1 明治前期の法制・制度
1-1 概 説
明治時代以前の道路づくりは、蝦夷地を支配していた松前藩が漁業の生産によって経済を支えていたため、道路の必要性を認めず、わずかにあった道路も漁場と漁場を結ぶためのもので、自然に踏み固められた径を利用するに過ぎなかった。 このようなことから蝦夷地においては、道路建設のための機構など、はっきりしたものは見当たらない。
明治に入ると新政府は、蝦夷地開拓経済論の問題をいち早く議題として上程し、明治2年には開拓使が設置され、その後三県一局時代、北海道庁初期時代へと変遷し、北海道拓殖事業の最大の急務として、道路の開削、改修に力を注いでいった。これにともなって、行政機構および法制度も徐々に確立された。
また明治前期における本州の道路行政制度は、実体的には道路、橋梁などの諸制度はすべて徳川幕府から継承したものであるが、明治政府の機構、体制は全く幕府と無縁の新しい政府および行政機構が誕生した。特に道路行政または土木行政に関係の深い機構の変遷について記すと次のとおりである。
1) 三職の設置
朝廷は、慶応3年(1867) 12月9日「摂関幕府等ヲ廃シ、新タニ三職ヲ置ク」と宣言したが、これは王政復古の大号令といわれ、幕府政治の終末、新政府の誕生を宣言するものであった。三職とは、総裁、議定、参与を指すもので、総裁は有栖川師宮、議定は公卿および諸候が任ぜられ、仁和寺宮、山階宮など10人が任命された。参与は、公卿および尾張、安芸、薩摩、越前、土佐などの各藩士が任ぜられ、大原宰相、岩倉前中将など10人が任命され、新政府の最高中枢機構が決定された。
2) 三職分課
慶応4年(1868) 1 月17日 「三職ヲ八課ニ分ツ」 と定めたが、この場合の8課は通常のいわゆる政組織としての課ではなく事務の種類を意味する言葉である。8課の分類は、総裁、神祇事務行内国事務、外国事務、海陸軍務、会計事務、刑法事務、制度事療表の8つであった。つづいて、慶応4年2月3日に「三職ヲ八局ニ分ツ」 と定め、その内容を次のとおりとした。
三職(総裁職、議定職、参与職)八局(総裁局、神祇事務局、国内事務局、外国事務局、軍防事務局、会計事務局、刑法事務局制度事務局)さらに、慶応4年閏4月21日、政府は 「政体書ヲ頒ツ」とあるように、いわば現在の憲法に該当する国家の基本となる方針を定めた。同月27日に布告されたが、その中で既に三権分立の考え方も表明されている。天下の権力をおしなべて太政権とし、権力偏重の患いがないようにすると定めている。また官職については、太政官分爲七官官に帰せしめて政令が二途に出ないようにし、次に太政官の権力を分けて立法、行政、司法の三(議政官、行政官、神祇官、会計官、軍務官、外国官、刑法官)地方官分爲三官(府、藩、県)のように定めている。 (明治元年は9月8日以降、以前は慶応4年)
3) 政体書の制定
政体書とは、 「内務省史」によれば、Constitution の訳語で、憲法の意味で使用されたとしているが、三権分立の思想は米国憲法の思想を導入したものであるといわれている。議政官は立法機関を意味し、行政機関の中心を行政官として、その下に神禰、会計、軍務、外国の四官があり、司法機関を刑法官とし以上の七官を総括して太政官とする組織であった。また、会計官には、出納司、用度司、駅逓司、営繕司、税銀司、貨幣司、民政司の七司が置かれ、道路行政の担当機関も一応会計官の中に設けられた。
4) 太政官の制度
明治初期の道路行政の根幹となったものは、太政官布告であり、太政官達ないしは各省などの達であるが、このような意味での太政官制が確立したのは明治4年(1871) 7月29日からであって、いわば内閣制の前の太政官制であり、 「太政官職制並事務章程ヲ定ム」 と記録されている。
太政官を構成する要素は三つあって、それは正院と左院および右院である。正院には、太政大臣と納言と参議があって、太政大臣は、天皇を補佐し、庶政を総判し、祭祀外交宣戦講和条約の権と陸海軍のことを統和し、納言は大臣に次ぐ職務で、大臣が欠席のときはその代理をする。参議は、太政に参与し大臣、納肩を補1左丁る職と〕Eめている。 天皇を直接補佐う勾重要な機能を正院の大政大臣に与えているのが特徴である。左院はいわば立法府の機能を有し、諸々の立法のことを議するとしている。左院には議長、一等議員、二等議員および三等議員ならびに書記があり、議長は参議より兼任または一等議員から任命するものとし、書記は、文書を検しまたは議案を起草するとしている。右院は行政府であって、諸省の長官、次官、書記などが含まれている。その機能は、法案の起草を行い、諸省の議事を審調するとしており、書記は文案を検し、法案を草するを掌るとしている。
これらは要するに、明治初期の太政官には三つの段階があり、最初は政体書に定められている「太政官分爲七官」の太政官、次は職員令の太政官であって、最も整備されたものが太政官職制による体制である。なお太政官布告、太政官達は、太政官制度の整備とは関係なく出されている。(布告、達などに関する用語説明は、1-3-1 にあり。)
5) 土木行政機構の変遷
明治以前の道路行政機構は、現在と異なり駅逓、駅伝に関する行政に重点が置かれていた。
明治維新の後、新政府が発足してからは、駅逓の行政と土木行政は分離され、最初の道路行政機構は、営繕司であって、慶応4年(1868) 4月21日の政体書の中で設けられた会計官に所属していた。また会計官は、大蔵省と内務省、通産省、農林省および運輸省などの機能を合せもった省としての役割をもっていた。
つぎに、土木行政機構が設けられたのが、明治2年(1869) 6月4日であって、民部官職制によって土木司が設けられ、その所掌事務も明らかに定められている。民部官は、内務省と運輸省、逓信省、通産省、農林省などの機能をもつ省で、会計官の権限を分離して設けられた。
土木司の所管事項は、 「道路橋梁堤防等営作ヲ専管スルヲ掌ル」 と明らかに定められている。これは、中央の土木行政機構であるが、地方の土木行政機構についても、明治初年の各府、藩の実情はやはり同様であって、営繕方が担当しており、営繕方はたいていの場合、会計局などの会計部局に属していた。
明治2年7月8日の職員令によって、民部官は民部省となり、土木司は民部省の所属となった。しかし、明治2年8月12日に大蔵省と民部省は併合され、それまで大蔵省に置かれていた営繕司を廃止してその事務を土木司に移管した。しかし、その翌年の明治3年(1870) 7月10日には民部省と大蔵省を分離し、同年7月17日に土木司は民部省に置くことを定めるとともに、大蔵省に営繕司を再び置き、両省が併合されていたときに土木司が所管していた営繕に関する事務を大蔵省の営繕司に移管した。
その後、明治4年(1871) 7月14日に廃藩置県詔書が出されて、地方行政の問題は3府306県にも達する大小の府県の統廃合および整理の問題とその財政的基盤を強固にし、民部省を廃止して、地方行政の合理化および近代化の事務を大蔵省に一本にまとめて推進することとした。この結果それまで所管していた土木司は工部省に移される。その後土木司は、土木寮となった。寮と司の違いは、その長の格ならびに待遇の差であって、寮の長は頭(カミ)で正五位と定められ、司の長は正(セイ)で正六位と定められていた。
さらに、その後、明治4年(1871) 9月29日工部省土木寮が所管していた橋梁の修築に関する事務を大蔵省に移管し、同年10月8日には土木寮そのものを大蔵省に移管し、同時に大蔵省にそれまで置かれていた営繕寮を廃止して、その事務を土木寮に移管した。この体制は、明治7年(1874)1 月10日内務省が開庁するまで続き、その間に道路行政上に重要な地位を占める太政官布告が多く出されている0 その後、明治10年(1877) 1月11日内務省も各省と同じように寮を廃止して局を設けることとし、土木寮も土木局となりそれから後、昭和16年(1941) 9月に土木局が国土局と名称を変更するまで、69年もの長い間土木局が道路行政を担当した。この時、同時に設けられた局は、勧農局・駅逓局・警視局・地理局・社寺局および会計局の6局がある。
1-2 行政機構
1-2-1 開拓使時代の行政機構(明治2年~明治15年)
明治2年7月、明治新政府は、北辺の防備と士族の救済のために箱館戦争の経験とロシア南下の現実的危機感から太政官に直属する機関として、開拓使を設置し、蝦夷地の組織的な開発が始キンナル ョシタケまることとなった。長官には鍋島直正、次官には清水谷公考、開拓判官に島義勇、沢田正臣、岩ミチトシ ケンスケ村通俊、松浦武四郎、さらに権判事には岡本監輔、得能通顯を任命し、同年8月には、民事省中にあった官署を太政官に移した。
図1-2一1 開拓使本支庁管轄図
同年、開拓使判官松浦武四郎は国郡の区画および名称を調査し、8月15日に太政官布告をもって蝦夷地を北海道と改め、11国86郡とし、北海道全体を開拓使の管轄とした。開拓使本支庁管轄図を図1一2-1 に示す。
開拓行政は、鍋島長官に代り、明治2年(1869) 9月東久世通禧は神祇官より開拓の三神の(大那牟遅神・大国魂神・少彦名神)の分霊をうけ、北海道の函館に来道した。そして根室、宗谷に出張所を設け北海道を治めた。しかし広大な北海道を治め樺太の関係を考え、箱館では不適当と知り政治の中心を北の石狩平野の札幌に移し、新しい北海道の首都をつくることにした。同年10月、判官島義勇が札幌にきて札幌本府建設に着手した。
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明治4年(1871) 5月開拓使本庁が札幌に移ると開拓次官黒田清隆の意見で、米国の農務局長ホーレンス・ケプロンを団長とするワーフィルド、アンチッセル、クラーク、クロフオード、ワインマン、モンロー、ホルト、ダンなどの開拓顧問は、北海道開拓の基本にかかわる調査を行い、広く海外の技術をとり入れた開拓方針を検討し、翌明治5年、開拓使10年計画を策定した。
この計画は、明治5年から14年までの10箇年にわたるもので、拓殖費1000万円(他に租税収入の使用が認められる)という財政的基礎をもった北海道最初の計画であり、海陸運輸の振興、官営工場の新設、移民の保護、道路の開削、農・漁・商工業の奨励、炭田の開発、鉄道の敷設、屯田兵制度の創設、札幌農学校の設立などをその概要とし、北海道の開拓の基礎を築くものであった。
またこの時代の主要幹線道路は、札幌本道(函館~札幌)17 9km ほか6路線の総延長は1,034km で、札幌本道は明治6年から1年半で新道が完成している。これは一定規格の幅員、こう配、路面構造をもつ洋式馬車道で、わが国では前例のないものであった。
この計画の性格は、直接保護政策による士族授産、すなわち廃藩置県の制度的変革による旧士族の失業救済策であった。この結果、明治2年に58,000人であった人ロが、この計画が終了した明治14年(1881)には240, 000人に増加し、明治14年の北海道庁の設置により間接保護政策に移行するまでこの基調が続いた。
1) 本庁支庁の行政区画
緯・
ミ灘舞 ■麟■
寒
開拓使庁
開拓使は、使庁を札幌に、出張所を箱館(現在の函館)および根室に置いたが、諸県、士族の支配地ならびに樺太開拓使を合せ官地が広大となり、明治4年(1871) 12月行政区画を6区域とし、担任官吏を次のように定めた。
表1-2-1 官地の担当官吏一覧表
石狩国(後志国岩内郡以北、胆振国(山越郡を除く))
渡島国(亀田、茅部、上磯三郡、後志国磯谷郡以南
胆振国山越郡)
官
岩
倉
通
俊
権判官 杉 浦 誠
日高国(十勝国)
釧路国(根室国、千島国、北見国紋別郡以東)
天塩国(北見国枝幸郡以西)
樺 太
七等出仕
判
官
松
本
権判官 大 山
十
郎
重
権判官 長谷部 辰 連
なお担当主任者の官等表を示すと表1-2 一2のとおりである。
39
表1一2-2 開拓使官等表
等
級 一等 二等 三 等 四 等 五 等 六 等 七 等 八 等 九 等 + 等 十一等 十二等 十三等 十四等 十五等
五年正月
更
定
五年八月
更
定
長官
長官
次官
次官 大判官
判 官
中判官
根判官
少判官 幹 事
監 事
権幹事
権監事
大主典
大主典
櫂大主典
擢大主典
中主典
少主典
擢中主典
権少主典
少主典
史
生
櫂少主典
使 掌
史 生 使 掌
2) 本支庁の分課
札幌開拓使庁は明治4年(1871)庶務、金穀(5年1月会計と改める)開墾、運漕、生産、刑法、資生館、病院の諸掛を置いたが翌5年9月札幌本庁と改称し、明治6年(1873) 6月改めて庶務(8年12月記録と改める)民事、会計、工業、物産、刑法の六局および学校、病院とし、その下に課を置きさらに明治7年12月および8年12月に改定があった。その結果をまとめると表1-2-3 のとおりである。
また支庁の事務は、庶務、民事、会計、刑法の4課とし、函館、樺太には別に外事課をおいていたが、函館支庁については、
表1一2一3 本支庁の分課一覧表
局
函館裁判所が明治7年(1874) 5月開庁したので、刑法課を廃止した。
3) 東京出張所および本庁との関係
開拓草創の際諸官省に稟議するものが多く、食糧器具、種苗その他の物品は東京より、また本道産物の販路も主に東京で、開
拓長官は常に東京在住であった。このた
記 民 会 工 物 刑 学
名
録 事 計 業 産 法 務
局 局 局 局 局 局 局
公文、受付、履歴、考査、編輯、外事
勧業、地理、戸籍、駅逓、警察
検査、出納、租税、貸付、用度、統計
土木、営繕
鉱山、製煉、博物
断刑、聡訟、囚獄
督学、理事
(学務局は7年12月に設置し、8年12月病院の事も担当する)
め、開拓事務を総理する結果、東京出張所の勢力は増大し、黒出ラぐ目は‘帝に果呆にめっ七、よlL“北海道に出張するのみであった。 重要事件は東京出張所を経て指揮命令するので、札幌本庁はただ各支庁と東京との間を取次ぎするに過ぎなかった。
4) 札幌農学校
開拓使は、北地開拓に従事する者の教養と農業教育の必要性を認め、顧問ケプロンの献策にもとづき、明治5年(1872) 3月東京芝増上寺舊方丈跡に東京仮学校を設け、普通、専門の二科に分け、生徒は官費私費各50名を募集し、官費生は卒業後10箇年、私費生は5箇年間北海道の開拓に従事することを義務づけ、荒井郁之助を校長に、アンチセッルを教頭兼化学地質教師に、ワツソンを英語、数学教師に任命し、4月開校式をあげた。
ー方札幌に建設中であった北1条~2条、西1丁目~2丁目間約2町四方構内の校舎が竣工したので、東京仮学校をここに移し、米人ウイリアムーコルウインを語学教師とし、生徒34人を選んで入学させた。明治9年(1876) 7月吉田駐米公使の紹介により、米国マサチュセッツ州立農学校教頭ウイリアム・クラークを在職のまま教師に招き、同校卒業生ウイリアム・ホウイレル(数学および土木学教師)とダウイット・ピ・ペンハロー(植物学および化学教師)の2氏を同伴して来道した。同年8月には、札幌農学校と改称、黒田長官以下臨席して開校式を挙行した。
これがわが国における高等農学校教育機関の最初である。教頭クラークは在職わずか1年にすぎなかったが、同校々風の基礎は、この時に成ったといわれ、同校を去るときにあたり学生に訣別した“Boys be ambitious’’の語は校訓として永く今日に伝えられている。
明治13年(1880) 7月初めて荒川重秀、佐藤昌介、伊藤一隆、黒岩四方之進、小野兼基、大島正健、佐藤勇、内田瀞、渡瀬寅次郎、柳本通義など13人の第一期卒業生を出し、翌14年7月内村鑑三、宮部金吾、広井勇、南鷹次郎、足立元太郎、新渡戸稲造、岩崎行親、町村金弥、高木玉太郎など10人の第二期卒業生を出し、皆農学士の学位を受けたが実にわが国農学士のはじまりである。その後開拓使の廃止とともに所管も変遷し、以後大正7年(1918) 3月北海道帝国大学として独立立するにいたったのであった。
5) 開拓使時代の行政機構の変遷
行政機構の変遷については、明治2年から明治15年までの創置から廃止までの細部を北海道総務部文書課史料編集室編より抜すいしたものを記述すると次のとおりである。
開拓使の本庁・支庁および東京出張所における決裁機関は、上局と称し、いずれも監事(10年以降では書記官)以上によって構成されていた。本目録では上局を分類の一項目とし、省ー府・藩・士族・寺院を明治2年8月に創置し、明治4年8月に廃止した。
開拓使は、蝦夷地と北蝦夷地(サハリン)を開拓使の力で併せ経営することの困難なところから、その一部を省・府・藩・士族・寺院などに支配させることとし、7月22日付太政官布告をもって出願を勧奨し、8月以降これを実施した。省・府・藩・士族・寺院は次のとおりである。
兵部省・東京府・斗南藩・弘前藩・大泉藩・秋田藩・ーノ関藩・仙台藩‘米沢藩・水戸藩・静岡藩・名古屋藩・彦根藩・金沢藩・和歌山藩・岡山藩・福山藩・広島藩・山口藩・徳島藩・高知藩・福岡藩I佐賀藩・熊本藩・鹿児島藩・伊達英橘“伊達勝三郎・亘理元太郎I五島鉄之凾・伊達藤五郎・石川源太・片倉小十郎・稲田邦植‘田安従二位・一橋従二位・増上寺一仏光寺
話県は明治4年(1871) 7月14日に創置し、明治4年9月5日弘前県に併合することによって廃止された。
青森県松前出張所は明治4年9月23日に創置し、明治5年9月函館支庁に移管し廃止され、旧函舘県地方は、明治4年9月5日弘前県に併合されたが、同年9月23日弘前県庁を青森に移し、青森県と改称した際その管下に移された。
銭函仮役所は明治2年10月に創置し、明治3年4月小樽に移転し、銭函仮役所と改称し、分課は庶務掛・金穀掛・営繕掛・用度掛・札幌詰庶務掛・札幌詰金穀掛の6掛となる。
小樽仮役所は明治3年4月改称し、翌明治4年5月に廃止されたが、分課は庶務掛・金穀掛・用度掛・刑法掛・病院・札幌詰庶務挂ト札幌詰金穀掛(3年8月2掛を併合して札幌出張開墾掛とした)の7掛であった。
札幌開拓使庁は明治4年5月創置し、明治5年9月札幌本庁と改称する。分課は庶務掛・開墾掛・金穀掛(5年1月 会計掛と改称)・運漕掛‘生産掛・営繕掛‘刑法掛・資生館・病院の9掛となる。
札幌本庁は明治5年9月14日に改称され、明治15年(1882) 2月8日に廃止された。このときの分課は(5年9月以降)庶務掛・開墾掛・会計掛・運漕掛・生産掛・営繕掛・刑法掛・資生館・岩内石炭山掛の9掛であった。その後明治6年6月以降庶務局・民事局‘会計局・工業局‘物産局・刑法局・学校・屯田事務局などに変遷した。当時の土木関係は営繕掛に含まれていたが、改称され工業局になる。工業局には、土木課・営繕課および陸運改良係があった。
札幌開拓使庁の出先機関としては、函館・根室・宗谷および東京に各開拓使出張所があり、さらに分課されていた。このうち東京開拓使庁(本庁)は明治2年8月に創置し、明治3年閏10月東京出張所と改称し、明治14年(1881) 6月事務を札幌本庁に移管し一部を残し廃止された。
1-2 一2 三県ー局時代の行政機構(明治15年~明治18年)
開拓使10年計画の終了を契機に明治15年(1882) 2月8日をもって開拓使が廃止され、他の地方の県政にならって、新たに函館、札幌および根室の三県に分割された。三県一局時代の管轄を図1-2 一2に示す。
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図1-2-2
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この結果、開拓使時代に統轄していた事務は、各省および三県に分割したため開拓政策を総合的に調整する機能が弱まった。各県はただ当該管轄地方の通常政務のみを取扱うこととなったので、従来各省と並んで行われた統一的な開拓政策事業は四分五裂し、小規模の地方行政機関となり、諸事業の遂行は不活発となり、重要事項はすべて県政の範囲外としてこれに関係があるとみられる各省に管理させることとしたが、個々の事業は互に連絡を欠き、損失を多くするだけであった。そこで、政府は明治16年(1883) 1月農商務省内に北海道事業管理局を置き、事業の統一を期したがその成果はあがらず、本道の道路事業もまた例外ではなく、開拓使の雄大な積極的開発計画は一変して消極的となった。
一方、わが国においては、殖産興業政策によって失業者や貧農を生み出し、北海道への移民も急増の傾向にあった。このような情勢から、北海道開拓に苦慮した政府は、明治18年(1885)金子賢太郎書記官に北海道の実情調査を命じ、同書記官は、その結果を行政機構改革の必要性を盛り込んだ復命書として政府に提出した。
この時代における道路延長は、既存施設などの維持保存にとどまり、道路の開削計画についても157 kmの増加に過ぎず、岩内~余市間の難所 「ルベシべ」から稲穂峠に至る新道の完成、鶉山道、黒松内山道の着手程度であった。
つぎに三県一局時代(明治15年~18年)の行政は、農商務省北海道事業管理局と函館県、札幌県および根室県の三県一局となり、主な開発計画はなかった。施策としては、士族移住の強化が主で、この時代の計画資金の実績は1, 187万円であった。なお、明治18年の北海道の人口は276, 000人であった。
行政機構の変遷をみると明治15年(1882) 2月開拓使が廃止され、一般地方行政は函館・札幌・根室の三県が行うこととなり、開拓使の諸事業は大蔵省・司法省・陸軍省・農商務省・工部省・宮内省・東京府の省・府に分割継承された。明治16年1月には省・府の開拓行政をーつに併合するために農商務省に北海道事業管理局が設置された。なお、省・府は明治15年2月8日に創置し、明治16年2月に廃止された。
大蔵省は、開拓使物産取扱所・同大阪派出所‘同敦賀派出所の所属事務・北海道準備米・漁業昆布採取資金貸与関係事務、司法省は、裁判事務、陸軍省は、屯田兵事務、農商務省は、札幌紡織所・殖民事務・山林事務・七重勧業試験場‘札幌勧業育種場・札幌製煉場・札幌博物場・札幌製網所・札幌製粉所・札幌農学校・真駒内牧牛場一新冠牧馬場・札幌綿羊場・札幌麦酒醸造場・札幌葡萄園・札幌葡萄酒醸造所・札幌蔬菜園・札幌桑園・札幌養蚕室・根室牧馬場・根室厚岸両缶詰所・択捉国後両臘虎猟場・函館製革所・石狩美々両缶詰所‘根室木挽器械所・函館鱈肝油製造所・札幌味噌醤油製造所・札幌陸運改良事務・船舶関係事務・紋鼈製糖所(13年2月内務省勧農局に設置、14年4月農商務省工務省に移管)工部省は、札幌工業課管理工場(札幌工作場)・幌内岩内両炭田・幌内鉄道・電信事務、宮内省は、東京農業試験場、東京府は、東京出張所および附属官地が管理した。
一方函館県、札幌県および根室県が明治15年(1882) 2月8日に創置し、明治19年1月26日に廃止されたが、分課としては、庶務課・勧業課・租税課・学務課・衛生課・土木課・地理課・出納課などがあった。このうち、土木課の事務に関するもののうち函館県分課章程の第七款土木課の内容を示すと次のとおりである。
第七款 土木課 道路橋梁水理堤防其他建営ニ係ル事務ヲ掌ル課中ヲ分テ二掛トス
第一節 土工係
道路掘穿橋梁新架及ヒ修繕ニ係ル事務ヲ管掌シ其工事ヲ監査スル事
