興部の市街地中心にあるこの場所は、地域の歴史の移り変わりを象徴している。
 駅舎のなかにある鉄道記念コーナーには、当時の歴史をつづったパネルなどを展示した「鉄道歴史展示コーナー」があり、名寄線を走る列車の勇姿をとどめるパネル写真や、駅員の制服も展示されている。
 また裏の公園ジョイパークにはディーゼルカーを改造した簡易休憩所「語らいの舎」と簡易宿泊所「出会いの宿」なる二つの車両を用意するなど、国鉄時代の遺産を大切に活用している。無料で利用することができライダーやチャリダーのオアシスになっている。照明はもちろん、携帯やデジカメの充電もできるコンセント、洗面台、トイレも付いている。
 バスターミナルと兼用の道の駅だが、向かいに特産販売所もでき、そばなどが食べられる喫茶コーナーもある。
 興部町は大正時代からの酪農家が現存するほど、北海道でも早くから牛飼いに取り組んできた町で、市街地の小高い丘には、地元の人が「モーモー城」と呼ぶオホーツク農業科学センターがあり、北欧の城とサイロをドッキングしたようなたたずまいを見せている。酪農王国興部のシンボルで、ここをバックに記念撮影を行う観光客も多いとされる。また沙留海水浴場のそばに開拓発祥の地碑が建っている。

測量関係

Question 154

 「雄大な自然と向き合って胸打たれる感動を経験したいなら、流氷に会いにいくといい。日々の細々とした悩みは吹き飛んでしまいそうだ。その流氷について様々な角度から知ることができるアカデミックな〈道の駅〉がある」が、それ次のうちのどこか。

①湧別町「愛ランド湧別」
②斜里町「うとろ・シリエクト」
③紋別市「オホーツク紋別」
④佐呂間町「サロマ湖」

Answer

③紋別市「オホーツク紋別」

 オホーツク海の沿岸を走る国道二三八号が紋別市に入り、山側に迂回する場所がある。浜辺に人家が密集しているからだが、紋別がいかに紋別港を中心に発達したまちであるかがわかる。かつては松前藩の宗谷場所として栄え、今も世界の三大漁場といわれるオホーツク海の重要港湾であり、国際貿易港にも指定されている。活カニの輪入量が日本一で、カニやホタテなどの水産加工場も多い。
 道の駅は国道二三八号から紋別港に向かう道道沿いにあり、なんと〈北海道立オホーツク流氷科学センター〉が道の駅。付近には〈氷海展望塔オホーツクタワー(オホーツク海の約一㎞沖にそびえる世界初の氷海海中展望塔)〉(ガリンコ号の基地でもある)や〈とっかりセンター(アザラシだけを飼育する国内でも珍しい施設)〉などが集まる同市の観光拠点になっているエリアだとされている。
 雄大な自然と向き合って胸打たれる感動を経験したいなら、流氷に会いにいくといい。どこまでも広がる白く凍結した海を見たら、日々の細々とした悩みは吹き飛んでしまいそうだ。その流氷について様々な角度から知ることができるアカデミックな〈道の駅〉だ。一九九一年(平成三年)に開館した〈オホーツク流氷科学センター〉が道の駅を兼ねるようになったのが九五年。以来紋別の流氷観光の拠点の一つになっているともされている。
 流氷科学センターの展示室に入ると、暑い夏でも本物の流氷の神秘やマイナス二〇℃の寒さを体験できる厳寒体験室や、流氷発生のメカニズムを紹介した資料を見ることができる。道の駅のオホーツク流氷科学センターは、三階建て。一階には流氷原が全天周映像で見られるホールや、ガリンコ号の装置など、地階は厳寒体験室で氷漬の魚が並ぶ流氷水族館も。三階は展望台となっている。

Question 155

 この道の駅は、秋から初冬にかけて鮭の捕獲風景が観察できる公園施設が、そのまま道の駅となっていて、淡水魚の水族館やレストラン、土産物店もある。この駅は地理的条件も良いことから、多くの観光客が訪れるが、それは次のうちのどれか。

①羅臼町「知床・らうす」
②根室市「スワン44ねむろ」
③千歳市「サーモンパーク千歳」
④大樹町「コスモール大樹」

Answer

③千歳市「サーモンパーク千歳」

 この道の駅は、JR千歳駅に近く、空知管内長沼町を経て小樽市とを結ぶ国道三三七号沿いにあり、支笏湖、樽前山方面のドライブ、千歳空港の送迎の途中に立ち寄るには最適な場所である。
 秋から初冬にかけてサケの捕獲風景が観察できるインディアン水車公園にあり、支笏湖を源流とする千歳川の親サケ捕獲のための「インディアン水車」で知られる公園施設が、そのまま道の駅になっている。淡水魚の水族館「千歳サケのふるさと館」やレストラン、土産物店があり、平成十七年六月に道の駅に加わった。
 秋にはサケが遡上する清流沿いの公園内には、せせらぎ水路や池、噴水、ちびっ子広場があって散策が楽しめる。平成六年開業のメーン施設「サケのふるさと館」は、淡水では国内最大級の巨大水槽(高さ五m、幅一二m)や、千歳川の魚の生態が見られる水中観察室がある。シロチョウザメやイトウが悠々と泳ぐ巨大水槽は迫力があり、多くの入館者がある。道の駅のメーン施設は、一番奥にある〈千歳サケのふるさと館〉で、鮭をはじめ、千歳川に棲むいろいろな魚たちの生態が間近に見られ、興味深い。夏もヒンヤリとする地下に降りていくと、千歳川の川底までがガラス壁で被った水中観察室があり、秋には迫力ある鮭の遡上が観察できる。ここは観光拠点にもなっているが、サーモンパークの、施設を巡ると、鮭と自然を学びその恵みに思いを新たにできる。園内のショップでいろいろな鮭のフードが賞味できるのも魅力だ。近くに、子供たちが交通ルール学べるユニークな〈交通公園〉もあり、自転車やゴーカートを無料で貸出していて、秋のサケ捕獲シーズンは、観光、行楽客らで大混雑となる。
 千歳サケのふるさと館がメーン施設だが、道の駅スタンプや観光パンフなどは駐車場前のレストラン「さもん」内にもある。

Question 156

 この道の駅はちょっと変わっていて、大きな館内には、休憩・情報サービスのほか喫茶店、ショッピングセンター、そば屋、それに酒屋、理髪店、郵便局なども入っていて「地元商店街がすっぽり納めたような街のよう」とされるが、それは次のうちのどれか。

①新冠町「サラブレッド新冠」
②大樹町「コウモール大樹」
③日高町「樹海ロード日高」
④士幌町「ピア21しほろ」

Answer

③日高町「樹海ロード日高」

 深い森の中を抜ける通称「樹海ロード」と呼ばれる日高町の国道二七四号のこの峠は、日高山脈の奥深さを満喫させてくれる絶景が魅力である。しかし急カーブの連続で、ドライバーにとっては疲れる道である。そこで安全運転のために一休みが必要である。そんな時に、ちょうどよい場所がこの「道の駅」とされる。
 札幌と十勝地方を最短距離でつなぐ国道二七四号にあるこの「道の駅」はドライバーの難関〈日勝峠〉を登る前の休憩ボイントであり、無事通過した後、ほっと一息入れる場所でもある。それに館内の休憩コーナーには、北海道開発局の大きなモニターTVがあり、日勝峠の道路や気象の変化をリアルタイム映像で流している。
 この駅はちょっと変わっていて、大きな館内には、休憩・情報サービスのほか喫茶店、ショッピングセンター、そば屋、それに酒屋、理髪店、郵便局なども入っている。「地元商店街がすっぽり納めたような街のよう」とされ、隣接した敷地には、和食、寿司、天麩羅、コンビニ、Aコープなどもあって、店舗の種類の多さには驚かされ、ここにくれば、たいがいの用事は済ませられる、というのがコンセプトになっている。「ふるさと情報コーナー」では案内人がいて、周辺観光スポットやイベント情報などを親切に教えてくれる。
 道の駅裏の〈日高山脈館〉は、コンパクトな四階建てで、一番上が展望台。一階はジオラマなどで日高山脈の自然や登山ルートを紹介しているが、二~三階は石だらけ。花崗岩や、かんらん岩、蛇紋岩、日高産の宝石として騒がれた〈ヒスイ〉の原石もある。日高山脈で採取された岩石のきれいな断面も見られ、地質学的な解説も付いている。これで太古の地球がわかる?とされている。

Question 157

 この道路沿道には有力な牧場が並び、多くの観光客が集まる「名馬の古里」のシンボルにもなっていて、この町が生んだ怪物と呼ばれた、名馬の等身大馬像も立っている「道の駅」があるが、それは次のうちのどれか。

①新冠町「サラブレッドロード新冠」
②鵡川町「むかわ四季の館」
③三石町「みついし」
④白糠町「しらぬか恋問」

Answer

①新冠町「サラブレッドロード新冠」

 太平洋沿いに続く国道二三五号、沿線には有力な牧場が数多く並び「サラブレッドロード」とも呼ばれている。競馬ファンはもちろんのこと、全国各地から多くの観光客が集まる「名馬の古里」のシンボルともなっているのが、この道の駅である。近くまでくると目に飛び込んでくる大きな展望塔がある。「優駿の塔」とも呼ばれる高さ三六mのこの塔は、道の駅に隣接する「レ・コード館」のシンボルにもなっている。平成九年隣接するレ・コード館と同時にこの道の駅はオープンした。駐車場のそばのタワー前には、怪物と呼ばれ、国民的ヒーローであった競争馬ハイセーコーの実物大像がある。この町はハイセーコーはじめ、ナリタブライアン、トウカイテイオーなど、日本競馬史に残る名馬を輩出した馬産地なのだ。今も沿道周辺には、軽種馬の育成牧場が数多くあり、中山をわかせた往年の名馬たちが余生を送る姿がみられる。そんな牧場の間を通る〈サラブレッド銀座〉も設けられ、八㎞ほど先の終点には駐車公園も。緑の季節なら素晴らしい放牧風景の写真が撮れる撮影ポイントである。
 レ・コード館は、全国から寄贈を受けた七二万枚にも及ぶレコードを整理・保管し、来館者に公開している。この愛蔵版の中から希望の曲を選び最高の音楽環境で聴くこともできる。簡単なリクエストでリスニングブースが借りられるのだ。また、名盤レコードを閲覧したり、ミュージアム(有料)で世界的にも貴重な蓄音機(レコードのルーツ)の見学もできる。いろいろなミュージシャンの演奏を、音と映像で楽しむことのできるハイビジョン対応シアターなども。入り口左が図書館プラザで、図書類はもちろん新聞や維誌なども自由に読める。情報収集や休憩にも便利である。
 また、若いカップルや壮年の夫婦らが馬像を眺めたり音楽にゆっくり聴きいったり、ここでしか得られない豊かな休日を満喫している。

▲余記―道の駅

 いま、道路のあり方も物流主体の考え方から転換し、ドライバーの安全や休憩、景観などに配慮した整備が進められている。道の駅もそんなインフラ整備の一つと言えるとされる。
 北海道の道の駅の登録数は平成二四年三月現在一一四箇所となっている。道の駅を巡るフアンが増えている。「道の駅を訪ねながら、土地の美味しいものや、人とのふれあい、美しい景観に〈シーニックデッキ〉や〈シーニックカフェ〉で一息入れる、といった、環境づくりも進められている。ドライブ観光の近未来が、北海道から見えてきたのかもしれない。豪華でリッチな観光の仕方もいろいろあるが、道の駅を巡りながらドライブを楽しむ観光も捨てたものではない。特別な準備をしなくても、自由な時間があれば、スーと日常のしがらみから抜けだせる。沿道の町や村の景観や文化施設を楽しんだり、ご当地グルメや温泉など、大して費用をかけなくても観光ができるのだ」。道の駅のスタンプラリーの応募者も、一時期(平成十三年ごろ)は、七〇駅位であったが「四人交代で夜通し運転で三日間で完全制覇したという若者グループもあったとされる。当時は二四時間スタンプを押せる対応をしていてスタンプ帳も無料であった。やがて営業時間内だけとなり、スタンプ帳も有料となってラリー応募者は減少となったが、記念品としての収集マニアもまだ、かなりいるという。またスタンプだけでなく、道の駅プレート(マグネットの金属板でデザインがいい)や、道の駅記念切符(鉄道の切符と同じデザイン)があり、三点セットで集めスクラップするのが静かなブームにもなっている。

峠関係

Question 158

 毎年新春の行事として「歌会始(うたかいはじめ)の儀」が、皇居・宮殿の「松の間」で行われる。平成十年のお題は「道」であり、天皇、皇后両陛下をはじめ、入選者の歌が古式ゆかしく朗詠された。この中に、皇族の方が北海道の「峠」を詠まれたものがあるが、それは次のうちのどれか。

①小樽市札幌市間「朝里峠」
②小樽市赤井川村間「毛無峠」
③中川町「志文内峠」
④愛別町上川町「越路峠」

Answer

②小樽市赤井川村間「毛無峠」

 新春の行事として「歌会始の儀」が、平成十年一月十四日に、皇居・宮殿の「松の間」で催された。今年のお題は「道」であり、天皇、皇后両陛下をはじめ、二万首を超える一般応募から選ばれた入選者十人の歌が古式ゆかしく朗詠された。両陛下や皇族の向かいに、招かれて歌を詠む召人の橋本四郎平や入選者が着席、節を付けずに詠む講師(こうじ)、第一句を節付きでとなえる発声などによって披露される。傍聴したのは府県知事や、各界代表など約八十人で、道老人クラブ連合   会長(伊藤吉太郎・赤平市)や北海道護国神社宮司(岡崎義徳・旭川市)ら道内関係者の姿もあった。
 天皇陛下の歌は、昨年十一月に、東京大の創立百二十周年記念展を見て詠んだものである。
大学の来(こ)しかた示す展示見つつ 国開(ひら)けこし道思ひぬ
常陸宮は、以前小樽を訪れた時のことを歌にしたものである。
雪つもる毛無峠の道をきて 小樽の町の赤き屋根みゆ

 毛無峠は、国道三九三号で、小樽から赤井川村に抜けるとき、毛無山(五四八m)の横を通る。毛無山とは妙な名前であるけれど、本州にも毛無山というのがあるという。この語は、アイヌ語のケナシ(木や林のある野や原)から来ているともいう。確かに毛無山は樹木に覆われている。朝里から望洋パークタウンを抜けて国道三九三号に入り、急カーブの続くところを登って行くと、カーブの最後の辺に展望台がある。確かにここからの眺めは良い。小樽の市街や小樽港その外に続く石狩湾とパノラマが広がる。峠の広場には、測量の日を記念した標石があり、緯度・経度と高さが刻まれている。峠の高さは四六七・五六九mとある。

Question 159

 今日も一面を覆いつくす広大な熊笹とハイ松の緑が波打つなかを走って、峠に観光バスが到着する。観光客は展望台と土産物店に殺到する。正装したアイヌが観光客に声をかける。観光客の多くは、この峠からの「天下の絶景」を楽しむ。この峠は次のうちどこか。

