北海道道路史 Ⅱ技術編

北海道道路史 Ⅱ技術編 例 言 技術分科会 本編は北海道道路史~技術編として、北海道における道路の計画・建設技術ならびに維持管理 技術の発展の歴史を取扱った。 北海道の道路技術史は大きく第二次世界大戦の前と後に分けられ、さらに、第二次世界大戦前 は明治2年(1869)開拓使設置以前と以降に分けられる。開拓使設置以前の道路技術史は以降に比 べ、史料が少なく系統だてて記述することは極めて困難であったが、史料の収集状況に応じて各 章ごとに整理した。技術史の記述範囲は昭和60年度(1985)までを一応の目途としたが、その後、 編纂の過程で相当年数を経過しており、その間の技術は日進月歩の進展を続けているので、現行 技術につなぐため、最近の技術にまでふれた部分も多い。 北海道の発展は道路の整備とともにあったといえる。とくに、第二次世界大戦後の機械化施工 の普及は、北海道の道路ひいては北海道を今日の発展に導いたといっても過言ではない。道路の 建設に当たっては北海道に分布する泥炭、火山灰土、蛇紋岩、重粘土など技術上問題となる特殊 土との出会いがあった。第二次世界大戦後暫くしてはじまった冬季の道路交通は除雪・防雪その ものの技術とともに道路凍上の問題を提起した。さらに舗装はタイヤチェーン、スパイクタイヤ によってはげしい摩耗を受けることとなった。北海道の道路技術者たちはこうした本道独特の技 術上の問題と取り組みながら道路を建設してきた。 本編は多岐の専門にわたるため、総説、構造規格、土工、トンネル、橋梁、舗装、道路管理の 7小委員会を編成し、分担執筆ならびに編集を行った。また、道路管理の部門には道路維持補修 ・道路付属施設・道路防災・冬の道路管理など広い範囲を包含し、かつ他のどの分野にも属さな い技術を収録した。 本編の執筆者は大学、官公庁、民間と極めて広範囲にわたり、それぞれが北海道の道路建設の 重要な部分に直接携わってきた研究者、技術者たちである。したがって、各人が自分の人生を語 るような意気込みで執筆したので迫力ある歴史書となった。 本編の執筆編集に当たっての特記事項は次のとおりである。 (1) 漢字は原則として 「常用漢字表」 に掲げてあるものを、その音訓の示す範囲で用いた。ただ し、学術用語・専門用語、固有名詞、官職名などは除外した。 (2) かなづかいは現代かなづかいとし、ふりがなはその原則によるひらがな・かたかな表記とし た。 (3)年代は日本年号で表記し、必要に応じて( )内に西暦を併記した。 (4) 度量衡の単位はメートル法としたが、当時の単位が尺貫法であったものは原則としてメート ル法に換算し( )内に記入した。 ) コンクリート橋はRC橋・PC橋などと表記した。また、専門用語は原則として土木学会用 語によった。 (6)太平洋戦争の後半から終戦直後にかけては資料に乏しく詳述できなかったが、他方、北海道 の技術者たちの工夫による木コンクリート橋など独特の技術で記録にあるものは紹介した。 (7) 地名はその時代の表記で示し、現在地名は町村合併後の新町村名で示すようにした。 (8) 人名の敬称は本編が歴史書であるので省略した。 (9) 引用文は 「 」 で囲み、文中の数字・単位などは原文のままとした。 ⑩ 参考文献は各章ごとにまとめて、その章末に掲載した。 回 写真は原則として提供者の名を付すこととした。 (1 本編は多くの執筆者によったため、最終的には全文を通じて少数の編集者で文調の統一に努 めたが、それでもなお不十分なところがあることを諒承されたい。 執筆者一覧 総 説 構造規格 土 工 トンネル 橋 舗 梁 装 維持管理 資 料 河野 文弘 佐藤 馨一 角田 和夫 佐田 頼光 井藤 昭夫 石垣 省司 森 康夫 堂柿 栄輔 河合 裕志 谷口 秀男 佐々木光朗 久保 宏 佐藤 巌 新田 登 橋場 智 松尾 徹郎 三浦 宏 石井 宏道 長屋 幸雄 上田 典久 奥 畠 弘治 国雄 (五十音順) 川西 是 能登 繁幸 藤井不二也 川名 信 ~

技術編目次 第1章 総 1 . 北海道の気候の特性 1-1 気温の特性 1-2 1-3 降積雪の特性 土壌の凍結と凍上 2 . 自動車交通の沿革 2-1 北海道の道路密度の現状 2-2 2-3 2-4 自動車交通の沿革 地域間交通の変化 都市内交通の変化 3 . 雪の克服 3-1 除雪作業の推移 3-2 道路の横断構成に関する基準の推移 4 . 北海道の道路に関する試験研究 4-1 北海道開発局設置まで 4-2 説 第1期北海道総合開発計画時代(昭和27-37年) 4-3 4-4 4-5 1. 2 . 概 1 一1 1-2 第2期 第3期 第4期 説 ‘7 ” ‘7 // I, ‘7 (昭和38-45年) (昭和46-52年) (昭和53-62年) 第2章 構造・規格 道路構造規格の意義と役割 北海道における構造規格の特徴 道路法などの制定略史 2-1 明治時代 1 1 4 4 7 8 9 10 12 12 12 14 17 17 18 19 21 22 25 25 26 27 27 2-1一1 本願寺道路 2-i 一2 札幌本道 2-1-3 札樽道路 2-1 一4 河港道路修港規則 2-1 一5 太政官布告第60号 2-1 一6 内務省訓令第13号 2-i 一7 北海道10年計画の道路事業 2-i 一8 北海道第I期拓殖計画における道路事業 2-2 大正時代 2-2 一1 道路法の制定と道路構造令 2-2-2 北海道道路令と道路築造基準 2-2 一3 街路構造令 2-3 昭和前期(昭和20年まで) 2-3 一1 道路構造令並同細則改正案制定までの経緯 2 一3-2 道路構造令細則案の内容 2-4 昭和中期(昭和20年~昭和40年) 2-4-i 北海道開発庁の成立と道路構造令、第二次改正 2-4 一2 昭和33年道路構造令の内容と特色 2-5 昭和後期(昭和41年以降) 2-5 一1 昭和45年道路構造令の内容と特色 2-5-2 昭和57年における道路構造令の一部改正 北海道開発局道路工拳設計基準にみる道路構造規格の変遷 3 一1 3-2 北海道開発局道路工事設計基準の成立経緯 構造規格の変遷 3-2 一1 車道幅員 3-2-2 路肩幅員 3-2-3 中央帯(中央分離帯) 3-2-4 停車帯 3-2 一5 歩道および自転車道、自転車歩行者道 3-2 一6 滞雪スペースおよび除雪余裕幅 3 一2-7 道路敷地幅 3-2-8 橋梁幅員およびトンネル幅員 3-2 一9 平面線形および縦横断勾配・・…・・・一……・…=…1 … 28 28 29 30 31 31 33 36 39 39 40 45 47 47 48 51 51 53 56 56 62 63 66 67 72 76 79 80 82 83 85 4. 5. 1 . 北海道土木部道路工事設計要領にみる道路構造規格の変遷 4-1 北海道土木部道路工事設計要領の作製経緯 設計要領の変遷 4 一2 4-2 一1 車道幅員 4-2 一2 路肩幅員 4-2 一3 歩道など 4-2 一4 自転車道など 4-2 一5 滞雪スペース 構造規格からみた主要道路の工事概要 5-1 国 道 5-1-1 千歳国道 5-1 一2 日勝国道 5-1 一3 狩勝国道 5 一1一4 中山国道 5-1 一5 札幌新道 5-2 道 道 5-2 一1 札幌タ張線 5-2-2 函館南茅部線 5-2 一3 札幌支笏湖線 5-2 一4 洞爺湖登別線 88 88 90 90 93 95 97 99 100 100 100 102 104 106 109 113 113 115 118 120 5-2-5 小樽港線、小樽港稲穂線、小樽海岸公園線(街路名 小樽臨港線) 123 第3章 土 概 1-1 1-2 説 北海道の土工概要 北海道の特殊土と土工 1-2-1 泥 炭 1-2 一2 火山灰土 1-2-3 蛇紋岩および蛇紋岩質粘土 1-2-4 重粘土 2, 第二次世界大戦前の道路土工 2-1 札幌本道にみる明治初期の土工 工 127 127 128 128 129 130 130 130 130 2-2 2-3 2 一4 2-5 2-6 3 。 土工と外国人技術者 囚人と土工 監獄部屋と土工 道路土工の技術指針の推移 第二次世界大戦前の軟弱地盤対策 第二次世界大戦後から昭和40年まで 3-1 機械化土工の始まり・ 3-1-1 建設機械の始まりから普及期 3-1 一2 初期の機械化施工の実例と概要 3-1-3 機械化施工の発展期と機種 3-2 本格的な軟弱地盤対策の始まり 3-2 一1 月形橋取付道路 3-2 一2 東室蘭跨線橋取付道路 3-2 一3 幌延試験工事 3-2-4 豊幌跨線橋 3-2 一5 呼人湖畔間改良工事 3-3 新しい技術分野への展開 3-3-1 トラフィカビリティと品質管理 3 一3-2 不良土対策 3-3 一3 のり面対策 4 . 昭和Lw年から現在まで 4-1 機械化土工の発達 4-1 一1 機械化土工の進展 4-1-2 安定期を迎えた機械化施工の概要 4-1-3 土工機械の発達過程 4-2 軟弱地盤対策 4-2 一1 試験工事と対策効果の検証 4-2-2 構造物的工法の開発と発展 4-2 一3 深層混合処理工法の登場と新工法の開発 4-2-4 北海道縦貫自動車道の軟弱地盤対策 蛇紋岩と地すべり 4 一3 4-3 – 1-L 蛇紋岩とその分布 4 一3-2 蛇紋岩分布地域における土工 136 139 141 144 147 148 148 148 152 158 162 163 163 164 165 166 168 168 170 172 177 177 177 179 180 182 182 185 190 193 195 195 196 4-4 のり面対策 4-4 一1 のり面保護工の発達 4-4-2 のり面対策工例 4-5 盛土対策 4 一5一1 不良土対策 4-5-2 盛土の品質管理 4-6 公害問題 4-6 一1 建設と公害 4-6-2 騒音公害と対策 4-6-3 振動公害と対策 4 一6一4 その他の建設公害 5. 1. 新しい技術の課題 5-1 通年土工施工 5 一1一1 これまでの経緯 5-1 一2 調査研究計画の概要 5-1-3 調査・試験の経過 5-2 産業副産物の利用 5-2-1 本道における産業副産物 5 一2一2 石炭灰と赤土 5-2-3 産業副産物の利用実績 第4章 トンネル 明治から昭和20年代までの道路トンネル略史 1-1 幕末から明治まで 1 一2 1-3 1-4 1-5 1-6 明治維新から明治34年の北海道十年計画期まで 明治34年の北海道十年計画期 第1期拓殖計画期(明治43年度~昭和元年度) 第2期拓殖計画期(昭和2年度~昭和21年度) 北海道総合開発第1次5箇年計画以降 昭和30年代以降の北海道のトンネル 2-1 概 2-2 要 199 199 202 205 205 207 208 208 209 212 214 215 215 215 217 217 219 219 220 221 228 228 229 230 231 233 238 240 240 昭和30年代竣工のトンネル 241 2-2-1 虎杖浜トンネル 2-2-2 忍路トンネル 2-2 一3 磯谷トンネル 2-2—4 刀掛トンネル 2-2-5 ビンノ岬トンネル 2-2-6 丸山トンネル 2-2-7 稲穂トンネル 2-2-8 錦トンネルおよび白糸トンネル 2-2-9 大沼トンネル 2 – 2 -10 直別トンネル 2 – 2 -11 野花南トンネル 2-3 昭和40年代竣工のトンネル 2-3-i 桃岩トンネル 2-3-2 比布トンネル 2-3 一3 日勝トンネル 2-3-4 厚瀬トンネル 2-3 一5 礼文華トンネル 2-3-6 雄信内トンネル 2-3-7 笠岩トンネル 2-3-8 中山トンネル 2-3-9 寿トンネル 2 – 3 -10 定山渓トンネル z -5 -ii 慶喜トノネル 2 – 3 -12 太島内トンネル 2 -3 -13 茂津多トンネル 2-4 昭和50年代竣工のトンネル 2-4-1 御崎トンネル 2-4-2 草内トンネル 新平磯トンネル 2 一4-3 2-4-4 神居古潭トンネル 2-4-5 稲里トンネル 2-4-6 キナウシトンネル 2-4-7 浮島トンネル 241 244 244 244 244 244 245 254 254 257 257 260 260 260 261 261 264 265 265 266 267 267 268 278 279 280 280 282 283 284 285 288 289 3. 4. トンネルの補修と施設整備 最近のトンネル掘削技術と将来展望 第5章 橋 1 . 概 説 2 . 木橋、石橋 2-1 木 2-2 3 . 石 橋 橋 鉄筋コンクリート橋 3-1 概 3-2 要 鉄筋コンクリート橋 3-2-1 第二次世界大戦以前の鉄筋コンクリート橋 3-2-2 第二次世界大戦以後の鉄筋コンクリート橋 4 , 鋼 4-1 4-2 4-3 橋 概 要 第二次世界大戦以前の鋼橋 第二次世界大戦以後の鋼橋 4-3 一1 単純鈑桁橋 4-3 一2 H型鋼橋 4 一3一3 プレビーム橋 4-3 一4 ゲルバー鈑桁橋 4 一3一5 連続鈑桁橋 4-3-6 単純トラス橋 4-3-7 ゲルバートラス橋 4-3-8 連続トラス橋 4-3-9 箱 桁 橋 4 – 3 -10 ラーメン橋 4-3-11 アーチ系橋 4-3 一12 吊橋、斜張橋 291 292 298 300 300 303 304 304 305 305 308 312 312 313 318 319 323 323 323 324 327 329 331 332 335 335 338 5. プレストレストコンクリート橋 5-1 概 U 5- 0 要 初期のPC橋 5-3 5-4 長大化するPC橋 多様化するPC橋 6. 下部構造 6-1 概 要 6-2 6-2-1 直接基礎 6-2 一2 ケーソン基礎 6-2-3 杭基礎 6-2 一4 躯 体 6-3 第二次世界大戦以前の下部構造 第二次世界大戦以後の下部構造 6-3-1 直接基礎 6-3-2 ケーソン基礎 6-3-3 杭基礎 6-3 一4 その他の基礎 6-3-5 躯 体 2 . 設 2-1 2-2 2-3 計 砂利道 凍上対策 第6章 舗 路床・路盤 2-3-1 路 床 2-3 一2 凍上抑制層および路盤 2-4 アスファルト舗装 2-4-1 大正時代から昭和24年頃までの舗装 2-4-2 札幌千歳間道路の舗装 2-4 一3 舗装の設計 2-4 一4 基層混合物 340 340 340 343 345 351 351 354 354 358 359 361 364 364 367 370 380 383 装 393 395 395 396 400 400 401 405 405 409 411 413 2-4一5 表層混合物 2-4-6 耐摩耗混合物の配合設計 2-4 一7 高速道路の舗装 2-4-8 防塵と簡易舗装 2-4-9 温度応力によるクラック 2 – 4 -10 スパイクタイヤ問題 2-5 コンクリート舗装 2-6 試験舗装 2 一6一1 凍上対策 2-6 一2 摩耗対策 2-6-3 すべり止め舗装 2 一6一4 軟弱地盤対策 2-6-5 その他の試験舗装 2-6-6 コンクリート舗装 2-6 一7 特殊な歴青材料 2-7 歩道舗装 2-8 3 目 施 3-1 コンクリート舗装とアスファルト舗装の比較 工 材 料 3-1 一1 アスファルト 3-1-2 その他の歴青材料 3-1-3 石 粉 3-1 一4 舗装用骨材 3 一2 施工法の変遷 機 械 3-3 3-3-1 アスファルトプラント 3-3 一2 締め固め機械 3-3-3 アスファルトフィニッシャ 3-3-4 ロードミキサおよびロードスタビライザ 3-3 一5 その他の機械類 3-4 混合物生産量の推移 3 一5 出来形および品質管理 414 417 419 421 423 424 426 430 430 431 433 434 434 435 436 437 438 440 440 440 441 443 444 447 449 449 451 452 453 454 454 455 4 . 維持・補修 457 4-1 1 維持・補修 道路維持補修 1-1 概 1-2 説 道路維持補修の変遷 1-2 一1 明治期以前 1-2 一2 明治および大正期 1-2 一3 昭和前期(昭和元年~20年) 1-2 一4 昭和戦後期(昭和21-30年) 1-2 一5 昭和後期(昭和31-60年) 1-3 道路維持補修機械 1-4 付属施設の維持補修 1-4-1 標 識 1-4-2 道路情報施設 1-4-3 区画線・視線誘導標 反射鏡 1-4 一4 道路照明 1-4-5 橋 梁 1-4 一6 横断歩道橋 I-4-7 地下横断歩道 1-4 一8 法面および擁壁(護岸) 1-4-9 トンネル 1 – 4 -10 防護柵 1-5 草刈り・道路清掃 1-6 1-7 1-8 – 9 1 一10 11 11 防塵対策(舗装補修) 植 樹 道路排水施設の維持補修 除排雪施設の維持補修 道路パトロール そ の他 1 -11-1 保護区(出張所)と道路工夫 1 -11- 2 渡船場 it _11一3 駅 1 -11- 4 土木事業奨励規定および道路保護組合 457 第7章 維持管理 467 467 468 468 469 473 475 476 480 482 482 482 483 483 484 485 486 481 487 487 487 488 489 489 490 490 491 491 491 492 2. 道路付属施設 2-1 概 2-2 2-3 2 一4 2-5 防護棚 街路樹 道路照明 道路標識・路面表示 2-5 一1 道路標識 2-5-2 区画線 2-6 路側駐車場 2-7 2 一8 2-9 2 -10 道路情報提供装置 道路元標 視線誘導標(デリニエーター) 立体横断施設 3 . 道路防災 3-1 概 3-1 一1 予防施設 3-1 一2 防護施設 3-2 災害の記録 3-2 一1 昭和37年災害 3-2 一2 昭和50年災害 3 一2-3 昭和56年災害 3-3 道路施設による防災対策 3-3 一1 落石対策工 3-3-2 覆 道 工 3-3 一3 地すべり防止工 3-3 一4 異常気象時における道路交通規制 4 . 冬の道路管理 4-1 除・排 雪 4-1-1 概 説 4-1 一2 気象特性 4-1-3 変 遷 4-1 一4 作業方法等 493 説 説 493 495 499 503 506 506 509 511 512 514 516 518 520 520 525 525 526 527 527 528 529 530 531 535 541 543 543 543 544 546 550 4-1-5 除雪機械の開発と変遷 4-1 一6 機械除排雪以外の除排雪 4-2 防 雪 561 569 4-1-7 冬季道路情報システム・…………………1 …町…二二一ニ・…ユ……=……・・・一 )t ) 575 4-2-1 概 説 575 4-2 一2 冬季の交通障害 4-2-3 防雪計画 4 一2-4 防雪施設 4-2 一5 防雪事業の現況 4 1. 2 . 3 凍雪害防止工事 4-3 一1 概 4-3 一2 凍上の被害 4-3 一3 凍上の規模 4-3 一4 凍上現象……・………………・・・・・………………。… 4-3-5 積雪寒冷特別措置法の指定 4-3 一6 凍雪害防止工事設計基準 4-3-7 凍上対策工法 4-3 一8 凍雪害防止工事 構造・規格(横断定規鳳) トンネルー覧表 575 577 578 583 584 584 585 588 589 590 591 資 料 597 640 第1章 総 1 .北海道の気候の特性 土木技術は物理的にも社会的にも、地域の風土に根ざした工学である。従ってその技術は地域 の気象条件、地理的要因に大きな影響を受ける。身近な例としては、道路幾何構造設計における 幅員の増加、路盤厚および置換工法等に対する工夫があろう。また冬季工事施工中の防寒養生技 術、工期の設定等に関する工夫も寒冷地の知恵である。今日、国際化が多くの分野でキーワード となっている。本州にはないこのような技術の蓄積は、これからの北方地域の発展において大き な力となろう。 1 一1 気温の特性 土木工事の施工条件は気温による制約が大きい。例えば斜面工における植栽、コンクリートの 打ち込みと養生温度、アスファルト舗装におけるプラント稼働時期の制約は代表的な例である。 従って工事行程管理に当たっては、これらの条件により、分割工事等への配慮が必要となる。 北海道の気候の特色は「積雪寒 冷」であり、本州の多雪地帯と比較 し異なる点が多い。図1一1にわが 国の降雪地、寒冷地のクライモグラ フを示す。縦軸は月平均気温(℃)で ある。横軸は月間降雨量(単位m)で ある。北海道においては札幌を、東 北は青森と盛岡を、また山形、新潟 を北陸地方の代表地とし地域間の比 較を示す。図の横軸の値から年間を 通じて降雨量が安定していること、 縦軸の値から冬期の気温低下の様子 が札幌について示されている。従っ て施工上の問題点は、本州において 9 11 て ・1 1 x こs ノ でニニ七二二二土二 一ー..=二二一ごプー ーー 凹 -1 降雪地域の気温と降水量 7 0 10 1叩 1印 12 00] I ‘ 250 III形」一― I 12 _—-一 1 は降雨対策が、北海道においては凍害対策がその主なものとなる。 さらに圏1-2 に、年間の真冬日及び冬日を4つの地域について示した。統計期間は大正10年 (1921)から昭和25年(1950)までである。真冬日は日最高気温がo℃以下の日であり、冬日は日最 低気温が0℃以下の日である。この図から平均気温を用いたクライモグラフでは示されない気象条 件のきびしさが分かる。真冬日の日数が本州において無視し得るのに対し、北海道ではおよそ2 箇月の期間を持っている。このことは、施工期間中の品質管理の困難性と、年間を通した工事の 実施計画の2つの点から難しい問題を持っていると言えよう。図1-3にわが国全体についての冬 日、夏日の分布状況を、図 1-4 には北海道内にお けるそれを示した。本州 等においてはーつの県で ほぽ同様の気温特性を持 つのに対し、道内では東 西南北、内陸と海岸線で 異なった値を示す。特に 北海道の旭川、帯広地方、 最高気温と最低気温の年 格差の大きいことが分かる。 技幸 、 如 議 , く収n 重闘 弘-z 賞き戸 血 40 繋一 極 四 0 加司自助叫 雅内 熱 一 司協 」肘肌-” n 劇い班 踊 接率 与(靴 ,,.●.加‘. ~~一山■J 180 150 日 120 90 0 真冬日〔日最高気温 ここで、 127 ( i + 1 ) V :車両の速度 i :片勾配 道路の種類 f :路面と車輪の摩擦係数 屈曲部中心線の半径は上式をもとに表2-8 のように定められた。ただし特殊の箇所において は15mまで、反向曲線(ヘアピン曲線)において はulrnまで縮小できた。 (6) 曲線部の長さの制限 屈曲部において曲線の長さをあまり短くする と自動車の運転上危険なので、本改正案では自 動車が設計速度で走った場合2-4 秒かかるように規定した。