WEBサンプル:北海道命名150年『北海道の道と路を知る事典』道路検定問題集(第三集) Q201~Q300

はじめに

全巻目次

編著者

橋梁関係

目次

Question 201

 開町以来「町一本化のために」という合言葉のもとに、長い間、架橋実現を悲願としてきた橋が完成し「技術の粋を尽くした豪華な姿・・・・この感激よ碑と共に永遠に風化するなかれ」と詠まれて、喜びを刻んだ「完成記念碑」が建立された。この橋は次のうちどれか。

①札幌市「幌平橋」
②釧路市「久寿里橋」
③旭川市「花咲大橋」
④厚岸町「厚岸大橋」

Answer

④厚岸町「厚岸大橋」

 昭和四十四年住民待望の「厚岸大橋」の起工式が行われ、これでやっと生活の不便が解消されるということで街中大騒ぎとなった。工事は同四十三年に着工、五年の歳月を費やして、同四十七年九月に住民悲願の橋が完成する。橋長が四五六・五m、幅員一〇・〇mのゲルバー形式ワーレントラス・連続トラスのものである。総工費十三億五千万円を投じて、道内で最初の海上橋の完成を見たものであった。開通式は知事や厚岸・浜中両町長によってテープカットがされ、親子三世代夫婦を先頭に渡り初めが行われた。
 開町以来「厚岸町一本化のために」という合言葉のもと、長い間、架橋実現を悲願としてきたので、町ではこの橋の両区を結ぶ「幸せにかける橋」と名付けた。
 昭和四十七年九月「厚岸大橋完成記念碑」が橋のたもとに建立された。碑文には
厚岸大橋 遂に完成す 厚岸を愛したすべての人の悲願は達せられた 頭を垂れて先人の苦労を偲ぼう 感謝と希望とが和の連帯となり 歓喜は街に溢れ海原に展ごり 山野に満ちている 技術の粋を尽くした豪華な姿は郷土の焦点 翠湖に映ゆる真紅は 愛と平和を希望する真実の色 この感激よ碑と共に永遠に風化するなかれ

と喜びが刻まれている。なにしろ厚岸町といえば「町の顔・厚岸大橋」とされ、名産の「牡蠣」が有名であろう。

橋梁学の粋結集し施工さるる 厚岸大橋は技術者の誇り   ―西村いわお

Question 202

 昭和六十三年八月、この橋が完成すると、丸木舟をデザインした親柱に「今碧空雲 薫風とともに橋架けつなぎ その思いをむすぶ」と刻まれた親柱兼記念碑が設けられた橋がある。それは次のうちどれか。

①石狩川「札幌大橋」
②豊平川「雁来大橋」
③十勝川「十勝河口橋」
④天塩川「天塩河口橋」

Answer

① 石狩川「札幌大橋」

石狩川の下流に架かるこの橋は、昭和五十六年に着工され、以来八年の歳月と総事業費七十億二千万円を投じて、橋長九八五・三m、幅員一二・〇m、連続鋼床版箱桁・鋼床版鈑桁のものであり、札幌大橋の完成にあたリ、橋の親柱を開通記念碑にみたてて、この開通の大きな喜びを刻んでいる。「この親柱は川の往来や漁をする生活の道具として昔、数多く利用されていた丸木舟をデザインしたものです。台座より上の丸木舟は札幌大橋の橋長九八五メートルの千分の一で制作されています」とあり

春群れるイトヨ ワカサギ 秋シャケ満る川 テシの漁 いにしえ遥かなる彼の岸をもとめ 丸木の舟操りてこの流れにむかう 今碧空雲 薫風とともに 橋架けつなぎ その思いをむすぶ いざともに橋守りとなりて ひかり綾なす二の河をわたらん―韮沢憲吉作詞・今村朋信書

と刻まれている。このユニークな親柱兼記念碑は、地域杜会、経済の発展を願って架けられたこの橋の将来を楽しみにしている。
この橋の完成によって石狩湾新港の流通機能が岩見沢市を経て、遠く道北・道東へと及び、札幌圏と岩見沢圏との相互交流が早く、より緊密になるだろう。さらには国道五号、十二号、二七五号の交通事情が改善され、総合的交通体系の確立が進むことになるとされている。

新架橋札幌大橋にふとぶとと 立つ親柱は丸木舟かたどる   ―難波薙子

Question 203

 多くの橋梁の中で、橋上から飛込みをしたという橋は多い。大正時代に極東オリンピック選手が、この橋から高飛び込みをして新聞に「鳥か飛魚か超人の妙技」と報じられたことから、以来この橋から飛込みをする人が増えたという橋がある。それは次のうちどれか。

①月形町「月形橋」
②札幌市「東橋」
③帯広市・幕別町「札内橋」
④旭川市「忠別橋」

Answer

① 札幌市「東橋」

 他の豊平川の歴史の古い橋と同様に、この「東橋」は、度々の出水で痛みつけられ、破損が繰り返えされ、その都度、修理・架け換えされてきた。
 大正六年(一九一七)のことである。極東オリンピック選手の内田正錬が、この札幌市の豊平川に架かる「東橋」から高飛び込みを実演し、区民を驚かせたことがあった。それ以来、この橋から飛込みをする者が増えたという。当日の新聞には『鳥か飛魚か超人の妙技」として、大きな見出しを付けて同選手を讃えていた。
 昭和五年に架けられた木造ハウトラスと桁橋五連の九八・六mの仮橋は、相当に立派なものであって、仮の位置に架けられたものの、本格的な木橋であった。橋の下の淵は素晴らしいプールであって夏には若いカッパ連中がよく飛込みをしたことでも知られている。「昼休みころは近くの工場で働く青年たちの絶好の飛び込み台となり、時にはトラスの最上部から飛び込んで拍手に照れる若者もいた。腕を横に張り胸を反らせて舞い落ちる姿は痛快であった。私も大人たちにまじって欄干から飛んで、腕白たちの羨望の視線を浴びて得意の鼻を高くしたものである」と関口英一はいう。
 なお、この「東橋」の橋名の由来は、札幌の東の位置にあったこと、大正天皇が東宮になられた年に架けられたことから命名されたと伝えられている。

吾もまた過ぎゆく人ぞ東橋を 渡る川風頬を撫でゆく     ―鎌野幸広

夕暮れの東橋欄干に幾人が 身をのり出せり鮭ののぼるや   ―三浦久子

Question 204

 橋は洪水になった時にも橋桁の下を増加した川の水が流下するように橋を架けるのが一般的であるが、洪水になったら水中に潜ってしまうことを最初から計算に入れた「潜り橋」というのが唯一北海道にあった。現在では新橋に架け換えられて存在しないが、その先代の橋は次のうちどの橋か。

①豊平川「砥山橋」
②石狩川「神仙橋」
③忠別川「東神橋」
④利別川「川合橋」

Answer

④利別川「川合橋」

 永久橋は、洪水などによって川の水量が増しても、橋桁の下を流下するように架けるものであるが、洪水になったら水中に潜ってしまうことを最初から計算に入れて造られた橋がある。これを一般には「潜り橋」と呼ばれている。
 池田町を流れる利別川の切り替えによって生まれた新水路に、先代の橋である川合橋(通称・潜り橋)が、昭和三十一年九月にPC単純床版橋で架けられた。橋長一三〇・七m、幅員三・〇mの橋であって、この橋の高さが堤外陸地と同じで、しかも流水部にだけ架けられたものである。橋には高欄はもちろんなく、増水時に立木などが橋に引っかからないように水没させるものであるので、したがって洪水時には通行は出来ず、しかも水が引いた時には土砂などを撤去しなければならなかった。完成後は多くの洪水にも見事な「もぐり」ぶりを見せていたのであった。
 やがて交通量が増えてきたので、大型車も通れる橋へという運動が起き、昭和四十八年に「川合大橋」として新橋が着工され同五十二年に完成した。橋長が四三二・〇m、幅員六・〇mのワーレントラス二径間と連続鋼鈑桁のものである。
 この「潜り橋」を全国的に有名としたのは、通称ドリカムのボーカル吉田美和が歌った『晴れたらいいね』であった。「雨が降れば、川底に沈む橋越えて、胸まである草わけて…」というもので、彼女自身の少女時代の体験でもあった。なんといっても古里への愛情実感の自然と遊んだ体験を基にしたこの『晴れたらいいね』という歌は「幼いこの体験が私の中で昇華された歌です。この町で生まれ育って、本当によかった」と語っていた。
 このような「潜り橋」の思想は、昔からあったもので、現在でも本州には何橋があるという。

Question 205

 終戦直後のこと、発電所を見学にきた小学校児童が、帰途この吊り橋を渡ろうとしたとき、突如ワイヤーで橋を吊るための鉄筋コンクリート柱が倒壊して、即死者二名、重軽傷者十一名を出したという橋がある。それは次のうちどの橋であるか。

①忠別川「八千代橋」
②石狩川「かつら橋」
③石狩川「江差牛吊橋」
④豊平川「砥山橋」

Answer

① 忠別川「八千代橋」

北海道電力㈱志比内発電所に通ずるために「八千代橋」というのが旭川市の忠別川に架かっている。この橋について、次のような話題がある。
「橋の事故というのはめったにないものであるが、昭和二十二年(一九四七)にこの八千代橋の倒壊事故のため多数の死傷者が出た」というものである。そして九月十三日の当時の新聞記事を紹介している。
それには「十二日午後一時四十分頃上川郡東川村六号日本発送電志比内発電所を見学の旭川市大成小学校児童が帰途、同発電所前の釣橋に差しかかった際突如鉄筋コンクリートアーチ状の柱(ワイヤーで橋を釣る為両側にわく形に立てられた二間程の柱)が倒壊、橋上にあった児童五十人は橋の上に乗ったまま二米半ほどつい落、崩れ落ちたコンクリートの柱に打たれて即死二名、重軽傷者十一名という惨事を惹起した…。」という。
最終的には死者が三名となった。そして「今、八千代橋上から見ると忠別川の流れは、川床の石まで見える澄みきった美しき周囲の静けさが、不気味なほどマッチしている。橋の両側には『五人以上同時に渡ってはならない』旨の立札があるわけだが、この橋を同時に五〇人が渡ろうとしたというとは、信じられないことである」とする。
この橋は橋長の一三三・九m、幅員一・二mの木造吊橋+鋼単純鈑桁のものであった。現在の橋は昭和四十二年に架けられたものであり、同四十七年と同四十九年に改良・修繕がなされている。

Question 206

 一つの橋で、川を挟んで所管がそれぞれ別々ということから、一時期左岸と右岸で片方が永久橋であり、片方が木造の橋というのがあった。新聞は「半分は立派な永久橋であるが、半分は朽ちた木橋という予算が生んだ奇妙なコントラスト」と報じられた橋は、次のどの橋か。

①星置川「星置橋」
②新川「天狗橋」
③発寒川「西茨戸橋」
④豊平川「御料橋」

Answer

④豊平川「御料橋」

 豊平川に架かる橋に二径間の「御料橋」というのがある。当時、川を挟んで左岸の一径間分の橋は、札幌市の所管であり、橋長二二・〇mが昭和二十九年に永久橋として完成した。残りの右岸一径間は豊平町の所管であって、橋長二三・〇mは昭和三十一年に完成したものである。したがってこの橋の全体は、橋長が四五・八m、幅員四・〇mの単純鋼鈑桁のものであるが、一時期は奇妙な姿をさらした橋であった。
 この橋について、昭和三十年十月の新聞は「危ない木橋・架け替えはまず無理 トン数制限で気休め 崇る予算難 半分だけ永久の奇形も」という見出しで「橋長四十五メートルの半分は立派な永久橋であるが、豊平町寄りの半分は朽ちた木橋という予算難が生んだこの奇妙なコントラストである。ここばかりではない、乏しい予算で市内の木橋の大半は耐用年数を超えたまま放置されている」とし「簾舞にかかる半永久、半木橋は二十九、三十両年に完成する予定で、二十九年に着工、どうやら半分完成したものの、残る半分の予算が三十年度お流れとなりぶざまな姿を曝している、係では朽ちて穴のあいた半木橋に気をやみ、三十一年度にはと躍起になっているが見通しは暗い」としていた。
 このことについて昭和三十五年頃、ごりょう橋が鉄骨の永久橋になる時は、数年にわたって橋の中央より左側が鉄骨の札幌市、右岸は老朽木造の豊平町と行政の違いが歴然と判断出来る妙な姿が続いたものであった。このような経緯があって、上流側の全体の完成となったものである。
 現在では赤く塗った桁と白い高欄が周囲の緑と美しいコントラストを見せている。橋の下流の崖は、この豊平川に珍しい柱状節理を造っていて、見事な眺めの景勝地をつくっていることから、ここを訪れる人が多い。もちろんかつて、この橋は奇妙な姿の橋であったことなどは知らずに…。

Question 207

 町道に架かる橋で、歩道部の高欄に付けられた記念のプレートは、通学する児童・生徒が吹きさらしに遭う辛さを軽減しようとして、その資金集めとしてメッセージや絵などを記したプレートを防風柵として、設置したユニークな橋がある。それは次のうちのどこの橋であるか。

①厚別川「北野ふれあい橋」
②ラウネナイ川「あやめ橋」
③漁川「あかね橋」
④利別川「愛のかけ橋」

Answer

④利別川「愛のかけ橋」

 本別町を流れる利別川の町道の橋に「愛のかけ橋」というのがある。平成元年に完成した橋長四一八・五mの橋である。この橋は本別町の南町と弥生町を連絡する橋であり、橋名は「愛情や温かみのある通学路をイメージさせる名称の橋」ということで広く町民から公募して決められたものである。この橋の高欄に付けられた記念のプレートがユニークであり、通学する児童・生徒が吹きさらしに遭う辛さを軽減させようとして、アクリル製の防風柵を設けることにした。そこでその資金集めのため、一枚五千円で三〇㎝四方の原版に、記念の文字や絵を描いてもらい、真鍮板に焼き付けて塗装、そして歩道部の高欄に取り付けたものである。
 このプレートは、町内外を問わず、応募された人の記念となる思い出のメッセージを、半永久に残すことができるものであり、デザインも自由で町当局も「愛のかけ橋メモリアル事業」として推進してきたものであった。
平成五年で募集を打ち切ったが、これには一一〇四人の応募があったもので、愛のかけ橋の四一八・五mの高欄に二二五〇枚が設置され、二二五〇の思い出がこの橋に残されているものである。
 またお盆や正月に帰省する人たちを歓迎するため、桁の両側に緑、燈色などの三色でライトアップし、里帰りをしたことが実感できるようにとの粋な計いもされている橋である。
最近は特に無味乾燥な公共土木施設から、ゆとりと安らぎを感じさせる憩いのある工夫がされた橋が、各地に誕生している。それぞれが地域のシンボルとなるようにと特徴をこらし、この「愛のかけ橋」もその一つである。

「愛の橋」隔て沈む太陽は 利別川を染めて我に射しぐる    ―高見沢姓子

Question 208

 一径間の木製単純桁橋としては、日本一の長さを誇っている橋がある。「地域の橋として通常の形式の橋では景観とマッチしない」ということで、周辺の景観とマッチする木製の橋が実現した。この橋は次のうちどれか。

①鶴居村「せせらぎ橋」
②滝川市「やすらか橋」
③岩見沢市「千樹橋」
④札幌市「山子橋」

Answer

③岩見沢市「千樹橋」

 岩見沢市内に周囲の景観にマッチした「千樹橋」が架かっている。この橋は萩園緑地から利根別川をはさんで、市民会館や図書館を結ぶ連絡橋である。この橋の架設に当たって「地域の橋として通常の形式の橋では景観とマッチしない」という意見が出された。従来の木製アーチやトラスでは、同緑地のイメージに合わない。しかし集成材では桁高が一・三mとなり、地盤より高くなってしまう。
 そこで桁高を低くするため、集成材の断面下層にカーボンケプラーを混入することで、桁の強度を向上させたものであった。これによって桁高が九〇㎝と抑えることができ、周辺の景観とマッチする木製の橋が実現したものであった。
この木製の橋は、三二・五mの橋長のものであって、一径間の木製単純桁橋としては、日本一の長さを誇っているものである。
 平成六年(一九九四)五月二十八日の午後、利根別川周辺の清掃などを行う「クリーングリーン作戦九四」の開会式の中で、総工費一億三千八百万円を投じたこの橋の渡り初めが行われた。この日、岩見沢市内で開催されていた「北海道植樹祭」に出席の知事も駆け付け、市長が高校生の命名による「千樹橋」のプレートを親柱に取り付けた。
川岸では市内の小学生スクールバンドが賑やかに演奏され、クリーン作戦に参加した市民らが、次々に渡りながら木橋の上から演奏を楽しんでいた。
 アメリカの会社が開発したこの新技術の橋は「橋脚がなく、これだけ長い木橋は国内で例のない橋」として、市当局では自慢をしている橋である。

Question 209

 道路橋を現位置に架け換えする場合、一般に仮橋、仮道をつくって交通に対処するが、この橋は「横取り工法」というものを道内で初めて採用、道路橋における新しい技術を確立した意義の深い橋とされているが、次のうちどの橋か。

①国道五号森町「濁川橋」
②国道三八号南富良野町「千代の橋」
③国道二三八号佐呂間町「信太橋」
④国道二七五号幌加内町「思案橋」

Answer

②国道三八号南富良野町「千代の橋」

 国道三八号南富良野町落合に、単純非合成鋼鈑桁の橋長四一・八m、幅員一一・〇mの「千代の橋」がある。石狩川水系のソラプチ川の支流、ペイユルシュ川に架かる橋で、狩勝峠除雪拡幅事業の一連として昭和六十一年に全面架け換えられることになった。
 旧橋は、昭和四十一年に架設された橋長四一・六m、幅員六・〇mの合成鋼鈑桁のものであって、新橋は従来の位置に架設されるものであるが、近くに迂回路もなく、当初は仮橋を架ける計画であった。しかし工期がかかる上に、工事が完了すると取壊しとなるので、かなりの工事費が必要となる。
 そこで新橋を旧橋の横に一旦架設し、そこに交通を迂回させ、旧橋の解体を行った。その後、夜間十時間の通行止めを行って、仮の状態で供用していた新橋を、一一・五m上流の所定の位置まで横移動させ、即座に交通に開放する「横取り工法」を採用することとした。これにより、大幅な工期短縮と工事費の節減を図ったという、画期的な橋である。
 この横取り工法は、鉄道の架設工法として多く採用されているもので、道路橋としては全国でも数例しかない。しかしこの橋のように斜度が四五度という斜橋では日本では初めてのものであった。なお、縦断勾配は一・一四%、新橋の横引きの時の重量は、約六〇〇tであった。
 昭和六十二年度の土木学会北海道支部では「幅員が大きく、多主桁であるため、ジャッキアップ・ダウン時の支点沈下による主構造、床版等に生ずる二次応力が問題となるが、力学的検討を行い、橋に与える安全性を確かめたほか、技術的に有用なデータ収集を行っている。わずかの時間通行止めをすることにより大幅な工期短縮、工費節減の可能性のある横取り工法について、本橋が道路橋における技術を確立した意義が大きい」ということで「技術賞」を授与するというものであった。

Question 210

 押出し工法としては最長かつ最多径間(昭和五七年当時)のものであり、厳寒地としては初めてのもので、今後の押出し工法架設の充実と発展に対し、本橋の果たした役割は非常に大きなものがあるとされた橋は、次のうちどれか。

①落部川「落部橋」
②美深川「美深大橋」
③幌内川「幌内橋」
④石狩川「江神橋」

Answer

④石狩川「江神橋」

 主要道道「旭川多度志線」の石狩川に架かる橋に「江神橋」がある。この橋は交通量の増加と石狩川の改修などにともない、架け換えが必要となってきた。そこで昭和五十四年から新橋に着手され、昭和六十一年十二月に橋長三二七・六mの七径間連続PC箱桁として誕生した。幅員は一一・五mである。
 この橋の特徴は、SSY方式と呼ばれる押出し工法を採用して架設したことである。日本で最初に押出し工法で架けられた橋は、室蘭市の幌萌大橋であり、それに続く道内で二番目の採用となっている。石狩川という河川の条件から、支保工あるいはクレーン車による架設は困難であった。そこで経済的、かつ確実に施工できる工法として、この押出し工法が採用されたものである。
 この工法は道路の上に主桁製作ヤードを設け、桁全体を二九のブロックに分割して製作し、橋台・橋脚の上に置かれた油圧ジャッキによって桁を持ち上げ、滑台の後退、桁を下げて滑台に載せる。そして桁を前方に移動するというものである。施工場所が北海道という寒地であったことから、冬期間は押出し作業が中断され、したがって施工期間が四年にもなっている。
 なおこの橋は、昭和六十一年度土木学会北海道支部「技術賞」を受賞している。これの選考理由として「本件に関する技術上での業績は、本橋が、押出し工法架設により等支間四六・六mを有する七径間連続PC箱桁・全長三二七・六mを片押し架設した当時最長で最多連続径間を誇る橋梁であることのみならず、昭和四十八年室蘭市幌萌大橋を施工して以来急速に多用されてきた押出し工法が、積雪寒冷な本道で、しかも氷点下約三〇℃にもなる厳寒地旭川市において取り組まれ、厳寒地対策のため架設機械や品質管理についての研究と改良を進め、押出し工法架設の適用範囲の実績を拡大した」ことにある。

Question 211

 積雪寒冷の地である北海道で、珍しいループ橋が昭和六十一年に誕生した。開通を前に市民からこの橋の愛称を募集したところ、一六四人から応募があり、親しみやすい名称をということで「スカイループ橋」とされるが、それは次のどれか。

①国道二三〇号「無意根大橋」
②国道二三一号「望海橋」
③道道古平神恵内線「大雪崩橋」
④道道小樽定山渓線「朝里大橋」

Answer

④道道小樽定山渓線「朝里大橋」

 道が昭和五十六年から小樽市朝里地区で建設を進めてきた「小樽の水がめ」朝里ダムが平成五年九月に完成した。このダムの建設によって、道道小樽定山渓線が水没するため付替え道路の整備が始まった。この付替によって橋が架けられた。ダムサイトの下、豊倉浄水場近くに基盤とダムの頂高が七〇mもあるため、ループ式の道路によって半径一四〇~二五〇mの円を描く「朝里大橋」が、昭和六十一年に誕生となった。
 現地において付替え道路の開通式が行われた。工事関係者約一五〇人が出席し、小樽土現所長、小樽市長らの手によってテープカットされ、地元の高校のブラスバンド、小学校の子供御輿を先頭に渡り初めを行って、盛大にこの道路の完成・開通を祝いあった。
 開通を前に市民からこの橋の愛称を募集したところ、一六四人から応募があり、作品が五五〇点にも及んだ。その中から選考委員会で親しみやすい名称をということで「朝里スカイループ橋」と決定する。この橋は、橋長が四八六・〇m、幅員八・〇~八・五mのものであって、縦断勾配が三・九%、最大橋脚高さが四七mとなっている。この橋の建設には総事業費二五億五千万円が投じられた。この積雪寒冷地では、珍しいループ橋となった理由について「当初計画は直線の道路橋」として架けられることになっていたが、周辺の朝里温泉街は「客が温泉街を見下ろしたまま通りすぎてしまう」と反対があったことから、このような橋となった経緯がある。
 十月ともなると、このあたりは紅葉の季節となり、色づく山々の景色が多くの観光客を呼び寄せる。そしてこのループ橋から、あたりの景色を堪能して走り去る。

現そ身の欝はこび来し山峡に 黄のループ橋空ふた分くる    ―畑中千恵子

Question 212

 アイヌ語で「聖なる地の橋(・)」の意であるとされる「チノミシリルイカ橋(・)」というのがある。橋の語源と由来からして「橋」の文宇が不要なものであるが、この橋は次のうちどこに架けられている橋であるか。

①旭川市「オサラッペ川」
②新冠町「ホロセップ川」
③八雲町「オコツナイ川」
④長万部町「オバルベツ川」

Answer

①旭川市「オサラッペ川」

 旭川市旭岡一丁目から北邦野草園へ行く道のオサラッペ川を渡る所に、アイヌ語の橋名の付いたこの橋が架かっている。チノミシリルイカとは、アイヌ語で「聖なる地の橋」の意であると、野草園入口に立てられた案内板にある。この嵐山一帯は、アイヌの人々にとってチノミシリ「聖なる地」であり、そこに架かるルイカ「橋」である。したがって「聖なる地の橋の橋(・)」とのことになる。初代の橋は昭和三二年に完成した木製の吊橋であった。そして橋名を「チノミシリルイカ」と命名された。渡橋式はアイヌの聖なる地の橋であるにもかかわらず、和人の三人の神主が神事を行っている。これについて吉田友吉は「昔から『橋』を必要としなかったアイヌの人たちには、命名、渡橋式典の〈カムイノミ神事〉はなかったのであろう」としている。現在の橋は、この吊橋が老朽化したこともあって、昭和五十四年に完成した。橋長七九・八m、幅員五・四mのものである。吉田友吉は「橋名板が取り付けられた。私は『チノミシリルイカ橋(・)』となっているのに驚いた」という。橋の語源と由来からして「橋」の文字は不要なものである。しかし吉田は「旭川開発建設部のお役人は、なぜ橋(・)の文字に固執するのだろう。なぜアイヌ語を理解しようとしないのだろう」と、橋名について述懐している。さらに「旭川開建のお役人には、どうしても『橋』の文字が必要らしい。〈チノミシリルイカ〉は、オサラッペ川の水しぶきと共に永遠に消えたのである」と憤慨して記している。
 しかし「チノミシリルイカは、河野広道博士の命名である。チノミシリは我ら・祈る・山、ルイカは近道。川すなわち道だったアイヌの人たちは橋を必要としなかったから、橋を表す言葉はなかった」とする。

Question 213

 ユニークな橋の名前で「なんだろう橋」というのがある。この橋の名は、町が公募した結果、地元の中学生が「遠くから見たときに、一体何だろう」と思わせるような願いを込めて応募し、それで決まったというものであるが、次のどこの橋か。

①札幌市「平岡公園」
②函館市「サニータウン美原」
③鶴居村「釧路湿原」
④弟子屈町「湯の島・水郷公園」

Answer

④弟子屈町「湯の島・水郷公園」

 弟子屈町の「湯の島公園」と、「水郷公園」の両公園を結ぶアーチ型木造歩道橋が平成九年に完成した。このユニークな橋の名前は町が公募した結果、弟子屈中学生が「遠くから見たときに、一体何だろう」と思わせるような願いを込めて「なんだろう橋」と応募、それで決まったものであった。
 この橋に使用された木材は、西アフリカ・カメルーン産のもので、比重が一・一という非常に重いボンゴジ材であって、オランダの会社が加工したものである。こげ茶色の木の色合いが周囲の景観に調和している上に、腐食に強く、そのままでも四〇年以上の耐久年数が期待できるという材料となっている。
 橋長は五五・〇m、幅員三・〇mであって、支間が五三・八mという木橋としては国内最長のもので、東京の潮風公園に架かる橋長五二・八mをわずかながら上回るものであって、全国一の橋長を誇るものである。建設には三年の歳月と、三億二千万円を投じて完成したものであり、橋の近くにはこの木材で作った小さな木琴も展示されている。
 夜間は両岸からライトアップ(午後十時まで)され、暗闇の中に浮かぶ幻想的な橋の姿を見ることができるようになっている。木材を使ったこの橋は、自然の景観と見事に調和しているという評判が高い。辺リの風景にマッチしたこの橋は、まさに一幅の絵になるものである。
 最近は木橋への関心が高まる中で、木材加工技術のめざましい進歩・発展にともない、再び脚光を浴びてきているものである。道東地区には、米松集成材で鶴居村の公園内に平成六年二月に完成した、橋長六・〇mの「せせらぎ橋」がある。この橋は公園のシンボル的な役割を担っていて、キャンプ場に訪れる人々に親しまれている。

Question 214

 北海道といえば「鮭(サーモン)」は有名であり、いたる所で鮭の遡上などを観覧することができるが、人と自然の感動との出会い、そして触れ合い、賑いなどを考えた舞台として特に「サーモン橋」と命名された橋があるが、それは次のうちどれか。

①蘭越町「尻別川」
②標津町「標津川」
③広尾町「広尾川」
④八雲町「遊楽部川」

Answer

②標津町「標津川」

 標津町のサーモンパークを経由して、標津市街と川北市街を直結する標津川に架かる橋に「サーモン橋」というのがある。この橋は、新しい町道標津川沿線に架かる橋であって、遠回リを余儀なくされていた標津―川北間の交通網整備と、整備計画が具体化してきたサーモンパークのアクセス道路として、平成元年に町の事業として着手されたものであった。そして翌年から道の代行事業として進められてきたものであった。
 橋長は二五七・〇mであり、歩道にはカラーブロックが敷かれ、高欄や照明灯に、鮭のデザインが配置されている。また橋の中央には、鮭の遡上が観覧できるバルコニーも二個所設けられていて、すべてがサーモンパークにふさわしい、美しい橋とされている。
 標津町はどこを歩いても漁獲量日本一を誇る「サケ」をシンボライズしている町である。メインストリートは鮭を像ったカラーブロックの歩道をはじめ、鮭をデザインした照明灯が立ち並んでいる。
 この町は鮭とのかかわりを強くアピールし、橋の高欄にも鮭のイメージを持たせている。この橋の架かるサーモンパーク周辺は、人と自然の感動との出会い、そして触れ合い、賑いなどを考えた舞台として整備されている。
なんといっても標津川は、一〇万匹以上もの秋鮭が遡上することで有名である。かつて国鉄の標茶―標津間に、昭和十二年十月に開通した六九・四㎞の標津線があり、標津駅(開設昭和十二年十月三十日)があったが、現在は廃線となってしまっている。

サーモンを見るサーモンに見らるる橋 サーモン橋は真横に吹雪く   ―丸山俊子

なお、千歳市を流れる千歳川にも昭和六十一年に完成した同名の「サーモン橋」というのがある。

Question 215

 「虹の橋」という橋がある。その名のとおり虹のアーチを思わせる外観は、広々とした空間を切取り、威容を見せている。橋上に優雅に高さ三五mのアーチをいだく橋であるが、次のうちどこに架かっている橋であるか。