①千歳市大滝村間「美笛峠」
②小清水町弟子町間「野上峠」
③津別町阿寒町間「釧北峠」
④美幌町弟子屈町間「美幌峠」

Answer

④美幌町弟子屈町間「美幌峠」

 この峠からの眺めについて、美しい笹山の黄緑色の起伏。さびさびとしたとど松の黒い緑をこえて遠く雲上に抜き立つ大雪の山々、この絶対ともいうべき高原の雄大さは、深く人の魂に泌みいるものがあると、屈斜路湖を背にして立つたときの景色がPRされている。たしかに湖を背にして美幌町の方を見ると、ゆるやかにうねる笹原、薄い黄緑色のところどころに、赤蝦夷松の濃い緑があり、なんともいえない。
 夏の間は霞んでいる目の多い空が、冬は明るく澄み切った青になり、湖もコバルトブルーに染まる。湖が全面凍結する厳冬期には、樹氷がダイヤモンドのようにきらめく。山並みを越えて、オホーツク沿岸の流氷が見えるのもそのころだ。冬は静寂の世界。白とブルーの幻想的な景観が広がる別世界であると、観光客の去った十月末の峠がこのように語られている。平成二年に美空ひばりが歌った「美幌峠」の歌碑が峠の頂上に建てられていて、歌声が流れる。
 標高四九三mのこの峠は、さして高い峠ではないが、その眺望の素晴らしさから、北海道を訪れる観光客の多くは、必ずといっても良い位にこの峠からの「天下の絶景」を楽しんで次の目的地へと向かう。今日も一面を覆いつくす広大な熊笹とハイ松の緑が波打つなかを走って、峠に観光バスが到着する。観光客は展望台と土産物店に殺到する。正装したアイヌが観光客に声をかける。ガイドは展望台に着くと「皆様、眼下にご覧になれますのが屈斜路湖でございま~す。周囲五七㎞・面積七九・七㎢、最大深度一一七・五m、水面の海抜が一二一m…陽光によって湖面の色が微妙に変幻いたしま~す。…」。原始の中に開かれた一本の道は、クッシーの浮上で健在ぶりを見せる。メロドラマが、怪獣が道の歴史を綾なす。その峠にこの夏約百万人の観光客が立った。そして見事なまでデッカイ景観に誰もが心をゆさぶれたものである。

Question 160

 北海道の国道で、道内一を誇る峠道がある。大自然の雄大さを感じさせてくれ「そそり立って三方を囲むこの山並みの量感が、押しつぶされそうにせまってきて…まるですさぶる神の創った巨大な半円劇場のようだ」とされるこの峠は、次のうちのどれか。

①国道三九号「石北峠」
②国道二三〇号「中山峠」
③国道二七三号「三国峠」
④国道二七四号「日勝峠」

Answer

③国道二七三号「三国峠」

 この峠は、国道二七三号の上川町~上士幌町を結ぶ、起伏の激しい山岳地帯十勝と上川の境界にある標高一一三九mの峠である。車の通る峠としては道内一の高さを誇り、大自然の雄大さを感じさせてくれる。ここの山腹を抜いた三国トンネルすなわちこれが三国峠である。この峠の頂上からは、眼下に青黒い原生林がなだらかに広がっている。昭和三十六年に十勝三股からと、翌三十七年に三国トンネル入り口からからと工事に着手し、道内で一番高い所に延長一、一五二mのトンネルを上川町から片押しで掘り進め同四十七年に一般車両が通行できるようになった。厳しい自然環境のため、作業は困難を伴った。鬱蒼たる原始林、早い降雪と遅い融雪により、資材の運搬等に大変な苦労があった。
 この大雪国立公園を貫通した道路の開通により、上川の米どころと、十勝の豆どころを結ぶ農産物の交流、大雪山公園の未開発森林資源の開発、層雲峡~糠平温泉~阿寒~摩周という新しい観光コースが誕生し、関係町村の喜びは大きなものがあった。しかし急カーブと急勾配が連続し、かつ多雪地帯でもあって、冬期間の交通止めが余儀なくされていた。
 平成六年沿道住民の悲願であった通年通行が実現となる。峠の頂上には休憩所が設置され、観光客に熱気球の町・上士幌をPRする。ここでは町の物産の販売のほか、パンフレットなどが置かれているだけである。峠からは「右手にニペソツ山、ウペペサンケ山など東大雪の山々、左手に通称オッパイ山の二つのピークが見える。その間を開拓以前の十勝を思い起こされる樹海が広がる」。堀淳一は「ここに立って北を仰いだときに東大雪山地の圧倒的な量感と人跡稀な原始林の寂寥感とがよび起こす、何ものかに打たれたような感慨は、昔と少しも変わらないのである。そそり立って三方を囲むこの山なみの量感が、押しつぶすようにせまってきて…それはまるですさぶる神の創った巨大な半円劇場のようだ」と描写している。

Question 161

 この峠は、オホーツク海沿岸と、上川、十勝地域を結ぶ幹線道路国道の峠であり、かつては険しい道路であったが、峠を貫くトンネルが開通し、峠の広場は付近の湿原の探索や、登山のベースキャンプ場所としても利用されている峠は、次のうちのどれか。

①上川町留辺蘂町間「石北峠」
②滝上町上川町間「浮島峠」
③佐呂間町常呂町間「仁倉峠」
④幌加内町美深町間「美深峠」

Answer

②滝上町上川町間「浮島峠」

 「浮島峠」はオホーツク海沿岸と、上川、十勝地域を結ぶ幹線道路国道二七三号にあり、網走管内の滝上町と上川管内の上川町の境界に位置する。峠の名の由来は、標高八七〇m地帯の高層湿原に大小一〇〇位の沼が散在し、沼には水苔や幌向苔が団塊状に集まって、島みたいに浮いているので、いつとはなしに「浮島」と呼ばれようになり、そのまま「浮島峠」と呼ばれるようになったとされる。
 従来道路の峠の標高は八八七m、最小半径一〇m、最急勾配も一〇%であったので、昭和五十九年にこの峠を貫く延長三、三三二mの浮島トンネルが完成、標高も七〇〇m、最小半径一六〇m、最急勾配も二・五%と改良された。本格的な道路改良は、昭和五十年に着工、トンネル本体は同五十九年に完成し、このトンネルの開通によって交通量は二倍にも伸び、地域活性化は広範囲に及んだ。
 昭和六十年にトンネル網走側に「浮樹浮木LAND」という施設が設けられた、この施設の中央には直径一一m、高さ一三mのドーム型ロッジが設けられている。ロッジの中央に螺旋階段があり、トンネル工事の様子を紹介するビデオや、工事のパネル、掘削岩石の標本が展示され、また売店が設けられている。最上部は展望台となっていて、付近の景観を展望できるようになっている。
 紅葉に映える秋の展望は最高とされて、四人用三棟のバンガローやバーベキュー用の囲炉裏、トイレ、付近の案内図なども整備され、キャンプ場ともなっている。
 町では「ここは芝桜や渓谷美で知られる滝上の観光案内所として、また家族や友人とキャンプ等、憩いの場として、そして浮島湿原へのハイキングや、天塩岳(一、五五七m)登山のベースキャンプとして、アウトドアライフ派には絶好の場」としてPRしている。上川からオホーツク圏入りしてほっとしたとこでの休憩所、家屋等のキャンプ場、浮島湿原の探索、天塩岳のべースキャンプとして、大好評の峠の広場である。

Question 162

 「眼下に十勝大平原の大パノラマが展開される。音楽が聞こえてきた。シンフォニーだ。壮大な交響曲を演じている。わたしは峠でカラヤンになった」と地元でPRしている峠があり、多くの歴史の変遷と未来を語り伝えているが、それは次のうちどれか。

①上川町留辺蘂町間「石北峠」
②日高町清水町間「日勝峠」
③南富良野町新得町間「狩勝峠」
④浦河町広尾町間「野塚峠」

Answer

③南富良野町新得町間「狩勝峠」

 この狩勝峠は、国道三八号の南富良野町と新得町を結ぶ標高六四四mで、道央と道東を結ぶ重要な路線の峠である。峠の帯広側は「日本八景」の一つに数えられていて、その眺めは雄大である。十勝平野の大平原、日高山脈、阿寒の山々、東大雪の山々、などの大パノラマが楽しめる。国道の改良工事は昭和三十九年に帯広側から着手し、同四十二年の北新得から峠までの間の舗装を最後に完成した。
 落合の方向から峠に向かって進むと、それまで原始林に遮られていた目前が急に明るくなり、峠に出た瞬間、そこに十勝の大平原が視界の中に飛び込んでくる。景色の良さは抜群で、昭和二年の「日本新八景」に選考され脚光を浴びた。峠の頂上の展望台には、野原水嶺の「朱の落暉野火あとの空そのままにけぶれり十勝はばくばくとして」の歌碑が建立されている。
 「現代の秘境、新得に棲む幻の烏『蝦夷雷鳥』。その鳴き声を聞くことができたら、もうそれだけで新得に来たかいがある」とPRする。観光協会では「石狩から車で峠にさしかかる。急に目の前がひらけ、一瞬明るさが増す、気が付くと眼下に十勝大平原の大パノラマが展開される。大自然の織りなすドラマに息を飲む。音楽が聞こえてきた。シンフォニーだ。繊細なバイオリン。優雅なクラリネット。勇壮なホルン。それらが一体となり、壮大な交響曲を演じる。わたしは、峠でカラヤンになった」と、この狩勝峠を宣伝する。峠の茶屋で食べる新得産のソバは、格別においしい。今日も釧路・帯広方面から木材・魚類などを積んだ貨物自動車や、また観光バスが、雄大な景観と錦絵を見るような十勝の大平原の展望を心ゆくまで堪能し、澄みきった青空のもと旭川・札幌方面へと走り去る。この峠道は、めまぐるしい歴史の変遷を見つめてきた。そして明るい未来を峠を訪れ人に語りかけている。

いただきのサビタの白き花嗅げば 雲の香ぞする狩勝峠        ―西村一平

Question 163

 明治が始まったころ、札幌本府建設のため札幌に向かう途中、この峠にさしかかり、その険路と風雪に難渋したとき、住民が迎えに来てくれて無事宿に着くことができた。そこで峠越えの苦難と里人たちの温情を漢詩に詠じた碑が建立されているのは、次のうちどの峠か。

①仁木町「稲穂峠」
②蘭越町「雷電峠」
③七飯町「大沼峠」
④長万部町「静狩峠」

Answer

①仁木町「稲穂峠」

 北海道開拓判官・島義勇は、開拓三神を託されて明治二年十月、仮役所であった箱館に赴任し、翌月石狩本府建設のため部下を率いて札幌に向かう。途中特に余市と仁木との境の稲穂峠では難渋する。夜に入り峠の麓にあったルベシベ通行屋の人たちが島判官一行を救うため、樺皮を松明(たいまつ)がわりとして助けにきてくれた。島はこの峠越えの苦難と、住民の温情を漢詩に残した。
 この詩は教養の高い佐賀藩士の中でも「藩主側近のエリート」であった島ならではの格調高い漢詩とされている。平成三年、仁木町の稲穂峠の頂上に、縦一m、横一・四mの黒御影石の楕円形に漢詩を彫り込んだ碑が建立された。

行盡一山還(ゆきつくすいちさんまた)一山(いちさん) 風(かぜ)寒(さむく)日暮尚躋礬(ひぐれてなおせいはんす) 隔渓忽聞豺狼吠(たにをへだてたちまちきくさいろうのほゆるを) 峰上齏然月一彎(ほうじょうそうぜんたりつきいちわん)
渓雲蔵月(けいうんつきをぞうし)暗前程(ぜんていくらく) 脚下亦聴怒水聲(きゃっかまたきくどすいのこえ) 忽喜人(たちまちよろこぶひと)携樺皮(かばをたずさえて)到(いたる) 炬光千點照吾行(きょこうせんてんわがゆくててらす)

 これは、山を越えれば山また山で尽きることがない。日が暮れて寒風の冷たさはひとしおであるが、またまた次の山をよじのぼってゆく。突如として、谷川を隔てた向こうの山から恐ろしく不気味な山犬か狼の吠える声が聞こえる。見上げる空には黒々とそびえる峰の上に、ものさびしく弓張り月が冷たく光っている。渓にかかった雲が月をかくして前路は暗い。脚下には谷川の水の音が怒るようにして聞こえるので、危険きわまりなく一歩も進まれない。困りはてた矢先、ちょうど地元の人達が樺皮を携えて迎えにきてくれ大喜びをする。これを土地の習わし通り松明代わりにすると、我々の行く手を赤あかと照らしてくれたのであるという。

Question 164

 多くの峠道の開削については、並々ならぬ尽力された人物の顕彰の碑やその像が建立されているが、その中で、代議士であった人の功績を称え、開通を記念して胸像が建てられている峠は次のうちどれか。

①国道五号「朝里峠」
②国道三九号「石北峠」
③国道二七三号「三国峠」
④国道三三四号「知床峠」

Answer

②国道三九号「石北峠」

 昭和三十二年十月、上川町と留辺蘂町の境にある標高一、〇五〇mの国道三九号「石北峠」で、工事完成の修祓式が行われた。この道路の開削は昭和十一年から始まり、第二次世界大戦で工事が一時中止されたが関係者の努力によって今回の完成となったものである。
 この道路開削に当たった代議士・尾崎天風氏に対し、上川・留辺蘂両町では、
「貴殿は夙に留辺蘂上川線の開削の重要性を認識せられ、これが実現のため長年月に渉り多大の犠牲をも忍んで努力されました。このため道路の開削は予期以上に進捗し立派な完成を見ました。その功績は寔に偉大であります。茲に開通式の佳日をトし記念品を贈り厚く感謝の意を表します 昭和三十二年十月一日 上川町長野田晴男 留辺蘂町長佐野準一郎」
として、感謝状と記念品を贈呈した。

そして峠の頂上に昭和三十四年六月、尾崎天風代議士の胸像が建立されたのであった。台座の碑文には

尾崎天風氏像 前代議士尾崎天風氏夙著目留邊蘂上川線開鑿切要冀圖此達成爾來刻苦渋淬使至見
其完成焉今業既成豈可不言氏乎開通之佳日贈壽像以披露感謝之微衷云爾

とある。北海道の屋根の下を行く大雪国道は、北海道のシンボル・ロードであると同時に、あしたの夢と期待を運ぶ大動脈である。

Question 165

 「私の一生の夢は、日本海と道央を結ぶ道路の開削」であるとし、これが開削に情熱を燃やして、その夢を達して道路は開削された。この道路開削の功労者の肖像と、その事蹟を刻んだ「顕彰之碑」が峠に建立されている。その峠とは次のどれか。

①国道二三九号「霧立峠」
②国道四十号「塩狩峠」
③道道小樽定山渓線「朝里峠」
④道道西野真駒内清田線「こばやし峠」

Answer

①国道二三九号「霧立峠」

 この国道二三九号の霧立峠には、昭和四十年七月に「新保福治氏顕彰之碑」が建立された。この道路の開削に当たっては、当時苫前村長であった氏が、踏査と陳情を繰り返して実現させたものである。この「新保福治氏顕彰之碑」碑陰には

新保福治氏には二十八歳にして苫前村長となり翌大正十年には早くも士別~苫前間道路開さくの一大構想を持ち自ら踏査を行い運動を続けその熱意は遂に実って昭和三年拓殖道路として着工されるに至った。昭和二十二年再び公選村長として迎えられ若き時代の着想士苫道路の完成に情熱を燃やし工事再開に尽力される。その間昭和二十三年には町制を施行し初代町長となり二十六年四月道議会議員に当選す。工事着工以来三十七年青年村長新保福治氏一生の夢は日本海と道央を結び延長八一粁六〇〇、一般国道二三九号として完通されたものである。この喜びの日竣工式をトし新保福治氏の偉大な業績を讃え此地に顕彰の碑を建立す。
昭和四十七年七月七日 苫前町長 川村秀治