すなわち、 「屈曲部中心線の長さ は平坦部で60 m 以上、丘陵部で49m以上、山岳部で25m以上とする」 また半径を異にする同方向の二つ以上の円曲線が連結する複合曲線や、反対方向の円弧が同一 表2-8 曲線半径 半 径 平坦部 丘陵部 山岳部 国 道 指定府県道 その他府県道 切線上の点において連結する背向曲線の設置基準も定められた。 (7)安全視距 300m以上 200m以上 150m以上 150m以上 lOOm以上 75m以上 50m以上 40rn以上 30m以上 自動車の安全走行のために障害物を回避したり、車両を急停車させるのに十分な見通し距離が 49 必要になる。この見通し距離の最小限度を安全視距と呼び、屈曲部においては曲線半径を大きく したり、段切などの特別な措置を講じる場合も生じる。 安全視距は安全制動距離と安全避走距離のニつの方法によって求められ、速度が37. 8kmノhをこ すと安全制御距離が大きくなり、それ以下のときは安全避走距離の方が長くなる。本改正案にお いては安全性および工費を考慮して両者の平均をとることにした。 「安全視距は道路の中心線上 1. 4mの高さにおいて、表2一9に示した数値を標準とする。ただし中心線の半径が30 m 未満の箇 所では30 m まで、反向曲線の場合は20 m まで縮 小できるものとする」 なお屈曲部における幅員の拡大については次の ように規定された。 「屈曲部中心線の半径300’n未満の箇所におい 道路の種類 国 道 指定府県道 その他の府県道 てはその屈曲部の内側を表2 -10のように拡大すること。た 表2-9 安全視距 安 全 視 距 平坦部 丘陵部 山岳部 lOOm以上 lOOm以上 lOOm以上 lOOm以上 90m以上 80m以上 60m以上 55m以上 50m以上 だし有効幅員が9m以上の道路につ いてはこの限りではない」 (8) 片勾配 下式は片勾配を決める公式であり、この公式をもとに片 勾配の標準値を次のように規定した。 V2 1 127 R ここで i:片勾配 表2 -10 拡大幅員 半 15nl未満 径 15m以上20m未満 20rn以上30m未満 30m以上50m未満 50m以上75m未満 75m以上lOOm未満 100 m 以-h150m未満 150 m 以上300 m 未満 拡大すべき幅員 2.7m 2.2m 17m L2m 0.8m 0.5m O.4rn 0. 3m V :設計速度 R:曲線半径 I :路面と車輪の摩擦係数 「屈曲部における横断勾配は特殊の箇所を除き、中心線の半径3Com末満の箇所に限り表2 I1の 標準による片勾配をつけること、なお屈曲線と直線部との横断勾配のすり付は道路の外側に沿う 長さ10 m につて0. inlの割合をもって標準とする」 (9) 縦断勾配 昭和前期は自動車が増えたとはいえ、その多くは自動車 と牛馬車の混合交通であった。このため縦断勾配の規定は 表2-11 片勾配 半 径 ilOm未満 h1Orn以上150 m 未満 150 m 以上ZOOm未満 200m以上300m未満 片勾配 けん引力の小さい馬車を基準として定められた。すなわち、 「道路の縦断勾配は表2 -12の規定によること。ただし特殊の場合に限り平坦部では5%まで、 丘陵部では6%まで、山岳部では10%まで 急にする事を認める」 また勾配の制限長について次のような規 定が設けられた。 「勾配4%より急な坂路の長さが制限長以 表2一12 縦断勾配 勾 道路の種類 国道及び指定府県道 その他の府県道 配 平坦部 丘陵部 山岳部 3%以下 4 %以下 4 %以下 5 %以下 5 %以下 6 %以下 う0 上ある場合、勾配2. 5%より緩な区間を59m以上、各制限長毎に設けること」 この外に縦断曲線や曲線部における縦断勾配の制限についても規定が設けられた。 ⑩ その他 以上の規定のほか、道路構造令細則案には横断勾配や土工、交差、待避所などについて規定を 定めている。 ところで昭和前期の北海道の道路事業はどのような状態であったろうか。結論から言うと、第 二期拓殖計画の道路事業にはほとんど見るべきものはなかった。したがって道路の構造規格にお いても北海道独自のものはなく、昭和10年に提案された道路構造並同細則改正案の基準がそのま ま用いられた。 第二期拓殖計画の道路事業が停滞した理由をまとめると、第一に拓殖計画の財源問題があげら れる。昭和5年(1930)の金解禁に伴う緊縮財政や、昭和6年(1931)から連続して生じた冷害凶作 のため拓殖計画の財源に著しい欠陥が生じた。 その後金輸出は再禁止され、農山漁村振興費が特 別計上された。しかしその事業は農漁民に賃金を取得させるための小規模な土木事業が主であり、 拓殖計画本来の目的にそうものではなかった。 第二の理由として自動車の発達が予想以上に進展し、道路事業の目的自体が大きく変ったこと があげられる。第二期拓殖計画における当初の道路事業は車馬の通行を標準としており、自動車 の通行を目的としたものではなかった。しかし長距離のバス路線やトラック輸送が急速に進展し、 道路も自動車交通に適応できるように改良することが要請された。 昭和8年(1933)に完成した札樽国道は自動車の通行を前提にしたものであり、本区間の改良を まって鉄道省は北海道で初めて省営バスを昭和9年より運行した。 昭和11年(1936)より第二期拓殖計画改訂案の趣旨にそった予算が編成され、道路事業も自動車 の普及に対応して道路改良事業に重点がおかれた。また多額の経費のかかる永久構造橋の架設の ため、一般の道路橋梁事業から特殊橋梁費を分離し、継続費とした。さらに地方費の事業として 準地方費道の橋梁をコンクリート橋に架換える計画が進められた。 昭和前期に河西橋(帯広市十勝川)などの大型橋梁が建設されたのはこのことによる。 しかし昭 和12年(1937)に日中戦争が始まり戦争の拡大とともに拓殖費予算は削減され、道路橋梁事業費は 年ごとに減少していったのである。 2-4 昭和中期(昭和20~昭和40年) 2-4 一1 北海道開発庁の成立と道路構造令、第二次改正 昭和2年(1927)以来実施してきた第二期拓殖計画(21年度まで)は終戦とともに事実上中止とな り、北海道の開発は基本方針が確立されないまましばらくは推移した。戦前、北海道の開発は中 央においては内務省が、現地においては国の機関である北海道庁がこれにあたってきた。一方、 51 新憲法では地方自治機能の拡充、強化が図られ、これにともなって北海道庁も国の機関から地方 自治体に改組されることになった。 このため北海道の拓殖行政を担当していた内務省や、巨額な国費を地方自治体にまかせること の可否を検討していた大蔵省等の働きかけにより、政府は内閣に北海道開発庁を設置し、北海道 の開発行政を直轄するという案を決定した。その後いく多の変遷を経て、昭和25年(1950) 6月、 国務大臣増田甲子七を長官に北海道開発庁が発足した。その翌年の昭和26年(1951) 7月1日、北 海道から弓は継いだ国費関係職員3, 161人をもって北海道開発局が発足した。 北海道開発法の制定により、北海道の総合開発事業を実現するために昭和26年(1951) 10月、「北 海道総合開発計画及び第ー次五箇年実施計画」が北海道開発審議会において決定された。この計 画では緊急施策として次の4点をとりあげ、これを強力に推進することにした。 (1) 産業開発の原動力となる電源の開発 (2) 開発の重要な基礎施設中、とくに先行すべき道路、港湾、河川等の整備拡充 (3)食糧の増産 (4) 開発の基本調査 計画の所要資金は総額4,335億円であり、このうち道路が418億円、港湾が122億円、河川が332 億円、農業が812億円であった。 この第1次五箇年計画の成果を道路事業についてみると以下のようになる。 昭和21年(1946)の第二期拓殖計画終了時の道路総延長は約42, 928血であったものが、第1次五 箇年計画の直前である26年(1951)には44,462kmとなり、さらに第2次五箇年計画の直前である32 年度末には53, 571kmと伸びた。すなわち第1次五箇年計画では9, 100kmの延長が増加した。その質 的内容をみると昭和27年(1952)当時、国道り道道の舗装延長はわずか73kmであったが、昭和32年 (1957)度末には130km伸長して206kmとなった。また国道、道道の永久橋は910橋から1,650橋へと 増加した。 第1次五箇年計画で完成した北海道開発局関係の主要道路工事をみると、まず国道36号線千歳 ~札幌間(34. 5km)の改良舗装工事が注目される。この道路は昭和27年(1952) 10月に着工され、翌 28年11月に総工費約8億7, 000万円(安全保障費)をもって完成した。アスファルト舗装された道路 は弾丸道路とも呼ばれ、舗装道としては日本最長のものであった。しかも凍上対策工法、冬季タ イヤチェーンによる舗装面の磨耗対策工法、舗装道路除雪工法など新しい技術が研究開発された。 この工事成果を体系化し、規準化して作成されたのが『北海道開発局道路工事設計基準』である。 その内容と基準の変遷は3北舞迫開発局迫路工事設計基準の成豆と変遷において評述する。 また国道5号線のうち、札幌~小樽間(37. 3km)の改良舗装工事は昭和28年(1953) 4月に着工さ れ、30年(1955) 10月に完成した。工費は8億2, 000万円であり、安全保障費および公共事業費をも ってあてられた。 この道路の完成によって札樽間の自動車所要時間が1時間10分から40分へと短 縮されたのである。 さてここで眼をわが国の道路構造令の改正問題に転じよう。昭和27年(1952)に道路法が改正さ 52 れ、同法30条において道路の構造基準は政令でこれを定めることが規定された。それまで道路の 構造基準として定められていたのは大正8年(1919)に制定された道路構造令と街路構造令、およ びそれに基づき大正15年(1926)に制定された道路構造令細則であった。 しかしこれらの規定は第二次世界大戦後のめざましい自動車交通の発達に対応できなく、昭和 24年(1949)頃から構造令の改正が検討され始めた。その結果昭和27年(1952)に改正第一次案、昭 和28年に第二次案が作成され、これに基づき実際に道路が建設された。その上で問題点を一部修 正し、公布されたのが新道路構造令であった。さらに昭和29年(1954)に第1次道路整備五箇年計 画が策定され、財源の面からもわが国の道路整備を推進してゆくための条件がととのったのであ る 改正案の原案が昭和10年(1935)の道路構造令細則に比べて著しく異なっていたのは次の点であ った。 (1) 道路の種別ごとに規格をさだめることをせず、A, B, Cの三つの級別を設け、それぞれを 平地、山地、都市の各部に分け、その分類ごとに規格を定めたこと。 (2) 幅員構成において建築限界を車道部分の外側へ拡げ、また路上施設帯の概念を導入したこと。 (3)線形関係に自動車交通を考慮した種々の新しい規定を設けたこと。 これらの考え方を構造令に取り入れるために、 た。とくに問題となったのは交通容量であった。 路はわが国になく、アメリカのHighway Capacity 行政的な立場からさらに多くの課題が提起され 昭和20年代後半に交通容量を越して渋滞する道 Manualが唯一の原典で あった。しかもアメリカ が自動車のみの交通を対象としているのに対し、わが国ではかなりの道路が馬車等の緩速車両に よる混合交通を考えなければならなかった。 解決すべき課題が次々と出てくる中で多くの議論を重ね、実験や試験道路を通じて得た知見を もとに、昭和33年(1958) 8月に道路構造令第244号として公布施行された。 2-4 一2 昭和33年道路構造令の内容と特色 昭和33年道路構造令の改正は単に従来の道路構造令あるいは細則等に規定されていた幅員、線 形、視距等の見直しにとどまらず、もっと根本的な問題についても明確な考えを示した。すなわ ち道路構造令の趣旨を明らかにし、あるいは道路を新設し改築する場合の目標年を規定し、また すべての規格の根本となる設計速度を明示して道路の種類や重要度に応じた適用基準を定めたの である。 これによって従来技術者の判断にまかされていた事についても基準が明確になり、より科学的 な道路建設への扉が開かれることになった。昭和33年道路構造令の特色をまとめると以下のよう になる。 (1)道路構造令の趣旨を明確にしたこと 道路構造令の第1条には 「この政令は、道路を新設し、または改築する場合における道路の構 53 造の一般的技術的基準を定めることを目的とする」 と規定されている。すなわちこの政令が適用 されるのは道路の新設または改築の場合だけてあって、維持修繕、災害復旧などの場合には適用 されないという趣旨が示されている。 また、当時の既存道路の多くは道路構造令の規格に適合していなかったが、この政令は改築す る場合に適用されるのであって、当然のことながら末改良道路が政令違反とはならない。 後段の「一般的基準」 とは、構造令は一般的に守るべき技術上の基準であって、特例の事情が あれば道路管理者の判断によってこの政令によらない改築ができる余地を残していた。その例と して日光の 「いろは坂」改築が有名である。 (2) 道路を新設しまたは改築する場合の目標年を明示したこと 道路改良を計画する際に第ーに考えるべきことは、何年先を目標に道路を建設すべきかという ことである。道路交通量は年々増加しており、目標年を10年後にするか20年後にするか、さらに は50年後にするかによって道路の幅員は大きく変ってくる。従来の構造令においてはこの点につ いて特に規定していなかったが、新構造令ではおおむね20年後の交通を考えて引画すべきことを 示した。 (3)構造基準の一元化を図ったこと 従来、構造令は道路構造令と街路構造令との二本建てであった。これは道路の存する地域によ って、道路の機能も構造も全く別になると考えていたことによる。 しかし利用者にしてみればあ くまでも1本の道路であり、道路と街路の差異は区別できない。 したがって新構造令においてはこの点を改めて基準の一元化を図った。 (4)構造基準の適用道路 昭和33年(1958)道路構造令では一般道路(一級国道、二級国道、都道府県および市町村道)につ いてのみ定めており、高速自動車国道については特に規定を設けていない。これは名神高速道路 の上事が着工されたばかりであり、 しかもこれ以外に咼迷目勤早国道か存在しなかったーと’- J る 一方、旧構造令では都道府県道までを対象としていたのに対し、新構造令においては市町村道 までを含めていることに特徴がある。これは自動車交通が農村のすみずみまで普及しつつあるこ とをふまえており、市町村道といえども自動車交通を対象としない道路改良はあり得ないという 認識による。 (5)構造基準の適用に際して道路に第1種から第5種までの区分を設けたこと 旧構造令においては道路の種類ごとに構造基準が定められていた。 したがって幅員や線形、視 距にしてもすべて国道、指定府県道、その他の府県道について規定されていた。 しかし道路の構造基準は本来、路線の重要性や地域・地形に応じて決定すべきものである。た とえば原則として一級国道は二級国道より高い構造基準を採用するにしても、地方部の一級国道 より大都市周辺の二級国道の方が交通量も多く、それに応じた構造基準を採用する必要がある。 そこで道路の種類、地域(地方部、市街部)および将来の自動車交通量に応じて第I種から第5 54 種までの基準を設けた。 (6)設計速度の向上と、従来なかった設計速度の規定を明示化したこと 設計速度とは道路設計の基礎となる自動車の最高速度をいい、これが決まると車道幅員や曲線 半径、視距などが力学的な計算から求められる。道路交通取締法によると一般道路での法定最高 速度は60厨ノhと定められる。したがってそれ以上の速度は違反となるが、実際には自動車の生態 向上と良好な道路建設とが相まって70km/h や80面ノh で走る車両が相当に存在する。 新構造令ではこの点を十分に勘案して相当なスピードアップを図っている。すなわち第1種の 平地部は80kmノh、山地部でも60km/h、第2種の平地部は70km/h、山地部で50血ノhと定めた。 以上の設計速度は旧道路構造令では何ら規定されてなく、計画や設計に用いる数値のみが示さ れていたにすぎない。すでに述べたように設計速度は道路構造規格の一番基本となるものであり、 それを明示することは合理的な道路建設を進める上で必要不可欠であるという認識に立ち、設計 速度の条項を明示した。 (7) 車道の幅員規定について 最小車道幅員は対向する2台の自動車が定められた設計速度ですれ違うことのできる最小幅を とっている。旧構造令では6mと規定され、新道路構造令では設計速度の向上に伴って7mと定 められた。 交通量が多くなると車道幅員はそれに応じて広くする必要がある。この自動車交通量と車道幅 員の関係については旧構造令では全く触れておらず、単に幅員の数値が段階的に決められていた にすぎない。 新構造令ではこの関係を明示し、交通量ごとに車道の幅員を定めている。しかしこの分野の調 査研究は始まったばかりであり、その上緩速車も含めた混合交通の車道幅員の資料は諸外国にも 無く、結局広幅員2車線道路という考え方が採用された。 これに対して 「車線主義をとるべきである」、 「緩速車を分離すべきてある」、 「路肩幅員が 狭すぎる」 といった問題点が当時から指摘されていた。しかしながら国土の狭少さ、財政上の制 約等を考えると当時得られた結論としては妥当なものであった。ただ北海道開発局においては積 雪寒冷地の地域条件を考慮すべきであるとして、独自の路肩幅員を道路工事設計基準に採択した のである。 (8) 線形について 曲線部における路面の片勾配は6%を標準としてきたが、この片勾配の値およびタイヤと路面 の横すべり摩擦係数が定まると設計速度との関係から最小曲線半径が計算できる。新構造令でも この考え方は維持されているが、より快適性を確保するために700 nlの曲線半径まで片勾配をつけ ることが規定されている。 さらに運転者のハンドル操作を容易にするため一定以上の曲線長をとるようにしたり、あるい は緩和区間の規定を定めて直線部との間にクロソイド曲線などによる緩和区間を設けた。 (9) 視距について 55 視距とは所定の速度で走行する場合に必要な見通し距離を車道の中心線に沿って測ったもので あり、制動停止視距と避走視距の両者から最小の値を規定した。制動停止距離とは路上に障害物 を発見して、ブレーキを踏み停止するまでに必要な距離であり、避走視距は対向する自動車が相 互に認識してハンドル操作を行うのに必要な距離をいう。 旧構造令では安全性を重視しすぎて視距の数値が大きく、事業費が増加する傾向にあった。こ のため実際には十分に視距を確保することなく道路が建設されがちであった。したがって新構造 令では実際の自動車走行状態を考慮して従来より小さい値を採用し、視距の確保を必ず行うよう にした。 ⑩ 舗装の規定を新規に設けたこと 舗装に関しては旧構造令では主要な街路のみについて舗装するように規定されており、その他 の道路については何の規定もなかった。しかし道路の舗装によって自動車の直接走行経費力望0% も節約できたり、快適性が向上することは明らかである。 したがって新道路構造令においては 「道路は舗装する」 ことを原則とし、交通量がきわめて少 ない場合を除いて舗装することを規定した。 さらにセメントコンクリート舗装およびアスファJレ トコンクリート舗装については路盤の支持力、舗装の厚さなどの強度に関しての基準を設けた。 設計荷重は運輸省の車両保安基準で定めている最大輪荷重5 t、最大軸重10 tを採用した。 (11、道路相互の立体交差 都市内道路のように交差点の多い道路の交通容量は交差点の交通容量で決定される。したがっ て通過交通の多い道路と道路が交差する場合、交通容量を低下させないためには立体交差方式が 適当であることは言うまでもない。~日道路構造令では立体交差に関する規定はなかったが、新道 路構造令では車道幅員が13 rn以上の道路が相互に交差する場合には原則として立体交差にするこ とが規定された。ただし市街部に存する道路で沿道の利用上不適当なものや、地形の状況等でや むを得ない箇所についしは例外規走が設けりlLてい白。 a2) 橋、高架の道路等の規定について 旧道路構造令では橋の設計荷重を9t、または6tとしていたが、その後鋼道路橋設計示方書 によって13 t または9tと規定されてきた。しかしその後自動車の重量は飛躍的に増大し、設計 荷重も見直すことになった。 新道路構造令においては、橋はすべて鋼構造あるいはコンクリート構造の永久構造物であるこ とを定め、荷重については設計自動車荷重を従来に比べ50%増して一等橋は20 t、二等橋は14 t と規定した。 2-5 昭和後期(昭和41年以降) 21u -1 昭和45年道路構造令の内容と特色 う6 昭和33年(1958)道路構造令は一般国道等を対象にしたものであり、自動車専用道路に関する基 準は含まれていなかった。このため昭和38年(1958) 7月に道路局長通達「高速自動車国道等の構 造基準」が制定され、すべての道路に対して構造規格が決定された。しかし昭和33年道路構造令 では最低規格が2車線となっており、一部の市町村道に適用するには高規格すぎるという問題点 はそのまま残された。 一方、自動車交通量の増大に伴い年間交通事故死者数が1万人を超え、「交通戦争」という言葉 が用いられるほど事態は深刻化した。このため道路構造の面からも交通安全対策を立てることが 必要となった。とくに混合交通を前提とした幅員構成の再検討が強く要請された。 昭和33年(1958)道路構造令の交通容量に関する規定はアメリカのHighway Capacity Manual (1950)に準拠して定められた。しかしわが国におけるモータリゼーションの進展により自動車交 通に関するデータが蓄積され、世界的にも注目される交通工学上の研究成果が発表されるように なった。 このような情勢を背景にして道路構造規格の再検討が昭和40年(1965)から開始され、昭和42年 (1967) 3 月に一次案が、昭和43年(1968) 5月に第二次案が示された。そして昭和45年(1970) 10月 に大正8年(1919)の制定より数えると第三次の改正となった道路構造令が公布されたのである。 以下において昭和45年道路構造令改正の内容と特色を要約する。 (1) 道路構造規格の体系化 昭和33年(1958)道路構造令はその適用範囲が一般国道、都道府県道および市町村道に限られ、 高速自動車国道等については「高速自動車国道等の構造基準(昭和41年7月、道路局長通達)」や 「都市高速道路の構造基準(昭和42年8月、都市局長・道路局長通達)」として出され、運用され てきた。 しかし一般国道は、高速自動車国道とともにわが国の広域的な幹線道路網を構成するものであ り、両者を別個に考えるのではなく有機的に結合させ、道路および交通の実情に適合した道路を 建設しなければならない。 