河海堤防其他田地潅漑ノ用悪水路等治水ニ関スル事務ヲ管掌スル事
水害表ヲ調査スル事
道路ニ属スル下水盤浚ノ事務ヲ管掌スル事
道路ノ種別調査ニ参与スル事
道路便所廃置変転ノ事務ニ参与スル事
並木ノ廃存及ヒ道路ニ樹木ヲ栽培スル事務ニ参与スル事
道路へ建設スル掲示場及ヒ里程標等ノ位置査定ニ参与スル事
開墾又ハ運漕ノ為水路ヲ設クル事務ニ参与スル事
渡船場創廃等ノ事務ニ参与スル事
物品揚卸場位置査定ニ参与スル事
河港道路用悪水路等ノ工費一村限金高帳及ヒ惣計帳ヲ調理スル事
第二節 営繕係
官費並ニ地方税支弁ニ属スル諸建営ノ工事ヲ管掌スル事
諸官舎ヲ管理スル事
官宅ノ割当及ヒ宿代ヲ徴収スル事
諸官舎敷地ノ処分ニ参与スル事
一局である北海道事業管理局は明治16年(1883) 1月29日に創置し、明治19年(1886) 1月26日廃止されたが分課としては、整査課・庶務課・物産課・管業課および会計課があり、所校(明治16年3 月以降)には、札幌農業事務所・札幌工業事務所・炭鉱鉄道事務所・七飯農工事務所・根室農工事務所・紋鼈製糖所および札幌農学校があった。
1-2-3 北海道庁初期時代の行政機構(明治19年~33年)
明治19年(1886) 1 月26日三県一局および北海道事業管理局を廃止し、明治19年3月1日新たに北海道庁および函館・根室の2支庁を設置した。この結果、全道の施設の事務を統轄し、北海道の行政機構は再び統一され、総理大臣に直属する長官のもとに、北海道の開拓は再び軌道に乗ることになった。
初代長官は岩村通俊(ミチトシ)で、長官の権限は開拓使に比べ著しく拡大され、内閣直属で開拓民に関する一切の事務を統理し、他府県の長官よりも権限が大でその体制を異にしていた。したがって、道路施設事業においても府県と異なった発展をとげた。
北海道庁初期の頃は、特に開発計画は樹立されていないが、北海道開拓の基本政策は開拓使時代にとられた移民の直接保護政策を廃止し、開拓の基礎条件の整備を主とした間接保護政策がとられ、当時ようやく興隆しつつあった内地府県資本家の投資を期待し、政府は殖民諸施設の基本改善をおこなって、民間資本を誘導する基礎的事業を行う政策へと大きく転換していった。
明治19年(1886)、開拓使時代に造られた官営工場、鉱山を民間に払い下げ、貸下げ処分などによって北海道に資本の導入をもたらし、民間による各種産業の立地が盛んに行われた。
さらに、全道にわたる地理の測量が行われ、道路の開削、鉄道の施設などによって開拓は次第に進行した。それと同時に土木工事には屯田制度が大きく寄与したが、囚人の労働力も多く投入された。
また、この時代の道路整備は、いままでの海岸連絡道中心の整備から内陸道路の整備へと移り今日の幹線道路の原形がつくられた。この時代の主な開削路線は、明治22年石狩新道(岩見沢~旭川)、明治23年釧路~網走間、明治24年北見新道(旭川~網走)、明治27年札幌~虻田間などの道路が完成し、明治33年(1900)には、国・県・里道あわせて6,019kmに達した。このほか、明治30年(1897)には札幌の豊平橋が鉄橋プラット式で北海道内最初の鉄橋架設となった。
この時代の北海道庁支庁管轄図を図1-2-3 に示すとお り支庁の数は札幌支庁をはじめとし、19支庁あった。
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つぎに、北海道庁初期時代(明治19年~33年)の行政官庁ならびに開発計画および主要施策とし
ては、行政官庁には、内閣(後に内務省)・拓殖務省・内務省(北海道庁)があり、開発計画および
主要施策としては、港湾の築設、改良、道路の開削、鉄道の敷設、地理の測量、北海道国有未開
発処分法の制定(明30. 3)北海道拓殖銀行の創設などがあり、その資金の実績は9, 318, 000円であ
った。また、明治33年における人口は985, 000人である。この間に明治27年(1894) 7月には日清戦
争がおこっている。
さらに、この時代の行政機構の変遷を経時的に述べると、太政官布告で明治19年(1886) 1月26日
函館・札幌・根室3県ならびに北海道事業管理局を廃し北海道庁を置き、全道の施政ならびに集
治監および屯田兵開墾授産の事務を統理させる。道庁を札幌に、支庁を函館・根室に置き、内閣
達で北海道官制を定め、長官・理事官・属および警察官・監獄官・技術官・学務官を置いた。
明治19年2月22日に仮に道庁課署を定める。長官付・庶務課」租税課・勧業課・土木課・会計
課・警察本署・集治監・炭鉱鉄道事務所・紋鼈製糖所・農学校とし、支庁は庶務・租税・勧業・
会計の4課に分ける。
明治19年3月1日に北海道庁および函館・根室2支庁を開庁し、勅令で明治19年12月28日北海
道官制の改正があり、長官は内閣総理大臣の指揮監督に属し、各省の主務については各省大臣の
指揮監督をうけ、北海道の拓地殖民および警察に関する一切の事務を統理し、屯田兵授産のこと
を監督する。事務を分掌するため第一・第二・第三・第四の4部を置き、第三部は土木・営繕の
2 課に分課され、その内容は次のとおりである。
第一部(職員進退、文書往復、記録編輯、統計報告、学務衛生、社寺、警察、監獄、兵事などに
関する事務を取扱う。)第二部(農工商、山林、地理、交通、漁猟に関する事務を取扱う。)第三部
(河港、堤防、道路、橋梁、排水、溝渠、鉄道工事などに関する事務を取扱う。)第四部(会計など
に関する事務を取扱う。このほかに長官出張所を函館に設けて、外国人に関する事務を処理させ
た。)明治22年9月9口北海遭庁官制を改正し、第二部を第二部に合せ、第四部を第二部と改称し、
第一部(庶務・郡治・警保・職員・記録・教育)第二部(農商・地理‘逓信・水産・林務・学務・土
木・営繕の8課)第三部(検査・出納・公債‘用度・租税の5課)に改正した。明治23年(1890) 7月
7 日北海道庁官制の改正により道庁は内務省の管轄に移り、長官は内務大臣の指揮下に入った。
明治24年7月27日(1891)道庁官制を改正し、長官・書記官・警部官・財務長・参事官以下をおき、
庁務を長官官房・内務部・警察部・財務部‘監獄署に分け、ほぽ府県と同一の機構となった。こ
のうち内務部には殖民課・地理課・郡治課・農商課・水産課・土木課・教育課・庶務課の8課を
もって構成された。
明治29年(1896) 3月31日には勅令で、拓務省がおかれ、北海道および台湾の事務を統括した。
道庁の機構は長官官房・内務部・警察部・財務部・監獄署となり、内務部は殖民課・地理課・林
務課・郡治課・農商課・水産課・土木課・教育課・庶務課の9課で分掌した。同年5月14日北海
道鉄道敷設法の公布にともない道庁に臨時北海道鉄道敷設部が設置された。
明治30年(1897) 9月1日勅令で拓務省の廃止により、北海道の政務は内務省にもどった。(内務
46
省に北海道局を置く。10月廃止)
明治30年11月2日勅令で北海道庁官制改正があり、臨時鉄道敷設部を廃止し、鉄道部が設置さ
れた。道庁の機構は、長官・事務官(内1人勅任)・警部長・支庁長・参事官3・警視2・典獄1・
技師24・属以下警部・監獄書記・看守長・監獄医まで771(判任)・技手136・翻訳2を定員とし、長
官官房のほか内務部・殖民部・財務部・警察部・鉄道部・土木部・監獄署の6部1署が置かれた。
なお土木部には、土木課・林務課の2課と小樽築港事務所を設置した。また、従来の郡役所を廃
し、札幌ほか19支庁が設置(札幌・函館・亀田・松前・桧山・寿都・岩内・小樽・空知・上川・増
毛・宗谷・網走・室蘭・浦河・釧路・河西・根室・紗那)された。
明治31年(1898) 10月22日には、勅令で道庁官制が改正され、道庁機構を縮小し、長官官房のほ
か内務部・殖民部・警察部・監獄署の3部1署となった。内務部には地方課・教育課・土木課一
会課課・庶務課、殖民部には拓殖課・農商課・水産課・林務課・逓信課が置かれ、警察部・監獄
署は変らなかった。出先機関としては小樽築港事務所があった。
以上、明治19年の官制以後、行政機構について種々変遷はあったが、明治23年7月の内務省直
轄となったときの改正と、明治30年の拓殖行政機構整備のときの両改正が大きく、ここに北海道
の行政機構の原形がほぼ確立した。
1一2-4 市町村制度の変遷
地方行政としては国郡は明治2年に設けられたが、国は行政区画に関係はなかった。町村は渡
島国内において松前藩時代より設けられ、開拓使時代に廃合するところが多かった。その他の地
方は開拓使の初めに命名し、開拓の進ちょくにしたがって漸次新設した。
わが国における市制・町村制は、明治政府により明治21年(1888) 4月17日法律第1号をもって
公布をみたが、付則において北海道は適用を除外している。したがって、市制‘町村制の施行と
ともに廃止となる諸法令、たとえば、総代人制度の根拠である 「区町村法」など道内では、その
まま適用された。その後、この法律が前提となって、明治30年(1897) 5月29日町村制第132条に
基づく北海道への勅令(第158号、第159号、第160号)は、北海道区制、北海道一級町村制、北海道
二級町村制として公布をみた。
明治32年区制施行直前の町村費支弁費目は、会議費・区町村取扱費・区町村費滞納処分費・土
木費・教育費一教育補助費・衛生および病院費・警備費・基本財産・造成費および勧業費であっ
た。これに対して収入は、付加税(住民に賦課した地価税一国税営業割・戸別割‘水産税割・反別
割・漁業税割)地方費補助金(教育費・村医費・土木費)雑収入・寄付金財産より生ずる収入などで、
これらの公法化された制度の枠組において、財政の運営はどのようになっていたかをみると、全
道区町村費の収支総計によると、収入では戸別割と雑収入の比重が多く、支出では衛生および病
院費・教育関係費ついで土木費が多くなっていた。なかでも教育関係費の占める割合が多かった。
区制は明治32年、一級町村制は、明治33年それぞれ大改正、二級町村制は明治35年の全文改正を
47
まって施行された。
明治32年(1899) 10月に札幌‘函館および小樽の三区に区制を敷き、33年7月に大野・上磯・福
山‘福島・江差・寿都・岩内・余市“岩見沢‘伊達の10箇村ならびに旭川・増毛・稚内・室蘭・
釧路‘厚岸・根室の7箇町に一級町村制が施行されたが、これが北海道内における自治制施行の
最初である。市制・町村制では、市町村が法律上人格を有し、権利義務の主体となりうる法人で
あると規定し、これを構成する住民および公民の要件を定め、以下市町村会の組織・選挙・職務
権限・執行機関の組織・選任・権限・公有財産・税・公債・歳入歳出予算決算などの財務、特別
の財産を有する市町村内の一部の行政、上級官庁監督などの各事項に触れている。
従来、個別の諸法規によった執行機関・区町村会・財務などは、この統一的法規によって近代
的体系のもとに整備されたのである。
また、市制・町村制の意義について、北海道の区町村制度をみるために指摘するとつぎのとお
りである。
1) 市町村が統治の末端まで強固に位置づけられている。
2) 財政面でも住民の私経済から住民財政を明白に分離し、予算・決算制度が採用され、近代
的財政制度の樹立をみた。
3) 地方の有産階級を想定し、公民権の所有、等級選挙制などに一定の財産資格(地租もしくは
直接国税、2円以上の納入など)による制限を設けている。
4) 明治政府が有産者・地主層による市町村支配によって統治の安定をはかることを期待して
いる
5) 市制・町村制施行の前提として、 「十分ノ実力ヲ有セザル町ネ寸ーノ、、仮令其承諾ナキモ他ノ
町村ニ合併シ又ハ数個相合シテ新町村ヲ造成セザル可カラズ」 と大規模な町村合併を強行し
ている。
0) 憲法の制定・議会制の採用など、政治制度全体の近代化の流れ、すなわち近代的法体制の
確立の一環として自治制度の変革を志向していた点があげられる。
ここで札幌市の自治体組織についてみると、開拓使本庁が置かれた明治2年から、30年経過した
明治32年に札幌区制が施行されることとなり、一時札幌区長事務取扱をおいたが、明治32年(1899)
11月30日から3日間の間に区会議員の選挙を行い、同年12月13日第1回の区会で区長候補者一助
役・収入役・収入役代理の選挙を行った。区長候補者の筆頭である対島嘉三郎は同月21日区長と
して裁可され、ここにはじめて自治体としての第一期区長が出現したのである。このときの札幌
の人口は4万人を超え、初代区長に一市民である対島氏が選ばれたのは、当時としては全く感慨
深いものであったといわれ、また区役所の吏員は、区長・助役・収入役・収入役代理のほかに書
記13人、技手2人、雇書記補20人の計35人が定員であった。庁舎は、札幌支庁庁舎内に設け仮す
まいの執務を開始した。
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1-3 法制・制度
わが国の道路に関する法制は、大宝元年(701)の文武帝の大宝令において確立され、養老2年(718)
の養老律令および平安時代の延長5年(927)延喜式などによって順次整備されていったと言われて
いる。しかし明治以前の道路法制は、わが国の経済的発展が西欧諸国に比して著しく後進的であ
った。特に西欧諸国は馬車による交通であったが、わが国では、ほとんど見られなかった。明治
に入ると政府は、中央集権的行政の浸透をはかるため、従来の封建的道路の改編をはかる必要が
あった。明治以降の道路に関する最初の法制などは以下の項目に示すとおりである。
1-3 一1 道路に関する最初の法制
わが国の道路に関する最初の法制は、明治4年(1871) 12月14日の太政官布告で「治水修路等ノ
便利ヲ興ス者ニ税金取立ヲ許ス」とあるのが最初のものと思われる。この布告は、道路の修築と
料金などの徴収に関するもので、明治4年12月には、土木行政の所管庁は大蔵省であるから大蔵
省伺(下記)に対して出されたものであろう。 「税金取立」とあるが、税金の意味は租税の意味に
解するか、あるいは料金の意味に解するかが問題であるが、太政官布告そのものは以下に示すよ
うに原則を示しているだけで、税金の取立の方法などについては何も示していない。上記の太政
官布告の条文を示すと次のとおりである。
〔布告〕治水修路等ノ便利ヲ興ス者ニ税金取立ヲ許ス(明治4年12月14日)
治水修路ノ儀ハ地方ノ要務ニシテ物産蕃盛庶民殷富ノ基本ニ付府県管下ニ於テ有志ノ
者共自費或ハ会社ヲ結ヒ水行ヲ疏シ嶮路ヲ開キ橋梁ヲ架スル等諸般運輸ノ便利ヲ興シ候
者ハ落成ノ上功費ノ多募ニ応シ年限ヲ定メ税金取立方被差許候間地方官ニ於テ此旨相心
得右等ノ儀願出候者有之節ハ其地ノ民情ヲ詳察シ利害得失ヲ考へ入費税金ノ制限等篤ト
取調大蔵省へ可申出事
但本文ノ趣管内無洩可相達事
〔大蔵省伺〕
各府県管下ニ於テ治水理路ノ利ヲ興シ水路橋梁等運輸ノ便ヲ自在ニシ百害ヲ転シ百利
ヲ興シ候儀最経国ノ急務ニ候ヘハ追々官費ヲ以可施行ヘトモ当今用度不足ノ折柄ニ付下
民自費或ハ会社等ヲ結ヒ取起シ候者有之候者ハ落成ノ上功費ノ多寡ニ因リ年限ヲ以其運
上金取立方御差免有之候者ハ往々右等処注意致候者多分可有之漸々国益相益富ノ基ト右
候間御布告案添此段相伺候也
12月7日大蔵伺之通
このように道路に関する最初の法制は道路の建設に関するものであったが、第2番目は、道路
の維持管理に関するもの、第3番目は道路の修築の一般原則に関するものであった。以下に
その概略を示す。
49
第2番目の道路の維持管理に対するものとしては、「道路掃除条目」が明治5年(1872) 10月28日
に太政官布告第325号により公布された。
その内容は、 「最近道路の清掃維持がなおざりになっているので、各地方官は良く注意して、
追って道路の法制が整備されるまで、従来から掃除受持区域の割当ての道筋はもちろんのこと、
割当て分担の決まっていない場所については、もよりの町村に公平に割り当て道路の維持管理を
しっかりやりなさい」 となっている。このうち第6条には、並木の効用ならびに重要性を当時は
現代(昭和中期)と比較し、大いに重要度を異にしている。したがって、並木の植裁とその保護は
道路行政の分野の中で重要な位置を占めていた。 その条文は次に示すとおりである。
道路掃除条目 明治5年10月28日(布告第325号)
近来道路掃除ノ儀多クハ等閑ニ相成甚以下相済事ニ候条各地方官ニ於テ厚ク注意シ追
テ道路ノ制被相立候マテハ従前掃除請持有之道路ハ勿論持場無之場所ハ最寄町村へ公平
ニ割渡左ノ条目ノ通掃除可為致事
第1条
総テ掃除請持丁場ハ風雨等ノ障リ有無ニ不拘必ス三ケ月中一度ツツ掃除可致事
第2条
風雨ノ後ニ必ス其持場ヲ掃除シ溜水ハ左右溝へ導キ水溜ノ場所相減候様可致事
第3条
並木根返リ風折雪折等ハ追テ其庁ョリ処分有之ト雖モ不取敢通路妨ナキ様取片付置
可申事
第4条
左右ニ溝渠無之道路ハ可成丈ケ路ノ両縁ヲ低下ニシ雨水ノ捌方宜敷様可致事
第5条
掃除丁場標杭往々等閑ー致シ置候向モ有之右ハ必ス其請持丁場境ー従是束西或ハ南
北何百何十何丁何郡何村掃除丁場ト誌シ標杭可相建事
第6条
路舗往々田畑ニ切添候ョリ並木根サシヲ失シ之力為根返ニ及ヒ易ク以ノ外ノ事ニ候
以来決テ右等ノ所業致ス間敷事右ノ通堅可相守候若等閑ニ差置ニ於テハ掛リ官員巡
廻ノ節屹度可申付事
第3番目の法制は、河港道路修築規則で、この規則は、明治6年7月27日に大蔵省伺によって
決裁が進められたのであるが、明治6年8月2日に布達第57号として全国に出された。
この規則の問題点は、一等道路、二等道路および三等道路の考え方の基本は示されているが、
具体的に路線認定の処分を必要とする場合の判断の基準がないこと、また路線認定または、指定
という行政行為を考えていなかったことである。これは、後に明治9年(1876) 6月8日、太政官
から各府県に達が出された際に、もう少し明確になり、次いで明治18年(1885) 1月および2月の
太政官布達および内務省の告示により、国道の路線は明確に各府県に対して指示されることとな
50
る。
つぎにその規則の条文を示す。
河港道路修築規則 明治6年8月2日(布達第57号)
第1則
澱刀根信濃川ノ如キー河ニシテ其利害数県ニ関スル者ヲー等河トス横浜神戸長崎新潟
函館港ノ如キ全国ノ得失ニ係ル者ヲー等港トス東海中山陸羽道ノ如キ全国ノ大経脈ヲ
通スル者モー等道路トス右工事ノ費用従来官民混淆ノ分譬ハ六分ハ官ニ出テ四分ハ地
民ニ出ル者其四分ハ大蔵省ニ収メ其更正(河港ノ形態ヲ変更シ新タニ堤ヲ築造シ屈曲
セル路線ヲ直線ニシ新タニ路傍ニ溝渠ヲ設クル類ヲ云以下之ニ傲フ)修繕(暴風霖雨等
ノ為崩壊セル河港道路ヲ修ムル等ヲ云以下ニ傲フ)ノ工事ハ図面並目論見帳添同省へ可
伺出事
第2則
他管轄ノ利害ニ関セサル河港及ヒ各部ノ経路ヲ大経脈ニ接続スル脇往還枝道ノ類ヲ二
等河港道路トス右工事ノ費用従来官民混淆ノ分譬ハ六分ハ官ニ出テ四分ハ地民ニ出ル
者ハ其四分ハ直ニ地方庁ニ収メ其六分ハ大蔵省ョリ下渡ス可シ而シテ其更正修繕ノ工
事ハ地方官ニ於テ施行ス可キ事
第3則
市街郡村ノ利害ニ関スル河港及田地潅慨ノ用悪水路村市ノ経路等ヲ三等河港道路トス
右更正修繕ノ工事ハ地方官之ヲ施行シ費用ハ其利害ヲ受ル地民ニ課スヘシ尤其課方ノ
処分ハ地方官ニ委任ス可キ事
第4則
一等河ノ枝流ト雖モ水勢ノ強弱ニ因リ本流ノ害アル者或ハ放水ノ如キー県ニ損アルモ
数県ニ益有スルノ類之ヲ更正スルニ至テハ図面並目論見帳添大蔵省へ可伺出尤其平常
修繕ノ如キハ地方官ニ委任ス可キ事
第5則
二等以下河港道路ト雖モ之ヲ更正スルニ至テハ大蔵省ノ許可ヲ得テ施行スヘキ事
第6則
地方官ニ於テ専任施行スル修築ト雖総テ清算帳ハ年々大蔵省へ加差出事
そのほか、道標建設の件、明治6年(1873) 12月20日太政官達第413号では、諸街道里程取調方
法ならびに元標および里程標柱書式を定め、麻縄、鎖をもって綿密に調査し、里程仮標を設置す
べきなどを規定したものなどが、明治初期に出され、明治10年(1877)くらいまでに道路行政の基
礎となる諸制度が定まった。
また、北海道における道路に関する最初の法制は、蝦夷地が明治2年に改称された後、明治6
年に 「函館札幌間新道落成ニ付札幌本道ト定ム」と太政官布告第364号で定められたのが最初の
51
ものと思われる。
ここで、勅令・太政官布告・太政官達・達し、布達などについて、その定義を示すと次のよう
である。
〔勅
令〕
明治憲法下、帝国議会の協賛を経ず、天皇の大権により発せられた命令で、一般の国家事務
に関して法規で定められたものをいう。勅令というのは、今日の内閣の政令にあたる。
〔太政官布告〕
公布の形式をとるのでいわば法律ともいうべきものでその内容は種々雑多なものがあり、必
ずしも現在の標準では法律事項とは考えられないようなものも多く含まれているが、特定の相
手方に対して出されるものでなく、読んで字のごとく一般に対する布告という点に特徴がある。
太政官達は命令であって、例えば、太政官から大蔵省に対して「達」という形で命令が出され、
大蔵省はその命令の内容が省内事務の処理に関するものであればその「達」 を受けとったまま
でよいわけであるが、国民一般に知らせる必要があるものは、さらに大蔵省からの 「達し」 と
しての形その他の方法で国民に命令が出され、あるいは知らされ、もちろん拘束力を有する内
容のものもあった。 「達し」は、地方の知事に対しても太政官または内務省などから多く出さ
れている。
〔布
達〕
あまり見られないが、特定の省、あるいは府県知事に対して「達」 として出すと同時に国民
一般に対しても 「布告」 として出されたものに使用されているようである。
〔布
告〕
政府から一般国民に知らせることで、明治19年2月公文式制定以前に発布された法律・勅令・
省令にあたるもの。例えば太政官布告。
r ノ山八
しー目
〔公
z、、
IJ J
各省大臣がその主任の事務につき発する命令。
布〕
成立した法律・命令“条約を発表し、国民に周知せしめること。公布は官報により、成文法
は公布して後に施行するのが原則である。
〔告
国家・地方公共団体などがなす一般的な通知。
〔訓
令〕
上級官庁が下級官庁に対して、法令の解釈または事務の方針に関して下す命令である。
1-3 一2 道路の種類に関する法制
道路の種類についての基本的な分類は、明治6年(1873) 8月2日の河港道路修築規則によって
52
まず行われたが、次いで明治9年(1876) 6月8日、太政官から府県へ「達」が出され、ここに初
めて国道・県道・里道の名称が正式に定められた。
この規則の内容は、道路の種類、等級などに関するもので~日道路の等級を廃し、新たに国道・
県道・里道と分け、これをさらに一等から三等までに分けている。国道の一等は東京より各開港
場に達するもの、二等は東京より伊勢の皇太神宮、各府、各鎮台に達するもの、三等は東京より
各県庁に達するものおよび各府、各鎮台を連絡するものとしている。そのほか県道・里道につい
てもそれぞれ規定された。
また、道路の種類に応じて幅員を定め、国道の一等は7間(12. 73m)、二等は6間(10. 91m).