とある。
 昭和六十二年に霧立峠駐車場・休憩施設の造成が完了し、竣工式が行われた。付帯施設にはトド松の大木を組み合わせた高さ七・四mのモニュメントタワー、あずま屋、トイレ、花壇、ベンチなどが設けられている。タワーの上部には釣鐘が入れられ、白い文字の「霧立峠」の名前がくっきりと見える。この新保福治の顕彰之碑は、この峠の頂上で地域幹線道路としての繁栄をいつまでも見守ってくれている。なお氏は昭和二十八年十二月に道議会議員任期中に六十二歳で亡くなっている。

Question 166

 明治新政府の懇請を承諾し、新道を切開することとなった。山岳重畳する内陸に新道を切開くことは難事であったが、粉骨砕身努められた。この工事に携わった多くの人達の労苦に感謝し、その功績を顕彰せんがためその峠に像が建立されたのは、次のうち誰か。

①開拓使判事・松浦武四郎
②東本願寺法主・大谷光瑩
③江差商人・鈴鹿甚右衛門
④場所請負人・伊達林右衛門

Answer

②東本願寺法主・大谷光瑩

 中山峠の頂上に「東本願寺街道開祖現如上人像」が建立された。その台座には「北門開拓 現如上人之像」と刻まれている。「現如上人銅像由来」には、

北海道に於ては道南の一部を除いて昔から道路というものは全く無かった。…明治元年(一八六八)新政府は北海道を早急に開発するという基本方針を決定した。これは北方から外国が侵入の危険を憂慮した国民多数の与論を反映したものである。さて北海道を開発するについては道央のサッポロに中央官庁を設置すべきであるが、内陸に道路がない。そこでサッポロへの新道切開きが北海道開発第一の急務となった。しかし新政府には収入が乏しくこれを実行するための財源がない。新政府は東本願寺に懇請してきた。…東本願寺は世界の平和と仏法弘通のため、新政府の懇請を承諾し、新道切開、農民移植、教化普及の三要素を柱として北海道開発事業に着手した。山岳重畳する内陸に新道を切開くことは難事であるが、…東本願寺は十九歳の若い現如新門主を総責任者とし、明治三年二月京都本山出発…引率した僧侶一百数十名の外、仙台支藩の武士や多数の人々の協力を得て明治四年七月新道完成、直ちに官庁が札幌に開設された。それを中核とし北海道の開発は急速に進められた。新道は太平洋の有珠から中山峠を経て札幌に至るもので、…のち地方費道に編入され更に国道に昇格、多額の国費を以って大規模に改修され現在年間数百万人に利用されている。…上人始めこの工事に携わった多くの人達の労苦に感謝し、その功績を顕彰せんがために…中山峠に、この銅像とレリーフを建設した次第である。

とある。

Question 167

 標高八三六mのこの峠は、道内外ナンバーの車や観光バスで駐車場狭しとばかりひしめく。この峠に立ち寄る観光客は年間四〇〇万人に達し、通過する車も年間約六〇〇万台という。頂上にはこの道路開削の祖の像がある。道内で一番ともいわれているこの峠は次のうちどこか。

①上川町留辺蘂町間「石北峠」
②札幌市喜茂別町間「中山峠」
③美幌町弟子屈町間「美幌峠」
④南富良野町新得町間「狩勝峠」

Answer

②札幌市喜茂別町間「中山峠」

 峠付近は九月の中頃から色付きはじめ、十月の初旬になるともう真っ赤になって燃える。強い霜が降りた朝は、見事な紅葉で目をみはるものがある。大谷光信は「全山が一気に紅葉する。宝石のようにキラキラと輝き、日光にも負けない天下一品です。わずか二、三日の生命なのは惜しいが、自然の燃焼をみるおもいです」とする。今日も峠の頂上は観光客で賑いを見せている。この道路開削の祖である「東本願寺現如上人の像」に気づいても、近づいて寄って碑文を読む人が少ないのは残念である。「望羊中山」という道の駅がある。いつも人々で賑いを見せている。名物揚げイモには行列がいつもでき、富士山のような羊蹄山の姿に観光客は感嘆の声を挙げる。
 中山峠物産館が道の駅に指定されたのは、平成五年四月である。建設省が道内一四箇所、全国一〇三箇所を指定した、その第一期生である。大型コンビニ(ローソン)が併設され、ローソンとしては東京以北で最大の売場面積となっている。標高八〇〇m以上という高所にあるコンビニも珍しいものとされている。標高八三六mのこの峠は、道内外ナンバーの車や観光バスで駐車場狭しとばかりひしめく。道の駅に立ち寄る観光客は年間四〇〇万人に達し、通過する車も年間約六〇〇万台という。
 峠からは羊蹄山などの一大パノラマが望まれるばかりでなく、札幌圏と道南方面を結ぶ国道二三〇号の中間にある交通の要衝ともなっていることから、今日も多くの観光客で賑いを見せている道内最大の峠である。「峠という言葉には、何かしら旅の匂いがする」が「車が主体になってみると、旅の匂いなど全く感じさせないところが多くなった」。まだこの「中山峠は今も見事に峠だ。北海道外からの観光客ばかりでなく、札幌に住んでいてさえここまでやってくる道のりの中に旅を感じさせられる」と朝倉 賢はいう。中山峠はそんな峠なのである。

Question 168

 「本路線は道北圏の道路網の骨格を形成するとともに…峠区間は急勾配、急カーブの連続する箇所で、通行車両の安全確保を目的に整備」した、著各な作家の小説の同名題名を戴き、完成記念碑の文字として、刻まれた平成三年に完成した峠は、次のどこか。

①国道四〇号「塩狩峠」
②国道二三〇号「中山峠」
③国道三八号「狩勝峠」
④国道二七四号「日勝峠」

Answer

①国道四〇号「塩狩峠」

 国道四〇号塩狩峠の完成・開通式が、平成三年十月に行われた。この道路は昭和五十八年から総事業費二一億二千六百万円を投じて整備が進められてきたものである。この塩狩峠区間は比布町と和寒との境に位置する標高二六三m、延長二・九㎞の峠区間である。
 昭和四十八年に改良された従来の道路は、最急勾配が五%であり、最小曲線半径が八○mという、線形、勾配ともにきつい区間となっていた。そのため冬期間の大型車両の登坂が困難であり、スリップ等の危険が付きまとっていた。そこでこれらの問題を解消するため、局部の改良工事が進められてきたものである。今回開通した区間は、現道の延長四三〇mをショートカットし、最小半径も四五〇mと大きく改良、勾配も三・九%と緩くして交通の安全確保にと重点を置いたものである。
 開通式当日は、関係者二五〇人が参列し、工事の無事完成に感謝するとともに、交通の安全を祈願した。そして親しみと潤いのある道づくりを目指して、トイレ等の整備、桜などを植樹して「夢ロード桜塩狩パーク」を整備したと工事報告があり、記念碑「塩狩峠―三浦綾子著塩狩峠より」と刻まれた記念碑が両町長の手によって除幕され、ふれあい植樹が行われた。開通祝賀会では来賓の挨拶、アトラクションがあり、三浦綾子著『塩狩峠』が参列者に記念として配られたのはいうまでもない。三浦綾子の小説『塩狩峠』から題字を戴き、四国産の伊予石に刻まれた記念碑の文字は、ひときわ鮮やかに輝き、その碑の前や駐車場で一息入れてなごんだ後、北へ向かって走り去る。
 なんといってもこの峠を有名にしたのは、国鉄職員の長野政雄の殉職であり、その殉職顕彰の碑が、塩狩駅構内に建立されている。

Question 169

 峠の名前には、一般公募によって付けられたものが多くある。この峠の名は町民から公募して付けられたもので、この地方のアイヌ伝説の酋長の名から付けられた。かつてこの地方に君臨したアイヌの酋長が、この峠を越えたということから決まったものである。それは次のうちどれか。

①日高町「コシャマイン峠」
②門別町「オニビシ峠」
③静内町「シャクシャイン峠」
④陸別町「カネラン峠」

Answer

④陸別町「カネラン峠」

 道東の陸別町と足寄町との境界にアイヌ酋長の名を付けた珍しい「カネラン峠」というのがある。主要道道北見白糠線の峠であって、この峠は標高五四六mのものであり、陸別市街から六㎞ほど足寄町に入った国有林内にある。
 ここの展望台からは、鬱蒼と繁る大森林の向こうに、雌阿寒岳、阿寒富士、雄阿寒岳などの美しい尾根が一望でき、四季を通じて景勝の地となっている。昭和四十二年に陸別町では、まだ名前が付けられていなかったこの峠の名を町民から公募したとき、当時営林署に勤務していた職員が、かつて道東地方に君臨したアイヌの酋長カネランが、この峠を越えたということからと応募、それによって決まったものである。
 アイヌの昔話によれば、陸別地方に勢力を張っていたカネランというアイヌの酋長がいた。そして十勝地方を制していた。カネランは権勢を拡張するため、利別川を下って厚岸の酋長と戦ったといわれ、陸別地方に古戦場のチャシ跡が数多く残されている。
 かつて足寄町上利別から陸別に至る殖民道路があった。車のなかった時代、上足寄一帯の農民たちは、本村の足寄よりも近かった陸別に雑穀を運んだり、買物に出掛けたりして利用していた。峠は陸別町が営林署から土地を借り上げ昭和四十八年から展望台や駐車場、あずまやなどを整備してきた。現在では産業道路として、木材を運ぶ大型トラックなどの往来が多く、シーズンになると観光客の姿も見られる。
 陸別観光協会では「峠は、道内でも超一流の展望。観光の地位を築く好機」としてPRしている。かつて昭和五十二年から峠で始まったカネラン祭では、大勢の家族連れで賑わったことがあった。しかし現在では五月中旬に町の広場でカネラン祭が行われている。

Question 170

 北海道産業開発青年隊が、道路工事や河川工事に従事し、機械化施工などの技能教育を受け、その「働きながら学ぶ」という青年たちの壮挙を讃えた碑が、昭和四十一年に建立されている峠は、次のうちどこか。

①国道二三九号「士別峠」
②国道二二九号「送毛峠」
③国道二七四号「日勝峠」
④国道二三九号「霧立峠」

Answer

①国道二三九号「士別峠」

 北海道産業開発青年隊は、昭和三十六年に第一期生が入隊し、第十一期でその初期の目的が達成されたとして解散となる。この産業開発青年隊の目的は「産業開発青年隊を北海道開発局の実施する国土開発事業に導入し、その組織的実践力を活用するとともに、その間に一般教育及び機械化施工工事の技能教育を行うことにより、有為な青年技術者を育成し、これらの者を広く建設業界に供与して、本道の開発促進に貢献することを目的とする」としたものである。
道路工事で従事したものに、国道二三九号の士別峠改良工事がある。ここでの実習訓練が終わると、この地に「青年流汗之碑」が建立された。碑陽には「士別峠改良工事 青年流汗之碑 北海道開発事務次官 堂垣内尚弘」とあり、碑文がはめこまれている。

青年流汗之碑に寄せる 北海道産業開発青年隊が設立協同剛健の隊是のもと若き隊員の「働きながら学ぶ」積極真摯の姿は逞しく誇り高き勤労青年のモデル像であると信ずる。士別峠の工事に挑む青年の壮挙を讃えてこの碑をこのゆかりの地に建つ。
                   昭和四十一年十月 旭川開発建設部長 佐渡博夫

 工事には起床から就寝まで顔を合わせ、共に働きながら学んだのであった。隊員たちはここで多くのことを学んだ。実習は一、二八〇時間、学科が六九〇時間となっていた。なお道路工事では国道二三四号の由仁町三川地区でも実習に当たっている。

Question 171

 峠の名前には、地名はもちろんのこと、色々な出来事など、また人名を付けたものも多いが、次の峠の名前は、安政のころ道路開削に功労のあった幕府役人の足軽の名を付けたもので、その名を刻んだ峠碑があるが、次うちどこか。
①滝上町「滝西峠」
②仁木町「桐谷峠」
③北檜山町「若松峠」
④七飯町「藤山峠」

Answer

②仁木町「桐谷(きりがや)峠(とうげ)」

 この峠の名は、安政五年(一八五八)八月に余市場所住民が協力して、余市運上屋から岩内場所の境までノッチ沢通りの新道を開削した時、この新道工事に、この地に在勤していた足軽の桐谷太兵衛が大変尽力したということで、その姓をとって「桐谷峠」と名付けられたものである。そして峠にその名を刻んだ碑が建立された。この碑は仁木町旭台に「歴史的価値を後世に語り継こう」ということで、仁木郷土研究会が建立した「史跡碑」である。石碑は縦一・五m、横三m、高さ〇・五mの台座の上に、黒御影の石楕円形の石を置き「平成元年十月三十日 桐谷峠 仁木町長 中村吉保 揮毫」とある。台座の碑文に次のようにある。

 岩内から稲穂峠を越え余市に至る山道は安政三年から同五年にかけて開削された。この山道は小樽・石狩を経て増毛・宗谷に至る幹線の一部で、幕府は北辺警衛の強化・蝦夷地の開拓、更に住民の奥地進出を計る重要な道路であった。従来この山道は余市川の左岸沿いの湿地帯を避けてモイレへ出るのが通常であった。しかし余市場所の興隆による沢町の人口に伴い、砥の川より山越えてノッチ沢(豊丘)へ出る捷径が計画され幕府役人桐谷太兵衛の指揮のもと余市場所住民の協力によって安政五年八月に完成した。この新道開通は四季を通じて人馬の通行を可能にし黎明期の本道に大きな役割を果たした。又仁木町の開拓にとってもこの峠を越えて、多くの移民が入植し、今日の仁木町発展の礎となる重要な山道であった。

 この功労者の名から命名された峠は「その昔交易の道」であったことを、今に伝えてくれている。

Question 172

 北海道において第二番目に造られた自動車用有料道路があり、峠に句碑を兼ねて工事を担当した技師の慰霊の碑がある。原始林の美を探求するにも、これ程手軽い都合のよい道路は全道にあるまい、とされていた。この開通を兼ねた慰霊の碑がある峠は、次のうちどこか。

①国道五号「小樽市張碓峠」
②国道五号「森町大沼峠」
③道道小樽定山渓線「朝里峠」
④道道江差木古内線「稲穂峠」

Answer

③道道小樽定山渓線「朝里峠」

 札幌市と小樽市を結ぶ道路に、朝里峠を経由して定山渓に至る道道小樽定山渓線がある。北海道で二番目の有料道路として昭和七年に開削された道路であった。それまでは商用で小樽にやってきた本州の人々や、小樽の地元の人々は、商品の特売招特、行楽に定山渓温泉を利用していた。一時は札幌からきた客よりも小樽方面からきた客の方が多かったという時代があった。そのころは、小樽市内から定山渓温泉に行くのには、国鉄を利用して札幌へ出て、それから他の交通機関を利用するしかなかった。そこで小樽市の実業家今井 隆(麻問屋)ら五人が、朝里峠経由の自動車専用道路の開削を計画した。工事は昭和七年九月に完成した。なおバスの営業開始は完成した翌八年の五月二十日からであった。当初、この路線の人気は高く順調であった。朝里峠の頂上近くにこの道路の開削に尽力した若い技術者・中里久造を顕彰し、慰霊碑を兼ねた自然石の「句碑」が建っている。この句碑には
車道開く原始茂里の雲の上   青木郭公
と刻み込まれている。開通の間もない昭和九年に詠まれたものであって、慰霊碑の銘板には