またこれとは逆に、昭和33年(1958)道路構造令では車道について最低2車線を前提として幅員 が定められ、交通量が少ないなど特別の理由があるばあいに限って狭い幅員の車道を設けるもの とされた。ところが市町村道の総延長は約85万血におよび、狭い幅員を定めた例外規程の方がむ しろ一般的に用いられ、一車線の道路も独立した規格として認めることが現実的であった。 以上の点を考慮して昭和45年(1970)道路構造令では構造規格体系の再編成を行い、高速自動車 道、自動車専用道、一般国道、都道府県道および市町村道について、道路の種類、道路の存する 地域(地方部と都市部の別)、地形(平地と山地部の別)、自動車交通量等に応じ種別(第1種から第 4 種)と級別(第1級から第5級)に区分した。この区分に応じて車道の幅員、設計速度などを定 め、道路の規格体系を高規格のものから低規格に至るまで一貫性のあるものに改めた。表2 -13 はその構造体系を示したものである。 57 地域 地 高速自動 車国道お よび自動 車専用道 路 その他 の道路 方 部 都市部 地域 地 方 部 都 市 部 種別 第 1 種 第2 種 種別 第 3 種 第 4 種 級別 設 計 速 度 (kin/h) 1f4AiJ 表2-13 構造基準の体系 計画交通量 (台/日) 20,000 30,000以上 30,000 -20-000 第1級 120 100 F 高速・平地 第2級 100 80 F・P 高速・山地 ~ 10.000 10,000未満 高速 平地 専用 平地 高速 山地 第3級 80 60 FP 専用 山地 高速・平地 専用 平地 高速・山地 第4級 60 50 F-P 第1級 80 60 F 第2級 60 級別 器 F 専用・都心 設 計 速 度 (km/h) 第1級 80 60 P’ N 第3級 第2級 60 5 40 ~ N 国道・山地 国道平地 県道・市道・平地 I§ 30 N 国道・山地 国道・県道・平地 県道・市道‘山地 市道・平地 第4級 ~ 20 N 第5級 4 030 2~ N 第1級 60 45 8 PN 6 0 5 0 4 第2級 ~ 30 N 第I級 ~ 20 N 第4級 40 30 2~ N 専用・山地 高速 専用 計画交通量 (台/日) 20,000 以上 職 20 000 ~10, 000 10,000 -4,000 国 道 県道 市道 県道‘市道 4,000 -1,500 1,I器 国道・県道・山地 市道-山地 市道・諾 国 道 県 道 巾 〕旦 ~ 注L 表中の用語の意味は、次のとおリである。 高速:高速自動車国道 専用:高速自動車国道以外の自動車専用道路 国道:-般国道 平地:平地部 F ;完全出入制限 県道:都道府県道 市道:市町村道 山地:山 地部 都心:大都市の都心部 摘 要 高速の設計速 度は60のみ 専用は大都市 都心部以外 500 未満 摘 要 書番帯 一車線道路 市道 ー車線道路 P :部分出入制限 N :出入制限なし o2. 設計速度の右欄の値は地形その他の状況によりやむを得ない場合に適用する。 注3. 地形その他の状況によりやむを得ない場合には、級別はI級下の級を適用することができる。 (2)設計車両 道路構造の設計にあたり最も影響を与えるのが自動車であり、その設計車両を規定する必要が ある。昭和33年道路構造令では明文化していなかったが、設計車両として乗用車およびトラック、 セミトラック連結車を考慮していた。 昭和45年(1970)道路構造令ではこの設計車両を明文化し、普通自動車などの高さを 3.8 m 、幅 を 2. 5m と定めた。 また海上コンテナーをそのまま輸送する大型セミトレーラー連結車の普及も 58 配慮し、特定の道路についてこれらの車両が通行できる道路構造を定めた。 (3) 幅員構成の見直し 昭和33年(1958)道路構造令で最も問題となったことは幅員構成の規定にあった。すなわち道路 の幅員は道路の区分、地形、単位区間自動車交通量および自転車の混入率に応じて44段階に分け られ、著しく複雑になっていた。 昭和33年道路構造令においても車線や緩速車分離という考え方が全くなかったわけではない。 しかし、既存道路における経験を積み重ねるにつれ、車線や導流路を明確にすることが交通安全 上あるいは交通容量の点でも望ましいことが明らかになった。 とくに車道幅員が9m、 ulrnとい う広幅員2車線道路は交通運用上不都合な点が多く、しかも交通安全の面でも問題点が多かった ので早急に再検討することになった。 昭和45年(1970)道路構造令では増大する自動車交通に対処するため自転車、歩行者を自動車か ら分離し、車道幅員については車線の倍数とする車線主義に改めた。 車線の幅員は走行速度と交通容量に大きく影響するので、表2 -14に示したような車線標準値 を定めた。 設 計 速 度 80km/h 以上 60km/h 60, 50または40k可h 50, 40または30km/h 表2-14 車線幅員の標準値 標準の車線幅員 3. 50m 3. 25m 3. 00m 2.75m 該当する規格の名称 第1種(第4級を除く),第2種第1級,第3種第I級 第1種第4級,第2種第2級,第3種第2級,第4種第1級 第3種第3級,第4種第2級,(第4種第3級) 第3種第4級 なお計画交通量が500台ノ日以下の道路については車線主義はとらず、車道幅員として単に4m を定めているのみである。 (4) その他の横断構成 中央帯については昭和33年(1958)道路構造令でも幅員が14 m以上の道路で円滑な交通を確保す るため、特に必要な場合には設置するという規程があった。昭和45年(1970)道路構造令ではさら に進めて4車線以上の道路には原則として設けるものとしている。多車線道路の往復分離は正面 衝突事故の防止、交差点における右折の処理、歩行者の安全性などを考慮すると必要不可欠のも のとなる。 路肩は路体の保護、故障車の非常駐車およびその他の一時駐車、走行のための側方余裕、車両 の逸走に対する余裕、曲線部における視距の確保などの機能がある。昭和45年(1970)道路構造令 では昭和33年(1968)道路構造令に比べて路肩の幅員を拡げ、道路の種別に応じて必要最小限の幅 員のものを設けることにした。 停車帯は市街地における停車需要に対応するものであり、とくに2車線道路においては停車が 本線交通に与える影響は大きい、このため都市部の2車線道路においては、原則として2. Smの 停車帯を設けることが規定された。 59 歩道については昭和33年(1968)道路構造令に市街地(第4種)の道路に設置することが規定され ていた。昭和45年(1970)道路構造令においてはこれをさらに進め、地方部においても安全かつ円 滑な交通を確保するために必要な箇所では歩道を設置することにした。これはわが国における地 方部ではかなりの歩行者が存在し、最も弱い立場にある歩行者を交通事故から守ることを重視し たことによる。 昭手ロ45年(1970)道路構造令では新しく自転車専用車、自転車歩行者専用道の基準を定めた。こ れはいわゆる自転車歩行者道のように道路の一部として設けられるものとは異なり、自転車ある いは自転車と歩行者のための専用道路として建設されるものである。 自転車道、自転車歩行者道の計画についてまず考えなければならないことは、自動車と自転車、 歩行者の交通量により専用道として分離すべきか否かという判断である。これは自転車および歩 行者の安全を確保し、さらに交通の円滑かを図ることにおいて検討されなければならない。 (5) 交通容量の抜本的改訂 昭和33年(1958)道路構造令で用いられた交通容量は、1950年に出版されたアメリカのHighway Capacity Manual に準拠したものであった。その後わが国の交通現象が解明されるにつれ、HC M 容量はわが国では過少であるとの見解が支配的となり、幅員決定の基本となる交通容量をわが 国の実情に合せて抜本的に改訂した。 たとえば多車線道路の一車線当り基本交通容量は2, 500台ノ時であり、その可能交通容量は第3 種一級(平地)で1,0 1, 0 台ノ時、計画水準を2とした時、設計交通容量は1, 530台ノ時となる。さら にピーク率と重方向割合を考慮して設計基準交通量を求めると11,000台ノ日となる。この設計基準 交通量とは道路が通行を許容できる最大交通量をいい、日単位で表したものである。 道路の車線数は計画交通量と設計基準交通量から決定する。ここでいう計画交通量とはその道 路が計画目標年に達したときの年平均日交通量である。昭和33年(1958)道路構造令では目標年次 とおおむla乙o年後と規定しぐいる。し刀ュし市町村道まぐを含めた多種類の道路のすべてをこの規 定によって計画することは、計画路線の性格や重要性を逆に無視することになり不合理である。 そとで昭手1145年(1970)道路構造令においては道路を新築、改築する場合の目標を一義的に固定 せず、路線の重要性に応じて適切な目標年が設定できることになった。 なお計画交通量と設計基 準交通量の比は混雑度といい、その後の道路整備計画を進める上で重要な尺度として用いられた。 (6)設計速度 昭和45年(1970)道路構造令では高速自動車国道等の基準も取り入れたので、設計速度の上限は 80kmノhから120km/hへと大幅に向上した。しかし一般国道などについての設計速度は従来の80kmノh を上限として変えていない。 設計速度の比較的低い60km/h未満については昭和33年(1958)構造令のようにー律的に定めるこ とはせず、範囲をもたせて設計速度が規定されている。 (7)線形、勾配 曲線半径や縦断勾配といった道路線形に関する基準値は、設計速度から理論的に計算されるの 60 で、昭和45年(1970)道路構造令での改正は余り多くない。その中で注目されるのは片勾配に関す る基準であり、とくに積雪寒冷地における最大片勾配や合成勾配の規定が明示され、制限が強め られた。 (8)交差施設 道路交通の機能は交差接続部の計画、運用によって大きく影響され、しかも交通事故の発生は 交差点付近が最も多い、したがって平面交差点の計画および設計にあたっては、周辺の地形、土 地利用状況、交通の質と量などを総合的に勘案する必要がある。しかしこれらの諸要素の組合せ は交差点ごとに異なり、あらゆる交差点に適応できる一般的規定を設けることは困難である。 そこで昭和45年(1970)道路構造令では以下の事項について大綱を示すに留まっている。 1 )5枝以上の交差の禁止 2 )屈折車線、変速車線、交通島の設置および隅切り 3)屈折車線または変速車線を設ける場合の車線幅員 4)屈折車線および変速車線の幅員 5 )屈折車線または変速車線のすり付 また立体交差については4車線以上の道路が交差する場合に適用する。 (9)舗装 昭和33年(1958)道路構造令では舗装に関しての規定が詳しく、また単位区間自動車交通量に応 じて構造を定めていた。しかしその後の舗装技術の進歩は著しく、設計理論も大幅に変化した。 したがって昭和45年(1970)道路構造令では舗装について詳細な規定を設けることはせず、一般 的に考慮しなければならない事項を掲げ、設計輪荷重のみを5 tと規定した。 ⑩ 安全施設など 昭和33年(1958)道路構造令では交通安全施設として防護施設のみを取り上げているが、昭和45 年(1970)道路構造令では交通安全施設、防護施設、防雪、除雪施設、トンネルなどについて規定 を設け、交通安全のための配慮を行った。 また道路交通の利便性を高めるために駐車施設は不可欠であり、駐車場の条項が新しく設けら れた。 ql) 自転車専用道など 自転車道の整備などに関する法律は、道路の一部として設けられる自転車道および自転車歩行 者道のほか、独立した道路である自転車専用道路および自転車歩行者専用道の整備を図るものと している。これを受けて昭和45年(1970)道路構造令では、これら専用道の幅員、建築限界を定め るとともに、線形、勾配などについては自転車および歩行者が安全かつ円滑に通行できる構造で なければならないとした。 61 2-5 一2 昭和57年における道路構造令の一部改正 昭手U45年(1970)に全面改正された道路構造令は、その後の道路交通情勢および道路をめぐる社 会経済情勢の変化をふまえ、昭和57年(1982) 9月にその一部が改正され、公布された。改正され た点は副道および植樹帯に関する規定の新設、自転車道等の設置要件および幅員の変更、分離帯 規定の変更、積雪地域に存する道路の幅員についてなどである。 以下に改正の内容を要約する。 (1) 副道 副道は高速自転車国道または自転車専用道路以外の道路に設けられ、4車線以上の道路で出入 りが妨げられる区間の延長、盛土等の高さ、沿道において生じる交通需要、車両の沿道への出入 りを確保するための他の措置等を総合的に勘案し、必要に応じて設けるものと定められた。 副道の幅員は車両の安全かつ円滑な通行が可能となるように4mを標準とし、その両側に幅員 ft 5m以上の路肩を設けることにしている。副道は車道の部分として規定されており、車道に関す る諸規定が適用される。 なお、側道という用語は高速自動車国道に平行する市町村道などのように、道路種別が異なる 場合に使用される。これに対して副道は同ー道路の部分として、もっぱら沿道への出入りを確保 するために、本線車道部に平行して設けられる車道部分となる。 (2)植樹帯 植樹帯は本線車道部、副道、歩道、自転車道もしくは自転車歩行者道のそれぞれの問、または 路端寄りに設けるものと規定された。都市部の幹線道路である第4種1級の道路には植樹帯を必 ず設け、その他の道路には必要に応じて設けるものとされ、その幅員は1. 5mを標準としている。 植樹帯は良好な道路環境の整備と、沿道における良好な生活環境の確保という二つの目的をも っこ設置されるものこある。植樹帯iよ縁石線等により区画し、歩道等の他の部分と区別しこ独立 じた横断構成要素として設けられる。 なお、従来から整備を進めてきた、いわゆる 「環境施設帯」 については、昭和57年(1982)構造 令に位置づけられた植樹帯を重要な構成要素として、今後とも積極的にその整備を推進するもの とされている。 (3) 自転車道および自転車歩行者道 昭和45年(1970)構造令では自動車交通量、自転車交通量が共に多い場合に自転車道の設置を検 討することになっていた。今回の改正構造令では自動車の交通量にかかわらず、自転車交通量が 多い場合に自転車道を設置できることとした。 また従来、自転車歩行者道の幅員は2m以上とさ れていたが、改正構造令では道路の区分に応じて幅員の最低値を定め、第4種第1級、第2級の 道路にもうける自転車歩行者道の幅員は3. 5m以上とした。 さらに歩道の最低幅員も0. 75mから1. 5mへと弓は上げられた。 (4)積雪地域に存する中央帯等の幅員 62 積雪地域にある道路については除雪を考慮した幅員とする必要があり、従来は中央帯および路 肩の幅員について除雪幅を勘案して定めることとされていた。昭和57年(1982)道路構造令ではこ の点をさらに進め、歩道および自転車歩行者道についても除雪幅を勘案して幅員を定めるものと なった。 昭和45年(1970)道路構造令と昭和57年道路構造令との間に、昭和50年(1975)に道路の標準幅員 に関する基準(案)が定められた。この基準はその後の道路計画に大きな影響を与えた。 したがっ てその詳細は次章の北海道開発局道路工事設計基準のところで取り上げることにする。 3‘北海道開発局道路工事設計基準にみる道路構造規格の変遷 3-1 北海道開発局道路工事設計基準の成立経緯 北海道開発局道路工事設計基準(以下設計基準と略称する)は昭和35年(1960)に第1号が印刷さ れて以来、今日まで毎年改訂が重ねられてきた。この設計基準は昭和33年の道路構造令をベース とし、さらに北海道の地域特性を加味して策定されている。 設計基準の内容をみると道路構造令、アスファルト舗装要綱、道路土工指針、道路排水工指針、 道路付属施設設置基準等の内容を網羅しており、時代を先取りした技術指導書であったことが分 かる。 北海道開発局道路工事設計基準が北海道の道路建設史上に果してきた役割を大きくまとめると 次のようになる。 (1) 積雪寒冷地における幅員構成、とくに路肩幅員および滞雪スペースの特例を定着させたこ と (2) 積雪寒冷地におけるアスファルト舗装技術を確立したこと (3) 積雪寒冷地における路盤工技術、とくに凍結深度を考慮した置換工法を採用したこと ところで北海道開発局道路工事設計基準はどのような経緯で誕生したのであろうか。この設計 基準は多くの人々の手によって成立し、発展してきた。その中でも高橋敏五郎こそキーパーソン であり、彼なくして北海道開発局道路工事設計基準は生れず、北海道の地形風土に即した道路建 設技術の発展はなかったといっても過言ではない。 高橋は明治39年(1906) 5月山形県中山町に生れ、昭和5年(1930) 3月北海道帝国大学工学部土 木工学科を卒業した。同年4月に北海道庁土木部へ採用となった。当時は不景気のどん底にあり、 満州事変の起る直前でもあった。このときの不景気について高橋は、「その後私の月給が7年間に 1 円も昇給しなかったことでもわかるであろう」 と語っている。 昭和12年(1935)に道路課と試験室の兼務となり、高橋の才能が開花した。高橋は「試験室は大 学の研究のようなものをやって貰っては困る。工事に直接役立って予算の節約をはかるものでな 63 ければ 」 という指示に当初は反発しながらも、後にもそれを自分の基本方針として多くの研 究成果を発表した。雑誌『道路』は昭和14年(1939)に刊行されたが、その年の8月号には「安定 処理に関する報告」 という高橋の論文が掲載されている。 昭和22年(1947) 1 月土木部道路課長となり、24年11月函館土木現業所長となった。昭和26年 (1951) 6 月北海道開発局が発足し、高橋は初代の札幌開発建設部長となった0 昭和31年(1956) 12 月に北海道開発局土木試験所長へ転出するまでの5年間、道路事業の最高実施責任者として活躍 した。 札幌開発建設部長として特筆される仕事は一般国道36号線札幌~千歳間34. 5km改良舗装工事で あった。この工事は安全保障費により昭和27年(1952)10月に着工され、翌28年(1953) 11月に完成 した。この工事の計画、設計、施行、監督の全般にわたって高橋は自から指揮をとり、報告書を 執筆した。本節ではこのうち構造基準に係わる部分について紹介し、北海道開発局道路工事設計 基準の成立前夜について思いを巡らすことにしたい。 札幌~千歳道路は 「自動車主用道路」 という理念に従って改良工事が計画された。 この自動車 主用道路とは専用道路と区別して言ったものであり。混合交通を許しながら自動車を主対象とす る道路を意味した。 札幌千歳道路の改良は次の3点に重点が置かれて計画、設計された。 (1) 無理の少ない、経済的な改良路線をとり得ること (2) 全区間のスピードアップから見て利用度の高い路線となること (3)規格の連続性を保持されること このなかでもスピードアップをいかに確保するかが問題となった。なぜならは自動車主用道路 ではその混合交通の状況によって、ある区間では最初から自動車のスピード制限が余儀なくされ たからである。 高橋らは当初、従米の設計忌想八基づさ平地の規格と高、し、山地v〕規格を低く’る考え力ぐ 測量を開始した。しかし設計が進むにつれて矛盾や不合理が生じ、結局 「山速里鈍」 の原則、つ まり地形の悪い山間丘陵部の規格を高くし、緩速交通の多い都市部の規格を低くする方針を採用 したのである。 山速里鈍の原則により、当然の結果として改良工事は主として山間部でなされ、人家の多い平 地部では部分的な改良が行われた。このため用地費が減少し、結局は工事費用を節約することに もなった0 表2 -15は札幌千歳道路の築造基準を示したものである。この築造基準について高橋は次のよ うに記述している。 64 1.仮 定速 度(血ノh) 2 .巾 員(m) 3 .曲 線半 径(ク) 4 .曲 線 長(ク) 5.安全視 距(ク) 6.縦 断 勾 配 7 .縦断曲線長(m) 勾配差 3 %以下 3-4 5-6 6 -8 8 -10 8.曲線部拡巾(m) 9 .緩和区間長(ク) 10.曲線部片勾配 11 ‘片勾配摺付 12.反向曲線間直線長(m) 表2 -15 築 造 基 準 45 舗装7.5 150以上 50以上 120以上 3 %以下 40以上 I’ I! 50以上 70 ” 半径300以下 0.50 40 半 径 200未満 片勾配 4 % lOmに付 I % 40以上 75 60 路肩各1.0 300以上 65以上 120以上 6 %以下 50以上 60 ii 80 F’ 90 1I 110 lI 140 11 300未満 3 % 450以上 85以上 170以-上 6 %以下 70以上 90 ” 120 FI 140 lI 180 11 220 ” 300以上 2 % 「緩速交通の多い所の自動車速度は45kmノhと仮定し、緩速交通の少ない所では原則として60 血ノh-. さらに地形や環境が良ければ75km/hまで高めるように考えた。 また規格の適用範囲を定め るのに従来のように山地、丘陵、平地等と表現することは適当ではなく、区間毎の環境条件を考 えて直接、仮定速度を設定する方が簡明で強力な表現であった。仮定速度を設定すると個々の規 格が定め易くなると言う便宜がある。私達は現在の築造基準ゃ、新しい道路構造令の案などに仮 定速度による検算を加えて上表のような築造基準を定めたがここでも多少の重点順位を考えた。 すなわち、幅員、安全視距、曲線半径、縦断曲線長等の順で、勾配は比較的軽視された。これは私 達が自動車の安全走行に必要だと考えた順位であるが、人によって考え方が違うかも知れない」。 図2一1は札幌千歳道路 の横断定規を示したもので ある。舗装幅は7. 5-8. 5m, 路肩がすでに 1. Omとされ ていることが注目される。 側溝外に1. Onlの余地をと っているが、これは土砂崩 落に備えるというよりも、 路肩の占用を一切禁止して 手 二‘笥 1 .00-1.20 ~ 土工巾10. I25巴10.75 嬬 I 舗装巾7I0 00 ~( ~ ー反舗装 )路半ェー ー ー ー ー ー 8.50-9.00 I I 図2-1 横断定規凹 凹 × ここを利用させること、また冬期除雪の雪置場としての目的をもたせている。 さらに凍上対策のために0. 8mの路盤工が示されており、北海道における道路構造の原型がこの 時期にすでに完成されていたことが理解される。 高橋は札幌千歳道路の完成後もさらに改善すべき点として次のような考察を記している。 65 「個々の規格については、仮定速度と対照して充分余裕をとったつもりであったけれど、実際 には不足と思われるものが出て来た。その中でも最も目立つのは安全視距とカントであった。安 全視距については、平面曲線の場合よりも縦断曲線の場合に視距の不足感が強く出てくる。