第2章

3) 直営事業による道路除雪作業

❀ はじめに

 北海道の道路除雪機械の製作が行われたが昭和18年(1943年)に道庁石狩川治水事務所江別機械工場で除雪Vプラウを製作、米国産フォードトラックにVプラウを取り付けた試作品を造り日本で初めて国産除雪機械の試行に取り組んだが戦争により、部品や、資材・機械の入所が困難などで除雪の試験は中止された。その後終戦(昭和20年)を迎え機械除雪は占領軍が必要として指示した札幌~小樽間、札幌~真駒内間(米軍キャンプ地)などの128㎞を旧日本軍が使用していた大型トラック(13t・180HP)、中型トラック(8t・30HP)、ブルドーザ(8t)、グレーダ(110HP)等を用いて除雪を行ったが、当時の国産機械は、作業能力が低く故障も続出して、これを補うため多数の労務者を必要とした。
 道路維持体制は、明治34年(1901年)に土木派出所が設置され大正11年(1922年)に土木事務所となり、昭和14に土木現業所に組織変更して全道9箇所に設置されその下部組織として土木派出所が全道に34箇所設けられていた。
 その当時から道路の維持管理は、各路線に道路工夫を置いて砂利道の管理を直営体制で行っていた。機械除雪が始まった昭和20年当時は札幌で除雪基地を大通りのデレビ塔付近と小樽土木現業所管内に開設して直営で行われている。
昭和21年には更に国道36号札幌~千歳間39㎞が加わり合計94㎞に除雪延長が伸びている。駐留進駐軍の命令による除雪要請は、その後もしばらく続いたが、北海道でこれを契機に急速に道路除雪についての認識が高まり昭和23年頃から公共事業として道路修繕費による道路除雪が試みられ、更に一部の市町村、営林局、輸送業者、工場経営者等も自力で関係路線の除雪に取り組む様になり、冬期交通可能延長は、全道で3,000㎞に達しその後も逐次増加を続けた。また、国産の除雪機械も改善され作業も大幅に向上して来た。
 昭和26年には、北海道開発局が発足し、北海道土木部から分かれて国費事業は、全て開発局が担当し、道庁は地方事業(補助事業を含む)を担当する形態で道路の所管がすみ分けされた。
 開発局の発足を契機に、国道の整備や、除雪も本格的に取り組まれ、この年(昭和26年)道内国道の都市部を中心に1,010㎞の除雪を行い国道除雪の幕開けとなった。除雪は全て直営で行い費用は、当時577万円と記録に残されている。

❀ 直営の除雪体制(北海道開発局)

 開発局が発足してからの除雪は、全道の国道に10箇所の開発建設部(札幌、小樽、函館、室蘭、旭川、留萌、稚内、帯広、網走、釧路)を配置し地域ごとに路線を決めて国道に関する、道路の改築、修繕、維持管理(除雪を含む)を実施する体制を敷いた。道路の維持管理・除雪に関しては各開発建設部の中に地域を分け出先出張所を置いて担当させた。特に除雪に関しては、出張所に除雪基地を設け更に約30㎞~50㎞(積雪量に応じ)ごとに除雪ステーションを設け効率的な除雪が行われる様に取り組まれた。除雪車の出動にあたっては、基地、ステーションともまず夜中の8~10時ころ雪見パトロールを行い更に積雪・降雪状況を確認して早朝に路面に10㎝以上の降雪が見込まれれば、除雪車を早朝の5時~6時(30分程度は機械のアイドリングを行う)に出動させ交通量が多くなる8時位までには担当区間の除雪作業を終らせて基地及びステーションに戻る様に作業を行っていた。
 早朝の出動となるため夜間は遅くても9時までには就寝するようにしている。除雪車の出動を指示する者は、毎日気象情報を取得しながら、現地の空模様や、道路パトロールなどで降雪状況を確認しその判断をして出動を要する時は、運転手を朝4時に起床の号令をかけ出動の準備をさせるなど担当技術者も大変な任務であった。
除雪車の運転手(助手を含む)は、除雪の基地、ステーションに泊まり込み、降雪が予想されれば、土、日、祝日でも待機となり、降雪がないと判断される日は、自宅に帰省して万が一降雪があった場合は、担当者から呼び出されて除雪基地(ステ-ション)に戻らなければ成らないので、それぞれ家庭に帰っても遠くの外出や、飲酒は一切出来なく身体は常に半拘束状態となって冬は大変ハードな労働環境であった。
 除雪オペレータは作業中、車両の事故には十分気を付けなければ成らず、安全に務めているが、一冬を通して様々な事故も発生する。早朝除雪で路上に駐車している車などは、雪がすっぽりかぶってまったく見えなく除雪車のプラウで乗用車をはね飛ばし、跳ねた音で初めて気づくといった事や、除雪中にプラウの刃先を橋梁のジョイントに接触させたり、縁石や、構造物に衝突したり、路面からとび出ているマンホールの蓋にぶつけたり、そうなると事故処理や、除雪機械の損傷も生じて予期しないアクシデントも起こる事がある。除雪作業は大変危険な熟練を要する仕事である。
 又、除雪機械でも吹雪で視界不良に成る事もあり、除雪も困難な気象状況に至った場合は、一早く通行止めを行い一般交通の立往生を防がなければ成らない。
 除雪はこの様に大変危険な作業で有るため、全ての除雪基地(ステションを含む)では、開設時に除雪に関わる者及び除雪機械を構内に一同に集めて神主を呼んで作業の無事を祈り安全祈願を行ってから除雪作業にとりかかっているのが慣例である。
 除雪時の事故としては、機械の操作(運転)ミス、車の乗り降り時のスベリ、路面上のスベリ、一般通行車の追突、道路付属物(構造物)への接触等の事故が特に多い。