故中里久造君 昭和七年九月二十八日没 君ハ本道開鑿ニ際シ創業ヨリ多大ノ苦難ヲ嘗メ遂ニ開通旬日ヲ俣タズシテ逝ク而シテ霊魂長ニ此ノ道ト共ニアラン茲ニ其ノ遺髪ヲ収メ以テ礎石トナ
 昭和九年十月建之 小樽定山渓道路株式会社

 中里は早稲田理工科出身で、発注者側の責任者として終始献身的に働き、極度の過労から完成目前に倒れ、この世を去った。そこでこの峠の頂上に慰霊碑を建立したのである。

Question 173

 昭和五十一年のこと、峠で工事業者が法面の工事写真を撮ったら「写真にチョンマゲ姿の男女が映っていた」ということで街中が大騒ぎとなり、新聞・テレビなどでも報じられ、好事家の車が数珠つなぎとなった峠がある。それは次のうちどこか。

①中川町「志文内峠」
②古平町・神恵内村「当丸峠」
③名寄市「智恵文峠」
④滝上町・西興部村「佐久留峠」

Answer

②古平町・神恵内村「当丸峠」

 積丹半島の古平町から半島を横断して神恵内村に至る、道道古平神恵内線に「当丸峠」がある。昭和二十三年に樺太引揚者が神恵内殖民地に入植したことで道路の開削が始まり、同二十八年に国道二二九号に昇格、本格的な工事が進められてきた。昭和四十二年に延長二六・八㎞の全線が開通となった。しかし開通となったものの、険わしい地形と悪い土質の条件から、土砂の崩壊、落石に加えて地滑りが続発する。昭和五十年代に入り道道となるが、開発局で工事を実施することになる。
 ここ当丸峠は標高六〇四mであって、たいして有名でなかったこの峠を一躍有名にしたのは「幽霊写真騒ぎ」であった。昭和五十一年の工事最中、施工業者が法面工事の写真を撮ったら、写真の右隅にチョンマゲ姿の男女が映っていたというものである。土地の古老は「明らかにこれは幽霊である」とし、街中が大騒ぎとなった。このことから、様々な憶測が飛び出し、新聞、テレビにも紹介された。それからは「幽霊の出る峠」として一時期、万が一のシヤッターチャンスを狙った好事家の車が数珠繋ぎになることがあった。
 峠の少し手前にある「当丸沼いこいの森」には、展望台や散策路が整備されている。その昔、この当丸沼には、絶世の美女に化した大蛇が住んでいて、木こりに「沼の大木を伐って」と頼み、その大木を伐ったら突然、嵐が吹き荒れ沼が溢れ、その大蛇も流されて龍巻とともに天に登ったという伝説が残されている。
 この沼の散策はそれぞれ春・夏・秋の季節は、パノラマ感覚で大自然の彩りが満喫でき、エゾサンショウウオが生息するなどからも、秘境ムード満点とされ、ハイキングコースともなっている。さらにビタミンCがたっぷりのギョウジャニンニクなどもあり、この峠を訪れる人々は多い。

Question 174

 間近にラベンダー畑や十勝岳連峰を一望できる富良野地方の代表的な観光地ともされている峠がある。「十勝連峰を望む眺望も美しい峠」とされ美術館とも合わせてPRされている峠は、次のうちどれか。

①富良野市南富良野町間「樹海峠」
②南富良野町占冠村間「幾寅峠」
③南富良野町「金山峠」
④上富良野町美瑛町間「深山峠」

Answer

④上富良野町美瑛間「深山峠」

 国道二三七号の上富良野町と美瑛町との間に「深山峠」がある。標高二八八mの峠であって、十勝岳連峰が一望できる富良野地方の代表的な観光地ともされている峠である。
 この峠は間近にラベンダー畑や十勝岳連峰を望むことができることから、年間約二十五万人の観光客が訪れるという。ここにはまた「トリックアート美術館」があり、これがまた、人気となっているものである。
 「大雪・富良野ルートには多くのラベンダー畑があり、七月のシーズンは全国から観光客が訪れます。そのうちの一つ、深山峠は国道二三七号にあり、峠という名前はあるものの小高い丘の風貌。栽培されるラベンダーはオーナー制で随時申込みができます。旅に記念にどうぞ」と「十勝連峰を望む眺望も美しい深山峠」と地元ではPRしている。
 また「東に十勝連峰、南に芦別岳連峰がそびえる姿は実に美しい。ここから見る風景は見慣れたものばかりですが、いまもなお尽きせぬ魅力に満ちているのです。青い空も、黄金色のカラマツ林も、降り積もる雪も、一面に広がるタンポポ畑も…。旅から帰ってくる途中の―そう、旭川空港から自宅に戻る途中の深山峠から富良野盆地を見下ろすと、ほっとします。ああ私はこの土地がやはり好きなんだ、風景とは水と空気と同じぐらい当たリ前のもので、そのありがたみを忘れがちですが、しばらくぶりに戻ると、地域の良さや違いがわかるものです」と、富田忠雄はいう。ここからは、雄大な山並みと田園丘陵ならではの美しい風景、四季折々の花の絨緞を見ることができ、北海道を代表する観光エリアの一つともなっている。

Question 175

 「旅人を詩人にさせるまち」とか、また「旅人の詩心を誘そう峠」などと記され、地元では「この峠に代表される素晴らしい景観を」とPRしている峠がある。「この峠は美しく深い住民の素朴さ、そして優しさが旅人の心をつかんでいるようだ」とされている峠は、次のうちどこか。

①士別市「学田峠」
②幌加内町美深町間「美深峠」
③朝日町和寒町間「上士別峠」
④幌加内町苫前町間「霧立峠」

Answer

②幌加内町美深町間「美深峠」

 この峠を地元では「展望台で一服、周りの景観の良さで、ドライブコースとしても最高の所になりました。秋の紅葉もお見逃しなく」とPRする。上川管内美深町から国道二七五号を南下すると、空知管内幌加内町との境に「美深峠」があって、標高四四三mの峠である。昭和六十三年から除雪が始まり、峠区間の一〇・四㎞が冬期交通可能となった。
 この路線は国道二三三号と国道二七五号の交点、北竜町碧水を起点として、沼田町、幌加内町を北上し、朱鞠内湖の東側を周って道道朱鞠内美深線を経由して、国道四〇号に結ぶものであった。峠の坂を南下すると母子里の集落があり、昭和五十三年(一九七八)二月十七日、北大演習林母子里事務所の温度が「零下四一・二度」を記録する。これは戦後観測史上最低の記録であった。しかし氷点下四四・九度まで下がったことがあるとされている。このことを記念して「日本最寒の地」という碑が湖畔キャンプ地に建てられている。地元では「この峠は美(美)しく深(深)い住民の素朴さ、そして優しさが旅人の心をつかんでいるようだ」とする。
 美深から幌加内へと橋を過ぎ、ほぼ峠のあたりに駐車場があり、ここに美深町が建てた「美深峠」の標柱がある。地元では「旅人を詩人にさせる美深」とか、また「旅人の詩心を誘う美深峠」などとし「美深峠に代表される素晴らしい景観」とPRしている。
 また美深町の峠広場から少し離れて、幌加内町側の広場にも、幌加内町が立てた「美深峠」の標柱がある。 

Question 176

 「原始林の樹海を右曲左曲して縫う山道と清流のせせらぎが前奏曲を奏でる中を進み、やがて頂上に至れば、眺望が一瞬に開け、湖を取り巻く雄大で美しい自然と、はるかかなたの知床連山を一望におさめることができる」峠と、地元では、PRしているのは、次のうちのどこか。

①清里町中標津町間「清里峠」
②津別町阿寒町間「釧北峠」
③弟子屈町津別町間「津別峠」
④端野町北見市間「端野峠」

Answer

③弟子屈町津別町間「津別峠」

 旧国鉄津別駅から美都、上里を経て約二九㎞の弟子屈町と津別町との境に「津別峠」がある。この峠からは「原始林の樹海を右曲左曲して縫う山道と清流のせせらぎが前奏曲を奏でる中を進み、やがて頂上に至れば、眺望が一瞬に開け、屈斜路湖を取り巻く雄大で美しい自然と、はるか知床の連山を一望におさめることができる」。阿寒国立公園を訪れる観光客の大半は、美幌から美幌峠越えに屈斜路湖へ向かっているが、美幌峠からの眺望は確かにすばらしいものがある。しかし津別峠の眺望はそれにも増してすばらしいものがある。津別峠というよりは、正確にはその北側二・七㎞の地点にある展望台(九四七m)からの眺望は、非常にスケールの大きなもので、真正面に屈斜路湖の湖水と湖面に突きだす和琴半島、右手に摩周火山、そして硫黄山の噴煙、さらには遠く知床の山並み視界に入るものすべて雄壮絶佳とされているものである。
 この峠は道道屈斜路津別線にあり、美幌峠を遥かに凌ぐ一段とスケールの雄大なパノラマのような景観!大自然が織りなす造形美の極致といえるのがこの津別峠である。そしてさらにこの峠の北側約八〇〇mのところにある展望台(九四七m)よりの眺めは新緑、紅葉、名月のいずれをとってもじつにすばらしい。すぐ正面には原始の森に包まれた中島をかかえた屈斜路湖、右手に和琴半島、藻琴、斜里、硫黄、摩周の連山、雲煙を隔てて知床連山、オホーツク、太平洋を遠望する夢のような桃源郷がひらけ背後には千古の針葉大樹海を隔てて雄阿寒と噴煙の雌阿寒がまるで指呼の間にある。

屈斜路湖の濃き藍のいろ晴れわたる 津別峠に佇ちて見下ろす     ―児玉テルコ

Question 177

 この峠は、東蝦夷地三険の一つといわれる要衝の険であり、この峠を守り得るならば、たとえ百万の敵が攻めるとも容易に陥すことはできない天下の絶険なのだ、とされ、幕末に標高五〇〇mの山の頂上に砲台を築いたとされる峠は、次のうちどれか。

①函館市南茅部町間「川汲峠」
②厚沢部町大野町間「中山峠」
③福島町知内町間「福島峠」
④上ノ国町木古内町間「稲穂峠」

Answer

①函館市南茅部町間「川汲峠」

 道南地方随一と評判の高い景勝の地「恵山道立自然公園の一角を占める川汲山道は、南茅部町と函館市とを結ぶ主要な山道である。この峠越えは、古くから開けた道南の函館と、太平洋岸の川汲とを結ぶ重要な路であり、人々の往来は盛んであった。また安政年間には、幕府による鉱山の開発により、多くの人々が往来し、賑いを見せていた。しかしこの山道は、馬や人がやっと往来できる程度の、狭く、また急な坂道であった。安政四年(一八五七)の記録によれば「怪石奇岩が道を塞ぎ、九十九折りの道は断崖絶壁を見上げ、見おろす険しさであった」とある。
 明治元年(一八六八)十月、森町鷲の木に上陸した榎本軍の直属軍のうち、新撰組元副長土方歳三(ひじかたとしぞう)の率いる部隊が海岸沿いに南下し、この山道を歩いた。積雪がこの深い渓谷山野を埋めて、堅い氷が鏡のようにおおっているので、寒さと危険の中を兵らは必死の思いで腹這いになって峠の頂上によじのぼった。さらにはこの「川汲峠は、東蝦夷地三険の一つといわれる要衝の険なのだ。この川汲峠を守り得るならば、たとえ百万の敵が攻めるとも容易に陥すことはできない天下の絶険なのだ」とする。土方隊はこの地で越年し、標高五〇〇mの台場山の頂上に、近隣町村から徴発した村民約一〇〇人を使って砲台を築き、周囲の木を伐り倒して展望を良くし、翌二年に峠を越えて五稜郭に入った。
 冬期間はどこの道路でもそうであったように、積雪のために閉鎖となってしまう。この状態は昭和四十三年まで続く。昭和三十七年に川汲山道部分の延長五、七〇一mの工事に着手され、トンネル(一、一五〇m)を完成させて、同四十三年に全線の開通となった。七年の歳月と十億七二二万円の工事費を投じて難路であったこの山道はピリオドを打った。

Question 178

 周辺で砂金山が相次いで発見され、空前のゴールドラッシュが起きた。なんと一年間に数万人もの砂金掘りが殺到したと伝えられている。そして隠れキリシタンの悲話なども残されているこの地に、この峠を越えて人々はやってきた。この峠とは次のどれか。

①入雲町熊石町間「雲石峠」
②厚沢部町上磯町間「梅漬峠」
③知内町福島町間「福島峠」
④福島町松前町間「吉岡峠」

Answer

③知内町福島町間「福島峠」

 国道二二八号のほぼ中間に「福島峠」がある。現在では峠を延長二八二mの福島トンネルで通過するだけで、峠という実感はない。本来の福島峠は、このトンネルのすぐ東側の山あいを、細々と曲がりくねって続く旧道の標高約一七〇mの地点である。
 元和六年(一六二〇)ころは大千軒岳周辺で砂金山が相次いで発見され、空前のゴールドラッシュが起こった。なんと一年間に数万人もの砂金掘りが殺到したと伝えられ、大千軒から流れる知内川の沿岸一帯が、最も規模の大きい砂金山であった。大勢の砂金掘りたちは福島や知内の街で準備を整え、この峠を越えて上流の砂金山に向かう。なにしろ砂金掘りたちの住む住居がいくつもあって、大きな集落ができ、この「千軒」の地名の由来も、千軒もの家々が立ち並んでいたことからといわれている。この砂金掘りのなかには、すでに厳しいキリシタンの禁制を逃れて渡ってきた信者も多く、異郷の地でひたすら信仰に生きていた。これまでに世界のいくつかの地方でも、大がかりなゴールドラッシユが起こったことが知られているが、いずれの所でも、金山をめざして歩み続けた男達の『ふみわけ道』が、今もなお例外なく残されている。
 その昔、この道南の一角でも、大勢の砂金掘りの男達が、知内川上流の砂金山を目指して海を渡り、野や山を越えてひたすら歩み続けたに違いない。それによってこの山道は、本州各地から一攫千金をねらってやってきた人たちによって踏み固められていった。
 やがて福島町吉野と青森県三厩とを結ぶ全長五三・九㎞の世界でも有名な海底トンネル掘削の大工事が始まると、産業道路として再び脚光を浴びることになった。

Question 179

 峠の名前には、その地区の名や、道路開削等にあたり特別に貢献した人物の名、また風景、植物など数多くの名が付けられている。ここ道南地方の峠に、とてもユニークな名前の「梅漬峠」というのがあるが、その名の由来の正しいものは次のうちどれか。