ただ しこれは、真実に不足だと言うことではなく、安全感を満足させないという意味である。 曲線部の片勾配についても、設計速度で走るならばそれ程不都合はないようであるが、安全感 から言うと、いかにも不足に見える。緩速交通の便宜を考えてカントを弱くし過ぎた傾向があり、 カントは強過ぎる位の方が安全感は高くなる。 幅員については、緩速交通の勢力が強くて自動車スピードの低下が甚しい市街地等よりも、緩 速交通の勢力が弱くて自動車のスピードが出易くなる郊外などで、緩速車にも自動車にも危険で、 むしろ狭いと言う批評の方が強くなっている。これも実用と言うより安全感から出た批評で、路 肩の幅や構造から受ける感じも手伝っている。高速自動車道路の路肩としては、私達はもっと広 く、安全な路肩をつくる必要があるように思われる。 山間部の6%の縦断勾配は一般の車両には支障がないが、重荷を積んだトラック類には障害に なっているようである」 このような反省があったにせよ、スピードアップをいかに図る・かという設計理念は貫かれ、北 海道民は札幌千歳道路を「弾丸道路」と呼んで親しみ、利用した。 高橋は昭和32年(1957) 6月北海道開発局建設部長となり、同33年11月に日本道路公団名神高速 道路試験所長に転出してわが国最初の本格的ハイウェイ建設を指導した。 3-2 構造規格の変遷 昭和35年(1960)に出された北海道開発局道路工事設計基準は活字印刷されたものであり、改良 工事、舗装工事、橋梁、附希工事、防雪価参考設計といっ構成になっている。 この設計基準は略 和33年(1958)道路構造令の改正を始めとして種々の基準を参考にして作成された。各種基準の作 成経緯をまとめると次のようになる。 昭和29年(1954) 道路構造令第3次案送付 昭和30年(1955) 第3次案一部改正、地域の決定資料作成 昭和31年(1956) 第3次案の具体的適用 昭和32年(1957) 第3次案の一部改正、昭和32年度舗装工事基準、道路事業の計画および実施の基準、路線の級 別、車道幅員、橋および随道の幅員、路肩の幅員、各路線地方部級別規格表および区分図 昭和33年(1958) 66 歩道関係築造基準、歩道縁石の設計基準、舗装設計の基準、一・二級国道標準横断図、道路事 業の計画および実施の基準、橋梁の設計基準、設計荷重 昭和34年(1959) 道路工事設計基準(案)〔1.改良工事、2.舗装工事〕 昭和35年(1960) 道路工事設計基準〔1.改良工事、2.舗装工事、3.橋梁、4.附帯工事、防雪柵参考設計〕 なお昭和60年度(1985)の設計基準は次の構成になっている。 L 整備計画基準、2.道路の構造基準、3.改良工事、4 舗装工事、5.橋梁工事、6. 附帯工事 本節ではこのうち「道路の構造基準」 を中心に昭和35年(1960)から昭和60年(1985)までの変遷 を追跡する。 3-2 一1 車道幅員 本節は車道幅員に関する設計基準の変遷をまとめたものであり、 「道路事業の計画および実施 の基準」、「構造基準の区分(地方部)、(都市部)」、「車道幅員(地方部)、(都市部)」、「計画年次およ びサービス水準」、「定型化横断図」、「標準横断図」 の項目について解説するa (1)道路事業の計画および実施の基準 この頃の記述は昭和35年(1960)版から昭和40年(1965)版まで無い。昭和41年(1966)版と42年版 には 「道路の構造は原則として総、じて道路構造令によるものであるが、細部規定されている事項 についてはこの基準によるものとする」 と書かれている。 基準となる道路構造令は昭和42年(1967)に第一次案が提出され、43年に第二次案が出された。 そして昭和45年(1970)に道路構造令の改正案が政令第320号として公布された。また昭和57年 (1982)には道路構造令の一部が改正され、公布された。 (2購造基準の区分(地方部)、(都市部) 構造基準の項目は昭和42年版まで無く、昭和43年版から設けられている。その記述は次のとお りである。 「(イ)地方部 地方部に存する一般道路には、C規格およびE規格を適用するものとし、各路線の適用区分は 別表および別図のとおりとする。 ただし、過年度からの継続施工区間で、旧構造基準による方が 適当な場合には、現行どおりとして差し支えない。 (ロ)都市部 都市部および家屋連担地域で、市街地構成を行う場合はD規格を適用する。D-1規格はC-‘ およびC-2規格の適用路線に、D- 2規格はC- 3規格の適用路線の市街地構成に採用することを 原則とする。 ただし、過年度からの継続事業で市街地構成十基準の変更が不可能な場合は、旧構 67 造基準によることができる。」 昭和44年(1969)版をみるとC, D ,E規格がそれぞれ第3種、第4種、第5種へと変更された。 また都市部については 「第4種を適用する場合には、その路線の街路としての性格および接続す る地方部の規格との関連などを考慮する」 という内容が追加された。 昭和45年(1970)版では、 「地方部に存する一般道路には第3種を適用する」 と定められた。こ の内容は昭和49年(1974)まで変更されていない。 昭和50年版では定型化適用区間と非定型化適用区間の規定が加えられた。すなわちA規格区間 およびB規格区間が図示された。昭和51年版においては表2 -16に示すような定型化標準横断図 の適用基準が掲示されている。 図 表2-16 定型化標準横断皿の適用基準 地域区分 都 市 部 治道土地利用状況 規 格 名 造成幅員 A地域 都市部にあって第1種、第2種住居専用地 域及び、良好な住居環境を保全すべき地域 As規格(A規格近郊都市部環境対策区間) 42 m Ao規格(B規格 Bs規格(A規格近郊都市部緑化区間) B地域 「A地域」以外の都市部の地域 地方部 C地域 地方部にあって沿道に集落等がある か又は将来その形成が見込まれる地 域 D 地域 C地域以外の地方部の地域 Bo規格(B規格 Cs規格(A規格地方部) Co規格(B規格 II ) 40 m 35 rn 30 m 30 m 25 m 昭和54年(1979)版からは標準幅員の基準がのせられている。道路の標準幅員は 「道路の標準幅 員に関する基準(案)について」(昭和50年7月15日都計発第40号、道企発第51号)の趣旨により道 路網体系の中で果すべき機能に基づいて定められた。 すなわち主要幹線道路、幹線道路、補助幹 線道路という3つの道路区分を行い、一般国道、地方道の道路幅員の標準化および一定化が規定 された。各道路の機能を示すと以下のようになる。 1 )主要幹線道路 主として地方生活圏および大都市圏内の骨格となるとともに、高速自動車国道を補完して地方 生活圏相互を連絡する道路。 2 )幹線道路 地方部にあっては、主として地方生活圏内の二次生活圏の骨格となるとともに、主要幹線道路 を補完して二次生活圏相互を連絡する道路。 3)補助幹線道路 地方部にあっては、主として地方生活圏内のー次生活圏の骨格となるとともに、幹線道路を補 完し、一次生活圏相互を連絡する道路。 図2一2は道路幅員と横断面構成要素との関係を示したものである。この基準(案)では次の 用語を定義している。 68 道 路 幅 員 環境施設帯 車 道 中央帯 歩道等植樹帯 側道 停車帯 車 道 環境施設帯 停車帯 環境施設帯を設ける場合の例 道 路 幅 員 植樹帯 歩道等 側道 1 歩道等 車 道 車 道歩道等 植樹帯 中央帯 植柱帯 路 路 ‘ 肩 道 路 幅 員 ド 路肩 車 道 肩 叫 路肩 環境施設帯を設けない場合の例 図2-2 道路幅員と横断面積構成要素との関係 環境施設帯 環境施設帯とは 「道路環境保全のための道路用地の取得および管理に関する基準」(昭和49年4 月付、都市局長、道路局長通達)により取得される道路の部分である。昭和45(1970)道路構造令で は環境施設帯の定義はなされていない。上記の通達によると路肩、歩道等、植樹帯、側道は環境 施設帯に含まれるが、停車帯は車道の一部を構成するものであり、従って環境施設帯には含まれ ない。 植樹帯 街路樹等を植えるために設けられる帯状の道路部分をいい、昭和45年(1970)道路構造令では歩 道等に含まれている。 歩道等 歩道、自転車道または自転車歩行車道をいう。 道路幅員 道路幅員とは中央帯、車道、路肩、植樹帯、歩道等および環境施設帯の幅員を合計した幅員を いう 側道 環境施設帯の中に設けられ、主として沿道へのサービスを目的とし、通過交通の用に供しない 道路をいう。従ってその設計にあたってはこの点に十分留意する必要がある。 昭和58年(1983)版の設計基準では車道幅員の構造基準について以下のように規定している 69 「1.構造基準 (1) 道路構造令に基づく構造基準 地方部に存する一般道路には第3種を適用する。また、都市部および家屋連担地域で市街地構 成を行う場合は第4種を適用する。第4種を適用する場合には、その路線の街路としての性格お よび接する地方部の規格との関連などを考慮するものとし、第3種第1級および第2級に接続す る場合に第4種第1級を、第3種第3級に接続する場合に第4種第2級を採用することを原則と する。 ただし、過年度からの継続施工区間で前年度までの基準による方が適当な場合には、現行どお りとして差支えない。 (2) 路線分類および適用定規 一般国道の整備にあたっては、「道路の標準幅員に関する基準(案)について(昭和50年7月建設 省都計発第40号、道企発第51号)」に基づき、道路網体系の中で果たすべき機能に着目し、各路線 分類、地域区分に従い、道路幅員の標準化および一定化を図るものとする。 また、地域区分については、従来の基準を参考にして分類を行い、適用にあたっては本局(道 路計画課)と協議するものとする。 ただし従来の規格で改良が進み、標準幅員で施工することが実情にあわないと判断される場合 は、従来の規格で施工する。」 なおこの基準は昭和60年(1985)版まで継承されている。 (3) 車道幅員(地方部)、(都市部) 車道幅員に関する項目は昭和39年(1946)版から設けられ、 「道路幅員、車道幅員は付表による ものとする」 と記されている。 昭和42年(1967)版には、 「ただし特別な場合で別に基準が設けら れた場合にはこの限りではない」 という追加記述がされた。しかし地方部、都市部の分類はされ ていない。 昭和43年(1968)版から車線幅員が地方部と市街部に分かれ、それぞれ次のように書かれている。 「( 1) 地方部 車道の幅員は、車線主義に基づいて定めることを原則とし、別表に規定する車線幅員と計画交 通量に応じて決定する。ただし将来計画幅員を直ちに設定する必要性が承認されない場合は、ス テージ施工方式を採用する。 (2)市街部 市街地構成区間の車線幅員を別表に示す。本線幅員(縁石間間隔)は、計画交通量およびその都 市の都市計画などによって決定されるが、2斜線の場合はulrn, 4車線の場合は16rnを標準とす る なお、都市計画幅員および既存の道路敷地巾が計画幅員より過大な場合は、ステージ方式施工 を採用しても差支えない」 昭和44年(1969)版についてみると、地方部の車道幅員は「当面(第5次5箇年計画期間)は、一 70 次改築については2車線(一部地方部第5種路線を除く)施工を、二次改築についてはその性格分 類ごとに考慮するものとし、別表に規定する規格と設計容量に応じて必要な幅員を確保するもの とする」 と定められた。 また市街部が都市部と改められたが、その他の記述は前年と同様であった。 昭和45年(1970)版では地方部の除外規定が、 「一部地方部第3種5級路線を除く」 と変更された。また都市部については、 「車道幅員は標準 横断面図を標準とする」 と改められた。 車道幅員の規定は昭和45年以降、昭和53年(1978)まで変更されていない。 表2-17 車道幅員の標準 主要幹線道路 幅 員 3Mm 幹線道 路 3.25m 補助幹線道路 3Mm 昭和54年版に至り、標準幅員の基準が採用され、車道幅員は巻末に表2 -17のように示された。 また地方部および都市部の規定は以下のよう定められた。 只1) 地方部 1 次改築、ついては2車線(一部地方部第3種第5級路線を除く)施工とし、2次改築については その性格分類ごとに別表に想定する規格と設計容量に応じた必要な幅員を確保するものとする。 (2)都市部 別表の規格と設計容量に応じて必要幅員を確保するものとし、車道部幅員は標準横断図を標準 とする。なお、都市計画幅員および既存の道路敷地巾が計画幅員より過大な場合にはステージ方 式施工を考慮すること」 この規定は昭和57年(1982)版まで用いられた。 昭和58年(1983)版においては道路の区分が主要幹線道路、幹線道路、補助幹線道路、その他の 2 車線道路(3種4級)、 1車線道路(3種5級)となた、車道幅員の標準として表2 -18が示され 表2 -18 標準横断 図 の造成幅員 地域区分 都市部 沿道土地利用状況 A地域 都市部にあって第1種、第2種住居専用地 造 成 幅 員 主要幹線 幹 線 補助幹線 50m, 42m 40m . 32m 30m . 20m 域及び良好な住居環境を保全すべき地域 B 地域 「A地域」以外の都市の地域 地方部 C地域 地方部にあって沿道に集落等があるか又は 将来その形成が見込まれる地域 D 地域 C地域以外の地方の地域 〔 〕内は、一般国道36号に適用する。 ( )内は、用地巾が22.0mと取得されたものに適用する。 (22m ) 42m、 33m (35mJ 28m, 17m [30m) 21m, lim 13.5m 32m. 30m 20m, (22m) 15Mm 15m 9.5m 12m 16m 16m 13.5m 13m 8.5m 1Mm 71 た。 昭和59年版では車道巾員の変更はなく、道路区分と設計基準交通量の表の一部が変更された。 この規程は昭和60年(1985)版においてもそのまま採用されている。 (4)計画年次、標準横断 図 計画年次およびサービス水準の項は昭和44年(1969)版に初めて設けられた。ここでは 「計画交通量を設定する場合の目標年次は概ね昭和60年(1985)とし、設計交通容量はサービス水 準2を標準とする」 と規程されている。この内容は昭和53年(1978)版まで同一であり、昭和54年 版において、 「目標年次は概ね20年後とし、設計交通容量せサービス水準2を標準とする」 と改 められた。 昭和59年(1984)版では、 「目標年次は概ね20年後とする」となり、サービス水準に関する記述 が削除された。 標準横断図は昭和43年(1968)版から掲載され、地方部、都市部それぞれについて規格および等 級ごとの標準横断図が示されている。昭和49年(1974)版の巻末に定型化横断図がのせられたが、 昭和50年版になると定型化標準横断図が本文に組みこまれた。 昭和51年(1976)版の設計基準をみると、従来の標準横断図の名称が非定型化標準横断図に変更 された。しかし昭和54年(1979)版になると定型化標準横断図が削除され、名称が標準横断図に戻- されている。そして巻末に主要幹線、幹線、補助幹線別に分類された一般部の標準横断図が掲載 されている0 昭和58年(1983)版では一般部の標準横断図が本文に組みこまれ、従来の標準横断図が旧規格と して参考にのせられている。この経緯を振り返ると、昭和50年代は定型化標準横断図から標準横 断図への定着プロセスであったことが分る。また昭和40年代と昭和50年代では標準横断図の概念 が異なることに注意しなければならない。 3 一2一2 路肩幅員 北海道開発局道路工事設計基準の大きな特徴として路肩幅員がある。一般国道36号の札幌千歳 道路ではLOmの路肩を採用したが、この道路は安全保障費で建設された道路であり、特例とみ なされていた。 昭和35年(1960)版設計基準ではこれを一般化し、「路肩は1. Qmとする」と定めた。昭和33年版 道路構造令では 「路肩の幅員は0. 5m以上のものとする」 と規定されており、北海道の基準は違反 ではない。 しかし車道幅員でさえ十分に確保できなかった時代に、北海道だけが路肩幅員を1. Om にしたことの意義は大きい。 北海道独自の路肩幅員は昭和45年(1970)版道路構造令の改正を機会に見直され、さらに昭和53 年(1978)に「積雪地の幅員(北海道開発局、東北、北陸地建、建設省了解事項)」が定められたこ とにより、全国的な基準として確立された。 72 路肩の機能をまとめると以下のようになる。 ・車道、歩道、自転車歩行車道に接続して道路の主要構造物を保護する。 ・故障車が本線車道から退避できるので、事故と交通の混乱を防止するのに役立つ。 ・側方余裕幅として交通の安全性と快適性に寄与する。 ・維持作業のスペースとなる。 ・路肩上で集水を行えば、車道舗装内部への雨水の浸透が少なくなるので排水上も好ましい。 ・歩道を有しない道路にあっては、歩行者の通行部分となる。 北海道のような積雪寒冷地では、冬期間路面に降り積った雪が路肩に一次堆積雪され、交通の 障害となるので構造令に定められた路肩幅員より広い路肩を採用してきた。北海道開発局道路 工事設計基準はそれを支える根拠でもあったのである。 ①路肩の幅員および構成 昭和35年(1960)版設計基準では、「路肩幅員は1. Urnとし、かつ片側通行を必要とする箇所では、 路盤工面を交通可能な幅(2m以下)まで拡幅し、すり付けるものとする」 と記されている。この 規定は37年(1962)版になると、 「路肩幅員は1. Urnを標準とする」となり、昭和41年(1966)版まで 変更されていない。 また昭和42年版には 「別に基準が設けられた場合にはそれによるものとす る」 というただし書きが追加された。 昭和43年版では路肩幅員の考え方が変更され、 「左側路肩は表2 -19の値を参照する」と定め られた。これは昭和45年(1970)版道路構造令(案)に準拠したものであり、北海道開発局における 路肩幅員は全国基準の中に組み込まれたことがわかる。 表2-19 左側路肩の幅員(地方部) 頬格の名称 区 分 左側路肩 の幅員 1 級 2 級 C 3 級 1.25 0. 75 1.00 左側路肩と側帯 の合計値 1.75 1.25 1.25 (単位:In ) 摘 要 一般道路部に は側帯はない 4 級 E 1.00 0.50 1.00 0.50 II (注) C一4級の道路で、除雪を行わない区間の左側路肩の幅員は0.5 m と する。 路肩の構成に関する規定は昭和43年版から記載されており、 「路肩は路肩(完全駐車路肩、部分 駐車路肩、オフセット路肩)、保護路肩により構成される」 とある。昭手144年版になると …路 肩 路 肩 -保護路肩 全 半 狭 路 路 路 肩 肩 肩 73 と整理された。 昭和45年(1970)版では 「路肩+側帯=側方余裕」 と規定され、この路肩構成は昭和60年(1985) 版まで継承されている。 路肩幅員の規定内容は昭和45年版から大幅に変更された。すなわち路肩幅員を左側路肩と右側 路肩に分け、それぞれ表2 -20、表2 -21に示す基準が定められた。ただし左側路肩は停車帯が 設けられている場合および中央帯に接する側には設けないとした。 表2 -20 右側路肩の幅員 規 格 (単位:m) 区 分 一般部 橋 ト ンネル 摘 要 1 第 3 種 第 4 種 2 1 級 級 級 1 .00 1 .00 1.00 0.50 0.50 0,50 左側路肩と 同じ 表2 -21 左側路肩の幅員 一般部及び 延長50m以上の橋 ト ン ネ ル (単位.m) 登板車線 規 格 区分 延長50m未 満の橋 1 級 2 級 1.25 1.25 第3種 3級 l.250r1.OO 4 級 l.250r1.O0 5 級 0.50 第4種 1級 1 .00 歩道無し 歩道有り 延長l00 m ラに i蘭 延長l00 m 以 0.50 1.00 0.75 0.75 0.50 0.50 0.50 0.50 0.50 1.00 (0.50) (0.50) 0.25 0.25 0.25 一上 0,25 0.25 0.25 0.25 0.25 変速車線 の外側 0.50 0.5 0.50 0.50 摘 要 昭和46年(1971)版になると左側路肩のトンネル部分の路肩幅員が変更された。また昭和47年版 では左側路肩の第4種道路に関する基準が変更された。 昭和49年版では延長によって異なっていたトンネル部分の路肩幅員が統一され、圧石路肩とも 0. 5mとなった。この基準は昭和54年(1979)版まで用いられた。 昭和54年版の巻末には標準幅員の基準資料が掲載されている。それをみると道路区分(主要幹線 道路、幹線道路、補助幹線道路)、地域区分(都市部、地方部)ごとに路肩幅員の標準値が示されて いる。昭和55年(1980)版では橋梁部の路肩幅員が変更された。すなわち左側路肩においては橋梁 延長の区分が50 m からlOOmになり、右側路肩においては橋梁部の路肩幅員が0. 5mから0. 75mに 74 変更された。 昭和58年(1983)版から、それまで巻末に掲載されていた路肩幅員の標準値が本文中に採択され、 北海道開発局の新しい基準値となった。表2 -22は左側路肩(停車帯)の幅員を、表2 -23は右側 路肩の幅員を示したものであり、この基準値は昭和61年版まで変更されていない。 表2 -22 左側路肩(停車帯)の幅員 でい 都市部 主要幹線道路 幹 線 道 路 補助幹線道路 その他の2車線道路 (3種4級) 一般部 橋 (lOOm以上) (一般部 橋 A (2.00) 1.25 (2.002.罰 1.00 (lOOm以上) 一般部 (1.50) 1.00 B (2.00) 1.25 (2.00 2.25) 1.00 1.00 橋 (lOOm以上) 一般部 0.75 (1.50) 0.75 地方部 C D 2.00 2.00 1.25 1.25 地域区分 1.50 1.50 1,00 1.00 1.25 1.25 0.75 表2 -23 右側路肩の幅員 ノlOOm’ 一般部 橋 1.25 1.25 トンネル 、以上ノ 都市部 地方部 (2)路肩の構造 A B C D 1 .00 1.00 1 .00 1 .00 1 .00 1.00 1 .00 1.00 0.50 0.50 0.50 0.50 (単位:m) 車 橋 (lOOm以上) 0.75 0.75 ( 1道たいい 縄疎 麟,種級 線路馴』U 0.50 0.50 トンネル 0.50 0.50 0.50 0.50 )内は停車帯を示す。 (単位:m) 摘 要 北海道開発局道路工事設計基準において路肩の構造ほど検討が加えられ、変更されたものはな い。その詳細図は資料に譲るとして、本文では標準詳細図の主な変更点を紹介する。 昭和35年(1960)版では盛土箇所3タイプ、切土箇所1タイプの路肩部標準詳細図が示されてい る。これが昭和36年版になると盛土箇所路肩として盛土路肩、防護盛土路肩、導水盛土路肩、誘 導盛土路肩の標準詳細図が掲示された。また切土箇所についても一部追加がなされた。 