三等は5間(9.09 m)とし、県道は4間(7.27m)- 5 間(9.09m)と した。里道は特に定めていな
い。道路の分類および幅員の条文を示すと次のとおりである。
〔府県へ達 第59号〕 明治9年(1876) 6月8日
明治六年八月大蔵省ョリ相達候河港等級ノ儀ハ渾テ相廃シ候条此旨可相心得尤工
事及費用ノ儀ハ先ツ従前ノ通可相心得此旨相達候事
〔内務省へ達〕
道路付橋梁並堤防法案上答ノ趣ニョリ第六十号ヲ以テ相達候条此旨可相心得事
但本文達ニ付図面調整概則等ノ儀ハ別紙ノ通其省ョリ相達スヘシ
〔府県へ達 第60号〕 明治9年(1876) 6月8日
明治六年八月大蔵省ョリ相達候道路ノ等級ヲ廃シ更ニ別紙ノ通相定候条右分類等
級各管内限詳細取調内務省へ可伺出此 相達候事
但費用ノ儀ハ追テー般布告候迄従前ノ通相心得ヘシ
国 道
一等 東京ョリ各開港場ニ達スルモノ
二等 東京ョリ伊勢ノ宗廟及各府各鎮台ニ達スルモノ
三等 東京ョリ各県庁ニ連スルモノ及各府各鎮台ヲ拘聯スルモノ
県 道
一等 各県ヲ接続シ及鎮台ョリ各分営ニ達スルモノ
二等 各府県本庁ョリ其支庁ニ達スルモノ
三等 著名ノ区ョリ都府ニ達シ或ハ其区ニ往還スヘキ便宜ノ海港等ニ達スルモノ
里 道
一等 彼此ノ数区ヲ貫通シ或ハ甲区ョリ乙区ニ達スルモノ
二等 用水堤防牧畜坑山製造所等ノタメ該区人民ノ協議ニ依テ別段ニ設クルモノ
三等 神社仏閣及田畑耕耘ノ為ニ設クルモノ
右ノ内一道ニシテ各種ヲ兼ルモノハ其類ノ重キモノニ従フ
国道、県道ノ幅其土地ノ景況ニ拠テ各地各殊ナルモノナレハ今暹ニ之ヲー定シ
実地ニ施行スヘカラスト予モ強メー般ノ法則ナキ時ハ道路ョリ生スル百般ノ事件
53
其準拠ヲ失フノ患アリ
仍テ左ノ定ヲ以テー般ノ法則ト為シ且将来新設スル所ノ道路ハ其土地ノ便宜ニ
ョリ此道幅ヲ保タシムヘシ
‘国 道
一等 道幅七間(12. 73 m)
県 道
道幅四間乃至五間(7. 27–9, 09m)
二等 同 六間(io:91m)
三等 同 五間(9. 09m)
里道ニ至テハ要スルニ該区ノ利便ヲ達スルニ在テ其関係スル所随テ小ナレハ必
ス之ヲー定スルヲ要セス
橋梁ハ即チ路線ヲ互続スルモノナルヲ以テ道路ノ種類ニ随フヲ至当トス然シト
モ其幅ノ如キハ必スシモ道幅ニ随フヲ要セス
その後、全国44路線の国道が明治18年(1885) 1月6日布達第1号で告示され、北海道にも初め
て3路線の国道が認定された。これは、東京より各県庁所在地に連絡される幹線で、本道は3県
に達するよう配置決定されたものであった。表1-3-i にその3路線を示す。
表1
番号 路
6
号
4 2
号
4 3
明治18年告示国道北海道関係の路線
線
経
過
地
苫小牧、千歳、島松
東京より函館港 越谷、宇都宮、福島、仙台、
に達する路線 盛岡、野辺地、青森
東京より札幌県 6号、函館、森、室蘭
に達する路線
東京より根室県
号
54
6号、42号(苫小牧にて分岐)
に達する路線 浦河、幌泉、猿留、広尾
歴船、大津、尺別、白糠
釧路、昆布森、仙鳳跡、厚岸
浜中、初日牛、落石
f
札幌
森
42号
折苫」牧N\ぐ号
’函館
( 0
号
図1一3一1 明治1 8年告示の国道路線図
根室 ,ア。
42号
厚岸
43号
広尾
釧路
,● ● ● ● ●,
さらに、その後改定、追加をし明治44年(1911)末までに16路線の追加があり、国道の路線数は
60路線に改正された。図1-3-1 に明治18年告示の北海道の国道路線図を示す。
その他の道路関係法令
明治前期時代(明治元年~明治33年Jにおける道路に関する法制と考えられるものはいくつかあ
るが、その他の道路関係法令等の主なものは、駅逓、渡船、街路および軌道などに関する法令が
ある。
(1) 駅逓に関する法令
本州における駅逓の制度は、交通制度のーつの形態で駅伝または駅制ともいわれている。本J・トI
では、律令時代(700- 900)に最も栄え、鎌倉幕府.・戦国諸候・江戸幕府治下においてそれぞれ独
自の発達をみたが、明治になると江戸時代の助合を基盤とする宿駅制度の維持は困難となり、明
治5年(1872)助合・駅逓は共に廃止され、各駅陸運会社・陸運元会社などとなり、近代交通運輸
機関・郵便制度などに変化していった。
しかし北海道は発展途上にあり、この制度は残存し、昭和22年(1947)まで存続した。明治以前
の駅逓所の始まりは定かでないが、元禄4年(1691)の文献に「伝馬宿次制」 による駅逓所があり、
55
それ以後、逐次「通行屋制度」による旅宿所の増設がはかられ、寛政11年頃(1799)には、駅馬
(官馬預託請負制)の配置があり、安政元年頃(1854)には、その総数1,800余頭を数え、全島一
周通行可能になったとあり、文久元年頃(1861)私設の運搬継立業も始まり、幕末の頃(1868)には、
駅逓所の数が126箇所あったと文献に記されている。
明治初期における宿泊・人馬の継立・通信文の逓送などの駅逓業務は、会所‘運上屋・通行
家・旅宿所あるいは村役宅などで取扱われ、各場所では場所請負人、和人地では村役人がその管理
および業務の運営にあたり、主に官吏・藩吏の利用に供されていた。開拓使は、明治2年(1869)
場所請負制を廃止し、同年11月には本州と同じように会所・運上屋を本陣・通行家・旅宿所を脇
本陣とそれぞれ改称し、さらに請負人・支配人などに本陣取締を申付け、業務を開拓使に直結さ
せた。明治3年(1870)に駅逓人馬供給仮制度の制定、明治5年(1872)本陣を旅篭屋制に改め、明
治9年(1876)駅逓規則制定、明治11年(1878)各駅人馬継立規則の制定、翌年に私設の人馬継立所
が認められた。明治17年(1884)には駅伝営業取締規則、旅人宿営業取締規則が定められ北海道の
道路網の整備と相まって、逐次駅逓所が充実され、明治時代前期後半の明治33年(1900)の駅逓所
数は、北海道全域で152箇所あった。(このほか千島には17箇所あり)
以上のごとく駅逓に関する規則は、数多くあるが、駅逓の経営については、道南を除く以外の
ものは、営業として成り立つ基盤はなく、開拓使の補助がなければ維持は困難であった。明治前
期の規定で特に北海道に関するものとしては、太政官布告第364号で明治5年(1872)11月に函館・
札幌間新道落成により、札幌官道とし、里程宿駅を定め、宿駅10(函館・中島郷‘嶺下・森村・
室蘭港・幌別・白老・苫小牧・千歳・札幌)および海陸合引71里5町(279.4km)とした。このうち
海上の里程は森村・室蘭港間25里半(100. 1km)を含むものであった。
(2) 渡船に関する法令
渡船は、歴史が古く旧幕時代に相当の施設があり、開拓使時代になっても旧幕時代のものを踏
襲して、肩宮のものと民宮のものとがあり、明7首兀牛かり明1首1ど牛の間に北海追内で1ど固所の継
続、118箇所の新設および13箇所の廃~トがあり、差引123箇所の渡船があった。また北海道内にお
ける渡船の第1号は、北海道官設渡船場資料によると、函館支庁管下の厚沢部川(小黒部村字中
細渕)の渡船が享保13年(1728)に設置されたと記されている。この時代は8代将軍で紀州藩主徳
川吉宗の時代にあたる。
つぎに渡船に関する法令としては、本州では、明治4年(1871) 4月15日太政官布告第188号で
「大井川以下四川渡船賃及橋銭ヲ定ム」とある。北海道においては、三県一局時代に各県ごとに
規定したものとしては、札幌県において、明治17年(1884)11月県達をもって国県道筋渡船場54箇
所を指定し、同18年7月1日より渡船新造および修理費は地方費をもって支弁することとあり、
根室県においては、明治15年(1882) 2月渡船場を新設する場合には、家屋渡船その他諸用具設備
費はすべて官において一時渡守に貸与し年賦をもって償還する方法を定めている。その後道庁初
期時代に入り明治27年(1894) 9月になって「渡船場取扱手続」 を定めて郡区長の渡船に関する取
締事務を規定し、明治28年3月には「官設渡船取扱人手続金支給規程」 を定め、土地の状況によ
56
って月額5円以下の手当金を支給することとし、同年8月には「渡船場規則」を制定して従来ま
ちまちであった制度を統一した。この規則は官設私設の区分を明らかにし、官設渡船場取扱人お
よび私設渡船場営業人の資格を定め、その他執務心得・渡船賃金・官設物件保管法・営業人に対
する罰則などを規定したものである。
明治31年(1898) 10月には28年制定の「官設渡船取扱人手続金支給規程」を廃止し、さらに 「渡
船取締規則」 および「渡船取扱規程」 を定めて旧規則を廃止したが、それによって渡船場におけ
る各種設備内容、業務上の心得、賃銭に関しても詳細に規定して交通の便益を図った。
(3) 街路に関する法令
街路に関する法令としては、街路取締規則が制定されており、明治11年(1878) 1月16日警視本
署布達第5号があり街中の取締りの準則として、道路および道路敷地の使用の方法について、す
なわち道路占用などの原則が示されている。その条文はつぎに示す17箇条から構成されている。
街路取締規則 明治11年1月16日〔警視本署布達 甲第5号〕
第1条 凡テ下水外ニ招牌、標旗、物干等建設スルヲ許サス
第2条 街燈ヲ建設スルハ下水際ョリー尺迄ニ限ルヘシ
但人道車道区別アル場所ハ此例ニアラス
第3条 日除ケ張出シ及物品ヲ排列スルハ下水際(人道車道区別アル場所ハ家屋土
台際)ョリ二尺迄ニ限ルヘシ
第4条 使用セザル荷車其他諸車ヲ置クハ檐下又ハ垣根等ニ寄セ往来ノ妨害ヲナス
ノ\カラス
第5条 街路ニ沿フタル地ニ薪炭其他物品ヲ積置クトキ高サ九尺以下限ルヘシ
第6条 左ノ諸件ニ於テハ其場ノ図面ヲ添へ該地所轄ノ警視分署へ出願スヘシ
1
第2条ノ建設ヲナサントスル者
1
1
1
1
第3条第5絛ノ場合ニ於テ巳ムヲ得ス制限外ニ及フ
街頭ニ於テ荷拵又ハ木挽等ヲナサントスルモノ
工事ノ為メ材木土石等ヲ街頭ニ置キ或ハ板囲、足場等ヲ設クル者
家屋土蔵等甲地ョリ乙地へ引移ス為メ街路ヲ通過スルモノ
第7条 公衆ノ為メ街頭ニ便所ヲ建設セントスルートキハ其場ノ図面ヲ添へ該地所轄
ノ警視分署へ伺出ヘシ
第8条 材木土石等運搬ノ節不得巳一夜以上街路ニ停メ置クトキハ其旨巡行ノ巡査
へ申告スヘシ
但夜中ハ通行人ノ衝突セサルョウ目標ヲ建置クヘシ
第9条 街路ニ沿フタル地ニ竹木ヲ貯フルモノハ必ス鉄鎖又ハ縄索ヲ以テ厳ニ之ヲ
纏繞シ傾倒セサルョウ注意スヘシ
第10条 家屋垣薔等朽腐壊敗シ又ハ瓦石ノ墜落セントスル危険ノ虞レアル者ハ速ニ
修補又ハ改造スヘシ
57
第11条 屋上又ハ檐端等ニ物品ヲ制裁スルトキハ墜落セサルョウ防禦ヲ厳ニスヘシ
第12条 第3条第4条第8条第9条第10条第11条ノ場合ニ於テ通行ノ妨碍トナルへ
キ者又ハ墜落ノ虞アル者ハ直ニ取除カシムルコトアルヘシ
第13条 免許ヲ不得隅猥ニ床店、葭簀張ヲ建設シ又ハ人寄ヲナシ通行ヲ妨クヘカラ
ス
第14条 諸荷物ヲ負拠シ休憩スルハ路傍ニ避ケ通行ノ妨ケヲナスヘカラス
第15条 街路中央ニ佇立シ或ハ小児ヲ放歩セシムヘカラス
第16条 紙蔦ヲ揚ケ羽子ヲツキ及シ独楽ヲ翫弄シテ通行ノ妨ヲナスヘカラス
第17条 車馬道区画中ハ(仮車馬道ヲ除ク)車馬ノ外来ヲ為スヘカラス
北海道においては、街路取締規則が明治27年(1894) 5月2日に北海道庁令第23号が制定
されている。これは、連担戸数500戸以上の区町村およびこれに接続する人家稠密の場所で、道
路敷地および道路敷地に沿う溝渠ならびに橋梁を街路と称するが、当規則に街路占用、街路の通
行などを規定してる0 条文は47条から構成されている。
街路取締規則 明治27年5月2日〔北海道庁令第23号〕
第1章 通 則
第1条 街路ト稱スルハ道敷及道敷ニ沿フタル溝渠下水竝ニ橋梁トス
第2条 本則ハ連擔戸数五百戸以上ノ區町村及之ニ接纜スル人家稠密ノ場所ニ施行
ス但シ施行ノ箇所ハ別ニ之ヲ告示ス
第2章 街路ノ安寧及保存
第3条(創除)
第4条 以下ノ制限ニ従フモノ、外街路ニ建物、軒檐、招牌、物干等ヲ設ケ又ハ出
スノ\カラス
1
2
3
4
5
6
7
釣看板、標旗ハ地盤ヲ距ル局サー又」i人上ニ限リー尺以内
軒檐ハ地盤ヲ距ル高サ九尺以トハ二尺以内六尺以上ハー尺五寸以内
日除ハ(布類ヲ用フルモノ)支柱ヲ用ヒル地盤ヲ距ル高サ七尺以上二限リ四尺
五寸以内
掲燈ハ地盤ヲ距ル高サ六尺以上ニ限リー尺以内
煙筒ハ地盤ヲ距ル高サ六尺以上ニ限リ二尺五寸以内
雪国ハ道幅五間以上ハ六尺以内五間以内ハ三尺以内
地盤ノ私有ニ塁スル街路ニアリテハ所轄警察官署ノ許可ヲ受ケ前項ノ制限ニ
依ラサルコトヲ得
第5条 以下ノ事項ハ場所及使用期限ヲ記シ所轄警察官署ニ願出許可ヲ受クヘシ
1
2
58
街路ニ床店又ハ葭簀張ヲ設クルコト
街路ニ樹木ヲ植へ又ハ旗柱街燈ヲ建ツルコト
街路ニ棚欄支柱ヲ設ケ又ハ齒止石ヲ置クコト
3
4
5
6
7
8
9
街路ニ華表脾表指導標其他公衆ノ用ニ供スル標識ヲ建設スルコト
街路ニ目塗土置場ヲ設クルコト
工事又ハ商業ノ昏メー時竹木土石類ヲ置キ若クハ板園縄張足代ヲ設クル等街
路ヲ使用スルコト
街路ヲ経テ建物ヲ移シ又ハ街路ヲ壅塞スヘキ長大ノ物品ヲ運搬スルコト
神佛祭典興行又ハ年市等ノ節街路ニ一時舞台、小屋掛ヲ設クルコト
街路ニ神興慣行アルモノヲ除ク山車又ハ手踊屋台ヲ出スコト
10 管業賑又ハー家ノ視事等ノ為メー時街路ニ店飾緑門若クハ釣提灯釣燈篭ヲ設
クルコト
11 工事等ノ為メー時街路ノ通行ヲ禁止スルコト
12 街路ニ消防具其他公衆ノ用ニ供スル物品ヲ置クコト
13 街路ニ於テ縄綱荷造木挽其他ノ作業ヲ為スコト
14
街路ニ火ノ見又ハ便所ヲ設クルコト
15 街路ニ電燈柱電話柱ヲ建設スルコト
16
本則第4条第3項及同条第6項制限外ノ日除又雪国ヲ設クルコト
第6条 祝日祭典開扉年市等ニ際シ以下ノ各項ニ係ルー時ノモノハ警察官署ノ許可
ヲ受ケス街路ニ出スコトヲ得但シ警察官吏ニ於テ交通其他妨害アルモノト認
メタルトキハ之ヲ撤去セシムルコトアルヘシ
1
2
3
4
旗ヲ建ツルコト
門松緑門橋梁ニ設クルモノヲ除ク等ヲ設クルコト
提灯又ハ燈篭ヲ出スコト
屋台店又ハ露店ヲ出スコト
第7条 通行禁止ノ榜示アル場所ニ出入セムトスル者ハ警察官吏又ハ掛官吏ノ許可
ヲ受クヘシ
但シ其區域線内ニ居住スノ者ハ此限リニ在ラス
第8条 街路ヲ使用シテ之ヲ毀損シタルトキハ直ニ原形ニ復スヘシ
第9条 街路ニ於テ使用スル屋台店ハ長サ六尺幅四尺ヲ超過スヘカラス
第10条 街路ニ沿フタル宅地ニシテ奥行九尺以上ノ空地アル場所ハ道敷ノ境界ニ塙
塀ヲ設クヘシ
但シ警察官署ノ許可ヲ得タル者ハ此限ニ在ラス
第11条 街路ニ出テタル軒檐ニハ軒樋及堅樋ヲ設クヘシ其堅樋ハ街路ノ地盤ニ設ク
ルコトヲ得ス但シ檐溜ノ下水ニ落ツルモノハ此限ニ在ラス
第12条 街路ニ沿フタル高処ニ墜落ノ虞アル物品ヲ置クヘカラス
第13条 街路ニ沿フタル建設物樹木爭崩壊転倒ノ虞アルトキハ速ニ修理撤去又ハ扶
59
植伐採スヘシ
第14条 街路ニ沿フタル場所ニ竹木ヲ立置クトキハ鉄鎖又ハ強靭ナル縄索ヲ以テ之
ヲ束シ薪炭其他ノ物件ヲ堆段スルトキハ転倒セザル様堅牢ノ菱置ヲ為スヘシ
第15条 街路ニ竹木土石類其他運搬中ノ物件ヲ置クトキハ路傍ニ片寄ヒ標識ヲ設ク
ノ\シ
第16条 道敷及溝渠下水橋梁ヲ毀損壅塞シ街路ノ樹木ヲ伐採シ又ハ街燈ヲ破毀消滅
スノ\カラス
第17条 制札、指導標、塙塀、電燈柱ヲ毀棄汚損シ又ハ落書貼紙ヲ為スヘカラス
第18条 街路ニ於テハ警察官署ノ指定シタル所外ニ露店屋台店ヲ出スヘカラス
第19条 街路ニ商品薪炭其他ノ物件ヲ排列シ又ハ置クヘカラス
鉄道馬車ノ線路ニ木石瓦礫及其他行進ノ妨害ト為ルヘキ物件ヲ置クヘカラス
第20条 街路ニ於テ火氣ヲ弄シ又ハ焚火ヲ為スヘカラス
第21条 街路ニ牛馬羊豚等ヲ放置シ又ハ街路ニ於テ之ヲ養飼スヘカラス
第22条 狂犬猛獣等ノ撃鎖ヲ怠リ路上ニ放チ又ハ他人ノ繋キタル牛馬其他ノ獣類ヲ
開放スヘカラス
第23条 街路ニ於テ犬其他ノ獣類ヲ嗾シ又ハ驚逸セルメ若クハ残虐ニ取扱フヘカラ
ス
第24条 牛馬ヲ牽キ又ハ繋クコトヲ忽セニシテ行人ノ妨害ヲ為スヘカラス
第25条 街路ニ於テ制止ヲ肯セス放歌喧噪又ハ高声ヲ発シ若ハ偃臥スヘカラス
第3章 街路ノ清潔
第26条 街路ハ常ニ清潔ニ村除シ塵芥ヲ存スヘカラス
第27条 街路ノ積雪ハ踏ミ固メ又ハ取片付ヲ為シ通行ニ便ニスヘシ
第L,0条 炎天及風日ニン7地盤乾燥セルロニプ、時4街路ニ淨水フ クヘシ
第29条 前三条ハ兩側ニ居住人アルモノハ其居住人ニ於テ街路ノ中央ョリ各一半ヲ
負擔シ片側居住人ナキトキハ其全部ヲ負担スヘシ若シ両側共ニ居住人ナキト
キハ地主又ハ借地人若クハ管理者ニ於テ負担スヘシ
第30条 街路ニ汚水ヲ注クヘカラス
第31条 街路ニハ竹木瓦礫又ハ塵芥禽獣ノ死屍其他汚穢物ヲ投棄スヘカラス
第32条 下水ハ毎年二回以上浚渫スヘシ其渫ヒ揚ケタル游泥塵芥等街路ニ置クヘカ
ラス
第33条 街路ニ於テ便所ニアラサル場所ニ大小便ヲ為サシムヘカラス
第34条 街路ニ於テ蓋ナキ器具ヲ以テ汚穢物運搬シ又ハ街路ニ汚穢物ヲ堆積シ若ク
ハ乾燥スヘカラス
第35条 街路ヲ運搬スル物品ハ墜落漏出又ハ飛散セシムヘカラス
第36条 街路ニ臨ミタル屋根物干又ハ窓手摺等ニ見苦シキ物品ヲ懸ケ置クヘカラス
60
第4章 街路ノ通行
第37条 通行ノ避諱法ハ下記ノ各項ニ從フヘシ
1
2
3
4
5
人道車馬道ノ設ケアル場所ニ在リテハ牛馬ヲ人道ニ牽入ルヘカラス但シ人道
ニ沿フタル家屋ニ出入スルカ爲メー時牽入ル、ハ此ノ限リにニ在ラス
牛馬ハ車馬道ノ設ケアル他ハ左側其他ハ街路ノ中央ヲ通行スヘシ
但シ雪中ハ行人ノ妨害トナラサル様避諱スヘシ
車馬及歩行車行逢フトキハ互ニ左ニ避ケ軍隊竝ニ砲車輜重車ニ対シテハ右ニ
避クヘシ
郵便用消防用ニ供スル車馬又ハ潅水車若クハ葬送等ニ行逢フトキハ避諱スへ
シ
牛馬ヲシテ街角ヲ通行セシムルトキハ右ハ大廻ヲ為シ左ハ小廻ヲ為スヘシ
第38条 夜中燈火ナクシテ牛馬ヲ痴駆スヘカラス
第39条 牛馬ヲ竝へ牽キ又ハ濫リニ痴駆シテ通行ノ妨害ヲ為スヘカラス
第40条 牛馬ハ口取ナクシテ追立又ハ二頭以上ヲ連繋シテ牽クヘカラス但シ警察官
署ノ許可ヲ得タルモノハ此ノ限ニ在ラス
第41条 制止ヲ肯セスシテ出火場其他雑沓ノ場所ニ入リ又ハ牛馬ヲ牽入ルヘカラス
第42条 末口ノ尖リタル竹木等ヲ運搬スルトキハ其末口ヲ束スヘシ
第43条 街路ニ於テ客引ヲ為シ又ハ濫リニ通行人ヲ引止メ若クハ風俗ヲ乱スヘキ所
行ヲ爲スヘカラス
第44条 街路ニ於テ手毬リ投ケ獨樂ヲ弄ヒ又ハ其他遊戯ヲ為シ通行ノ妨害ヲ為スへ
カラス
第45条 街路ニ於テ軍談軽業其他人寄ヲ為スヘカラス
第46条 看護人ナクシテ三年未満ノ小児ヲ放遊セシムヘカラス
第5章 罰 則
第47条 本則第5条第7項第9項第11項第15項第16項ニ違犯シタル者ハ三日以上十
日以下ノ拘留ニ処シ又ハー圓以上一圓九十五錢以下ノ科料処ス
本則第4条第5条「第7項第9項第11項第15項第16項ヲ除ク」第9項条第
13条第16条第12条第31条第37条第1項第41条第43条ニ違犯シタル者ハー日以
上三日以下ノ拘留ニ処シ又ハ二十錢以上一圓二十五錢以下ノ科料ニ処ス
本則第15条第18条第21条第34条第45条ニ違犯シタル者ハー日ノ拘留ニ処シ
又ハ十錢以上一圓以下ノ科料ニ処ス
(4) 軌道に関する法令
公共道路の上に軌道を敷設し、一般運輸交通の利便に供する軌道事業が、わが国において始め
61
て内務省から認可されたのは、明治13年(1880)の東京馬車鉄道であった。その後、馬車鉄道が快
適で輸送力も大きかったため、全国各地に敷設されるようになった。このため、明治23年(1890)
に軌道条例が公布された。
一方軌道の動力は、馬匹から人力、石油発動機、電気と種類も増え、なかでも画期的なものは
電力の使用であった。内務省では、このような軌道行政の進展にともなって明治20年(1887)に制
定された私設鉄道条例と軌道条例との関係について明確にしておく必要を生じ、明治25年(1892)
9月に内務大臣から、電気鉄道の主管区分について閣議を請議した。この結果私設鉄道は、逓信
省の所管、軌道条例は内務省の所管となり、私設鉄道条例は明治20年5月18日に制定され、その
後同条例は、明治33年(1900) 3月16日私設鉄道法(法律第64号)となった。
北海道における軌道のはじまりは函館で、明治30年(1897)函館馬車鉄道株式会社として、この
年12月2日に単線軌道として、東川~弁天間が開通した。その後さらに軌道は伸長されていった。
(5) 鉄道に関する法令
鉄道の歴史は、北海道においては開拓使時代から歴史があり、他の交通機関とも密接な関係を