①開削功労者「梅漬甚右衛門」の名から
②峠の梅の古木から
③殿様の荷物の梅漬けをつまんだことから
④労務者の弁当はいつも梅漬けから

Answer

③殿様の荷物の梅漬けをつまんだことから

 主要道道上磯厚沢部線の上磯町と厚沢部町の境に「梅漬峠」という名の峠がある。古くからこの地に住むアイヌは「茂辺地越え」または「茂別越え」とよんでこの峠を越えこの道を通っていた。しかし安政年間のこの山道は険しく、新道の開削もまた困難な地形でもあり、もし開削したとしても「木古内山道」よりも不便であるとされていた。
 峠の名の由来は「物資運搬の人足たちが峠で一休みし、昼食をとりはじめると、自分たちの運んでいる荷の中に、梅漬樽があるのに目をつけていた茶目っ気の一人が『どれ!殿様にしかられても、しかたなかんべ』というなり、樽のかがみを抜いてつまみはじめると、他の連中も『どらどらあ!おれさも一つ』と手を出して『ほう、うめえ梅干だな』、一同笑いさんざめきながら頂戴した」とされている。このことからこの峠を「梅漬峠」と呼ばれるようになったとされる。
 明治三十七、八年⌒一九〇四~一九〇五)ころから、この道路の改修が痛感されはじめ、次第に住民が結束して運動するようになった。両町では、数百円を出し合い、数百人の奉仕的出役によって、駄付け馬や人がやっと通れる道を開いたのであった。しかし急な坂や曲がりくねりが多く、また崖崩れもあるという不完全な道路であった。昭和二十四年にようやく改修工事が行われ、全通となった。そして昭和二十九年道道に認定されると、利用者もふえ、交通量も多くなってきた。そこで昭和三十二年から本格的な改良工事が始まり、舗装工事も始められてきた。この峠は何ら変哲もない峠である。あたり一面は緑が濃く、すがすがしい気持にさせる峠である。

Question 180

 道路の貫通に長い間努力し、苦労を重ねてきた会の、創立三〇周年を記念して、同道路に貢献した意味を含めて峠に「道路貫通記念碑」を建立した。その峠は、次のうちどれか。

①国道五号「倶知安峠」
②国道三七号「静狩峠」
③国道二三九号「士別峠」
④国道二七四号「日勝峠」

Answer

③国道二三九号「士別峠」

 国道二三九号の士別市と幌加内町の境にある標高二六二mの士別峠において、そぼふる雪の中、昭和五十六年十一月に「士別苫前間 道路貫通記念碑」の除幕式が行われた。この碑を建立したのは、この道路の建設に努力してきた士別市議会OBの会である「隆士会」であり、この碑には

士別苫前間路線開削の悲願は、明治四十一年に遡る。これが貫通への期待は、大正九年第一回の現地踏査をなして以来当局においてもその重要性が認められ、昭和三年北海道第二期拓殖計画によって、工事の着工を見たのであるが、偶々満州事変に続いた戦争によって全工程中僅かに空知、留萌支庁の境士別峠に建つ道路貫通記念碑附近を残し、中断の止むなきに至ったものである。その後昭和二十四年幸いにも米軍放出物資の見返り資金によって工事が再開され、昭和四十年全線貫通したことは、沿線の関係住民ひとしく感銘したところである。この間苫前町、幌加内町をはじめ士別町の歴代為政者の完成促進運動は続けられ、われ等当時の議会議員も、本計画の達成速やかならんことを渇望し来たものである。道路完成の今日、ここに本路線初期の目的であった当地の経済文化の興隆、さらには住民福祉の増進に寄与することを念願し、併せて本会創立三十周年を記念して、この碑を建立次第である。
                 昭和五十六年十一月八日 士別隆士会会長 志村藤平

 多くの関係者の並々ならぬ努力によってここに開通し、地域の幹線道路として繁栄をもたらすものと期特されている峠道である。

Question 181

 新道開削をめぐり両町がしのぎを削って運動した結果、路線選定に当たり道庁から数度にわたり係員が訪れ、ここの料亭の心尽くしが実を結び?道路はこのルートに決定、その名を峠の名としたのは、次うちどれか。

①国道三九一号「野上峠」
②道道美深中川線「小車峠」
③道道紋別丸瀬布線「金八峠」
④道道津別地区別線「鹿の子峠」

Answer

③道道紋別丸瀬布線「金八峠」

 道道紋別丸瀬布線に「金八峠」がある。そもそもこの道路は鴻之舞鉱山が鉱産物と物資の集散は紋別(名寄線)を経由していたが、石北線が開通することになったので石北線を利用することになった。その中継基地となれば地域振興に大きくプラスすることになるので、昭和二年来新道開削をめぐり遠軽と丸瀬布がしのぎを削って運動した結果、近距離に当たる丸瀬布側に軍配が上がり、道庁網走土木事務所において着工された。起点は鴻之舞市街五丁目、終点は地方費道旭川根室線金山、幅員四m、延長一九・四㎞である。そのうち金山~金八峠間は七三〇一mで、六年に着工、一二月竣工して運用を開始し、翌七年四月から丸瀬布自動車有限会社による乗合自動車が運行された。
 この『金八峠』という名前についてその由来を「路線選定に当たり道庁から数度にわたり係員が訪れたが、ここに登場するのが東町に在った料亭美濃家の『金八』という芸者である。調査に訪れた係官を下にもおかぬおもてなしをした。かくて金八姐さんの心尽くしが実を結び?、道路は丸瀬布から通ずることに決まったという。昭和六年十二月十六日峠で開通式が行われ峠の名称を付けることになったとき、陰の力になってくれた金八の名が浮かび『金八峠』と名付けられた。金八は『金が開く』にも通じ末広がりで縁起が良いという意味もあった」と説明されている。この道道は、紋別市と丸瀬布町を結ぶ最短のルートであるが、市町界に位置するこの金八峠区間が、急勾配、急カーブが続く道路であって、雨で通行止めになったり、また冬期間は不通となっていたので、平成十三年度から現道のルートの切り替え工事に着手、峠の金八トンネルは、延長一、七五二mとなっている。

Question 182

 この道路工事は、永年に亘る地元民の熱い要望が叶えられたものであり、地元商工会議所の幹部の方々が現地見学にきて要望、峠にこの道路開削功労者の名を是非付けさせて欲しいといい、この人の熱意を永く顕彰したいとする。この功労者の名を付けた峠は、次のうちどれか。

①道道留辺蘂佐呂間線「丸山峠」
②道道遠軽滝上線「上原峠」
③道道美深雄武線「松山峠」
④市町村道七飯町「藤山峠」

Answer

②道道遠軽滝上線「上原峠」

 紋別市と遠軽町との境に「上原峠」というのがある。道道遠軽滝上線にある峠で、名前について次のように紹介されている。
 遠軽町奥社名淵から紋別市鴻野舞金山に至る道路新設工事は、永年に亘る地元民の熱い要望が叶えられた工事であった。工事が終わろうとしているころ、遠軽商工会議所の幹部の方々が現地見学にきて要望されたことは、遠軽町、紋別町境の小高い峠に、上原峠と名付けさせて欲しいとのことであった。その理由は、遠軽町議会の議長・上原哲平氏が本道路の建般に対し、大変熱心に運動され、常に皆の先頭に立って陳情を続けてきたのであって、この人の熱意が今日の工事にもつながったものであるから、この道路に対して上原氏の熱意と努力を永く顕彰したいのだという。なにも個人の名前を公の峠に命名する可否について道庁理事者は理解できなかった。竣工開通式には真新しい標柱に、上原峠と大きく書いて町界に立っていた。
 鴻之舞にあった金銀鉱山は、大正四年(一九一五)に発見され、同六年に住友金属鉱山が買収して精錬所を建設、最盛期の昭和十五年ごろには従業員が四、六〇〇人を数えていたという。年に二・五tの金と四六tの銀を産出して東洋一の金山ともいわれていた。しかし昭和四十八年十月になり、鉱量の減少、品位の低下に伴う悪化で閉山となり、五六年に及ぶ歴史を閉じたのであった。これまでには一、〇〇〇万t以上の粗鉱を採掘し、金六四・七t、銀九六五tを生産したという鉱山であった。

Question 183

 現在は快適な道道路線となっているが、昔は馬も通れない急峻な峠道であって、冬場は山をう回して、一日かけて行かなければならなかった。女の身にはとても無理であったことから、この峠を「嫁泣き峠」と呼ぶようになったという。この峠は次のうちどこか。

①札幌市道「小沢峠」
②札幌市道「真簾峠」
③札幌市道「幌見峠」
④道道西野真駒内清田線「こばやし峠」

Answer

④道道西野真駒内清田線「こばやし峠」

 札幌市の南区と中央区の境に「こばやし峠」というのがある。この峠は、南区北ノ沢から中央区盤渓にぬける唯一の道路であるが、整備前の道路は、馬も通れないほどの急斜面であった。この峠に貫通記念碑として「こばやし峠」という碑が平成元年十月二日に建立された。碑文には「藻岩地区は北西の藻岩山・西南の砥石山と硬石山に囲まれ、その麓一帯を占る地区の大半は東方の豊平川へと傾斜している地形から〈陸の孤島熊の巣〉と称されていた。北の沢地区は開村以来入植者によって細々とした道はつけられたが依然起伏は険しく、急病人を運ぶに支障をきたし又肥料が運搬出来ないなど農業の衰退をも引き起こした。この事態を憂いた有志が団結、昭和三十一年産業観光開発道道促進期成会を結成し道路造りに着手した。道路用地は幾多の辛酸により開墾された土地が地主の強い郷土愛によって無償で寄付された。関係行政との交渉道路工事の困難を乗り越え昭和四十年十一月今日の道道西野真駒内清田線の貫通を見るに至った。現在通称「こばやし峠」と呼ばれているこの道は、札樽国道・国道虻田線・国道千歳線を最短距離で結び、又藻岩山の四季折々の姿を観賞できる道路として広く市民に親しまれている。ここに先人の苦労を偲び北の沢の限りない躍進と繁栄を祈念する」と。
 北ノ沢の住民は昔「嫁泣き峠」と呼んでいた。「娘たちが盤渓から嫁入りするときは、男たちにたんすなどの道具を背負ってもらい、一緒に峠を越えてきた。しかし、実家に帰えるとき、夏場は二時間足らずでこの峠を越えることができたが、冬場は藻岩山をう回して、一日かけて行かなければならなかった。それは、峠が急で、しかも雪が深かったからである。腰まで埋もれる雪をかき分けて進むことは、女の身にはとても無理であった」。そんなことから誰ということなく、この峠を「嫁泣き峠」と呼ぶようになったという。

▲余記―樹海峠(慰霊碑)

 国道三八号富良野市西達布と南富良野町幾寅との境界に、標高四七六・一mの「樹海峠」がある。この峠道には、東京・渋谷の忠犬ハチ公に勝るとも劣らない「忠犬ハチ公の慰霊碑」がある。「迷える忠犬の銘」と題する碑文には、このけなげな態度と、それを見守る人々の心情がせっせと記されている。正面には、ありし日の忠犬の姿が彫られている。耳が立ち、尾の巻いた勇ましい北海道犬である。この物語は、昭和四十八年、一匹の北海道犬がこの峠に住みつき、小高い丘に坐りこんで、黒色の乗用車が通る度に立上り、吠えながら後を追った。しかし車を見失うとすごすごと丘に戻り、また黒色の乗用車を待った。峠下に住む人々や、長距離トラックの運転手たちは「かわいそうに。きっと捨てられた黒い乗用車の飼い主を待っているんだ」と思った。峠はやがて積雪に埋り、地吹雪が荒れはじめる。長い冬が終わり、春が再び巡ってきた。生気をよみがえされたこの忠犬は、黒い車を見ると、再び追う日が続く。夏が過ぎ、再び厳しい冬がやってきた。 しかし飼い主は現れなかった。さすがに疲労の色が濃くなってきた。
 昭和五十年一月、この峠は大雪で国道は不通となる。除雪車が夜を徹して除雪作業をしていた。吹雪の中をよろよろと歩いていたこの忠犬は、除雪車に跳ねられ悲惨な最後を遂げる。犬の死を知った集落の人々は、哀れな忠犬の霊を手厚く葬った。このことが新聞で報道されると、ここを通るトラックの運転手や、心ある人たちから浄財が寄せられる。地元の人たちはこの浄財を元手に翌年、いつも座っていた丘に近い峠の一角に、この忠犬の慰霊碑を建立したのである。こんな話題のある峠である。

渡船場関係

Question 184

 この渡船は、大正五年(一九一六)に誕生、開拓団が通学や石炭などの物資を運ぶ生活の足として船を浮かべたのが始まりであった。今回念願の橋が平成二十三年三月に完成したことにより、九月に最終の運航を終え九六年の歴史を終えた、道内唯一の渡船である。それは次のうちどこか。

①尻別川「湯山別渡船」
②天塩川「雄信内渡船」
③十勝川「旅来渡船」
④石狩川「美浦渡船」

Answer

④石狩川「美浦渡船」

 石狩川を挾んで美唄市中村から浦臼町晩生内を結ぶ間に橋がないことから、川を渡る唯一の手段としてこの渡船が利用されてきた。そもそもこの渡船が開かれたのは大正五年(一九一六)の八月であり、当時新潟県人で組織されていた開拓集団・北越拓民の農地管理人・関矢才太郎が浦臼村晩生内に「関矢渡船」と呼ばれる渡しを開いたのが始まりとされている。
 橋がなかったこの時代、渡船が人々の生活にとって重要な交通手段であった。当時は馬や人を乗せ、通学や石炭などの物資を運ぶ生活の足としての船であって、面側を結ぶワイヤーをたぐって横断するという運航であった。その後、この渡船の管理は美唄市と浦臼町が共同で行っていたもので、最近は船外機付きの五人乗りの舟となり、午前八時、正午、午後四時の定期運航となっていたものである。しかし事前に浦臼役場か渡守の船頭に連絡すると、この時間外でも舟を出してくれた。その後は利用者も減って、平成十八年からは定期運航が廃止され、予約運航だけとなった。
 川幅は約二〇〇mであって、所要時間は約三分であり「広くのどかな空間に、船外機のエンジ音が心地良く響き、時折、魚がピシャと水面に波紋を残す」という。運航期間は四~十月間であって、ほとんどが噂を聞いてやってくる観光客が多く、月平均二〇人ほどであった。しかし生活のために利用する地域住民も多いことはもちろんである。また利用客の全くない日もしばしばであった。
 渡船から下流五〇mに、住民念願であった橋長八二三mの「美浦大橋」の着工・修祓式が平成十一年十一月に行われ、そして同二十三年三月、待望の「美浦大橋」が完成となり、同年九月二十五日、渡船は最後の運航を終え、静かにその九六年の歴史に幕をおろした。

Question 185

 どこの渡船でも毎年十二月中旬になると「氷橋」となるが、この時期に「カゴ渡し」といって両岸にケーブルを張り、カゴに乗り滑車を利用して乗る人が自分でロープを手繰りながら渡るというものであったが、それは次のうちどれか。

①石狩川「月形渡船」
②十勝川「旅来渡船」
③天塩川「天塩渡船」
④網走川「網走渡船」

Answer

①石狩川「月形渡船」

 月形に樺戸集治監が設置されたのは明治十四年(一八八一)であり、石狩川を渡って市来知(現三笠市)までの路線が開削され、そして渡船場が設けられた。
 このころの渡船は、あらかじめ流れを計算して、いちいち岸辺を遡らなければならなかったが、大正二年(一九一三)ごろになりワイヤーが張られ、それで直行できるようになった。
 いずこの渡船もそうであったが、毎年冬になり河川が凍結して運航ができなくなると、氷橋となる。しかしここの渡船場では他の渡船場とは異なり、両岸にケーブルを張り渡し「カゴ渡し」と呼ばれるものが設置された。これはカゴに乗り滑車を利用して乗る人が自分でロープを手繰りながら渡るというものであった。これは便利であると評判となっていたものである。
 ここの渡船場では、昭和二十三年の廃止までの間、実に二十五年の長きに「無事故」であったといい「まさに特筆に値する業績」とされている。
 ここの架橋は他に比べて遅かった。それは地元の月形住民が「樺戸道路を通って岩見沢のまちに客が取られ、月形の繁栄がなくなってしまう」ということで、強く要望していた樺戸集治監典獄の架橋の実現が遅くなったとされる。最初は昭和十九年に木橋が架けられたが翌年に流失、同二十三年に吊橋が架けられている。その後昭和四十四年になり、橋長八一三mの永久橋の誕生となった。