昭和37年(1962)版では切土箇所路肩図の一部が削除され、昭和38年版では張芝切下げ位置が変 更されている。昭和39年版では防護盛土の寸法が一部変更され、さらに切土部の路肩として3タ イプの標準図が掲載されている。 昭和41年(1966)版では皿型切土路肩の標準図が追加された。昭和43年版において盛土路肩の標 準図が道路の規格により3種類となった。また切土箇所の路肩として皿型切土路肩、A型導水切 土路肩、B型導水切土路肩、盛土型切土路肩を設け、その詳細横断図が示されている。 75 昭和45年(1970)版では一般盛土路肩として路肩幅員1. 25nlと1. Urnの2種類が設けられ、さら に防護盛土路肩、導水盛土路肩の詳細図が示された。切土箇所路肩の場合には皿型切土路肩、拡 日」導水切土路肩、導水切土路肩、盛土型切土路肩と名称変更がなされた。 昭和48年(1978)版では一般盛土路肩の第3種第3級、第4級(路肩幅員1. Urn)の標準図が、コン クリート舗装とアスファルト舗装の場合に分れて掲示された。昭和49年版になると防護盛土路肩 の寸法が変更され、さらに導水防護盛土路肩の詳細図が追加された。 昭和55年(1980)版から路肩標準詳細図が巻末に移された。また昭和58年版では巻末からも詳細 図が削除されており、一つの時代が終了したことを実感させる。昭和61年(1986)版では路肩の構 造を次のように規定している。 「路肩の構造はその機能上、自動車、自転車、歩行者が通行できるように車道と同一平面とし舗 装するものとてする。 その舗装構成は側帯の25cmは車道と同一構造、他の部分の路肩は表層一層 あるいは二層で車道と同一材料、同厚とする」 中央帯(中央分離帯) 中央帯の規定は昭和42年(1967)北海道開発局道路工事設計基準に中央分離帯として最初に登場 する。その後45年版(1970)から中央帯と名称が変更され中央分離帯はその中に包含されることに なった。さらに昭和47年(1972)からは中央帯のみの名称が用いられ、中央分離帯という呼び方は されなくなった。 中央帯の機能をまとめると次のようになる。 ・往復の交通流を分離することにより、対向車線への逸走による致命的な事故を防止するととも に、道路中心線側の交通抵抗を減少させ高速度の走行を可能とする ・転向(Uターン)等を防止し、交通流の乱れをなくして安全性を高める ・特I、ー平面交差点をもーソ道路では、十分な幅員があれば右折車線を設v)ることができるので、交 差点における交通処理上有利となる。 ・相当に広い中央帯を設ければ、夜問走行時の眩光は防止される。また、幅員が小さくとも植 樹、防眩網の設置によって眩光を防止することができる。 ・安全島と同様の機能を有し、歩行者の横断が安全かつ容易となる ・道路標識、信号機等を設けるスペースとなる (1)中央帯の設置条件および幅員 昭和42年(1967)版によると中央分離帯について次のように規定している。 「4車線以上の道路で中央分離帯を設ける場合には側帯を含み3. Urnを標準とする。またこのよう な構造の中央分離帯を設けられない場合は、車道と同ー構造で幅1. 011lを標準とし、マーキングに よって区分し、必要によってチャッターバーなどを併設するものとする」 昭和43年(1968)版では、 「中央分離帯の幅員は側帯を含み3.o rnを標準とし、図2-3 のように 76 中央帯 」 除鵬晃恋槍輪 、、\ 遮光フュンス ー‘ー m …一山H ” 麟 ノノノ”Vノノ、Sm、、xダ、 W “/I’ 切:ノ 0 」晦雪余裕輸一 図2一3 中央帯の幅員構成(中央分離帯) n」〕 車j董 中央のlmを車道面より高い構造とし、側帯との間に車道と同一平面の除雪余裕幅を設けるもの とする」 と変更された。しかし翌44年版では、「中央分離帯の幅員は2. Omを標準とし、中央の1.0 nlを車道面より高い構造とし、側帯との間に車道と同一平面の除雪余裕幅を設けるものとする」 と改められた。すなわち側帯は中央分離帯に含めないことにしたのである。 昭和45年(1970)版から中央帯という規定を設け、中央分離帯をその中に包含した。そして「中 央分離帯の幅員は3. Omを標準とし、図2-4 のごとく、中央の1.omを車道面より高い構造とし、 側帯との間に車道と同一平面の除雪余裕幅を設けるものとする」 と定めた。このとき除雪余裕幅 は0. 75m、側帯は0. 25mに変更された。 中央帯 0.25 車道 暗 験茶裕帽 3.00 J にJ 町 遮光フェンス 撃景裕幅 図2一4 中央帯の幅員構成(中央分離帯) 0.25 響 車道 昭和47年版(1972)から中央分離帯という記述はなくなり、昭和49年(1974)版では中央帯につい て次のように規定している。 「中央帯 (1) 第3種1級の道路には、中央帯を設けるものとする。車線数が4以上であるその他の道路 については、安全かつ円滑な交通を確保するため必要がある場合も同様とする。 77 (2) 中央分離帯の幅員は3. Omを標準とし、図2-5 のごとく、中央の1. 5mを車道面より高い 構造とし、側帯との間に車道と同一平面の除雪余裕幅を設けるものとする」 中央帯 3 00 車道 0.25 0.50 撃 雷 J ノ L50 分離帯 遮光フュンス 」y 」4ー 0.50 」襲 図2一5 中央帯幅員構成(中央分離帯) 0.25 昭和49年(1974)版の規定では中央分離帯の幅員が拡幅された分、除雪余裕幅の幅員が削減され ている。以上みるように中央帯の幅員は3.Omと一定を保ってきたが、その構成内容はニ転、三 転している。これは除雪余裕幅の考え方が確定していないことに原因があり、昭干fl40年代におけ る設計基準の課題を示すものとして興味深い。 昭和54年(1979)版では、中央帯の規定が巻末に移された。この規定が昭和58年(1983)版になる と本文に再び登場する。すなわち、 「中央帯 (1) 車線数が4以上ある道路には安全かつ円滑な交通を確保するために中央帯を設けるものと する。 (2) 中央帯の幅員は表2 -24を標準とし、中央の分離帯を車道面より高い構造とし車道と同一 平画の除雪余裕幅を設けるものとすろ。 表2 -24 中央帯の幅員 篇扇\讐ミこ 主要幹線道路 幹 線 道 路 補助幹線道路 摘 A 都市部 地 方 B 5.00 4.00 4.00 3.00 3.00 要 (3) 中央帯の幅が4. Omおよび5. Omの場合は植樹することにし、とくに5. Omの場合は高木によ る植樹とする。 (4) 前項の規定によりがたい場合には、側帯を省略して、車道と同一平面で幅員1. Urnとし、 マーキング等によって区分するものとする。」 なお中央帯に関する昭和58年(1983)版の規定は昭和60年版まで変更されていない。 78 3-2 一4 停車帯 停車帯は都市間道路では故障者の車道上からの退避を目的とし、都市内道路では主として沿道 へのアクセスのために利用される。設定基準に停車帯の規定が採択されたのは昭和43年(1968)版 からであり、中央帯と同様に道路上の堆雪の扱い方が問題になった。 (1)停車帯の設置条件および幅員 昭和43年版設計基準では停車帯について以下のように規定している。 「停車帯 (1) D-1およびD- 2規格の2車線道路には停車帯をもうける事を原則とし、D- 1級の4車線 道路には必要に応じて、停車帯を設けるものとする。 (2) 停車帯の幅員は2. 25mを標準とし、これにより難い場合には1. 25mまで縮小できるものと する。 (3) 停車帯の設置にあたっては、本来の目的の他に緩速車が分離されていない場合の緩速車線 としての利用および仮堆雪スペース及び排雪作業スペースとしての利用等の面からも検討 するものとする。」 昭和44年(1969)では、 「第4種第1級および第2級の2車線道路には停車帯を設けることを原 則とし、第4種第1級の4車線以上の道路には、必要に応じて停車帯を設けるものとする」 と変 更された。さらに昭和45年版では、 「停車帯の幅員は2. 50mを標準とし、これにより難い場合に は1. 50m まで縮小できるものとする」 と改められた。 昭和45年(1970)の規定は昭和57年(1982)版まで継続されたが、昭和58年版になると次のように 改訂された。 「停車帯 (1)停車帯は都市部(A地域、B地域)の道路に設けることを原則とする。 (2)停車帯の幅員は主要幹線道路で2. Urn、幹線道路で2. oornまたは2. 25rn、補助幹線道路で 1. 50nlを標準とする。 (3) 停車帯の設置にあたっては、本来の目的の他に緩速車線としての利用および冬期間におけ る除雪作業の面から検討するものとする。」 交差点付近では駐車はもとより、停車も好ましくないので、交差点流入部と流出部では停車帯 の幅員を利用して付加車線を設けることがよいと付記されている。 79 3-2一5 歩道および自転車道、自転車歩行者道 昭和33年(1958)道路構造令において、歩道は市街地(第4種)の道路に設置すると述べられてい る。しかし増大する自動車交通から歩行者を守るため、昭和45年(1970)道路構造令では地方部に おいても歩道を設置することが明記された。これに先だち北海道開発局道路工事設計基準では昭 和42年版から歩道に関する規定が設けられた。 (1)歩道の設置条件および幅員 昭和42年(1967)版設計基準では「自転車、歩行者通行帯」と「自転車、歩道(緩速車道等)」 と が区別され、それぞれ次のような設置条件が定められた。 El)自転車、歩行者通行帯 地方部であっても自転車や歩行者、とくに学童の通行の多い場合に歩行者通行帯を設けるもの とする。その幅員は路肩と同一面で片側または両側を1. 5rn程度拡幅し、マーキングやガードフエ ンスによって区分するものとする。 2)自転車、歩道(緩速車道) 自転車や歩行者がとくに多い場合には、路肩の外側を一段高くし、片側または両側を2. 50m程 度拡幅し、必要に応じてガードフェンスなどを併用する。」 昭和43年(1968)版になると、「市街部の道路は歩道を設けることを原則とする」 と規定された。 この規定は昭和58年(1983)版において標準横断面(すべてに歩道が付いている)が全面的に採用さ れるまで、各年度の設計基準に継承された。 歩道幅員は市街部で3. 0–5. Urn地方部で0. 75-1. 5m、 自転車道の幅員は2. Urn、自転車歩行者 通行帯の幅員は1. 5-2. Urnと定められた。なお、昭和43年(1968)版では地方部における歩道の設 置条件が削除されている。 昭和44年版では地方部における歩道の設置基準が見直され、 「第3種第1級の道路には原則と して歩道を設ける。第3種第1級以外の道路には必要に応じて設ける」 という条項が追加された。 また市街部が都市部と改められた。 歩道の幅員は都市部の場合、 r 3.om以上を標準とする。ただし、延長50 rn以上の橋梁やその 他これより難い場合には第4種第1級で2. 25mまで、第4種第2級で1. 5mまで縮小できる」 と 定められた。 一方、地方部の場合には 「第3種は1. 5rn以上を標準とする。ただしこれにより難い場合に は0. 75rnとすることができる。第5種はU. 75m以上を標準とする。」 と規定された。さらに自転 車歩行者通行帯の幅員は2. Unlを標準とすると定められた。 昭和45年(1970)版から昭和57年(1982)版まで、都市部の歩道設置条件、幅員に関する規定は変 更されていない。 地方部の規定は一部改正され、 「第3種規格の道路には、必要に応じて歩道を設けるものとす る」 となった。 80 自転車歩行者通行帯は昭和45年(1970)版から自転車歩行者道に改められ、その基準が提示され た。 昭和46年(1971)版では地方部における歩道の設置基準が、 「第3種規格の道路には、安全かつ 円滑な交通を確保する必要がある場合には、歩道を設けるものとし、計画にあたっては将来の必 要性も十分勘案するものとする」 と変更された。 この規定は昭和55年(1980)版まで継承され、昭和56年版になると、「第3種規格の道路は3. 0以 上を標準とする。これにより難い場合には縮小できる」 と変更された。 昭和58年版になると設計基準の体裁が大幅に変わり、都市部(A地域、B地域)地方部(C地域、 D 地域)ごとに主要幹線、幹線、補助幹線の標準横断図が定められた。このため歩道の設置条件や 幅員規定は標準断面の規定の中に取りこまれ、削除された。 (2)自転車道の設置基準および幅員 自転車道の設置基準は昭和42年(1967)版に初めて採択され、その幅員は2. 50rn程度と定められ た。昭和43年版では自転車道の幅員は2. Urn程度と改められた。 昭和44年(1969)版には自転車道の規定が次のように記されている。 「自転車道 (1)停車帯のない第4種の道路では、自転車交通の多い場合に自転車道を設置することができ る。 (2) 自転車道の幅員は2. Urnを標準とする。ただしこれによりがたい場合には、1. Sm(長大橋 では1. Urn)とすることができる。」 昭和46年(1971)版では自転車道および自転車歩行者道の規定が以下のように変更された。 「自転車道および自転車歩行者道 (1) 自転車および自転車の交通量が多い道路(第3種、第4種)には、安全かつ円滑な交通を確 保するために必要ある場合には、自転車道を道路の各側(やむを得ない場合には片側)に設 けるものとする。 (2)前項(1)の場合を除き、自転車の交通量が多く、かっ歩行者の交通量が少ない場合には、自 転車道にかえて自転車歩行者道とすることができる。 (3) 自転車道等の幅員は2. Urn以上(標準2. Urn)とする。ただし、地形の状況その他特別の理由 によりやむを得ない場合は、1. 5m(長さlUUrn以上のトンネルではlIIりまで縮小できる。」 自転車歩行者道の幅員は昭和49年(1974)版に一部改正され、「自転車歩行者道の幅員は3.Urn以 上を標準とし、50 rn以上の橋、高架等の道路に関しては2. SUmを基準とする。現地の状況、その 他特別の理由により、これに依り難い場合には2. Urnまで縮小できるとする」 と規定された。 以上の規定は昭和58年(1983)版に標準横断図が採択されるまで、北海道開発局における自転車 の基準として用いられた。 81 3-2 一6 滞雪スペースおよび除雪余裕幅 北海道における道路横断面の特徴として滞雪スペースおよび除雪余裕幅の規定がある。昭和Al と定められた。 平均積雪深 年(1966)版では、「滞雪スペースは平均積雪深1. Om程度で1. 5mj ,5m程度で2に0m、2.Omで程度 で2. 5mを標準とするが、特にこのため土工量が大幅に増加する場合または用地取得が困難である 場合は1. 5mまで縮小することもやむを得ない」 昭和42年(1967)版では2 車 線道路と4車線道路について 表2 -25に示すような滞雪ス ペースが規定された。昭和43年 (1968)版には、 「平均積雪深が 特に大きい場合、または崩土、 安全視距などのため必要がある 場合は、切土法尻前のステップをさらに拡げることができる」 という条項が追加された。 表2 -25 滞雪スペース 滞 雪 ス ペ ー ス 2 車線道路 1.0m程度 1.5m程度 2. Om程度 1.5m 2Mm 2.5m 昭和44年(1969)版になると滞雪スペースの規定が次のように定められた。 「滞雪スペース 4 車線道路 2Mm 3Mm 4.0m (1) 切土区間における堆雪スペースの幅員は、平均積雪深を考慮し表2 -25を標準とする。た だし、このために土工量が大幅に増加する場合、または用地取得が困難な場合にはこれを 縮小することができる」 以上の規定は昭和58年(1983)版の設計基準まで適用された。 昭和59年版では積雪地域における幅員構成が本文中に採択となり、滞雪スペースの規定は以下 のようになった。 「堆雪幅 (1)切土区間における堆雪スペースの幅員は、平均積雪を考慮し表2一26の一次拳雪幅、表2 -27の二次堆雪幅を標準とする。 表2-26 -次堆雪幅W4 篇いぐ誉 第 3 種 及 び 第 4 種 第1 級 6 4 。乙 3.25 rn 2 .50 2.50 第 2 級 2.50m 1.75 第 3 級 1.5Gm 82 表2 -27 ニ次堆雪幅W5 二;ド竺E二、 6 4 2 第 3 種お よ び第 4 種 第1 級 4.50m 3.75 2.50 第 2 級 3.50m 2.50 第 3 級 2.00m (2) 多車線の切土部では、斜面の形状によっては斜面に堆雪できる場合もあるので、状況に応 じて二次堆雪幅を縮小することができる。 (3) 地形・地域の状況や土工量が大幅に増加、用地取得が困難な場合は二次堆雪幅を縮小する ことができる。 (4) 歩行者の多い市街地や通学路では、冬期の歩道幅員は1. 5m以上確保できるよう計画する ことが望ましい。」 除雪余裕幅は堆雪部から、雪がおちこぼれ、交通障害が発生することを防ぐために設けるもの である。この規定は昭和43年(1968)版に初めて採択された。 「除雪余裕幅 (1)側帯内 C-3 級の道路にあっては、側帯に接する路肩の25cmを、C-4 級の道路にあっては路肩 の50cmを除雪余裕幅とし、側帯と同一構造とする。 (2) 市街部の4車線道路 停車帯を設けない場合には、側帯の外側に幅SOcmで車道と同一平面の除雪余裕幅を設ける ものとする。 (3) 中央分離帯内 側帯との間に車道と同一平面の除雪余裕幅をSOcmを設ける。」 昭和44年(1969)版では側帯内の除雪余裕幅の規定が、 「第3種3級および第4級の道路にあっ ては、側帯に接する路肩の25cmを除雪余裕幅として側帯と同一構造とする」 と改められた。昭和 45年版になると側帯内および市街部の規定が削除され、中央帯内のみの除雪余裕幅が残され、そ の幅員は従来の50cmから70cmへ変更された。 昭和49年(1974)版には、除雪余裕幅が再びS0cmに戻され、今日に至っている。 3-2-7 道路敷地幅 敷地幅は地方部の平地’盛土部、切土部、そして市街部ごとに基準が定められている。 さらに 北海道においては積雪の影響をも考慮しなければならない。 昭和35年(1960)版では、 「敷地幅は改良計画幅員に必要幅をとるのみならず、将来の計画幅員 83 に必要な敷地をとっておくこと」 と規定されている。これが昭和36年版になると、平地・盛高1 m 前後の場合、表2 -28に示すように車道幅によって決定された。また切土区間は、 「法頭また 表2 -28 道路敷地幅 区 分 平地、盛高 im 前後 車道幅 敷地幅 6.5m 7.5 9.0 11.0 22m 25 25 27 摘 やむを得ない場合22m 要 備考 切土区間は法頭または法頭側溝より50cm程度離して取得するものとする。 は法頭側溝よりSOcm程度離して取得するもの」 と定められた。 昭和37年(1962)版に初めて市街部の敷地幅について言及しているが、その内容は 「市街部につ いては別途考慮する」 というものであった。北海道における敷地幅が本州より広いのは地価が安 いことにもよるが、それ以上に除雪による飛雪(ー次除雪による飛雪は6 -lOm)を考慮している ためである。 昭和39年(1964)版では切土区間の敷地幅が「法頭側溝よりlm程度離して取得するものとす る」 と改められた。 昭和42年(1967)において敷地幅の基準が以下のように大幅に改正された。 「敷地幅のー般的基準は地方部、平地、盛高lIIl前後の場合2車線道路で22m. 4車線道路で40 m とし、歩道等の設置や分離帯の構造等により敷地幅を増減するものとする。切盛の大きい場合 には必要な敷地幅を追加し、切土区間では法頭または法頭側溝から普通1.0m程度、国有林等では 2. Urn程度離して取得するものとする」 昭和43年(1968)版では市街部の基準が改められ、 「計画幅員および地方部との接続の関連など を考慮して決定するものとし、特に、将来市街化が予想されるような区間については、再買収を 伴わないよう注意することが必要である」 と規定された。これらの基準は以後、昭和40年代の敷 地幅規定として用いられている。 昭和50年(1975)版には定型化区間の敷地幅が次のように追加された。 「定型化区間の敷地幅の基準は、平地、盛高lm程度、積雪深lm程度の場合、A規格地方部で 45m. B規格地方部で4Qmを標準とする」 昭和54年(1979)版において定型化区間に代わって標準幅員の規定が採用され、敷地幅は 「主要 幹線B規格で57m、 C規格で40 m を標準とする」と改められた。昭和55年版ではこれが「主要幹 線C規格で45m、 43rnを標準とする」 と変更された。 昭和56年(1981)版では市街部の規定が見直され、 「市街部における敷地幅は計画幅員(都市計 84 画を含む)を原則とする。ただし、切盛の大きい場合には必要な敷地幅を取得するものとする」 と定められた。これに伴い再買収に関する記述が削除された。 昭和56年(1981)版の基準は昭和60年(1985)版まで変更されてなく、それを以下に再記する。 「道路敷地幅 (1) 地方部における敷地幅の標準は、平地、盛高lm程度、積雪深lm程度の場合、主要幹線C 規格で45m、 43mを標準として参考図をもとに決定する。 ただし、歩道、路肩、中央帯の構造およびその地方の積雪深により、増減するものとし、過 大な幅とならぬ様注意する。 また、切盛の大きい場合には、必要な敷地幅を追加し、切土区間では、のり頭または、のり 頭側こうより普通lm程度、国有林では2m程度離して取得するものとする。 (2) 市街部における敷地幅は計画幅員(都市計画を含む)を原則とする。ただし、切盛の大きい 場合は必要な敷地幅を取得するものとする」 3-2-8 橋梁幅員およびトンネル幅員 橋梁およびトンネルの幅員は工事費を大きく左右するため、その基準は時代とともに種々変化 している。昭和35年(1960)版設計基準では橋梁幅員について次のように規定している。 「橋梁幅員 (1) 橋梁幅員は、その橋長及び取付道路幅によって、表2 -29の値をとるものとする。 (2)橋梁を境にして前後の車道幅員が異なる場合には、橋梁幅員は低い方の車道幅員を基準とし て表2 -29により決定する。 表2 -29 橋梁幅員 篇扇警こ 20以上 20未満 摘 用 1.0 0.5 W +2a 0.25 W +2a 0.25 W +2a 1.0 W +2a 0,5 w :車道幅員 (3) 前後の取付道路にガードレールが設置される橋長20 Txl未満の橋梁の幅員は、路肩幅1. 0″lの 区間においてもW+ 2 @0.5とし、高欄内面はガードレール内面と合せるものとする」 昭和36年(1961)版では取付道路の路肩に路上施設(導水縁石、誘導縁石、防護棚など)を設ける 場合の基準が追記された。 昭和39年(1964)版になると、維持道路以外の道道や市町村道等の橋梁で、路肩幅0. 5″l区間にお ける橋長20 m 未満のものの規定が設けられた。さらに橋長20 m 以上のこ線橋で斜角が特に甚しく、 橋台前面間の鉛直距離が20m未満の場合の基準が追加された。