開発建設部札幌小樽函館室蘭旭川留萌稚内網走帯広釧路
延 長(㎞)457172457428399174773892972793,219
出張所数626543255644
ステーション数522141122222
1148684377866
北海道開発局の除雪体制(昭和35年度末)(道路の除雪:高田吉憲・堂垣内尚弘共著より)

 しかし開発局の除雪オペレータの腕前は技術レベルが高く一級品と言われていた。
昭和時代の除雪は、ホワイト管理と言って路面に雪を5~10㎝程度残して除雪をする様に行っていた。それは、路面に雪を残す事により、チエンなどのよる舗装路面の損傷を防ぎ、車の刃先の摩耗や、路面構造物の接触防止のためであり、この除雪には、かなりの熟練技術を要した。特に一人前のオペレータになるには、2~3年助手として乗務したり、構内除雪などで習熟してからでないと本線の除雪機械には運転に着かなかったくらい、熟練した技術が必要とされた。
 その後路面に残す圧雪は減って今では、路面には一切雪を残さずブラック管理になっている。この様に直営の除雪作業は、昭和57年まで続いたがそれ以降は、運転手の定年退職により確保人数が減って徐々に請け負化に附されることとなり昭和60年には、全建設部で全て請負化となり、除雪機械は殆どが官貸で行われたが、数年間は、機械操作の不慣れや、技術の未熟など作業中の事故や、除雪機械の損傷、トラブルが多く発生した。しかし現在は、請負業者も経験を積み重ね除雪に関するレベルが向上して社会的評価を得られている。


❀ 新事業執行方式(昭和44年10月3日北海道開発局長が全開発労働組合に提示)

第一、事業執行方式改善の必要性
1. 技術革新合理化が各分野で推進されている今日、公務能率の向上が国民的要請となっている。
2. 開発局の執行事業は今後とも増え、また道民ニーズも多様化が予想される。
一方、事業執行の人的体制は、厳しい定員管理によって増員は困難である。
3. このことから、将来にむけてより効率的な事業執行方式を検討する事が必要。
第二、事業執行方式の基本的方向
1,原則としてしょうわ50年度を目標年次として、請負化と省力化をはかる。
2.請負化は、時代のすう勢であり、匡自らが執行すべきと考えられるものを除いて、請負化を促進する。
3,省力化については、機械化、集団化などを通じて促進する。
第三、新事業執行方式に移行する場合の措置
第四、新事業執行方式について
一、道路維持事業
1,直営―砂利道の骨材の敷き均らし。舗装道の小修理、清掃、小規模のラインマ ーキング、草刈り、除雪作業。
2,請負―砂利道の骨材購入。舗装道の大修理。中規模以上のラインマーキング。
除雪の運搬排雪
二、河川事業
1,現在直営で行っている浚渫工事は将来請負とする。
2,維持事業については、洪水などの非常体制に対応するための最小限度の機械で維持作業し、それ以外は請負とする。
三、漁港、港湾事業
現在の直営は将来請負とする。デッパー浚渫などは直営で継続する。
四、機械工作所
1,建設機械の整備は外注とするが、民間で整備できないもののみを直営。整備は 札幌工場に一元化。
2,機械の改良、開発は直営とし、江別工場に一元化。
3,機械の改良・開発のための製作、及び特に必要なポンプ船の整備は直営。
4,旭川・帯広工場は、ほぼ建設機械工作所に準拠する。
第五、職員の配置計画(別途)
「39協定」 昭和39年3月26日