①千歳市「千歳川」 
②芦別市「芦別川」
③札幌市白石区「厚別川」
④蘭越町「尻別川」

Answer

③札幌市白石区「厚別川」

 厚別川に架かる橋として「虹の橋」がある。都市計画道路である月寒上野幌通りは、旧国鉄の千歳線跡地を利用した自転車・歩行者専用の道路であり、昭和四十九年に暫定幅員三・〇mで整備され、同五十三年から街路事業として本格的な整備に着手されたものであった。この自転車・歩行者専用道路は、当時東札幌一丁目から北広島市境に近い厚別東通りまでの延長一〇・二㎞に及ぶもので、この厚別川の横断には橋がなく、その架橋が強く望まれてきた。そこで昭和五十四年十月からすでに撤去された鉄道橋跡に橋梁工事が着手され、同五十六年十一月に完成をみたものである。
 橋名の「虹の橋」については、地元小学生から公募し、親しみやすく、かつ橋の型のイメージに相応しい「虹の橋」と命名されたものであった。橋の高欄には名前に合わせて七色の輪が三九個取付けられていて、路面にはエンジ色の樹脂が塗られている。その名のとおり虹のアーチを思わせる外観は、広々とした空間を切取り、威容を見せている。この橋は市民のレクリエーション・ロードに相応しいように、橋上に高さ三五mのアーチを描く橋となっている。
 橋長は一一〇・〇m、帽員が五・〇mのニールセン系ローゼ鋼桁橋であり、アーチ部材には、塗装の維持の手間を軽減するため、特殊鋼材が使用されている。この鋼材は独特のチョコレート色であって、青空によく映えるものである。自転車道のシンボルとして、眺める者に楽しみを与えるため「形態」に重きを置いて架けられたこの橋は、空に向かって今日もその優雅なアーチを描く「虹の橋」である。銀輪群れるサイクリング・ロードに相応しく、子供たちの夢を誘うかのように、厚別川に架かっている優雅な橋であり、早朝、ジョギングや犬を散歩させる人、体操する人が見られ、一日の穏やかな始まりを望む地域住民の憩いの場でもあるとされ、晴れた日ではこの橋から札幌を囲む山々が一望できる。

Question 216

 道内には、春夏秋冬という四季シリーズの名が付けられた橋名がある。国道二七六号の美笛峠道路に架かる橋に、春笛・夏笛・秋笛・冬笛という橋があるが、次のような「春光・夏涼・秋紅・冬陽」と名付けられた橋は、次のうちどこか。

①国道二三七号「日高峠道路」
②旭川紋別自動車道「北見峠道路」
③道道小樽定山渓線「朝里峠道路」
④道道洞爺登別線「オロフレ峠道路」

Answer

③道道小樽定山渓線「朝里峠道路」

 平成十二年、通年交通が可能な道路とすべく整備が進められてきた、道道小樽定山渓線の朝里峠道路が完成した。従来、この朝里峠付近では道路は、急カーブ、急勾配が連続することから、冬期間が通行止めとなっていた。そこで道路管理者は昭和六十三年から新ルートによる改良工事に着手し、十二年の歳月をかけて、約三・三㎞の建設を進めてきたものである。この峠新道は、札幌国際スキー場など札幌から小樽にかけて、数多いレジャースポットを有する観光周遊道路であり、冬期間も通れるようにという要望が早くから出ていた。
 開通式では、この「ゆらぎ街道」を祝う会の代表者は、この一大観光周遊ルートの開通に大きな期待を寄せながら、喜びの挨拶をのべ、道路管理者も「観光に大きなインパクトがあるのでは。今後も質の高い道路整備をしていきたい」と挨拶する。
 新ルートには、三つのスノーシェルター、四つの橋梁、一つのトンネルがあり、区間総延長の約六割がこれらの構造物となっている。橋梁については、小樽側から札幌側に向かって、「春光橋」「夏涼橋」「秋紅橋」「冬陽橋」と、四季をイメージさせる四橋が連続して現れる。なかでも「冬陽橋」は、橋長六一二・〇m、幅員八・〇mの連続鋼鈑桁のものであり、約六〇〇mの山腹を走る。これらの四橋の中で、着工から最も永い六年をかけて平成五年に完成したものであった。
 この道路は、あたりの風景が変化に富み、特に秋の紅葉の時期は「綺麗の一語に尽きる」と評判が高く、各地から訪れる人が多い。また春から初夏にかけては山菜採りの車が列をなし、賑いを見せる道路でもある。

Question 217

 橋名に、人名を付けたものも割と多い。中でも国道三九二号の、橋の架設にあたり率先して尽力を惜しまなかったという、功績から付けられた「松五郎橋」などは有名であるが、これとは別に、職場で働いていた女性の名を連続して命名して付けたという橋があるのは、次のうちどこか。

①国道三九二号「白糠町」
②国道三九三号「赤井川村」
③国道四五号「三笠市」
④道道洞爺湖登別線「壮瞥町」

Answer

①国道三九二号「白糠町」

 人間に名前が付いているように、橋にも橋名が付けられている。橋名が決まるまでには人知れぬ苦労があったり、それなりの由来があったりする。橋名を決めるのは、一般に工事発注者であるが、その決め方にも色々あるようである。
①発注者だけの考えで決める。
②住民・自治体の希望を入れて決める。
③一般公募で決める。
④その他
である。その多くは①②が多いようであるが、③も最近目立つようになっている。
 一般には、地名そのものをズバリ付けるのが最も多く、また河川名や自然現象、四季、草木、鳥獣、数字、人名などを付けた橋も数多くある。
 国道三九二号が走る白糠町で、昭和四十年に茶路川に架けられた、橋長九八・〇mのPC単純T桁の美恵や、八重・由美・紀栄・白妙・美希などと名付けられた橋が続いている。
 この橋名を付けるにあたり、当時このルートの改良に携わった職員が集まって、色々と相談した結果、職場で働いていた女性の名前にあやかって命名したら、ということになったとされていて、珍しいこととされる。
 こんな話題も残されている。国道二三七号南富良野町金山の空知川に、昭和四十四年に架けられた「五月橋(橋長六四・四m)」と「緑橋(六九・一m)」がある。橋名の命名にあたり、当時の監督員が猛烈な「五月みどり」のファンであったことから、命名したとも伝えられている。

Question 218

 町道に架かる橋が老朽化したので、橋を架け換えることになり、町長は着工にあたり「ただ橋を造るのではなく、総工費の一%位を文化の薫りのするものに使おう」と提案、職員が知恵をしぼり「メロディーが流れる橋」と決まった。これはわが国で最初のものであるが、次のうちどこか。

①清水町「石山橋」
②静内町「シベチャリの橋」
③鷹栖町「北野橋」
④様似町「せせらぎ橋」

Answer

③鷹栖町「北野橋」

 昭和五十六年十一月、わが国で最初のメロディーが流れる橋として、上川地方の鷹栖町に誕生した「北野橋」は、通称「メロディー橋」として人々に親しまれている。
 先代の橋は木造橋であって、老朽化が激しく、昭和五十五年から架け換え工事に着手された。着工にあたり町長は「ただ橋を造るのではなく、総工費の一%位を文化の薫りのするものに使おう」と提案、職員が知恵をしぼり「メロディーが流れる橋」と決まった。
 そしてこの橋の高欄に、鼓笛隊の金属打楽器の「ベルリラ」の原理を採用、音階に合わせて長さを変えた一曲分五十二枚のアルミ製音階板の鉄琴けん盤が填め込まれていて、それを備付けの棒で橋を渡りながら叩いてゆくと「夕焼け小焼けの赤トンボ」の童謡になるという仕組みのものである。歌詞にある最後の「カラスと一緒に帰りましょう」というように「暗くならないうちに家に帰りましょう」との願いが込められている。今日も学校帰りの児童たちがマレットを叩いて「夕焼け小焼け」のメロディーを奏でながら通っている。
 橋長が九九・九mという橋の開通式としては、異常に報道陣が多かったものであり、全国的にも評判となって、マスコミにも採りあげられ、テレビでも全国放送されたものであった。テープカットの後、三世代夫婦を先頭に小学生が盤の叩き初めをした。町長は「牧歌的な雰囲気がとてもよい。これで町の子供たちが明るい心をもってもらえば」とこの橋を自慢していた。
 この鷹栖町は「トマトジュースのオオカミの桃」で有名であるが、日本で初めて誕生したこの「メロディー橋」によって、名物がまた一つ増えたのであった。穏やかな田園風景の広がるなかで、学校帰りの児童が鳴らすメロディーは、清らかなせせらぎと共に、忘れがちな〈ふるさと〉を思い出させる橋として評判が高い。なおこの橋は「建設省手づくり郷土賞」を受賞している。

Question 219

 札幌市内に架かる橋に、ドイツ国の都市名を付けた「ミュンヘン大橋」というのがある。恐らく道内では外国の都市名を付けた橋は存在しない。この橋はまさに「たて琴」を思わせる橋として有名であるが、橋名を命名するにあたり、次のうち誤りはどれか。

①札幌市と姉妹都市提携十五周年を記念
②橋の形式がドイツを中心に発達した形式
③完成時に姉妹都市提携市長が来札
④札幌市ではじめての斜張橋

Answer

③完成時に姉妹都市提携市長が来札

 札幌市が創建百二十周年の記念事業として、昭和六十三年度から建設を進めてきた、豊平川に架かるPC斜張橋の「ミュンヘン大橋」が、平成三年十一月に完成し開通式が行われた。この橋は、ドイツのミュンヘン市と姉妹都市提携十五周年を記念して、また、斜張橋の形式がドイツを中心に発達したタイプでもあることから命名されたものとされ、都市計画街路福住桑園通の一環として建設されたものである。
 形式は二径間連続PC斜張橋であり、橋長が一七一・七m、総幅貝は二八・六mとなっている。この橋は構造的にも特徴が多く、橋梁技術者の高い関心を集めた橋であって、取付道路を含めて四七億円の事業費を投入したものであった。桁の両側に立てられた高さ五三・五mの主塔から伸びるハープが豊平川橋梁群の中でも、一際目立つものであり、国内でも珍しいという二本立柱の非対称型のものである。
 開通式にはミュンヘン市長のメッセージが披露され、完成時には、夕暮れが迫まるとライトアップされ、世界にも例のない難条件下の架設工法に挑むなど、それぞれの技術力を結集。国際都市札幌のシンボルにふさわしい橋梁が完成したとされていた。
 ミュンヘン大橋は見る角度によってケーブルの幾何学的な交錯が変化して目を楽しませる。橋の中央部にはバルコニーが張り出していて、歩き渡る人の憩いの場ともなっている。月明かりの夜など、藻岩山のふところに抱かれたこの橋が、まるで十二弦のたて琴が妙音を奏でるような幻想にさそわれるとされる。

ミュンヘン大橋に吹く風の普は ハープか秋の穹高く澄む     ―渡部辰美
吹く風はハープの弦を鳴らすらむ ミュンヘン大橋架る秋空      同

Question 220

 橋名には、地区の開拓の先駆者として活躍した人や、橋の架設にあたり、並々ならぬ尽力したという人の功績を称えて名を付けたものなどもあり、また北海道の開拓期に活躍した米国人技師の名などもあるが、特に橋名の由来を記した説明板が付けられている橋は、次のどこの橋か。

①上川町「ライマン橋」
②白糠町「松五郎橋」
③幌加内町「中垣橋」
④帯広市「依田橋」

Answer

②白糠町「松五郎橋」

  自糠町を走る国道三九二号の茶路川に架かる橋に「松五郎橋」というのがある。この橋名の由来は、この橋の架設にあたり、尽力した高橋松五郎の功績を、後世に伝えるため名付けられたものである。
橋長が一六三・一m、幅員六・〇mの活荷重合成鋼鈑桁のもので、昭和三十七年十一月に、工費六千百六十四万九千円で完成されたものである。 橋のたもとに、この橋の由来を記した説明板が立てられている。それは、高橋松五郎は明治四年神奈川県に生まれ同四四年より当地に入植し爾来開拓の先駆者として活躍又昭和二十七年此の地に初めて木橋が架設に当たり率先して尽力を惜しまなかったので其の功を讃えて松五郎橋と命名されたとある。
 個人の名を付けた橋は数多く各地にあるが、この橋はその業績を後世に伝える橋として、名誉のある橋の一つであろう。
なお外国人技師の名を付けた「ライマン橋」は、国道三九号上川町大函地先に架かる橋長七〇・〇mの連続鋼鈑桁の橋で、開拓使時代の初期、北海道の地質調査などで貢献した米国人技師のB・S・ライマンの名にちなんで付けられたものである。ライマンは明治五年に来札し、石狩炭田や金属鉱山の調査を行い、北海道の開拓時代に大きな功績を残している。すぐ近くに「ライマン滝」を見ることができる。

Question 221

 平成三年「おしゃれに変身した天狗橋」が誕生した。この橋のたもとに、橋の名の由来が「石碑」に刻まれて置かれている。この天狗橋という橋は、各地にもあるが、石碑に橋名の由来を刻んでいる橋は、次のうちどこに架かっている橋か。

①幌加内町「雨竜川」
②留萌市「留萌川」
③八雲町「野田追川」
④札幌市「新川」

Answer

④札幌市「新川」

 札幌市北区と西区発寒鉄工団地を結び、新川に架かる橋に「天狗橋」がある。明治四十五年(一九一二)に初代の天狗橋が架けられた。この木造の橋を架けた時の工事請負の棟領が、鼻の高い人であって「天狗」のあだ名があったことにちなんで、名付けられたとされる。
現在の新橋は、平成三年三月に「おしゃれに変身」した橋であって、快適な水辺空間の創出が図られた橋として、好評を博している。橋のたもとにある石碑に由来が刻まれており、

天狗橋の由来 明治四十二年に新琴似側に発寒特別教授所、つまり今でいえば小学校の分校が設けられて対岸の発寒からも生徒がきていたという。言わば通学橋の元祖といえる橋である。天狗橋の名がついたのは同四十五年ごろの新橋架け替えのときである。橋のたもとに住む草分けの古老は、架橋のとき毎日木ッ端拾いに行ったという。また工事請負の棟領が鼻の高い大きな人で天狗の仇名があり、子供達も〈天狗のおじさん〉と呼んでいたと語っている。天狗の架けた橋ということから天狗橋と呼びならわし、それが橋名となったものである。この天狗とは琴似屯田兵堀内清四郎のことであった。 平成三年三月吉日 建立札幌市〈札幌地名考より〉

 この橋の高欄には天狗橋の名にちなんで子天狗を型どったパネルが組み込まれていて、照明灯にも子天狗を型どったパネルが付けられている。
 なお国道二二七号の中山峠近くに天狗・下天狗・中天狗・上天狗と天狗の名の付く橋が架かっているが、なぜ天狗の名が付けられたのかは定かでない。また小平町の道道にも天狗橋が架けられているが、これはすぐそばに聳えている天狗岳から取った橋名であろう。

Question 222

 斜張橋は、全道各地に架けられているが、特に「竪琴を二つ並べたような優雅さを誇っている」橋であると市民は自慢し、全国街路事業促進協議会主催のコンクールで、同協議会議長賞を受賞、一般公募で「ツインハープ橋」と名付けられた橋は、次のどこに架かっている橋であるか。

①釧路市「新釧路川」
②由仁町「夕張川」
⑧旭川市「忠別川」
④赤平市「空知川」

Answer

③旭川市「忠別川」

 二一世紀に向けて国際化を目指す旭川の街を象徴する橋として「ツインハープ橋」が平成三年九月十七日に開通式を迎えた。昭和六十二年から着手されてきた、主要道道旭川環状線に架かるもので、橋長二八〇・〇m、幅員二七・〇mの三径間連続PC斜張橋である。この独立一本柱形式の一面吊PC斜張橋としては、国内でも最大級のものであって、二本の主塔から計七二本の斜材で主桁を吊っている。形式の採用に当たっては、地形・地質条件や施工性、経済性、景観などとともに、冬期における道路の機能などが加味されて検討され、この斜張橋タイプの橋として決定されたものであった。高さ四〇mの二対のハープが、大雪連峰を背景にして、一際目立っているものである。その名が示すように、美しいハープを連想させる橋である。
 橋の中央にはバルコニーが設けられていて、雄大な景色を眺めることができ、夜間にはライトアップによって、新しい「旭川のシンボル」の橋を浮かび上がらせてくれる。この橋は全国街路事業促進協議会主催のコンクールで、建設大臣賞に次ぐ同協議会議長賞を受賞した作品である。このコンクールには全国から五十四件の応募があった。連日各社の新聞は「道北の名所になりそうだ」とか「旭川の新しいシンボルの誕生」とかとし「水上に浮かぶ二つのピラミッド。巨大な竪琴を二つ並べたような優雅さを誇っている」とかと報じていたものである。なお橋名は、一般公募によって決められたものである。まさに「竪琴を二つ並べたような優雅さを誇っている」橋であり、夜になると、天女が舞い降りてきて二対のハープが美しい音色を奏でてくれる―そんなイメージの橋である。旭川のシンボルといえる橋である。


残雪の白じら見えて小雨降る ツインハープは霧にけぶらふ    ―谷口須美子
冬ざれの彩なき川に渡されし ツインハープ橋に夕茜は染む    ―芦館 和子

Question 223

 この「野鳥の橋」は、町民から募集して命名されたもので、人が渡ると一八種類の鳥の啼き声の中から季節によって選ばれた三種の啼き声がスピーカーから流れるというもので、近郊の人達に親しまれている橋であるが、次のどこに架かる橋であるか。

①今金町「利別川」
②上砂川町「パンケ歌志内川」
③美瑛町「美瑛川」
④上磯町「東股川」

Answer

Question 224

 新橋を架設するにあたり、街のランドマークともなり、快適な橋上空間を意識して計画され、住民に親しまれるようにと、橋名を公募したところ、数多くの応募があり、街の語源である「ルルモッペ大橋」と決まった橋は、次のうちどこの川に架かる橋か。

①七飯町「久根別川」
②標茶町「シラルトロエトロ川」
③遠別町「遠別川」
④留萌市「留萌川」

Answer

④留萌市「留萌川」

 留萌市内を流れる留萌川に架かるこの「ルルモッペ大橋」は、留萌市浜中町から三泊町までの留萌拡幅工事の一環として建設された橋である。この橋の建設は国道二三一号と、国道二三二号へのアクセス機能を高めると同時に、留萌港の港湾関連交通、市街地南北の交通の円滑化を図ったものであった。これまでは国道二三一号から二三二号ヘアクセスするためには、市街地を抜けて行かねばならず、大変不便であった。
 「ルルモッペ大橋」は、留萌管内で初の斜張橋で、着工以来四年の歳月と二十七億円の事業費を投入して完成し、平成八年十二月に開通式が行われた。開通式に先立ち、前日の二十四日に同橋の点灯式が行われた。主塔部をはじめ道内初のライトパイプ方式を使用した高欄に灯がともった。これは従来の照明とは異なり、面壁高欄上にライトパイプを設置し、直線的な照明によって、濃霧時や川霧、吹雪の視界不良な時でも、車輌を安全に誘導する効果が期待されたものである。留萌市のシンボルとしての光のシルエットに、見物に訪れた市民から「素晴らしいね」との歓声が挙げられたものである。またここで橋名の由来が紹介された。市民に親しまれるようにと、橋名を公募したところ、広い層から応寡があり、その結果「ルルモッペ大橋」と決まった。このルルモッペとは、留萌の語源であって「海の水が静かに入ってくる川の意」である。「ルル rur モ mo ぺ pe ゠潮が・静かな・川」とある。
 橋長七五・六m、幅員二九・五mで、管内初の単径間鋼斜張橋であり、中央の塔の高さは三〇mであって、合計六本の三段配置ケーブルで橋を支えている。橋の形式選定にあたっては、施工性や経済性に優れ、かつ景観的にも評価の高い「単径間一面吊り斜張橋」となったものである。この橋は留萌市の活性化を図り、新しいビューポイントとして、地域の魅力ある景観資源の充実を図ることが大きな目的の橋ともされる。

Question 225

 橋の名前の由来は「水面に我が身を映し、襟を正しく心を清めよう」として命名されたと伝えられ、誰いうとなく、いつしか「鏡橋」と呼ばれるようになったとされる橋がある。それは次のうちどこに架かっている橋か。

①函館市「亀田川」
②札幌市「月寒川」
③網走市「網走川」
④帯広市「ウツベツ川」

Answer

③網走市「網走川」

 網走市内の網走川刑務所入口に架かる橋が「鏡橋」である。この橋は、網走刑務所に収容される時、そしてまた晴れて出所の時に必ず渡る橋である。この橋の名前の由来は「水面に我が身を映し、襟を正して心を清めよう」と、誰いうとなく、いつしか「鏡橋」と呼ばれるようになったとされる。
 本橋は刑務所及び付属官舎のノドともいうべき個所にあり、出入りには必ず渡らなければならぬ橋である。その往き帰りに受刑者はもちろん職員もその家族も共々に流れる水を明鏡として自らエリを正し、心のアカを払拭し、心身共に目的の彼岸に渡る仲立ちとなるように命名されたものと伝えられるという。すなわち「刑期を終えて出所する人が、川面にわが身を映し、二度と悪いことをしてこの橋を渡ることが無ように」侮悟の念を持つという意味であろうとされる。
 網走市には年間、百八十万四千人(昭和六十年調べ)の観光客が訪れ、そして必ずといってもよい位に、少なくともその半数の人はこの橋を渡って網走刑務所を訪れるとされる。
 夏のシーズンともなればこの橋を渡る人の列は途切れることなく、若いグループ、家族連れ、団体などの観光客が、刑務所の大きなアーチをバックに写真を撮り、次の目的地へと向かう。
 この刑務所前の網走川に初めて橋が架けられたのは、外役所が設置された明治二十三年(一八九〇)のこととされ、昭和四十五年十二月になり、現在の橋長六八・八mの合成H型鋼橋となったのであった。観光シーズンともなると、この鏡橋から赤い煉瓦の塀に沿う約一五〇mの道路は往き来の人で溢れ、通称「番外地銀座」とも呼ばれるようになる。

朝霧に濡れつつ高き塀続く 網走刑務所の橋渡りゆく      ―明村 一

刑をへて橋渡る気持ちはかり難し 侮ありやは箔を誇れるや   ―橋本徳寿

Question 226

 橋梁の架設を迅速にするため、北海道開発局土木試験所で新しい技術を注ぎ込み研究した橋として注目を集めたプレキャスト・コンクリート・スラブ橋を道内で初めて架設して、その成果を確かめたという橋は、次のうちどれか。

①国道五号「星置橋」
②国道十二号「茶志内橋」
⑨国道二三〇号「南の沢橋」
④国道二三一号「茨戸橋」

Answer

②国道十二号「茶志内橋」

 昭和二十年代後半に、北海道開発局土木試験所では、橋梁の架設を迅速にするため、プレキャスト・コンクリート・スラブ橋の研究を行ってきた。そして国道十二号において、昭和二十九年(一九五四)に初めて、その成果の橋を美唄市と奈井江町の境に架けたのが「茶志内橋」である。橋長一一・〇m(一〇・五)のものであって、この橋の開発には開発局、富士鉄㈱など各方面の協力と、土木試験所の新しい技術が注ぎ込まれた橋として注目を集めたものであって、工費百四十六万八千円であった。
 この橋は古い橋台をそのまま使用し、従来であれば鉄筋コンクリートの桁を幾本も並べるものであって、それではコンクリートT桁の強度が不足し、桁を高くすれば路面がそこだけ高くなってしまう。そこで富士鉄㈱に特に依頼して長さ一〇mの鉄筋を作ってもらったものであった。従来の鉄筋長は最長で七・五mであった。
 土木試験所では薄く長いコンクリートを最も強く作るため、各種の試験と計算を繰り返し、遂に完成にこぎつけた橋であった。従来のような鋼橋でなく、工期の短縮と通行止めの期間も短くてすみ、経費も節減されるという新方式のプレキャストの橋が、昭和二十九年十月に完成したのであった。
 このタイプの橋は、三橋ほど直営で架けられたとされる。当時としては画期的な橋であった。参考までに、鉄筋コンクリートのプレキャスト橋は、昭和三十九年に国道三九号の牛朱別橋(橋長一一・四m、プレキャストRC床版橋)、同二二九号のヤエダウス橋(橋長七一・〇m、プレキャストRCT橋)が架けられ、RCのプレキャスト化が可能であることが実証されたのであった。
 このころからプレテンPC桁が北海道にも登場しはじめ、各地で架設されるようになってきた。なおこの茶志内橋に続いて、国道十二号奈井江町の十四号川に、昭和三十二年十月十六日完成の「栄橋」が架けられた。この橋も茶志内橋と同形式のプレキャストスラブというものであって、橋長四・八m、幅員一〇・〇mである。

Question 227

 本格的な斜張橋として道内では初めてのものであり、わが国でも二番目に架設された橋がある。橋梁径間の長大化が要求される傾向にあった当時の一試金石として意義の深い橋であったとされるこの橋は、次のうちどこか。

①十勝川「十勝河口橋」
②天塩川「天塩河口橋」
③石狩川「石狩河口橋」
④石狩川「神納橋」

Answer

④石狩川「神納橋」

 一般道道「神居古潭納内深川線(現在の主要道道旭川深川線)」に架かる「神納橋」は、橋長二五〇・八m、幅員六・〇m、主径間が連続斜張橋で、二@八〇・四m、側径間が合成桁で三@二九・四mで、昭和三十七年十一月十四日に、喜びの渡橋式が行われた。
 この神納橋は、本格的斜張橋として道内では初めてのものであり、わが国でも二番目に架設されたものであった。しかしわが国で最初の斜張橋は、同じ斜張橋であっても、桁橋を両岸に立てられた塔から斜吊するものであったのに対し、この神納橋では中央橋脚の上に立てられた塔から、両側にのびる連続箱桁を斜吊りするものであったから、この形式ではわが国で最初のものであった。
 この形式の橋は、昭和三十年ころ西ドイツで数例が見られるだけであって、橋梁径間の長大化が要求される傾向にあった当時の一試金石として意義の深い橋であった。西ドイツで施工されている情報を知った札幌開発建設部長・猪瀬寧雄は、早速神納橋に採用することにした。 
 また力学的な応用特性究明のため、約二〇分の一の模型を製作し、ケーブル応力の桁に及ぼす影響を測定し、ケーブルの碇着位置の決定などについて、実際の設計に反映させている。
 計画の段階から問題となることは、全て試験により解決するという方針とし、ワイヤーロープの性能試験、橋体の模型実験による撓み、応力測定、鋼床版舗装関係試験、完成後の実橋の撓み、振動試験等を行った。設計段階でも鋼道路橋設計示方書では不足な部分が多く、わずかに外国の技術雑誌に載っている資料を詳細に検討したりした。
 この橋の完成によって、開発道路の指定が解除となる。この橋の技術に対して土木学会北海道支部では「研究論文および計画、設計、施工、考案等の報告業績で、土木工学に関する学術および技術の進歩発展に寄与すると認め」昭和三十七年度「技術上での支部奨励賞」を授与し、表彰していた。

Question 228

 日本で第二番目、北海道では最初に完成したディビダーク工法によるPC橋がある。昭和三十六年に技術的に困難な問題を克服して完成させた橋であり、新技術の導入に意義のあったとされるこの橋は、次ぎのうちのどこか。

①倶知安町「倶知安橋」
②札幌市「盤の沢橋」
③旭川市「両神橋」
④小樽市「中央橋」

Answer

②札幌市「盤の沢橋」

 札幌市南区豊滝の旧国道二三〇号、盤の沢に「盤の沢橋」が架かっている。この盤の沢橋は、神奈川県の相模湖に昭和三十四年に架けられた「嵐山橋」に次いで、日本で第二番目、北海道では最初のディビダーク工法によるもので、昭和三十六年に完成した橋であった。
 この橋の特徴は、足場・支保工を組まずに架橋できることで「橋上に架設用作業車を利用しながらコンクリートを打設し、硬化後これにPSを与え、順次前方に継ぎ足していき中央で結合するものであり、昭和三十四年十一月に着工され、同三十六年八月に完成したもので、工費八千百三十七万円となっている。橋長一四〇・〇m(三〇・○+八〇・〇+三〇・〇)、幅員七・五mのものである。
 年々支間が長大化する中で、世界では地震に対する考慮が払われていない時代であったが、わが国では耐震設計の配慮を行いながら、技術的に困難な問題を克服しての建設であった。この適用技術の優れていたことは、特筆すべきものがあったとされる。
 形式の採用にあたっては「①盤の沢渓谷に暗渠を入れて埋め立てて盛土する ②谷の深さが最大三一mにおよび、ディビダーク工法を採用することが技術的に有利である ③自然美との調和を特に考慮する必要がある ④新技術の導入に意義がある」ことなどから決定したものであった。
 この橋は豊平川の渓谷、八剣山の奇岩を背景として、その姿が特に美しく評判の高い橋となっている。なお昭和五十一年に別橋として片側に三・〇mの歩道橋が添架されている。
 この橋から見る通称「八剣山」は素晴らしい。この山は、標高五〇四mの「観音岩山」というのが正式な名前とされる。また、見る場所と時期により、東から見れば熊、南から見れば老虎、西から見れば狂える獅子に形状が変化して見え、山頂に霧がくるときは、雲を呼び天に昇る相闘う龍にも見えるといわれ、簾舞八景の一つに数えられている」とある。この橋は、この八剣山を背景にして写真を撮ると素晴らしいといわれている。

Question 229

 昭和四十一年に架けられた、世界で最初のPRC構造の三径間連続ラーメン箱桁橋という橋が道内にあり「PC橋梁技術の新しい将来方向を示唆した、歴史に残る画期的な出来事であった」とされる橋は、次のうちどれか。

①森町「上姫川橋」
②天塩町「潮見橋」
③余市町「ヌッチ橋」
④小樽市「中央橋」

Answer

①森町「上姫川橋」

 国道五号森町地内の姫川を渡る橋に、世界で最初のPRC構造の三径間連続ラーメン箱桁橋である「上姫川橋」がある。半径四〇〇mの曲線橋で、昭和四十一年九月、工費六千五百二十五万円で完成のものである。
 このPRC工法というのは(Prestressed Reinforced Concrete)の略であり、北大横道英雄教授によって考案された工法である。
 「RCの有害なヒビ割れを防ぎ、耐久性を向上させる目的で、ヒビ割れ幅に制限を加えるべく、若干のプレストレスを付加するものであり、RCとPCの中間的構造である。使用鉄筋は、SDC四〇本を本格的に使用し、特に主鉄筋に最大径三二㎜を用い、そのつなぎ部にはFYカプラー(ねじ込み式カプラー)を使用した。この工法は鉄筋にネジ加工を行い、これによる断面欠損を補うため、カプラー本体の周囲に添材をつけコンクリートの付着力により力を伝達するものである。完成後も、構造的な挙動、カプラーの疲労試験など、長期にわたっての試験・測定が行われ、良好な結果を得て全国の注目を集めた。プレストレスの導入は、レオバ工法によって行い、その量は全体で約四七〇tである。また架設地点およびこの種の構造に最も適合した架設方法として、架設作業車によるブロック張出し工法を採用している」という。
 当時の先端を行く最新技術であった。この工法は、RC構造の欠点を補い、RC橋の長大支間橋梁への適用性を飛躍的に高めたもので「PC橋梁技術の新しい将来方向を示唆した、歴史に残る画期的な出来事であった」とされる。
橋長八〇・〇m(一五・九+四八・〇+一五・九)であり、幅員が七・〇mとなっている。