しかし昭和40年(1965)版では維持 道路以外の道道や市町村道等の橋梁の規定が削除された。 85 昭和41年版において特筆すべきことは、 「橋梁を境にして前後の車道幅員が異なる場合には、 橋梁の幅員は広い方の車道幅員を基準とする」 と、規定が変更されたことである。この変更は運 転者の意識負担を軽くし、道路交通流の一体化に寄与した。 昭和42年(1967)版では、橋長および路肩による規定が細分化され、新しい基準表が示された。 しかしこの規定は昭和43年版において、当該道路の規格および橋長による標準横断図が採用され たことにより廃止された。 昭和43年(1968)版では橋梁前後の道路幅員が異なる場合、広い方の車道幅員を基準とするとい う規定はそのまま継承された。市街部のLと50″l以上の橋の歩道幅員については、前後の幅員よ り縮小できるという規定が追加された。この規定は昭和53年(1978)版まで採択され、昭和54年版 においてLとSUmがLとlOOmに変更された。 以上を要約すると、橋梁幅員は昭和43年(1968)版を基本として今日に至っていることが理解で きる。 トンネルの幅員は昭和30年代までは本局との協議が基本となっており、それ以降は標準図によ って規定されてきた。昭和35年(1960)版の設計基準をみると、トンネルの幅員は次のように記述 されている。 「延長500 m 以上の隧道またはそれ以下でも、市街地周辺あるいは緩速車両、歩行者の多いものは 必要幅を拡幅して計画するものとし、本局と協議すること」 昭和44年(1969)版になると、これまでの基準が前面に改められた。すなわち、 「トンネル幅員構成及び建築限界 (1) トンネルの幅員構成は、別図を標準とする。 (2) トンネル内の歩道は、車道より高い構造とする。また歩行者の多いトンネルはガードフエン ス等による分離を考慮するものとし、その場合ガードフェンスは、地覆前面より25cm以上離 すものとする」 昭和50年(1975)版では、両歩道、片歩道、施設帯を設ける場合の他、定型化定規適用区間のト ンネル幅員構成が規定された。 昭和54年(1979)版になると主要幹線道路、幹線道路、補助幹線道路ごとにトンネルの標準幅員 が巻末に掲げられた。昭和58年(1983)版では定型化区間の標準図が削除され、道路規格ごとの標 準幅員が規定された。 3-2-9 平面線形および縦横断勾配 平面線形と縦横断勾配に関する規定は昭和A’)年(1967)版までなく、昭和43年版において初めて 項目が設定された。ただし橋の縦断勾配の規定は昭和35年(1960)版からすでに定められていた。 この規定も昭和43年版から 「前後の道路に合せるのを原則とする」 に変更され、橋独自の規定は 削除された。 86 線形および勾配に関する設計基準の規定は、道路構造令の基準を主として、これに積雪寒冷地 の特殊事情が加味されている。 (1)平面設計 昭和43年(1968)版の設計基準では平面線形の項としてイ)曲線半径、ロ)市街部の道路の最小 半径、ハ)砂利道の片勾配、ニ)曲線部の拡巾、ホ)緩和区間について詳しい基準値が示されて いる。しかし昭和44年版ではすべて削除された。これは昭和45年版道路構造令の内容が確定し、 北海道開発局の設計基準として独自のものを定める必要がなくなったことによる。 昭和47年(1972)版から57年(1982)版の設計基準において平面・縦断線形および視距は次のよう に規定されている。 「平面・縦断線形及び視距 (1)車道、中央帯(分離帯を除く)および車道に接続する路肩の曲線部に附する片勾配の最大値は 6 %とする。 (2) 車道の縦断勾配は、冬期交通量の多い路線および高速除雪をおこなう路線では、6%以下と する。また市街地において、計画交通量の多い箇所およびこ線橋の取付部なとでは、4%以 下とすることが望ましい。 (3) 制動停止視距は、冬期間の路面氷結を考慮し、表2 -30に示す値とする。」 表2一30 制動停止視距 設計速度(km/h) 80 視 距 (m) 135 60 100 50 40 80 30 45 30 20 25 昭和58年(1983)版になるとスノーシェッド、ロックシェッド等で路面氷結のない場合、道路構 造令に示す基準値まで下げてもよいことが記されている。 (2)縦断線形 昭和43年(1968)版ではイ)縦断勾配、ロ)視距、ハ)縦断曲線の基準値が規定された。しかし 縦断線形も平面線形の場合と同様に昭和44年版以降全面的に削除された。昭和47年(1972)版から 平面線形と縦断線形がまとめて規定された。その内容は既述のとおりである。 (3)横断勾配 昭和43年(1968)版では横断勾配および合成勾配についても規定している。しかしこれらの規定 は昭和43年版から削除された。車道の横断勾配は昭和47年(1972)版に復活し、次のように規定さ れた。 「車道の横断勾配は2%を標準とし、2車線道路の場合は双曲線、4車線以上の場合は直線勾配 とする」 (4) 施工基面高 施工基面高に関する規定は昭和44年(1969)版から設けられた。その内容は以下に示すとおりで ある。 87 「施工基面高 (1) 道路工事施工基面は、人家および既設構造物の位置、高さなどを考慮して決めなければなら ない。特に市街部では両側人家の土台高を調査のうえ、かさ上げ補償を出来るだけさけるよ うに検討し、施工基面を決定するものとする。 (2) 地方部の盛土の施工基面は、その地域の積雪深を考慮して決めることが望ましい。」 この規定は昭和60年(1985)の設計基準まで弓は継がれている。 北海道土木部道路工事設計要領による道路構造規格の変遷 4-1 北海道土木部道路工事設計要領の作成経緯 昭和26年(1951)に北海道開発局が設置され、北海道庁土木部から国直轄事業が移管された。こ れに伴ない土木部道路課の主要な業務は道道の整備となり、老巧化した木橋を永久橋に架け換え る事業やバス路線を重点に路盤工整備を主眼とした道路事業が開始された。この時期に用いられ た構造基準は昭和10年(1935)制定の「道路構造令に関する細則(案)」であった。 昭和27年(1952)に道路法が改正され、道路構造の技術的基準は政令で定めることになった。昭 和28年に構造令第2次案が示され、昭和33年(1958)の構造令改正までこれによって道路の新設、 改良工事が実施された。 昭和33年(1958)頃より道路事業費が急速に伸び、主要な道路の改良工事が推進された。設計基 準として北海道独自なものはなく、昭和33年道路構造令をふまえながら、必要に応じて建設省と 打合せ、施工してきた。 建設省との協議で問題となったのは路肩の叩目員であった。冬季間の車道帽員を確保するために 路肩に余裕幅が必要なこFは北海道開発局の設計基準ですでに明示されでいた。道道の場合にも 主要な幹線道路で舗装化が明確な場合、建設省と打合せの上、舗装の完成断面で1. Omの路肩が 採用されるようになった。その代表的な路線は主要道道札幌タ張線(現在その一部は一般国道274 号)である。しかし大部分の道道においては、構造令に従った0..5mの路肩を採用していた。 北海道が実施する道路事業の大部分は国庫補助をうけている。その補助率は事業の種類によっ て異なり、設計基準にも制約があった。それを要約すると次のようになる。(昭和40年時点) (1)道路改良工事 補助率は3/4であり、道路構造令に適合した設計をする。 (2)永久橋架換工事 補助率は3/4であり、道路構造令に適合した設計をする。 (3)舗装新設工事 補助率は3/4であり、市街地のように線形幅員の改良がなければ路盤工も含めて設計ができる。 88 (4)特種改良一種工事 補助率は1/2であり、ある特定区間を改築する場合に適用される。原則的には構造令に従った 設計ができるが、I箇所当りの事業費に制限がある。 (5) 特種改良二種工事 補助率は1/2であり、在来道路幅員以上の拡幅ができない。路盤工、排水工の整備が主たる目 的で、対向2車線の幅員が確保できない場合には退避所を設置する。 (6) 凍雪害防止工事 補助率は2/3であり、昭和31年(1956)制定の「積雪寒冷地特別地域における道路交通の確保に関 する特別措置法(通称雪寒法)」に基づくエ事である。凍上対策のための路盤工整備が主目的で あり、原則として在来道路幅員以上の拡幅はできない。 注 昭和43年度以降から、道単独予算で従来の道路幅を拡幅して、舗装化された時点でも、道 路構造令に適合した道路幅員を確保する方針で工事を実施している。 以上みるように北海道土木部における道路整備は種々の費目によって進められ、しかも統一的 な基準がなかったので建設省と北海道の打合せや、土木現業所間の調整に多くの時間が費やされ た。このため北海道土木部道路工事設計要領が昭和40年(1965)に作成されることになった。一方、 建設省においても昭和33年版道路構造令の改正機運が高まり、各種基準の見直し作業が開始され た。 北海道土木部では建設省に対して積雪寒冷地における道路構造のあり方を提言すると共に、建 設省との協議を重ねて道路工事設計要領の充実を図ってきた。 この道路工事設計要領は、対象とする道路が各種の補助を受けながら施工する道道のため、国 直轄道路を対象とする北海道開発局道路工事設計基準と異なる点がいくつかある。その主なもの をまとめると次のようになる。 1 )計画年次が10年後となっており、北海道開発局の計画年次が20年後であることに比べて短か 2)歩道、自転車道等の基準が早くから設けられ、その内容も詳細である。 3)道路改良計画の区分が舗装計画の有無によって分類されている。 、 4)平均積雪深と堆雪スペースの基準が多少異なっている。すなわち北海道開発局の設計基準では 平均積雪深と車線数によって規定されているが、北海道の設計要領では平均積雪深のみで規定 している。 5 )当初においては、 「本庁と協議すること」 という規定が多い。 89 4-2 設計要領の変遷 4-2 一1 車道幅員 車道幅員に関する規定は昭和40年(1965)、同41年版では、 「道路構造令によること。但し構造 令の特例による場合は本庁と協議の事」 とだけ規定されている。昭和42年になると計画基準、地 方部の区分、地形、車道幅員、設計条件の項が設けられ、その考え方と基準となる本表が示され た。 土木部道路工事設計要領が今日の様式を採択するのは昭和43年(1968)版からである。 ここでは車道幅員を次のように規定している。 「1.道路構造規格の区分 (1)地方部 地方部にある道路は、C-3 級、C-4 級およびE規格を適用する。 ただしE規格は1車線道 路である。 (2)都市部 都市部および家屋連担地域などではD-2 級を適用する。 (3) 区間の適用 各路線別の規格の区間別適用については別途に決めたものを用いる。(1)および(2)に示した規格 より上級のものを適用する場合には本庁と協議するものとする。 2 .道路を新設し又は改築する場合における目途 (1)計画目標 C-3 , D-2 およびE規格の道路を新設又は改築する場合の計画年次は、10年後を目標とす る。その交通のサービス水準は路線性格ならびに重要性により本庁と協議し決定する。 (2)交通容量 表2一31 交通容量とサービス水準 規 格 C-3 C-4 D-2 F 地 形 平 I[l 地 も」ゴ 急 山地 市街地 車線数 交通容量(台/時) 2 2 2 2 1,100 900 1 注l C規格の交通容量は自転車混入率20%のものである。 サービス水準(台/日) 1 5,500 3.500 600 1,200 2,000 10,000 2 6,500 4.500 2,500 11,000 300 注2 D規格の交通容量は連続的な交通流を規定したもので、自転車混入率は0%である。 3 7,500 5,000 3,000 12,000 90 表2 -32 道路改良工事の計画区分 計画区分 計 画 方 針 設 計 方 針 定規は舗装前提とする。 I II III N 舗装計画が明確である路線又は 区間 近い将来に舗装の予想される路 線又は区間 当分の間舗装の予想されない路 線又は区間 E 規格で道路改良を行う路線又 は区間 注1 舗装計画とは特4を含む 定規は造成巾員で舗装前提とするが路盤工 はH3 滞雪スペースは舗装断面で規定値を とる。 定規は改良を完成断面とし路盤工はH3 と する。 定規は改良を完成断面とし、路盤厚は35cm を標準とし、必要によって表1-8 のH3 とすることができる。 交通容量とサービス水準は表2 -31に定めるとおりとする。 3 .道路改良工事の計画区分 道路改良工事の区分は表2 -32のとおりとし、その適用については本庁との協議事項とする。 4 .幅員構成 幅員構成は標準図(資料編参照)に示す」 上記の規定のうち、計画区分が舗装計画によって定められていることが北海道開発局の設計基 準と大きく違っている。 昭和44年(1969)版では道路構造規格の区分が変更された。すなわちC-3級、C-4級、が第3 種3級、第3種4級、D- 2級が第4種2級、E級が第5種と改められた。この区分により車道幅 員も同時に規定された。 昭和45年(1970)版においては道路改良工事の計画区分が見直され、次の3区分となった。 「(I)舗装計画が明確である路線又は区間 m )舗装計画は明確ではないが、将来に舗装の予想される路線又は区間 (~)第5種で道路改良を行なう路線又は区間」 昭和46年(1971)版ではこの計画区分のうち(~)が見直され、 「(~)舗装計画がきわめて後年度 になる路線又は区間」 と改められた。この設計要領の大綱は昭和51年(1976)版まで継承されてい る 昭和52年版は 「道路の標準幅員に関する基準(案)について」 の、いわゆる 「幅員の定型化」 に基づいて大幅に変更された。その構成は以下のようになっている。 「1.道路構造種別の区分 (1)地方部 地方部にある道路は、建設省による標準幅員による案、道路構造令による第3種3級、第3種 91 4級および第3種5級を適用する。 (2)都市部 市街地については第4種を適用する。 2 .道路を新設し又は改築する場合における目途 道路を新設又は改築する場合の計画年次は、10年後を目標とする。 3 .道路改築工事の計画区分 計画区分は表2 -33に示すとおりとする 4 .路線別の構造種別 路線名の構造種別は「幅員の定型化」を採用する路線と、従来通りの設計基準交通量を基準に した道路構造令の種別に基づき定型化を採用しない路線(以下非定型路線と称す)に区分する。 表2 -33 道路改築工事の計画区分 計画区分 計画方針 I 舗装計画が明 確である路線 又は区間 設 計 方 針 1.定規は舗装前提とした造成幅員とする。 乙路盤厚はH4とする。 3.堆雪スペ一スは舗装断面で規定値をとる。 舗装計画はあ I I m るが、当面の間 改良等の先行 を必要とする 路線又は区間 き度想又 が年予線 舗わにさは 装めなれ区 画後と路 計てるる間 1 定規は舗装前提とした造成幅員とする。 2.路盤厚はH3とする。 3.堆雪スペースは舗装断面で規定値をとる。 4.路盤エ幅は3.0m又は5.5mとする。 1.定規は改良等を完成断面とする。 2.路盤工は除雪計画の有無により次のとおり とする。 イ、除雪計画のある場合 H3とする ロ、 ” のない場合 30cm厚とする &堆雪ズペースは除雪計画があり必要と判断 される場合にっき規定値をとる。 4.作工物等にっいては将来ト級規格で改良4. 行うことを考慮して実施する。 5 .道路幅員定型による幅員構成(案) 備 考 一般的に未改良未舗装の全 路線が対象となる。 主として下記暫定改良工事 区間に適用する。 イ、大滝白老線 ロ、上間寒幌延(T)線 ハ、乙忠部中頓別線 表2 -34 定型化路線の車道幅員 道路幅員の定型化については地方生活圏構想 を基底とした中での道路の網体系を考え、主要幹 線、幹線、補助幹線という3つの道路分類をし、 国道、道道、市町村道の道路幅員の標準化の併わ せて道路用地幅員の一定化を図るものである。 定型化路線の車道幅員(対向3車分又は同方向3 車分)は表2 -34とおりとする。 6.非定型区間の幅員 欧 補助幹線 幹 線 主要幹線 A 都市部 地方部 B C B 6.orn 6.5m 7.0m ここでいう非定型化とは、道路構造令に基づいて路線ごとに決められた構造規格で車道の幅員 を造成する区間をいう。このうち道路除雪の際に落ちこぽれ幅0. 5mを考慮して幅員を拡げるも 92 のをAタイプとし、道路構造令に準じた路肩幅で造成するものをBタイプと規定する」 昭和52年(1977)版から58年(1983)版までの道路工事設計要領の構成は、基本的に変化していな い。昭和59年版になると、項目の名称が次のように変更された。 「道路を新設し又は改築する場合における目途」→「計画交通量の設定」 「道路改築工事の計画区分」→「計画区分」 とくに計画区分については、 「道路構造の設計は将来の舗装計画の有無を前提として行うもの であり、その舗装計画の時期によって設計方針は三つに分けられる」 ことが明記された。 昭手060年(1985)版の設計要領は二、三の注の追加はあるが、昭和59年版をそのまま継承してい る。 4-2 一2 路肩幅員 昭和40年(1965)版の道路工事設計要領においては、路肩幅員を次のように規定している。 「路肩幅員 (1) 舗装工事を前提とする道路改良等の工事では完成断面で1. Urnを標準とする (2) 将来(43年度以降)に舗装および特改4種を施工することが明確な場合は1. Ornを標準とする。 なお、将来嵩上により作工等の手戻りを生じないように考慮すること」 昭和41年(1966)版ではさらに 「路肩には次の表に示す値を標準として横断勾配をつけること」 という規定が追加された。昭和42年(1967)版では規定が再び改定され、以下のようになった。 「路肩幅員 (1) 路肩、路側は出来る限り連続的な定規として、短区間の箇所は前後の定規を考慮して決定す るのカよい (2) 路肩の幅員は下記を標準とする 1 )舗装完成時に表2 -35の値をとるもの とする。故に舗装計画のある区間で改良工 事が先行する場合は将来完成時において、 出来るかぎり手戻りの少なくなる様考慮す る 2 )路肩は表2 -36に示す値を標準として 横断勾配をつけなければならない」 表2 -35 路肩の標準値(側帯を含む) 現 構 造 令 1.0m 新道路構造令(案) c-i C-2 C-3 C一4 摘要 継続工事のものに適用する 摘要 表2 -36 路肩の横断勾配 種 別 縁石がない場合 縁石がある場合 砂利路肩 5 % 3 % 芝草路肩 5 % 3 % 装甲路肩 2 % 2 % 1.75m 1.50 1 .00 1 .00 93 昭和43年(1(6 0 I 300)版では路肩幅員の 表2 -37 路肩の幅員 規 格 区 分 (単位:m ) 路肩 の幅員 3 C 規定が表2 -37のように変更された。 昭和44年版になるとC規格、E規 格がそれぞれ3種、5種と名称変更 された。しかし基準値は昭和43年版 と同一である。 昭和45年(1970)版では路肩幅員の 規定が表2 -38のように改正された。 前年度の基準と違っている点は、路肩幅員として側帯分を含めていることである。また除雪余裕 4 E ( 1.00 (1.25) 1.00 (1.00) 1.00 )内数字は側帯を含めた値である。 C-3 , C-4 の路肩は側帯を含めて50cm装甲するも のとする。 幅によってA, Bの区分がなされている。 ~ 表2 -38 路肩の幅員 種 類 3 5 路肩の標準勾配は表2 -39のよ うに改正された。 昭和46年(1971)版において道路 規格の5種が廃止され、第3種第 3 級となった。これに伴い表2一 – 種 縁石がない場合 縁石がある場合 38の種類、級が変わった。しかしそれ以外の内容は不変であり、 継承された。 昭和52年版では定型化路線の路肩幅員 と、非定型化路線の路肩幅員が以下のよう に定められた。 「路肩の幅員 (1) 定型化路線の路肩幅員については表2 -40のとおりとする。 なおこの表は対 向2車線についての場合であるので、 4 車線道路の場合については国道、街 路等も合せ別途検討してきめるものと する (単位:In ) 路肩 の幅員 A 1.25 表2 -39 路肩の標』生勾配 別 芝草路肩 摘 B 1 .00 要 装 甲 路肩 5 % 3 % 2 % 2 % この規定は昭和51年(1976)まで 表2 -40 定型化路線の路肩(停車帯)幅員 (単位:n ) 道路分類 地域分類 都市部 地方部 ・八 B C D ネー 」用 - 本 助 幹 線 一l ※1.75 1.25 1.25 幹 ョ一 ・・二・ ( ※冖 2 1 線 2 5 … 5~ 1 .50 ーー 」リ一 注1. ※印の値は、簡易停帯幅を示す。 2 主要幹線 ・二, 胃二『!-一 太線枠内は4車線道路もあることに注意 一 7 .一 にJ - ―ー, 一A 94 (2)非定型化路線の路肩幅員のうち、Aタイプ路線の幅員は、表2 -41を標準とする (3)非定型化路線の路肩幅員のうち、Bタイプ路線の幅員は、表2 -42を標準とする なお定型化路線では高速除雪作業時による落ちこぽれ幅と、それの固結氷等の幅を確保する幅 員を次のように定めている。 表2 -41 非定型化路線の路肩の幅員(Aタイプ) (単位:m) 道路規格 路 種 3 3 3 級 3 4 5 の什 1.25 1 .00 幅栃 員 備 孝 この数値は落ちこぼれ幅0.50m に冬期路肩幅0.75m. 0.50mを 各々加算した値である。 表2 -42 非定型化路線の路肩の幅員(Bタイプ) 道路規格 種 級 路 肩(Bタイプ路肩) A ・B 路肩装甲部 非装甲部 幅員 計 A 1 .00 0.25 1.25 備 考 (単位:m) ※ 0.75+0.50(除雪余裕幅)= 1.25 3 り。 3 3 4 に」 B 0.75 0.75 0.75 0.25 0.25 0.25 1 .00 1 .00 1.00 ※ 0.75+0.25(除雪余裕幅)= 1 .00 ※ 0.50十0.50(除雪余裕幅)= 1 .00 一般盛土:0. 5m 歩道、導水縁石、防護柵、高欄、標識等の路上施設物のあるところ:0. 75m 昭和52年(1977)版の基準は、途中字句の訂正が多少なされたが、内容は昭和60年(1985)版まで 継承された。 4-2 一3 歩道など 歩道に関する基準は昭和43年(1968)版から設けられており、その内容は以下に示すとおりであ る。 「市街地は原則として歩道を設置するものとする。地方部にあっても歩道は状況により適切に設 置するものとする。市街地の歩道幅員1. 5m以上を標準とする。地方部道路にあって歩道は路肩の 外側に設置し、幅員は1. 5m以上を標準とする」 歩道の設置方針は、 A=自動車交通量×歩行者(含自転車交通量)によって定められた。たとえばC-3 規格道路で はAと500, 000台人ノ日、C-4規格道路では500, 000台人ノ日>Aと150, 000台人ノ日となっている。 