もって変遷してきた。北海道内の鉄道の経営組織は、官営時代、民営時代および官民営時代と変
遷し、日本国有鉄道になったのは、昭和24年(1949) 6月1日以降である。鉄道に関する法令とし
ては、明治20年(1887)私設鉄道条例の公布、明治23年(1890) 8月23日軌道条例公布、明治25年
(1892) 6 月21日鉄道敷設法公布(法律第4号)などがある。
北海道における鉄道の必要性を力説した人は、明治9年(1876) 8月札幌農学校教頭ウイリア
ム・S・クラークで、幌内から札幌を経て小樽に通じる鉄道である。その後明治12年(1879) 8月
14日クロフォードは現地調査の結果について意見書を作成し、同年12月に幌内から手宮まで敷設
することを決定し、明治13年(1880)11月28日北海道の基幹産業として登場した石炭産業のため、
手宮~札幌間(35. 9km)が開通した。これは、わが国で3番目の鉄道の誕生である。
2
明治後期・大正時代の法制・制度
2-1 概 説
開拓使時代、三県一局時代および北海道庁初期時代を経て、開拓の基礎は次第に整備されてき
たが、開拓使時代の10年計画以降は、北海道開拓には定まった開発計画もないまま推移した。ま
た、これまでの北海道の開発経費はすべて国費によって賄ってきた。明治31年就任した第8代目
の園田長官のころから、拓殖計画を一定の計画下に実施すべきと議論が盛んとなり、明治34年
(1901)当時の国力の興隆を背景に、北海道10年計画が制定された。これにともなって、これまで
の国費支弁による北海道の行政費を国費と地方費に区分するために北海道地方費法が、また地方
62
方費の議決機関として北海道会を設けるための北海道会法が公布された。
その後、計画は順調に進められたが、明治37年(1904), 38年の日露戦争のため、事業計画は、
完成できないまま、10年計画は9年で打ち切られ、明治42年(1909) 10月政府は第一期拓殖計画
(北海道15年計画)を閣議決定し、積極的に北海道の拓殖事業を進めることとした。
明治前期においては、当初の土木事業は、本庁および各支庁において施行されていたが、拓殖
事業の進展にともなって、事業の効率的運営上から、明治35年(1902)道路については、国道直轄
事業を施行する工事実施機関として、国費工事課土木派出所を札幌I室蘭・増毛・網走・釧路お
よび河西の6箇所に設置し、明治40年(1907)に上川土木派出所を加え7箇所となり、明治43年4
月1日より、第一期拓殖計画(北海道15年計画)の執行につとめた。さらに大正11年(1922)各土木
派出所の名称を土木事務所に変更し、札幌・函館・室蘭・旭川・留萌・網走・帯広および釧路の
8箇所に増設し、以後の土木現業所に弓は継がれている。
また、この時代の法制の主なものとしては、明治34年(1901)北海道会法・北海道地方費法の公
布がある。これは、北海道に初めて自治制の一部が施行されることになる。明治35年の国費工事
課派出所處務規程、特に道路に関係する法令では、大正8年(1919)・4月10日に法律第58号として
道路法の公布があり、北海道は同年11月25日北海道道路令(勅令第473号)が公布された。
その後、同年12月6日道路構造令(内務省令第24号)街路構造令(内務省令第25号)が公布され、
道路法で定める道路の具備すべき要件は次の二つを必要としている。第一に一般交通の用に供す
る道路であること。第二は行政庁において路線の認定をしていること。この二点が具備している
と道路法の適用を受けることになる。
2-2 行政機構
2-2-1 北海道10年計画時代の行政機構(明治34年~明治43年)
明治34年を初年度とした10箇年の計画で、拓殖上、直接必要な経費を拓殖費として独立させ、
計画期間中の事業や経費を予定し、行政費と地方費とによって北海道の経営を行おうとするもの
で、殖民事業を始め道路・橋梁の新設および修繕、小樽・釧路港の築港、駅逓渡船の増設、河川、
港湾の調査および石狩川などの浚渫など各種の事業を行うことを予定したものである。
しかし、この計画は一定の財源の保証を有したものではなく、将来10箇年の所要経費を予測立
案したに過ぎず、毎年の予算は、帝国議会の協賛を必要とした。このようにして、計画は実施に
移されたが、明治37年の日露戦争に遭遇し、計画の実施は財政事情によって中止もしくは、繰り
延べされ、拓殖費2, 161万円は、約61%の1, 321万円の実績にとどまり、実施は9箇年で中止され
た。
また、この時代の道路整備をみると、達成率は、計画総予算の46%、道路の開削4, 650面、橋
梁架設14箇所の整備にとどまったが、この時代に初めて道路延長が1万kmを越えたことである。
63
この時代の計画実施に対する北海道庁の国費工事の実施機関として、国費工事課派出所を設置
し、明治35年には、道路の種類に応じた構造規準が定められ、道路行政の整備が進んだ。計画の
実施を行うために、北海道庁の行政機構のうち、特に関係の深いものについて、その変遷をみる
と次のとおりである。明治34年(1901) 4月北海道庁官制改正が行われ、10年計画の実施に際し道
庁の機構が拡張され、長官官房(秘書課、文書課)内務部(議事課、地方課、教育課、経理課、出納
課)殖民部(拓殖課、農工課、水産課、林務課、通商課)土木部(監査課、国費工事課、地方工事課)
警察部(警察課、保安課、衛生課)の1官房4部の機構で構成された。
このうち土木部に関する事務内容は第4条に示され、(官紀訓353号改正、明治34年4月11日)
監査課は、工事の監査に関する事項、公有水面埋立に関する事項、軌道に関する事項、道路堤防
の敷地及び樹木に関する事項、部中他課の主掌に属しない事項。国費工事課は、国費支弁に属す
る工事に関する事項、地方工事課は、地方費支弁に属する工事に関する事項、区町村土木補助に
関する事項となっていた。国費工事課派出所處務規程の制定により、札幌・室蘭ー増毛・網走・
釧路‘河西の6箇所に国費工事課派出所が設置され、明治35年(1902) 3月8日訓第203号(本令
は明治35年4月1日より施行)により施行された。各国費工事課派出所の区域を表2-2-1 に
示す。
表2-2-1 各国費工事課派出所の名称と区域一覧表
名
称
国費工事課札幌派出所
区
域
札幌、寿都、岩内、小樽、空知、上川支庁
位
石狩国札樽区
管轄区域及び札幌区小樽区内
函館、松前、槍山、室蘭、浦河支庁管轄区
国費工事課室蘭派出所
置
胆振国室蘭郡室蘭町
域及び函館区内
国費工事課増毛派出所 増毛、宗谷支庁管轄区域内
国費工事課網走派出所 網走支庁管轄区域内
国費工事課釧路派出所 釧路、根室、沙那支庁管轄区域内
国費工事課河西派出所 河西支庁管轄区域内
天塩国増毛郡増毛町
北見国網走郡網走町
釧路国釧路郡釧路町
十勝国河西郡下帯広村
明治38年(1905) 4 月19日には、勅令139号で道庁官制改正があり、従来の各部を廃し機構を拡
張した。また鉄道事務は道庁から逓信省の所管となった。改正の事務内容は次のとおりである。
長官官房 官吏の進退、文書の往復、記録編輯
第一部 地方行政、議員選挙、北海道会、国費、地方費、会計
第二部 教育、兵事、社寺、宗教、戸籍
第三部 各種産業、度量衡
第四部 警察、衛生
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第五部 植民業務、土地処分、地籍
第六部 土木、交通(監査課、国費工事課、地方工事課、逓信課)
明治40年(1907) 3月31日には、道庁処務細則を改正し、課を廃止して係をおき、その事務内容
は次のとおりである。
長官官房
第一部 地方係、経理係、出納係
第二部 教育係、兵事社事係
第三部 農務係、商工係、水産係、畜産係
第四部 警務係、保安係、衛生係
第五部 拓殖係、林務係、地方林業係
第六部 土木係、交通係
第六部のうち、土木派出所は、明治40年4月6日道庁告示第180号で表2-2-2 に示すとお
りに改正された。
表2一2-2 土木派出所の名称と区域ー覧表
名
称
区
域
札幌、小樽、岩内、寿都、空知各支庁管轄区域
札幌土木派出所
位
(明治40年)
置
石狩国札幌区
札幌区及小樽区内
室蘭、函館、桧山、浦河、各支庁管轄区域及函
室蘭土木派出所
上川土木派出所
増毛土木派出所
館区内
上川支庁管轄区域内宗谷支庁管轄区域内ノ内枝
幸郡及網走支庁管轄区域内ノ内紋別郡藩別、ル
ーサンナイ間分水界ニ沿ヒ石狩北見国境チトカ
ニウシ山嶺に達スル盡線以北
胆振国室蘭郡室蘭町
石狩国上川郡旭川町
増毛、宗谷(枝幸郡ヲ除ク)各支庁管轄区域内 天塩国増毛郡増毛町
根室支庁管轄区域内及網走支庁管轄区域内ノ内
網走土木派出所
河西土木派出所
紋別郡藻別、ルーサンナイ間分水界に沿ヒ石狩
北見国境チトカニウシ山嶺に達スル盡線以南
河西、釧路国各支庁管轄区域内
2-2 一2 第ー期拓殖計画時代(明治43年~昭和元年)
北見国網走郡網走町
十勝国河西郡帯広町
日露戦争後、わが国の国運興隆にともない、国内資源の開発による国力充実と、わが国の人口
が急激に増加する傾向が現れ、北海道は食糧、資源の供給地として、また新たに領土となった樺
65
太への基地として重要な役割を持つことになった。
このような社会情勢の変化に対応して、明治42年(1909) 10月政府は、北海道10年計画実施完了
を待たずして、新たに第一期拓殖計画(北海道15年計画)を閣議決定し、拓殖事業を積極的に進め
ることとした。
この計画内容は、
① 北海道拓殖のため、政府は明治43年度以降15箇年間に事業総額7, 000万円を支出す
ること。
② 明治43年度拓殖費を 250万円とし、それ以降各年度の拓殖費増加額は道内歳入の増
加額を充当支出すること。
の二点を明治42年10月に閣議決定し、この計画の骨子とした。また、この計画で経費を行政費と
事業費に分け、事業費はさらに森林費と拓殖費に区分し、拓殖費について15箇年間に施行すべき
事業と経費を予定して、これはすべて政府の歳入より支弁することとし、また拓殖の進度により
生ずる国庫の利益を直ちに拓殖事業に利用し得ることとしたので、経費の使用に関しては、実質
上、特別会計に等しい組織となった。
しかし、計画の当初は不況によって予期した財源の確保ができず、明治43年から大正5年(1910 -1916)までの7年間についてみると、3, 000万円の計画額に対して、支出された拓殖費はわずか
に1,843万円余に過ぎず、事業の遂行に大きな支障をきたした。このことから、大正6年度以降か
らは、計画期間を2箇年延長し17年間とし、拓殖費については1箇年の最高支出額を500万円から
550万円に増額、さらに道外法人納税額を北海道の歳入増加額に加算し得ることに改定して、財源
の確保を図った。その後も計画の改定、増額、新規事業の編入なども行い、拓殖事業は著しい進
展を示した。
この期間において、水産業、農業、工業共に実質的な伸びは目覚しく、特に工業については、
民間諸企業の北海道への進出が相次ぎ、生産額ぐ農業を抜いて第I位となり、北海道の産業は、
ようやく工業生産優位の段階に入ったのである。
この時代の道路は、先の北海道10年計画による道路の築造が財政上の理由から粗悪であったう
えに、修繕費も過度の節約を強いられて、道路開削の効果が著しく減ったことを省みて、次の三
方針を打ち出した。
① 路線選定を厳重にし築造工法を向上させること。
② 既設道路の重要区間を改良すること。
③ 維持修繕の強化を図ること。
また、この当時の道路は砂利敷などは、ほとんど部落の奉仕に委ねられていたが、明治45年、
道庁は 「土木事業奨励規程」を公布し、道路・橋梁・河川その他土木事業の拡張、改良、保存上
貢献した人および団体に土木功績者として奨励金を下付することとした。特に道路にあっては民
間人による路面の草刈、雑木の伐除、掃除、掻均し、穴埋め、砂利敷込み、下水溝の浚深などを
期待した。功績者として奨励金をうけ、表彰をうけた団体では部落会、青年団が圧倒的に多いが、
66
土木組合・道路開削期成同盟などの特設組合、都市部の小樽では撤水組合がみられた。このよう
な状況において、この時代の道路の新設は5, 773km、 改良1, 155km、橋梁の架設66箇所の整備が
すすみ、戦前(太平洋戦争)において最も道路が整備された時代であった。
これに対し、この計画の実施機関である道庁機構の変遷を経時的に示すと、勅令で明治43年
(1910) 3 月28日道庁官制改正があり、内務・勧業・警察・拓殖・土木の5部をもって事務を分掌
し、吏員を増し新たに事務官補をおいた。
明治43年3月31日」ヒ海道庁告示第251号で土木事業施行のための各土木派出所の名称および区
域は、函館および釧路派出所が加わり、8派出所となる。土木派出所の名称と区域を表2-2 ー
3 に示す。
表2-2一3 土木派出所の名称と区域一覧表
名
称
札幌土木派出所
函館土木派出所
室蘭土木派出所
上川土木派出所
増毛土木派出所
網走土木派出所
河西土木派出所
釧路土木派出所
区
域
札幌・空知・後志各支庁管轄区域内札幌区及小
樽区内
函館・桧山各支庁管轄区域内区及小樽区内
室蘭・浦河各支庁管轄区域内
上iil支庁管轄区域内
増毛・宗谷各支庁管轄区域内
網走支庁管轄区域内
河西支庁管轄区域内
釧路・根室各支庁管轄区域内
位
石狩国札幌区
渡島国函館区
胆振国室蘭町
置
石狩国上川郡旭川町
天塩国増毛郡増毛町
北見国網走郡網走町
十勝国河西郡帯広町
釧路国釧路郡釧路町
また、 「道路保護区設置規程」が明治43年6月29日に訓令第62号で制定され、土木派出所の下
部機構として枢要なる道路の小破修繕を行うため配付予算などの範囲内において道路保護区を設
置する規程が制定された。
大正2年(1913) 6月13日勅令150号で道庁官制を改正し、長官官房のほか、内務、警察、拓殖、
土木の4部とし、事務官補を廃し理事官をおいた。土木部関係の内容は、土木部(工務係、庶務係)、
土木派出所(札幌・上川・函館・室蘭・河西・釧路・増毛・網走の8箇所)築港事務所(小樽・釧路・
留萌・函館)治水事務所(札幌に石狩川治水事務所~明治43年9月1日が最初)が設置された。大正
7 年(1918) 3月20日には、土木部に道路課(新設)・土地改良課・河川課・港湾課が設置され、大正
8年7月土木部に調査課が新設された。
大正11年(1922) 4月には、土木派出所の名称、区域および位置を改め、北海道内の8箇所に土
木事務所(札幌I函館・室蘭・旭川・留萌・網走・帯広・釧路)を設置した。また、土木事業執行
規程を改め、大正11年4月30日訓令第34号で、土木事業執行のため管内に下記の事務所が置かれ
た。その関係条文は次のとおりである。
67
第2条 1.土木事務所、2.築港事務所、3‘治水事務所
土木事務所において施行する事業は、第4条および第50条に次のように定められた。
第4条 1‘道路及 其ノ附属物ノ工事施工ニ関スル事項、2.土地改良事ノ施工ニ
関スル事項、3.河川工事ノ施工ニ関スル事項、4‘地方費支弁ニ属スル桟
橋、埠頭及 排水運河ノ工事ニ関スル事項、5.前各号ニ附帯スル事項
第50条 土木事務所ニ工務係及庶務係ヲ置ク
大正11年9月27日勅令で、官制を改正し、道庁に産業部を設置した。道庁の機構は長官官房・
内務部・産業部・拓殖部・土木部・警察部の1官房5部とし、部長1人(土木)を新たに勅任とす
ることとした。この結果道庁官吏のうち勅任官は、長官・内務部長・土木部長・技師1人の4人
を数えることとなった。
大正11年(1922) 4月30日土木事務所の名称、区域および位置を告示第367号により改正し、そ
の内容は表2-2-4 に示すとおりである。
表2-2一4 土木事務所の名称と区域一覧表
名
称
札幌土木事務所
函館土木事務所
室蘭土木事務所
区
域
札幌・空知・後志各支庁管轄区域内札幌区及小
樽区内
函館・桧山各支庁管轄区域内及函館区内
室蘭・浦河各支庁管轄区域内及室蘭区内
旭川土木事務所 上川支庁管轄区域内及旭川区内
留萌土木事務所
網走土木事務所
市ノム工本争1分Iir
釧路十木事務所
留萌・宗谷各支庁管轄区域内
網走支庁管轄区域内
ph 西支庁管轄区域内
釧路・根室各支庁管轄区域内
位
石狩国札幌区
渡島国函館区
胆振国室蘭区
石狩国旭川区
置
天塩国留萌郡留萌町
北見国網走郡網走町
十勝国河西郡帯広可
釧路国釧路区
大正13年1月には、土木部に建築課を新設し、道路課・土地改良課・河川課および港湾課の5
課となる。同14年(1925) 6月17日には岡道路改良会北海道支部を設立(支部長は道庁長官)し、講
演会・道路品評会の開催・道路功労者の表彰・雑誌の発行などの宣伝活動を通じて、道路改良の
普及をはかった。
大正15年(1926) 6月4 日には、勅令で道庁に学務部を設置し、本庁の機構は長官官房・内務部。
学務部・拓殖部・土木部・警察部の1官房5部体制の機構に改正になったが、大正7年以降にお
いては毎年のよう道庁の官制が改正された。このときの土木部・道路課の事務分掌を示すとつぎ
のとおりである。
土木部の分掌
1 .土木ニ関スル事項
68
2.水陸運輸ニ関スル事項
3 ,水面埋立ニ関スル事項
道路課分掌
1 ,道路及其ノ附属物ニ関スル事項
2 .鉄道軌道ニ関スル事項
3 .瓦斯上下水道ニ関スル事項
4 .駅逓ニ関スル事項
5 ,郵便電信及電話ニ関スル事項
6 .航路補助ニ関スル事項
7.河川航行ノ補助ニ関スル事項
8 .土木工事補助ニ関スル事項
9‘大沼公園ノ経営及管理ニ関スル事項
10,土木工事ノ調査設計及審査ニ関スル事項
11.部中他課ノ管掌ニ属セザル事項
このほか、道路敷地調査及び整理事業については、大正元年度以降昭和元年度末までに1, 597里
(6, 272km) の調査を終わり、移住民の点在によってこみいった所有権関係や路面の変転によって識
別困難となった敷地の範囲を確認・確定するとともに、不用地を整理して拓殖費の財源にあてた。
2-2-3 市町村における行政
わが国における町村制が明治政府によって、明治21年に公布され、北海道はこれらの法律が前
提となって、明治30年(1897)に区制、一級町村制および二級町村制が公布された。二級町村制は、
明治35年(1902) 2月21日勅令第37号をもって全文改正し、4月1日札幌郡札幌村など62箇町村に
施行された。大綱は、当初の二級町村制およびすでに施行されている一級町村制と同じであるが、
個々の規程では異なっている点が多い。しかし、この改定によって本道は、府県の町村制にほぼ
近づいたといわれる。
その後内陸地帯の開拓の進展にともない、明治30年代の末期から大正中期にかけて、新たに
178箇町村に二級町村制が施行され、大正6年には、戸長役場数38、その下にある村は109箇村に
まで減少した。このような状況を背景として、道庁は、戸長役場廃止の検討をはじめ、大正12年
(1923)北海道の地方制度の特殊性、後進性をもっとも端的に表現していた戸長役場が全廃され、
同時に北海道の全域に町村制が施行されることとなった。
また、二級町村から一級町村への昇格も、大正7年以降昭和4年までに61の二級町村が一級町
村に昇格し、大正6年に50であった一級町村の数が昭和4年には分村により一級町村となったも
の1を加えて、 112を数えるにいたっている。このような一級町村の急激な展開は、中核農業の
開拓の進渉、鉱工業および商業の発達、移民の流入による人口の増加とその定着化の傾向などの
69
本道の地域社会の経済的社会的な発達を反映するものであった。
そこで、道庁内務部があらかじめ昇格町村の選定については、町村を所管する支庁長に町村名
を明示して「進級を目的とする調査」 を依頼し、それを受けて支庁長が、町村の沿革、産業の発
達その他の町村情勢、戸数および人口数、町村の資力、町村会議員選挙有資格数、その他の調査
結果に進級の適否についての意見を付した回答を行い、それにもとづいて長官が内務大臣あてに、
町村進級の上申書を提出するという経過をたどったようである。北海道内の一、二級町村分布お
よび戸長役場・区(市) ・一、二級町村数の推移を示すと図2-2-1 、図2-2-2 のとおり
である。
つぎに北海道内の各市のうち札幌市および釧路市の変遷について述べる。
にI
市40130
~~
1101
,
ノ×ノー1八
~&にr
ll
ロ 区
0
l 級町村
I
l級町村役場数ー一了
: 長浪扇F
.