Question 230

 第二次世界大戦中、鋼材の不足を補うために考案されたのが「木コンクリート橋」であった。この形式は北海道が全く独自で考案した鉄筋コンクリート桁橋の代用橋梁工法のものであった。この形式の話題として間違いはどれか。

①戦時体制下で国家の目標に従って開発した工法
②戦後に架橋はない
③国道二三〇号「盤の沢地区橋」がその第一号
④戦時下橋梁の新工法懸賞寡集で一等に入賞

Answer

②戦後に架橋はない

 第二次世界大戦中、鋼材の不足を補うために考案されたのが「木コンクリート橋」であった。この形式は北海道が全く独自で考案した鉄筋コンクリート桁橋の代用橋梁工法のものであった。道庁では永久橋に架け換えを計画したものの、戦争の激化と資材の不足でこの計画は遂行不可能であった。
 昭和十二年(一九三七)に土木試験室(開発土木研究所の前身)が発足した。ここで鋼材を使わない半永久橋の開発が課題となった。高橋敏五郎らは、戦時体制下での戦略物資節約という国家の目標に従って、苦心に苦心を重ねて開発したものである。この工法は、戦後急速に普及した「鋼コンクリート合成桁」の先駆をなすものであり、コンクリート床版を圧縮部として利用するのは同じであるが、鋼材の引張部を木桁に受け持たせたもので、木とコンクリートとが一体となって働くように合成された桁橋のことである。
 種々実験を繰り返し、昭和十四年にこの工法の第一号の試験場を、定山渓道路の盤の沢に決めて施工した。結果は上々であった。この工法では支間が七m内外までは適したが、翌十五年にはさらに支間を一二mまで利用できる継桁工法を完成させた。木コンクリート橋は、従来の木造橋に比べて、耐久力は二倍以上、木桁と床版が一体となって働くため、載荷能力がはるかに高く、かつ架設が容易で工費もそれほど高くないこともあり、幹線道路の橋はいうまでもなく、地方の市町村道にまで急速に普及していった。戦後、最盛期を過ぎた昭和三十五年時点で、開発局所管の道路に二四六橋が残されていて、国道では昭和四十三年に架設されたものが最後のものであった。昭和五十四年現在では、一九橋が立派にその役目を果たしていた。なお昭和六十一年に解体された国道二七八号の南茅部町の「木真橋」(昭和三十八年架設)は、国営滝野すずらん丘陵公園内の園路橋として、一部復元され歴史を伝えている。

Question 231

 戦前における橋梁は、河川と直角に架けるのが一般的であったが、戦後になり、道路の線形に合わせて橋を架けるようになってきた。これによって斜橋や曲線橋が多く架けられてくるようになる。
この橋は北海道で初期のカーブ橋であるが、次の内どこか。

①忠別川「神楽橋」
②美瑛川「雨紛橋」
③空知川「野花南大橋」
④千歳川「清幌橋」

Answer

③空知川「野花南大橋」

 芦別市野花南地先で空知川を渡る橋が「野花南大橋」である。昭和三十六年十月二十二日に完成したもので、この年から始まった国道三八号整備の一環として架けられたものであった。それまでの野花南大橋は木造の橋であって、補修・修理が幾度もされてきていた。
 この橋は北海道で初期のカーブ橋である。橋長が一六八・〇m(五@三二・九)、曲線半径が二五〇mの曲線桁形式の溶接単純鋼桁のもので、幅員が六・五mである。この橋は曲げ梁が九本の横桁によって結ばれた形式のものであって、設計にあたりゴットフェルの理論が採用されている。
 戦前における橋梁は、河川と直角に架けるのが一般的であったが、戦後になり「橋梁は道路の一部である」という考え方から、道路の線形に合わせて橋を架けるようになってきた。これによって斜橋や曲線橋が多く架けられてくるようになる。これらの多くは非合成桁が採用されている。当時の曲線橋は、桁を直に造り、床版だけを曲線に造っていたものであった。なお道内で初めての曲線橋は、昭和三十三年に架設された羅臼町の「幌萌橋」であり、橋長二二・一m、半径五〇・〇mのものであった。
 また「地域性を生かした魅力あるデザインを施す必要があると考え、橋梁塗装の景観検討なども行った。空知川周辺の景観、すなわち周囲の山緑に映える橙色の塗装色について、景観上から当を得たものと今でも満足している」と当時の監督員は語る。
 昭和四十年(一九六五)十月二十九日、国道三八号の滝川~富良野間の舗装が完了し、滝川市役所前から工事関係者、施工業者を乗せた二〇台の車でパレードし、芦別市労働会館で竣工記念祝賀会を開催、舗装工事の完成を祝った。現在でもこの橋はその曲線美を誇るかのように架かっている。この野花南という地名の語源は、アイヌ語のノッカ not-ka・アン an 仕掛け弓・があるという意からきているものである。またノカン nokan・ナイ nai 小さい・川の意ともいう。

Question 232

 音楽が流れる橋は、各地にあるが、橋の入口のセンサーが人の通行をキャッチし、バルコニーから音楽が流れるという「石山橋」などがある。橋のたもとに少年少女の像があって、そこのスイッチを押すと軽快なメロディーをトランペットから奏で流れるという橋があるが、それは次のうちどれか。

①豊平川「五輪小橋」
②佐幌川「新得橋」
③帯広川「西四条橋」
④音更川「憩橋」

Answer

②佐幌川「新得橋」

 新得町を流れる佐幌川に架かっている「新得橋」は、道道帯広新得線の起点となっている橋で「もと十間橋といっていたが、大正十一年の大洪水で流失し、その後数回流失しているので、昭和二十八年道費工事をもって永久橋に架け替えられた。しかし昭和五十六年の水害で決壊寸前となるなど、大きな被害を受けたため、翌年から架け替え工事が始まった。
そして昭和六十年に橋長五一・八m、幅員一一・五m(車道九・〇+歩道二・五)の橋が完成した。
 この橋には吹奏楽器を手にした少年少女の「ひびき」の像が建立されていて、トランペヅトを奏でる塑像からメロディーが流れるものとなっている。橋のたもとのスイッチを押すと、新得町歌を含め数曲の軽快なメロディーが聞かれ、橋を渡る人々を和ませてくれる。
 また、清水町に架かる橋に「石山橋」がある。ペケレベツ川に架かる橋で、平成三年に完成した橋長七一・四m、幅員が車道七・五+歩道二・五mのものであって、通称「メロディー橋」とも呼ばれている。この橋は清水公園内にある橋で、上部の形式が「日高の山並みをイメージしたアーチで構成し、イルミネーションも施されて視覚的にも町のシンボル的存在の橋」となっていると、町では盛んにPRしている橋である。
 この橋は音楽が流れることで有名である。すなわち歩道部分に設けられた二個所のバルコニーから流れるもので、入ロのセンサーが人の通行をキャッチすると、左側バルコニーでは町鳥であるウグイスの鳴き声と川のせせらぎが、また右側は「第九の町」らしくベートーベンの交響曲が流れ出すというものでる。「清流の上で聞く音楽もまた格別味わい」と評判が高い。

Question 233

 メロディーが流れる橋は、各地に架かっているが、人が通過する時に橋から童謡が流れるということで、町民の公募によって、ずばり「メロディー橋」と命名されたという橋がある。その橋は次のうち、どこに架かっている橋であるか。

①江差町「五勝手川」
②清水町「ペケレベツ川」
③広尾町「西広尾川」
④新冠町「新冠川」

Answer

④新冠町「新冠川」

 新冠市街と町内高江地区の判官森林公園を結び、新冠川に架かる橋長二二二・〇mの自転車・歩行者専用橋が「メロディー橋」である。
 平成十二年一月に完成した橋であり、橋の中間に設けられた「あずまや」には、人感センサーがあって、人が通過するときに童謡が流れるなど、新冠町が進めるレコード音楽によるまちづくりのコンセプトに基づいた工夫がなされている橋である。
 橋名は町民の公募によって「メロディー橋」と命名されたもので、幅員三・〇mのものであって、橋面はインターロッキングブロックで舗装され、高欄の支柱にバイオリンと、トランペットなどの楽器、判官館に自生する四季折々の植物、新冠川に生息するニジマス、ヤマメなどの魚をデザインしたものが取付けられている。
 この橋の「あずまや」の前を通るとセンサーが感知して「お馬の親子」や「春の小川」など、十四種類の童謡が流れる仕組みとなっていて、周囲の環境とまちづくりのコンセプトが見事に融合した橋である。

やわらかき曲線描くメロディー橋に娘が吹くペットのレリーフ光る    ―田嶋敦子

欄干にお馬の親子の音符見え 夏の陽の照りしメロディー橋よ        同

深緑のメロディー橋に集い来て 四阿で聴く童謡の調べ         ―嵐ヤエ子

判官の濃緑炎えて大橋の メロディーなりて夏はさかりぬ        ―菅原順子

Question 234

 親柱の上に彫像を置くことは、本州では戦前からその例があるが、北海道で有名彫刻家の手による彫像が初めて置かれ、しかも二人がそれぞれ違ったテーマで一対ずつ制作し飾っている橋がある。わが国でも初めてのことといわれる橋は、それは次のうちどこか。

①旭川市「忠別橋」
②恵庭市「恵庭大橋」
③札幌市「五輪大橋」
④函館市「昭和橋」

Answer

③札幌市「五輪大橋」

 第十一回冬季オリンピック札幌大会が開かれ、その真駒内主会場と国道二三〇号とを結ぶ「五輪大橋」が豊平川に架けられた。この橋は主要道道西野真駒内清田線の橋である。橋長が一五〇・〇mであって、昭和四十五年十一月十四日にこの橋が完成し、橋の左岸の親柱の上には、山内壮夫制作のジャンプ選手の飛躍をシンボライズした「飛翔」と、本郷新制作の花束を持ったマントの少女像「花束」と、それぞれ一対の彫刻が飾られ、昭和四十六年十月にその姿を現した。 
 山内壮夫・制作の「飛翔」像は、男女ペアの彫刻となっていて、南側が男性像で、冠を頭に巻いた水平ブロンズ像となっている。ジャンプ競技者の緊張の一瞬を表現し、衣が風にはためくスピード感を造形化している。南側のものは美しい女性の水平像となっていて、当時はまだ女性にジャンプ競技はなかったが、この競技の美のフォルムを、象徴的に表現されたものという。橋梁の美しい線の流れを壊さないよう警戒しながら冬季オリンピック競技の花であるジャンプのあの緊張の塊のフォームを象徴的に扱ってみました。文字とおリ天翔けるほんの数秒間の極限に緊張した体形は人間の体躯そのものがもつ最も美しい形の一つだと思う。私も緊張の極限まで造形精神を昇華させたいと願いながら…、としていたものである。
 五輪大橋東端の、両のたもとにむきあって、黄金のマントに身をよそう少女の像が花束をかかげもつ。一見同型の像にみえるが、北側の像は右足を前にだし、南側の像は、左足を前に出している。冬は白一色、夏は緑一色の大地。中央に大きな川が流れている。その川に架けられた一五〇メートルのたもとに、金色の三角錐の彫刻を向い合せに並べようとするもの。この一対の三角錐を同じ方向に向かってやや傾くように建てる。すると遠くから見て、風が川面を走っているように感じられる―そんなことを想いながらとされている。

Question 235

 親柱に彫像が飾られている橋は、道内各地に数多くあるが、ヨーロッパを視察して回った際、街の中はもちろん橋にも彫刻がついている。デザインが非常に単純な橋なので、橋の親柱の彫像を飾りたいという発想で実現したという橋は、次のうちどれか。

①釧路市「久寿里橋」
②札幌市「五輪小橋」
③旭川市「花咲大橋」
④斜里町「斜里大橋」

Answer

②札幌市「五輪小橋」

 この五輪小橋の建設当時、時の札幌市助役であった板垣武四は「オリンピックの準備のためヨーロヅパを視察して回った際、橋に彫像が飾られているのを見て、橋の両側に彫刻をつけたいという発想で実現したとされる。橋長が四六・〇mで、真駒内川に架かる橋である。
 橋の東端北側には佐藤忠良のブロンズ「雪娘」と、向かいあって北側に同じく忠良の「えぞ鹿」の彫像が飾られている。「雪娘」については、雪の峰に立ちて娘、神話のラッパをかかげ奏でれば、ファンファーレは山々にこだまして響きわたる。
 「えぞ鹿」は、ふさふさした毛をなびかせて、飛ぶように山野を走るえぞ鹿。勝利の月桂樹をくわえて、勇ましきえぞ鹿とされる。
 西端には本田明二の「栄光」男女像一対の花崗岩。花崗岩のもつ、荒々しい、そして素朴なぬくもりを感じさせる自然石の美しさ。そんなものを失なわないよう、ごく単純なフォルムを考えたものとされる。
真駒内公園内にあるこれらの彫像は、公園を散策する人々に心の安らぎを与えてくれる。なおこれらの彫像(五輪大・小橋)は、わが国の大手企業の寄贈になるものである。

時をりに五輪橋に見るエゾシカ像 佐藤忠良氏の作品と知る     ―佐藤美枝子

Question 236

 橋にバルコニーを設け、白鳥の飛来や周辺の自然環境を眺望し、親柱と高欄にはこの地に生息するエゾ鹿などをモチーフにした彫刻を配置、大自然の賛歌を繰り広げ、いいようもなく優美な旋律を描いて橋を飾ってくれている橋は、次のうちどれか。

①斜里町「斜里新大橋」
②佐呂間町「陽光橋」
③弟子屈町「摩周大橋」
④湧別町「湧別大橋」

Answer

③弟子屈町「摩周大橋」

 平成二年十月、国道二四一号弟子屈町と阿寒湖畔とを結ぶ道東観光地の大動脈「弟子屈バイパス」が開通した。バイパス全体延長は二・三㎞であり、このルートの釧路川を渡る橋が「摩周大橋」である。橋長七四・〇m、幅員二〇・〇mの中規模の橋であり、阿寒国立公園内に架かる橋であって、橋の周辺にヨーロッパ民族館や弟子屈フォトギャラリー、水郷公園があるということで、橋を中心とした自然公園の景観を創出することとした。
 橋の建設にあたっては、橋名も町民から募集して決め、橋の中央には歩行者が親しめるようにとバルコニーを設け、ベンチを置き、白鳥の飛来や周辺の自然環境を眺望し、橋上でのコミュニケーションが可能とするように配慮した。
 親柱と高欄にもこの地区に生息する動物をモチーフにしたものを配置し、高欄には周囲の自然環境に溶け込むよう、ナラの木の中でエゾ鹿の親子が遊んでいる様子を、またバルコニーの支柱天端に野烏のクマゲラ・シジュウカラを配置した。親柱の上には、田畑功制作の雄鹿・親子鹿のエゾ鹿、北キツネ、シマフクロウをモニュメントとして配置した。また地覆の側面に対しても化粧型枠を用いて凹凸の模様を付けている。高欄の材料もダクタイル鋳鉄にし、親柱は擬石(タマミカゲ)にするとともに、モニュメントはブロンズを、照明灯は下端をアルミに、それ以外は鋼管とし、灯具をアルミステンレスとした。これらの像は、いずれも厳しい北国に生を受け、これを乗り切るかのように力強く跳躍するエゾ鹿、ほほえましい親子連れの鹿たち、また、いまにも虚空に天翔るようなクマゲラなどが、大自然の賛歌を繰り広げ、いいようもなく優美な旋律を描いて橋を飾ってくれている。

モザイクのえぞ鹿並ぶ欄干に 霧たちけぶる摩周大橋         ―里見しづえ
駆け出す姿に鹿のレリーフの 哭く夜もあらむ摩周大橋        ―館 百合子

Question 237

 この橋の親柱や高欄は特に景観に配慮されたものとなっていて、丹頂鶴が力強くはばたく像が親柱を飾り、この橋を優雅に見せてくれる。この橋の親柱や高欄は、あたりの景観とマッチしており、評判が高いという橋は、次のうちどれか。

①釧路町「新丹頂橋」
②釧路市「鶴見橋」
⑧阿寒町「松之恵橋」
④鶴居村「新苑橋」

Answer

②釧路市「鶴見橋」

 釧路市内の釧路川に架かる国道三八号の鳥取大橋付近は、朝夕のラッシュが激しく、利用者からは、道道釧路環状線の「鶴見橋」の早期開通が強く望まれていた。特に朝夕時のドライバーのイライラが一段と募っていた。このため釧路土現でも交通安全対策の面からもできるだけ早く完成させるようにと努力してきたものであった。この橋の完成は、星ヶ浦―旧雄鉄線―旭橋―桜ヶ岡を結んで、釧路市内を迂回する約二二㎞の、道道釧路環状線の一大ポイントとなる交通体系上での重要な橋であった。
 この「鶴見橋」は、釧路川に架かる四番目の橋であって、橋長二七六・九mの鋼連続鈑桁のものであり、幅員が車道七・八×二+歩道四・〇×二mで、中央に二mの分離帯が設けられている。
 昭和六十一年に着手され、平成二年十二月末にまず、片側二車線が完成し、供用されたものであった。引き続いて工事が進められ、平成三年十二月二十日に全体が完成したものである。橋上では釧路十条ひまわり幼稚園、鳥取、鳥取西、大楽毛、鶴野の各小学校の釧路蔦取傘踊り保存会の子供たちが、傘踊りを披露し先頭を行進、師走の寒さの中に花を添えた。
 鶴が力強くはばたく親柱は、この橋をさらに優雅に見せてくれている。この橋の親柱や高欄には特に配慮されたものとなっていて、あたりの景観とマッチしており、評判が高いものである。なんといってもこの橋の親柱のモニュメント、照明灯のデザインは、橋の名に相応しい「丹頂鶴」が飾られていて、素晴らしいものとなっている。
 霧はこの釧路の風物詩である。濃い霧の中から浮かび上がる橋桁の幻想的な情景は、特に脳裏に強く刻まれる。霧の街、釧路を語る名橋の一つともされ、人々に愛されている橋である。

鶴の姿の自在にはばたく様をなす 鶴見新橋モニュメントは照る     ―下山正義
渡りゆく橋に翼をひろげたる 鶴のレリーフ等間隔に          ―加藤和子

Question 238

 橋の両側の親柱に通学児童、生徒の交通安全を祈願した子供たちのブロンズ像が飾られ、また高欄にはめこまれたレリーフは、行き交う人々の目に、そして心の保養になるようにと配慮されている橋がある。この橋は、次のうちどれか。

①釧路町「城山橋」
②弟子屈町「下鐺別橋」
③標津町「瀬文平橋」
④豊頃町「二宮橋」

Answer

②弟子屈町「下鐺別橋」 

 弟子屈町を流れる釧路川の改修工事に伴って、付帯工事として鐺別川の切り替えが行われ、それで「下鐺別橋」が架けられた。この橋は弟子屈市街の中心地と、住宅地の泉地区とを結ぶ鐺別川に架けられたもので、町内でも交通量の比較的多い町道釧路川右岸沿線にあるものである。
 旧橋は橋長五四・〇mで幅員も狭く、交通安全上からも架け換えが望まれていた橋であって、昭和六十三年から工事に着手され、この度完成したものである。平成二年十月三十日、大勢の町民が集まって渡橋式が行われた。この日は秋晴れの日和であって、神事の後、市街地よりの橋の前で釧路開発建設部長、弟子屈町長らがテープカットし、親子三世代夫婦を先頭に、訪れた約千人の町民がゆっくりと歩いて橋を渡り、完成を祝った。また集まった人々には紅白の餅が配られた。
 新「下鐺別橋」は、橋長一〇八・四mであり、歩道の高欄には白鳥や桜、アジサイ、ツツジなどのレリーフがデザインされ、両側の親柱には通学児童、生徒の交通安全を祈願した子供たちのブロンズ像が飾られている。また照明灯九基については、ガス灯を思わせるクラシック調のものを使用するなど、景観に配慮された橋となっている。
 町長は「町の自慢の橋として、愛されるように大切に使わせてもらいます」と挨拶していた。この橋は、弟子屈町で一番長い橋であり、かつ自慢の橋でもある。高欄にはめこまれたレリーフは、行き交う人々の目に、そして心の保養になるようにと配慮されていて、ロマンの香りを漂わせる印象深い橋である。いつも学校帰りの児童たちは、この像に対し今日も交通安全を祈ってくれているということで、軽く会釈しながら渡っている。この橋を飾る少年・少女の像は若々しく、みずみずしい感情を与えてくれると同時に、いかにも新鮮でたくましく、造形化されているものである。また、はじけるようなこの像に対して、この橋を渡る町民たち誰しもが一且立ち止まり、この橋を渡る児童らに対して「よいこ」「つよいこ」となることを祈っているとされている。

Question 239

 新橋の四つの親柱には町の名産であるカボチャにちなみ、ハロウィンの仮面をデザインした彫刻を設置した外、高欄にはシンデレラの馬車のレリーフを設置し、地域の特色を全面に出している橋があるが、それは次のうちどれか。

①遠軽町「いわみ大橋」
②上湧別町「開盛橋」
③佐呂間町「佐呂間大橋」
④丸瀬布町「新金山橋」

Answer

③佐呂間町「佐呂間大橋」

 国道二三八号の佐呂間町に架かる橋長一八一・一mの「佐呂間大橋」が平成六年二月四日に完成し、開通式が行われた。新橋の工事は、佐呂間別川の河川改修工事によって、橋の伸長、嵩上げが必要となったことから、橋の架け換えと、それに合わせて前後の道路改良を行ったものである。従来の佐呂間大橋は、橋長が一〇九・六m、幅員七・〇mの活荷重合成鋼鈑桁のもので、昭和四十二年に架けられた橋であった。新橋の架設位置は、在来橋の約五〇m上流へずらしたことにより、取付け道路の勾配が六%から四・八%に緩和され、曲線半径も五〇mから四〇〇mと改良されたものである。
 新「佐呂間大橋」は、連続鋼鈑桁のもので、橋長一八一・一mであり、幅員が一五・五mとなっている。基礎杭にはφ八〇〇のSPPを使用した。また支承形式においては、経済性、施工性、水密性、走行性と騒音・スタイル等を考慮して、開発局では数少ない反力分散ゴム支承を採用したのもこの橋の特徴の一つである。
新橋の四つの親柱には町の名産であるカボチャにちなみ、ハロウィンの仮面をデザインした彫刻を設置した外、高欄にはシンデレラの馬車のレリーフ、そして照明灯にはホタテをイメージした町開基百年シンボルキャラクターを採用している。またこの橋の四枚の橋名板は、佐呂間中学生ら町民四人の書体を採用するなど、地域の特色を全面に出している。
 佐呂間町は面積四〇四・九九㎢であり、日本でも三番目に大きいという湖である「サロマ湖」があり、見る人をロマンチックにさせる湖の向こうに沈む雄大な夕陽、湖畔に咲き誇るサンゴ草、色とりどりの花。「湖とともに生活する幸福を分ち合いませんか。湖を美しく、楽しく、おいしい四季が巡る町」とPRしている。

ことごとく凍るさろま湖はてもやひ 彼の岬山もまぼろしとせり    ―松村千代一

Question 240

 町のイメージ・キャラクターが、この橋の親柱に町の公園をPRするため飾られている。この公園ではチューリップがシーズンになると、約一二〇万本が咲き乱れるとされ、観光客で賑いをみせる。ここに架かる橋は、次のうちどれか。

①雄武川「幌内大橋」
②湧別川「中湧別橋」
③佐呂間川「佐呂間大橋」
④生田原川「荒瀬橋」

Answer

②湧別川「中湧別橋」

 湧別川をまたぎ、中湧別市街と旭地区とを結ぶ道道緑蔭中湧別停車場線の「中湧別橋」の架け換え工事が平成八年に完成した。この路線は網走方面からの国道二三八号と直結、国道二四二号ともつながり、遠軽・紋別方面へのバイパスとしても利用されているものである。したがって交通量も多く、従来の昭和四十四年に架けられた橋では、幅員も五mと狭く、大型車のすれ違いが困難であった。
 そこで新橋が現橋の下流側に架設されたものである。橋長が三八三・〇m、幅員一一・〇mのPC橋であり、この橋の完成によって、国道二四二号との交差点から旭西三線の農免道路の交差点まで約一・三㎞の幅員を広げるとともに歩道も設置され、円滑で安全に通行ができるようになった。
 この橋の親柱には「チューピット」と刻まれた像が飾られている。この「チューピット」とは、上湧別町のイメージ・キャラクターであり、みんなに夢を与えるチューリップの妖精とされている。
 このチューリップ公園は、昭和六十三年に町の公園として指定された。七㏊の広大な花畑に、一二〇種、一二〇万本のチューリップが鮮やかに咲き乱れる。五月上旬~六月上旬にはチューリップフェアが開催され、花の販売や球根の予約販売を行っている。ここでは、ぬいぐるみ、ケータイ電話のストラップなどもたくさんあり、妹の可愛いい「リップ」もいる。町では「上湧別町のマスコットキヤラクター〈チューピツト〉との記念写真は大人気。公園のどこかに突如出没します」とPRしている。

湧別川二つに分けし街に住み 祭りとなれば大橋渡る       ―矢萩正美

湧別川夕かげりきて白じろと 浮き立つ如し長き架橋は      ―川口雅子

Question 241

 北海道では「鮭」が遡上する河川が多く、全道いたる所で見ることができる。なかでも有名な遡上河川に架かる橋の親柱に、鮭が飛び跳ねている彫刻が飾られている橋がある。また、バルコニーから鮭の遡上、産卵などが見られるという橋は、次のうちどれか。

①石狩川「札幌大橋」
②豊平川「雁来大橋」
③八雲町「遊楽部橋」
④長万部町「旭浜橋」

Answer

③八曇町「遊楽部橋」

 八雲町を流れる遊楽部川の渡船の歴史は古く、元治元年(一八六四)に渡船場が設置され、明治二十三年に初代の橋が架設されている。その後の洪水や老朽化にともなって、数多くの架け換えが行われてきた。先代の橋は、昭和二十七年に始まった遊楽部川の改修によって、従来橋梁の伸長がおこなれてきたものである。
 そして平成元年十二月に現在の「遊楽部橋」が誕生した。この橋は道道花浦内浦線に架かる橋長が二二九・七m、幅員一四・〇mのPC単純中空床版橋である。
 遊楽部川は、道内有数の鮭の遡上する河川として有名である。そこで地域住民やこの路線を通るドライバーに知ってもらおうと、この橋の親柱は鮭が飛びはね、その台座に八雲町の頭文字Yをデザインしたものであり、高欄にも鮭がデザインされたものが付けられている。
 また長さ五・九m、奥行き一・五mのほぼ半円形のバルコニーを八個所設け、鮭の遡上、産卵シーズンにはそのシーンが一目でわかるようにとしている。なにしろ遊楽部川には、毎年一〇万匹の鮭が遡上して産卵しているという。冬には天然記念物のオオワシやオジロワシが飛来する。
 この遊楽部の地名は、アイヌ語のユ yu・ラプrap =(温泉が・流れ下る)が原名とされる。また遊楽部川は、噴火湾に流れ込む長さ二八・五㎞、流域面積四四五・八㎢である。なお平成十七年に、檜山管内の熊石町が支庁を越えて合併し、新八雲町が誕生している。

Question 242

 西欧では古代から住民の心を癒すために、橋の上に彫刻を飾る都市造りが行われてきた。しかし、わが国ではこのような思想が根付いていなかった。それが今、「道東の四季」をテーマにした一流彫刻家の制作によるブロンズ像がこの橋を飾った。その橋は次のうちどれか。

①釧路川「釧路大橋」
②釧路川「大楽毛橋」
③釧路川「幣舞橋」
④釧踏川「鶴見橋」

Answer

③釧路川「幣舞橋」

 新「幣舞橋」は、昭和五十一年十一月二十六日に五代目の「幣舞橋」として誕生した。橋長一二四・〇m、幅員三三・〇mの三径間連続鋼床版箱桁の橋である。そして一流彫刻家の制作による四基のブロンズ像がこの橋を飾った。昭和五十二年五月三日、道東の風土を高らかにうたい上げた新しい釧路のシンボル「道東四季」のブロンズ像が除幕された。
 春の夜霧に霞む幻想的なたたずまい、夏雲に映える姿、橋の上から見る落日の美しさ、これらの像は、幣舞橋を一層ロマンチックにさせてくれた。この日、釧路は前夜から朝方にかけて雪が降る。五段雷の花火を合図に除幕式が行われた。そして四体の像に、それぞれの制作者(「春」船越保武、「夏」佐藤忠良、「秋」柳原義達、「冬」本郷新)が立会い、消防本部音楽隊のファンファーレが流れる中を、春・夏・秋・冬の順で次々と像を覆っていた幕がおろされた。ここに名橋、幣舞橋に、さらに芸術価値が付加されたのである。住民のこの橋に注がれた愛情が、ここ橋上の彫像の完成によって実を結んだのであった。
 この幣舞橋のように、公共の橋でありながら、提案から資金調達まで一連の市民運動だけによって、芸術性の高い彫像が取り付けられた橋は、わが国でも初めてのものであった。
 この橋を飾る彫像の設置は、制作者たち自身が釧路を訪れて、構想を練るというオーダー方式で行われたものである。「釧路市民の要望を行政に反映させて見事に結集したのが、この彫像であり、これによって『幣舞橋は芸術的、精神的な価値をさらにつけ加えられ、釧路市民の心の慰めになり、明日への希望を与えるものになった』として、後世に伝える貴重な財産となった」と、当日の新聞は伝えていた。

幣舞橋包む海霧に橋の上の 裸像乙女の濡れしづくなり         ―渡辺 勇
橋上の秋往き交う人等立ち止まり 乳房固き乙女像仰ぐ         ― 同

Question 243

 この橋は道北地方で最初の彫刻が置かれた橋で、この街ではこの彫刻橋をきっかけにして、新しい橋が架けられたりまた架け換えされると、彫刻が置かれるようになってきた。街づくりにあたり、今後川と橋をどう生かしていくかが重要なテーマであるとされた橋は、次のうちどの橋か。