木造りの大吊橋も既に無く 偲ぶものなき妻が故郷      ―滝花 誠

Question 186

 本町の火事で、駅前の目抜き通り商店街の四十戸が焼失、川向いからやってきた見舞客を乗せて帰る途中、船が横波を受けて転覆、船にしがみついた四人を残して八人が死亡した。この事故は次のうちどこか。

①深川市「多田渡船」
②滝川市新十津川町間「十五号渡船」
③深川市滝川市間「原渡船」
④粟山町長沼町間「馬追渡船」

Answer

①深川市「多田渡船」

 国道二三三号の石狩川に「深川橋」が架かっている。この橋が架かる前には、渡船の歴史が残っている。音江法華と深川とを結ぶ渡船場は明治二十五年(一八九二)の「奥渡船」に始まり、明治三十一年(一八九八)に、多田久五郎によって「多田渡船」が始められた。
 明治三十一年(一八九八)に旭川までの鉄道が開通すると、この深川町に駅が設けられた。駅が開設となると音江の市街は火の消えるようにさびれていった。音江の住民はこの渡船によって日用品を深川へ求めるようになる。明治四十一年(一九〇八)六月九日未明のことである。深川本町八丁目から出火した火事で、駅前の目抜き通り商店街の四十戸が焼失した。午前九時ごろ、音江からやってきた見舞客を乗せて帰る途中、横波を受けて転覆、船にしがみついた四人を残して八人が死亡した。
 大正六年十月には渡船を廃して有料の「深川船橋」が設けられた。この船橋は、深川から中州までを木橋で結び、残る川面に十一の船を浮かべてこれに桁を渡し、厚さ六㎝の板を並べたものであった。しかしこの船橋もやがて流されてしまった。
 大正十年(一九二一)四月四日の事故は、雪解け水を集めた濁流で、駐在所の巡査をはじめ九人が死亡、また氷橋の水汲み穴に落ち込んだ小学校長の死亡事故など悲惨な話が残されている。
 昭和四年(一九二九)になり、町長ほか一丸となって猛烈に架橋の陳情を展開していった。その結果、待望の架橋工事が昭和五年十月に着工となり、翌六年十一月に北空知住民の期待を集めて渡橋式が行われた。明治三十四年(一九〇一)から始まった多田渡船は、ここに多くの悲劇や物語を残して、その歴史を閉じたのであった。

Question 187

 「哀感を乗せた渡船は、当時の社交場の一つであり、またうらみの場所でもあった」とされ、屯田入植者に利用されていた石狩川の渡船があった。やがて是非とも架橋して欲しいという要望が強く、昭和三十三年に長大橋が誕生となった。それまであった渡船は、次のうちどこか。

①石狩市「石狩渡船」
②深川市滝川市間「原・須麻馬内渡船」
③奈井江町浦臼町間「十五号渡船」
④砂川市新十津川町間「下徳富の渡し」

Answer

②深川市滝川市間「原・須麻馬内(すままない)渡船」

 昭和二十九年、石狩川に架けられた橋に「妹背牛橋」がある。この橋は以前から地域住民にとって芦別方面と留萌方面とを結ぶ最短距離の路線であることから、是非とも架橋して欲しいという要望が強かった。そして昭和三十三年に橋長五九八・六五mの「妹背牛橋」が誕生となった。橋が架かるまでは「原渡船」というのがあった。
 この渡船は「滝川方面から深川、秩父別方面を結ぶ近距離だったので、開設後は雨竜屯田入植者が通り、のちにはそれらの経済活動や生活のひろがりで利用者が急増、人の動きにともない、渡船場のほか飲食、雑貨、運送の店が並べられていた。明治二十七年(一八九四)には江部乙屯田が入植して向陽の北側は屯田給与地になり、翌二十八年には稲田に杉本農場ができたり、そのうちに江部乙に入った屯田兵の家族などが、造田可能地のある稲田に入植し、また妹背牛にも相次いで農場が開設されるなど、このあたりの開拓は日とともに進んだ」とされている。
 やがて明治三十八年には須麻馬内四方道路と妹背牛とを結ぶ「須麻馬内渡船」が岡野聞太によって開設され、対岸との交通に重要な役割を果たしてきた。
 当時の渡船は「哀感を乗せた渡船は、当時の社交場の一つであり、またうらみの場所でもあった。夫婦喧嘩の末に飛出てきたものの、迎えの船が来るまでに乗馬の夫に追いつかれて引き戻されたり、危篤の親元へかけつける娘が、増水のため船が出ず死に目に会えなかったもの、国元から花嫁支度でやってきたものの、初めて乗る渡船の小舟で北のこれからの生活を暗示されたようで恐ろしかったと追憶する人、入営を祝う自分の幟がちぎれるように風にはためき、悲壮な気持ちで船に座っていた思い出を温める人など、いまはもう建物跡すらない渡船場跡に、活気に満ちた開拓時代の多くの感情が秘められている」という。

Question 188

 この渡船には、渡守を含めて二十三人が乗っていて、川の増水のため船が高波によってあおられ、ワイヤーを繋ぐ枠板が外れ横転、全員が川の中に投げ出されてしまった。数名は対岸に泳ぎ着いたが、九名の死者および行方不明者が出るという大惨事となった。この渡船は次のうちどこか。

①美唄市月形町間「月形渡船」
②厚岸町「厚岸渡船」
③砂川市新十津川町間「下徳富の渡し」
④音威子府村「止若内渡船」

Answer

③砂川市新十津川町間「下徳富(しもとっぷ)の渡し」

 石狩川の砂川市と対岸の新十津川町とを結ぶ「砂川大橋」が架かる前には「下徳富の渡し」という渡船場があった。この石狩川の両岸を結ぶ渡船は、住民にとって重要な交通の手段であった。この渡船は、両岸に大きな櫓を建ててそれにワイヤーを渡し、これを滑車で船とを結んだもので「流れの水の圧力でカラン・カランと音を立てて進む渡船は、子供たちにとって不思議でもあり、対岸に行くことによって一寸した旅行感を味うことのできる乗物でもあった」という。戦後は食料事情の悪化から砂川方面からの買い出しの人々でにぎわった。
 昭和二十一年十月十四日午後四時を過ぎたころである。下徳富を出たこの渡船には、渡守を含めて二十三人が乗っていた。雨上がりで石狩川は増水していた。船が川の真中にさしかかると高波によってあおられ、ワイヤーを繋ぐ枠板が外れてしまった。一瞬のうちに船は横転し全員が川の中に投げ出されてしまった。数名は対岸に泳ぎ着いたが、九名の死者および行方不明者が出るという大惨事となった。自力で泳ぎ着いた者、下流で救出された者が、十四人、残りの九名は帰らぬ人となった。°堤防近くの一角に、ひっそりと地蔵小屋が建っていて、九名の霊を弔っているものである。
 商店や学校、病院は砂川にあり、新十津川の一部の住民は、生活を砂川に依存していたので、渡船は大事な交通機関であった。これらのこともあって、「石狩川に橋を架けて欲しい」という要望が強まり、昭和二十七年に「砂川大橋」が北三号線に誕生したのであった。曲弦ワーレントラスの橋長三〇六mの橋であった。この橋の実現までには、多くのエピソードが残されているが、それらを語り継ぐ古老はすでにいない。渡船があったことなど、今は「忘却の彼方」となってしまっているのは淋しい限である。

Question 189

 一世紀余にも渡って住民を運び続けた長い歴史の渡船があり「使命を終える街道の花形」とか「この川の旅情薫風物詩」とされていた渡船は、昭和五十三年三月に終航した。その渡船とは、次のうちどれか。

①空知川「空知川渡船」
②石狩川「石狩渡船」
③夕張川「川端渡船」
④十勝川「旅来渡船」

Answer

②石狩川「石狩渡船」

 この渡船の歴史は古い。先住民族のアイヌが鮭の宝庫であったこの石狩川の河口に住み着き、そのころから対岸に渡るためにあったものと思われる。安政四年(一八五七)に「石狩川船渡し、メノコ七、八人にて櫓を押せり」というメモが残されている。当時の舟はタモの大木を削った丸木舟であって、長さが十二m位あったという。大きいものには五~六人が乗れた。それにアシ舟、木皮舟もあったという。明治五年(一八七二)には、石狩の住人小山某が、開拓使の取締りのもとで、私設の渡船場を開いている。大正九年(一九二〇)になると道庁から正式に私設渡船が認可となり、昭和の初期には渡守が五、六人もいて、親方の月の上がりは八〇~一〇〇円位があったという。渡守には一人十五円が支払われている。渡守には給料の外に客がはずんだ酒代、つまりチップがあった。夜中の客や急用で渡りたい人は、渡守に必ずチップをはずんだから、親方も渡守もよかったに達いない。だから入札して下請の権利を争ったということで、相当に魅力のあった仕事であった。
 昭和二十七年までは町営の有料渡船であったが、翌二十八年からは二級国道二三一号札幌留萌線となり、この渡船が国道の一部であるから国営渡船となる。所有船舶は客船、磯舟など四隻、運行時間は午前六時から午後九時までとされた。この渡船の最盛期は昭和四十六年前後であって、一日平均四~五、〇〇〇人、一、五〇〇~二、〇〇〇台の車が利用し、年間百四十万人、四十二万台を運んでいる。夏の海水浴時期には、札幌から厚田方面に向かう車が、三〇〇m以上の列を作り、一時間以上待たされたことも珍しくなかった。
 昭和四十七年八月に「石狩河口橋」が開通となると、自動車は橋を利用することになり、渡船場は急に凋落し、昭和五十三年三月三十一日をもって、その長い歴史にピリオドを打った。

Question 190

 この川に現在の橋が架かる前は、どこでもそうであったが、ここにも渡船があった。「渡船開始以来七十五年間十一代にわたる船頭と部落民の血のにじむ協力によって一件の事故もなく大きく地域の発展に貢献した」と案内板に記される渡船は、次の内どこか。

①札幌市当別町間「カマヤウス渡船」
②由仁町栗山町間「円山渡船」
③滝川市雨竜町間「伏古渡船」
④幕別町池田町間「千代田渡船」

Answer

③滝川市雨竜町間「伏古渡船」

 ここ石狩川に江竜橋が架かる前は「伏古渡船」があり、雨竜町伏古と江部乙町十二丁目を結ぶものであった。町教育委員会が立てた案内板には
石狩川伏古渡船場跡 蝦夷の昔、この付近には十四、五戸のアイヌ部落があり丸木舟を使って、狩漁をしていた。明治二十一年(一八八八)三条実美を中心とする華族組合農場が開設されてから入植者移民招致のため、この渡船場の必要性が増した。当初は坂口幸太が丸木舟を利用して従事していた。明治三十四年本町開拓に当った蜂須賀茂詔は、この渡船の管理を伏古部落(代表石橋久吉)に委託したが、交通量の増大により費を援助して、ワイヤー利用の滑車式流速応用(巾二、四米、長さ十二米)の馬渡舟による運行とし、当初は低廉な料金を徴収したが季節による水量の変化、流水の漂蕩、融雪期の流氷等幾多の阻害に阻まれこの運行は一方ならぬ苦心と経営的にも困難があった。昭和二十九年(一九五四)道庁は、この渡船場の重要性を認めて道営渡船場に指定し無料とした。しかしその後の地域の開発に伴う交通量の増大と渡船による人命の危険を考慮して永久橋架設の議がおこり、昭和三十三年着工、七年の歳月と巨費を投じて待望の江竜橋(八〇八米)が完成した。想えば渡船開始以来七十五年間十一代にわたる船頭と部落民の血のにじむ協力によって一件の事故もなく大きく地域の発展に貢献した伏古渡船は本道渡船史上特筆に値する業績を残し、昭和四十年九月その幕をとじたのである。
                                   雨竜町教育委員会
とある。
 昭和四十年九月に、橋長八〇八mの「江竜橋」が完成し、明治二十二年(一八八九)以来の七十五年という渡船の歴史を閉じたのであった。
 雨竜町南伏古に建てられている「渡船跡」という碑には「明治二二年丸木舟によってはじめられた伏古渡船場は昭和四〇年九月の江竜橋の完成とともに七〇余年の歴史を閉じた 仍て本町開基八〇周年を記念して茲にこれを建てる
  昭和四四年九月 雨竜町長 松実菱三書」とある。

Question 191

 住民の永い間の悲願がここに実り、橋の完工祝賀会が開催された。会に先立ちこの渡船場で事故に遭い犠牲となった三十二名の追悼式と、遭難之碑の除幕が行われた。通学途次の児童並びに渡舟人十九名を初めとして今日まで実に三十二名の尊き人命が失われた渡船は、次のうちどこか。

①栗山町由仁町間「古川渡船」
②豊頃町「茂岩渡船」
③中川町「歌内渡船」
④根室市「潮切りの渡し」

Answer

③中川町「歌(うた)内(ない)渡船」

 昭和三十五年七月、住民の永い間の悲願がここに実り、天塩国中川郡中川村の「歌内橋」完工祝賀会が開催され、会に先立ち、この渡船場で事故に遭い犠牲となった三十二名の追悼式と、遭難之碑の除幕が行われた。歌内橋遭難の碑の除幕にあたり「在りし日の諸子の面影を偲ぶとき、涙新たにして萬感交々胸に迫るものがあります。…困窮せる村財政としては容易に橋梁の新設も出来ない儘開拓時代より伝統的とも云うべき渡船を利用して、人馬の交通は勿論、農産物搬出等に多大の不便を感じたばかりか、昭和十五年(一九四〇)五月には、この渡船を利用して通学中の児童十七名…。現在までこの地において水魔の犠牲となられた方々は、実に蕾にもたとうべき前途尚多くの青春を残して、嵐に散るが如く幽明界を異にして、永劫相見ることのできないことは、痛惜の情禁じ能はず、心より哀悼の意を表す次第であります。…在天の諸氏よ、過去二十数年来住民一丸となって架設の要請を行って参りました歌内橋も諸氏の至誠天に通じ関係御当局の特別なる御詮議御決定に依り昭和三十一年三月、全額国費を以て建設の槌音も高く着工されまして、…最早今後如何なる豪雨が襲来しようとも流失等の憂いなく、外観の美、又彩を放つ立派な歌内橋により、私共は益々本村進展のために、一層努力することを固く御誓い申し上げる次第であります」と、七千の村民を代表して岡田国一村長が追悼の詞を述べている。
 橋が完成すると犠牲者の霊を慰めるために、ゆかりのこの地に「遭難乃碑」が建立された。碑の高さは三尺三寸、幅二尺(一・〇九×〇・六一m)のもので、碑石は三段の台座の上に建っている。碑は当時の人々の悲願が強く込められたものとして、訪れる人の心を打つ。この歌内橋の完成によって、昭和三十五年七月十一日付けで悲惨な歴史を持つこの渡船は廃止となった。

Question 192

 明治の末から架橋の運動が行われてきたものの、なかなか実現に至らず、渡船も限界に達してきた。そこで暫定的に北海道で初めてのフェリーボートが、昭和三十四年八月から、一日二十八往復で就航した。この事業は道内で最初の事業であった。この渡船は次のうちどこか。

