序
北海道道路史調査会が発足して7年、ここに北海道道路史の完成をみることができた。
思えば、熱心な多くの協力者の手によりまとまったこと、たまたま年号も昭和から平成へと変わり、感慨深いものがある。
わが国は弥生文化時代、既に人工の道(ハリ道)があったといわれているが、北海道(前身蝦夷地)の今から約1400年前、擦文時代(アイヌ文化)に代表される道路は、たとえあっても熊みち、鹿みちと称されるものであった。また、本道道路のほとんどが、歴史の古い本州とは異なり、北辺防備、殖民、授産等、国の政策から発したものであったことも興味深い。
今日、道路法による道路は約8.2万km、林道その他約2.8万kmを合わせ、合計約11万kmに達していて、必ずしも完全でないとしても、高度な技術と幹線道路網の形成等をみると、まことに今昔の感に堪えない。
明治2年、新しい明治政府は、北海道開拓使を中央におき、名称も「蝦夷」から 「北海道」と変えたが、本書に収録した道路のほとんどは、明治政府発足時からのものである。ちなみに開道以来の人口の推移をみると
明治2年 5.8万人
大正元年 174万人
昭和元年 244万人
昭和21年 349万人
昭和37年 526万人
昭和50年 534万人
平成元年 568万人
であって最近は産業の停滞等により人口増は低い数字を示している。
この間、これまでの官選によった北海道庁長官が、昭和22年4月、公選に変わり、翌5月には、地方自治法の施行により、北海道知事となり、民選の時代に入った。昭和25年5月、北海道開発法が「国土総合開発法」 に先んじて公布され、同年6月、専任大臣を持つ北海道開発庁が総理府内に置かれた。翌26年7月、国の直轄事業の総合執行機関として、札幌に北海道開発局が設置され、実施面において、国営と道営とに分離されたが、以後、開発事業は大いに進展した。
明治政府樹立以来、本州と同じく、北海道開発の原動力としての鉄道の力は大きかった。東京~横浜間に次ぎ、小樽~幌内(炭山)間鉄道が敷設されて以来、北海道経済の伸展とともに、鉄道網も逐次拡充強化され、土木工学的な面においても、路線選定、軟弱地盤上の盛土、トンネル、橋梁、除雪、防雪工法や運営、管理等についても、先駆者としての功績は誠に大きかった。昭和62年、鉄道総延長約3,900km余あ ったものが半減され、国鉄解体と共に民営JR北海道社が発足した。同社の鉄道の活用と健全経営につき積極的に努力しつつあり、さらに鉄道新幹線や、リニア・モーターカー等についても、官民共同で積極的に取り組んでいるが、交通政策上に大きな意義を感ずる。
国内で道路整備の必要性が強く求められたのは、第二次世界大戦後であった。終戦とともに、わが国に進駐した連合軍司令部からの道路維持に関する覚書、そしてそれに関する法律が告示されたが、北海道内でも終戦直後、これと関連して主として米軍支弁による道路、橋梁の整備や、道路除雪等が注目される。次いで、食糧増産、主として、外地からの引揚者対策上からも必要であった緊急開拓の基礎造りとしての道路整備、さらに全国的な経済成長と、これに伴う自動車の急増は、北海道内幹線道路網や質の向上対策に弾みをつけた。一方、これとともに交通事故、排気、騒音公害、環境破壊等が多発してきた。したがって当初、自動車のための道路であったものが、逐次日常生活のための道路整備と遠距離陸送のための道路整備とに区分され、現在は、すべて、より効率的に結ぶ高規格道路の建設が急がれつつあり、交通安全対策事業も計画的に行われるようになってきた。
昭和33年開発局建設部道路課として、技術面をとり入れたPR用の「北海道の道路」を作成し関係機関に配布したが、数年毎に手が加えられ、現在ある開発局発行の「北海道の道路」と道土木部発行の「北海道の道路事情」となっている。一方関係者は何時の日にか、北海道道路史を作ろうとの意欲を持っていたが、地方には地方なりにいろいろと困難な事情もあった。 このため作業の着手が意外に延び、25年後の昭和58年、私の道知事退任2日前にこの調査会が発足した次第である。
昭和63年本書の編纂に対し、郷土の教育家、松本達雄氏が「道路礼讃」と題する長文の詩を下さったが、道路の価値を高く評価されたものであり、ここに深甚の謝意を表する。
最後に、本書の刊行をもって、近日中に北海道道路史調査会は解散するが、ここに、本書に関係した総べての方々に心から感謝し、発刊の言葉とする。
平成2年6月吉日