①士別市「不動大橋」
②旭川市「忠別橋」
③名寄市「恵深橋」
④天塩町「天塩河口橋」

Answer

②旭川市「忠別橋」

 旭川市の「忠別橋」は橋長が一七二・三m、幅員二五・〇mのもので、昭和五十八年に着手し、同六十年十月に完成した連続鋼鈑桁の形式のもので、昭和六十年十月二十三日、完成式が行われた。また市長らの手によって橋上に据付けられた四基の彫刻が除幕され、この橋の開通を祝い合った。
 新しい「忠別橋」は、橋自体と高欄に「旭川」の語源―日の昇る川をデザインするなど、随所に設計の苦労が見られる橋である。またこの橋は「芸術橋」としても名高い。それは橋の上に半円形のバルコニーを設け、上流側には山内壮夫の「家族」と、高橋清の「人№一三」が、また下流側には、加藤昭男の「月に飛ぶ」と、流政之の「かくれた恋」の彫刻が置かれている。
 この橋は旭川で最初の彫刻が置かれた橋で「彫刻橋第一号」である。この彫刻橋をきっかけにして、新しい橋が架けられたりまた架け換えされると、彫刻が置かれるようになってきた。この橋の完成にあたり市長は「北海道三大名橋というのがあるが、この忠別橋は、これらの橋に優とも劣らないシンボル橋である。旭川の街づくりに今後川と橋をどう生かしていくかが重要なテーマである」と挨拶している。この橋の誕生によって、彫刻橋が次々と旭川市内に誕生した契機にもなった記念すべき橋である。
 忠別橋がこれからも市民に愛され、そして新しい旭川の顔として、新たなる旭川の歴史に「かけ橋」となるであろう。川のまち旭川にふれあいのかけ橋「忠別橋と忠別橋公園完成」にあたり、旭川開建部長は「この橋は単に通過するだけでなく、市民とのふれあいのある橋としても考慮していたところ、旭川市との共同事業で橋上に親しみのある四基の彫刻が配置され、附近一帯の公園化と相俟って完成をみたことは誠に喜ばしい限り」と、新しい歴史のかけ橋となることを願って挨拶していた。

新しく架け替へ終りし忠別橋 渡りゆくときの風心地よし      ―三浦照子

Question 244

 道北のこの街では「市民に愛され、街の新しい顔となり、新たなる歴史のかけ橋となる」ことを願って橋を架け、そのために彫像を飾ってきている。橋の中央部分に、空に浮いた状態の彫像が、また右の橋詰めに立像二点が設置された橋があるが、それは次のうちどの橋か。

①富良野市「富良野五条大橋」
②音威子府村「音威子府大橋」
③名寄市「名寄大橋」
④旭川市「両神橋」

Answer

④旭川市「両神橋」

 主要道道旭川多度志線に架かるこの「両神橋」は、かつて国道十二号のルートの橋として歴史の古い橋である。橋名の由来は、神居村と神楽村とを結ぶ橋ということから、この両方の「神」の字をその名に冠した.ものである。昭和四十四年十月に旭川バイパスの完成により、この国道十二号のルートが変わり、この路線が北海道に移管となった。この路線は地元の強い要請と、旭川市バス路線総合整備協議会の要請から、昭和五十六年に「バス路線総合整備モデル事業」と指定され、四車線化が計画されて、従来の面神橋を利用した併設橋の形式で上流側に新しい橋を架けることとなった。
 昭和六十二年十月二十五日両神橋の開通式が行われ、祝賀パレードなどで喜びに沸き返っていた。橋長二六一・〇m、幅員一一・五mのものである。
 昭和六十二年(一九八七)十月十七日、橋の中央部分に、空に浮いた状態の山内壮夫制作の「浮游」が、また左右の橋詰めに加藤顕清の立像二点が設置された。「浮游」は、山内の代表的な形態の一つである横に広がりをもった作品で、横幅二〇〇・〇㎝というものである。昭和五十二年制作になるブロンズのものである。「人間像・今の存在の像」は、昭和三十九年に第七回日展に出品された作品で、高さが一七一・〇㎝のブロンズ像である。右手を頭につけ、遠くを見つめているような視線、左手の表情など、何かしら内に情感を秘めた人間の姿を感じさせる像である。
 また、高欄に「エゾシカ」「エゾフクロウ」「大雪山とリンドウ」「層雲峡」「じゃがいも畑」という五枚のレリーフ、斬新な照明と河川敷の二基の彫刻とともに、自然と文化がうまく調和している。地元では生まれ変わった両神橋は、市民に永く親しまれる橋を目標に、高欄、照明灯をデザイン化しレリーフ帯彫刻を設置するなど、「芸術性の高い橋」と関根正次は讃辞を贈っている橋である。なにしろ旭川市は「市民に愛され、旭川の新しい顔となり、新たなる歴史のかけ橋となる」ことを願って橋を架け、そのために彫像を飾ってきているのである。

Question 245

 この橋は交通の利便とともに、橋を渡ることを楽しむ橋といえる。橋は単に車で通り過ぎるだけでなく、あらゆる角度から眺め、ゆとりをもって是非ともゆっくりと渡って欲しい橋、と市ではPRしている、道北の都の「旭川開基百年事業の記念の橋」は、次のうちどれか。

①牛朱別川「峰観橋」
②美瑛川「雨紛大橋」
③忠別川「緑東大橋」
④石狩川「花咲大橋」

Answer

④石狩川「花咲大橋」

 旭川の護国神社前の国道四〇号は、三九号から鷹栖に抜ける道道旭川幌加内線と、札幌へと通じる国道十二号と交差しているため、この付近はいつも交通渋滞が慢性化していた。そこでこの解消を図るべく「花咲大橋」が架けられたものである。この橋は市道「花咲通線」に架かる橋で、旭川開基百年事業の記念の橋」として造られた橋でもあった。橋長は三四二・〇m、幅員が二三・五mであって、旭川市の市道としては最長であり、しかも最大の幅の橋であった。平成二年九月二十五日、新富と花咲を結ぶ「花咲大橋」の渡橋式が行われた。
 橋の面岸のたもとには、ベンチや彫刻を配した広場が四個所設けられ、市民の憩いの場所ともなっている。また、面岸二個所ずつ計四個所に橋詰め(ポケットパーク)と、両側三個所ずつの合計六個所に「バルコニー」が設置された。橋詰め広場のうち二個所には、彫刻家・山内壮夫制作の「隼の碑」と「鶴の舞碑」が飾られている。
 この橋はトータルデザインで東海大・橋場(名前は)教授らの助言を受けて「シンプルな橋」を強調したものとされている。長さ一〇m、幅一・五mのバルコニー部分には、石狩川に飛来する水鳥を、ゆっくりと眺められるようにと、中腰で休めるタイプのベンチや、ミニカウンターを設け、橋を「川の街に暮らす市民の憩いの場」として位置付けている、ユニークな試みがなされているのが特徴とされている。市当局は「近文公園に隣接し、大雪山連峰を背景に花咲町と新富町の河川公園を結ぶ橋であるため、歩行者と景観に配慮した橋面のトータルデザインを施し細部にいたるまで徹底してデザインされた花咲大橋は単に車で通り過ぎるだけでなく、あらゆる角度から眺め、ゆとりをもって是非ともゆっくりと渡って欲しい橋」としている。まさにこの橋は『橋芸術』、そして『芸術橋』。市開基百年記念にふさわしい橋であるとされる。

Question 246

 道道に架かる橋で、市街地再開発と炭鉱閉山後の炭鉱跡地再開発を前提に、市の基本コンセプトを全面に押し出して整備し、橋が架けられた。そして「春の日の芽ばえ」・「秋にたたづむ」と命名された彫像を飾った橋は、次のうちどれか。

①芦別市「星の降る里大橋」
②赤平市「虹かけ橋」
③三笠市「幾春別川橋」
④夕張市「レースイ橋」

Answer

②赤平市「虹かけ橋」

 道道赤平奈井江線の赤平市空知川に「虹かけ橋」が架かっている。この橋は国道三八号赤平バイパスの建設に伴い、赤平駅方面への接続ルートとして建設が進められてきたものであった。平成六年に、赤平バイパスの一部供用開始の同日、同バイパスに接続することから、開通となったものである。
 この道道である中央通りは、市街地再開発と炭鉱閉山後の炭鉱跡地再開発を前提に、赤平市の基本コンセプトである「虹の映るまち」を全面に押し出して整備が進められてきたものであった。歩道はインターロッキングブロックで舗装され、景観に特に配慮されたものとなっている。市では景観検討委員会を設置して、橋名を募集するなどの検討を進め「まちのシンボルロード」として、虹の形をモチーフにした親柱、ガス灯のような照明など、工夫を凝らしたグレードの高い橋に仕上げた。なお中央のバルコニーには、二体のモニュメント像が設置され、平成七年一月に除幕された。この像の設置は市が行ったもので、制作が赤平出身で、現在活動の拠点をイタリアにおいている彫刻家・奥山喜生によるブロンズ像となっている。
 上流側が「春の日の芽ばえ」像が、下流側が「秋にたたづむ」と命名されたものである。市ではこのモニュメント設置が炭鉱閉山後の「まちづくり」に貢献すること願っているものであった。この裸婦像は市民自慢のものであり、赤平名所のひとつともなり、豊かに流れる空知川を見下ろし、さながら赤平市の守護人のように立っている。これらの詩情豊かな裸像は、赤平市民にとって、心に彫像という美しさを再発見させてくれているものであった。

虹橋の乙女の裸像川風に 冷たく光るに歩を早めたり        ―岸下君子

夕映えの「虹かけ橋」を渡る眼に 火の字を抱くぼた山迫りくる   ―松本秀男

Question 247

 わが街を代表する構造物として特に景観に配慮され、歩道空間の有効利用を図り、バルコニー、橋詰公園の整備を行い、橋の四方に季節の広場を設け、春・夏・秋・冬をイメージした橋詰公園およびバルコニーを造成し、乙女の像を飾った橋は、次のうちどれか。

①札幌市「定山渓大橋」
②旭川市「神楽橋」
③恵庭市「恵庭大橋」
④南幌町「長栗大橋」

Answer

② 恵庭市「恵庭大橋」

 国道三六号恵庭バイパスの漁川を渡る箇所に架けられた橋が「恵庭大橋」である。この橋は恵庭バイパスを代表する構造物として、特に景観に配慮され、歩道空間の有効利用を図り、バルコニー、橋詰公園の整備を行ったものである。橋の周辺にある運動公園と、河川緑地を結び、市民に潤いと安らぎを与える場として期特されている。
 この橋の建設にあたっては、全体イメージを大切にするため、シミュレーションによるアンケート調査を実施したりしてデザインが決められたものであった。そこで橋の四方に季節の広場を設け、春・夏・秋・冬をイメージした橋詰公園およびバルコニーを造成し、恵庭市ゆかりの彫刻家が製作したモニュメントを配置した。このモニュメントは「冬―雪の朝」などのものであって、高さ一・八mのブロンズ製、彫刻家は市内に仏像記念館を建設した本間武男と、元恵庭中教員の鈴木悟郎の二人である。
 橋長一〇六・五m、幅員二六・五mの連続非合成鋼鈑桁のものである。昭和六十三年十二月一日、恵庭バイパスの先鞭をきって「恵庭大橋」の渡橋式が行われた。地元の子供たちによる「乙女の像」四体が除幕された。恵庭大橋は、このバイパスのランドマークとして、重厚感と地域に密着した安らぎを与える橋として工夫を凝らしただけに、親柱・高欄・照明等のデザインが素晴らしいものとなっている。
 親柱には御影石を使用し、側面に恵庭市の花であるスズランをモチーフにして取り付けられている。橋詰四箇所の橘台広場には、鈴蘭・太陽・落葉・吹雪を表現したカラー舗装で四季を表現し、さらに「あずまや」や「パーゴラ」を設置している。橋上の四箇所に張り出したバルコニーには、四季をイメージした「乙女の像」が配置され、橋のイメージをやわらげ、利用者の目を楽しませてくれる。
 恵庭大橋はその景観対策に配慮した結果、独特の雰囲気と個性を持ち、バイパスの中心にあって、その役割を十分に果たしているものである。

Question 248

 この橋全体の造形について、多くの提案を大幅に採り入れ、街に関する各産業に関係深い生物・道具などを図案化したレリーフが取り付けられ、全体的には、従来にない装飾的なものとなっている道東地方の橋である。それは次のうちどれか。

①厚岸町「厚岸大橋」
②帯広市「十勝中央大橋」
③中札内村・帯広市「中島新橋」
④釧路市「久寿里橋」

Answer

④釧路市「久寿里橋」

 この久寿里橋は、釧路川に架けられた橋であり、現在の橋は三代目のもので、釧路の顔として市民の意見が大幅に採り入れられて架橋された。昭和五十六年十一月に渡橋式が行われた。橋の設計にあたって橋全体の造形に特別天然記念物の丹頂鶴を基調にして、橋の中央四個所に幅四m、奥行き一・五mのバルコニーを設け、幣舞橋や太平洋に沈む夕日をみることができるように配慮されている。高欄には釧路市の四大産業の「畜産・石炭・水産・製紙」と市章をアレンジしたレリーフが取り付けられ、親柱は全体に原石赤御影石を張付けて重量感を持たせた。高さは二・四m、幅二・〇mのもので、橋名のほか市の木ハシドイ、市の花キンレンカ、釧路の基幹産業を図案化し、郷土色を盛リ込んだものとした。また右岸の親柱のそばに、五十年後と予想される架け換え時に、開けてもらうべき小学生の作文などを、タイムカプセルに入れて埋めてある。
 この新「久寿里橋」は、橋長一一三・六m、幅員は二二・〇mであり、橋全体に緩やかなカーブを持たせ、中央部を高くしてアクセントをつけ、桁の色を漁業関係者の強い要望で朱色とされている。近代的な橋であると同時に、人々の心と生活とを結びつける何かを感じさせる橋でもあって、この橋は人間の「鼓動」を感じさせる橋ともされている。
 橋の中央四個所にバルコニーを設け憩のスペースにしたこと、親柱、高欄、歩道などにポイントを置き、市民に親しまれる橋とするため自然、産業などの郷土色をモチーフに、具体的に表現したことなどが評価されている。高欄には、丹頂鶴が羽を広げたイメージを表現する材質としてアルミにセピア系の色を用い、落ち着いた感じを持たせている。歩道部分には、淡いセピア色のカラーブロックを敷き並べて暖かみを出し、市章をアレンジした二種類のデザインタイルをはめこんでいる。
 この橋は、従来にない装飾的なものとなっていることなどから、市民や観光客の評判も良く、釧路の新しい名所のひとつともなっている。

Question 249

 この橋は、地域住民が長い間待ち望んでいたものであって、うるおいのある安全な橋へと大幅にイメージアップされ、橋上に飾られた立像・座像の二体の裸婦像が、道北の都・旭川市の景観向上にも一役かっている橋として評判が高い橋は、次のうちどの橋か。

①牛朱別川「日之出橋」
②忠別川「ツインハープ橋」
③美瑛川「平成大橋」
④石狩川「近文大橋」

Answer

①牛朱別川「日之出橋」

 旭川市が昭和六十三年から調査を始め、平成元年から着手してきた「日之出橋」が完成し、平成三年十一月現地で渡橋式が行われた。この橋は新旭川地区の住宅・商店街の大成地区を結ぶ橋として、また生活・産業の幹線橋として最古の歴史を持っている橋である。
 新しい橋は橋長七六・九mの連続鋼鈑桁のもので、幅員が車道九・○+歩道が二@五・〇mのものとなっている。渡橋式の前日の二十四日には、地域住民らによる完成記念フェスティバルが開かれた。これには小・中学生や住民約千人が参加したものであって、同地区の知新小学校器楽クラブ、北都中学校吹奏楽部が橋上で演奏パレードを行った。その後、子供たちによる綱引き大会、餅つき、太鼓の演奏などのアトラクションが繰り広げられ、新「日之出橋」の誕生を一日早く祝ったのであった。開通式の当目はあいにくの吹雪にもかかわらず、工事関係者、地域住民ら約七十人が待望の渡り初めを行った。
 渡橋式は市長ら七人の手によってテープが切られ、東五条小学生九十人によるブラスバンドがファンファーレを響かせ、近くに住む一家三代夫婦を先頭に渡り初めが行われた。
 この橋には旭川市内で第六番目の彫像が飾られている。この二基の像は、彫刻家・木内克の作品である。裸婦立像は昭和三十六年(一九六一)に制作され、第六回日本国際美術展に出品されたもので、脚を広げ、手を後ろに回した大きくて力強い女性の立像であり、高さが一八〇㎝のブロンズのものである。もう一点の裸婦座像は昭和四十三年に制作されたもので、女性が岩のようなものに腰を下ろし、膝の向きと反対側に視線を向けている。高さが八九㎝で、木内作品としては動きの少ない静的な作品である。そしてそれぞれ橋の上流側と下流側に設置されている。
 さらにこの橋には、ゆったりとした歩道部に花壇が設けられ、ニシキギ、ムクゲなどが植えられていて、デザイン照明、デザイン高欄など「ゆとりと潤いのある橋」である。

Question 250

 秋には川両岸の紅葉が堪能でき、また冬の川景色、夜の川面の美しさも一段と引き立てます。橋にはブロンズ像『緑の女神』二体が皆様のお越しをお待ちしております、とPRしている街にある橋は、次のうちどれか。

①札幌市「定山渓大橋」
②上川町「層雲橋」
③函館市「ともえ大橋」
④小樽市「朝里大橋」

Answer

①札幌市「定山渓大橋」

 夢の大橋といわれた「定山渓大橋」は、札幌市内を流れる豊平川に架かる道道小樽定山渓線の橋で、「深い渓谷をまたぐ夢のような橋」として住民待望の橋であった。昭和五十三年九月、地元住民の喜びの中で渡橋式が行われた。「この大橋からの眺めは雄大そのもの、新名所になるはず」や「この夢の大橋が定山渓温泉の新たなる観光資源になるものと期待しています」と祝辞が述べられる。
 絶好の秋晴れの中で、樹々が美しく紅葉しかかった上下流の渓谷を見ながら、渡り初めを行った。途中橋の中央に設置された「緑の女神」のブロンズ像を除幕する。この橋は、橋長二三一・七mもので、札幌市として初めてのディビダーク工法で架けられたものであり、幅員一六・〇mであって、歩道も広く、照明にもシンプルさを強調するなど、その機能美を訴えている橋である。
 橋の中央に向かい合って立っているブロンズ像は、高さ二mのもので空に向かって大きく両手を差し伸べた女性像である。彫刻を飾ったこの橋は、渓谷とその周囲の緑によく映えている。
 定山渓大橋からの眺めを「定山渓温泉の中心には豊平川が流れ、天然の美しさを湛え、近代的殿堂のようなホテル群が渾然一体をなし、他の観光地とはひと味違った素晴らしさがあり、春夏秋冬、優れた景観を見せている。特に冬は、川面に突き出た石の上にふんわりと載った雪は美しい。大橋から見下ろすと、親子橋のような高山橋が真っ赤な美しい姿を見せ、その近くにお湯が湧き出て、寒いころには、あちらこちら湯けむりが立ちのぼり、湯の里らしいのどかな風情である」という。
 地元の温泉街では「この大橋からは、温泉街が一望できます。特に秋には豊平川両岸の紅葉が堪能でき、また冬の川景色、夜の川面の美しさも一段と引き立てます。大橋にはブロンズ像『緑の女神』二体が皆様のお越しをお待ちしております」とPRしている。

Question 251

 旭川市は「彫刻の街」として知られている。買物公園や橋をはじめとして市内の各所に彫刻が配置されている。旭川市内は「彫刻を段置することによって特徴的な景観を創り出そうとしている」ものである。その中で「風の中の母子像」など二体が飾られて橋は、次のうちどれか。

①牛朱別川「新成橋」
②忠別川「緑東大橋」
⑨美瑛川「新開橋」
④石狩川「金星橋」

Answer

①牛朱別川「新成橋」

 牛朱別川の橋には、緑橋に加藤顕清、永隆橋には笹戸千津子、新成橋には山内壮夫、日之出橋に木内克という、それぞれに違う作家の作品が置かれ、市民の日常生活の中で、いつでも優れた彫刻に接することができるようにと、市では努めているものである。
 新旭川と大成地区を結ぶこの「新成橋」は、忠別橋に次いで二番目の彫刻橋として誕生した。この橋は昭和六十一年に完成した橋長七五・五m、幅員二二・〇mの連続鋼鈑桁橋であり、市道雨紛新旭川通り一号線に架かる橋で、牛朱別川に架かる名橋の一つともされている。
 この橋には、山内壮夫制作の「風の中の母子像」と「隼の碑」が設置されている。この「風の中の母子像」は昭和三十年に作られたもので、母親が子供を抱き上げ、風の中に立っている姿を抽象化したものであって、高さは一五二・〇㎝のものである。
 また「隼の碑」は、高さ八三・〇㎝で昭和三十二年の作品である。このシリーズの中では早い時期の作品である。これら二点の作品はいずれも山内壮夫の独特の形が表されものとされている。
また「隼の碑」は、シリーズで何点も作られた作品であり、同じ題名の作品は、旭川市内の花咲大橋(昭和四十五年制作)や、旭川八条斜線(昭和四十二年制作、同六十二年設置)などがある。
 なお山内の作品は札幌市内にも多く見られ、本郷新、佐藤忠良らとともに、北海道の彫刻界に大きな影響を残している。この「風の中の母子像」と、同じモチーフの作品「春風にうたう」が、札幌市中央区南九条西十丁目の南九条緑地内にある。昭和三十三年六月の制作のもので、白コンクリート像であり「やや抽象がかった作品で、ひしと抱きしめあう母と子が、ひとつにとけあって、春風になびいている。交通煩瑣な石山通りの交叉点で、文明の喧騒にあらがい立つ、感動の母子像」とされている。なお札幌市民会館前の「希望の像」も山内の制作のものである。

Question 252

 この橋は、このルートが、地区のシンボルロードとして整備されることに伴って、橋の修景に、自然との調和、歴史の面影などが配慮され、橋の中央部左右に二個所のバルコニーが設けられ、かつての軟石採掘風景などの写真をパネル化したものが飾られている札幌市内の橋は、次のうちどれか。

①白川地区「石山橋」
②石山地区「石山大橋」
③藻南地区「藻南橋」
④藻岩地区「藻岩上の橋」

Answer

③藻南地区「藻南橋」

 札幌市を流れる豊平川に「藻南橋」がある。この橋の歴史は古く、上流側に明治四十二年(一九〇九)に吊橋が誕生する。その後幾多の変遷があったが、昭和二十三年に「石山大橋」という名の木橋(橋長一四七m)が架けられたが流失してしまう。そして昭和二十六年に橋長一〇五mのワーレントラスによる先代「藻南橋」となった。
 しかし老化によって架け替えられることになり、平成二年六月に現在の橋となった。橋長は一三一・〇m、車道の幅員が八・〇m、歩道が両側に各三・〇mであって、鋼箱桁のものである。この橋の架かるルートが「藻南橋通シンボルロード」として整備されることに伴って、橋の修景に、自然との調和、歴史の面影などが配慮され、高欄には北海道庁舎の赤レンガ窓枠のデザインを導入、橋の中央部左右に二個所のバルコニーなど設けられている。
 このバルコニーには、かつての石山軟石採掘風景と、馬車鉄道の写真をパネル化したものが飾られている。さらには馬車の車輪をデザインした照明灯を立て、橋の塗装にも特別な配慮がなされ、付近に露出している軟石や、岩肌に調和するようにと自然に近い色とされた。
 この橋の付近はかつて「おいらん淵」と呼ばれ市民に親しまれていた景勝の地であって、炊事遠足やハイキングをする人々で賑いを見せていた。現在は藻南公園として整備され、炊事遠足はもちろんのこと、野球場やテニスコート、冒険広場などが設置され、総合公園として利用されている。
 この公園を訪れる人たちは、このバルコニーから、札幌の歴史を伝えるパネルを見たり、流れる豊平川の四季それぞれに変化する景色に見惚れている。
 凝ったデザインの親柱も人気が高く、これを背景にして写真に収めている風景にもよく出会う。開通時の新聞は「自然と調和・歴史の面影残した景観」という見出しで、このバルコニーでは「足を止めて周囲の景色をゆっくりと楽しめるようにした」と報じていた。

Question 253

 この橋は、旭川市街地の玄関口としてJR橋梁のすぐ上流側に位置しているだけにその役割は大きく、川の街旭川のシンボルとしての存在感がある。住民生活に密着したこの橋は、川の街旭川で果たしている役割は大きなものがあるとされる橋は、次のうちどれか。

①内大部川「内大部橋」
②忠別川「旭川大橋」
③石狩川「旭西橋」
④美瑛川「両神橋」

Answer

③石狩川「旭西橋」

 市道「旭西橋通線(通称嵐山通線)」に架かる橋が「旭西橋」である。この道は国道十二号と道央自動車道を結ぶ重要なルートであり、旭川鷹栖ICの開通などで交通量が増大してきた。嵐山線はすでに四車繰となっているが、この旭西橋だけが二車線である。そこで新しく橋を架け換えすることとなった。新しい旭西橋は平成七年十一月一日に全橋の完成となった。三代目旭西橋は、橋長が三〇三・五m、幅員は二三・五mとなっている。歩道にはブロックとレンガを組み合わせ、二個所にバルコニーを設けたほか、照明も橋が浮かび上がらせる工夫を凝らしている。この橋のデザインは、JR函館本線で旭川に到着する時に「一番初めに目につく橋」として、景観を十分に配慮して決められたものである。
 高欄部分の全個所を三日月形にくり抜き、照明を設置して足元に光が走るイメージとなっているのが特徴である。そして親柱に二枚の「旭西橋物語」が填め込まれていて、歴史を伝えてくれている。バルコニーには彫像が置かれている。上流側の彫刻は「風の記憶」と題するもので、下流側の彫刻は「北の子」というもので、いずれも彫刻家・板津邦夫の制作によるものである。この彫刻は木の抽象作品を長年にわたって手がけてきた板津が、平成七年に制作したもので、木彫作品をイメージした上で制作したものとされる。板津は新しい旭西橋の完成にあたり、この「風の記憶」と「北の子」の二点を制作した力作のものであり、いずれもこの作品は高さが六〇㎝と横七〇㎝とわずかに横長のものとなっている。「北の子」の像については「二つのかたまりは子どもが向かい合っているように見える」とし「風の記憶」のものは、折れ曲がったように作られていて「長い歳月の出来事を語り聞かせているようにも思える」という。そして「中央の空間を包むように作られた抽象的な造形は、板津邦夫が生まれ育った、きびしい北の自然を感じさせる」とする。板津の作品は、いずれも「有機的でユーモラスな形態のうちに土俗的な生命感をもったものが多い」とされる。

Question 254

 この像が設置されている広場は「橋詰広場」と呼ばれ、トランペットを右肩に、切り株に腰をおろした女性像が設置されていて、橋の優雅な姿を一望できることもあり、市民の憩いの場所として散策などに訪れる市民が多いといわれる橋は、次のうちどれか。

①石狩川「永山橋」
②忠別川「大正橋」
③美瑛川「雨紛大橋」
④牛朱別川「旭永橋」

Answer

②忠別川「大正橋」

 大正橋は、平成六年に完成したものである。橋の形式はバスケットハンドル型ニールセン系ローゼ橋であり、なめらかな曲線を描くアーチが、上部ほど狭くなっているのがこの橋の特徴である。橋長が二一八・八mであって、幅員が一五・五mである。この形式の橋は全国でも二〇数例しかないというバスケットハンドル型ニールセン系ローゼ橋であり、平成六年十月二十八日に渡橋式が行われた。啓明小学校のブラスバンドの軽やかな演奏にのって、神楽岡側から南八条に向かって渡り初めが行われた。神楽岡太鼓保存会有志による勇壮な演奏に迎えられての新しい橋の開通を盛大に祝ったのであった。
 この広場にはトランペットを右肩に、切り株に腰をおろした女性像が設置された。この像は高さが一五八・〇㎝のもので、地元の彫刻家である神田比呂子の作品「トランペットのおんな」像が置かれ、広場に彩りを添えている。
従来の旭川市内の彫刻を飾った橋では、作品がいずれも博物館に飾ってあるものをそのまま設置したものであるが、しかしこの作品だけは橋の景観を考慮してデザインされたものである。橋に合わせての新作を飾ったのはこの橋が初めてのものであった。
 この像は平成七年の制作になる作品である。この広場からは、広場に彩りを添えた像を通して、橋の姿が一望でき、市民の憩いの場所として利用されている。この像が設置されている広揚を市では「橋詰広場」と呼び、今後も橋周辺の景観向上に向けて整備が進められてきている。ここの広場は、大正橋の優雅な姿を一望できることもあって、市民の憩いの場所として散策などに訪れる市民が多く、神田比呂子の像にやさしく語りかける姿が見られる。

川霧のなほ残れるは忠別川 渡らむ昼の大正橋が下       ―鮫島昌子

Question 255

 この豊平川に架かる橋上広場に、米国ポートランド市から寄贈された金属彫刻「サーモン・リバー」が飾られ、地方の個性と相違工夫を生かした道づくりとして建設省の「マイロード事業」にも選ばれたこの橋は、次のうちどの橋か。

①「ミュンヘン大橋」
②「藻岩橋」
③「五輪大橋」
④「幌平橋」

Answer

④「幌平橋」

 札幌市内を流れる豊平川の橋の「幌平橋」が、平成七年十月十日開通記念の式典が行われ「ポートランド広場」で、地元小学校の児童によるブラスバンドでテープがカットされ、開通後は華やかなマスゲームが繰リ広げられたりした。着工以来五年の歳月と約五十億円の巨費が投じられたこの橋は、橋長一六〇・六m、幅員が車道部一九・〇m、歩道専用橋部一二・七~二二・二mのものである。
 この橋の歩道部は、平成六年ポ市との姉妹都市提携三十五周年を記念して「ポートランド広場」と名付けられ、市民に親しまれる国際広場となっている。この広場には、米国ポートランド市から寄贈された金属彫刻「サーモン・リバー」が飾られ、この除幕式が、平成七年八月十七日に行われた。式には札幌市長とポートランド市のヘイルズ副市長が出席し、両市の末永い交流を誓った。彫刻はポ市在住の彫刻家リー・ケリーが制作したもので、高さ一・五m、幅約一m、重さ約三二〇㎏であって、両市共通の自然の豊かさを象徴する水と魚をモチーフに、上部の垂直部分は流れる水と魚の回帰を、下部の輪の部分は動きと時の経過を表現しているというものである。
 除幕式で市長は「ここを通る市民がたたずんで景色を眺め、ポートランドを思いながらひとときを過ごすことを期待している」と挨拶、ヘイルズ副市長は「この彫刻が表す川の流れが絶え間ないように、両市の友情を続けていきたい」と述べていた。このポートランド広場は、提携都市への親近感を深める交流の場として、訪れる市民が多い。「ポートランド広場は世界につながる友情の場」というポートランド市長のメッセージの通り、単に市民の憩いの場としてのものではなく、新しい時代を開く大きな役割も担っているものである。