2 糧町村
二iE)
市.:市投所数
明治19・加 25 30 35 40 大正1 5 10昭和1
図2-2-1 区・一、ニ級町村分布図
(明治35年末現在)
(1) 札幌市の土木行政
図2-2-2 戸長役場・区(市)一、二級
町村数の推移(各年末現在)
不L幌は、北母迫に開Th使か明治乙」Fに設けりれた地’c、内陸部にお汀る開拓の迷I支は他の地域に先だって、早くから発展した地域であるn 明治3年(1870) 2月には、定住民家が9戸となり、札幌本府の建設にともなって、外に開拓使の役人や職工、人夫などが数百名に達し、札幌には町代制(前年開拓使の制令できめられた公選の町役にあたる)2人がおかれ、その役目は極めて自治的な色彩の濃いものである。その職務は、官庁と人民との間にあって、一切の行政に関し上意下達、下意上達の役目をし、金銭の貸借・不動産の抵当売買から改名・結婚・夫婦喧嘩や酒の上の争いの仲裁・なまけものの訓戒一人民の呼出・人馬継立・官営事業の雇人の周旋・賃金支払の立会、その他裁判・教育‘衛生・宗教・警察など、市民に関する一切の事件には必ず町役人の立会が必要とされ、したがってその中の1人は常時札幌本庁に派出されていた。
その後市街建設事業や開拓使本庁建築工事のため、人口も増加したため、町代制を戸長制に改め、吏員は12名になり仕事の分量も以前とは比較にならないほど多いものとなった。
しかし、開拓使の財政窮乏、事業の縮小、加えて移民の退散などのために、市会所の事務もおのずと閑散になり、吏員の数も少なくなったが、間もなく救済事業が始まり、仕事も忙しくなり明治7年(1874) 1 月戸長を解任し札幌町長を任命し、正権区長の代りに開拓使判官松本十郎が自ら市政を督励したので、市況もようやく回復に向かった。そこで札幌本府は他の地方に先立ち同年2月に戸長制度を廃して、大小区画制をしいて札幌郡を第一大区とし、これを六つの小区に分かち、札幌市街は第一から第三の小区とした。この大小区制による第一大区区長は任命されず、副区長のみ任命され、三小区にはそれぞれ正副戸長が置かれたが、札幌全市街を統轄する理事者がなく、人民に直結した事務は各小区長が取扱うということで処理された。
明治12年(1879) 7月には大小区制が廃止され、郡区町村編制法が発布され、札幌全区は第一大区の札幌区となり、明治15年2月県制施行後も、市の機構はそのまま引きつがれ、札幌区役所は札幌全部の行政事務を取扱っていた。
北海道庁時代に入り、明治32年(1899) 10月いよいよ北海道区制が札幌にも施行され、同年11月30日から3日間、三級・二級・一級の順で区会議員の選挙を行い、12月13日に第1回区会で区長候補者、助役・収入役・収入役代理の選挙を行い、区長候補者当選の筆頭である対島嘉三郎が同月21日区長として裁可され、ここにはじめて自治体としての第一期区長が出現した。
その後、大正11年(1922) 8月1日に市制が施行され、翌年7月から都市計画法も実施されて、札幌も府県都市並の自治体となった。大正11年の人口は、127, 044人で区制実施当時(明治32年)の3 倍余となり、人ロにおいても全国で14から15番目の都市となった。
つぎに札幌の分課組織をみると、明治32年自治制施行以来8年間の区役所の分課組織は明らかでないが、それ以降明治40年(1907)、大正4年(1915)、大正12年(1923)における分課組織は次のとおりである。
明治40年には、第一係(庶務・兵事・教育・衛生事務)第二係(勧業・土木事務)第三係(財務・税務・戸籍事務)収入部(出納決算事務)の4係があり、当時の人口は66, 193人、吏員は47人であった。
大正4年(1915)には、庶務課‘兵籍課・土木課・勧業課・経理課・出納課の6課になり、当時の人口83,276人、その後大正7年勧業課を廃止し教育課を設け、その吏員数66人となる。
大正12年(1923)には、秘書課・兵籍課・庶務課・土木課・社会課・税務課・教育課・出納課・衛生課の9課で、当時の人口は135,459人に増加し、吏員数も135人に増員された。
なお、土木課の中に都市計画係を設けたのは、大正9年(1920)に発布された都市計画法・市街地建築物法によって、札幌市も近代都市として計画施設を行うことになったためである。
このほか、札幌市街の発展沿革を安政4年(1857)から大正9年までの沿革図を示すと図2一2 -3 のとおりである。
第十五図
I
図2-2-3 札幌区沿革図(安政4年~大正9年)
つぎに札幌市の道路の変遷についてみると、蝦夷地の警備と要害の地として石狩平原を開発し、幕府は、寛政12年(1800)に皆川周太夫に、虻田~札幌~石狩間道路、勇払~石狩間道路などの明治2年(1869)には、開拓使が置かれ、本格的に札幌経営がはじまると、東本願寺の協力や雇北海道庁時代になると開発事業も本格化し、奥地開発の方向に向い、本道の内部上川・帯広・函館に代るべき北海道の首都として札幌地方を設営するには、道路の開削が先決問題であった。
開削計画を立てさせ、文化4年(1807)には、美々~千歳間、千歳~漁太間の道路を開削したが、後には積極的に道路開削計画を立て、松浦武四郎に道路線適地探検調査をさせ、場所請負人に命じて安政3年(1856)から5箇年をかけて、石狩地方と函館ー勇払間などの連絡路を開削させた。
外人の献策指導によって、札幌~室蘭間、札幌~小樽間、札幌~石狩間などの馬車道路も開削され、札幌を中心としてつぎつぎに開削または改修されていった。
東部・北部海岸根室・釧路方面、稚内・網走方面、西海岸留萌・天塩方面などとの幹線道路の開削も高まってきたが、大正8年(1919)には道路法が発布され、道路行政の画期的改革が行われた。
したがって、国および道庁の道路政策と北海道拓殖計画によって札幌付近の国道・地方費道・準地方費道なども次第に拡張改修され、また新路線の開削の認定も行われた。
市道は、従来里道と称していたもので、道路法によって管理者は市(町村)長とし、経費負担は開削または、大改修のみ10箇年間拓殖費負担となった。しかし以前は市街里道も開拓使時代から引継ぎ国費で開削し、国で管理してきたものである。
札幌市内の道路延長を明治42年(1909)には、国道・地方費道・準地方道および市道の総延長は、9kmあり、これが昭和元年(1926)には195. 8kmに伸長した。また、当時の人口は、明治42年で73, 221人、昭和元年では、154, 672人に増加した。
(2) 釧路市の土木行政
北海道に開拓使がおかれ、北海道開拓は試行錯誤しながら開拓の行政機構も変遷し、明治19年(1886) 1 月北海道庁が誕生した。これに先立って北海道内には三つの集治監が設置され、囚人たちが資本の進出をうながす産業基盤の整備に苛酷な労働を強制させられていた。
釧路には釧路集治監の設置によって、東北海道の幹線道路開削をはじめとする産業基盤の整備が緒につき、この基盤整備が民間資本の進出を招来した。釧路集治監の設置と民間の進出は、釧路地方の市街地形成に大きな転機をもたらした。茫々たる熊牛原野の一角に標茶市街を形成し、釧路はこれまでの昆布漁村から脱皮して、釧路川を河口港とする流通港となり釧路川を導管として内陸奥地と結節した。市街地も徐々に拡大し、釧路川への架橋は市街化の方向を西北方向(西幣舞)に発展した。また、戸口の増加と市街地の拡大は釧路の行政的地位を高め、釧路国の行政も厚岸から釧路へその中心を移し、やがて十勝国も管下に包括するようになった。
明治34年(1901) 3月には、北海道地方費法、北海道会法が公布され、また北海道区制、北海道一、二級町村制も施行され、ようやく府県、市町村に準じた地方自治制度が認められ、国政参加への道も、明治37年(1904)衆議員議員選挙を通じて開かれた。
交通関係では、明治29年(1896)北海道鉄道敷設法の設定によって官設鉄道の敷設が具体化し、旭Jlに 釧路を基点とする釧路線が開始され、釧路は道東開拓に際して鉄道交通の拠点となった。
その後、重化学工業および軽工業でも産業資本が確立し、日本経済の発展は北海道でも人口の増加に対する食糧供給基地、産業資本に対する原料供給と市場の造成という使命を負わせ、この要請に応ずる施策として「北海道第一期拓殖計画」が策定され、この政策に支援されて生産部門とくに鉱工業に対する独占資本の北海道進出がめだった。
また、釧路~函館間の鉄道開通によって、釧路の交通運輸に果す役割は倍加し、製紙工場の操業および輸出枕木材の需要の伸びは釧路地方に本格的な林業を成立させ、漁業の振興、石炭採堀の活発化と相まって、釧路港への依存度はますます加わり、釧路港修築が決定し道東政経の中心たる地位は不動となった。このため釧路の町勢はしだいに伸び急速に市街地も発展した。そして、大正9年(1920)町民待望の区制が施行され、都市整備の必要性も増大していった。明治20年(1887)から昭和2年(1927)までの釧路の人口と戸数および大正9年において釧路に設置されていた行政諸機関を示すと次のとおりである。このほか、釧路町における行政組織は大正末期までの文献には見当たらない。表2-2-5 に釧路の人口と世帯数および表2-2-6 に釧路における行政機関(大正9年現在)を示す。
年 度
表2一2一5 人口および世帯数
世 帯 数
人
口
世帯数 増加数 人 口 増 加
明治20年
25年
30年
35年
40年
45年
421
999
1,602
2,431
3,546
5,749
大正6年 6,695
11年
8,494
昭和2年 8,535
2,120
678
603
829
1,115
2,203
946
1,800
5,475
9,999
10,760
312
27,749
31,480
3,355
4,524
761
5,552
11,437
3,731
42,673 11,193
40
42,504
A
表2-2 一6 釧路における行政機関
庁
釧路運輸事務所
名
所 在 地
圧
169
名
(大正9年現在〉
所 在 地
釧路村字西幣舞 北海道建設事務所根室線エ事区 釧路村字西幣舞
釧路保線事務所
釧路村字西幣舞 釧路郵便局
北海道鉄道管理局釧路工場 釧路村字西幣舞 釧路電信電話技術官駐在所
鉄道院釧路支倉庫
釧路機関庫
釧路保線区
釧路駅
大楽毛駅
北海道庁釧路支庁
釧路警察署
釧路築港事務所
釧路営林区署
釧路土木派出所
釧路村字西幣舞 釧路税関支署
釧路村字西幣舞 釧路埼燈台
釧路村字西幣舞 釧路中学校
釧路村字西幣舞 十勝監獄釧路分監
釧路村字大楽毛 釧路高等女学校
浦
幣
見
舞
町 釧路聯隊区司令部
町 釧路地方裁判所
釧路村字知人 同検事局
幣
舞
舞
町 釧路区裁判所
幣
孔海道永産試験場釧路支場 浦 見 町 釧路税務署
町 同検事局
釧路測候所
幣
舞
町 函館専売支局釧路出張所
入
入
浦
米
舟
舟
見
町
町
町
町
釧路村字春採
浦
見
町
釧路村字茂尻矢
浦
浦
浦
浦
浦
浦
洲
見
見
見
見
見
見
崎
町
町
町
町
町
町
町
北海道庁初期時代の道路行政としては、道東地方では、三県一局時代の根室県によって定められた仮定県道を基礎として、釧路地方の幹線道路は、釧路~厚岸~標茶~網走の道路が明マ台21年(1888)に起工し、明マ台22年にしゅんエしている。この工事には、標茶集治監の囚人が使役された。
その後、明治34年(1901)から明治43年(1910)にいたる北海道拓殖10箇年計画が策定され、この計画では、国道・県道・里道・市街道路などの橋梁の新設、改良と改良後5箇年間の維持費は国費で負担し、その後は、国道、県道およびこれに属するものは、地方費、その他の道路は市町村費で維持修繕するものであった。この計画と同時に道庁第六部に国道工事課をおき、札幌をはじめとして、釧路にも国費工事課派出所を設けて土木行政を推進した。
明治43年(1910)第一期拓殖計画とともに創設された釧路土木事務所所管の釧路支庁における大正5年(1916)までの工事状況は、表2-2-7 のとおりである。大正8年(1919)には、道路法が公布され、従来の道路が国道・地方費道・準地方費道・区市道・町村道に区分され、その費用負担に一部拓殖費をもって支弁できる特例が設けられた。
大正8年の道路法公布当時の釧路市街の道路網は、図2-2-4 に示すとおりである。その後大正11年(1922) 8月に北海道に市制が施行され、札幌をはじめとし、釧路・函館・小樽・旭川・室蘭の6市が誕生した。さらに大正12年(1923) 4月地方自治制度の大改革で、戸長役場制度の廃止などがあり、北海道内には、6市、一級町村99および二級町村155となる。
また、大正8年の道路法および北海道道路令による地方費道は、釧路市に関係する路線としては、札幌根室線と網走釧路港線の2路線が設定され、準地方費道には、釧路網走線・釧路鳥取線・釧路昆布森線・釧路浜中線および釧路足寄線の5路線が認定された。
表2一2一7 釧路支庁管内道路I事情況
項目
年次
里道新設 二L 費 里道改良 工 費 県道改良 工 費
(kin)
船 船 柾 k 1 E * i E ) 1 E * I E
叫 叫 酔 2 碑 件 叫
(kin)
16.3
38.2- 1
32.9
24.8
30.9
27.8
(円)
12,789
23,340
21,350
25,718
18,609 - 907
22,951
4.2
10.1
0.9
29.8
17.4
(円)
3,822 - 637
1,542
19,062
13,998
(kin)
二
14.0
(円)
;
16,313
(古川忠一郎「釧路発達史」より)
75
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図2-2-4 釧 路 市 街 図(大正9年3月)
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2-3 法制・制度
‘の時代の迫路h関うる法制・制度の特筆,べきものとしては、明治34年(1901)北海道地方費法(法律第3号)の成立により、北海道地方費は北海道地方税、その他地方費に属する収入を以て支弁されることになったことと、大正8年(1919)に道路法(法律第58号)が成立したことである。
この旧道路法の成立にともなって、北海道には大正8年11月25日に北海道道路令(勅令第473号)が公布され、従来は計画上で設定されていた北海道に関する特例がここにはじめて法令上のものとして規定されることとなった。
以上の二つの法律がこの時代の道路に関する初の整備された法体系として、道路行政の基本法として機能することとなった。
2-3 一1 旧道路法の制定
(1) 旧道路法の制定までの経緯
わが国の道路に関する法制は、大宝令(701)において確立され、養老律令(708)延喜式(927)など
76
によって順次整備されていったといわれ、奈良・平安朝時代には、東海道・中山道・北国街道・
山陰道・山陽道・南海道・大和紀伊道などの道路網も整備された。その後、江戸時代の享保元年
(1716)には東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中の5街道の制度が設けられ、駅伝や
一里塚も整備されて旅行の便がはかられた。
明治政府になると、富国強兵・殖産興業を国是とし、交通政策の面では鉄道と海運の育成に主
眼を置いたため、道路の整備は、自動車の未発達もあって軽視されがちであったが、明治6年8
月には、大蔵省番外達により河港道路修築規則が制定された。同規則では、東海道・中山道のよ
うな全国の大動脈となるものを一等道路、村落・市街の街路を大動脈に接続する脇往還・枝道の
類を二等道路として、一等および二等道路の工事に要する費用は、国が6割、地方が4割を負担
するものとした。その後明治9年(1876) 6月8日太政官達第60号により、先の河港道路修築規則
による道路の等級が廃止され、新たに道路を分類して国道・県道‘里道とし、それぞれに一等、
二等の等級を設けるとともに、国道では7-S 間(12. 73m -9. 09m)、県道では5-4 間(9.09
7.27 m)を道幅の標準として定めた。さらに明治18年(1885) 1月6日布達第1号によって国道の等
級が廃止され、道幅は幅員4間(7. 27m)以上、並木・排水敷3間(5. 45m)以上、総幅7間(12. 73
m)以上と改められ、同年2月24日内務省告示第6号によって、1号~44号の国道路線が定められ
た。
従来、わが国の道路交通は徒歩・乗馬または駕篭によっていたが、明治中期には大型荷馬車が
普及し、道路の損傷も著しくなって、道路整備の必要性が痛感され、明治23年以降数度にわたり
道路法案が帝国議会に提案されたが成立するに至らなかった。
(2) 旧道路法の制定
大正3年(1914)勃発した第一次世界大戦は、わが国経済の飛躍的発展を促し、国内における輸
送需要の急増と自動車が徐々に普及しはじめ、道路整備の必要性を一段と高め、ついに大正7年
(1918)第41回帝国議会において道路法が成立し、翌8年(1919) 4月10日法律第58号として、公布
され、大正9年(1920) 4月1日より施行されることになったが、この1日道路法(現在の道路法に対
して用いる)は、道路の種類・等級・路線認定の規準・道路の管理・道路に関する費用の負担・監
督および罰則などに関する規定をもち、道路に関する初の整備された法体系として、その後30余
年間にわたり道路行政の基本法として機能することとなった。
旧道路法において道路と称するものは、一般交通の用に供する道路であって、行政庁において
その路線を認定したものを第1条で規定し、道路法を適用すべき道路の範囲であるがために、つ
ぎの条件を具備することとなっている。それは、一般交通の用に供する道路であることと、行政
庁において路線の認定をしたものであること。以上の条件を欠くときは、道路法の適用を受けな
いとなっていた。また旧道路法では、道路の種類は国道、府県道、郡道(大正11年郡制の廃止にと
もない削除)、市道、町村道に区分される(第8条)。また、これらの道路の管理は、国道は府県知
事、その他の道路はその路線の認定者が管理する。ただし勅令をもって指定する市においては、
その市内の国道および府県道は市長が管理となる(第17条)。
77
道路の新設、 改築、修繕および維持管理は、管理者がこれを行う(第20条)とし、また道路に
関する費用の負担は、主として軍事の目的を有する国道その他主務大臣の指定する国道の新設ま
たは改築に要する費用は国庫の負担とする。前項に規定する以外の道路に関する費用は、管理者
である行政庁の統轄する公共団体の負担とする(第33条)。さらに第33条第2項に規定する費用で
国道の新設または改築に要するものは、その一部を国庫より補助することを得、特別の事由があ
る場合において府県道以下の道路の新設または改築に要する費用と同じ(第35条)と規定され、北
海道については、同法の第61条に道路の種類、等級および路線の認定ならびに第33条から第36条
(道路に関する費用負担)、第43条(負担金の収入)、第44条(占用料等の収入)および第52条(国道以
外の路線認定、道路の区域決定、道路の新設または改築の実施などに関する監督官庁の認可)の規
定に関し、勅令を以て特別の規定によるとして、北海道の特例に関する規定を設けた。
北海道は未開発地であり、この時15年計画(第一期拓殖計画)の道路網の整備途上にあっただけ
に北海道道路令公布により、本道の道路行政の基本として道路整備に大きく貢献した。なお、こ
の旧道路法は、7章および第68箇条文からなっている。
(3) 北海道における道路の特例
旧道路法は、北海道の道路に適用されたことはもちろんであるが、北海道の官治および自治の
行政組織は府県と異なり、開拓途上にあった特殊性を考慮し、その道路費用は特に国において負
担とすることが適当で、これらを特別の定めとした。旧道路法のうち、北海道に関する条文は、
第60条「本法中府県、府県知事、府県庁又ハ府県道ニ関スル規定ハ北海道ニ付テハ
道、道庁長官、道庁又ハ地方費道ニ関シ市、支庁、市役所又ハ市道ニ関ス
ル規定ハ北海道ニ付テハ区、区長、区役所又ハ區道ニ関シ郡役所ニ関スル
規定ノ司ヒ海道ニ付テハ支庁、島ニ付テハ島庁ニ関シ之ヲ適用ス」
第61条「北海道ニ付テハ道路ノ種類、等級及路線ノ認定竝第33条乃至第36条、第43
条、第44条及第52条ノ規定了閃シ勅令ヲ以テ特別ノ定ヲ為スコトヲ得」
と規定されている。つづいて同年11月25日に勅令第473号で北海道道路令が公布され、この中で
は、道路の種類、道路の等級、道路に関する費用および監督に関する規定があり、北海道には準
地方費道が設けられた。
(4)北海道道路令
これは前述した特例をうけて、一大正8年(1919)11月25日に公布され、道路法の施行日より施行
され、その条文は、第15箇条からなっている。
すなわち、北海道道路令では、道路の種類を国道・地方費道・準地方費道・区道(大正11年市制
施行により市道となる)および町村道とし、費用の負担については、「国道ニ関スル費用ハ当分ノ
内期間ヲ定メ国庫ノ負担トシ拓殖費ョリ支弁スルコトヲ得(第5条)」 として、国道については新