 北海道開発局長と全開発労働組合中央執行委員長との間で労使間の問題について十分な事前協議を行う事によって労使関係を正常に維持することを相方が確認書を締結した。

5)全開発労働組合の除雪闘争

 昭和26年7月1日に北海道開発局が設置発足し、これまで北海道知事が事業の実施を担っていた道路、河川、港湾、農業の各事業は道庁から国費支弁の土木部、開拓部の職員3,200名が北海道開発局に身分移管をして引き継がれ国の直轄事業とし
て直営で継続される事となった。
 各事業が国直轄で北海道開発局が直営で実施して来たが、昭和44年10月30日開発当局は、全開発労働組合の交渉において「直轄事業執行方式について」と称する「新事業執行方式」を提示した。
 この提示に対して全開発労働組合は、この方針は合理化を推進する「直営部門の切り捨て」を露骨に意図したものだと一大抵抗し闘争に発展した。
 全開発労働組合はこの提案は当組合と結んだ労使協定である「39協定(事前協議)」に反するものであるとし、この協定の尊重を主張して、超勤拒否闘争や、ストライキ闘争で抵抗され昭和45年度の実施は見送られた。
 特に国道除雪については、全開発労働組合との協議により事実上、単年度ごとの事業執行における職場協議に移される事と成ったが、昭和45年度以降毎年度開発局は、除雪の請負化を強める方針を打ち出しその都度労働組合と大紛争に至った。
 結論的に各部局の事業執行協議の中で要員が補充されないので、現要員で出来うる部分のみを直営で行う事とし、出来ない部分は請負化にせざるを得ず徐々に直営から請負に移行する事となった。この年(昭和45年)に一部札幌市内の運搬排雪が初めて請負に出され直営除雪の切り崩しの始まりとなった。また昭和51年度冬期交通止め区間(冬は馬そり通行)であった一般国道275号幌加内町添牛内から母子里間●●Kmを試行的に全道で始めて請負化による除雪が実施された。
 昭和45年以降毎年度、全開発労働組合と「39協定」に基づき事前協議体制が合意せず開発当局の請負化方針の中で、毎年労働組合の抵抗に遭い事前協議が合意に至るまで除雪車の出動を止められ、時には12月に入って雪が積っても国道の除雪がされず道路利用者から大変な苦情が殺到した年も多々あった。
 特に北海道開発局は昭和57年の除雪事業執行協議で「路線の一部全面請負化を提起し一方的見切り発車に踏み切り除雪事業の路線一部分の全面請負化が強行され全開発労働組合との除雪闘争は、超勤拒否闘争、ストライキを含めて昭和45年~昭和57年まで続いた。
 直営除雪はこの様に各建設部で労働組合と協議し結論的には、当局に押切れて在籍要員に合わせて作業出来る路線、延長のみを直営で実施し、それ以外はの出来ない部分は、請負に附する形で推移してきたが、昭和60年に入りこれまで国家公務員に定年制が、敷かれていなかったが、この年の3月に初めて国家公務員に60歳定年制が施行された。それにより特に行(二)職の要員不足に拍車がかかり、直営事業の実施が困難な状況に陥りこれを契機に全国道全路線の除雪請負化が進行する事と成り、直営による除雪は徐々に幕を閉じた。
 直営除雪はこの様な経過をたどり労働組合と一大闘争となって一般の方には知らない当局の苦労の歴史があった。

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