青磁色に増水したる豊平川 幌平橋の下に禍巻く         ―大野 勤
揺るるがに見えて街の灯連なるを 幌平橋より眺めてをりぬ    ―津田妙子

Question 256

 この旭川市の橋で、橋中央のバルコニーに飾られた二基の彫像「微風」・「女」がある。この裸像の作品全体からは、若々しさと現代的な雰囲気が感じられとされるという橋である。それは次のうちどの橋か。

①忠別川「神楽橋」
②牛朱別川「永隆橋」
③美瑛川「新開橋」
④石狩川「秋月橋」

Answer

②牛朱別川「永隆橋」

 平成四年から架換え工事が進められてきた「永隆橋」が平成八年四月一日に完成し、関係者百人が出席して開通を祝った。市道永隆橋通り線の橋である。
 この橋は旭川開発建設部が永隆左右岸築堤と一体的な改修を図るため、事業費約二十三億円を投じて架換えられたもので、今回の第四代目の誕生となった。
 新橋は、橋長七一・四mの二径間連続鋼床版鈑桁であり、幅員が二二・〇mのもので、歩道部はブロック舗装で施工され、デザイン照明を配置した。
 中央のバルコニーには彫像を二体据え付けている。この橋に飾られた二基の彫像のうち、一つのものは「微風」であり、平成五年に笹戸千津子によって制作された高さ二一三㎝の立像である。これは「第七回神戸具象彫刻大賞展」に招待出品して準大賞を受賞した作品である。「ブラウスとジーパンの若い女性が長い髪を束ね、頭上に持ち上げている。髪を持ち上げた手の動きが、大きさと解放感を感じさせるとともに、若い女性の自由な未来をも見ることができる。作品全体から若々しさと現代的な雰囲気が感じられる」ものである。
 またもう一つの像も笹戸千津子によって制作されたもので、高さが九八㎝の「女」像であって、先の「微風」とは対照的に、腰を下しうずくまった作品である。「丸い背中の線、組んだ手、見下ろす視線が、もの想う若き女性の姿を表現している」ものである。昭和五十六年の制作になるものであって、これらの作品は「微風」の開放感に対して、内部力が働いていて、すがすがしさを感じさせる若い女性を主にした作品が、多くのファンをもっているという。なんといっても旭川は、街が生き続けいく限り、川と橋の存在は永遠である。

Question 257

 谷底の川面から橋上まで約一二〇mという全道一の橋であって、橋の両側には二種類四基の牧歌的なレリーフがこの橋の景観に華を添えている。多くの車は、紅葉の時期ともなると、この渓谷美を楽しむため、橋の上をゆっくりと通過して行く。この橋は次のうちどれか。

①豊平川「錦橋」
②石狩川「高原大橋」
③千歳川「新登別大橋」
④薄別川「無意根大橋」

Answer

③千歳川「新登別大橋」

 登別市の札内牧野と登別温泉をつなぐ道道上登別室蘭線に架かる「新登別大橋」は、昭和六十一年十月三日に完成した。この深紅の逆ローゼアーチの誕生を祝い、参加者がブラスバンドのマーチに乗って、秋の日に映える紅葉を楽しみながらこの橋を渡った。
 この橋は、橋長が二四〇・〇m、幅員一三・五mであって、谷底の千歳川から橋上まで約一二〇mという全道一のものである。形式の採用にあたっては、自然保護の精神を十分に配慮し、経済性、耐震性、美観、施工難度等を種々検討の結果、この逆ローゼ桁橋が採用されたものである。
 そして橋の両側には二種類四基の牧歌的なレリーフがこの橋の景観に華を添えている。鈴蘭と仲良く遊ぶ親子の馬、身体を寄せあう羊、睨みすえる牛の姿が、のどかで牧歌的な雰囲気を伝える。もうひとつのものは、湖を背景に鬼の顔と鹿、狐が描かれていて、登別温泉の新名所の橋となっている。
 秋の紅葉を愛でるため、多くの観光バスやマイカーがこの橋にやってくる。駐車場は満員となり、登別の新名所のこの橋上から紅葉の渓谷を楽しみ、親柱に見とれる風景に出会う。美しいこの大橋は、登別の新しい観光資源として登場したものである。
 この付近の渓谷は「秋になるとがらりと衣かえをする。谷に面した斜面両側の樹木が、一斉に緑から鮮やかな赤や黄色に一変し、澄みきった青空によく映える。真っ赤に塗った橋の色、隣接するテーマパークの中国庭園、天華園の赤壁とも併せ、観光客の心を離さない」と新聞は報じていたものであった。

紅葉谷に架かれる橋の高くして 瀬音聞こゆるこだまするごと     ―中田ミヨ

紅葉谷の渓流聞こゆる大橋に 秋の陽射しを身に浴びてをり      ―宮武春枝

Question 258

 広域農道工事の橋として架けられたもので、橋上に農民芸術家が制作した二つの彫刻が置かれているものがある。この橋は農道橋に彫刻が設置された道内で初めてのものであった。この橋は次のうちどれか。

①東川町「東神橋」
②旭川市「伊納橋」
③和寒町「南丘大橋」
④南幌・栗沢町「栗幌橋」

Answer

①東川町「東神橋」

 東川町の「東神橋」は、広域農道上川中央第一地区のメイン工事の橋として忠別川に架けられたものである。そして平成元年九月十三日に、東川町の現地において渡橋式が盛大に行われた。
この橋は上川支庁農業振興部が昭和六十二年から工事を進めてきたものであって、橋長二五二・〇m、幅員九・〇mのものである。
 渡橋式に引き続いて橋に飾られた像の除幕が行われた。この橋には二個所にバルコニーが設けられていて、東川町出身の農民芸術家・松田与一が制作した二つの彫刻が置かれている。農民と農耕馬を表した二基のイメージ彫刻を設置したことにより、風土と調和した特色のある橋となったものであった。
 農道橋に彫刻が設置された橋は、この橋が道内で初めてのものであった。この橋の完成によって、農業生産物、生産資材の搬入出や、農業機械の運行も円滑になり、さらには地元の農家や近隣町村への通勤・通学などの利便が図られ、上川中央地区の農業発展に大きく貢献することが期待されている。
 最近の橋梁は、地域の風土や景観といった環境との調和に配慮したものが多く架けられてきている。この橋もイメージ彫刻が取り付けられたことによって「風土と調和した特色のある橋」としても評判の高い橋である。
 東川町は道産米の主産地として知られ、農業が基幹産業であり、農作業受託組織の育成、機械の共同利用、農業経営の近代化、高品質米生産とそ菜の複合経営化を進める。また「写真の町」を宣言、写真甲子園や国際写真フェスティバルを開いている。

農耕馬父とたづなを取りし日を 東神橋にたたづみて偲ぶ      ―三浦まり子

Question 259

 この斜張橋は、発展するこの地区を象徴し、また周辺の風景に調和するよう景観に配慮して設計され、高欄のパネルには、北海道の花『ハマナス』をデザインして、夜間のライトアップ施設を施し、毎夜優美な橋影を川に浮かべている札幌都市近郊の橋は次のどれか。

①恵庭市「恵庭大橋」
②石狩市「花畔大橋」
③南幌町「清幌橋」
④江別市「美原大橋」

Answer

②石狩市「花畔大橋」

 国道二三一号のバイパスルートに架けられた橋が「花畔大橋」である。この橋が架かるルートは国道二三一号と札幌への交通量の一極集中を解消しようと計画されている国道二三一号と国道三三七号の二つの機能を兼ているものである。この茨戸川に架かるこの橋は、橋長二三〇・〇m、幅員三五・五mの二径間連続鋼床版箱桁斜張橋のものである。
 形式の採用にあたってはランドマーク的なアピール度等、全てに優るとしてこの斜張橋案が採用された。この橋の形式は、道央新道・石狩湾新港地域としてのランドマーク的な意義から象徴的形態が最も望まれ、一本のタワー型の斜張橋としてまさに最適の橋となっている。付近の地形が極めて平坦であることもあって、塔状の構造物は風景の中のアクセントとしても調和しているものである。また景観設計には特に力を注ぎ、ロープ張形状、タワー形式に着目し、景観設計をフォトモンタージュにより行い、この結果優美な外見となるマルチケーブル形式としたものであった。
 平成二年十一月式典が行われ、地元石狩太鼓同好会による太鼓が鳴り響く中を渡り初めを行った。この橋の説明板には、橋の形式、橋長、幅員のほか「花畔大橋は発展する石狩地区を象徴し、また周辺の風景に調和するよう景観に配慮して設計されました。高欄のパネルには、北海道の花『ハマナス』をデザインしています。『花畔』の由来は、当時のアイヌの人々が、この地区を『パナ・ウンクル』(川下の人の漁場)と呼んでいたことから、明治四年に漢字の花と畔を当て『花畔』と呼ぶようになりました」とある。
 なおこの橋は、架橋位置が水郷地帯であること、北海道の中心都市札幌の郊外であることから、夜間のライトアップ施設を施し、毎夜優美な橋影を茨戸川に浮かべている。高くそびえる主塔からハープ状にケーブルを張ったその優美な姿は、躍進する石狩市の地域ランドマークでもある。

Question 260

 この橋の親柱に付けられた像は、橋を渡る人々に伝説の世界をよみがえらせ、宇宙への関心を抱かせる橋のテーマをモニュメントとされたものである。宇宙の神秘や科学の不思議を再現したこの橋は、次のうちどれか。

①札幌市「虹の橋」
②芦別市「星の降る里大橋」
③赤平市「虹かけ橋」
④上ノ国町「天の川橋」

Answer

④上ノ国町「天の川橋」

 道南地方で早くから開けた街が「上ノ国町」であり、この町を流れる天の川に架かる橋が「天の川橋」である。平成七年、旧暦の七月七日の七タに当たるこの日、上ノ国町に「出会いと夢を呼ぶ」という「天の川橋」の開通式が行われた。橋長が一八八・〇m、幅員一五・五mの曲線を描く長大橋である。町長は「聖なる、母なる天の川に架かる、出会いと夢を呼ぶブリッジパークを中心に、人間と自然が共生する優しい街づくりに取り組んでいきたい」と挨拶する。
 そして星座パネルの点灯などを行った後、人々に伝説の世界をよみがえらせ、宇宙への関心を抱かせる橋のテーマをモニュメントしたブロンズ像を除幕する。また、中国の天の川伝説に登場するカササギが羽を連ねて橋をつくっている様子をデザインし、アクセントには光ファイバーを組み入れたパネルで黄道の十二星座を浮き彫りにした高欄がこの橋を飾る。親柱の「彗星像」は天空を横切る彗星をモチーフに、宇宙の神秘や科学の不思議を再現し、また「羽衣像」は、牛飼の牽牛の持つ「鞭」と機織りの織女の持つ「杼」を羽衣で包んだデザインとしたものである。
 函館開発建設部では「橋が夜空を演出します。天の川橋の夜は星がいっぱい」とし、高欄について「恒星の位置に光ファイバーを埋めた、黄道に十二の星座の銅板レリーフがはめ込まれています。夜にはそれぞれの星座が浮かび上がり、橋の上はまるで屋外のプラネタリウム。翼を広げたカササギたちが、きらきら光るロマンチックな星の世界に案内してくれます」とする。さらに「天の川カササギロード」の「メインステージ『天の川橋』は、両側のポケットパークや、広く楽しい歩行者空間のデザインなど、遊び心がいっぱい。自然が語りかけてくるのどかな昼と星の国へ導く幻想的な夜の二つの顔を持つ、新しいまちのシンボルブリッジです」とPRする。
天の川橋は、天の川にはさまれた両地区を結ぶ、人と車が安心して渡れる町のシンボルブリッジである。

Question 261

 道北地方の橋には、裸彫像を橋上に飾った橋は数多い。これらの橋の中で、市民の誰かが悪戯して「寒かろう」とTシャツを着せたことで話題となった橋がある。新聞は「小さな親切、大きなお世話」というタイトルで報道したことがあった橋は、次のうちどれか。

①伊野川「台場緑橋」
②美瑛川「両神橋」
③忠別川「忠別橋」
④牛朱別川「緑橋」

Answer

④牛朱別川「緑橋」

 牛朱別川の最下流に架かっている橋が「緑橋」である。昭和六十三年十月二十八日に、牛朱別川河川改修計面に合わせて工事を進めてきたこの橋が、市道緑橋通り一号線の橋である。二径間連続鋼床版曲線桁の橋長七四・二mのものであって、幅員が一六・五mのものである。渡橋式には、中央のバルコニーに設けられた彫像の除幕を行った。
 新橋は、橋の名に相応しくグリーンに彩られている。市当局では市の中心部に位置することから、市民がたたずめるようにということで加藤顕清の制作になる「人間像・感情」を橋の中央部に設けた。市内の彫刻橋としては第四番目のものであり「人間像・感情」が姿を見せると、盛んな拍手が大空にこだました。この緑橋にはバルコニーが二個所設けられている。
 平成元年の冬のことである。この彫像に市民の誰かが悪戯して「寒かろう」とTシャツを着せたことが話題となった。新聞は「小さな親切、大きなお世話」というタイトルで報道したことがあった。果たして「温かい心配り」であったのであろうかと、市民の間で話題をにぎわせたものであった。
 この像は昭和三十四年の第二回日展に出品された作品であって、その一連の作品である男性像のうちの一つである。「この人間像は、人間苦悩の一断面を示している。繊細な抑揚による肉附が一層人間普遍の姿を強調し、それに伴う細やかな陰影が別種の量感を出している」と、細野正信は評しているもので、高さは一七〇㎝のものである。
 昭和六十三年にこの「緑橋」が完成した時点ではこの「人間像」だけの一基だけであった。この橋にはバルコニーが二個所設けられていたが、何故か上流側のこの一基だけが設置されたもので、下流側には未設置であった。下流側には「バルコニーがあり台座らしきものがあるのに、彫刻がないとなぜかと思いをめぐらしたり、また息抜きというか、気持ちが落ち着くから不思議である。この緑橋の場合、彫刻が一基だけというのは案外『正解』なのかも知れない」と関根正次はいう。

Question 262

 橋の途中の二個所に「マチ」と「ミチ」という姉妹のブロンズ像があり、欄干(おばしま)に映える美(うるわし)姉妹像とされ、この像はこの町の「町史に大きな一ページを加える」と町では、PRしている橋がある。それは次のうちどれか。

①留辺蘂町「無加川橋」
②遠軽町「いわね大橋」
③興部町「友喜橋」
④丸瀬布町「丸瀬布大橋」

Answer

②遠軽町「いわね大橋」

 湧別川が流れる遠軽町の町道に「いわね大橋」が架かっている。町自慢の「いわね大橋」は「発展する遠軽の町史に大きな一ページを加える」と遠軽町ではPRしている橋である。昭和五十五年十一月に完成したものであって、橋長三三六・六m、幅員九・〇mのものである。
 この「いわね大橋」は、遠軽市街と向遠軽地区三〇〇戸を結ぶ、「かけ橋」として、「二万人余の町民の長年の夢であり、大きな願いでもあった」ものである。この橋の完成によって「遠軽市街の経済効果は勿論、交通の動脈は大きく変容していくことになった」ばかりでなく「それまで国道沿いに伸びていた本町の発展も向遠軽地区へと大きく大きく変化することを町民は期待している」橋となっている。
 十一月に渡橋式が行われたこの橋には、橋の途中の二個所に遠軽信用金庫から寄贈された「マチ」と「ミチ」という姉妹のブロンズ像があり、この渡橋式の当日、除幕式が行われた。このブロンズ像は、埼玉県飯能市在住の彫刻家・滝錬太郎の作品であって、高さが一・七mの女体二体である。台座には「LOVE・えんがる」と「欄干に映える美姉妹像」と書き込まれている。この像は、この「いわね大橋」の完成を祝って、両岸からそれぞれ一つ目の橋桁に上流に向かった形でセットされている。この像は遠軽町の「町史に大きな一ページを加える」とあるだけに、素晴らしい眺めを与えてくれる橋ともなっている。この姉妹像は、あたかも青い果実を思わせ、両手を蝶のように広げていて、思春期の若々しい苦悩を物語っているようである。そして全身がいいようもなく優美な旋律を描いていて、さながら青春を謳歌するように立っている。
 遠軽とはアイヌ語のインカルシ「インカル・ウシ・イ(見る・いつもする・所)」。すなわち、そこでいつも見張りする所から出たものである。遠軽町は、町を貫流する湧別川とその支流に沿って肥沃な土地が開け、市街地は山稜に囲まれた盆地状の中にある。

Question 263

 北海道の開拓の一つに、屯田兵によるものがあり、各地の発展はこれらの先人の苦闘が支えとなって、現在に受け継がれてきている。そこで橋の高欄に、屯田兵のことをよく理解してもらおうと、屯田兵のレリーフが付けられている橋がある。それは次のうちのどの橋か。

①士別市「不動大橋」
②札幌市西区「長栄橋」
③旭川市永山「永山橋」
④剣淵町「剣静橋」

Answer

②札幌市西区「長栄橋」

 札幌市西区、琴似発寒川に「長栄橋」が架かっている。琴似といえば「屯田兵の里」として有名である。この屯田兵の制度は、在住制度を母体として発展、官移民(屯田兵)として、明治八年琴似を皮切りに入植、同三十二年士別・南剣淵・北剣淵を最後として、北海道に三七兵村(発寒兵村を含めると三八)が置かれた。(屯田兵制度は明治三十七年に廃止)
 琴似の屯田兵は主に旧仙台藩士や会津藩士からなり、明治八年に一九八戸、翌九年に三戸、十一年に七戸が分家補充され、二〇八戸となった。彼らは札幌本府の防衛および北方警備の兵役の一方、琴似・発寒とその周辺の開墾に尽力し、今日の西区の基礎を築いた。今日の西区、手稲区の発展は、これら先人の苦闘が支えとなっており、これが絶えることなく現在に受け継がれてきている。
 この「長栄橋」は、平成八年に橋長四三・九m、幅員七・〇mの単純鋼箱桁で架け換えられたものである。そして西区の開拓に従事したこの屯田兵のことを、住民によく理解してもらうと同時に、先人の苦闘を偲んでいただきたいということから、それにちなんだ内容の素晴らしいレリーフを高欄に飾ったものである。そしてすぐ上流側に歩道が架けらている。
 またこの橋からの手稲山の眺望は抜群であると褒める人たちも多い。また鴨が飛来して泳ぎまわっている。

佇みし橋より水底透きて見ゆ 鮭の遡上する発寒川は       ―手代木秀子

電動の椅子にて餌を撒く人ありて 長栄橋下に鴨の寄りくる    ―山田十三江

Question 264

 この橋には人々とのふれあいをテーマにして、高欄にハマナス、ハルニレ、酪農風景、鮭の遡上などのレリーフが飾られ周囲の風景と調和を見せている。親柱も美しい造形としている橋は、次のうちどれか。

①北見市「北見大橋」
②天塩町「天塩河口橋」
⑨釧路市「久寿里橋」
④豊頃・浦幌町「十勝河口橋」

Answer

④豊頃・浦幌町「十勝河口橋」

 豊頃町大津と浦幌町豊北間は、十勝川によって分断され、かつて国道唯一の渡船によって結ばれていたものであった。ここに「橋を架けて」という住民の希望が叶えられ、昭和五十八年から「十勝河口橋」の建設が始まった。橋長九二八・〇mの橋が、着工以来十年の歳月を費やし、平成四年十二月八日、総事業費九十一億円を投入して完成された。
 「十勝海岸地域の産業の振興、さらには道東方面と、道央および道南方面とを結ぶ大動脈として、二十一世紀に向け、夢と期待に彩られ、繁栄に満ちた新しい歴史が継承されるものと確信する」という挨拶があり、開通を祝ったのである。
 この十勝河口橋は、橋長が最短となる位置、地形を考慮して、十勝河口より上流へ約四㎞の位置に選定された。橋の形式は将来の維持・管理、塩害に対する耐久性、河川条件、融雪洪水、施工上での制約等からコンクリート橋が望ましいとした。支間の一六五・〇mは、道内最大のものであった。幅員は二・五mの歩道、八・五mの車道の計一一・〇mである。この橋は十勝管内で豊頃大橋に次ぐ第二位の長大橋であり、遠回りを余儀なくされていた広尾―釧路間のアクセスが三〇分近くもの短縮となった。
 この河口橋の完成によって、大津・十勝太が直結され、漁業の操業体系、水産物の流通体系に好影響をもたらすほか、地域間交通の円滑化、産業開発促進などの効果が期待されている。
 高欄には人々とのふれあいをテーマにして、ハマナス、ハルニレ、十勝の酪農風景、鮭の遡上などのレリーフが飾られ周囲の風景と調和を見せている。親柱もまた美しい造形である。この橋は新しい十勝のシンボルの橋となったのであった。
 なおこの橋の完成によって、全国の国道で唯一の渡船「旅来渡船」は、終わりを告げたのである。

Question 265

 網走の街には、刑務所の受刑者の手によってつくられたマスコットとして有名ないろいろな形でアレンジされた「ニポポ」がある。唯一この橋に飾られていて、人々の評判が高い橋は、次のうちのどれか。

①「美岬橋」
②「鏡橋」
③「中央橋」
④「大曲橋」

Answer

④「大曲橋」

 国道二三八号の網走市内、網走川に架かる橋に「大曲橋」がある。この路線は網走と紋別を経由して稚内とを結ぶ延長三二一・一㎞のものであって、オホーツク圏の重要な幹線道路として、地域の社会・経済・文化の発展に大きく貢献している国道である。
 この道路は、網走市内の増大する交通量に対処して、交通渋滞の解消を目的とした大曲拡幅事業が進められてきたものであった。この事業は大曲交差点から道道能取三眺線までの延長一・七㎞を四車線とするものであった。この区間のエントランスに位置する「大曲橋」は、外観のみの変断面、バルコニーの設置など、景観に特に配慮されていて、平成六年に完成した橋である。
 架け換え工事は、まず現橋の上流側に二車線の橋を架け、交通を切り替えて旧橋を撤去し、残りの二車線の橋を架けて四車線の橋としたものであった。新「大曲橋」は、橋長一〇二・〇m、幅員が歩道三・五+車道八・五+中央分離帯一・〇+車道八・五+歩道三・五m、三径間運続鋼鈑桁のものとなっている。まず平成二年九月に片側の二車線部分が完成、同六年九月九日に全体が完成、三世代夫婦が渡り初めを行って完成を祝ったのであった。
 網走の街には、刑務所の受刑者の手によってつくられたマスコットとして有名ないろいろな形でアレンジされた「ニポポ」がある。この「大曲橋」にも取り付けられ、評判が高い。このほかにも各所に飾られていて、ニポポの街路灯、電話ボックス、川の防護柵などにもある。
 このニポポとは、アイヌ語で木彫リの小さな子という意味があり、どんな願いでもかなえて幸福をもたらしてくれると信じられているものである。なお民芸品として販売されたのは、昭和三十一年の秋からであった。この「ニポポ」が、橋に飾られているのは、この「大曲橋」だけであり、もっと街中の多くにも飾られてもよいのではなかろうか。

Question 266

 初代の橋(戦前)、二代目の橋(昭和三四年)、現在の三代目の橋(平成三年)が並んで架けられている所がある。誰がそもそも名付けたのかは知らないが、素敵な綺麗な名であるが、この橋は次のうちどれか。

①長沼町「舞鶴橋」,
②札幌市「豊橋」
③旭川市「観魚橋」
④沼田町「五ヶ山橋」

Answer

③旭川市「観魚橋」

国道十二号に架かる「観魚橋」は、春志内の神居第一線川(オンネナイ川)を渡る橋である。初代の橋の建設時期は不明であるが、戦前に架けられたものであり、二代目の橋は昭和三十四年に、また三代目の現在の橋は、平成三年に架けられた。この三代にわたる橋がここに並んで架かっているのを見ることができる。
初代の橋の橋上には草が一面に茂り苔で覆われていて、さまざまな色のレンガが積まれた橋脚は、その「存在を忘れられた今でもなお美しさを保っており、風格さえ感じさせる」。「この橋は一見の価値がある。下段のローマン・アーチ、上部の五個の装飾突起をもつレンガ造りの二本の橋脚は、市内の橋の中でも有数の優雅さである」。さらにこの橋は「架橋技術の発達過程を一か所でつぶさに眺めることが出来る」と、郷土の橋に詳しい豊田実大はいう。「旭川を語る貴重な建造物」の一つともされている。中間に架かる二代目の橋は、昭和三十四年十一月に完成したもので、つい最近まで使用されていたものである。橋長一五・〇m、幅員八・五mの鉄筋コンクリートT桁橋のものであり、国道十二号の一次改築が行われた時に、新設橋梁として架けられたものであった。やがて春志内防災関連事業が始まった。現在の橋は春志内トンネルにつながる新ルートのものであって、平成三年九月に完成した橋長二三・〇m、幅員一二・三mの活荷重合成H鋼桁のものである。
それにしても「観魚橋」とは、素敵で綺麗な橋名である。豊田実大は「一代目橋が架けられたころは、石狩川の流れも清澄であり魚が群れをなして泳いでいる光景が見られたことから命名された、と想像されるが…」。三代の橋が並んで架かっていることに意義がある。いずれの橋も取り壊されずに残っているのは嬉しい限りでありなお二代目の橋は、現在自転車道の橋として使われている。

Question 267

 明治三十二年(一八九九)北海道官設鉄道に架けられた橋梁で、英国製の二〇〇フィートダブルワーレントラス橋である。その後、民間に払い下げられ、現在「歴史的にも保存する価値が高く、文化財指定が相当と」市が指定、現在も現役使用されている橋は、次のうちどれか。

①芦別川「啓南大橋」
②千歳川「山線鉄橋」
③空知川「泰山橋」
④夕張川「雨霧橋」

Answer

②千歳川「山線鉄橋」

支笏湖岸・千歳川に架かる道内に現存する鉄橋として、最も古い「山線鉄橋」が、平成九年に復元され開通式が行われた。橋のたもとの案内板には

山線鉄橋は、明治三十二年(一八九九)北海道官設鉄道上川線の空知川(砂川~妹背牛間)に架けられた第一空知川橋梁であった。この橋は、英国技術者ポーナルの設計によるものであり、英国製の二〇〇フィートダブルワーレントラス橋である。その後、王子製紙株式会社がこの橋の払い下げをうけ、大正十三年頃現在の位置に移設されたものである。一方、明治四十一年(一九〇八)王子製紙株式会社が、千歳川に建設する発電所建設資材輸送を目的とした、王子軽便鉄道(通称山線)の運行を苫小牧~支笏湖間において開始した。建設資材・製紙用原木のみならず、旅行者等の輸送も行われ、支笏湖周辺の発展に寄与した山線は、昭和二十六年(一九五一)に姿を消すことになる。山線鉄橋は、現在地に移設されてから山線が廃止されるまでの間、道内最古の鉄道橋として活躍し、その後は支笏湖の景観にとけ込み、思い出のある橋として地元住民を始め、多くの観光客に利用されている。
このような由来のある橋を現地で原形保存・現役で使用を基本思想とし、平成六年(一九四四)
から平成九年(一九九七)に同じ場所で生涯現役として復元されたものである。         
平成九年十一月  千歳市長

とある。平成十一年「歴史的にも保存する価値が高く、文化財指定が相当」とする答申を受けた市では、文化財として公示。ここに「現代の技術によりよみがえり、同じ場所で歩道橋として生涯現役として復元」されたのであった。

Question 268

 そもそもこの橋は、当時陸軍師団の工兵隊が演習用として、木橋を架けたのが、この橋の始まりである。そして当時の工兵隊長の名を取って命名されたものであり、そして昭和四十九年十月、現在の橋となった。この橋長三一二・〇mの橋は、次のうちどれか。

①釧路市「鶴見橋」
②鷹栖町「北野橋」
③池田町「川合橋」
④旭川市「秋月橋」

Answer

④旭川市「秋月橋」

 旭川市に石狩川に架かる北旭川大橋下流にあるのが「秋月橋」である。主要道道の「旭川環状線」の橋であって、大正三年に旭川第七師団工兵隊が演習用として、鷹栖村七号線と永山村二丁目先の路線を結ぶ幅員二・二間(四・〇m)、長さ一四〇間(二五四・五m)の木橋を架けたのが、この橋の始まりである。そして当時の工兵隊長・秋月小一郎大佐の名を取って命名されたものである。
 ここには、明治四十四年(一九一一)より「二丁目渡船」があったが、この架橋により大正三年に廃止となった。その後、大正十三年(一九二四)になり、やや南の位置に橋が架けられ、六月十五日に渡橋式が行われた。この橋は昭和六年六月の洪水で一部が流失し、八月の出水で完全に流失してしまった。
 翌七年十一月に、百四十二万五千円を投じて復旧され「当時の橋長百十五メートル余、幅員四メートルで、専ら質実堅を旨とし、その耐久力に注意したと言われるが、八年十二月から翌九年六月までは材料腐朽で通行禁止になった事があり、応急の修理をして何とか間に合わせる」となった。昭和十一年に一部架け換え工事が始められ、九月十五日に竣工する。しかし徐々に腐朽していった。昭和二十二年二月に復旧工事が進められたが、同年の出水で橋桁が流されてしまった。その後は十年にわたり、使用不能が続く。そして昭和三十七年に架け換えられた。昭和四十九年十月現在の橋となった。橋長三一二・〇m、BBRV工法による三・四径間連続PC桁の橋である。
 この橋は、・国道三九号と四〇号とを結び、流通団地、鉄工団地へも通ずる大動脈として、交通量の多い橋となっている。

亡父と亡母がそのかみ恋を語りたる ふるさとの橋に聞く川の音     ―椎名義光

Question 269

 呉服商を営んでいたある事業家が、この地区の将来の発展を見越して、土地を求めた。そして土地を造成して住宅地とし、一坪当たり単価を一円高くして、橋を架ける費用を捻出、架設したものである。氏の功績をたたえる碑が建立されているこの橋は、次のうちのどれか。