昭和44年(1969)版では道路規格の呼称が変更になり、C-3 規格が第3種第3級に、C-4 規 95 格が第3種第4級となった。しかし歩道の設置方針に変更はない。 昭和47年(1972)版になると歩道の設置方針が下記のように変更された。 「歩道の設置方針 (1) 第3種第3級及び第4級 1 )自転車道を設けない道路で安全かつ円滑な交通を確保する必要がある場合 (歩行者がおおむね150人ノ日以上、自動車交通量2, 000台ノ日以上の箇所) 2 )自転車道を設ける場合 3)通学路で安全を確保する必要な区間 4)人家連担地区等で局部的に歩行者の多い箇所 (2) 第3種第5級 通学路で安全を確保する区間、又は特に必要と認められる区間の橋梁 (3) 第4種第1級~第3級 地形状況その他の特別の理由によりやむを得ない場合を除き、必ず設置するものとする。 J 歩道の幅員は、道路の区分に応じ表2 -43の左欄に掲げる値以上にすることが定められた。た だし、歩行者の交通量が少ない箇所(トンネルを除く)または長さ50 m以上の橋梁もしくは高架の 道路については中欄の値まで、 トンネルについては右欄の値まで縮小することができるとされて いる。 表2 -43 歩道の幅員 区 分 第 3 種 第1 級 第 2 級 第 4 手重 第 3 級 第 4 級 1.5 3 歩 道 の 幅 員 0.75 2.25 1.5 1.5 1 (単位:m) 0.75 1.5 0.75 昭和52年(1977)版になると、第3種第3級および4級の歩道設置方針が次のように改められた。 1-i )自転車道を設けない道路で安全かつ円滑な交通を確保するため必要がある場合(歩行者がお おむね100人ノ日以上、自動車交通量1,000台ノ日以上の箇所)」 歩道の幅員は非定型化路線の場合には表2 -44に掲げる値以上とし、定型化路線の場合には表 2 -45を標準値として用いると定められた。 昭和53年(1978)から歩道の設置方針が削除された。これは歩道を設置することが一般的になっ たことを反映している。また昭和58年(1983)や59年版においては、歩道幅員の数値に多少の修正 が加えられたが、歩道の設計要領の大綱はそのまま継承されている。 96 表2 -44 非定型化路線の歩道幅員 こに 歩 道 の 幅 員 一 般 部 標 準 橋 梁 部 (単位:m ) トン不ル部 最小値 標 準 最小値 両側設置 片側設置 第 第4種 3 種 第1 級 第 2 級 第 3 級 第 4 級 2.0 1.5 3.0 1.5 2.0 1.5 2.25 1.5 1.0 0.75 1.0 1.5 0.75 1.0 注1.歩道巾員の決定にあたっては、現地家屋状況、歩行者の通行量及び将来の変化を勘案しなければならない。 2 .並本を設ける歩道巾については、上表の値に2.0mを加える巾とする。 3 .その他の路上施設を設ける歩道巾については上表に0.5mを加える巾とする。 表2 -45 定型化路線の歩道等の幅員 二嘉讐誉 補 助 幹 線 幹 線 (単位:m ) 主 要 幹 線 両 歩 都市部 地方部 A B C D 3.5 3.5 2.5 /// 片 歩 / ※ 5.0 2.5 両 歩 ※5.0 ※ 5.0 3.0 /// 片 歩 ※ 5.5 2.5 注1.両歩、片歩は各々両側歩道等、片側歩道等の場合を示す。 2 .※印の値はこの中に植樹帯2.Omを含む。 4-2-4 自転車道など 両 歩 / 片 歩 / 3.0 2.5 / 昭和42年(1967)版の設計要領において自転車道等について、次のように規定しでいる。 El.自転車道 自転車交通量が特に多い場合は自転車道を設置するものとする。 自転車道は路肩の外側に0. 5m以上の間隔をおいて一段高くして設置する。幅員は1車線lmと し、2車線自転車道(2.Om)を標準とする。ただし、これにより難い場合は1車線自転車道とする ことができる。自転車道の設置については本庁との協議事項とする。 2 ,自転車歩行者通行帯 自転車、歩行者特に学童の自転車による通学の多い区間には、自転車歩行者通行帯を設立する。 自転車歩行者通行帯は路面の外側に0. 5m以上の間隔をおいて一段高くして設置することを標準 97 とするが、車道面と同一にして防護棚又はマーキングで分離してもよい。幅員は2.o mを標準と するが、ただし状況によりL5m(橋梁部では1.om)まで縮小することができる」 昭和43年(1968)版において、自転車道の設置位置が次のように変更された。 「自転車道は路肩の外側に外側分離帯、又は防護柵によって車道から分離して設置する」 また、自転車歩行者通行帯の構造についても以下のように簡略化された。 「その構造は自転車道に準じ、その幅員は2.Omまでを標準とするが、状況によっては1.5m(橋梁 部では1.Om)まで縮小できる」 これらの規定は昭和49年(1974)版まで継承された。 昭和50年版では自転車道についてA種とB種という新しい用語が採用された。 只1) 自転車道等 もっぱら自転車又は自転車及び歩行者の運行の用に供するために設けられる道路又は道路の部 分をいう (2) A種の道路 B種の自転車道以外の自転車道をいう (3) B種の自転車道 自転車道のうち、屋外レクリェーションを主たる目的として設置されるものをいう (4)通行帯 自転車又は自転車及び歩行者の通行の用に供することを目的とする」 昭和50年(1975)版では自転車道の路肩幅員についても規定が設けられ、標準が0.5m、 得ない場合には0.25 mまで縮小できるとされた。 昭和52年(1977)版において自転車道等の定義が以下のように改められた。 「自転車道には、自転車道、自転車歩行者道、自転車専用道路、自転車歩行者専用道路等がある が、その内容と用途別分類を示jと下記のとおりこある。 1 )自転車道の種類 イ)自転車道 もっぱら自転車の通行の用に供するために縁石線、またはさく、その他これに類する工作物に より区画して設けられる道路の部分をいう。 ロ)自転車歩行者道 もっぱら自転車および歩行者の通行の用に供するために縁石線又はさく、その他これに類する 工作物により区画して設けられる道路の部分をいう。 ハ)自転車専用道路 もっぱら自転車の一般交通の用に供する道路をいう。 ニ)自転車歩行者専用道路 もっぱら自転車および歩行者のー般交通の用に供する道路をいう。 2)用途別の分類 やむを 98 自転車道等の用途別分類は表2 -46のとおりとする。 表2 -46 自転車道の用途分類 用途別分類 A種の自転車道 B種の自転車道 A種の自転車道等 B種の自転車道等 3 )路肩幅員 内 容 自転車道等のうち交通の安全を主目的として設 置されるものをいう。よって自転車歩行者特に学 童の自転車による通学の多い区間又自転車による 通勤、買物などの多い区間等に計画される。 自転車道等のうち、サイクリング等屋外レクリ エ! ションを主目的として設置されるものをいう。 表2 -47 自転車道の路肩幅員 標 準 値 0.50 1.00 縮 自転車道の路肩幅員は表2 -47のとおりとする。」 0.25 0.50 摘 要 種類としては上記 のうち、イ)、ロ)が 主として該当する。 種類としては上記 のうち、ハ)、ニ)が 該当する。 少 値 備 (単位.m ) 考 昭和52年(1977)版に規定された自転車道等の設計要領はその後の基本となり、標準定規等にお いて多少の修正が加えられつつ、昭和60年(1985)版に至っている。 4-2 一5 滞雪スペース 滞雪スペースは昭和42年(1967)版では「路肩・路側」の項に入れられており、表2 -48を標準 値として示した。 昭和43年(1968)版において滞雪スペースが以下のように初めて定義された。 「滞雪スペースとは路肩の外側にある道路敷地内の一定期間高速除雪による雪をストックできる スペースであり、その標準幅は積雪深により表2 -48を標準とする。」 表2一48 滞雪スペースの標準値 平 均 積 雪 深 滞 雪 ス ペ ― ス 1.0m未満 1.5m 1.5m程度 2.0m 2.0m程度 2.5m 注1.上記の値をとるのに用地取得その他の隘路が生ずる場合は1.5mまで縮少すること ができる。 注2 .平均積雪深が特に大きい場合、又切土区間が相当区間にわたる場合、又崩土、安全 視距などのため、必要あるときは、切土法尻前のステソプを更に拡げることが出来 る。 99 表2 -49 平均積雪深と堆雪スペース 平均積雪深 堆雪スペース 1.Om未満 2.0m 1.5m程度 3.Om 2.Om程度 4.0m 昭和48年(1973)版では「滞雪」が「堆雪」に変更された。また昭和52年(1977)版では堆雪スぺ 1 スの幅が表2 -49のように修正された。 昭和52年(1977)版の規定がそれ以降継承され、昭和60年(1985)版に至っている。 5.構造規格からみた主要道路の工事概要 5-1 国道 5-1-1 千歳国道 (1)沿 革 国道36号は、道都札幌市と、北海道の空の玄関千歳空港を結ぶとともに、太平洋岸の苫小牧、 室蘭等の工業地帯とを連絡する主要幹線道路である。 この路線は恐らく日本で最も古い近代式道路の1つであろう。北海道開拓使次官黒田清隆が、 函館札幌を結ぶ洋式馬車道として米人顧問ワーフィルドに命じ、工費85万円を投じて明治6年 (1873)に完成したと記録されている。その後この道路は幾度も改良されて来たが、第二次世界大 戦後、千歳空港付近が駐留軍や保安隊の中心基地となったため、札幌~千歳間の自動車交通が増 加し、安全保障費による第1次改良区問として選定され、整備することになノたのである。 無護 、 叩 ” 雪で愛無”’‘ーン 琴暴y;熱」ltな 翼 露さ , ユ 斗 ぐ村 (2)工事の経緯 ‘讐喫声i 44!〉遼夢顧き龍r摂裏フー .lj発,工 I 露 ぬこ三ミ媛無、’ 警雄オ 、 ‘ 毅)職 『与一 懲 雛y 、二 、ニ 、 -’ 区 i1 e 一 , z か、、 ノ/・ 図2-6 ルート位置図 4’ A ■ 一「 ノノ , 酒 ゆ 札幌~千歳間34.5kmの改良舗装工事は、予算のー部が昭和27年(1952) 9月に成立した後、翌28 《 か 協 矛 ノ 一 、 100 年度(1953)中に完成させなければならない事が分った。しかし北海道では、12月から4月までの 5 箇月間は、積雪寒冷地のため土工及び舗装工事は不可能となるのでせいぜい7-8 箇月の有効 作業期間しかあてに出来ないものである。 そこで工事の全貌がわかると同時に、スケジュールを 作って仕事の運び方を研究し、工法が決まる前にスケジュールを決めてしまった。そして気象条 件を考えながら1年間を各作業に配分し、各作業を分解して期間内に十分できるような工法と仕 事量を決めて行った。 こうしてこの道路は、昭和27年(1952) 10月着工、翌28年11月2日にわずか1箇年で完成し、一 般に供用されたのである。 表2 -50 工事予定表 月 気温 平 10 均 9.9 12 3.2 -3.2 1 -6.3 2 -5.4 3 -1.6 4 5.2 日最低平均 4.3 -1.2 -7.8 -11.5 -10.8 -6.4 0.1 降 水 量 114.9 降 水 日 数 17 110.5 19 99.5 21 90.7 21 71 3 19 52一9 19 57.5 13 積 雪 深 cm 0-12 2-57 20- 120 47-150 50- 169 52- 153 4-101 地下凍結深 0 5 10.5 4.9 61.0 14 0 0-15 10-40 50-90 70- 110 110-60 70-30 40-0 土 工 路 盤 舗 装 橋 仕 切 盛 工 上 砂利採取運搬 敷均帳圧 準 備 基礎舗 設 表 層 梁 路肩側溝其の他 (3)構造規格など 33 I] 00 作業予定 34 数字は実績% 50 75 6 15.0 10.1 63.1 13 0 0 88 り‘ 19.3 15.0 94.4 13 0 S 21 1 16.5 104 3 13 0 31 16.4 11.2 135.1 17 0 (露出地 推定) 99 37 36 表2 -51 築造基準 1) 旧道の規格 有効幅員 最急勾配 最小半径 6-7m 10% 30 m 1 仮 定 速 度(km/h) 45 2 幅 貝 (m) 98 74 60 100 96 10 3.9 4.3 114.9 17 0-12 100 (113 – 75 舗装7.5 路肩、各1.0 3 曲 線 半径 (m) 150以上 300以上 450以上 4 曲 線 2) 改良の規格 3) 横断定規 図 4) 構造規格から見た特色 千歳国道は全道でも初めて自動 車主用道路の考え方をとりいれ、 緩速交通の多い都市部では設計速 度を下げ45血ノhと仮定し、緩速 交通の少ない所では原則として60 長 (m) 50以上 65以上 85以上 5 安 全 視 距 (m) 120以上 120以上 170以上 6 縦 断 勾 配 (図2-1 ) 7 縦 断 曲 線 長 (m) 3%以下 勾 配 差 8 曲 線 部 拡 幅 (m) 9 緩 和 区 間 長 (m) 3%以下 6%以下 6%以下 40以上 50以上 70以上 3-4 4-5 5-6 6-8 8 -10 II II II 50 70 60 80 90 110 140 90 120 140 180 220 半径300以下0.50 40 10曲線部片勾配 半 径 200未満 300未満 300以上 片勾配 血ノh、更に地形や環境がよければ 75kmノhまで高めるよう計画された。 11片 勾 配 摺 付 12反向曲線間直線長 (m) 4% 3% lOmに付1% 40以上 2% 101 5-1-2 日勝国道 (1)沿 革 日勝道路の開さくは、寛政12年(1800)、皆 川周太夫なる人物が現在の大津から内陸に踏 み入ったのがはじめとされている。 明治から 大正、昭和にかけて現日高町と現清水町の有 志による調査、さらに札幌、室蘭、旭川土木 事務所合同の踏査などが実施されたが連絡路 の建設までにいたらなかった。 -~‘ 一” - 二” そして、昭和26年、道央と道東を直結する ’ 一一‘.プ‘叱プに雄=舞か譲・審HJ一に・舞報でー 麟 「》 内陸幹線道路が立案され日勝道路がこのルー 日勝峠全景 トの一環として指定されることになったのである。この路線は昭和30年(1955) 4月に 「開発道 路」の指定を受けたが、開発増産のための幹線輸送路として、また原料や製品の流通経路として その役割は重要であるため、昭和45年(1970) 4月に全道の幹線国道網に加えられたのである。 (2)工事の経緯 日高町~清水町間(58.8km)の工事は、日高側が昭和30年(1955)、清水町側が昭和34年(1959)か ら着手した。日高側は、橋梁工事を先行し、道路新設工事は橋梁工事に並行して順次実施し、さ らに二次改良を行い昭和38年に開通を見た。 一方清水側はトンネル工事と道路新設に区分される。トンネル工事は、昭和36年に導坑掘削を 開始し昭和40年巻立工その他工事を完了した。道路新設工事は全体を2工区に分け、昭和34年同 時に着手し以後トンネル開通に合せて工事は順調に進行した。そして着工いらい10年ぶりの昭和 40年(1965)10月に全線が開通したのである。 その後経済の成長に伴う交通情勢の変化に上る見直し中で.この路線のもつ重要性から早急な 整備がクローズアップされ、開通以後も継続して改良舗装及び防雪対策を実施している。 (3)構造規格など x 蘿鬟覇撮■{二 人 - 三 … て一.・一一.子 ゲ・・?L 武・(’(シ 賞ニヲ星響γ二-篇,i奪 港γ“bマと、ミ 事にこ二電.が 熱 プ・ザ て 』弐 懸 寿一- 曹iた碁と臓麝蟹霧 一.で二’、ニf言 一r二 ズ 慌と 報 了γ竺・ブこ・に‘一圧 露w 雌「 ニ. ウ/、 叫 さ ~~・ ,・1 難 叫・ 遵影f恒乏ジ“彫-、71/ )tー‘位置面り‘界、、ぶ二、L叫彰嬢峯殿灘る ぐ』 一rル‘ 102 昭和40年頃 第2種山地 一 1) 道路区分 2) 設計速度 3) 線形基準 第3種2級 60届ノh 4) 構造規格からみた特色 〈・・ 日勝峠は雪崩、吹き溜まりの多発地帯を通 、 過するためスノーシエッド、杭減勢工、スノ ーシェルター等の防雪対策を施しており特に 三国の沢スノーシェルターは北海道内で最大 規模となっている。 表2 -52 設計基準 設 計 要 素 道路構造令 実施した値 最小曲線半径(m) 150 最大縦断勾配(%) 5.00 直線部横断勾配(%) 2.00 曲線部横断勾配(%) 6.00 最大合成勾配(%) ‘10.00 0.80 1.25 」也 I L35 ま25 I- 3.20 FTスフ7ルト昇水軸むエ 瞬 鵬」■ 58.6 6.00 2.00 6.00 8.50 「ォ助 2% 、.織: 切込砂利 – ~ ~、 灘 り5 曲線半径(m) 曲線数 曲線部認延長(m) 比率(%) 50以上一100未満 5 100 一150 150 一200 200 一250 平 面 線 形 縦 断 勾 配 い‘” 250 一300 300 一350 350 ー 縦断勾配(%) 区間数 区間総延長(m) 比率(%) 3%以上一%未満 5 1 ,510 4%以上一%未満 15 8,634 5%以上一%未満 15 6,030 30.1 6%以上 L25上=2 125 4.20 混合式ヒリ止め‘・3c・ 机柱式7スコンl叫‘・ 7 えラテ7しト安定処理l・争■ 丈 ‘ ぺも い ’鍵’ 1こ墓警=警導-二癌雲I 響・雄‘事 難鷲難撃響 難■ ’た二 、‘?〒三 義二 一、“に: ‘司 ., :●・ 舗装完成後 ‘瓶 表2一弱 実施線形要素 960 22 2,710 熱 冨 4.8 13.5 7 8 3 6 11 680 935 460 565 2,115 3%未満 8 2,496 4 . 0.Th ..Is 1 ,330 し竺!二I二 I.200 14I・吹付 3.4 4.7 2.3 2.8 10.6 12.5 7.6 43.2 6.6 )薫灘 図2-8 道路標準横断面 103 雇 踊 ‘、、 .・。 r」 8 .山 ; 8,器 ~ 5.:m 0 ー I k 司一 m – m ’ン7リート菖装I・2ふ・ 切i'”I, s・2h・ 図2-9 トンネル断面 5-1-3 狩勝国道 (1〕 狩勝路の沿革 狩勝路の歴史は古く安政5年(1858)蝦夷地 調査のため、松浦武四郎が石狩から日高山脈 を越えて十勝に探検に入っている。 「 マ f 一一一、イ う 「響 こ, その後開拓の進展に伴い、明治31年~32年 (1898)に南富良野町字串内に抜ける道路が開 通し、石狩と十勝を結ぶ幹線交通路となっ た。 しかし陸路の輸送か土を占め勺ようにな ったため、明治35年新道の開削が始まり、昭 和6年(1931)11月に完成(~日国道)した。 ’う磐鷺:ミ登 -い~ ‘I ” 菖 臨 狩勝峠全景 1墨二 I名熱 ‘【 懣 魚 この道路は、昭和9年(1934)ー級国道札幌根室線に昇格し、昭手fl28年一級国道38号となった。 (2)工事の経緯 第3次道路整備5箇年計画に基づき、昭和40年改良工事に着工し、3箇年の日時と約7億5,000 万の工費により昭手ロ42年(1967) 1i月に完成した。 その後、昭和31年(1956)「積雪寒冷特別地域における道路交通確保に関する特別措置法」が制 定公布されたが、狩勝峠は道央を結ぶ幹線道路として除雪区間となり、冬期間の除雪もさること ながら防雪対策が重要な課題となった。 このため改良工事完了後も引き続き防雪対策工に取組み、現在は冬期問も安全に通行できるよ うになったのである。 104 縄 蕾 鶏卿」続難難蓊 費逼 夢房 后m m 」 】 \ w 譲萋多総攣 、麦撲聾寿ンi分ハ~=三三 ^~」、 嘱=鷲:ど 愛,・・灘事謡ミーど ジ二.J 難 一 」 意を婆些多 割一 ス~ 簿 笏ブ ’こ二一 麟 蕊 避 う ご曹ぺ 一/’ー二」‘’、,謎?、ご一Ig \ 八〒こえ八、、そプ’、 ‘ ンン ら・‘,f ,、 177二彰,) .院-(務プZ熱 ニラノ7.7(Hノ,ニ一く/メ 「麟 Z)克×二j)g鳶も、 「一 K 烏畑胤m山 一 ぺ 三で- m 事iヌ二 r司 ・’、さ。=ンニー/ ノ‘ノ ,ノ” ●ー 護l衾ここ;三=ン 「ー 」 1 ) 一混襲一 ×ニニ パ蓊零 一 舞 ( 響難 v Iひ 一 】り 、 「 一 難 A 鑿 、“1 ‘・仁 ノ、 L 野 一 図2-10 Jレート位置図 (3) 構造規格のなど 1) 旧道の規格(昭和6年(1931)11月完成) 延 長 最小半径 最急コウ配 曲線箇所 2) 新道の規格(昭和42年11月完成) 12, 750m ulrn 10% 62箇所 表2 -54 設計基準 (hU にu 陰 囃 【」J m 」熱 倉 声 舞 ぐ 熱 表2 -55 実施線形要素 設 計 要 素 道路構造令 実施した値 最小曲線半径(m) 150 最大縦断勾配(%) 5 .00 直線部横断勾配(%) 2.00 曲線部横断勾配(%) 6.00 最大合成勾配(%) 10.00 90 5.20 2.00 6.00 7.94 曲線半径(m) 50以上一1’O0未満 100 150 200 平 面 線 形 250 300 -150 一200 一250 -300 一350 っ。 縦断勾配(%) 縦断勾配 4.0%以上一4.5%未満 4.5%以上一5.0%未満 5.0%以上- 5.5%未満 曲線数 区間数 1 ” 『撫(町J 司」m 『、1 「 渓」 “ん 2 ” I 0 3 1 5 2 那嶋いu 難」 105 1 造成巾貝 2.0 4 3) 道路標準断面図 4) 構造規格からみた特色 2.5 I 0.3 I 磐 , タックコート w=6.1 タックコート w=8.0 2% W. 茄f赫‘・ 辷り」上めェ 」 w’5.5t・1.5 図2-il 土工定規図 , 簿 ■ にこ! 狩勝峠付近は表層、全層雪崩が頻発する区 間であったため、スノーブリッジ、スノーシ エッド、杭減勢工、等を設置しその後の防雪 対策の技術向上の基礎を作った。 特に全層雪崩対策としてのスノーブリッジ の規模は道内一である。 5-1-4 中山国道 (1)沿 革 8 駒 泌 一0 「・・J 叩 ー1 3 へ アス処理工 机粒式アスコン w・8.0l・5.0 w・8.7 t・5.0 切込砂利戸40 L・25 切込砂利戸幼t早,65 」二~」幼 婦 , 告り 鷲 鷲 , 盛 y 「 】 に ‘ 、議 、 国道230号は北海道の陸路の玄関函館と札幌を最短で結ぶルートのため、北海道開拓の歴史とと もに幾多の変遷を経てきた。 安政5年(1858)松浦武四郎は、函館奉行所の命をうけて蝦夷地探検を敢行し、虻田から洞爺湖、 喜茂別、定山渓を経て札幌に入ったのがこの経路の始りであった。 その後明治2年(1869)蝦夷地の開拓に当たっていた東本願寺は、政府の許可を得て札幌と伊達 紋別を結ぶ有珠新道を約1年間というスピードで開削したが、これが後に本願寺街道と称せられ 現在の国道の骨組となったのである。 次いで明治20年(1887)頃、東1番通りからの豊平峡、炭酸水を経由中山峠に通そうとしたが、 開削が困難なため中止し、現在の薄別経由を北海道が施工した。