設または改築に限らず維持修繕等国道に関する費用はすべて国庫の負担とするとともに、その他
の道路についても拓殖上必要なものについては同様の取扱いができることとした。また、国庫よ
りの補助については、 「地方費道以下ノ道路ニ関スル工事ニシテ道庁長官拓殖ノ為必要ト認ムル
78
モノノ費用ニ対シテハ当分ノ内其ノ全部又ハー部ヲ国庫ョリ補助シ拓殖費ョリ支弁スルコトヲ得
(第8条)」 として拓殖上必要なものに対する国庫補助の道を大きく拡げた。なお旧道路法による
国道路線は、大正9年(1920) 4月1日内務省告示第28号によって、全国で38路線の認定が行われ、
そのうち北海道に関する路線としては、4号・27号および28号国道の3路線が認定された。(この
国道路線は、昭和27年6月の新道路法の公布まで継続され、新道路法では、5号・12号・36号に
改変された。)3路線の起終点および主な経過地は表2-3-1 に示すとおりである。
表2一3-1 北海道の国道認定路線一覧表
国道番号
4
号
起 点 お よ び 終 点
東京市より北海道庁所在地に達する路線
27 号 東京市より第七師団司令部所在地(旭川区)に
達する路線(甲)
28 号 東京市より第七師団司令部所在地(旭川区)に
達する路線(乙)
主 な 経 過 地
(東京市日本橋区本石町三丁目経由)
東京府南足立郡千住町、字都宮市、福
島市、宮城県名取郡岩沼町、仙台市、
盛岡市、青森市、函館区、小樽区
4 号路線
(札幌区北1条通において分岐)
北海道空知郡岩見沢町
4 号路線
(青森港において分岐)室蘭区、北海
道空知郡栗沢村(清眞布経由)岩見沢
町、27号路線
また、このとき、北海道内には地方費道札幌江差線など31路線および準地方費道札幌留萌線な
ど87路線が大正9年4月1日北海道庁告示第241号によって、それぞれ認定された。 (北海道道
路令)
つぎに北海道道路令の条文を以下に示す。
北海道道路令 大正8年11月25日〔勅令第473号〕
第1条 北海道ニハ準地方費道ヲ設ク準地方費道ノ等級ハ地方費道ニ次クモノトス
第2条 準地方費道ノ路線ハ左ノ路線ニ就キ道庁長官之ヲ認定ス
1
支庁ノ所在地ョリ其ノ管轄区域ト管轄区域ヲ隣接スル支庁又ハ区役所ノ所在
地ニ達スル路線
2
3
4
5
6
7
支庁ノ所在地ョリ其ノ管内町村役場所在地ニ達スル路線
支庁ノ所在地ョリ其ノ管内枢要ノ地、港津又ハ鉄道停車場ニ達スル路線
支庁管内枢要ノ地ョリ之ト密接ノ関係ヲ有スル枢要ノ地、港津又ハ鉄道停車
場ニ達スル路線
支庁管内枢要ノ港津ョリ之ト密接ノ関係ヲ有スル枢要ノ地又ハ鉄道停車場ニ
達スル路線
支庁管内枢要ノ鉄道停車場ョリ之ト密接ノ関係ヲ有スル枢要ノ地又ハ港津ニ
達スル路線
数町村ヲ連結スル幹線ニシテ其ノ沿線地方ト密接ノ関係ヲ有スル枢要ノ地、
港津又ハ鉄道停車場ニ達スル路線
79
8
地方開発ノ為必要ニシテ將來前各号ノーニ該当スヘキ路線
第3条 準地方費道ノ路線ノ認定又ハ其ノ変更若ハ廃止ヲ為サムトスルトキハ道会
ニ之ヲ諮問スヘシ
但シ重要ナラサル変更又ハ廃止ニ付テハ此ノ限ニ在ラス
第4条 準地方費道ノ路線ノ認定又ハ其ノ変更若ハ廃止ヲ為シタルトキハ地方ノ公
布式ニ依リ之ヲ告示スヘシ
前項ノ告示ニハ路線名竝路線ノ起点終点及重要ナル経過地ヲ表示スヘシ
第5条 国道ニ関スル費用ハ当分ノ内国庫ノ負担トシ拓殖費ョリ支弁ス
準地方費道ニ関スル費用ハ地方費ノ負担トス
地方費道以下ノ道路ニシテ道庁長官拓殖ノ為必要ト認ムルモノニ関スル費用ハ当
分ノ内期間ヲ定メ国庫ノ負担トシ拓殖費ョリ支弁スルコトヲ得
第6条 前条ノ場合ニ於テ道路ト他ノ工作物ト効用ヲ兼ヌルモノナルトキハ其ノ費
用ノ負担ニ付テハ道路法第34条ノ例ニ依ル
第7条 第5条第3項ノ規定ニ依リ拓殖費ョリ支弁スル道路及其ノ支弁期間ハ地方
ノ公布式ニ依リ之ヲ告示スヘシ
第8条 地方費道以下ノ道路ニ関スル工事ニシテ道庁長官拓殖ノ為必要ト認ムルモ
ノノ費用ニ対シテハ当分ノ内其ノ全部又ハー部ヲ国庫ョリ補助シ拓殖費ョリ支弁
スルコトヲ得
第9条 道路ニ関スル費用ノ負担金ハ費用負担者力道路ニ関スル工事ノ執行又ハ道
路ノ維持ヲ為ス場合ヲ除クノ外第5条第1項及第3項ノ道路ニ要スルモノニ在リ
テハ国庫、第5条第2項ノ道路ニ要スルモノニ在リテハ地方費ノ收入トス
道路法第43条第2項ノ規定ハ前項ノ場合ニ之ヲ準用ス
道路法第41条ノ規定ニ係ル負担金ハ前2項ノ例ー依リ国庫又ハ地力費ノ」牧入ト人
第10条 第5条第1項又ハ第3項ノ規定ニ依リ拓殖費ョリ支弁スル道路ノ占用料其
ノ他其ノ道路ョリ生スル收益ハ国庫ノ収入トス但シ道路法第26条ノ規定ニ依リ許
可又ハ承認ヲ得テ徴收スル橋銭又ハ渡銭ハ其ノ許可又ハ承認ヲ得タル者ノ收入ト
ス
第11条 道路法第26条又ハ第27条ノ規定ニ依リ行政庁ニ於テ徴收スル橋銭又ハ渡銭
ハ同法第44条及前条ノ規定ニ拘ラス当該行政庁ハ其ノ橋梁又ハ渡船場ノ取扱ヲ命
シタル者ノ收入ト為スコトヲ得
第12条 道路法及之ニ基キテ発スル命令中町村長、町村役場、町村会又ハ町村ニ関
スル規定ハ戸長、戸長役場、町村総代人又ハ戸長所轄区域ニ関シ之ヲ適用ス
附
第13条 本令ハ道路法施行ノ日ョリ之ヲ施行ス
80
第14条 本令施行ノ際認定スヘキ準地方費道ノ路線ニ関シ預メ道会ニ諮問シタルモ
ノハ本令ニ依リ諮問シタルモノト看做ス
第15条 第5条第3項ノ規定ニ依リ拓殖費ョリ費用ヲ支弁スル道路ニ付テハ本令施
行ノ際ニ限リ第7条ノ規定ニ拘ラス道庁長官ノ定ムル道路調書ヲ公衆ノ縱覧ニ供
シ其ノ旨ヲ告示スルコトヲ得
以 上
(5) 道路構造令
旧道路法第31条により、道路の構造に関する件を定むとして、大正8年12月6日(内務省令第24
号)で条文第19箇条が道路法施行の日より施行された。その条文を示すと次のとおりである。これ
は、わが国最初の道路構造令である。
第1条 国道ノ有効幅員ハ四間以上ト為スヘシ
山地其ノ他特殊ノ箇所ニ限リ其ノ幅員ヲー間以内縮小スルコ
第2条 府県道ノ有効幅員ハ三間以上ト為スヘシ
山地其ノ他特殊ノ箇所ニ限リ其ノ幅員ヲ三尺以内縮小スルコ
トヲ得
トヲ得
第3条 主要ナル郡道及市道ノ有効幅員ハ三間以上ト為スヘシ
山地其ノ他特殊ノ箇所ニ限リ其ノ幅員ヲー間以内縮小スルコ
トヲ得
第4条 主要ナル町村道ノ有効幅員ハ二間以上ト為スヘシ
山地其ノ他特殊ノ箇所ニ限リ其ノ幅員ヲ三尺以内縮小スルコ
トヲ得
第5条 前各条第2項ノ規定ニ依リ前各条第1項ニ規定スル最小幅員ヲ縮小スルト
キハ相当距離毎ニ待避所ヲ設クヘシ
第6条 国道ノ勾配ハ三十分ノー、府県道ノ勾配ハ二十五分ーョリ急ナルコトヲ得
ス
特殊ノ箇所ニ於テハ前項勾配ヲ十五分一迄、山地ニシテ巳ムヲ得サル箇所ニ於テ
ハ長四十間以内ニ限リ十分一迄ト為スコトヲ得
道路ノ勾配力変移スル箇所ニ於テハ相当ノ縱断曲線ヲ設クヘシ
坂路長キトキハ相当ノ距離毎ニ五十分ーョリ緩ナル勾配ヲ有スル相当ノ区間ヲ設
クヘシ
第7条 国道及府県道ノ屈曲部中心線ノ半径ハ三十間以上ト為スヘシ但シ特殊ノ箇
所ニ於テハ六間迄之ヲ縮小スルコトヲ得
人家連担又ハ連担スヘキ箇所ノ屈曲部ニ於ケル凸角ハ相当之ヲ翦除シ前項ノ規定
ニ依ラサルコトヲ得
半径二十間以下ノ曲線ハ背向直接ヲ避ケ兩曲線間ニ相当ノ直線ヲ設クヘシ
第8条 国道及府県道ノ車道ノ路面ノ構造ハ車輪ノ輪帶幅一寸ニ付百貫ノ荷重ニ耐
フルヲ標準ト為スヘシ歩車道ヲ区別セサル箇所ニ於テハ交通ノ情勢ニ依リ道路幅
員ノー部ニ限リ前項ニ規定スル構造ニ依ラサルコトヲ得
81
第9条 国道及府県道ノ側溝ノ深及底幅ハー尺以上ト為スヘシ
第10条 国道及府県道ノ路端ノ高ハ特殊ノ箇所ヲ除クノ外水流水面ノ最高水位ョリ
一尺以上ト為スヘシ
第11条 国道及府県道ノ隧道ノ有効幅員ハ三間半以上ト為スヘシ但シ接続道路ノ有
効幅員ニ二尺ヲ加ヘタル幅員迄之ヲ縮小スルコトヲ得
随道内ノ高ハ路面ョリ十五尺以上ト為スヘシ但シ特殊ノ箇所ニ限リ十三尺迄之ヲ
縮小スルコトヲ得
第12条 国道及府県道ノ橋梁ノ有効幅員ハ橋長四間未滿ノ場合ハ道路ノ有効幅員ト
同ート為シ橋長四間以上ノ場合ハ三間以上ト為スヘシ但シ接続道路ノ有効幅員迄
之ヲ縮小スルコトヲ得
第13条 国道及府県道ノ橋梁ハ左ニ掲クモノノ通過ニ耐フル構造ト為スヘシ
橋面一平方尺ニ付十二貫ニ相当スル群衆但シ径間ニ応シ相当軽減スルコトヲ得
国道ニ在リテハ二千百貫ノ車両十ニ米噸転圧機
府県道ニ在リテハ千七百貫ノ車両但シ主要ナル区間ニ於テハ国道ニ準スヘシ
第14条 第11条第2項ノ規定ハ国道及府県道中上部横構ヲ有スル橋梁ニ之ヲ準用ス
道路力橋下ヲ通過スル場合ニ付亦同シ
第15条 前九条中府県道ニ関スル規定ハ主要ナル郡道、市道及町村道ニ関シ之ヲ準
用ス
第16条 本令中府県道ニ関スル規定ハ地方費道ニ、郡道又ハ市道ニ関スル規定ハ主
要ナル準地方費道又ハ区道ニ関シ之ヲ適用ス但シ地方費道ノ有効幅員ハ山地其ノ
他特殊ノ箇所ニ限リ第2条第1項ニ規定スル幅員ヲー間以内縮小スルコトヲ得
第17条 北海道ニ於ケル橋梁ノ有効幅員ハ橋長四間以上ノ木橋ニ限リ国道ニ在リテ
ハ十五尺迄地方費道又ハ主要ナル準地方費道、区道、町村道ニ在リテハ十尺迄之
フ縮小スルコトフ得
第18条 交通ノ情勢ニ依リ監督官庁ノ認可ヲ得テ前各条ノ規定に依ラサルコトヲ得
第19条 街路ノ構造ニ付テハ特別ノ定ヲ為スコトヲ得
附
則
本令ハ道路法施行ノ日ョリ施行ス
その他の道路関係法令
以 上
明治後期大正時代(明治34年~大正15年)における道路関係に関する法制・制度としては、駅
逓、渡船、街路および軌道に関する法令などがあり、その概要をあげると次のとおりである。
(1) 駅逓に関する法令
明治後期に入ってから駅逓に関する法令で主なものは見当らないが、駅逓所の施設および取扱
82
に関して、明治38年(1905) 8月15日の駅逓所規則(北海道庁訓令第84号)により、駅逓所は「人馬
車継立所又ハ宿屋ノ必要アル場所ニシテ、ソノ営業ナキトキ若ハソノ営業者アルモ公益上必要ア
リト認ムルトキ之ヲ設置スル」(第1条)「駅逓所ノ建物及敷地ハ官設スル」モ場合ニョリ「私人
ノ所有又ハ使用ニ係ル建物又ハ敷地ヲ充用スル」コトヲ得(第10条)又「駅逓所ニハ必要ニ応シ田
畑地牧場及馬匹ヲ官設スルコトヲ得。」(第11条)駅逓所ノ建物ノ築造ニハ、一定ノ標準アリ、建
物以外ノ官設物件ハ次ノ制限ニ依ル」(第12条)と定められている。
(133. 65 げ)
敷 地
駅 舎 木造平屋建屋根柾葺 標準建坪 40. 5 坪
1,000 坪以内 (3, 300‘以内)
畑 地
30, 000 坪以内 (99, 000 げ以内)
牧 場
馬 匹
150, 000 坪以内(495, 000 げ以内)
10 頭以内(官馬生産ノ子馬ハ、コノ制限
ニ依ラサルコトヲ得)
このほか、駅逓所の取扱人についても第3条、第4条および第9条に駅逓取扱人、駅逓取扱人
の資格、月額などが規定され、その取扱人として満5箇年以上勤続し、かつ功労顕著な者に対し
ては、明治36年(1903) 3月駅舎(付属物件共)附属用地および馬匹などを無償にて付与す。(勅令第
22号)と定められている。
また、駅逓所の名称については、明治初期から昭和23年に至るまでに本陣、旅篭屋並、旅篭屋、
駅場、駅逓扱所、人馬車継立所、駅、駅逓所、官設駅逓所などの名称が使われていた。当時の駅
逓所写真を写2一3一1に、また明治9年に使用された駅逓課のスタンプを図2一3-1 に示す。
明治後期および大正末期における駅逓所の設置状況をみると、明治44年末で238箇所、大正14
年末で248箇所の駅逓所が全道に設置されていた。これらの設置に対する計画は、開拓使10年計
画、第一期拓殖計画の中に費用などについて計画的に計上されていた。
驛遍課
室蘭港
民事局
当時の駅逓所の全景
鞅
沙
流
図2-3-1 明治9年における駅逓課のスタンプ
83
(2) 渡船に関する法令
この時代における渡船の法令としては、大正4年(1915)渡船取締規程(北海道庁訓令第13号)が
ある。これは、国費、地方費支弁に属する渡船の渡船場設備の全部、若しくは一部および渡船取
扱人手当を国費または地方費にて支弁し、渡船賃を徴収する規程である。この規程は、明治31年
10月の北海道庁訓令を改正したものである。
その後、大正8年の旧道路法の施行により、大正9年(1920) 7月28日内務省令第23号で、 「賃
取橋梁及渡船場設置ニ関スル件」が同年8月1日より施行されている。なお、旧道路法第2条、
第3条、第26条および第27条に渡船場に関する条文がある。この条文はつぎのとおりである。
第2条 左ニ掲クルモノハ道路ノ附属物トシ道路ニ関スル本法ノ規定ニ從フ但シ命
令ヲ以テ特別ノ定ヲ為スコト得
1
道路ヲ接続スル橋梁及渡船場
2
3
道路ニ附属スル溝、並木、支壁、棚、道路元標、里程標及道路標識
道路ニ接スル道路修理用材料ノ常置場
前各号ノ外命令ヲ以テ道路ノ附属物ト定メタルモノ
4
第3条 本法ニ於テ橋梁又ハ渡船場ト称スルハ前条第一号ノ橋梁又ハ渡船場を謂フ
本法ニ於テ渡船場ト称スルハ渡船ヲ包含ス
第26条 管理者ニ非サル者ハ管理者ノ許可又ハ承認ヲ得テー定ノ期問橋銭又ハ渡銭
ヲ徴收スルコトヲ得ル橋梁又ハ渡船場ヲ設クルコトヲ得
前項ノ許可又ハ承認ヲ得タル者ハ徴收期間内橋梁又ハ渡船場ノ維持及修繕ヲ為ス
ヘシ
第27条 管理者ハ特別ノ事由アル場合ニ限リ橋銭又ハ渡銭ヲ徴收スル橋梁又ハ渡船
場ヲ設クルコトヲ得
負取橋梁及渡船場設置ー関スル件 人正9年7月28日(内務省令第23号)
道路法ニ依リ橋銭又ハ渡銭ヲ徴收スルコトヲ得ル橋梁又ハ渡船場設置ニ関スル取
扱方左ノ通定ム
第1条 道路法第26条ノ規定ニ依ル申請書ニハ左ノ図書ヲ添付スヘシ
1
地形図 ー接続道路其ノ他ノ道、
、路系統号記入スヘシー
2
3
4
5
6
7
工事方法書及図面 「橋梁縱断面図又ハ渡船位置河川横断面図ニノ、接続道路1
tトノ取付関係、河底、平水位及最高水位ヲモ記入スヘシ」
工費予算書
收支予算明細書
橋銭又ハ渡銭ノ額
徴收期間
元資銷却年次表
84
8
工事著手及竣功ノ年月日
第2条 道路法第52条第3号ノ規定ニ依ル認可申請書ニハ左ノ書類ヲ添付スヘシ
1
2
3
4
5
前条申請書及其ノ添付図書ノ謄本
道路法第20条及第27条ノ規定ニ依ルコトヲ得サル事由
申請人私人ナルトキハ地元公共団体ニ於テ之ヲ経営スルコトヲ得サル事由
(管理者ト地元公共団体トノ交渉顛末書ヲ添付スヘシ)
申請人私人ナルトキハ其ノ信用及資産ノ状態
許可又ハ承認ニ付スル条件
他ノ法令ニ依リ許可、認可其ノ他ノ手続ヲ要スルトキハ前項ノ認可申請ト同時
ニ管理者之ヲ為スヘシ
第3条 橋梁又ハ渡船場設置ノ許可承認ニ関シ道路法第52条但書ノ規定ニ基ク命令
ニ依リ監督官庁ノ認可ヲ要セサルモノハ処分ノ日ョリ十日内ニ申請書及附属図書
ノ謄本ヲ添付シ処理ノ要領ヲ監督官庁ニ報告スヘシ
第4条 橋梁又ハ渡船場ノ工事竣功シタルトキハ工費精算書ヲ添へ道路管理者ノ検
査ヲ受クヘシ
第5条 管理者ハ橋梁又ハ渡船場ノ工事其ノ他必要ト認ムル事項ヲ随時監査スヘシ
管理者ハ許可ヲ受ケタル者ニ説明ヲ求メ関係帳簿、書類、図面等ヲ検閲スルコト
ヲ得
第6条 管理者橋銭又ハ渡銭徴收期間中公益上ノ必要ニ依リ道路法第26条ノ規定ニ
依ル許可又ハ承認ヲ取消シタルトキハ元資銷却年次表ニ依ル未銷却額ヲ補償スへ
シ
道路法第26条ノ規定ニ依リ許可ヲ受ケタル者ハ国又ハ公共団体ョリ請求アリタル
トキハ許可ニ依リ生スル権利義務ノ移転ヲ拒ムコトヲ得ス此ノ場合ニ於テハ国又
ハ公共団体ハ前項ノ規定ニ依ル金額ヲ補償スヘシ
但シ協議ニ依リ之ニ異ナル補償金額ヲ定ムルコトヲ得
第7条 管理者橋銭又ハ渡銭徴收期間中公益上ノ必要ニ依リ橋銭又ハ渡銭ノ徴收ヲ
停止シタルトキハ收支予算明細書ヲ参酌シテ補償金額ヲ定ムヘシ
第8条 第1条ノ規定ハ道路法第27条ノ規定ニ依ル橋梁又ハ渡船場ノ設置ニ関スル
認可申請ニ之ヲ準用ス
附
本令ハ大正9年8月1日ョリ之ヲ施行ス
北海道第一期拓殖計画が進行することによって、従来の道路網が整備されるにともない、渡船
も橋梁に替る箇所が多くなり、道路行政上新設廃止の増減も行われた。拓殖計画では、当初2, 579
箇所の整備計画を必要とし、明治44年以降年に172箇所の整備を行う必要があった。
85
(3) 街路に関する法令
街路に関する法令としては、明治21年(1888) 8月東京市改正条例(勅令第62号)が制定された。
これが、わが国における近代的都市計画法制の端緒である。この条例は、市区改正を国の事業と
する一方、その費用は東京府の負担とした。この条例およびその付属命令は、大正7年(1918)に
は東京以外の大阪、名古屋、京都、横浜、神戸の各市にも準用されることとなった。そこで政府
は、大正7年都市計画調査会を設け、大正8年にはその調査結果に基づき、都市計画法および市
街地建築物法案を議会に提出し、 「都市計画法」 は同年4月4日法律第36号をもって、 「市街地
建築物法」は同日法律第37号をもって制定公布された。
この都市計画法によって、新たに制度化された主な内容は次のとおりである。①都市計画区を
指定したこと。②都市計画と都市計画事業を区別したことと、それぞれ一定の都市計画制限を設
けたこと。③地域地区制ないし用途地域制の創設。④土地区画整理制度の導入。⑤超過収用、工
作物収用の制度の新設。⑥受益者負担制度の創設。などであった。この都市計画法は、制定当初
は勅令で指定された大都市のみに適用されたが、大正12年(1923) 7月1日より札幌を初めとする
25の中都市にも適用されることになった。
また、都市計画法と関連が深い街路構造令は、道路法第31条の規定により街路の構造に関する
もの(第31条 道路ノ構造、維持、修繕及工事執行方法ニ関シテハ命令ヲ以テ之ヲ定ム)が、大
正8年(1919) 12月6 日内務省令第25号をもって施行された。街路構造令の条文を以下に示す。
第1条 本令ニ於テ街路ト稍スルハ地方長官ノ指定スル市内及市ニ準スヘキ地域内
ニ於ケル道路ヲ謂フ
第2条 本令ニ於テ広路ト稍スルハ二十四間以上、一等大路ト稍スルハ十二間以上、
二等大路ト稍スルハ六間以上、一等小路ト稍スルハ四間以上、二等小路ト稍スル
ハー間半以上ノ幅員ヲ有スル街路ヲ謂フ
弟3条 街路ハ早週及歩道ニ区別人ヘシ但シー等小路及一等小路ー在リTハ之ブ区
別セサルコトヲ得
街路ノ状況ニ依リ遊歩道ヲ設ケタルトキハ之ヲ歩道ニ兼用スルコトヲ得
広路ニハ必要アルトキハ高速車道又ハ自転車道ヲ設クヘシー等大路に付亦同シ
第4条 街路ノ各側歩道ノ幅員ハ特殊ノ箇所ヲ除クノ外其ノ街路ノ幅員ノ六分ーヲ
下ルコトヲ得ス
第5条 車道ノ勾配ハ特殊ノ箇所ヲ除クノ外三十分ーョリ急ナルコトヲ得ス
第6条 街路ノ屈曲部ニ曲線ヲ設クルトキハ特殊ノ箇所ヲ除クノ外其ノ中心線ノ半
径ハ五十間以-Lト爲スヘシ
第7条 主要ナル街路ノ路面ハ第三条ニ規定スル区別ニ從ヒ適当ナル材料ヲ以テ之
ヲ鋪装スヘシ
第8条 車道ハ鋪装ノ種類ニ応シ路面ノ排水ニ支障ナキ限度ニ於テ緩ナル横断勾配
ヲ附スヘシ側歩道ハ特殊ノ箇所ヲ除クノ外車道ニ向ヒ相当ノ横断勾配ヲ附スヘシ
86
第9条 歩道ハ車道ョリ相当之ヲ高クシ車道側ノ境界ニハ縁石ヲ設クヘシ
車道ノ兩側ニハ街渠ヲ設クヘシ
特殊ノ箇所ニ於テハ前2項ノ規定ニ依ラサルコトヲ得
第10条 街路ノ交会、屈曲其ノ他ノ箇所ニシテ交通上必要アル場合ニ於テハ廣場ヲ
設クヘシヲ
第11条 交通上必要アル箇所ノ街角ハ相当之ヲか除スヘシ
街角ニ於ケル歩道ノ外側ニハ相当ノ曲線ヲ設クヘシ
十字街、丁字街其ノ他ノ箇所ニシテ交通上必要アル場合ニ於テハ安全地帶又ハ連
絡地下道設クヘシ
第12条 橋詰ニ於ケル街路ノ幅員ハ必要ニ応シ相当之ヲ拡大スヘシ
第13条 遊歩道ニハ並木ヲ植栽スヘシ交通上支障ナキ場合ニ於テハ歩道ニ付亦同シ
街路ノ状況ニ依リ遊歩道ノ鋪装ノー部ヲ縮小シ之ヲ植樹帯、樹苑、花苑又ハ芝生
ト為スコトヲ得広場ニ付亦同シ
広路及一等大路ニハ必要アルトキハ植樹帯ヲ設クヘシ
第14条 隧道ノ有効幅員ハ六間以上ト為スヘシ但シ接続街路ノ幅員迄之ヲ縮小スル
コトヲ得
第15条 橋梁ノ有効幅員ハ橋長三十間以上ノモノニ在リテハ二等大路以上ハ街路ノ
幅員ノ三分二以上、一等小路ハ四間以上ト為シ其ノ他ノモノニ在リテハ街路ノ幅
員ト同ート為スノ\シ
第16条 主要ナル橋梁ハ不燃質耐久材料ヲ以テ之ヲ築造スヘシ
第17条 橋梁ハ左ニ掲クルモノノ通過ニ耐フル構造ト為スヘシ
橋面一平方尺ニ付十五貫ニ相当スル群衆但シ径間ニ応シ相当軽減スルコトヲ得
三千貫ノ車両、十五米噸輾圧機
第18条 交通ノ情勢ニ依リ監督官庁ノ認可ヲ得テ前条件ノ規定ニ依ラサルコトヲ得
附
本令ハ道路法施行ノ日ョリ之ヲ施行ス
(4) 軌道に関する法令
軌道に関する法令は、明治23年(1890)に軌道条例が公布されたのが最初で、明治後期以後大正
末期においては、大正10年(1921) 4月14日法律第76号を以て軌道法が制定され、一般交通の用に
供する軌道に関する規定で、軌道は特別の理由ある場合を除くほか、道路に敷設することなどを
定めている。条文は第33箇条からなっている。その後、大正12年(1923) 12月20日軌道法施行規則
が内務省鉄道省令として施行された。
(5) 鉄道に関する法令
北海道の鉄道の発達歴史は、全国的にみて歴史も古く、明マ台13年(1880)11月28日の手宮~札幌
間の開通後、大正元年(1912)までには、現在の函館本線、室蘭本線(室蘭~岩見沢間)、根室本線
87