①帯広市・幕別町「札内橋」
②札幌市「幌平橋」
③旭川市「大正橋」
④釧路市「大楽毛橋」

Answer

②札幌市「幌平橋」

 札幌市内を流れる豊平川に架かる橋で、この「幌平橋」は川の対岸地域の発展のためにと、一地元住民が寄付をして架けられたというユニークな歴史を持つ橋である。当時豊平町であった中の島地区は、豊平川によって札幌市街地と隔てられていた。それは豊平橋から南の真駒内と山鼻地区とを結ぶ藻岩橋までなかった。そのころ江別の市街で呉服商を営み、事業家でもあった河合才一郎は、中の島地区の将来の発展を見越して、果樹と野菜の栽培を主としていたこの地に、土地を求めた。その理由は、この地の発展と、橋を架ける資金を得るためである。河合は十三㏊の土地を買取り、その土地を 造成して住宅地とし、一坪当たり単価を一円高くして、橋を架ける費用を捻出しようとした。
 昭和二年九月、橋長一五〇m、幅員五・〇mで左岸部半分が木造ポニートラス、右岸部半分が木造桁橋であった。
この橋の完成によって農産物の販路が広くなり、通学・通勤にも大変便利になったことはいうまでもない。地元民は大いに喜んだ。札幌市街と中の島との距離がより近くなったからである。昭和五年になり河合は、料亭「精進庵」を橋のたもとに開き、市街化に先鞭をつけた。そこで有志が奔走して記念碑を精進庵の庭内に建立して、河合の功績をたたえることにした。昭和二十三年にこの碑が建立される。碑陽には「爲創設者河合才一郎氏 幌平橋架設記念碑」とあり、碑文には「これ一に氏の人格の發露である献身的努力の賜であつて氏の功績は眞に甚大…此不朽の徳を慕うあまり…これを永く記念せんとするもの」とある。
 現在の新幌平橋は、周辺環境や自然環境との融和に配慮し、これらによって札幌市を代表する橋として、また札幌の新しい顔としての相応しい、景観を醸し出すものとなった。

Question 270

 住民にとっては、この川に橋が欲しいという願いが強かった。この夢をかなえてくれたのが、地元の網元であった。「工事費の一割を地元が負担したら橋を架ける」という方針であったので「地元人たちのためになるなら」として拠出、初の永久橋の誕生となった橋は、次のうちどれか。

①知内川「知内橋」
②余市川「大川橋」
③尻別川「磯谷橋」
④古平川「古平橋」

Answer

③尻別川「磯谷橋」

 尻別川は道路が整備される大正年代まで、重要な輸送路として人々に利用されてきた。尻別川の河口近くに住む東土場と西土場の人々は、唯一の交通手段として渡船を利用しなければならなかった。両岸に張られたワイヤーロープを伝って渡船で往来したが、春先の洪水時や、大雨の続いた時は「川とめ」といって渡船が運行されなかった。このように舟が出ない日が四~五日も続くことがあった。この地に住む住民にとっては、早くからこの   「尻別川に橋が欲しい」という願いが強かった。この夢をかなえてくれたのが、島古丹に住む網元の村岡平吉であった。
 当時、道庁では「工事費の一割を地元が負担したら橋を架ける」という方針であった。そこで道庁が調査した所、八万五千円がかかるという結果が出た。村岡は「地元人たちのためになるなら」として、この一割に相当する八千五百円を寄付したのである。当時の八千円というのは大金であった。そして昭和九年九月、当時この地方では初の永久橋の誕生となったのである。地元民は「村岡さんのお陰で橋が出来た」といって、大喜びであったという。かくして初代の橋の誕生となった。
 「磯谷橋」は、橋長が一八〇・七mのもので、幅員五・〇mの鉄筋コンクリート、一二径間のものであった。この話題は全道でも大評判となったものであった。完成の当日は、「あんな田舎に置くのはもったいない」ともいわれた橋であって、渡橋式の当日は、老人も若者も、小学生も提灯行列をするなど、盛大にこの橋の完成を祝った。
 この村岡平吉を讃える碑は、氏の恩徳や功績を今に伝えている。

忍路高島及びもないが せめて歌棄磯谷まで       ―江差追分本歌―

Question 271

 初代の橋は大正十二年に架けられた橋で「遊廓移転」にからむ橋とされている。移転によって交通手段が不便であり、迂回するしかなくそれで地区の有志が費用を出し、工事施工申請して架けられたという橋は、次のうちのどれか。

①牛朱別川「永隆橋」
②色内川「色内橋」
③釧路川「久寿里橋」
④豊平川「一条(大)橋」

Answer

④豊平川「一条(大)橋」

 この一条橋の最初は、地元民の寄付によって架けられた橋である。大正九年(一九二〇)に薄野にあった遊廓が、上白石に移転となった。これによって付近のリンゴ畑一帯が市内有数の歓楽街となった。しかし市街地との交通手段は、豊平橋か、または東橋を迂回するしかなく、大変に不便であった。そこで関係者が寄付を集めて、大正十二年に私設の橋を架けた。当時札幌は「明治四十三年(一九一〇)の出水で、復旧工事中の豊平橋が墜落し流失、さらに前年架設された仮橋も傾斜し通行不能となった。札幌区では…南一条通から一直線に白石へ通じる新橋を架けてはという考えが起こった。この架橋案は白石へ遊廓を移転するための伏線ととらえる向きもあった」。建設費用三万三千円は区民有志によることにして、区役所を経て道庁に対して工事施工申請した。南一条橋の実現は大正十三年になる。この橋は木造桁橋であって、橋長が一八二m、幅員が九・五mであった。「大正十二年六月に南一条橋(現・一条大橋)を架けた。心情的にいえば〈札幌思案橋〉といったところだが、見てくれは〈行こうか戻ろうか〉の風情に乏しい野暮った気な橋だった」(脇哲)。あくまでも初代の橋は「遊廓移転」にからむ橋であった。そして大正十五年十一月に札幌市に寄付される。やがて腐朽が甚だしくなり、永久橋化の必要性が増したこともあって、橋長一七八mのゲルバー桁の鉄筋コンクリート橋として昭和十三年十二月に誕生となる。

一条の橋を渡りて見返れば 中州に点々とうごく鴨ら       ―大択文子

竣工の橋は木の橋賑はひし 渡り初め式餅撒かれたり       ―福田いし

Question 272

 最初に架けられた橋から現在の橋まで、流失、破損、老朽化などの理由から、実に二十回以上にも及ぶといわれる架橋の歴史をもつ橋が道内にあるが、国内でも例のないような架け換え回数(仮橋を含む)の多い橋は、次のうちのどれか。

①石狩川「旭橋」
②豊平川「豊平橋」
③十勝川「十勝大橋」
④釧路川「幣舞橋」

Answer

②豊平川「豊平橋」

 明治四年(一九七一)に豊平川に初めて架けられた木橋から、自然の猛威と人間の知恵との闘いは、いつも自然の猛威が勝利をおさめ、現在の豊平橋(昭和四十一年)までに、実に「三五回」(『駒崎元雄』)という架け換え説があり、仮橋を含めて約二一代目とするものもある。また橋の研究家・亘信夫は「仮橋を含めて現在の橋は二十三代目である」とする。いずれにしても二〇回以上は確実であろう。豊平橋は、その時代における最高の技術で架け換えが行われ、その時代の設計思想がよく反映された橋といわれている。その点では、わが国でも橋梁史を具体的に示した橋であるといっても過言ではなかろう。
 明治四年に木造の二連の丸木橋にはじまり、明治八年の米国技師ホルトによる木・鉄混合のハウトラス、明治十一年のホイラーによるハウトラス橋となり、やがて岡崎文吉による練鉄製のプラットトラス橋となるが、この間に架けては流されるの繰り返しであった。そして豊平橋も、住民多年の念願であった名橋の誉れの高かった先代豊平橋が大正十三年(一九二四)に完成となった。橋長一二〇m、幅員一八・三mのブレーストリブ・タイドアーチと呼ばれる形式のものである。
 やがてこの橋も川の流れに対して勝利を収めたものの、車の流れというものには勝てず、現在の橋となったものである。「豊平川の猛威と闘い、四十二年間堅塁を抜かせなかった橋も、増大する交通量の前には屈せざるを得なかった」のであった。

―豊平橋の歴史は北海道の否、日本橋梁技術の歴史である―

Question 273

 橋の工事に着手されたが、事変に遭遇し、橋脚四基を建設しただけで中止、一時しのぎの木橋が架けられ、第二次世界大戦が終わると再開された。工事着工以来、実に完成まで二十五年の歳月を要した橋があるが、それは次のうちどれか。

①小樽市「平磯橋」
②豊頃町「茂岩橋」
③札幌市「幌平橋」
④蘭越町「磯谷橋」

Answer

② 豊頃町「茂岩橋」

 かつて国道三八号の橋として「茂岩橋」が架けられていた。この橋は工事着工以来、完成まで実に二十五年の歳月を要した橋として知られている。第一期工事は昭和十一年に十勝川をまたぎ、豊頃と茂岩とを結ぶ永久橋として工事に取りかかった。しかし着工したものの支那事変に遭遇し、昭和十二年十月に橋脚四基を建設しただけで中止、昭和十二年と同十五年に一時しのぎの木橋が架けられた。やがて第二次世界大戦が終わると、昭和二十六年から工事が再開された。昭和二十八年十一月に、中央トラス三三二・四m、幅員六・〇mのゲルバー式ワーレントラス、鋼ワーレン単純トラスが完成し、第一期の工事が完了した。高水敷は取り付け道路とし、昭和二十八年十二月十日に喜びの渡橋式が行われた。第二期工事は、両翼六一三・四mの架設が、昭和三十二年から行われた。そして昭和三十六年十月二十四日に完成して渡橋式が行われた。橋長九四五・八mという全道でも一番長い橋の誕生である。
 高水敷のゲルバー鈑桁を架けるに際し、低水敷とのゲルバートラスとの取り合いから、橋の交通を一時止めることになり、交通処理をどうするかが問題となった。結局は児童や一般歩行者を、既設橋に梯子を取り付けて通行させることに、一般車両は渡船、または迂回路を使うことにした。しかし「一級国道に渡船とは例がない」として、相当難色を示めされたが、結局承認をもらう。完成時の新聞には「十勝川をまたいで中川郡豊頃村と同村茂岩の両市街を結ぶ茂岩橋が完成した…。長さ九四五・八メートルという超大型の永久橋。長さは全国五位、戦後にできた橋では最長で、もちろん全道一。しかも戦争のシワ寄せで着工から二十五年もかかったという。とにかく記録的な長大橋」としていた。完工式は昭和三十六年十月二十四日に行われた。

Question 274

 この戦前のランガーガーダー形式の橋は、道内で二例しかなく、河川改修で、解体の運命にあった。橋周辺の自治区では、橋の保存を関係機関に強く要請、新橋の完成後に解体・移設、そして復元、保存された。ここに第二の人生を歩むことになった橋は、次のうちどこか。

①千歳川「舞鶴橋」
②夕張川「竜仙橋」
③雨竜川「達布橋」
④須部都川「柳橋」

Answer

①千歳川「舞鶴橋」

 長沼町の「ながぬまコミュニティ公園」に、千歳川に架かっていた「舞鶴橋」が移設・復元されている。旧橋の解体・移設工事は平成五年から始まり、部材の補修が行われて後、同七年一月末にその復元工事が完了したものであった。
 この橋は道内最古のランガーガーダーであり、昭和十一年に架けられた橋であった。昭和六十三年から河川の改修と治水対策から、土木現業所では上流に新しい舞鶴橋の架設工事を始めた。この動きによって橋周辺の自治区では、「舞鶴橋保存期成会」を結成し、署名を添えて町当局と土木現業所に保存を要請した。すなわち約半世紀の間、朝タ親しみ郷土の象徴的な橋であること、千歳川の切り替え工事に伴う記念すべき橋であること、北海道では最初であり、わが国でも三番目のオーストリア人の設計になるランガーガーダー式で、全国的にも珍しい形式の橋であることなどの理由からであった。
これを受けた町では、新橋の完成後に舞鶴橋を解体し、コミュニティ公園に移設、工芸村とを結ぶ歩道橋として復元することに決めた。ここに第二の人生を歩むことになった。道道の橋で廃止後保存されるのは初めてのケースであり、長沼町の貴重な文化財として町民からも親しまれている。
 このように歴史を伝える橋の保存に対して、地元民の熱い期待があるということは、この橋にとっても嬉しいことであろうし、同時に光栄の極みでもあろう。大切な「土木遺産」を守ることが、現代に果せられた私たちの使命であろう。復元された中央径間のランガー部は、橋長四二mのもので「両岸の緑に潤いを運びながら、ゆっくりと流れる川面に、その優美で均整のとれた姿を映している」と評判の橋となっている。

Question 275

 一度架けられ供用された鋼道路橋が、新橋架設のために解体されてスクラップにされたり、また、ほかの地に再度架設された例は他にもあるが、この橋の中央スパンとして再生されたトラスは、道内最初のものである。それは次のうちどれか。

①網走川「大曲橋」
②湧別川「中湧別橋」
③十勝川「新得橋」
④石狩川「納内橋」

Answer

④石狩川「納内橋」

 石狩川を挾んで内園地区と納内地区とは、この大河によって交通が遮られていた。ここにも渡船の歴史があり、やがて橋の架設請願がされ、昭和六年に「架橋が確定」の朗報が届く。この時は「農産物価格が暴騰のうえ凶作で、農村は疲弊そのものであった」が「窮状に追いつめられた村民にそこばくの明るさを覚えた」という。音江村では部落民と相談して五千円の寄付を引受け、さらに千八百七十円の労力提供も決定する。
 初代納内橋は、昭和七年の計画で、上部に木材を充てるつもりであったが「明治三十七年に旭川師団への路線として架けられていた、初代の旭橋を解体したものを納内橋の中央スパンとしてのせ、側径間には新しいデッキトラスが架けられた」のである。すなわち初代旭橋の中央スパン・シュヴェットラートラス(四九・四m)一連解体して、納内橋の中央スパンとして再生されたのである。
 旭橋をとりこわした上部復元で、むかし懐かしい旭橋の美しい曲線が再び石狩川に姿を映した。一度架けられた鋼道路橋を解体して、ほかの地に再度架設された例は数あるが、この納内橋が初めてのものであった。
 昭和七年一月、直営で施工され、同年十一月に竣工式が行われた。橋長一六八・七m、幅員五・〇mで、シュヴェットラートラス部が四三・九m、ワーレントラス(木床版)五@二四・〇mのものである。渡橋式は盛大に行われ、小学生の旗  行列、仮装行列があり、餅撒き、角力、手踊り等があって「稀にみる賑わひであった」という。
 この橋は先代の旭橋で盛大な渡橋式で祝われ、そしてまた、再度の利用でこの納内橋でも盛大な渡橋式の光栄に浴したという珍しい橋であった。

Question 276

 この橋は、河川切り替えの通水前に、下部の工事が終わったが、戦争に突入したことから上部工事は中断、木造トラスの仮橋によって交通を確保した。戦後になり工事が再開され、昭和十二年下部工事に着手以来、同三十四年上部完成まで実に二十二年の歳月を要した橋は、次のうちどれか。

①利別川「池田大橋」
②美生川「大成橋」
③石狩川「月形大橋」
④豊平川「雁来大橋」

Answer

④豊平川「雁来大橋」

 豊平川に架かる最後の橋が「雁来橋(現・雁来大橋)である。先代の橋は昭和五十五年十二月、新橋の誕生によって淋しく消えた。
 豊平川の新水路工事は、昭和七年に開削が始まり、同十六年に通水を見た。雁来橋はこの通水前に下部工事に着手し、同十二年に低水路潜函基礎工事を実施し、同年末に完成させる。しかし戦争に突入したため、上部の工事が中断となってしまった。そこで木造のポニートラスの仮橋によって交通を確保する。やっと戦争が終わり、昭和三十二年から工事が始まった。中央径間は支間五〇・〇mのワーレントラス三連の溶接橋として、また側径間は支間二〇・三mのPC桁九連のものである。この溶接トラスは、北海道で最初のもので、PC桁も札内橋などについで三番目のものであった。PC桁はマグネル工法を採用、これは本邦で初めてのものであった。
 昭和十二年に下部工事を着手以来、同三十四年の上部完成まで実に二十二年の歳月を要した橋であった。トラス部分は、下路式が災いして車両がトラス斜材、垂直材に衝突し、それらを変形、一部破断させるなどの事故が頻発していた。
以来昭和五十五年の解体まで、幅員五・五mという狭いながらも多くの車を通した。約二十年間にわたり傷付きながらその都度修理・補修され、耐えに耐えた雁来橋は、ここに新しい橋長六三八・二mの「雁来大橋」にその座を渡し淋しく消え去った。新「雁来大橋」は雁来バイパスによってルートが変わり、完成されたものである。

掛替へし橋の下手ぞ渡り慣れし 古き雁木橋まぼろしに顕つ      ―星野絢子

Question 277

 市民待望の大橋開通にあたり、自動車専用の橋でありながら、開通を記念して、この区間の橋を往復する約七㎞のコースを歩いて渡り、この建設に注がれた工事関係者の努力と、その情熱に感謝したという、最初のイベントを開催した橋は、次のうちどれか。

①帯広市「平原大橋」
②室蘭市「白鳥大橋」
③苫小牧市「第一湿原橋」
④江別市「清真布橋」

Answer

②室蘭市「白鳥大橋」

 室蘭市の祝津と陣屋との間に、全長一三八〇mの「白鳥大橋」が完成し、平成十年六月十三日、橋周辺と橋上で喜びの開通式が行われた。この日は曇り空で肌寒い天気の中、午前十時から開発局長、知事、市長ら関係者約三百人が出席して式が始まった。道鳶土木工業連合会員七〇人による木遣歌が響く中、開通式の出席者が車で橋上に移動し、地元の作曲家・土田英介が作曲したファンファーレを、清水丘高校の吹奏楽部十一名が高らかに奏でた。それを合図に開発局長ら十六人の手によって、テープがカットされる。クス玉が割られ、花火が空高く打ち上げられた。その後、乗用車四五台に分乗して陣屋側で折り返す「通り初め」を行い、通行の安全と工事の無事完成を祝った。
 海上では室蘭海上保安部の消防艇やタグボートが、赤、青、黄などの五色のカラー放水をして式典に華を添えた。また、大漁旗を掲げた漁船も繰り出し、室蘭の「よさこいソーラン」二チームが踊りを披露するなど、市を挙げて開通を祝った。開通を前にした五月三十一日、開通イベントとして「白鳥大橋ウオーク」が開かれた。この日、室蘭市民はもとより、道内各地や横浜、名古屋などから一万七千人が集まり、全長一三八〇mの橋の上を歩いた。この橋は自動車専用道路橋であることから、歩いて渡ることの出来る最初の機会であった。青空が広がる日和にも恵まれ、遠く駒ヶ岳や羊蹄山を望みながら、橋を往復する約七㎞のコースを歩いて、橋上からの景観を満喫し、白鳥大橋の素晴らしさを実感した一日であった。そして難工事を克服して施工し、建設に注がれた工事関係者の努力と、その情熱に感謝したのであった。白鳥大橋はまさに「全国民から北海道に贈られた貴重な財産、新しい土木技術の発信基地である」。

Question 278

 戦前の橋の渡橋式において、一監督員が、首長などと並んで橋の開通を祝うテープに鋏を入れたという異例の橋はまずない。その中で当時東洋一とさえいわれた、道内有数の橋として架けられた橋で、これが行われたのは、次のうちどれか。

①豊平川「豊平橋」
②天塩川「天塩大橋」
③十勝川「十勝大橋」
④石狩川「愛別橋」

Answer

③十勝川「十勝大橋」

 昭和十五年十月に、橋長三六九mの鉄筋コンクリートゲルバー橋として、スパン長が東洋一、面積では世界一を誇る十勝大橋が竣工となった。開通式は道庁長官代理をはじめ五百余名出席のもと、宮城遥拝、感謝、黙祷の儀、奉告祭に移り、玉串の奉奠、工事報告、式辞、三世代夫婦による渡り初めがあり閉会となった。
この渡橋式について、一監督員は「大勢の招待者と渡橋式を一目見ようと集まった群衆は、橋のたもとを埋め尽くした。式は型通りに進行、いよいよ渡り初め、親柱と親柱を結んだ連縄に鋏を入れる順番となった。この連縄に鋏を入れて切ったのは私である。…私が先頭で次に神主、三夫婦、土現所長以下来賓の何百人かの行列が帯広側から渡り、木野側の連縄に挟を入れ、帯広側にもどって、一切の行事は完了した」という。
 一現場監督が大勢の来賓がいる中で、晴れのセレモニーでテープカットするなど、当時としては異例中の異例あった。現在では当然のことで「部局長である。戦前とてこれと同じであった」のである。また「責任者として鋏入れをするのであれば横道さんのはず、また部局長であれば小川所長であるはずである。にもかかわらず当時としては全く異例のこと」であったと手記に残している。

ゲルバー式十勝大橋恙なく 渡る歩幅に川藻の匂ふ       ―倉口テル子

木橋の十勝大橋渡りたる 応召の日も遥かとなれり       ―寺師 治人

鈴蘭の丘より十勝大橋を 見るや自動車蟻の如く見ゆ      ―千葉 松韻

Question 279

 昭和五十一年新橋が誕生、渡橋式には、アイヌ保存会の男性が民族衣装に刀と弓を持ち、女性は老母たちの姿を再現、杖をついてコンカニルイカ(金の橋)、ホウルイカ(渡る)などの歌詞に合わせて古式にのっとったアイヌ民族舞踏により渡り初めが行われた。この橋は次のうちどれか。

①静内川「静内橋」
②沙流川「平取橋」
③十勝川「十勝河口橋」
④釧路川「幣舞橋」

Answer

④釧路川「幣舞橋」

 霧の幣舞橋―地元釧路市民はもとより、道内外の観光客にも親しまれている釧路川の橋。昭和五十一年に繁栄の釧路にふさわしい橋として生まれ代わった。現代風のデザインの中に、古い伝統美を盛り込んだ新橋の誕生である。この日は早朝から雪模様となり、新しい橋も雪化粧となった。橋の両端には「祝五代目幣舞橋完成」の横断幕が張られ、午前十時ころから早くも約三千人の市民が詰めかけた。午前十一時から修祓式が行われ、関係者が玉串を神前に捧げ、紅白のテープが切られる。釧路消防音楽隊二十二人が、奏でるファンファーレによって、四〇〇羽の鳩が冬空に舞い上がり、渡り初めとなる。三世代夫婦を先頭に、ウタリ協会支部、アイヌリセム保存会の十五人により、男性は民族衣装に刀と弓を持ち、お払いしながら進む。後列の女性たちは老母の姿を再現し、杖をついてコンカニルイカ(金の橋)ホウルイカ(渡る)の歌詞に合わせて、古式にのっとったアイヌ民族舞踏により渡り初めの儀式がある。地元の青年たちは揃いの半纏で木遣を謡ながら渡ってムードを高めた。その後歩行者天国となり、釧路市内をはじめ近隣市町村から参加したメンバーによって再び降りはじめた雪の中で、ブラスバンド、日本舞踊、郷土芸能などのアトラクション披露によって完成が祝われた。
 新橋は橋長一二四・〇mの三径間連続鋼床版箱桁のもので、桁の側面形状に放物線を採用、旧橋のもつ重厚な落ち着きと、ヨーロッパスタイルのイメージを温存することを考え、全体的にスレンダーな感じなものとした。橋梁技術の粋を集めた時代の先端をゆくものである。

幣舞の橋に幾多の過去ありぬ それらを海霧が包みて今に      ―高橋欣也

数々のロマン残せし幣舞の 橋架け替えと歴史は流る        ―高橋マチ

Question 280

 橋が完成し、当日の渡橋式の挙行前の午前中に、橋上を一旦歩行者天国に開放し、夜になってからこの橋の開通式が行われた。これには町内の家族や団体の七七組が渡り初めをしたという橋は、次のうちどれか。

①松前町「唐津内橋」
②上ノ国町「天の川橋」
③江差町「初神大橋」
④熊石町「如月橋」

Answer

②上ノ国「天の川橋」

 道南地方で早くから開けた町が上ノ国町であり、この町を流れる天の川に架かる橋が「天の川橋」である。橋長一八八m、幅員一五・五m(歩道二@三・五+車道八・五)のものである。平成六年に完成すると、午前十一時から橋上を歩行者天国として開放した。子供たちは天体グッズなどを販売するフリーマーケット、ストリートパフォーマンスなど、午後四時まで楽しんだ。
 午後六時半から開通式が行われた。この日、星座パネルの点灯などを行った後、親柱のブロンズ像除幕式、午後七時に開建部長、檜山支庁長、上ノ国町長ら七人の手によって待望のテープカットが行われ、開通を祝った。渡り初めは町内の家族、各種団体など七七組が灯篭を手にして、同町の大留方面へと進んだ。この後、午後七時半から小学校グランドに設けられた屋台で、オデン、焼鳥などを食べながら、郷土芸能の大留獅子舞の披露、三百発の花火、レザー光線のショーを楽しんで開通を祝いあった。町では「天の川カササギロードのメインステージ〈天の川橋〉は、両側のポケットパークや、広くて楽しい歩行者空間のデザインなど、遊び心がいっぱい、自然が語リかけてくるのどかな昼と星の国へ導く幻想的な夜の二つの顔を持つ、新しいまちのシンボル」としている。「橋が夜空を演出します。天の川橋の夜は星がいっぱい」であるとし、高欄について「恒星の位置に光ファイバーを埋めた、黄道に十二の星座の銅板レリーフがはめ込まれています。夜にはそれぞれの星座が浮び上がり、橋の上はまるで屋外のプラレタリウム、翼を広げたカササギたちが、きらきら光るロマンチックの世界に案内してくれます」とPRする。そして橋名板には上ノ国小学校児童の文字を採用するなど、街のメインストリートと憩いの交流の場として親しまれている橋である。

Question 281

 一般に橋が完成すると竣工式(渡橋式)が行われる。部落が異なる場合はそれぞれが三世代夫婦を出して先頭に立つが、三代夫婦のいなかった方からは、仮想で三代をつくり、渡橋式に望んだという橋がある。それは次のうちどれか。

①雨竜川「筑紫橋」
②石狩川「納内橋」
③天塩川「瀬尾橋」
④空知川「空知川橋」

Answer

②石狩川「納内橋」

 石狩川を挟んで、左岸の内園と右岸の納内とは、北海道一の大河によって交通がさえぎられていたが、つねに交流がもたれながら発展していった。多年の熱望であった石狩川に架かる納内橋が竣工し、渡橋式が昭和七年に現地において行われた。
 当時の新聞は「納内、音江兩村民は勿論、接續町村よりも老若男女が歓喜して本日の渡り初めをせんものと式場に押し掛け、來賓は一々自動車にて現場に送られたため、街は身動きもならぬ雑踏を極め、各戸には國旗を掲揚し又驛前には紅白の布を以て装飾したる歓迎門を建設するなど兩村を擧げての歓喜に満ちていた」と報じていた。
 「竣工式は開会の辞に続いて祝詞、玉串の奉奠、工事報告、式辞があり、長官の告辞、来賓の祝辞があって」渡橋式に移った。「渡り初めには音江村豊泉の鈴木清作一家の三代夫婦が、かみしもに白扇姿で長寿を祈り、三代夫婦のなかった納内からは、仮想で三代をつくり、老爺はちょんまげにかみしも、二代目は紋付にはかま、三代目がモーニング姿でこれを寿ぎ、その行列には天狗の面に一本足駄とか、鎧兜姿など趣向を凝らした扮装の仮装行列が、つぎからつぎと続き、町をあげたお祝いになった」としている。
 この橋も交通量の増大から、昭和四十六年にランガー桁・合成桁の橋として生まれ変わった。渡橋式には、大勢の部落民が参加したが、核家族化が進んで三世代夫婦が見当らず、テープカットとクス玉を割るだけで開通を祝っている。また最近では、道路全体の竣工式と渡り初めを兼ねることが多くなってきている。

Question 282

 新橋が完成し、風船や鳩が一斉に放なたれ、自衛隊のヘリコプターから橋上に花束が投下、三世代夫婦を先頭に関係者、祝歌を歌いながらの鳶職、高校ブラスバンド、鼓笛隊、自衛隊音楽隊がマーチを奏でながらの渡橋式が行われた橋は、次のうちどれか。      

①札幌市「豊平橋」
②旭川市「旭橋」
③釧路市「久寿里橋」
④天塩町「天塩河口大橋」

Answer

①札幌市「豊平橋」

 新豊平橋の架け換え工事が完成し、昭和四十一年十月、新橋の誕生を祝うかのように澄みわたった秋空の下で、総工費五億六千三百万円を投じた新橋の開通式が行われた。この日の午前十一時から関係者約三〇〇人が出席し、橋のたもとの西側で式が始まった。神官が厳かに御祓いをした後、参列者の代表がそれぞれ玉串を奉奠し、札幌開建技術長が工事報告を行い、北海道知事、札幌市長らがそれぞれにお祝いの言葉を述べる。
 午後零時十五分、北海道知事ら四人が紅白のテープにハサミを入れ、同時に五段雷の花火が打ち上げられ、色とりどりの風船二、〇〇〇個、二〇〇羽の鳩が一斉に放なたれ、自衛隊のヘリコプターから橋上に花束が投下される。羽織袴、モーニングに身を整えた三代夫婦を先頭に、渡り初めが行われた。関係者や、祝歌を歌いながらの鳶職が続き、札幌商高ブラスバンド、豊平の各小学校の鼓笛隊、自衛隊音楽隊が軽やかなマーチをかなでながら、紙吹雪の中、橋上をパレード、赤いモールで飾りたてた花電車およびバス五台に付近の豊平小ら児童を乗せて通り初めを行った。
 この日、新橋の晴れ姿を一目見ようと、開通式の始まる前から沢山の市民が集まり、両側の堤防はもちろんのこと、仮橋の歩道にできた人数は、ざっと二万人を越え、近くのビルの屋上や、民家の屋根にのぼって見物する有様であった。このため狭い仮橋の通行も半分マヒとなり、車の列も創成川の信号まで並ぶほどで、警官は懸命に人垣用ロープを引っ張っていた。午後一時、仮橋が閉ざされ、新豊平橋が開放されると、車の流れは一斉に広々とした車道にあふれ、歩行者も歩道にあふれた。