①天塩川「天塩河口渡船」
②厚岸湾「厚岸渡船」
③石狩川「石狩渡船」
④十勝川「旅来渡船」

Answer

②厚岸湾「厚岸渡船」

 厚岸の町は今から三五〇年も前から、松前藩によって開かれた歴史を持つ町である。湾の奥には周囲二八㎞の小湾の厚岸湖があり、湖の北側が厚岸町港町といい、南側が奔渡町となっている。この奔渡町を中心にして厚岸町は発展してきた。この湖の入口部分は水路となっているため、当然のことながら渡船が必要であった。厚岸渡船はアイヌが丸木舟で往来した昔にさかのぼる。やがて渡船の経営は町に移された。十二月下旬から三月下旬までは、結氷のため渡船は欠航となる。そこで人々は他の渡船場と同様に、氷上の通行となり命を落とす悲劇も絶えなかった。やむなく氷を渡る時には、永い棒を持ち、ミシッといったら必ず後ろに退くこととされていた。船頭は道案内人となり渡船賃と同額を受け取っていた。したがって高校生や勤め人も同じ町に住みながら、下宿を余儀なくされていたものである。
 渡船の利用者は、昭和二十八年になると、二、四〇〇人/日となった。やがて湖南地区及び湖北地区の人口が増加してきた。明治の末から湖口架橋の運動が行われてきたものの、なかなか実現に至らず、渡船も限界に達してきた。そこで暫定的にフェリーボートの就航運動が強く叫ばれ、日本道路公団の手によって昭和三十三年九月に着工され、翌三十四年八月一日から、北海道で初めてのフェリーボート厚岸丸が就航となり、一日二十八往復となった。この事業は日本道路公団が北海道で最初の事業でもあった。
 厚岸大橋は、五年の歳月を費やして昭和四十七年九月に、住民の悲願がここに実り、待望の橋長四五六・五mのワーレントラスの誕生となった。「厚岸町一本化のために」という合言葉のもと、長い間、架橋実現を悲願としてきたものであった。町では「幸せにかける橋」と名付けた。

Question 193

 明治四十年に開設されて以来、八十五年余の永きにわたり、川によって分断され、人々に愛され、親しまれ、利用されて国道唯一の渡船が、橋の完成によって平成四年十一月に廃止となった。それは次のうちどれか。

①石狩川「美浦渡船」
②十勝川「旅来渡船」
③遊楽部川「遊楽部渡船」
④湧別川「湧別川口渡船」

Answer

②十勝川「旅来(たびこらい)渡船」

 十勝川の河口から約九・六㎞上流地点である右岸の旅来と、左岸の愛牛とを結ぶこの渡船の長さは、平水時で約二七〇mである。この路線は明治四十年(一九〇七)五月に、豊頃村道として認定されたことに始まる。しかしその以前から渡船が行われていたとされる。昭和三十七年七月、道道に昇格となり、人馬を対象にして運航され、船は豊頃町で使用していたものを引き継いでいた。
 この渡船のある路線は、昭和四十九年に一般国道三三六号に指定された。利用者は主として愛牛地区の住民の一部か、旅来から大津または茂岩へのバス便利用者か、山菜摘みの老人であった。また、なかにはオートバイや自転車での旅行者が、地図を頼りにやってきて利用していた。さらには物好きな若者が、経験を目的に往復利用したりもしていた。
 豊頃町と浦幌町は十勝川によって分断されていて、国道唯一の渡船によって結ばれていたが、住民が永い間待ちに待った「十勝河口橋」の建設が、昭和五十八年から始まり、橋長九二八mの「十勝河口橋」が、平成四年十二月八日に完成となる。ここに地域の足として活躍し、喜びと悲しみを秘めた「旅来渡船」の歴史が閉じられることになった。国内唯一の国道渡船の歴史を後世に残そうと、豊頃町側に「旅来渡船記念の碑」が建立された。「旅来渡船は、明治四十年五月に開設されて以来、今日まで八十五年余の永きにわたり、地域の足として、人々に愛され、親しまれ、利用されてきましたが、この度、一般国道三三六号の十勝河口橋が完成したことから、その役割を果たし終えることになりました。本渡船は、人や物を乗せ十勝川を渡るとともに、明治、大正、昭和、そして平成へと移っても時代の流れも渡り続け、最後は国道に残された唯一の渡船として、その歴史を閉じることになった次第です。この歴史的渡船場跡を後世に伝えるため、ここに碑を建立し記念とします。   平成四年十二月八日 帯広開発建股部長 木元喬之」と刻まれている。

Question 194

 昔変わらぬ渡船交通を行っていたこの川に橋が架設され、永い間馴染まれてきた渡船が姿を消すことになった。全国的にもこんなことはないとの悪評と非難のうちに、全国で初めて国が道費道に立派な橋を架設、渡船が廃止となったのは、次のうちどれか。

①十勝川「千代田渡船」
②天塩川「瀬尾渡船」
③雨竜川「多度志渡船」
④空知川「住吉渡船」

Answer

①十勝川「千代田渡船

 国道二四二号の十勝川に架かる橋が「千代田大橋」であり、千代田渡船の歴史を経て、沿線市町村の振興に大きく寄与している橋である。北海道の開拓の初期から、この道路は帯広~北見に通ずる幹線の道路であって、幕別から池田に抜けるためには十勝川の渡船によらなければならなかった。明治三十二年に供用が開始されたもので、当時は川幅が六〇間(約一〇九m)であった。
 この渡船は国で運営していたこと、人馬が渡るにさほど問題がなかったことから、幕別と池田を結ぶ架橋計画が持ち上がったのは比較的遅く昭和十一年のことである。住民にとっては「ここに橋が欲しい」ということは、入植以来の切実なる願いであった。
 町では、架橋請願書を北海道庁長官に出した。しかしながら戦局の拡大から架橋は実現しなかった。昭和二十二年になって、架橋間題が再燃し「十勝川渡船に国費で橋梁を架設する陳情」が出された。昭和二十三年に関係町村は「この最も原始的なる、かゝる渡船連絡による爲の関係住民、また交通業者の不利不便は誠に想像に余りあるものがありまして、非能率的なる船の往復を待ちあぐむ貨物自動車、馬車は両岸に常時影を没する事なき状態であります。又、船より轉落死亡する人畜の被害は交通の繁激に比例上昇するの傾向にあり、亦これが船による運賃も相當の負擔と相成るのでありまして、ここに橋梁の架設は焦眉の急と存ぜられ関係住民の熱望している處であります」と陳情する。この「千代田大橋」は、帯広池田線に架かる橋である。そして昭和二十九年九月に完成となる。「昔変わらぬ渡船交通を行っていた幕別―池田間の十勝川に千代田橋が架設され、全国的にもこんなことはないとの悪評と非難のうちにようやく、しかも全国で初めての国が道費道に立派な橋をつくってくれた」というものであった。

Question 195

 幕末のころ道路が開削され、この川を渡るために渡船が設けられた。この時、旅人のために西岸と東岸とに渡し守を置き、葡萄蔓を川に渡して舟を渡した。現在その両人の顕彰碑がそれぞれ川の左右岸に建立されている。その渡船は次のうちどこか。

①十勝川渡船
②釧路川渡船
③豊平川渡船
④石狩川渡船

Answer

③豊平川渡船

 国道三六号の札幌市内に架かる豊平橋の歴史はどこの橋でもそうであったが、やはり渡船の歴史から始まる。安政二年(一八五五)幕府は、蝦夷地の直轄支配に乗り出し箱館に奉行所を置き、石狩調役を設けた。安政四年に三代目調役・荒井金助が石狩に派遣される。そしてこの年、奉行は銭函から豊平川を渡り、月寒台地を越え、千歳に通ずる通称「札幌越え新道」を開削した。この時、金助は旅人のために豊平川に渡し守を置いたのがこの渡船の始まりである。
 西岸には猟師の吉田茂八を、また東岸には宿屋のあるじ志村鐡一を置いた。両人は葡萄蔓を川に渡しながら舟を渡した。鐡一は「信州の劔客にして、石狩調役荒井金助氏の召に應じ、安政四年に移住す。幕命により豊平川の渡し守となれり」と、豊平橋のたもとに建つ碑文に刻まれている。鐡一は名の通った剣客であり、全国を修業して歩いただけあって、腕ぷしが強く、体つきも大きく、しかも君子の風格があったという。金助は、妻子と三人家族の鐡一に二人扶持を給与し、家具や諸道具、食料などを与え、駅逓としての食器や夜具など十人前を貸し与えた。
 吉田茂八は、石狩在勤の足軽亀谷丑太郎に使われていた農民であったが、鐡一だけ一人では寂びしかろうということで、金助が茂八に豊平河畔に移住を命じたのであった。河畔の碑文には「荒井金助の命により豊平川右岸の渡守志村鐵一の話相手として左岸の渡守となり札幌開拓に寄与した」とある。茂八は資性温厚にして豪胆、狩猟を得意としたという。
 この渡船は、石狩と胆振・日高の海を往来する役人や漁夫などに利用された。最初に豊平川に橋が架けられたのは、明治四年(一八七一)四月のことである。このころの豊平川は、数条の流れに分かれ、一本の流れではなかったという。

Question 196

 この渡船は、アイヌの丸木舟からハシケへ、そして舟橋へと変わり、待望の橋が架けられた。渡船は長さ九mの馬船二隻と長さ七・二mの人船一隻によって四人の取扱人によって運営された。しかし転覆事故もあり八人と馬一頭が遭難となった渡船は、次のうちどれか。

①空知川「住吉渡船」
②天塩川「歌内渡船」
③雨竜川「多度志渡船」
④夕張川「馬追渡船」

Answer

④夕張川「馬追渡船」

 栗山村・長沼村方面は、明治二十三年(一八八○)ころから入植者が増え始めてきた。人々の往来は夕張川を挟んで、アイヌの丸木舟によって行われてきた。その後、次第に入植者が増えてきて、この丸木舟では需要に応じられなくなってきた。そこで江川伝蔵や吉川鉄之助らが、ハシケを使って渡船場を開くことにした。明治二十六年(一八九三)七月一日に北海道炭鉱鉄道による栗山駅が開設されると、長沼村の移住者も増加を見せるようになり、人馬の往来が激しくなってきた。そこで吉川は人馬を一緒に乗せて渡る大型のハシケを持ってきて、栗山市街長沼通りと長沼東六線北十八号を結ぶ位置に渡船場を移して営業を始めた。しかしこれも間もなく両地区の発展に不便となってきた。吉川は明治三十年になって「舟橋」の架設を考え、同年八月に許可を得た。この舟橋は吉川の出資に加えて有志寄付を受けて架設したものである。夕張川は暴れ川であった。毎年のように洪水に見舞われ、舟や橋板が流されてしまう。「莫大な損失を受けながらの苦しい経営を続けた」のである。
 明治三十四年(一九〇一)になって、強い要望があった架橋が実現する。しかし予算は極めて厳しく、架橋材料などは半強制的に寄付させて請け負わせたという。この橋も夕張川の出水によって幾度か破損、流失が続いた。明治四十五年五月の出水で落橋となる。大正二年に新しい橋が誕生となったが、同五年の洪水で橋脚が損傷し、臨時に渡船施設が設けられた。そして復旧されたが、大正十一年八月の洪水で墜落し、再び臨時の渡船で交通を確保した。これは公営の渡船であって無料であった。やがて陳情が実を結び地方費支弁で架設が実現する。この間、渡船は長さ九mの馬船二隻と長さ七・二mの人船一隻によって四人の取扱人によって運営された。しかし転覆事故もあり八人と馬一頭が遭難となっている。大正十二年(一九二三)に橋長一六八mの木橋が完成し、渡船の歴史は閉じた。

Question 197

 この渡船は、明治十九年に上川新道開削が着手されると、工事に必要な物資補給と人馬輸送のために、この川を渡る渡船が必要となった。そこで同年六月に渡船が開設された。次のうちこの渡船はどこか。

①空知川渡船
②砂川渡船
③奈井江渡船
④美唄渡船

Answer

①空知川渡船

 この渡船は、明治十九年に上川新道開削が着手されると、工事に必要な物資補給と人馬輸送のために、この空知川を渡る渡船が必要となった。そこで三浦米蔵が出願許可を得て設置されたのがこの地方最初の渡船であった。この渡船は開拓時代の上川方面への唯一のものであった。明治二十二年以降移住者も多くなり、同年に橋長六七間(約一二一m)の仮橋が架けられた。「吾々移住者ノタメ囚人ガ大急ギデ橋ヲ架ケタトノ事、全部雑木ノ丸太斗リ板ハ少シモ使ハズ仕上ゲタリ。此迄ハ三浦ト云フ人ガ渡舟シテ居タルガ官ヨリ吾ノ爲仮橋ヲ架ケタル也」と、新十津川の移民が感激して記している。しかし十二月の洪水で流失してしまう。
そ こで以前と同様に渡船で往来することとなる。開拓者は総てこの渡船を利用しなければならなく、例えば明治二十二年の十津川移住人、滝川屯田以降の屯田兵やその家族、高官紳士をはじめ一般移住民にいたるまでの利用は数知れずであった。
 しかしこの橋は、明治二十二年十二月の洪水で流失してしまった。そこで以前と同様に再び渡船で往来することとなった。この上川道路は重要な路線であったことから、架橋の話が出てきた。資金集めの架橋株が発行され、明治二十五年に橋長が「六十間余(約一〇九m)幅二間」の木橋が架けられた。しかし、この橋も洪水で流され、再度架けた橋も流されてしまった。明治二十八年に架けた橋も流出となる。
 明治三十九年(一九〇六)十二月に、本格的な木橋が誕生し、翌四十年に渡船が廃止となった。現在の橋は、昭和四十四年(一九六九)十一月に橋長四三九mのものとなったものである。空知大橋の下には昭和五十一年十一月に、渡船場の歴史を伝える「空知川渡船場跡」という札幌軟石の碑がぽつんと建っている。

Question 198

 「渡船の事故は乗客ばかりでなく、渡し守が酒に酔って川に落ちたり、転覆の時乗客とともに生命を落とす者もいました」。いつ訪れるか予想もつかない水難の不安が、架橋への熱望となっていったとされる渡船があり、「五石八斗」というニックネームの渡し守がいた渡船は、次のうちどこか。

①夕張川「古川渡船」
②豊平川「上山鼻渡船」
③雨竜川「多度志渡船」
④尻別川「湯山別渡船」

Answer

③雨竜川「多度志渡船」

 雨竜川の多度志村竜水橋付近の渡船場は「大正二年の渡船料金表をみると、料金は往復で人が五銭、乗車・駄馬五銭、荷馬車一〇銭、荷物二〇貫まで一個一〇銭で、多度志まつりの日は五円位の収入になったといいます。日雇い出面賃が三四銭から五五銭のころでしたから、このように多くの収入に恵まれたので、渡し守の多くは常に酒に親しみ、対岸から大声で迎えを頼んでもホロ酔いで、到着まで三〇分もかかったといいます」。渡し守の杉本常蔵は「一日に一升や二升の酒を平気で呑む程の酒豪であったと」と伝えられている。また「渡船の事故は乗客ばかりでなく、渡し守が酒に酔って川に落ちたり、転覆の時乗客とともに生命を落とす者もいました。明治二十五年(一八九二)十月、深川で初めて渡船を経営した奥芳松も、渡船をはじめて間もなく、船を操っていて誤って濁流にのまれて命を失っています。…このように、渡船の事故で命を失った人々が毎年数人を数えていましたから、いつ訪れるか予想もつかない水難の不安が、ますます架橋への熱望となっていったのです」という。また酒豪の杉本の商店の通帳には、一年間五八〇升とあったと伝えられてもいる。つまり五石八斗ということから「五石八斗」というニックネームが付けられていた。したがって手紙なども多度志局五石八斗殿と書けば、間違いなく本人に届いたという。しかし大酒飲みの「飲兵衛」だけでなく、性格は無欲で、活淡な人柄であったともいわれていた。たとえば土方部屋で病気になり、逃げてきた若者をかくまい、医者にかけて養生させた後、旅費を与えて郷里に帰したという話や、部落の行事などには世話を率先して行い、人々に感謝されたともいわれていることなどの話が残されている。