(富良野~釧路間)、富良野線、宗谷本線(旭川~恩根内間)、留萌本線(深川~留萌間)、池北線お
よびタ張線が開通している。その後大正15年(1926)末期においては、北海道の主要地点のほとん
どが開通した。
明治末期および大正末期における営業マイル程をみると官鉄・民鉄を含め、それぞれ785. 8マ
イル(1,264. 6km)、 1,430.0マイル(2, 301. 4km)が開通し営業されていた。
この両時代において鉄道に関する法令についても数多く公布されているが、その主なものをあ
げると次のとおりである。明治39年(1906) 3月31日鉄道国有法公布(法律第14号)明治43年(1910)
4 月21日軽便鉄道法公布、大正8年(1919) 4月9日地方鉄道法公布(法律第52号)大正10年(1921)
4 月13日軌道法公布、大正11年(1922) 4月10日鉄道敷設法改正公布(全面改正)。
以上の公布された法令のうち、地方鉄道法についてその内容をみると、第1条に 「本法ハ軌道
条例ニ規定スルモノヲ除クノ外道府県其ノ他ノ公共団体又ハ私人ガ公衆ノ用ニ供スル為敷設スル
地方鉄道ニ之ヲ適用ス
地方鉄道業者力運送営業ノ為支線ヲ敷設スルトキハ公衆ノ用ニ供セサル場合ト雖本法ヲ適用ス
道府県其ノ他ノ公共団体又ハ私人力専用ニ供スル為敷設スル鉄道ニシテ政府ノ鉄道又ハ地方鉄
道ニ接続スルモノニ関スル規定ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム」 となっている。また、先に記述した北海
道の国鉄線路図を大正後期まで(大正15年)のものを図2-3 一2に示す。
り
◇
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脇方
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一紅葉山
‘・登川
内
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音威子府
「恩恨内
北見滝ノ上
川
川
川
内
l
旭I
!Lり
渚
中湧別
上士
田
図2-3-2 大正後期の国鉄線路図
走
ヒ見
」ヒ見相ま。
斜里
天宰 厚岸
謙撫
根室
88
3
昭和前期の法制・制度
3-1 行政機構
明治時代の道路は、主として人馬の交通を目的としたものが多く、道路行政に関する法令など
も少なく、その後、資本主義経済の成長にともなって、交通需要の要求を満すためには、あまり
にも不備であって明治末期には新道路法制定の機運がしだいに高まっていった。大正9年には、
わが国道路行政上画期的な道路法が施行され、つづいて関係法規の整備によって、以後30年間に
わたる道路行政の基礎が確立された。また、法の施行にともない、道路会議の設置ならびに道路
改良は長期計画の樹立によって、わが国の道路は、近代化への途がひらかれたが、改良計画樹立
後関東大震災によってざ折した。その後数次の計画が樹立されたが、その成果はあがらないまま
に太平洋戦争の時代に突入していった。
行政機構については、内務省が設置された明治6年(1873)以来、道路事業の増大にともない、
道路に関する中央行政機構がしだいに整備されてきたが、太平洋戦争が勃発した昭和16年(1941)
土木局と計画局が合体し、国土局が誕生した。国土局では従来の第一、第二技術課を廃止し、道
路に関する技術面も道路課が担当することとなり、道路課は道路行政の中心として機能を強めて
いった。この体制は内務省の解体(昭禾122年12月)に至るまで継続する。なお道路課の所管事務は
次のとおりである。内務省分課規程(昭和16年9月改正)によると、道路課は「①道路ニ関スル事
項、軌道ニ関スル事項、上水道、下水道ニ関スル事項、前号各関係工事ニ関スル事項、②自動車
道事業及自動車運輸事業ニ関スル事項、③本省直轄道路工事用船舶及重要機械器具、運用ニ関ス
ル事項」 となっている。
国土局には道路課のほか、総務・計画・河川および港湾の各課が設置されていた。しかし、太
平洋戦争中は、道路法戦時特例として昭和18年勅令第944号が制定され、旧道路法第52条の規定
により主務大臣の認可を受けるべきとされていた事項のうち、道路区域または沿道区域の決定、
請願工事の認可または承認、違法行為などに対する監督処分など一定の事項については、戦時中
の特殊性にかんがみ、認可を要しないことになった。また太平洋戦争中の予算・労務・資材など、
すべての面で悪条件のもとに放置され、酷使された道路は、まったく荒廃し骨材が露出したり、
穴だらけの悪路と化し昭和20年8月の終戦を迎えた。
一方北海道の行政は、明治2年に開拓使の設置、明治19年北海道庁が設置され、北海道の拓殖
および行政全般の事務が統一され、明治34年北海道会法ならびに北海道地方費法の制定によって、
自治行政は府県とほぽ同様の地方公共団体となった。
行政機構としては、本庁土木部のもとに土木事務所がおかれ、明治34年に北海道10年計画が実
施されたが、拓殖事業に要する経費の大部分は国庫より支出されていた。明治43年度より第一期
拓殖計画の実施に入り、15年間に道路延長は、約7, 000kmを新設し、その他の諸事業も促進された。
大正時代に入ると、大正8年に道路法制定によって、北海道は特例をうけ、北海道道路令を公布
89
し、準地方費道制および拓殖支弁が認められた。
その後、政府は第二期拓殖計画を樹立し、昭和2年度(1927)より20箇年で、総額9億6, 370万
円を投入する計画であったが、昭和初期の一般経済界の不況、凶作水害などによる年次財源の不
足をきたし、さらに太平洋戦争の影響により、予定の事業量の半ばを達成するに過ぎなかった。
第二期拓殖計画の前半(昭和2年~昭和13年)は、不況にともなう財源不足や緊縮財政などにより、
毎年の予算は計画のとおりには増加しなかった。しかし、物価の下落、昭和6年の失業救済費、
昭和7年~9年の農漁山村振興土木費の加算などによりその実績は金額、延長ともに計画を上回
った。この期間には、町村道の新設3, 068km に対し、改良は国道205km 、地方費道214km、 準地方費
道890蛔、町村道1, 850km、 計3, 559kmが実施 された。しかしこの改良の過半にあたる約2, 200kmは
救済工事で、なかには大規模な改良工事も含まれていたが、大部分は砂利敷を主とする簡易改良
にすぎなかった。
この年代の主要工事としては、札樽国道・日勝国道(黄金道路)・横断道路(弟子屈~阿寒)など
が開通し、幣舞橋・旭橋が架設され、河西橋(十勝大橋)が工事中であった。
第ニ期拓殖計画の後半(昭和14年~20年)は、昭和12年に日中戦争(日華事変)が勃発し、そ
の後太平洋戦争へと突入し、開拓予算はまったく積極性をかき、年次計画を無視して、当面必要
な事業処理をするに止まり、戦争遂行上必要と認められる事業のみに限られることになった。
この期間における道路の延長は、町村道新設54kmに対し、改良は国道20km、地方費道169 km、準
地方費道62km、町村道104km、 計355kmが実施されたに過ぎない。また大規模工事は、ほとんど行
われず継続費が認められた程度であった。しかし、昭和初期から始まった自動車交通にともなう
道路・橋梁技術の改善は進み、永久橋の架設や簡易舗装が普及し、セメントコンクリート舗装、
安定処理、木コンクリート橋などが実施された。こうして、明治2年、政府が北海道開発に着手
してから、昭和21年までの約80年間に約42, 000km の道路延長を完成させた。
3-1 一1 第二期拓殖計画時代の行政機構(昭和2年~昭和21年)
第一期拓殖計画終了とともに、第二期拓殖計画を樹立し、昭和2年(1927)以降20箇年にわたり、
総額9億6, 370万円の拓殖費が計画され、このうち道路橋梁費は2億2, 180万円が計上され、従来
の道路施設は、延長を主体としていたため、簡易な工法により築造したため、耐久力に乏しく、
毎年補修を加えてきたが、融雪期には悪路となり、移民の増加にともなう殖民原野と重要地区を
連絡する拓殖費支弁の道路の新設は、既成道路の改良程度で高度な技術工事はさけ、簡易的な土
工事が主体であった。表3一1-1 に戦前における道路延長の推移を示す。
道路の計画に対する道路事業の計画項目は、道路新設一道路改良・道路修繕・道路調査・道路
改良補助・駅逓および渡船に分かれ、その大要は以下に示すとおりである。
道路の新設は殖民原野の幹線および鉄道港湾その他重要な地区に連絡する道路の開削を行うもの
とし、その予定延長は13, 700kmであ る。
90
道路の改良は、国道その他拓殖
上重要なる既成道路中泥炭地もし
くは幅員が狭いため車馬の交通不
便な箇所を改良する。この改良予
定延長は2, 860km 、橋梁架設延長
34, 115mである。
道路の修繕は、国道地方道の全
線および町村道のうち国費開削後
10箇年を経過したものの維持修
繕、ならびにこれら路線に附属す
る橋梁の架換を行うものとする。
この20箇年間の修繕総予定延長は
表3一1-1 戦前における道路延長の推移表
区
開
拓
分
使
時
年
代
自至
三 県 ー 局 時 代
自至
道
庁
時
代
(1)北海道庁初期時代
自至
次
z 1 5
明I
、“ I
・I
ム口
年年
5 8
年年
1 9
現
年在
自 明治19年
至
(2)北海道10年計画時代
(3)第一期拓殖計画時代
自至
自
/1
//
‘ I
33年
4 3
3 4
年年
” 43年
至 昭和元年
I I
(4)第二期拓殖計画時代
自至
I!
年年
2 2 1
道 路 延 長
( k i n
) 3 4
1,202
5,460
12,643
39,351
42,998
328, 910kmであ る。
道路調査は、国道一地方費道の敷地調査の残程141kmの完成を期 し、1,205km に境界標を入れ、
道路敷地の整理を行う。
道路改良補助は、市町村支弁に属する市道・町村道の路面改良もしくは拡幅・こう配緩和など
の工事に対し各工事費の3割を補助する方針である。補助予定延長は市道78km、町村道は1, 570km
である。
これらの開発計画および主要施策の拓殖費の実績は17億2, 899万円で、計画の約2倍近い拓殖
費が費やされた。また、この時代に満州事変(昭和6年)、日中戦争(昭和12年)および太平洋戦争
が昭和16年にあり、4年後の昭和20年8月に終戦となる。戦後の翌年(1946)の北海道の人口は、
349万人余であった。
また、この時代は、北海道内にも昭和5年(1930)頃から自動車が普及しはじめ、自家用車235台、
営業用1, 153台、消防用100台と都市部を中心に増加していった。このため予算面もあったが、改
良は路面を主とし、橋梁は永久橋化に比重が増したが、財源難から進まず毎年計画改訂をしなけ
ればならなかった。そのため自動車の運行範囲も市街地を中心とした近郊、隣接町役場間などの
短区間で、長距離運行はトラックの一部が走った程度と営業車が高運賃で都市近郊を僅かに運行
した以外まったく不可能な状態で、例えば札幌~広島、札幌~石狩(当時の金額で約30円運行料金)
で、江別・小樽には行くことができず、冬期はもちろん積雪のため休業であった。
ここで第二期拓殖計画時代の開発計画と主要施策のうち道路事業について、第一期計画と比べ
進展したものの特色としては、道路規格の改善向上、永久橋の架設増の2点が第二期拓殖計画中
の道路事業の特色であった。
第二期拓殖計画を実施するための道庁の機構などはその時代の背景によって変遷していった。
大正15年(1926) 6月4 日勅令で道庁官制改正があり、道庁に学務部が設置され、長官官房・内務
部・学務部・拓殖部・警察部‘土木部(道路課一土地改良課・河川課・港湾課・建築課)の1官房
91
5部になる。
昭和2年(1927) 1 月に第二期拓殖計画(20箇年計画)は、閣議により 「北海道拓殖費に関する閣
議決定事項」を定める。昭和2年4月1日内務省告示で北海道庁官制改正があり、道庁に産業部
が設置され長官官房・内務部‘学務部・警察部・拓殖部‘土木部(道路課・土地改良課・河川課
・港湾課・建築課・都市計画課)産業部の1官房6部になる。
昭和2年6月13日訓令40号で道路調査測量規程が制定され、昭和2年8月27日勅令で北海道一
級町村制・北海道二級町村制各公布があり、同年10月1日に施行(従来の同名勅令廃止・一級町村
への府県町村制の準用・普通選挙制・自治の拡大など)された。
昭和3年(1928) 3月1日には、告示154号で土木事務所の名称および区域・位置の変更があり、
土木事務所は、札幌・函館・室蘭・旭川・留萌・網走・帯広・釧路の各土木事務所と治水事務所
は、石狩川‘十勝川・釧路川‘常呂川の4治水事務所になる。
昭和5年(1930) 4月には勅令第63号で北海道官制の改正があり、 「土木部ニ於テハ次ノ事務ヲ
掌ル」(12条)とあり、①土木ニ関スル事項、②水陸運ニ関スル事項、③水面埋立ニ関スル事項。
また、 「道路課ノ分掌事務」としては、 「①道路及其ノ附属物ニ関スル事項、②鉄道軌道ニ関ス
ル事項、③瓦斯上下水道ニ関スル事項、④駅逓ニ関スル事項、⑤郵便電信及電話ニ関スル事項、
⑥航路補助ニ関スル事項、⑦河川航行ノ補助ニ関スル事項、⑧土木工事補助ニ関スル事項、⑨大
沼公園ノ経営及管理ニ関スル事項、⑩土木工事ノ調査設計及審査ニ関スル事項、⑩部中他課ノ管
掌ニ属セサル事項。」 となっている。
昭和7年2月25日には、北海道庁達1号で北海道庁処務規程を制定し、土木・産業・殖民関係
諸課の統合整理を中心とする一種の合理化があり、道庁の機構は長官官房・内務部・学務部嶂土
木部・拓殖部・産業部・警察部となった。このうち土木部には、総務課・道路課‘河港課および
土地改良課の4課となった。統合によって内務部には、庶務課拓殖計画課(もと調査課)を設け、
学務都の教育兵事課を学務・社寺兵事の2課に分け、上木部に総務課‘河港課を設けててれd で
の諸課に統合を加え、拓殖部に植民課(土地整理・開墾課を合併)を設け、産業部に農産課(農務・
畜産・糖務課を統合)を置くなど、土木ー産業・植民関係の諸課の統合整理を中心とする一種の合
理化が行われた。
昭和10年(1935) 1 月19日勅令で、全国的地方官制の改正が行われ道庁の内務部を総務部に、産
業部を経済部に各改称し、長官官房(秘書課・文書課)総務部(人事課・庶務課・地方課・会計課ー
拓殖計画課)学務部(学務課・社寺兵事課・社会課)経済部(農産課・産業組合課・水産課・商工課)
土木部(総務課・道路課‘河港課・土地改良課)拓殖部(殖民課・林務課・地方林課)警察部(警務課・
高等警察課・特別高等課・外事課・保安課・刑事課・建築工場課・衛生課・健康保険課)の1官房
6部になる。
また、昭和10年10月1日現在で北海道には、14の支庁が札幌・函館および根室などに置かれて
いた(石狩・渡島・桧山・後志・空知・上川・留萌・宗谷・網走・胆振・日高・十勝・釧路・根
室)0 昭和12年(1937) 4月19日には、土木部の河港課を廃し、河川課および港湾課を置いた。昭
92
和12年8月には、土木部道路課分室として試験室を設置する。試験室の設置は東京から遠隔の地
であること、土木工事は気象・地理条件などの環境条件に影響されやすいこと、長期‘大規模な
工事については、その都度、調査・試験を必要とすることなどから、寒地土木対策として、北海
道独自の試験研究機関が必要となった。これが現在の北海道開発局開発土木研究所である。
昭和13年(1938) 7月21日には、土木部の総務課を監理課に改められた。このほか同年に拓殖部・
経済部および警察部の組織も一部改変され、昭和14年道路課分室試験室は、土木部監理課分室試
験室となる。
昭和14年8月1日訓令第47号で土木事業執行規程が制定され、これに基づき道庁告示859号で土
木現業所の名称・区域および位置が定められた。このときはじめて土木現業所の名称がつかわれ
た。その時の土木現業所は、札幌・小樽・函館・室蘭・旭川・留萌・網走・帯広・釧路の9箇所
に設置された。またそれぞれの土木現業所の下部機構として、土木事業の維持保全のため北海道
内に34箇所の派出所を設置された。
昭干ロ15年6月22日には告示で北海道総合計画委員会規程を制定し、会長は北海道庁長官、本会
に森林・農業・工業I鉱業・水産・交通・利水および文化の各部委員会を設置。同年7月10日総
合計画委員会の各部委員会で初の会合があった。
昭和17年(1942)11月1日勅令で道庁官制改正があり、行政簡素化実施にともなうもの(総務部・
学務部を内政部に、土木部・拓殖部を振興部とする)で、長官官房‘内政部・経済部・振興部(監
理課・道路課・河川課・港湾課・土地改良課・拓殖課・林政課・森林企画課・造林課・林産課)
警察部の1官房4部となる。このうち、振興部監理課および道路課の処務規程(庁達11号)を抜す
いし、その分掌事項を示すと次のとおりである。
振興部監理課の分掌事項は、
① 部内予算ノ経理ニ関スル事項
② 土木法規ノ運用ニ関スル事項
③ 鉄道、軌道及索道ニ関スル事項
④ 命令航路ニ関スル事項
⑤ 航空事業ニ関スル事項
⑥ 土木現業所、治水事務所及土木試験所ニ関スル事項
⑦ 部内他課ノ主管ニ属セサル事項
の7項目から成っている。また道路課の分掌事項は、
① 道路及其の附属物ニ関スル事項
② 自動車事業ニ関スル事項
③ 駅逓ニ関スル事項
④ 上下水道ニ関スル事項
⑤ 郵便,電話及電信ニ関スル事項
⑥ 旅費計算ニ要スル距離証明ニ関スル事項
93
の6項目から成っていた。昭和18年には、土木部監理課分室試験室が石狩川治水事務所分室試験
室となる。
昭和19年(1944) 7月8日の勅令で、北海道庁官制改正があり、経済部・振興部を経済第一部・
経済第二部・土木部・林政部に改め従来の長官官房・内政部・警察部と合せ1官房6部制となる。
その改正された機構は次のとおりである。
長官官房 (秘書課・文書課)
内政部 (人事課・調査課・会計課・庶務課・拓殖計画課・地方課・学務課・青年教育
課・社寺兵事課・社会課・衛生課)
経済第一部(農政課・北方農業課・馬政課・食糧課・拓殖課)
経済第二部(総務課・指導課・水産課・木船課・金属回収課)
土木部 (道路課・河川課・港湾課・土地改良課・土功組合課)
林政部 (林務課・森林企画課・造林課・林産課)
警察部 (警務課・警防課・情報課・特別高等ぎ .事課・輸送課・経済保安課・刑事
課・労政課・国民動員課・保険課)
このうち、土木部道路課の分掌事項は、
① 部内予算ノ経理ニ関スル事項
② 土木法規ノ運用ニ関スル事項
③ 道路及其ノ附属物ニ関スル事項
④ 鉄道、軌道及索道ニ関スル事項
⑤ 自動車道事業ニ関スル事項
⑥ 駅逓ニ関スル事項
⑦ 郵便、電信及電話ニ関スル事項
③ 旅費計算了要スル距離証明二閃ス,!・事項
⑨ 土地収用ニ関スル事項
⑩ 都市計画ニ関スル事項
⑩ 都市計画地方委員会ニ関スル事項
⑩ 部市公園施設ニ関スル事項
⑩ 防空計画ニ基ク貯水槽、防空壕、其ノ他防空土木施設ニ関スル事項
⑩ 道路、河川、港湾其ノ他公共土木施設ノ防護竝ニ応急復旧ニ関スル事項
⑩ 土木現業所ノ道路ニ関スル事項
⑩ 北海道臨時建設事務所ニ関スル事項
⑩ 土木試験所ニ関スル事項
⑩ 部内他課ノ主管ニ属セザル事項
の18項目の事項に関するものから成っていた。
太平洋戦争が終わった昭和20年(1945) 8月20日には、北海道庁に終戦処理委員会が組織され、
94
昭和20年10月に道庁の機構は長官官房のほか内政部・経済第一部・経済第二部・土木部・林政部・
警察部を置き、土木部には、道路課・河川課・港湾課・土地改良課・土功組合課の5課となる。
このとき、石狩川治水事務所内の臨時建設事務所は廃止された。以上のように昭和初期から終戦
の昭和20年8月までの間に、道庁の機構は2年から7年ごとに機構が変遷し終戦までに5回の大
きな機構改革があった。この間に昭和14年(1939) 8月1日に土木事務所が現在の土木現業所に名
称が変更され、現在に至っている。土木現業所の細部の行政機構は次項に記述する。
3-1 一2 土木現業所の行政機構
土木現業所の行政機構は、明治の後半に土木工事の実施機関として、明治35年4月1日に国費
工事課土木派出所が設置され、大正11年これが土木事務所に名称を変更し、昭和14年8月1日に
各土木事務所‘各築港事務所・治水事務所を吸収統合し、全道9箇所に土木現業所が設置された。
この時代は、北海道も第二期拓殖計画時代に入り計画の半ばを過ぎるころであった。土木現業所
の前身である土木派出所から土木現業所までの変遷を図式的に示すと図3-i-i のとおりであ
る。
年度
明治34年
明4 0
治年
札幌
室蘭
派
出
増毛
網走
河西
釧路
上川
明4 3
治年
函館
釧路
大4
正年
留萌
大正11年
dニ
木
務
所
図3一1-1 土木現業所の変遷図
館
室蘭
旭川
萌
網走
帯広
釧路
昭和14年
札幌
小樽
函館
室蘭
旭川
留萌
網走
帯広
釧路
H 『1
刀口8
和年
稚内
95
つぎに土木現業所の変遷に関する訓令、告示を示すと、昭和14年(1939) 8月1日に道庁告示859