豊平の橋ひらかるる遠びの 花火は澄みし空にはぜ散る      ―浅井勇吉

花火はぜ祝賀機低く飛び交ひて 豊平橋は開かるる今         同

Question 283

 この橋の記念すべき開通式にあたり「トラクター、トラック、ミルクタンクローリーによる車両パレードをしよう」として「祝 完工」と大書されたトラクターやトラックが、牧草やキャベツを積んでゆっくりと進む。これらのセレモニーが行われた橋は、次のうちどれか。

①妹背牛町「妹背牛橋」
②深川市「納内橋」
⑧音更町「十勝中央大橋」
④旭川市「伊納大橋」

Answer

④旭川市「伊納大橋」

 旭川市道「春日台場間一〇四号線」に「伊納大橋」がある。神居町台場と江丹別春日(伊納駅付近)とを結ぶ橋長三二七・六mの橋であり、農免道路事業の一つとして、昭和五十六年に着手された。この橋には、十一億五千七百四十万円が投入されたものである。この橋の完成によって、同地区の関係者二十数戸は、国道十二号にも出やすくなり、農産物や生活物資も安定した搬出入が確保されるようになった。またさらに北都商高に通う約二百人の列車通学生にとっても待望久しい橋であった。
 架橋の計画にあたっては、非常に苦労している。それは受益者の小さい地域であったからである。しかし開通によって、地域住民が大きな夢を膨らませていたことに、計画担当者は満足したことだろう。この地域は昭和二十一年から入植が始まり、開通時には専業農家八戸、兼業農家十三戸であった。
 昭和六十一年九月の開通式の日、従来「春日は陸の孤島」と呼ばれていたが「都市と農村部と夢の懸け橋に地域の人たちは、数十年来の悲願が達成された」として喜びに溢れていた。竣工式ば約一〇〇人の参列のもとで行われ、テープカットに続いて出席者が三代夫婦を先頭に、北都商高のブラスバンドに合わせて、道議、市議、支庁長、市助役など地域の人々がこれに続いた。
 開通式にあたり、この記念すべき日のために、トラクターなどによるパレードが急遽決り、飾り付けの布を買ってくる者、字を書く者、花を飾る者など、関係者の家族総動員で準備した。そして「祝   完工」と大書されたトラクターやトラックが、牧草やキャベツを積んでゆっくりと進む。セレモニーの後、完工祝賀会が挙行され「春日地区の発展は伊納大橋から」として喜び合った。伊納大橋の開通によって、生活の不安、不便が一挙に解決したのはいうまでもない。開通にあたって地元住民は「何程この橋の完成を待ち望んだことか。地域の人達の中には渡り終えて感激の余り泣いている人もいた。

Question 284

 住民百年来の「夢のかけ橋」の実現のために結束し「架橋促進期成会」を結成、関係方面に強力なる運動を展開した結果、昭和三十三年に待望の竣工式をむかえた。渡橋式には架橋運動中に病を得た元町長が、代議士の押すリヤカーで渡り初めを行って、人々の注目を集めたという。この橋は次のうちどれか。

①砂川市「砂川橋」
②深川市「深川橋」
③妹背牛町「妹背牛橋」
④長沼町「舞鶴橋」

Answer

③妹背牛町「妹背牛橋」

 昭和二十九年、開発町村道「妹背牛音江稲田線」に指定されたこの路線の石狩川に架かる橋に「妹背牛橋」がある。以前から地域住民にとって、石狩川に架橋して欲しいという要望が早くから出されていた。橋が架かるまでは渡船(原渡船)があり、地域住民の足として利用されていた。やがて辺りの開拓が進んでくると、どうしても橋が必要となってきた。やがて住民百年来の「夢のかけ橋」が実現することになる。昭和二十七年十二月に、妹背牛町と音江村とが結束して「妹背牛橋架橋促進期成会」を結成し関係方面に強力なる運動を展開していった。その努力が実り、五年の歳月を費やし、昭和三十三年十二月に橋長五九八・七mの待望の竣工式を向かえた。竣工式は午前十一時から始まった。この橋の竣工式には、音江村より三家族、妹背牛町より二家族が参加、橋の無事故と長年の活用されることを祈りながら、喜びの渡り初めが行われた。この橋の竣工式は招待者八百三十八名という盛大なものであった。なお架橋運動中に病を得た徳本要作・元妹背牛町長が、篠田代議士の押すリヤカーで渡り、入々の注目を集めたという。
 当日の新聞は「全道一の長大橋、妹背牛橋が四年七ヶ月の歳月を費やしてこのほど完成、その渡橋式が十二日行われた。五段雷の花火を合図に右側(妹背牛側)に張られた五色のテープに、山下妹背牛、藤谷音江両町村長の立会いの上で、上戸札幌開発建設部長がハサミを入れた」とし、そして両町村から選ばれた三代夫婦五組と「来賓四百人、それに小・中学生などが本社寄贈の小旗を振りながら盛大に渡橋式を行なった」と伝えている。開通時点では「北海道で最も美しい橋」と評判のものであったという。この橋は広大な河川敷と平坦な田園風景の中に、独特な景観を誇っている橋である。

Question 285

 この橋の渡橋式には、親子三世代夫婦を先頭に、農道にちなんでトラクター五台がこれに続く。完成したばかりの橋上で、結婚式を挙げたカップルが、人力車に乗って勤務している保育所の子供たちに引かれて渡った。花火大会やアキアジ鍋サービスなどがあったこの橋は、次のうちどれか。

①滝川市・新十津川町「平成橋」
②深川市「納内橋」
⑧旭川市「伊納大橋」
④音更町・中札内村「十勝中央大橋」

Answer

④音更町・中札内村「十勝中央大橋」

 十勝川を横断する音更町と中札内村間、約四六・五㎞の十勝中央地区広域営農団地農道整備事業の一環として架けられた橋が「十勝中央大橋」である。この橋は中央径間が二五〇mという斜張橋であって、農道橋としては日本一のものである。昭和五十七年に着手され、同六十三年十一月六日に完成した。この橋の架設個所は、札内川と士幌川との合流点直下で、流心部の河床変動の激しい所で、橋長七七二・五m、車道幅員が一一・〇m、橋の形式が三径間連続斜張橋となっている。
 完成間近の昭和六十三年四月に、青年・婦人団体など二五の団体が参加し、完成を祝う「イベント実行委員会」が結成され、開通式の前日「花火を打ち上げ、高さ十一メートルの櫓の炎が夜空をこがした」という。すなわち花火大会やアキアジ鍋サービスなどがあり、たくさんの町民で賑いを見せた。
 翌開通式の六日、完成したばかりの橋上で、結婚式を挙げたカップルが、人力車に乗って勤務している保育所の子供たちに引かれて渡った。また幕別・音更地区の住民二五〇人による両町の力自慢らによる綱引きなども行われ、竣工式を盛り上げた。午後三時から幕別側現地で修祓式が行われ、関係者が玉串を捧げた後、知事(代理)など十人の手によって、打ち上げ花火を合図にテープカットされ、併せて「祝・開通」のくす玉が割られた。この後、親子三世代二組を先頭にして渡り初めが行われ、この橋の末永い安全と無事を祈った。また農道にちなんでトラクター五台がこれに続く。
 十勝晴れにくっきりと伸びる二基のタワーの下を、一歩一歩開通の喜びをかみしめての渡り初めの行列が続く。全国有数の規模を誇るこの橋は、十勝中部の広域農道の「要」となるものである。

塔二本つり上げられて斜張橋 いま完成す十勝中央大橋     ―折目都希子

Question 286

 供用を開始してから三十年を経過し、老朽化が目立ってきたことから、橋を架け換えすることとなり、新橋が誕生する。渡り初めはこの日、お祭の開会式を兼ねたことからか通常盛装でテープカットするのが通例であるが「浴衣姿の首長ら」が行った橋があるが、それは次のうちどれか。

①豊平川「月見橋」
②牛朱別川「豊栄橋」
③千歳川「サーモン橋」
④漁川「黄金橋」

Answer

①豊平川「月見橋」

 「札幌の奥座敷」として親しまれている定山渓温泉は、慶応二年(一八六六)備前の国(岡山県)出身の修験僧・美泉定山が開いたのが始まりとされている。この温泉街の中心に定山渓のシンボルの一つである「月見橋」が豊平川に架かっている。何回かは大水のために流されてしまっているが、橋名は芸者が行き交い、満月が川面に揺れると橋は最も美しい顔をのぞかせることから、いつとはなく月見橋と呼ばれるようになったという。
 先代の橋は、昭和二十七年に完成したが、供用を開始してから三十年を経過し、交通量の増大と大型化および耐久力が不足してきた。寄る年波には勝てず、老朽化が目立ってきた。そこで昭和五十九年に、架け換えたものである。
 高欄にはカッパ二匹が立ち登る湯気の中でお湯につかり、豊平川と付近の渓谷といった定山渓のイメージが彫り込まれている。この月見橋は、初代から数えて六代目の近代的で、温泉街によく似合った橋となった。橋の中央には、張り出したバルコニーが設けられ、夜ともなるとクリスタルビーズ入りの街路灯が橋のシルエットを浮かび上がらせる。月見橋は定山渓のシンボルである。
 昭和五十九年七月二十八日午後七時半、新装なった月見橋の渡り初め式と、カッパ祭の開会式が橋上で行われた。「浴衣姿の札幌市長ら」がテープカットし、御輿渡御などもあり、祭りを盛り上げていた。カッパ祭りでは、この橋がメイン会場となった。花のアートコンテスト審査発表会や火踊リ、盆祭りなどに多数の人々が集まり、温泉街の夏祭りを楽しんだものであった。

月見橋のたもとに街路灯ありて 夜を降る雪にしみじみと佇つ    ―柴田久男

Question 287

 この橋は、第一期、第二期に分けられて供用された。第一期は国主催で渡橋式を、第二期はすでに人や、車が往来していたことから村主催で完工式が行われた。第二期の完工式では、素人のど自慢など、村挙げての完工式となった。この橋は、次のうちどれか。

①池田町「千代田大橋」
②豊頃町「茂岩橋」
③新篠津村「岩見沢大橋」
④砂川市「砂川大橋」

Answer

②豊頃町「茂岩橋」

 この橋は、昭和五十八年まで国道三八号の橋として使用されていた。第一期工事は昭和十一年に着工、事変に遭遇して橋脚四基を建設、一時しのぎの木橋が架けられる。昭和二十六年から工事が再開され、同二十八年に第一期工事が完成(橋長三三二・四m)、高水敷は取り付け道路ではあったが、喜びの渡橋式が挙行され、三世代夫婦が厳かに渡り初めを行う。開発局長などから祝辞が述べられ、喜びにわいた。
 第二期工事は昭和三十二年から着手され、同三十六年に完成(橋長六一三・四m)した。戦争のシワ寄せで着工から二十五年もかかったということ、当時全道で一番長い橋長九四五・八mという長大橋であったことなどから「記録的な長大橋」とされていた。
 第二期工事の完成時は、すでに人や車が往来していたことから、完工式は関係者三百人を招いて、村主催で行われた。そして橋上で、ミス豊頃から開建部長、三代夫婦にそれぞれ花束が贈られ、部長がテープにハサミを入れると、満場から拍手が起こり、三世代夫婦を先頭にして渡り初めをし、関係者、村内小・中学生の旗行列がそれに続き、約三千人という開村以来始まっての人出で賑わった。完成式では女子中学生による祝賀讃歌の斉唱があり、祝賀会に移った。また旧渡船場周辺で地元消防団の一斉放水、茂岩神社境内で自衛隊音楽隊の野外パレード演奏会が、茂岩小学校で素人のど自慢大会、茂岩藤代会の舞踏、豊頃中学校グランドではヘリコプターの展示など多彩な行事が繰り広げられ、村を挙げての盛大な完工式となった。なにしろこの橋は、ゲルバートラスの橋梁美を誇る名橋であるといわれ、十勝地方の新名所ともなった橋である。

Question 288

 「甲冑の重装が今日の軽装には勝ち難きを知り、時代相の進歩は、技術者には良き参考資料なるべし」と感じられ「然るに五〇年も足らない今日、この橋の改築に着手したるを見て」と多くの市民から惜しまれ解体された橋があるが、それは、次のうちどれか。

①釧路市「幣舞橋」
②帯広市「十勝大橋」
③札幌市「豊平橋」
④滝川市「空知大橋」

Answer

③札幌市「豊平橋」

 昭和四十年五月、旧橋の上で解体式が行われた。「今この橋が永い使命を果たして静かに消え、新しい橋にその使命を託そうとしている。朝からの小雨はまだ止まない。惜別の涙雨ともとれる雰囲気である。鉄槌を振り下ろす局長、タガネを抑える部長、タガネが深く食い込んでいく。静かに流れる音楽の中で玉串が奉奠され、惜別の念もひとしおに挨拶が終わり、蛍の光が吹奏される中で最後の別れを惜しむ」。解体式には、工事担当の開発局からは局長以下関係者が、札幌市などから助役、その他百二十名の人が、この橋に別れを惜しんで参集した。解体ハンマーは、参集者全員の合唱するホタルの光のなかで、局長と札幌開建部長の手によって、振りおろされた」。「旧豊平橋は、一切の交通から開放されて、いま静かに四十年もの間の、あれこれを想いおこすかのように、川面に影を落としている。間もなく、解体作業が本格化することになる。あとわずかで、思い出のなかにだけかかる橋になる。名残り惜しさを、橋よりもむしろ、豊平川にきいてみたい」とされている。
 豊平川の猛威と闘い、四十二年間堅塁を抜かせなかった橋も、増大する交通量の前には屈せざるを得なかった。豊平橋は、川の流れには勝利を収めたものの、車の流れには勝てず現在の橋にその座を譲ることになる。これは昭和三十三年から始まった国道三六号の幅員拡張に伴って、豊平橋は交通のネックとされてきたからである。

いく度か橋は変れど川風よ 橋のたもとの志村碑に吹け     ―小山十字星

Question 289

 橋は、年月を経るにつれて老朽化し、やがて新しい立派な橋に架け換えられ、取りこわされる。そこで今までに廃止となった橋に対し、その功績を讃え、感謝の念を捧げ、橋梁愛護の意義を深めるために、北海道で初めての「橋梁感謝祭(橋供養)」が行われた。この最初の催しが行われたのは、次のうちどれか。

①豊平川「藻岩橋」
②石狩川「石狩川橋」
③忠別川「緑東大橋」
④天塩川「音威子府橋」

Answer

②石狩川「石狩川橋」

 滝川市と新十津川町とを結ぶ「石狩川橋」の歴史は古い。主要道道「滝川浜益線(現国道四五一号)」の橋である。この橋は、滝川はもちろんのこと、新十津川方面の石狩川右岸地域の開発を促進するため、大きな原動力となるものであった。しかし架設からの年月により老朽の度合いも甚だしく、荷重制限を行いつつ使用していたものである。これが各方面からの強い架換要望の下に新橋の建設が始まった。しかし寿命が尽きたという状態となった。それでは大変不便であるということから、関係市町村からの陳情がなされ、昭和三十四年十一月に第一期工事が竣工した。
 完成時の新聞には「住民には切っても切れない縁があった古い橋だから、思い出は郷愁を呼び、牧歌的な無数のエピソードがあるだろう―。同時に大切な交通のポイントが故障して迷惑また迷惑に、にがい思い出も限りがない」としていた。引き続いて第二期工事が同三十七年十一月に完成した。
 昭和三十六年十一月十六日、この旧石狩川橋のたもとにおいて、北海道と日本道路利用者会議の主催により、北海道で初めての「橋梁感謝祭(橋供養)」が行われた。この感謝祭の趣旨は「私たちの暮らしを豊かにするために一番大切な働きをするものは道路であり、その道路には必ず橋があります。私たちの橋は、北海道開発のため大きな役割を果たしておりますが、その橋も長い年月を経るにつれて老朽化し、やがて新しい立派な橋にかけかえられます。…このたび旧石狩川橋が取りこわされるのを機会に、今まで廃止となったたくさんの橋梁に対して、その功績を讃え、感謝の念を捧げるとともに、橋梁愛護の意義を深めるため」に、この催しをしたものであった。
 この日、関係者をはじめ一般の参加者も、旧石狩川橋の長年にわたる功績と労苦に対して、感謝の念を捧げたのであった。

Question 290

 地域の足として、その使命を十分に果たし、新橋の誕生により廃橋となるこの橋に対し、感謝と合わせて新橋の誕生を祝う「橋梁感謝祭」が開催された。この祭は町村施工の橋として、初めての選定を受けたもので、仏式によって行われた。それは次のうちどれか。

①鵡川「春日橋」
②厚真川「共栄橋」
③三石川「蓬莱新橋」
④沙流川「荷菜橋」

Answer

①鵡川「春日橋」

 鵡川町を流れる鵡川に架かる橋に「春日橋」がある。この橋の誕生までは渡船の歴史があった。流れは緩やかで、渡船利用には恵まれていた反面、ふかい水深、弱い河底、低い両岸、総ては架橋に適しなかった。しかし増水の度ごとに杜絶する危険な渡船では、まことに不便であった。
 「橋が欲しかった」のはいうまでもない。悲願がかない、昭和二十六年にようやく橋長一六九・六mの木橋が完成する。しかし洪水ごとに破壊、改修、流失を繰り返し「金くい(・)橋」の別名を生ずる悩みの種であった。
 この橋は昭和三十七年の台風によって被害を受け、災害復旧工事として橋長二一二・〇mのPC単純T桁橋として永久橋となる。「今後は二度と金くわぬ(・・)橋に生まれ変わったのみか、本町東西の穀倉地帯を結ぶ近代橋上して、また近き将来には、本町の主要環状路線として、大きな使命を担うもの」とされていた。今回、旭生橋も同時に誕生となる。これらの橋は鵡川につながる幾多の哀歓を秘めて、末長く町民に愛されるであろうとされていた。
 昭和三十九年十一月、地域の足としてその使命を果たし、廃橋となる旧春日橋に対して、いままでの感謝と、合わせて新橋を祝う「橋梁感謝祭」が開催された。この祭は町村施工の橋として、初の選定を受けたものであった。黒枠の花束が飾られ、仏式による読経、花火を合図に五〇〇個の風船が空高く放され、この年に道内で廃橋となった五五〇を代表する春日旧橋が、香煙とともに次代を新春日橋に委ねたのであった。
 なお昭和五十五年になって、一一七・一mが伸長され、現在の橋長は三二九・一mとなっている。

Question 291

 新しい橋は、平成八年に完成、戦前戦後を通して人々と歩んできた橋は、静かにその役目を終えた。渡橋式では新橋の上から旧橋に向かって全員が一礼し感謝の意を表明、旧橋上で感謝の意を捧げるための「さようならイベント」を開催し、渡り納めをした橋があるが、それは次のうちどれか。

①豊平川「幌平橋」
②石狩川「奈井江橋」
③石狩川「岩見沢大橋」
④十勝川「十勝大橋」

Answer

④十勝川「十勝大橋」

 「戦雲急な厳しい時代に、鉄筋コンクリート桁橋としては、支間及び橋面積においてもわが国はもちろん世界最大級の橋梁であり、おおよそ五〇年の風雪に耐えて、激変した重交通の流れを悠然と受け、穀倉十勝の発展に大きな役割を担ってきた」十勝大橋は、静かにその歴史を閉じて今回、美しい二つのハープ型を描くPC斜張橋の誕生となった。
 平成八年一月、四代目十勝大橋が完成して、開通式を迎えた。この日の十勝の空は雲一つない十勝晴れであった。関係者約二百人が参列し、渡り初めのセレモニーが行われた。参加者は、旧橋に向かって全員が一礼して、感謝の意を表明するとともに、一般参加者も一緒に橋を渡り、開通の喜びにひたった。
 旧橋の解体前にして「さようなら旧十勝大橋」のイベントが同橋上で開かれた。あいにくの天候の中ではあったが、最後のお別れをしようと、千人以上の市民が詰めかけた。主宰者側代表の道路事務所長は「これまでお世話になった旧橋に対して、感謝と惜別を込めて行うもの。思いおもいのやり方で旧橋との最後を過ごしてもらいたい」と挨拶、記念撮影をする者、橋面に落書きする者、フリーマーケットなどそれぞれに「橋」との一刻を過ごし、渡り納めをして旧橋に感謝の意を捧げた。

川風に帽子おさへつつ渡りゆく 半世紀たちし十勝大橋      ―石山正雄

朝ぼらけ残月冴ゆる西空に 鮮やかに映える十勝大橋       ―伊藤房子

十勝大橋の上空高くトビが舞ひ コロニーの森には郭公の鳴く     同

Question 292

 明治四十一年にこの街にやってきたある歌人は、この橋を「傾きかけしあやふさに/柱ゆがみて欄よれて/…老いて醜く横たわる」と詠んだ。彼は真冬にこの街にやってきて、この長い橋を渡り勤め先の下宿に落ち着く。それは次のうちどれか。

①函館市「大森橋」
②小樽市「勝納橋」
③釧路市「幣舞橋」
④札幌市「玉川橋」

Answer

③釧路市「幣舞橋」

放浪の詩人石川 木が、明治四十一年一月釧路に、赴任して渡ったのがこの初代幣舞橋であった。釧路新聞社長と共に、小樽日報の記者から、編集長格で釧路新聞社に招かれた二十二歳の 木は、二重のマントに、絣の着物姿で、釧路駅でおりた。妻子を残しての単身赴任である。そして橋長二〇〇m余のこの橋を渡った。 木は真冬のこの長い幣舞橋を渡り、新聞社近くの下宿に落ち着く。そして釧路新聞の三月二十七日のコラム欄に次のように書いている。

傾きかけしあやふさに 柱ゆがみて欄よれて 行き来きの人等かく思う 老いて醜く横たわる 三月
とざせる川水 悲しきさだめ自づから とけなばやがてかの橋の 渡れば嘆くきしきしと 崩れ落
つべき時来んと 彼の幅狭の長き橋

と。 木はわずか三ヶ月という短い在釧であったが、評論・詩歌・花柳記事に健筆をふるった。なにしろ政治・経済・社会の各般にわたる評論を執筆するなど、八面六臂の活躍であった。また 木と芸者小奴のロマンスは有名である。
木の渡った初代幣舞橋は、明治三十三年十二月から同四十二年まで供用された、橋長二〇五・四m、幅員四・二mの木造橋であった。なお現在の幣舞橋は、五代目であり、昭和五十一年に誕生のものである。

さいはての驛に下り立ち雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき    ―石川 木

Question 293

 明治の文豪がこの地にやってきて「両岸から鉄線で吊ったあぶなげな仮橋が川に跨げて居る。…
飛騨山中、四国の祖谷山中などの藤蔓の橋の渡り心地がまさに斯様であろう」と、恐る恐る渡ったと記している橋がある。それは次のうちどれか。

①小樽市「朝里橋」
②札幌市「月見橋」
③帯広市「札内橋」
④旭川市「神居大橋」

Answer

④旭川市「神居大橋」

 国道十二号と旧国鉄神居古潭駅とを結ぶところに架かっている橋が「神居大橋」である。明治四十三年九月、明治の文豪・徳富蘆花は、妻愛子と娘鶴子を伴って汽車で神居古潭駅に立ち寄った。名作『みゝずのたはごと』の中に、当時のこの橋について書いている。「暗緑色の石狩川が汪々(おうおう)と流れて居る。両岸から鉄線で吊つたあぶなげな仮橋が川を跨げて居る。橋の口に立て札がある。文言(もんごん)を読めば、曰く、五人以上同時に渡る可ならず。恐(お)ず恐ず橋板を踏むと、足の底がふわりとして、一足毎に橋は左右に前後に揺れる。飛騨山中、四国の祖(い)谷(や)山中などの藤蔓の橋の渡り心地がまさに斯様(こんな)であらう。形ばかりの鋏(はり)線(がね)の欄(てすり)はあるが、つかまってゆるゆる渡る気にもなれぬ。下の流れを見ぬ様にして一息に渡つた。橋の長さは二十四間(四三・六m)渡り終わって一息ついて居ると炭俵を負うた若い女が山から下りて来たが、佇む余等に横目をくれて、飛ぶがごとく彼の吊橋を渡つて往った」とする。
当時この川の左岸に鉱泉宿があり、蘆花らの旅行者がこの吊橋をおっかなびっくり渡っていた。ここ神居古潭の絶景もさることながら、この吊橋を渡った時の恐怖感が、多くの書にも記されている。この吊橋は明治三十一年に旭川までの鉄道が開通し、同三十四年に神居古潭駅が開設、安藤彦松が架けたとされる。
 文豪・岩野泡鳴は「停車場から向う岸に渡る為の釣橋が足場高くかゝっている。両岸の岩に結んだ針がねに釣られてある有名な橋だ。然し針がねと云つても、電線の八番線が橋の上部に十六本、下部に十二本、都合二十八本通っているのである」と書いている。洪水の時にはこの針金を巻き取ったことから「巻橋」とも「針金橋」ともいわれていた。大正十四年に架け換えされ、その後も架け換え、補修などがなされて現在、橋長が一〇七mとなっている。そんな歴史を伝える橋である。

Question 294

 明治十六年(一八八三)に依田勉三が率いる晩成社一行の入植者を皮切りに、十勝地方に入植者が増えてきた。そこで道路の必要性が生じるとともに橋の架設が図られていった。そして最初に姿を現わしたのが、有料のこの橋であった。それは次のうちどれか。

①戸蔦別川「中島橋」
②利別川「高島橋」
③十勝川「開成橋」
④音更川「駒場橋」

Answer

③十勝川「開成橋」(現・十勝大橋)

 延長一七七・八㎞の道東の大河、十勝川に初めて架けられた橋が、現「十勝大橋」の前身である私設の有料橋「開成橋」である。明治十六年(一八八三)に依田勉三が率いる晩成社一行の入植者を皮切りに、十勝地方に入植者が増えてきた。そこで道路の必要性が生じるとともに橋の架設が図られていった。
 そして最初に姿を現わしたのが、当時帯広町と音更村の有志、高倉・林・高田・蓮佛らがつくった帯音組合によって、明治三十八年(一九〇五)十一月に架設された「開成橋」である。
 この橋は五箇年という期限付きで有料が許可となったものであった。橋長は五三間(九六・三m)のものであって、工費三千五百円であった。流心部の二連はキングポスト・トラスであった。
 橋のたもとに番屋が置かれ、一人あたり二銭の渡り銭が取られ、馬は人の二倍であった。
 明治四十三年(一九一〇)になり、上流の二条あたりに国費による「河西橋」が架けられた。完成は明治四十四年一月であった。しばらくの間は二つの橋が使われていたが、やがて開成橋は解体される。この河西橋は、橋長六二間(一一二・七m)のものであったが、大正八年(一九一九)の洪水で流失し仮橋で過ごしてきた。
 大正十年六月八日に橋長一〇三間(一八七・三m)のハウトラス五連と、桁橋四連の橋の渡橋式が行われた。その後、洪水によって度々補修が行われてきた。この橋は秋の取り入れた農産物の搬出にとって重要な、かつ頼りになるものであった。出荷時には雑穀屋の若い衆が雑穀馬車に殺到し、喧嘩騒ぎもあって「喧嘩橋」の異名が付いたといわれている。
 昭和三年に架け換えが行われ、最後の木橋となった。そして先代の十勝大橋の建設となる。

Question 295

 この街を流れる川を挾んで面側に街並みができてくると、今までの渡船では不便になり、橋が必要になってきた。だが多額の費用を要するため、財政的にむりであり、郡長は地元の会社に私費による賃取橋の架設を要請する。そして誕生したのがこの橋であるが、それは次のうちどれか。

①釧路川「愛北橋」
②阿寒川「大楽毛橋」
③新釧路川「鶴見橋」
④庶路川「庶路橋」

Answer

①釧路川「愛北橋」(現・幣舞橋)

 釧路は江戸時代から内陸の道の分岐点となっていて発展し、川を挾んで両側に街並みができると釧路川に橋が必要となってきた。そこで明治十九年時の郡長宮本千万樹は、従来からの渡船では不便であり、ぜひ架橋が必要と上申、橋の架設が急務と説く。すなわち「いったん国費で橋を架け、民間に払い下げて利用させ、渡し賃をとって維持費などにさせても十分に採算がとれる」としたが、不採択となった。
 そこで郡長は、名古屋に本店を持ち釧路に店舗を構え酒類の醸造・海産物・米穀商を営む愛北物産会社に対し、私費による賃取橋を架けるようにと勧める。そして明治二十二年六月、幣舞橋の前身の愛北橋が艇生、橋長が一一五間(約二〇九m)、幅二間(約三・六m)の木造桁橋であった。当時北海道一の橋長を誇り、住民の自慢の種でもあった。通行料が取られる橋ではあったが、便利であったことから、人々は喜んで利用した。
 会社は年々多額の費用を注ぎ込んで維持・修繕に努めたが、積年の結氷その他で橋脚は損傷、腐朽し明治三十一年に落橋となる。なにしろ木橋であったことから、冬の結氷、春の増水、それに秋の台風もあって、加えて木材の流送により原木が橋脚にぶつかり、その度に揺らぎ、傾いてもいった。その都度補修されてきたものの、なかなか維持することができなかった。そして再び昔の渡船に戻ってしまった。
 この愛北橋を中心に発展しつつあった釧路では、愛北橋の落橋後は、国費による橋の復活を訴える声が高まり、明治三十三年に初代の幣舞橋が誕生となったのである。釧路は明治三十三年の人口が一〇、三〇九人となっている。

Question 296

 この川は古くから要所要所に丸木橋を渡して間にあわせていたが、輸送が駄馬から荷馬車となってくると不都合になり、明治三十一年に川のたもとにいた某が「公衆の利便を図る目的」で私設の有料橋を架けた。その橋は、次のうちどれか。

①札内川「粟山橋」
②十勝川「中島橋」
③釧路川「別保橋」
④利別川「池田橋」

Answer

①札内川「栗山橋」(現・札内橋)