北海道道路史調査会会長 堂垣内 尚弘
例言
行政分科会
本編は当初、北海道における道路行政が本格化する開拓使設置(明治2年)から昭和60年まで記述することを原則としたが、すでに本州との交流は6世紀からの記録があり、15世紀には松前藩の勃興・諸外国の北辺侵入などがあり、日本国としての蝦夷地統括と防衛は急務となった。したがって、蝦夷地交通圏は何んらかの形で樺太・国後・択捉にまで達していた。
こうして歴史を遡れば、考古学的に証明されている先土器時代の優れた石材、黒曜石を求める石の道「ストーン・ロード」が存在していたのである。それは今から約2万年前まで遡ることになるが、資料は『北海道5万年史』郷土と科学編集委員会によったものであり、これを北海道道路史の原点とさせてもらい、序章として、明治に至る概要を記述した。
行政・計画の記述終点は、第9次道路整備五箇年計画の終了が昭和62年度であることから、昭和62年度末に及んだ部分がある。他の特記事項は以下のとおりである。
(1)法制・制度の条文・行政機構は、道路に関係のあるものを中心に記述し、明治・大正時代の法制・制度の条文は、現在の当用漢字に書き直した。また同時代の行政機構の箇条書き資料は文章化して表現した。
(2) 明治前期の法制・制度で全国ベースの内容は「日本道路史」を参考にした。
(3)市町村の行政機構については、北海道の行政中心地である札幌市と、これと異質の地方都市、釧路市を選び記述するにとどめた。
(4)道路計画の記述に当たっては、北海道の交通網発達の特異性から、道路の枠を越えて、交通と各種産業の一体的な関わりの中で記述することとしたので、開拓計画、総合開発計画が前面に出た感がある。
(5) 大正以前の道路延長などは、里・町・間の表示資料が大部分であったが、メートル表示に換算し直した。
(6) 大平洋戦争の後半から終戦直後にかけての資料が乏しく、戦時土木などと言われた部分は詳述できなかったが、「小樽旭川間国道改良計画」に見られる調査などから、来たるべき自動車時代を見据えた当時の技術者の心は、戦況激化の中にも温存され、後日その原動力となったことは、伺い知ることができる。
(7)計画に対する事業実績については、その推捗状況と代表的な事業と物件の概要にとどめ技術編に譲ることとした。
(8)道路整備五箇年計画の各次実績表のうち、直轄分は「北海道の道路」北海道開発局を、また補助事業実績は「道路事業概要」建設省道路局により採表整理し、一部関係機関の修正を受けたが、道路昇格・予算補正などがからみ完全なものではないが、オーダーとしての違いはないという見方をしていただきたい。
(9)参考文献は巻末にまとめて記載した。
(10)本文中に掲載した写真は、古い時代のものは参考文献から複写したものもあるが、最近のものは、諸官庁ならびに土木学会北海道支部より提供を受けた。
名簿
北海道道路史調査会役員名簿
(五十音順)
会長 堂垣内尚弘
副会長 小寺 一阜、鷹田 吉憲、北海道開発局長、北海道土木部長、北海道道路整備促進協会長、北海道建設業協会長、北海道舗装事業協会長
常任理事 稲垣 浩司、稲葉 寿夫、大越 孝雄、大屋 満雄、奥村 惇一、倉橋 力雄、河野 文弘、小西 郁夫、小山 義之、佐久間純一、佐藤 幸男、真田 真、武山 広志、本間 四郎、松尾 徹郎、三浦 茂、水澤 和久、村田 孝雄、渡辺 健
北海道開発局建設部長、北海道開発局建設部道路計画課長、北海道開発局開発土木研究所長、北海道土木部道路課長、札幌市建設局土木部長、北海道開発協会長、北海道土木協会長
理事 伊藤 健二、岡田 光夫、小野 修、菅原 敏夫、杉山 秀夫、田口 雍也、南井 弘次、馬場 嘉郎、平尾 晋、平岡 英明、町野 高明、丸子 正美、山根 達矣
北海道開発局建設部道路建設課長、日本道路公団札幌建設局技術部長、札幌市建設局長、日本道路建設業協会北海道支部長、日本機械化協会北海道支部長、北橋会代表幹事、北海道測量設計業協会長
監事 朝川 哲雄、伊藤 勉、横井 保
北海道道路史調査会分科会名簿
総括委員会
委員長 小寺 一阜 副委員長 倉橋 力雄
大越 孝雄、大屋 満雄、北郷 繁、河野 文弘、小西 郁夫、佐久間純一、佐藤 幸男、真田 真、武山 広志、本間 四郎、三浦 茂、水澤 和久、村田 孝雄
北海道開発局建設部道路計画課長、北海道土木部道路課長
行政分科会
会長 小寺 一阜 副会長 大越 孝雄
行政小委員会 委員長 佐久間純一