Question 199

 道東地方に、風蓮湖「潮切りの渡し」と呼ばれていた渡船があった。当時この渡船は「鐡綱を通せざるをもつて、強風が吹き、荒波起こる時は、たちまち渡ることは能はず」であった。橋は現在も架けられていない渡船であるが、次のうち誤りはどれか。

①渡り長は道内で第一位
②架橋には膨大な費用がかかる
③国鉄標津線の開通で、渡船は廃止
④厚床―奥行臼―本別海を結ぶルートが完成

Answer

①渡り長は道内で第一位

 根室市の白烏の湖で知られている風蓮湖(ふうれんこ)の砂州の突端に「土びんの口」と呼ばれている遠太口(とうぶとくち)と、向い側の伏古遠太口間、約四五〇間(約八一〇m)の間には、かつて官設の渡船場があった。明治五年(一八七二)に根室市花咲町から標津町忠類までの間約九六㎞に道路が開かれた。この道路は通称「浜街道」と呼ばれていた「北海岸線」である。この街道の最大の難所がこの遠太口渡船であった。湖の入口であることからこの揚所は、強風が吹くと渡船は欠航し、海が時化るとまた欠航した。もちろん五、六人が乗ると満員という磯舟であった。大正二年(一九一三)の『根室要覧』には「渡頭の幅員二二〇間、その広闊なること北海道第四に位する。この渡しには鐡綱を通せざるをもつて、強風吹き、荒波起こる時は、たちまち渡ることは能はず。冬期結氷するをもつて人馬の往来を見る。渡し賃一人三銭五厘」とある。当時はチップをはずまなければ馬を貸してくれなかったり、時化(しけ)で渡船が足止めになったりしても、気持ちよく泊めてくれなかったという。やがて遠太ロと伏古遠太口の駅逓所には、旅人相手の店や、飲食店が軒を並べ、まるで宿場町の賑いをみせるようになる。明治四十三年(一九一〇)になって、厚床―奥行臼―本別海を結ぶルートが完成すると、この浜街道は利用者が少なくなってきた。これにつれて渡船も官営から民間委託となり、細々ながら営業を続けてきたが、昭和八年になり、国鉄標津線が開通となると、息の根が止められて渡船は廃止となる。やがてこの浜街道(風連湖公園線)は、東梅から本別海を結ぶ直線コースにあたり、大幅な距離の短縮ということで、知床―尾岱沼―根室―ノサップ岬のニュー観光コースの期待がもたれるようになってきて、この遠太口に橋が必要となるが、膨大な建設費がかかることで、簡単には実現しないで今日に至る。

Question 200

 明治時代、石炭を搬出するため炭鉱鉄道が開設されると、停車場附近に商店街が建ち並び、大変な賑いを見せてきたが、対岸に入植した人たちは渡船がなく、こっそりと鉄橋を渡り用をなすため轢死、転落する事故が発生、やむをえなく渡船が設けられたのは、次の内のどこか。

①当別町「カマヤウス渡船」
③栗山町「夕張渡船」
③由仁町「川端渡船」
④南幌町「藤田渡船」

Answer

③由仁町「川端渡船」

 国道二七四号の由仁町川端と栗山町滝の下とを結ぶ橋に「川端橋」がある。明治二十五年(一八九二)、北海道炭鉱鉄道は、夕張炭田の石炭を搬出するため「夕張鉄道」を開業した。この鉄道は石炭を主体に木材の輸送で名高かった。川端駅は明治二十七年八月に開業となると停車場周辺に商店街が建ち並び、木材伐採人夫が多く出入りし、市街地は大変な賑いを見せていたのであった。
 夕張川対岸の滝の下方面に入植した人々は、この夕張川に橋がないことから、夕張鉄道の鉄橋をこっそり渡って、川端市街地に出て、用を足す者が多くなってきた。しかし鉄橋を渡ることによって轢死、転落事故は後を絶たず、多くの悲劇を招いた。これに対して鉄道側では、事故防止のため、通行禁止の措置をとり、厳重な取締りに乗り出した。この結果、やむを得ず「滝の下渡船」が設けられた。
 大正時代に入っても渡船場があったが、監視員の目を盗んで鉄橋を渡る者が多く渡船利用者が次第に少なくなり、やがてその姿を消すことになった。
 このようなことから架橋の請願が早くから出されてきたが、多額の経費が必要なことから見放されてきた。農産物は川の浅瀬を渡して行くかまた、はるばる円山橋を南角田の方へ遠まわりしてくるより途はなかったという。
 やがて第二次大戦が終わって、夕張奥地の資源開発が注目されると、昭和二十五年になって夕張市紅葉山から由仁町川端に至たる道路が、開発道路に認定され、さらに川端ダムが計画されたことから「川端橋」の工事が、昭和二十五年八月から始まった。そして昭和三十一年に多年の念願がかなって木橋が架けられた。この木橋は、北海道炭鉱鉄道時代に架けられた鉄道の複線片方鉄橋の橋脚を利用してその上に架けられたものである。そして昭和三十九年にPC橋の永久橋誕生となる。


▲余記―「氷橋」

 渡船は冬になると川面が凍結して運航ができなくなる。そこで生活の知恵である「氷橋」を編み出した。官設、私般を問わず渡船場のある所では、冬期間必ずこの氷橋が架けられた。氷橋の管理は渡船扱人の仕事であった。
氷橋は川の流れの状態や、その年の降雪の多少、また気温などに支配された。浅瀬の多い上流地区では、比較的早い時期に架かった。これは流れてきた氷や雪が、浅瀬で詰まり次々と伸びて行くからである。この氷・雪が川面を覆うと柳のソダを敷き並べ、その上に雪を盛り、水をかけて凍らせる。しかしこれを維持するのも大変な仕事であった。氷橋ができる前の数日と、落ちてからの数日は、船が運航されず交通は完全に途絶となった。氷橋が落ちる寸前までは、住民が悠々と渡っていたが、足元まで水となり、氷の下を流れるゴーゴーという水音に、足が震えて歩けなかったという人は多かった。
ここに「氷橋架設方法書」というのがある。それによると、
一、結氷後適當ノ時季ヲ決定シ充分調査ノ上位置ヲ定ムルモノトス
二、所定ノ位置幅六尺ニ対シ八番線四條ヲ張渡シ兩岸ニハ杭ヲ打込ミ緊着セシメ其ノ上ニ粗朶ヲ敷均シ雪及水ヲ散布シテ結氷セシム
三、結氷後再調査ヲ爲シタル上通行セシム
四、常ニ人夫ヲシテ監視セシメ破損ノ都度修繕セシムルモノトス
となっていた。
音威子府村の物満内(ものまない)渡船場では、部落民が総出で上流の川岸の氷を切り、その上に人が乗ってロープで目的地へ引き寄せ、この氷をつなぎ合わせて「氷橋」を作って利用した。
昭和五十九年(一九八四)二月のこと、uhbテレビの人気番組である「なるほど!ザ・ワールド」という番組で、この冬の生活の知恵であった「氷橋」づくりが再現された。音威子府村筬島橋上流地点で試みられたもので、かつて氷橋を手がけたお年寄りらが、十日前から岸辺の氷上の雪を踏み固め、氷を厚くして準備してきた。先ず両端の氷を三角に切り落として川に流した後、川岸にそってノコギリで切れ目を入れる。住民ら五〇人が大きな細長い氷を切り離す作業を行い、この氷が流れだし、流れに乗って両側を斜めに結んだ。約三時間の作業の結果、幅二〇m、長さ一〇〇mの氷橋が完成した。
出来上がると早速渡り初めをして、昔の生活に思いをはせていた。事故の心配からすぐに崩され一日の短命に終わったのであった。

氷橋の話題の中に「氷が張ると近道ができて、こっちの娘さんがむこう岸に嫁にゆく話がまとまったり、むこうの娘さんの写真をもって、狐の襟巻をした世話好きの老人がこっちに話をもってきたり、そして話がまとまるころには、氷の橋がそろそろ危なくなるので『氷の橋のあるうちに』といって日取りを早めたりした」という。
昔から「川向には嫁をやるな」といわれていて、橋のない生活は不便であった。しかし冬になると事情が一変した。それは氷橋によって自由に往来できたからである。早朝に急用があっても渡船の出るまで待たなくてもよかったし、時間勝手に渡れたからであった。
時代の流れを伝える渡船の物語は、いつまでも後世に語り継いでいただきたいものである。
▲余記―渡船場概要

北海道の開拓当時は、各地の河川の治水工事が未施工であったことから、河床・河流の変化も激しく、かつ橋梁の架設の費用も財政上の理由から困難であって、渡船場の設置は交通上極めて緊急でかつ重要な施設であった。やがて次々に道路の開削が行われ、それに伴って橋梁の架設が行われられたものの、その急増に費用が追いつかなかった。
明治六年(一八七三)時点での川幅百間以上の渡船には、石狩川に二二〇間、天鹽川に一八〇間のものがあった。
明治十五年(一八八二)一月現在の渡船の箇所数は一一四があり、川幅百間以上の渡船には、石狩川二〇〇間、天鹽川一八〇間、尻別川一〇八間、音根川一八〇間、遠太川二〇〇間、野手土川三四〇間、釧路川一五〇間、猿間川一二〇間などがあった。
渡船について〔旧〕道路法(大正八年四月十一日法律第五十八号)には次のように定められていた。

第一章 總則
第二条 左ニ掲クルモノハ道路ノ附属物トシ道路ニ關スル本法ノ規定ニ從フ但命令ヲ以テ特別ノ定ヲ爲スコトヲ得。
一、道路ヲ接續スル橋梁及渡船場(略)。
第三条 本法ニ於テ橋梁又ハ渡船場ト稽スルハ前条第一号ノ橋梁又ハ渡船場ヲ謂フ。本法ニ於テ渡船場ト稱スルハ渡船ヲ包含ス。

また〔旧〕道路法施行令には

第十二条 道路法第二十六条ノ規定ニ依ル橋梁又ハ渡船場ヲ設クルコトヲ許可又ハ承認シタルトキハ管理者タル行政廳ハ地方ノ公布ニ依リ設置者並橋錢又ハ渡船ノ額及徴収期間ヲ告示スヘシ。同法第二十七条ノ規定ニ依ル橋梁又ハ渡船場ヲ設クルトキ亦同シ」。
第十三条 左ニ掲クルモノニ付テハ橋錢又ハ渡錢ヲ徴収スルコトヲ得ス。
一、軍隊。
二、演習習中ノ軍人軍属。
三、召集令状若ハ召集傅達書ヲ所持シ應召ノ爲通行スル軍人又ハ召集令状配達人。
四、簡閲點呼令状若ハ簡閲傅達書ヲ所持シ簡閲點呼ニ参會スル爲通行スル軍人又ハ點呼令状配達人。
五、徴發ニ関スル令状配達
六、徴發人夫及其ノ運搬人.
七、徴發物件及其ノ運搬人。
八、勤務中ノ憲兵又ハ警察官吏。
九、護送中ノ囚人又ハ刑事被告人及其ノ護送人。
十、水火災警防ノ爲又ハ其ノ演習ノ爲通行スル当該官吏吏員又ハ一定ノ服装ヲ爲シタル消防夫水防夫。
十一、尋常小學校ニ往復ノ兒童。
十二、受持區内ニ勤務中ノ修路工夫。

第十四条 橋錢又ハ渡船ヲ徴収スル者ハ徴収ノ場所ニ左ニ掲クル事項ヲ榜示スヘシ。
一、設置者。
二、橋錢又ハ渡船ノ額。
三、徴収期間。
四、橋錢又ハ渡船ヲ徴収セサル場合。

この外に「〔旧〕道路怯ニ依リ橋錢又ハ渡船ヲ徴収スルコトヲ得ル橋梁又ハ渡船場設置ニ關スル取扱方
という内務省令第二十三号―大正九年七月二十八日のものもある。
やがて明治十五年(一八八二)ころの三県時代は、それぞれの地区で渡船制度を定め、明治十七年における札幌県の渡船場数が五四個所となっていた。
同十八年七月からは渡船新造および修繕費が地方費の支弁となり、従来から行われてきた渡守の官費が部落民の負担となった。
明治十九年八月には根室支庁で、また同二十年一月には道庁で渡守服務心得、渡船取扱入の資格、渡船場の設備などの規定、同二十八年九月になり従来区々であった制度が統一された。
明治二十九年(一八九六)の時点における幅員一〇〇間(約一八〇m)以上の渡船場数は、石狩渡船の三〇〇間をはじめ一五箇所があった。
明治三十一年(一八九八)十月になり、以前の諸規定を廃止して、渡船取締規則および渡船取扱規程などを定めた。
これによって渡船場の各種設備、業務上の心得、賃金などに関して詳細な規定をして、交通の便宜を図ることになった。明治三十三年になり渡船場は国費負担と地方費負担とに区分された。また個人・町村の申請があれば私渡船場の設置を許可した。
明治三十四年(一九〇一)から九箇年において、新設計画数九〇個所に対して、実施数は一三〇個所に達し、また廃止の数が三〇個所となった。しかしこれらの渡船の施設は設備が不十分であったというが、当時は設備の充実よりも増設が急がれた。
こうして明治四十四年(一九一一)度末の時点では、人渡船一四九隻、馬渡船一七一隻、合計三二〇隻、渡船場数一九一個所に達した。

明治四十三年から昭和元年(一九二六)までにいたるまでの国費支弁渡船場は、新設一六八個所、廃止二二三個所となる。昭和元年度末現在、一六〇個所であって、地方費渡船場が一四個所、私渡船場が一九九個所であった。これらの渡船場には、多くの悲喜こもごもの歴史が今日まで伝えられている。

参考・引用文献(第二集)【本文からの移し替え分】(編著者・発行者・発行年等未調査)

三浦 宏編著「北海道の碑物語」北海道開発技術センター、平成七年
「三石町史」(Q114)
「北海道の民衆史掘り起こし運動―掘る」(Q130)
「新十津川町史」(Q137)
丸谷一三郎著「道の駅完全ガイド」(Q143~余記)
三浦 宏編著「北海道の峠物語」北海道開発技術センター、平成四年
「美幌町史」(Q159)
「北海道一〇〇選紀行」(Q159)
「道」(Q159、Q164)
「島義勇漢詩集北海道紀行」(Q163)
「シーニックバイウエー北海道」(Q174)
「津別百年史」(Q176)
「南茅部町史」(Q177)
「厚沢部町史」(Q179)
「丸瀬布町史」(Q181)
「道路史調査会報」(Q182)
「南区のあゆみ」(Q183)
「深川市史」(Q187)
「砂川のあゆんだ道」(Q188)
「栗山町史」(Q196、Q200)
「新深川市史」(Q198)
「沼田町史」(Q198)
「根室要覧」、大正二年(Q199)
「由仁町史」(Q200)
「北村史―上巻」(Q200余記)

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