 この橋が架かる札内川は、原名をサツ・ナイ川(乾いた川)であり、渇水期では徒渉することができる川である。しかしこの川は急に増水することがあり、雨が少しでも続くと川止めとなった。そこで要所要所に丸木橋を渡して間にあわせていたが、輸送が駄馬から荷馬車となってくると不便となってきた。明治三十一年(一八九八)札内川のたもとにいた栗山恒次郎は「十勝国開拓ノ増進・公衆ノ利便・帯広商業ノ進歩」を図る目的で、私設の有料橋「栗山橋」を架けた。「明治三十年八月二十五日、許可下附、同三十一年一月十四日命令書ニ依リテ起工、同年四月十五日ニ竣工、栗山橋ト命名セリ」と記録されている。この橋は幕別と帯広間の長大橋の最初のものであった。
 しかし同年九月の大洪水で流されてしまう。粟山はこの不運にもめげず、翌年四月に再建した。十勝大橋の前身である開盛橋よりも古い歴史を持つ橋である。人は片道一銭、馬二銭であり「料金の持ち合わせのない者は、浅い所を選んで渡ったという。
 以来、大水の度に改修されてきたが、維持に音をあげて有料期限の切れる明治三十九年に栗山は、寄付を申請、翌四十年官設の栗山橋となった。同四十四年五月に架け換えされるまで供用されていた。
 大正十一年に架け換えされて新橋となり橋名が「札内橋」となる。流れの急な部分は木筋コンクリート・ポニートラス、他は木造である。やがて永久橋化の話が出てきて昭和三十二年、現在位置に永久橋の誕生となる。この橋は当時、PC橋のなかでも橋面積では日本一のものであった。その後、河川の改修や、交通量の増大などから拡幅・伸長され、現在の橋は橋長六二二・三五mのものとなっている。

Question 297

 このバイパス道路に架かる橋の着工式で、工事の安全祈願祭をする際に、実物の六分の一の模型の鋼管杭を、発注者や、地域の首長などが「えいっ、えいっ」の掛け声とともに、ハンマーを振るって打ち込み、着工の喜びを新たにした橋がある。それは次のうちどれか。

①十勝川「十勝河ロ橋」
②天塩川「天塩河口橋」
③豊平川「雁来大橋」
④石狩川「美原大橋」

Answer

④石狩川「美原大橋」

 石狩川と夕張川との合流点に近い江別市美原地区の国道三三七号・道央新道に「美原大橋」がある。この道央新道は四市四町にまたがる地域高規格道路であって、この美原バイパスに架かけられた橋である。この橋は三径間連続鋼斜張橋であって、橋長が九七二・〇m、全幅二八・〇mのものであり、平成七年十一月三十日、現地において着工式が行われた。 あいにくの雨の中、関係者約一〇〇名が参列し、工事の安全を祈願した。杭打ちでは実物の六分の一鋼管を、札幌開建部長、江別市長らが「えいっ、えいっ」の掛け声とともに、ハンマーを振るい、模型の杭を打つと花火が打ち上げられ、着工の喜びと事業推進の決意を新たにした。
 以来鋭意、工事が進められ、平成十七年三月、着工以来十年の歳月と総事業費約三百十七億円を投じて完成し、渡橋式が行われた。式には来賓の外務大臣、開発局長をはじめ工事関係者、江別市民ら一七〇人が出席し「美原大橋は道央圏連絡道路計画で最大の結節点。新たなランドマークになるはず」の式辞があり、橋上でテープカットされる。そして親子三世代夫婦、地元小学校児童が続いて歩いた。
 生憎の吹雪となり、五〇mほど歩いて、待ち受けていたバスに乗車してもらうというハプニングもあった。そして日没の後、この橋に設置された二八個の電球が一斉に点灯される。このライトアップは、江別市が「大橋をマチのランドマークに」というものであって、橋全体が夜空に浮かび上がった。

江別市の「美原大橋」開通す 近き未来のシンボルとして     ―本多三枝子

新しき美原大橋人往き 物流れなむ夢負ひ架かる         ―大朝 暁子

Question 298

 豪雨と増水によって橋の一部が流失し通行ができなくなったため、北海道開発局では、応急工事用として災害時の交通確保の目的で用意されたアルミの軽金属による仮橋を架けたという、北海道の国道第一号の橋は、次のうちのどれか。

①仁木町「大江橋」
②倶知安町「倶知安橋」
③余市町「大川橋」
④積丹町「神岬橋」

Answer

①仁木町「大江橋」

 国道五号の仁木町を流れる余市川に「大江橋」が架かっている。地域の住民は渡船によって往来していたが、明治二十二年に初めて橋が架けられ渡船が廃止となる。
 しかし翌三十三年に落橋、復旧。同四十三年になると「大江橋は大破損の個所多く、人馬の通行頗る危険なり。村民は一日でも早く新架橋を望み居れり」とされ、修繕工事に着手したものの、豪雨により流失してしまった。そして新橋工事が完成する。昭和二十九年九月の台風一五号により、豪雨と増水によって一部が破損、流失してしまう。そのため、昭和三十年六月から新橋の架け換え工事が行われた。しかし同三十六年七月の豪雨によって再び中央部が流失してしまう。そこで応急工事としてアルミの軽金属による仮橋が架設される。
 この応急橋は、昭和三十六年に災害時の交通確保の目的で、アルミニウム合金製応急橋(ポニートラス、支間三〇・〇m、木床版、幅員三・〇m)が作られたものである。これは猪瀬開発局長の発想に基づき東京大学生産技術研究所に設計委託されたものであった。この橋は当時まだ多かった木造橋水害流失による応急橋として活躍したが、その後はあまり出番もなくなってしまった。
 大江橋の復旧工事が翌三十七年に竣工となる。しかしこの橋も八月には、またもや流失の憂き目に合う。この時は陸上自衛隊によって応急の仮橋が架設され、十月になり本式の仮橋が架けられた。
 新設の橋梁工事が昭和三十八年四月に着手され、橋長一二六・八m、幅員七・〇mの連続鋼鈑桁のものであって、ジャッキアップダウンによるプレストレスが導入されたものであった。同年十二月に新橋の修祓式、渡橋式が挙行、供用されたのである。同時に国道五号の工事も完成となり、町内の国道舗装化が全て完了となった。

Question 299

 橋には必ず橋名を印する橋名板が取り付けることになっている。しかしこの橋名の書は誰が揮毫したかは記録されないのが通常であるが、ただ一橋だけ道内には「○○書」と揮毫者の名が記されている橋がある。次のどの橋か。

①江差町「かもめの散歩橋」
②上ノ国町「軒麓橋」
③松前町「松城橋」
④函館市「裏門橋」

Answer

④函館市「裏門橋」

 橋には、路線の起点側に、橋に向かって左側に「漢字による橋名」を、右側には「河川名または鉄道名」を印し、終点側には橋に向かって左側に「ひらがなによる橋名」を、右側に「完成年月」を印したものを取り付ける事になっている。
橋名板には「○○書」など、橋名を書いた人の名、すなわち誰それの筆になるものであるとサインをしたものはないが、ただ一橋だけ「○○書」と印したものがある。それは函館市五稜郭の堀に架け謝られている「裏門橋」である。

裏門橋  五稜郭築城百年記念  武田斐三郎曾孫文男書

とあり、昭和三十九年四月に完成した橋の橋名板である。土塁が五稜星型なので五稜郭と呼ばれているが、正式には亀田役所土塁という。これはオランダ語訳のフランス築城法をもとにして設計されたものとされる。設計者は武田斐三郎であった。諸術調所教授方だった蘭学者の武田斐三郎が、黒船渡来とともに幕府に招かれ、箱館にやってきた。そしてペリーとの折衝に当り、安政四年(一八五七)、わが国で初めての洋式築城・五稜郭の設計、監督を命じられ、七年の歳月と十万四千両の工事費をかけ、全国から四千人以上の石工・人夫を動員、完成させた人物である。すべての工事が完成したのは慶応二年(一八六六)であり、その後二年で幕府が崩壊してしまった。明治元年(一八六八)には、榎本武揚らに占拠されたが、翌年五月に戦いは終結となる。その斐三郎曾孫の文男がこの橋の橋名板の揮毫を依頼され、それでサインしたものであろうか。おそらく全国でも唯一の橋名板であろう。

▲余記 橋名板の話題

 橋名板四枚のうち、一枚はかならず「平仮字」で記すことになっている。先代の豊平橋のものは「とよひらは(・)し」とあり、現在の橋は「とよひらば(・)し」と濁っている。しかし戦前に架けられた東京・日本橋は「にほんば(・)し」であって、この橋だけが濁っているとされる。
 戦前に架けられた橋は濁らず「は(・)し」とあり、戦後もしばらく戦前の名残であろうか「は(・)し」とされていた。この理由の一つとして、戦前の公文書の多くはカタカナで記されていて「○○スヘシ」と濁らなかった。したがってその名残ではなかろうかと推定されている。やがてその後の橋では、すべて「ば(・)し」となっている。
橋名の文字は一体誰が揮毫するのか、これの決まりはなく、一般的に長大橋では発注者の「お偉い方」のものが多い。現在の「豊平橋」の橋名板は、当時の北海道開発庁・堂垣内尚弘事務次官の筆になるものであるが、どこにも署名などはない。また「幣舞橋」は当時の北海道開発局長・倉橋力雄である。これらのことは、当時の監督員でもなければ知らないであろう。
 普通は誰が揮毫したのかは知らない。地元の名士が書くことが多く、市町村長もあれば、地区の有力者もあり、町内会長や監督員もある。
札幌市内、真駒内川の下流に、昭和四十八年に架けられた自転車道の「希望橋」(橋長二九・六m)は、橋名を真駒内南小学校の児童が付けたことから、ブロンズの橋名板も児童の筆によるものとされた。最近はこれらのものが多くなっている。
 橋が完成すると、四枚のうち一枚には必ず「完成年月」を記することになっている。札幌市の豊平川に架かる橋についてみると「月見橋」は「昭和五十九年三月しゅん功」とあり、単に「昭和五四年九月三〇日」と竣工とも完成との文字のない「石山橋」がある。また「平成九年三月完成」という「二見吊橋」は、札幌市の橋としては珍しく完成」とある。「竣功 昭和四四年十一月」という「竣功」の文字が頭にある「藻岩橋」や「昭和四六年一一月竣功」と「南七条大橋」は刻む。また「平成六年一〇月竣工」と「砥山橋」では「功」でなく「工」と区別して使っている。また「一九九五年しゅん功」という西暦で標示されている「幌平橋」、また「昭和六十三年二月十一日しゅん功」と「日」まで丁寧に刻んだ「砥山栄橋」もある。
 さてある辞書によると「竣工」と「竣功」とは同じ意であり「竣功。竣工。工事が出上がること。完工。落成。Completion」とある。なお国道橋は全て「完成」とするように規定されている。
 さてこの「竣功」とか「完成」というのは、いつの時点をいうのであろうか。すなわち橋本体工事が完成した日なのか、取付道路や、附帯工事など全てが完了した日なのか。発注者に引き渡した日(完成検査の日)なのか、さらには供用開始の日なのかは定かでない。渡橋式・完成祝賀会でテープカットした日であろうか。バイパスなどで橋自体が完成し、供用が後日になる場合はどうなるのであろうか。

Question 300

 「頭脳明晰、身を持すること、清廉、人格、識見、学術ともに群を抜いて優れ、北海道開発局長の要職を経て、北海道開発事務次官の最高の栄職についたのも、むべなるかな」とされ、北海道に大きな「橋梁技術という財産」を残し、まさに「北海道橋梁(・・)の神様」であるとされる人物は次のうち誰か。

①高橋敏五郎
②堂垣内尚弘
③猪瀬寧雄
④鷹田吉憲

Answer

③猪瀬寧雄

 昭和二十六年七月北海道開発局が発足した。当時建設省土木研究所構造研究室長であった猪瀬寧雄のもとに、一人の男が訪れた。その名刺には「北海道開発局長 池田一男」とあった。室蘭開発建設部長職への懇請であった。
 橋梁のエキスパートであった猪瀬は、寒地土木技術の習得に意欲をもやし、室蘭に赴任してきた。当時日米行政協定に基づく米軍の要請で、千歳・札幌間の改良舗装および苫小牧・門別間の橋梁全部を永久橋化する工事が持ち上がった。猪瀬は「チャンス到来」として勇みたった。「彼自身が応力計算、設計を手掛けた三十数橋が完成したときこれを記念した 『室蘭管内橋まつり』が盛大に開かれている。市町村長、報道陣などがバスに分乗し、一橋、一橋を見学。どの橋にしても同じパターンのものはなく『橋のもつ構造美にひかれて』いた猪瀬の面目躍如たるものがあった。マイクを握り橋の説明に当たる彼の表情は、生き生きと輝いていた」のであった。
 この橋まつりの対象となった橋は、国道三六号に二四橋、二三五号に六橋、町村道に一橋で、単純桁、無ヒンジ連続桁、有ヒンジ連続桁、ラーメン橋、単純構、ランガー構、ローゼ構、突肘構、PC桁など、形式はバラエティに富んだ橋梁群であった。大は橋長が四〇一・一mの曲弦ワーレントラス・プレートガーダーである沙流川橋から、小はRCカルバートのヨコス橋の三・五mに至るものであった。
 猪瀬部長は「約三ヶ年を経てこの度全橋梁の竣功式が華々しく挙行せらるるに至りました事は、直接これらの橋梁の建設に従事した一人として真に喜びに堪えない次第であります」とし、さらに「技術的および予算的に可能な範囲で新形式の橋梁を実施、本道開発にふさわしい新鮮な空気を導入することを」考慮に入れて「計画並びに設計を行いました」と述べている。
 猪瀬は明治四十一年(一九〇八)十一月二十九日に、奈良市高畑町で生まれ、昭和三年(一九二八)三月第三高等学校を卒業、昭和六年東京帝国大学工学部土木科を卒業、千葉県に就職、昭和十三年六月まで勤務する。それから北支(華北政務委員会建設総署)に勤務の後、大東亜省に戻られる。一年三箇月で終戦となり、大東亜省の解体から外務省に、昭和二十一年内務省土木試験所に帰任された。
 昭和二十三年に内務省が解体され建設院が設置、この建設省土木試験所に五年四箇月勤務して北海道開発局に出向、同三十八年四月北海道開発事務次官となり、翌三十九年七月退任されるまで十三年間北海道開発に尽くされた。官界には三十三年四箇月席を置いたのであった。
 昭和三十二年三月「井筒基礎および杭の水平力に対する安定性と耐荷力に関する実験的研究」によって、工学博士の学位を授けられ、室蘭工業大学、北海道大学の講師をされる。昭和三十九年九月日本建設コンサルタント㈱常任顧問となり、副社長を経て同四十五年七月同社代表取締役社長に就任、昭和五十六年十二月六日に安らかに永眠された。
 昭和三十年にドイツ、イギリス、フランスへ試験に合格して開発局で最初の外国行きとなり、そこで斜張橋などを勉強、そして「神納橋」や「盤の沢橋」を架設することにした。猪瀬が設計・指導・架設した橋は数多くあるが、その中で一〇〇m以上のものでは、ローゼ桁の「鵡川橋(三四三m)」、トラスの「沙流川橋(四〇一m)」や、ゲルバートラスの「浜厚真橋(一五三m)」、三径間連続トラスの「岩見沢大橋(八二一m)」、PS導入二径間続ランガー桁の「深川橋(四八二m)」、PS導入のフィーレンデール・タイドアーチの「標津橋(一二八m)」、斜張橋である「神納橋(二五一m)」、PC橋では二・三径間連続箱桁(レオンハルト)の「猿留橋(一七九m)」、五径間連続箱桁(BBRV)の「両神橋(二六〇m)」、三径間連続箱桁(ディビダーク)の「盤の沢橋(一四〇m)」、RC橋では「竹浦橋(一〇九m)」、それに「白老橋(一二七m)」などがある。
 猪瀬については多くの人たちは、「頭脳明晰、身を持すること、清廉、人格、識見、学術ともに群を抜いて優れ、北海道開発局長の要職を経て、北海道開発事務次官の最高の栄職についたのもむべなるかなである」と弔辞を友人の平松頼夫は読む。
猪瀬寧雄博士は北海道に大きな「橋梁技術という財産」を残してくれた。

まさに「北海道橋梁の神様」であると誰しもが認める人物である。


橋梁余話

 新冠町の明和小学校裏に「明和橋」がある。この橋には同小学校が愛鳥モデル校の指定を受け、小烏の村実践校としてユニークな学習活動をしていることを考慮して、鳥のデザインパネルを上流側高欄に用いたものである。
 このパネルは三パターン、十枚ずつを使用、計三十枚が設置されたものである。これには近くの野山に生息するヤマゲラ、ヒバリ、ムクドリ、ツバメなど九羽を一パターンあたり三羽ずつ登場させ、小鳥を身近なものに感じさせると同時に、鳥の名前も覚えてもらおうとしたものであった。加えてデザイン高欄は山並みを表現しているものである。「観光とともに、児童の情緒教育の場、人間形成の基礎を培う場として期待されている」ものであった。

 サンタクロースの故郷と、ノルウェーのオスロからサンタのお墨付きをもらっている広尾町に「サンタランド橋」がある。
 この橋は町の高台にある広尾第二小学校の児童が、すぐそばを流れる川に架かるこの橋の高欄に、サンタにちなんでデザインしたものである。橋の左右に合わせて四枚のステンドグラス風のプレートを付け「広尾の四季」と銘打って春は花、夏は天ノ川、秋は鮭、冬はサンタと、四季の彩りあふれる広尾町を見事に表現したものである。
 

 豊頃町二宮地区は、明治三十年に二宮尊徳(金次郎)の孫、尊親が入植者を募り開拓したという尊徳ゆかりの地である。この地区の歩道整備事業が実施された際、既存の「二宮橋」の両端に「報徳四綱領」である「至誠・勤労・分度・推譲」を刻んだ親柱を、地元二宮小学校の要望に応え建立したものである。
 素材は特産の日高赤石と黒御影石の組み合わせたもので、書は尊親の子、四郎による。高欄には児童が描いた薪を背負いながら本を読む尊徳のレリーフ二枚が設置されている。なにしろ尊徳の教えである報徳精神を基本に開拓された地区であり、この教えは町民憲章にも盛り込まれているなど、今も地域の人々の心に根づいている。
 橋のたもとにある二宮小学校の児童は、この親柱を見て「毎日この橋を渡り、学びやに向かう。やがて成長し、尊徳の教えを次の世代に伝えていくことだろう」とされている。
 そもそもこの牛首別川に架けられた橋は、昭和四十七年に橋長四五・八mのものであって、平成三年に歩道の拡幅(一・五m)されたものである。

 江別市と南幌町との境界に流れる千歳川に、昭和六十一年完成した橋長一五五・二mの「江南橋」が架かっている。
この橋は南端の江別市を起点にして栗沢町を主団地とする広域営農団地農道整備事業として整備が進められてきた地域の橋である。
 この橋の高欄には、南幌町の花、北海道の花、江別市の花がデザインされたレリーフが取り付けられて、この橋を一段と引き立ててくれる。
 そしてこの橋は、空知南部地区の近代産業に飛躍的発展を促進する重要な路線の橋として、利用されているもので、それを誇りとしてその橋の姿を千歳川に映し続けている。

 赤平市を分断する空知川に架かる橋に「新成大橋」がある。平成四年十月に完成した橋長四三〇・〇mのPC橋である。
共和町側で行われた渡橋式では、関係者のテープカットに続いて幌岡・住吉小学校児童によりクス玉が割られ、祝砲が轟きわたり、大きな歓声の中で親柱が除幕された。三世代夫婦を先頭にスクールバンドの奏でる軽快なリズムにのって渡り初めが行われた。地元の郷土芸能である住吉獅子舞が披露される。
 この橋の親柱には、共和側がイルムケップ山とズリ山をイメージし、それぞれ二つの山が交差するようにデザインされている。また住吉側のは「虹の映える町 赤平」の虹を思わせるような弓形にしたものである。高欄には、両側に赤平のシンボルであるカエデをあしらったプレートが付けられているほか、虹と川のせせらぎがウェーブ状にしているのが特徴となっている。
 また歩道にはめ込まれた平板ブロックもユニークなものであって、地元住吉小学校と幌岡小学校の児童が描いた絵を基本にして製作されたものである。これは全部で六個所に埋め込まれているもので、三~四色の小石で絵を表現している。赤平の新名所となった日本最北端の城、明治時代に活躍したイカダや帆掛け舟、明治から昭和三十年代まで続いた渡し舟、開拓時代の農作業をほうふつさせる農耕馬による農耕作業、空知川河川敷地でスタートするスカイスポーツセンターの外観とパラプレーンの飛行情景、郷土芸能として根づいている住吉獅子舞などが、色鮮やかに描き出されている。これをデザインした児童たちにとっては「夢ある橋」として、いつまでも心に残る橋となるであろう。

 広域農道の上川中央第二地区のメイン工事として石狩川に、当麻町の宇園別地区と比布町の栄進地区とを結ぶ「栄園橋」が架けられた。
 橋長二九四・五mのPC単純T桁のもので、平成二年十月に渡橋式が行われた。関係者によってテープカットされ、元気な鼓笛隊の宇園別小学校の児童、比布中学校生徒のブラスバンドを先頭に、三世代夫婦が喜びを満面にして渡り初めをした。
 この橋はデザインに凝ったのが特徴とされ、親柱に御影石を用いて大雪山をイメージした形としている。そして両町の町花、町木を取り入れたレリーフを設けている。
 比布町側は水仙とナナカマドを、また当麻町側には菊とイチゴがデザインされている。さらに歩道にはハンググライダー、パトカー、動物などの絵を基に、当麻・比布両小学校児童がデザインした小烏や果物のモザイクブロックを入れたほか、高欄に特産品のデンスケスイカ、イチゴのブロンズ板が取り付けられていて、この橋を渡る人々の心をなごませてくれる。
 この橋のモザイクブロックをデザインした当麻・比布の小学校児童にとっては、いつまでも心に残る記念の橋として、親しめる橋となるであろう。優雅なその姿を大河・石狩川の流れに浮かべて架かっている橋である。

 札幌市の北区篠路地区の「篠路伏篭橋」が、平成七年に完成した。この橋は橋長七六・六m、幅員二〇・〇mのものであり、伏籠川と篠路薪川との合流点にあって、拓北地区と篠路地区とを結ぶ幹線道路に架かるものである。
ゆったりとした歩道四・五mの両側の高欄に、地域に縁の深い「篠路歌舞伎」の「勧進帳」「藤娘」など八枚のレリーフがはめこまれている。
開通と同時に、地域の人たちが立ち止まって眺めていた。地区住民にとっては「篠路歌舞伎」がこの地区の伝統のものであるだけに関心が高いものである。

 白老町の白老川に架かる「白萩橋」がある。平成三年三月に渡橋式がおこなわれた、橋長一四七・三mのPC橋のものである。三世代夫婦を先頭に町の幹線道路の要となるこの橋を、一歩一歩喜びをかみしめながら渡り、開通を祝った。
この橋の親柱には、町の木であるナナカマドと町の花であるエゾヤマハギのプレートが填め込まれ、高欄には町内の豊かな自然を表現し、日本の滝百選に選ばれたインクラの滝、ホロホロ山とポロト湖、樽前山とサラブレットをモチーフにした三種類のパネルがアクセントとして付けられている。

 中札内村と帯広市の境の札内川に架かる「中島新橋」は、昭和六十三年十一月に完成した。橋長四三〇・〇mであって、両側の親柱には日高山系の秀峰四山の名が刻まれ、アルミ製の高欄に、日高連山を構成する二十一の山を一個ずつ形どったレリーフが取り付けられている。
この橋は地域住民にとって待望の橋であっただけに、今後の流通の一拠点として、また十勝農業の振興、発展に大きく貢献するのを願って、取り付けられたものであった。

 釧路市内を流れる釧路川に「貝塚大橋」がある。この橋は釧路市と釧路町の行政界に架けられたものであり、橋長一六一・五mのカーブを描くものである。橋の高欄には釧路市の花であるキレンカと、それに釧路町の花クシロハナシノブなど、十四枚が組み込まれている。
この橋は釧路市貝塚と釧路町北見団地を結ぶ重要な橋であり、地域の人々に親しまれている橋となっている。
なにしろこの橋は、幣舞橋、久寿里橋など同じ釧路川に架かる景観に優れた橋の上流に位置することから、経済性、施工性はもとより、特に景観に配慮されたものであった。そこで高欄にも配慮されて、レリーフが飾られたものであった。昭和六十年七月着工以来、総事業費十三億七、六〇〇万円を投じて建設され、釧路湿原の動植物の写真を焼き付けて飾ったステンレス製のレリーフが印象深い。

 音更町に架かる橋に「憩橋」がある。橋長一四mという短い人道橋であって、北側の高欄部分には「むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんが」という桃太郎の物語のパネルが八枚付けられている。また、南側には「かぐや姫」の話が同じく八枚のパネルで表現され、取り付けられている。
近くに下音更小学校があるところから児童の通学路となっていて、町民も「あれ、こんなところに…とつい渡ってみたくなる橋」とされている。

 昭和六十三年十月「栄浦大橋」が完成し、盛大な渡り初めが行われた。この橋はサロマ湖の南端にある栄浦漁港の整備に伴って計画されたものである。
 この漁港はホタテ、カキ貝などの養殖漁業基地として出入する船舶が多く、そこでこの整備計画が出てきたのであった。そして入江をつなぐ連絡橋が必要となり、橋長二八六・八mのものが架けられたのである。
 橋の計画にあたっては、周辺が国定公園内に指定されている景勝の地であることから、景観には特に配慮した橋となっている。
 それで高欄にはホタテ、ホッコクアカエビ、エゾスカシユリをレリーフとして、填め込まれたものである。さらには中央部には二個所のバルコニーを設け、歩行者が立ち止まって景観を楽しむことができるようになっている。
 サロマ湖の夕日に映えるこの橋は、北海道の漁港予算で初めての長大橋であっただけに、素晴らしい景観を見せてくれている。

▲余録

千歳川に「お早よう橋」というふ橋ありぬ 足萎えのわれには「見送りの橋」 ―水野千代子
所在なくバスに読みゆく橋の名に 時雨橋あり多刈橋あり          ―柳原あき
湿原の鶴への思いこもりゐぬ 鶴良橋とふ名の橋渡る            ―松岡イネ
新しき橋成り足引き吾ば越ゆ ミュンヘン大橋ドイツならなく        ―平松 勤
開運橋と名付け渡り行くなり 幸運を人は橋にも希へる           ―渡辺 勇
時雨橋の名にひかれ行き雪深き なかを疲れて戻るむなしさ         ―佐藤喜美
橋の名も目に入らずに通ひしか 麻生橋とふ今日に知りたり         ―出村菊子
町おこしに市長が名付けし「思い出橋」 朱の欄干が心に残る        ―白崎多賀
一士官部落結べる架け橋に 救世橋と名づけられいて            ―吉田美恵子
藤田橋とは夫が名づけてこの朝も 放牧場へ牛と渡りぬ           ―藤田えみ子

▲余録 幌内鉄道の橋梁―里帰りの話題

北海道開拓使が米国から輸入し、明治期から大正前期にかけて岩見沢市内の旧幌内鉄道で使われていた鉄橋「トラス橋」が、八十二年ぶりに平成十一年(一九九九)十月十九日、岩見沢市に戻ってきた。
この橋は歴史的価値を知る関係者が、故郷で保存・活用すべき―と考えて、里帰り話が動いて実現したものであった。これは鉄道を通したまちづくりを考える市民グループ「岩見沢の鉄道復興を考える会」が、平成九年から東武鉄道側と交渉し、市民レベルで受け入れることとしたものであった。
この橋には明治村、JR東海、栃木県でも引取りを求めていたものであった。しかし新しいものは容易に造れるが、歴史的遺産は時間でしか造れないというもので働きかけたものである。
幌内鉄道は明治十三年(一八八〇)十一月に手宮(小樽市)~札幌間がまず開通、二年後に幌内まで延長された。この鉄道は三笠市幌内で産出された石炭を運ぶため、開拓使が敷設した鉄道であった。
このトラス橋は明治十七年(一八八四)から翌十八年にかけて、岩見沢市内の旧幾春別川と旧幌向川に各一連を架けた二つの橋のうちの、その一連のものである。この二連の橋は、以来幌内炭を小樽港まで運ぶのに活躍したものであった。
橋長一〇〇フィート(三〇・五m)、橋桁の骨組みの一部に、揺れを吸収できる可動部分があるなど、当時の橋梁形式を伝え、橋の上部には円弧型の装飾を施しているものである。
二連とも大正六年(一九一七)に栃木県の下野軌道(現在の東武鉄道)に払下げられ、平成八年までの七十七年間、同県今市市で東武鉄道鬼怒川線の大谷川橋梁として使用されていたものであった。

平成八年(一九九六)三月に解体され、茨城県内の橋梁会社工場に保管されていた。この二連の歴史的価値を高く評価していたJRでは、一連をJR東海の三島社員研修センターで研修用教材として、平成十一年三月に復元展示した。そしてもう一連は岩見択市内の市民団体の働きかけで八十二年ぶりで帰郷することになったものである。解体された鋼材は三四・四tある。なお岩見沢までの移送費用は東武鉄道側で負担してくれたものである。
この橋については「長寿の秘密は、架設当初の機関車が軽便鉄道並みの小型であったのに、橋の強度余裕たっぷりだったことにある。おかげで明治二十六年、三倍近く重い機関車を導入した際にも架け換えせずにすんだもの」と評価されているものである。
九州ではドイツ製の鉄橋が強度不足で道路橋などに次々と転用されていった。これに比べて開拓使が鉄道建設のために招聘した米国人技師クロフォードの先見性が光るものとされている。
岩見沢市はかつて鉄道の要衝であった。そのシンボルとして相応しい復元・保存が、市民の力で今、実現しようとしている。なんといっても「北海道の近代化の遺産として、トラス橋は登録文化財級の価値がある」と評価されている。現役約一一〇年というのは国内でも鉄道橋としては最長である。保存・展示されるとなれば「鉄橋冥利に尽きるといえよう」とされる。現在では岩見沢市内東町の長井鉄工所敷地内に保管されていて、一日でも早く保存・活用を願ってやまない。


参考・引用文献(第三集)【本文からの移し替え分】(編著者・発行者・発行年等未調査)

「札幌の橋」関口英一?(Q203)
「旭川の橋」関根正次?(Q205、 Q261)
「郷土史みすまい」(Q206)
「嵐山の自然」(Q212)
「鋼道路橋の歴史―資料編二」(Q212、 ?Q272)
「あさひかわ橋物語」(Q212)
「オサラッペ慕情」(Q218)
「網走刑務所沿革誌」(Q225)
「北海道道路史1」北海道道路史調査会、平成二年?(Q229)
「新得町百年史」(Q232)
「あさひかわと彫刻」(Q253)
「旭川市史」(Q268)
「札幌市史」(Q271、Q272)
「札幌区史」(Q272)
「音江村史稿」(Q275)
「深川市史」(Q281)
「妹背牛町史」(Q284)
「幕別百年史」(Q285)
「さっぽろあの橋この橋」(Q286)
「さっけん部報」(Q288)
「北の系譜―北海道開発局の三〇年」(Q300)

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