植村 能治、川村 和幸、小西 郁夫、斉藤 智徳、清崎 晶雄、竹田 俊明、辻 満秋、板東 隆、福田 秀雄、本多 満、馬場 隆、山野 耕二、横谷 貞夫
法制小委員会 委員長 藤橋 真
飯塚 達夫、石井 宏道、板谷 英雄、奥山 秀樹、笠井 稔、川口孝太郎、菊地 理、白根 充男、田口 雍也、森 定治、横谷 貞夫
道路計画小委員会 委員長 小野 修
大玉 俊光、奥山 秀樹、梶川 利弥、金山 一志、小林 孝雄、清水 貢、高比良 孝、南井 弘次、西田 弘、牧野 正友、山田 外記
運輸小委員会 委員長 長縄 敏一
青沼 知之、大沢 栄、坂田 章、中井 實
技術分科会
会 長 北郷 繁 副会長 河野 文弘
総括小委員会 委員長 北郷 繁
河野 文弘、武山 広志、堂柿 栄輔、村田 孝雄
構造規格小委員会 委員長 岡本 行夫
上田 典久、小西 輝久、佐々木晴美、佐藤 馨一、土田 浩治
土工小委員会 委員長 角田 和夫
河合 裕志、川西 是、佐々木晴美、佐田 頼光、高橋 鉄造、谷口 秀男、富永 隆伸、能登 繁幸、宮崎 信弘
トンネル小委員会 委員長 杉山 秀夫
井藤 昭夫、大谷 光信、小林 雄一、高田 和夫、高橋 毅
橋梁小委員会 委員長 佐々木光朗
阿部洋七郎、石垣 省司、入山 一、加賀谷 誠ー、白蓋 安則、平岡 英明、藤井不二也、森 康夫、横田 貞市、和田 弘二、渡辺 昇
舗装小委員会 委員長 斉藤 幸俊
上野 順司、久保 宏、佐藤 巌、佐藤 義行、菅原 照雄、新田 登、橋場 智、松尾 徹郎、三浦 宏
維持管理小委員会 委員長 大杉 幹夫
石井 宏道、奥 弘治、加来 照俊、川名 信、長屋 幸雄、長谷川尚視、林 延泰、三浦 宏、宮川 之男、宮本 吉連、渡辺 末治
資料年表分科会
会 長 水澤 和久
上田 典久、武山 広志、畠 国雄、山本 啓、横谷 貞夫
路線史分科会
会 長 倉橋 力雄 副会長 本間 四郎
総括小委員会 委員長 小山 義之
武山 広志、三浦 茂、三浦 宏、渡辺 孝昭
第1小委員会 松前のみち 下海岸のみち 委員長 太田 昌昭
安東 博、小西 文治、小山 義之、福田 秀雄、南沢 茂
第2小委員会 ニシンのみち 委員長 奥 弘治
佐々木憲幸、真田 真、古矢 清巳、渡辺 孝昭
第3小委員会 本顧寺のみち 委員長 佐藤 幸男
稲葉 寿夫、大橋 宏志、戸井田敏弘、渡辺 健
第4小委員会 本府へのみち 委員長 高田 和夫
井上 源、大屋 満雄、兼平 陸丈、塩川 重雄、辻 忠志
第5小委員会 中央道路(札幌~旭川) 委員長 水澤 和久
稲垣 浩司、小野寺重義、七条 一昭、由田 吉男
第6小委員会 上川から宗谷へ 下海岸のみち(広尾~帯広を除く)委員長 黒崎 徳三
及川 章、佐藤 義行、高沢 昌康、広川 紀元
第7小委員会 太平洋岸のみち(苫小牧~白糠) 十勝へのみち(広尾~帯広)委員長 三浦 茂
佐藤 義行、奥村 惇一、高橋 利一、山本 啓
第8小委員会 宗谷場所から斜里場所 北見へのみち(旭川~網走)委員長 菊地 康一
石井 宏明、岩崎 量由、斉藤 博、塩川 重雄
第9小委員会 択捉まで(白糠~択捉) 太平洋からオホーツクへ 知床のみち 委員長 小山 義之
岡田 徹、草野 皐、坂口 乙弥、三浦 茂、溝江 好正
第10小委員会 峠及岬 委員長 彼谷 潔
青山 繁夫、荒戸 宣計、石橋 明、笠井 政俊、喜多本好弘、草野 皐、熊谷 勝弘、小林 康郎、斉藤 智徳、坂口 貞光、坂田 勝彦、佐藤 茂治、佐藤 忠雄、山後 岩男、出垣 広明、仲 保夫、服部 健作、本間 修三、丸山 博、三浦 宏、米田 勝、渡辺 祐善
執筆者一覧
行政計画編
奥山 秀樹、横谷 貞夫
技術編
総説 河野 文弘、堂柿 栄輔
構造規格 佐藤 馨一
土工 角田 和夫、河合 裕志、川西 是、佐田 頼光、谷口 秀男、能登 繁幸
トンネル 井藤 昭夫
橋梁 石垣 省司、佐々木光朗、藤井不二也、森 康夫
舗装 久保 宏、佐藤 巌、新田 登、橋場 智、松尾 徹郎、三浦 宏
維持管理 石井 宏道、奥 弘治、川名 信、長屋 幸雄、三浦 宏、宮川 之男
資料・年表編
上田 典久、畠 国雄、水澤 和久
路線史編
青山 英幸、秋葉 実、上野 正人、氏家 等、太田 善繁、桑原 真人、小林 真人、紺野 哲也、佐藤 尚、佐藤 宥紹、丹治 輝一、寺島 敏治、畑山 義弘、布施 正、三浦 宏
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