号で「土木現業所ノ名称・区域及位置ヲ下記ノ通定ム」 とある。表3- 1-2 に土木現業所の名
称・区域および位置の一覧表を示す。
表3一1-2 土木現業所の名称、区域及び位置の一覧表
名
称
札幌土木現業所
小樽土木現業所
区
域
石狩(濱益村茂生漁港ヲ除ク)空知(幌加内,多度志
沼田,納内各町村ヲ除ク)各支庁管轄区域内及札幌市
内
後志支庁管轄区域内(地方費道室蘭函館線黒松内村地
内延長5粁705米ヲ除ク)石狩国濱益村茂生漁港及小
樽市内
函館土木現業所 渡島,檜山各支庁管轄区域内I及函館市内
胆振,日高(地方費道帯広浦河線幌泉広尾村界ョリ町
室蘭土木現業所
村道庶野小越間道路分岐点ニ至ル延長16粁105米ヲ除
ク)各支庁管轄区域内地方費道室蘭函館線黒松内村地
内延長5粁750米及室蘭市内
旭川土木現業所 上川,宗谷各支庁管轄区域内空知支庁管轄区域中幌加
内,多度志,沼田,納内各町村及旭川市内
留萌土木現業所 留萌支庁管轄区域内
網走土木現業所 網走支庁管轄区域内
帯広土木現業所
十勝支庁管轄区域内,釧路支庁管轄区域中足寄,陸別
各町村,地方費道帯広浦河線幌泉広尾村界ョリ町村道
庶野小越間道路分岐点ニ至ル延長16粁015米及帯広市
内
釧路土木現業所 釧路国(足寄,陸別各町村ヲ除ク)根室(北千島漁港
試験工事ヲ除ク)各支庁管轄区域内及釧路市内
位 置
石狩国
札幌市
後志国
小樽市
渡島国
函館市
胆室
振蘭
国市
石狩国
旭川市
天塩国
留萌郡
留萌町
北見国
網走郡
網走町
十勝国
帯広市
釧路国
釧路市
各土木事務所・築港事務所および帝広治水事務所を吸収統合し、全迫9箇所に土木現采所か故
置された。札幌治水事務所が石狩川治水事務所に改称。道路課分室試験室タ監理課分室試験室と
する。また、昭和14年(1939) 8月1日の訓令47号では、土木事業執行規程の制定があり、その内
容(関連条文のみ)は次のとおりである。
第1条 本令ニ於テ土木事業ト称スルハ国費又ハ地方費ヲ以テ経営スル道路、土地
改良、河川、港湾ニ関スル工事及之ニ附帯スル事業ヲ謂フ
第2条 土木事業執行ノ為管内ニ土木現業所、治水事務所及築港事務所ヲ置ク
第4条 土木現業所ニ於テ施行スノ\キ事項次ノ如シ
1
2
3
4
道路、河川竝ニ其ノ附属物ノ調査測量及工事施行ニ関スル事項
港湾竝ニ土地改良ノ調査測量及工事施行ニ関スル事項
堤防敷地ノ調査ニ関スル事項
前各号ニ附帯スル事項
土木部長前項ノ事業ニシテ必要アリト認ムルトキハ其ノー部ヲ治水事務所ヲシ
96
テ施行セシムルコトヲ得
第5条 治水事務所ニ於テ施行スベキ事業所次ノ如シ
1
2
特定河川竝ニ其ノ附属物ノ調査測量及工事施行ニ関スル事項
前号ニ附帯スル事項
土木部長前項ノ事業ニシテ必要アリト認ムルトキハ其ノー部ヲ土木現業所ヲシ
テ施行セシムルコトヲ得
第10条 土木現業所ニ次ノ課ヲ置ク
1
2
庶務課
工務課
土木現業所派出所設置規程
第1条 土木現業所長ハ国費及地方費支弁ニ属スル土木事業ノ維持保全ノ為区域内
ニ派出所ヲ設置スルコトヲ得
第2条 派出所ニ於テ処理スベキ事項概ネ下記ノ如シ
1
道路、河川、港湾、排水溝並ニ其ノ附属物ノ破損予防及小破修繕ニ関スル事
項
2
3
4
5
6
堤防敷地ノ保護ニ関スル事項
道路、河川及其ノ附属物ノ占用状況調査ニ関スル事項
土木事業災害状況ノ調査並ニ之ガ応急措置ニ関スル事項
土木事業愛護施設ノ指導誘掖ニ関スル事項
前各号ノ外所長特命ニ係ル事項
以上、土木現業所派出所は前述のとおりの設置規程によって全道に34箇所が設置された。
昭和14年10月11日には北海道庁訓令第146号で土木現業所派出所設置規程によって、表3-1 -3 に示すとおりの派出所が設置された。
上記訓令第146号は昭和25年7月27日訓
令第54号(北海道土木地方部局規程8月1
日施行)附則で廃止され同日から別途出
張所となった。
表3一1一3 土木現業所派出所一覧表
土木現業所名
札
幌
派
出
所
札幌,当別,岩見沢,滝川
小
昭和14年(1939) 8月1日北海道告示第
859号で規程された内容は、昭和18年11月
15日北海道告示1502号によって土木現業
所の名称・区域および位置は、表4-i -4 のとおりに変更された。なお、表3 -1-4 に示されていない各土木現業所
函
室
旭
樽
館
蘭
小樽,倶知安,黒松内
函館,森,今金,江差
室蘭,佐留太,浦河
名
旭川,富良野,士別,美深,枝幸,稚内
留
網
帯
は現行のとおりである。
釧
萌
走
広
路
羽幌,留萌,天塩
網走,野付牛,遠軽,渚滑
帯広,池田,広尾,西足寄
釧路,弟子屈,厚床
97
表3一1一4 土木現業所の名称・区域及び位置の変更ー覧表
名
称
札幌土木現業所
旭川土木現業所
区
域
石狩(濱益村茂生漁港ヲ除ク)空知各支庁管轄区
域内上川支庁管内神居村地内国道27号線音江村界
準地方費道芦別神居古潭線接合点間延長95米69及
地方費道芦別神居古潭線音江村界国道27号線接合
点間延長5粁588米47竝ニ札幌,岩見沢,夕張市内
上川(神居村地内国道27号線音江村界準地方費道
芦別神居古潭線接合点間延長95米69及準地方費道
芦別神居古潭線音江村界国道27号線接合点間5粁
588米47ヲ除ク)支庁管轄区域内及旭川市内
網走土木現業所 網走支庁管轄区域内及北見市内
稚内土木現業所 宗谷支庁管轄区域内
・稚内土木現業所は新設。
位 置
石狩国
札幌市
石狩国
旭川市
北見国
網走町
北見国
稚内町
・旭川土木現業所の派出所のうち稚内、枝幸は稚内土木現業所の所管となる。
・北千島築港事業所は東北築港事業所に改称。
・石狩川治水事業所江別機械工場を廃止し、土木機械工作所を設置。
3-1-3 市町村における行政機構
昭和初期には経済恐慌期の救済を兼ねて公共事業が積極的に行われる。昭和13年(1938) 4月に
公布された国家総動員法は「国家総動員法トハ戦時ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効
ニ発揮セシムル様人的物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」 と規定し、これにしたがって、すべての
経済活動が国家の統制のもとにおかれるようになった。さらに昭和16年(1941)12月、太平洋戦争
の勃発にともない、j-べ〔の経済i舌動が戦争目的遂行のために動員されるよンになった。上木事
業は生産力拡充の基盤を形成するものとして重視され、土木政界・土木学協会・建設業界など、
土木界のすべてが戦争目的遂行のために動員された。これに対応して、内務省官制も改正が行わ
れ、事務・技術一体の体制がとられた。
明治30年の一級二級町村制は、昭和2年(1927)に従来の一級町村制および二級町村制が廃止さ
れ、これに代って新たに北海道一級町村制(勅令第269号)・北海道二級町村制(同第270号)が公布”
施行された。このように本道の町村制の改正は、直接には大正15年に行われた府県の町村制度の
大変革に対応するものであったが、この改正で本道の一級町村に対して、府県町村制が準用され
るようになったことである。この結果、本道の町村制の特殊制・後進として、指摘されてきた町
村の組織運営にみられた制度上の特質は、一級町村についてはほぽ完全に解消された。
このことによって、本道の一級町村制は、町村会議員の選挙における選挙権者・被選挙権者の
拡大と納税資産要件が撤廃され、昭和2年以来その町村の住民である25歳以上の男子は、原則と
して等しく選挙権・被選挙権をもつことになった。また町村の自治権の行使に対する道庁・支庁
98
の監督権の縮少も改正の重要なポイントである。
これに反し、二級町村については、府県町村制の準用はなく、勅令第270号では新たな変革は
次のようであった。
① 普通平等選挙制の採用
一級町村制では 「2年以来」 とされていた居住年限が二級町村においては「1年以来」
と短縮されている。
② 町村会の議決事項の拡大
議決権の範囲は府県の町村ないし本道一級町村とほぽ等しいものとなった。
③ 町村の財政的自由の希求
その後昭和18年(1943)第81議会で「市制」 「町村制」 「府県制」 「北海道会法」の4法の改正
法律案が提出され、議会がこれらの法案を審議可決したが、これにより地方制度全般にわたる改
革が行われることになった。このうち 「市制中改正」(昭和18年3月20日法律第80号)および「町
村制中改正」(同日法律第81号)についての主な改革は次のとおりである。
1 )市町村会の選挙による市町村長の選任方法の改正
① 市長は、市会が推薦した候補を内務大臣が勅裁を経て選任することとし、もし内務大臣
の指定する期日までに市会が候補者の推薦を行わないときは、勅裁を経て内務大臣が市
長を選任し得ることとした。
② 町村長は、町村会において選挙し、知事(道庁長官)がこれを認可することとした。
③ 市町村長による助役の選任についても知事(道庁長官)の認可が必要とされることになっ
た。
2 )市町村会の権限の縮小
① 旧法では概括例示的に市町村会が議決すべき事項の概目が例示されていたが、改正法で
は制限列挙主義をとり、列記された事項以外は市町村会の議決を必要としないものと定
められた。
② 予算の増額修正はできない。
③ 市参事会の権限を拡大し、市会の権限の一部を市参事会に移すとともに、市会閉会中は
とくに定めた重要事項のほかは、市参事会が市会にかわって議決しうることを定めた。
3 )市町村長にたいする総合的指示権の賦与
市町村内の各種施策の総合的運営を図るために必要と認めるときは、市町村内の団体など
に対して所要の指示を行う権限が市町村長に与えられ、さらに指示をうけた団体がこれに
従わないときは、市町村長はその団体の監督官庁の措置を申請できることになった。
4 )町内会部落会の法制化
5 )市町村および市町村長に対する国政事務委任手続の簡素化
以上であるが、この「町村制中改正」で、町村制第157条第1項の規程から「北海道其ノ他」が
解除され、本道の町村にも府県と同じ 「町村制」 が適用されることになり、これにともなって北
99
海道一級町村制(昭和2年3月1日勅令第159号)および北海道二級町村制(昭和2年8月27日勅令
第270号)は廃止された。
なお本道の二級町村は、二級町村制の廃止にもかかわらず、「市制町村制等改正経過規程」(昭和
18年5月25日勅令444号)の第19条および「市制町村制施行令中改正」(昭和18年5月25日勅令第44
3号)の第74条により、新たに内務大臣の「指定町村」とされ、同施行令の第84条から第93条まで
の特例の適用をうけることになった。特例の大部分は、従来の二級町村の特質をそのまま引き継
いだものであったが、このときは 「指定町村」 として指定されたのは、北海道総計264町村リコ 135箇
村であった。
(1) 札幌市の土木行政
大正12年9月に行政機構の制度が9課に増設され、その後10数年間は、大きな改廃はなかった
が、昭和2年(1927)電車買収にともなって、外局として、電気局が設けられ、昭和9年(1934)に
は、上水道施設のために水道部が設けられ、翌年新たに経済課が設けられた。
昭和12年(1937)には、日中戦争勃発によって、戦時行政も含みつつ、翌年4月に処務規程が改
正されて、外局であった水道部を課とし、教育課の下に社会教育係を設け兵籍課を戸籍兵事課に
改められた。昭和13年の行政機構は、秘書課・庶務課(警備係)・社会課・教育課(社会教育係)・
衛生課・戸籍兵事課・経済課(商工係・農務係・統計係)・水道課‘土木課(都市計画係)・税務課・
出納課・電気局の1局11課が置かれた。 また、このときの人口は201, 561人であった。
昭和14年7月には、社会・衛生課を廃して厚生課を置く。昭和15年10月には、庶務課に公区係、
厚生課に清掃係、経済課に物資係、教育課に体育係を設けた。清掃係の設置は都市における重要
問題のーつである屎尿塵芥処理公営のためのものであり、体育係を設けたのは、国民体育の向上
という一般目的のほかに、軍部の健民主義・人的資源の充実という意図もあって、中央官庁の施
策に同調したものである。昭和16年6月財務課を設け、庶務課に選挙係を設け、る。同年11月に
清掃係を課に昇格する。昭和Il年2月市民課を設け公区係一物資係および警備係を置き、昭和19
年4月これまでは毎年のように処務規程の改正があったが、この年は従来にない大改正が行われ、
戦時色を背景につぎのようになった。このときの人口は225, 842人であった。また、同年には総務・
財政・教学‘社会・戸籍兵事・経済・健民・工営・水道・防営会計の10課となり、昭和20年に動
員課が設けられた。
つぎに札幌市の一般会計歳出決算とその内容別を主要年次について示すと表3一1一5のとお
りである。また、札幌市内の道路延長を年次別に表3一1-6 に示す。
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表3一1-5 札幌市の一般会計歳出決算内容(1930- 1945)
年
度
科
日]
(円)
昭和 5 年 昭和12年 昭和17年 昭和20年 摘 要
役 所 費
会 議 費
警 防 費
産 業 費
土 木 費
教 育 費
厚 生 費
諸
費
公 債 費
繰 入 金
計
306,770
7,887
117,916
7,812
438,793
776,560
353,014
50,997
267,359
2,327,108
341,112
12,634
142,517
10,389
841,123
1,067,603
318,708
65,431
414,031
3,400
3,216,948
425,464
17,613
494,482
21,934
173,815
975,719
1,012,362
473,479
1,069,583
28,712
4,693,163
1,500,467
27,349
1,619,325
204,044
374,061
1,193,343
1,480,460
910,242
709,034
65,818
8,084,143
表3-1 一6 札幌市内の道路延長一覧表(1926— 1949)
年
次
種
別
(km)
昭和元年 昭和9年 昭和16年 昭和24年 摘 要
国
道
地方費道
準地方費道
計
市
合
事
人
道
計
項
口
6.7
6.2
4.2
17.1
178.7
195.8
第ー期拓殖計画
終
年
154,672人
6.6
6.2
3.5
16.3
229.7
246.0
札幌村一部
編
入
188,839人
6.9
18.8
5.2
30.9
304.7
335.6
山
円 口
町併
224,729人
創建80周年
自治50周年
281,754人
表3-1 一5で札幌市の一般会計歳出決算内容科目のうち、土木費についてみると、昭和5年
と昭和12年では、全体の19-26%を占めているが、昭和17年、昭和20年の太平洋戦争中では、逆
に土木費は4%と大きくダウンし、これに反して、警防費と厚生費が大きくアップしているのが
目立っている。
(2) 釧路市の土木行政
昭和に入ってからの釧路市は、昭和2年(1927)の金融恐慌、昭和7年(1932)の5・15事件など
の社会不安に促されて、政府は時局匡救土木事業・農山漁村経済更正など一連の恐慌対策事業を
101
地方自治体に課したため、地方国政委任事務は、ますます増加し地方財政を圧迫した。以来国政・
国情の緊迫は自治体活動を衰微の方向へと押し流していった。その後日本経済は一時立ち直るが、
軍事行動が一応の段階に達すると、こんどは輸出貿易の不振が再び不景気となって、国民生活は
著しく逼迫した。昭和12年(1937)には日中戦争(日華事変)となり、軍の拡大によって、行政面に
おいてもその影響を及ぼすことになるC
つぎに、戦時体制下における釧路市の行政機構は、昭和15年(1940) 8月課の新設も最小限とし
大課主義で係を多くした機構とし、振興課は、町会組織強化・運営指導・廃品回収・金属類供出・
翼賛会・壮年団との連繋・国防婦人会の指導・国民徴用・警防(警報受理・伝達)貯蓄奨励・国債
消化・情報宣伝・戦意高揚・防空訓練・警防団との連絡・国防生活指導‘避難計画とその実践の
事務。社会課は、軍事扶助・傷病兵援護・各種慰問・市葬弔間・応召軍人遺家族援護と授産の事
務。産業課は、物資の配給・調達(青果・主食一石炭木炭・センイ・その他生活必需品)の事務を
それぞれ掌る。
以上のように戦争関係の国政委任事務は増大するが、平常事務の多くは犠牲にされた。土木課
については、より多くの事業と経費が防空壕に奪われ、道路の改修はもちろん、特に港湾係にあ
っては係長が1人、水道は技術員を削減して、使用料金の徴収が主なる事務であった。
また、このころの道路は、昭和元年の第一期拓殖計画終了に引きつづいて、昭和2年以降20年
にわたる第二期拓殖計画が樹立された。第二期計画の前半には、第一次世界大戦後の不況にとも
なう緊縮財政が行われたが、昭和6年の失業救済費、昭和7年から9年にかけての農漁村振興土
木費の救済工事で計画を上回る実績をあげた。この時期の釧路の道路事業は、昭和8年農山漁村
振興事業として城山町から春採炭山にいたる道路、さらに桂恋間道路改良工事に着手し12年に竣
工した。このころの道路は砂利敷の路面工事であった。 また、釧路川に架橋されている久寿里橋
も昭和8年(1933) 6月に農山漁村振興事業として着工し12年に竣工した。
弟一期計回の俊羊は、昭和13牛の日中戦争、昭和1ti牛 (1941,の太平洋戦争と戦時体制1tととも
に戦争遂行トの国策を第一義としたため開発予算は減少していった。 このため地方道路の維持補
修も資材と労力不足から道路の荒廃が目立った。一方昭和初期からはじまる自動車交通にともな
う道路・橋梁建設技術が進み、永久橋架設や簡易舗装が普及した。またセメントによるコンクリ
ート舗装や、安定処理、木コンクリート橋なども実施されていった。なお、この時代における釧
路市の人口は、表3-1 一7のとおりである。
表3-1-7 釧路市の人工一覧表
人 口
年次別
昭和元年
5 年
10年
15年
20年
人
口
41,195人
51,586
56,170
63,180
50,633
摘
要
市の全面積46,741km2
市制は大正11年施行(1922)
(男33,700人,女29,480人)
(男24,777人,女25,856人)
102
つぎに昭和8年2月現在の釧路市における認定路線は、179路線あり、総延長が68. 375kmで あっ
た。この総延長の内訳は、道路延長66. 615km、 橋梁27. 6 m、渡船741. 8m、重用道路990. 7mであ
る。
3-2
法制・制度
3-2-1 道路関係の法制・制度
旧道路法の制定にともなう法令その他の制度の整備は、ほとんどが大正8年から11年までの間
に完了し、その後わが国の社会・経済情勢の変化にともなって追加または手直しが行われた。
昭和前期における諸法令の主なものとしては、昭和18年(1943)の道路法戦時特例と昭和17年の
道路標識令がある。
北海道内の道路に関連のある諸制度を経時的に示すと次のとおりである。
まず、昭和2年(1927) 4月10日に町村道渡船場補助規程(道庁令第52号)が定められた。これは、
町村費支弁に属する町村道渡船場で拓殖上必要と認めるもの設備物件の設置および維持に要する
費用の地方費補助に係わる規程である。昭和2年6月13日には、道路調査測量規程(道庁訓令第40
号)が定められ、道路の区域の整理ー道路台帳の調整・道路元標・道路里程標・道路敷地 境界標
などの建設を目的としたものがきめられた。昭和8年(1933) 8月5日には、専用自動車道設備規
程(鉄道省令第8号)があり、専用自動車道の規格(幅員、曲線半径)などが定められた。昭和11年
(1936) 5 月30日には、道路取締規則(道庁令第37号)があり、道路に看板・標燈・日除などを置く
場合の規制・道路の掘削など工事の措置を規定・道路専用規定のようなものである。昭和17年
(1942) 5 月13日には、道路標識令(内務省令第24号)があり、道路標識を警戒標識‘禁止標識・制
限標識・指導標識および案内標識の5種に定め設置場所などを定めたもので、現在の道路標識令
の土台となっている。(第8箇条から成っている)その後、昭和18年12月27日道路法戦時特例(勅令
第944号)として、道路・沿道の区域を定め、道路管理者以外の者の行う工事などに要する費用など
について、かつては監督官庁の認可を受けることとなっていたが認可の必要がなくなった。(昭和
27年廃止)
戦時特例について、その全文を示すと次のとおりである。
道路法戦時特例 昭和18年(1943) 12月27日勅令第944号
許可認可等臨時措置法ニ基ク道路法ノ特例ハ本令ノ定ムル所ニ依ル道路法第52條第
2 号、第5号乃至第7号又ハ第10号ノ規定ニ依ル監督官庁ノ認可ハ之ヲ受クルコト
ヲ要セズ
附
本令ハ公布ノ日ョリ之ヲ施行ス
この勅令第944号の経緯は、かつて許可認可事項の整理・書類監督の廃止・不要事務等の行政事
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