その後大正9年(1920)道路法の 施行と共に、修繕工事も本格的となり、昭和10-13年(1935)頃には相当程度の高い道路として生 まれ変った。第二次世界大戦後はー部拡幅とつけ替えなどの改修を行いながら、昭和44年(1969) 106 の新ルート供用開始まで国道としてその役割 、 を果していたのである。 (2)工事の経緯 定山渓~中山峠間は、国道230号で一番地 形、地質的に問題が多く着工が遅れていた が、昭和39年に抜本的改良方法として新ルー トが決定され、直ちに着工の運びとなった。 以来5年の歳月を費し、昭和44年(1969)の10 月に供用開始されたのである。 臨事 , 蓋灘舞ン 一 』-春 「ゴ. と.ダ工 ‘’一区 日 二・募 ! 、 ×.- 一で・ー 、・八 ‘ ょ 、ィ、“ 一一 、 L=17.415m ’ジ・‘ ・・一、ノブ=な‘一 、こ Jー‘ふI’ ミ嘩、藩七.才一童」多 鷺二 . 一一 「『 、蹄 、 -授‘ 無意恨大橋付近 ご“」 . ・】 に 爨 生報.一 i J 着峯.社、け・」 プ・ゾ ブ・一・-・・● z・』 、・… j・「ご. 巍w 一・一一 ・ ・ 』 ・r で.- 一ー‘‘ノー !・.・一’ふ. 「 ( .一 氏 .叫電 ・I 「」阜- こ一 二’・唾 熱 ;ニミ‘りぎ.舞舞警麟三罐子- .バ:ニー■;、%ー、峰競Iォ-Sぐ羅『ー編一ー,..I 葺 ぐ筆f’(、、二 .声I ‘ 一婆豊ミ ’ー‘・者琴ぺ-受 、 図2-12 ルート位置図 表2-弱 築造基準 A B C D 区 分 第2種山地部適用(ただし、地形の比較的良好な部分は、第1種山地部適用) 設計速度 S =50km/H、(ただし、地形の比較的良好な部分は、S =60km/H) 道 路 幅 イ)車道幅員 6.50 m 第2種山地部(単位区間自動車交通量2,000台ノ日~3,500台ノ日) n .00 nl 市街地連担部(定山渓営林署前~豊平峡入口間) ロ)歩道幅員 2.25 m 左側歩道(定山渓営林署前~豊平峡入口間) 路 肩 盛土部 2.20 m 切土部 2.50 + 2.00 m I07 表2 -57 設計基準 設 計 要 素 道路構造令 実施した値 最小曲線半径(m) 100 最大縦断勾配(%) 6.00 直線部横断勾配(%) 2.00 曲線部横断勾配(%) 6.00 最大合成勾.配(%) 10.00 切 I. 土 、 盛 I 00 〔肋 3.00 土 叩 吾鮮 l00 100 7.70 2.00 6.00 9.76 c ,d, I :1.0 I:l 5 SI.”I, l’ 5.5 9.0 上違量」 120 250 II l 5% V 一ー八 i 70 2叫 I0 切1 3.75 図 2-13 標準定規図 表2 -58 実施線形要素 曲線半径(m) 曲線数 曲線部総延長(ii) 比率(%) 100以上一150未満 18 3731.82 21.4 150 一 300 300 一 600 平 面 線 形 600 一1 ,000 18 13 2 5070.74 4112.39 703.46 29.1 23.6 4.0 縦断勾配(%) 区間数 区間総延長(rn) 比率(%) 0%以上一2%未満 1 676.65 3.9 縦 断 勾 配 ~ I550 ” 2% 2%以上一3%未満 8 3777.76 21.7 3%以上一4%未満 4上 1435.57 8.2 4%以上一5%未満 11 5850.00 33.6 5%以上-6%未満 4 2952.56 17.0 6%以上 2. o 5し 1 !0~1 ~! 二J 2722.46 I.50・12.叩 80 巽 o 守り 15.6 108 ・ 》 、 (3)構造規格など 1) 線形基準 2) 構造規格からみた特色 冬季の縦断勾配対策として、最急縦断勾配 を5%以下に押さえ、雪崩対策としてトンネ ル坑口部のベルマウス、谷川に柱の無い覆道 工等当時としては極めて技術レベルの高い対 策を行っている。 《? 5-1-5 札幌新道 (1)札幌新道の計画 札幌市は、昭和30年代半ぱからの高度経済 成長とともに、人口の集中による市街地の急 膨張と、急激なモータリゼーションの進展と 相まって交通事情は加速度的に悪化しつつあ った。 このような状況を背景として、当時の市域 舞 J」 鷲 罵誕議 灘雫一 「マに鼻い ニ・」(ーョ‘、 」裏藻 、w・ 薄別トンネル坑口ともみじ橋付近 姦 ぐ‘こ × ~ 爵 ●」 三軸膏二」Iミ‘; 護轟撫二曹ぎ cさ’ ザま鍬て要; 「盲 .受 助・ A『 」)j i み 畿「的弘」誕 一一 一 !熱‘ “ソ 国道12号交差部(厚別)より起点方向 ユ , )J 鱗一 の発展に合わせて都市計画街路網の見直しが行われ、一点集中型の放射状になっている幹線道路 を有機的に連絡し、都市内へ交通を分散導入する札幌新道の計画が確立し、都市計画決定すると ともに、早急に建設が進められることになったのである。折しも冬季オリンピック札幌大会の開 催が決定し、五輪関連の重要幹線とされて、昭和44年(1969)に工事着工した。 (2)工事の経緯 1) ルートの概要 札幌市の地形は、南から時計回り1.5直角の北西までは山地部であり、残り2. 5直角の北、東方 面は平地部である。この平地部には市街地が開け、7本の一般国道と、5大放射といわれる主要 幹線道路が、市の中心部から放射状に出ている。ルートの通過位置は、これら12本の主要道路か ら流入してくる交通流を分析するとともに、土地利用の実情と将来の利用計画、各地域の発展の 可能性、内環状通りとの適切な間隔、高速自動車道との有機的な接続、などを考慮して“寄らず 離れず”の位置ということで決定されたのである。 新道の起点は、西区宮の沢の国道5号とし、市の北部石狩低湿地を東進し、創成川において国 道231号と交差した後、さらに東進してやがて南東に向きを変えながら,豊平川に至る。豊平川を越 えると南南東に向い、函館本線、国道12号を越えて、豊平区平岡の国道274号に連絡する延長21km のルートである。 109 り 石片 4 ‘, 】 ミ糾ぐ 、 奮の武 7 “” 嬬 系6ン 、 、、. I 1 も一ー 、 ー 37′ ノ P ーー 電4 さ、 自 翼, 》 p ” d .馴 0 / .・‘ 、 1 ノ/ ふA .’ ノ ‘~ ノ 、曳 ノーL一ーー/” 図2一14 ルート位置 2) 工事の経緯 /が /佐券 ・・・,..ビに3 ,・b・‘ーー 2 ・ ノ蔵 r幸、ー ノ…・』i …・ 唯 p ‘ 戸 A ノ f(ゾへ 札幌新道は、昭和44年(1969)着工以来、 「冬季オリンピック札幌大会」の関連事業として、昭 和46年(1971)に部分供用を行うなど、事業の進歩に合わせ遂次供用を図り、15年の歳月と総事業 費466億円を投じ、昭和56年11月に全線供用を開始した。 第!工区の西区宮の沢から東区北34条車! ケ目の延長G.6lcmは、オリンピック関連事業と して昭和46年(1971)11月供用した。 五 譲 -‘:,.‘叫 窃讐警 〒ふI i’’雄市;,ミ、ゾ二 驚鷲騒議 ” 驥 第2工区は東区北34条東1丁目から道道札 幌茨戸線までの延長3. 3kmが昭和48年(1973) 12月に、残りは昭和50年1月に供用を見た。 第3工区は、昭和49年12月流通団地区間の 部分供用後、昭刑」54年(1979)11月に米里通り まで、昭和55年(1980)12月に」ヒ13条通りから 山篇逗- り員 舞 難 騒 議 鷺 ふ 曹舞嚢麟『駿 鐘 g B、 ~・ 言 難・A.一’‘, Jヒ -に 、、 慧 ‘尋簾‘蕪編月婦「7 ‘ーh,,==二1 ‘ ・・’ -』ー 」一刃ニザ‘ ーに- ・‘-‘‘、 ・, 」 i L 亡,・一 、 創成川沿道路交差部より起点方向 工区終点まで、そして残りは昭和56年Ii月の全線供用時に開通した。 ・第4工区は、昭和50年10月に道央自動車道の札幌南料金所間の供用に伴い、 ‘ 薫 .ノー甘 ‘ 7L 南郷通りと連絡し た。昭禾155年]2月には、第3工区の供用に合わせて厚別高架橋までを供用し、残りは昭和56年 (1981)11月に完成した。 110 (3)構造規格など 1) 総延長 21, 067m 2) 道路区分 3) 設計速度 第4種1級 60km/h 表2 -59 設計基準 設 計 要 素 最小曲線半径(m) 最大縦断勾配(%) 直線部横断勾配(%) 曲線部横断勾配(%) 最大合成勾配(%) 道路構造令 実施した値 150 5.00 2.00 6.00 8.00 表2 -60 実施線形要素 1,500 4.20 2.00 6.00 4.65 曲線半径(m) 曲線数 曲線部総延長(m) 比率(%) 平面線形 150以上一800未満 0 800 – 2,000 2,000 ー 5 1 0.00 4,681.82 491.57 0 22 ワ 縦断勾配(%) 区間数 区間総延長(m) 比率(%) 2%未満 2%以上一3%未満 3%以上一4%未満 4%以上一5%未満 16,881.43 1,038.46 1,440.36 1,706.75 80 5 ワI 8 ー般区間(1.2.3工区) (高速自動車道) (高架拙部) 22 50 ノ に 50 3.0% 密粒アスコン t 路 盤 工 t = ‘2 / 1 札幌新道 12 50 9,00 叩 6駒 l m 0% a 密粒アスコンt 狙粒アスコン1=5 同 ア ス 処 理1 =12 下層路盤工t =55 札幌新遭 3.50 つ 2α 9.75 7.00 25 2.0% 0. 地 0幼 4 工区区間 (高速自動車道) コ 、 5. 7 9,75 7… 2.0% 50.00 図2一15 標準定規図 4) 線形基準 5) 構造規格からみた特色 2.25 0 7 札幌新這 1 -叩 12.50 9,01) 6.50 1.5C 2.0% 札幌新道 2.25 3.50 . 10.00 .3.5 札幌新道は市街地を通過するため、バイパス機能と街路機能を合わせ持つ道路として、河川、 JR 線等との立体交差のための高架、橋梁等が全延長の1/5にあたる4血に及んでいる。 また、高架区間の副道、歩行者の安全対策としての地下歩道及び横断歩道橋の設置、道路の環 境対策としての環境施設帯、遮音壁等の整備も全道の先端をきって実施された。 線形はR=1,500と将来中央部を走行する高速道路に合わせ、余裕のある線形となっている。縦 断線形は、約4%程度に押さえ、冬期の路面凍結によるスリップ事故等に対処した。 1 12 5-2 道 道 5-2-1 札幌タ張線 (1) 路線の沿革 札幌タ張線は石炭の産地タ張市と道都札幌市を結び経由地に、広島町、長沼町、由仁町、栗山 町などの本道有数の穀倉地帯がある。 大正9年7月タ張角田線として準地方費道として認定され、昭和7年12月に札幌タ張線として 地方費道に昇格し、昭和29年3月に道々に認定された。タ張市は本道産炭地の拠点であり、札幌 方面、岩見沢方面、穂別日高方面へ通ずる交通の要衝でもあることから道々のなかでも主要な路 線として位置づけられていた。 34 (‘/一 、 、 子? 薦 (2)工事の経緯 瓶m 一・』 し 、 考冉奮鷺糾m伊 ぐ.il二 、謝I L 図2 -16 ルート位置図 、へ 彰」冨)石鍵 川獄糾封別m 熱 ‘ こーー さ ノ 鸞■ It1 F3955m; ; 窮一 広 rレ乙ノヤげ熱か着」 ‘ 、\、に翠W m り『一 寺・i .』一 J‘て ノソ 「パ? 臓 r一 I り “く.二’’63r n 交通の重要路線にもかかわらずタ張市内の二股峠の前後約4. 0kmは俗に「75まがり」の峠と言わ れ、最小曲線半径は15mと小さく、最急勾配も10%の急勾配をもつ線形の連続で交通の難所であ った。 この峠の区間の改良工事は昭和30年代前半に各種調査を実施しトンネル区間を含む前後の改良 計画を立てた。 道路部分は昭和37年(1962)に着工し、昭和40年に完成した。トンネル工事も昭和 37年(1962)に着工した。トンネルの掘削はH型支保工と丸太支保工の併用による底設導坑先進上 部半断面掘削工法が採用された。 当時H型網による支保工使用の初期の時期であった。地質は頁岩のため、岩の膨張や湧水で工 事は難行したが予定通り道路部分と同様昭和40年(1965)に完成した。 」」 1 13 (3)構造規格など 1) 施工概要 総 延 長 l =4,000m 橋(1橋) l =21.Om 2) 区分 第3種山地 3) 設計速度 V =35kmノh 4) 線形基準 表2 -61 設計基準 設計要素 道路構造令 (山地部) 実 施 した値 最小曲線半径 50(15) (m) 32.0(m) 最大縦断勾配 8.0(10.0) (%) 5.8(%) 直線部横断勾配 2.0 (%) 2.0(%) 曲線部横断勾配 6.0 (%) 6.0(%) 最大合成勾配 10.0 (%) 8.0(%) WO0 5005(X ) 昌 5) 構造規格からみた特色 内 道 路 トンネル(1箇所) =3,583. 5in =395. 5m 表2 -62 実施線形要素 曲線半径(m) 曲線数 曲線部総 延長(m) 比率(%) 平面線形 200-150 150-100 0 5 0.0(m) (%) 319.1(m) 8.0(%) 100以下 3 305.9(m ) 縦断勾配(%) 区間数 区間総 7.6(%) 延長(m) 比率(%) 4.0以下(%) 縦断線形 4.0-.5.O(%) 5.0 -6 .0 (%) 6.0以上(%) 日500 6.500 2 0 c」‘ ‘ー 図2一17 標準定規図 ”・ この改良工事の特色は、札幌側の急峻な峠 歯 の悪い線形を延長395. 5mのタ張遂道と地形 ‘ に合わせた曲線半径が32 mと35 mをもっ大き - な2つのヘヤピンカーブで解決を図った点で ある。 この結果この区間の平面線形、縦断線形は‘ 大幅に改良された。 .」I ‘露 p 違簍 柵き妾 舞 2,330(m) 58.3(%) 770(m) 19.3(%) 900(m ) 22.4(%) o.0(%) 0(m ) I (XX) 史 甲ー さf 札幌側トンネル入口部のヘアピンカーブ % – 一 一 」 114 5-2 一2 函館南茅部線 (1)路線の沿革 本路線は函館市と南茅部町(川汲地内)を結ぶ路線である。 南茅部町沿岸は豊富な水産資源を有するため、町の開基は早く300年以上の歴史がある。函館と 川汲との連絡道路として寛政10年(1798)には既に川汲山道が開拓された。明治26年(1893)に川汲 山道の開削の請願を道庁へ行った。再三の請願の結果、大正12年(1923)に道路開削が始まり、大 正14年(1925)に完成した。これにより車の交通が可能となり南茅部町沿岸で獲れるコンブ、魚の 運送が車によって行われるようになり、産業道路としてますます重要な道路となった。 しかし、 この道路は交通の難所であり、冬期間は前面交通止めであったため本格的改良工事が望まれ、昭 和29年3月道道として認定された。 誌 耀田二戸 ヂ・ コ 酪m 黼 .,ソ 多 多 い ” m 【・」一 z崩“ 戸 .三三三ビ讐~タ二ー ニフl 、 ソ ノ 院 盤 (2) 工事の経緯 望と「灘- 磐 麟 延 籌 勿命 一(一)臼 蕩 z 移」 多」 親(』 与 影Iでミミ鷺りか 雛難議了誓 君!ジ孔、.・‘、か浸鷺りJ 毎一 ぐI告一で4 澎 ‘誌か覇鶏篇 、一 、一7 z’ 、 ’八~1…け可r入 図2一18 Jレート位置図 、‘ ‘レ」」 , Iそ ぜ二三‘z’ -声ン 蛇」m い、与 青 hい雪君」」縁逮・ U「・ 燃 者、 、し,”、 、イ(し,、 り r-(乙い、 ・、J … 、- 引川H田甲刊)・りi ョ秦 麟 ‘ 、 √ げ煎』m m」「」さ霜藩にhどく ‘ 』し露(ーケノー ー 、o さ 川汲峠における旧道は通称「葛折」(九十九折)と称される程カーブが多く(最小半径も15″と小 さい)、又幅員も3. 5mと狭く、勾配も最急勾配が10%と大きく危険な道路であった。このため魚 などの運搬車の転落事故が毎年発生した。 改良ルートの計画は峠の標高が約490 m もあるため各種調査検討の結果、トンネル1, 150m,を含 む5, 659mで決まった。新ルートは旧道より大きく離れた位置に計画されたため改良というよりむ しろ新設工事の内容で、道路部分は昭和37年(1962)に着手、昭和43年(1968)に完成,した。トンネ ルは昭和40年(1965)に着工した。トンネル延長1, 150mは当時道内で2番目という長いトンネルあ った。峠の岩質は比較的良い安山岩であったため掘削は、H型支保工を使用して底設導坑先進上 部半断面掘削工法が採用された。施工は、川汲側(下側)から片押しで進め、道路部分と同様昭和 一 1 15 43年(1968)に完成した。 (3) 構造規格など 1) 施工概要 総 延 長 l =5,659m 橋(2橋) l = 90. 0 m 2) 区分 第3種 山地 3) 設計速度 S= 35km/h 表2 -63 設計基準 設計要素 道路構造令 (山地部) 実 施 した値 最小曲線半径 50(15) (%) 70. 0(m) 最大縦断勾配 8.0(10.0) (%) 6.0(%) 直線部横断勾配 2.0 曲線部横断勾配 5.0 最大合成勾配 10.0 内 道 路 g =4,419m トンネル(1箇所) l =L150m 表2 -64 実施線形要素 曲線半径(m) 曲線数 曲線部総 平面線形 2.0(%) 6.0(%) 200-150 150-100 100以下 8 -h 2 延長(m) 比率(%) 512.1(m) 9.1(%) 239.5(m) 4.2(%) 118.8(m) 縦断勾配(%) 区間数 区間総 2.1(%) 延長(nl) 比率(%) 8.0(%) トN ト.・ 4.0以下(%) 縦断線形 1.000 4. 0-5 .0 (%) 5.0-6.0(%) 6.0以上(%) 6.000 4.000 嚇シ 8.286 1,000 743 1,909.0(m) 33.7(%) 750.0(m) 13.3(%) 1,680.0(m) 29.7(%) 1,320.0(m) 23.3(%) 。。。 一 1 16 図2 -19 トンネル定規図 7.50 a75 4) 線形基準 5) 構造規格からみた特色 新ルートはトンネルを計画したことによっ て峠を越えることができたため、旧道の延長 11,000皿が5, 659 mとなり約半分近くも短縮 することができた。平面、縦断線形は大幅に 改良され最小曲線半径15m (15箇所もあった) が70 mに、最急勾配10%が6%に緩和された ことにより安全な交通が可能となった。トン ネルの勾配が4. 3%やや大きい値であるが、平一 面線形が直線であるため車の走行に特に支障 」 はなく、又道路部分は谷側に解放されている ため除雪作業は容易となり、冬期間の交通が 可能となった。函館川汲間の所要時間は改良 完成により約30分短縮された。 6.00 ユO% 図2 -20 標準定規図 m事」 .らー,てで-円 Q7乞 柳度7スコン 粗粒度7スコン アスファルト~ ~(り瑚石) 確紅(り躑) 麟お 呼い霧婆ー二一・ J 名 S麟舞 君 魯 函館側坑口付近 J こ‘産線おを驚 N 亡 こ‘発 ’二 川汲側中間付近 ‘~ ‘m t ‘4D Cm t p5.0 cm t ‘6.0 040 ‘”c m ‘7.0 ‘加 t ‘200 驚 」 トメ 」更 ” b 斌熱 メ 踏 三’、」 』) ゾ 』 に7 5-2-3 札幌支笏湖線 (1)路線の沿革 現在、札幌から真駒内を経由して、恵庭岳を眺望しながら、支笏湖畔に至る札幌支笏湖線は昭 和40年代半ばに開通した。それまでは直接札幌から支笏湖に通じる道路はなく、干歳方面より支 笏湖畔に連絡されていた。 昭和35年(1960) 4 月、札幌市側の支笏湖畔丸駒地内と札幌市を結ぶ路線として、道道丸駒札幌 線に認定され、その後昭和38年に千歳市側の支笏湖畔から丸駒地内に向けて湖畔道路延長約7. 0km が、北海道で初めての有料道路として北海道土木部で計画着手したので、その区間を含めて、昭 和40年に札幌支笏湖線として認定された。 (2) 工事の経緯 改良工事計画は、札幌市石山から札幌側の支笏湖畔ポロピナイ間の32, 800mである。 この区間の内約25kmは国有林で全くの未開通で、新設の開削道路であった。急峻な国立公園地 域を含む山岳部を当時の構造規格の範囲で自然環境に配慮しながら計画ルートを決定し、昭和38 年(1963)より着工した。昭和47年(1972) 2月札幌市で冬期オリンピックが開催されることとなり、 それに先だつ昭和41年(1966)に恵庭岳が滑降競技会場に選定されたので、選手、役員、観客の輸 送道路として早急に整備を図ることになり、当時として異例のスピードで工事が進められ、昭和 45年(1970)に全線が開通完成した。 又、この改良工事の施工中に北海道では初めての本格的自転車道路を札幌市石山と千歳市ポロ ピナイ間に新設される計画がもちあがった。検討の結果改良ルートに併設されることになり、昭 :I建;・‘’×り 簾鳶筆琴緯 ‘曹 響鱗く、ミ編に」 で‘ ‘ 承 札 縄 市 ‘fい 蚤 r. かH,. 攤■■ #7・fとニ・ら弓●発ミ{幕昏 ?、J / ・うたい 擢 ノ二: ’敏; りゲ.・A喜‘kマ. 図 .葛 や ■ ■幾 【ア・Hマ,ーー」」\ー ,が」 支 ノ、 さ奮、 2 一21 ルート位置図 和43年(1968)に着手し昭和46に完成した。 (3) 構造規格など 1) 施工概要 総 延 長 l =32,0U0m 内 道 路 離 / 讐 -い「 尋 一 鰻一 嚢 髪 一 】 山協菱 ン「 膨難心 ‘ 7モIwJzト町立if●●i 伯)コ l =32,344.5m 」 1 18 橋(1橋) l =319. 5m 2) 区 分 第3種山地 3) 設計速度 V =35血ノh 表2 -65 実施線形要素 設計要素 道路構造令 (山地部) 実施し した値 最小曲線半径 50(15) (m) 25.0(m) 最大縦断勾配 8.0(10,0) (%) 8.0(%) 直線部横断勾配 2.0 (%) 2.0(%) 曲線部横断勾配 6.0 { %) 6.0(%) 最大合成勾配 10.0 (%) 10.0(%) 4) 線形基準 S) 構造規格からみた特色 自転車道 25(刃~3(x0 覆道(4箇所) l =136. Om 表2 -66 実施線形要素 曲線半径(m) 曲線数 【I 平面線形 200-150 150-100 14 曲延 立口 ー 線長 嚇司 1,372 .5(m) 比率(%) 811.6(m) 4.4(%) 7.5(%) 100以下 16 1,327.2(m) 縦断勾配(%) 区間数 区間総 7.2(%) 延長(m) 比率(%) 4.0以下(%) 縦断線形 4.0-5 .0(%) 5.0-6.0(%) 6.0以上(%) 16,498(m ) 50.3(%) 3,346(m) 10.2(%) 1,345(m) 11, 611(m ) 35.4(%) 4.1(%) ※平面線形要素は、札幌市と千歳市の境からポロヒロナイ迄の 18k400mの区間のものである。 叫:) 図2 -22 標準定規図 計画ルートの選定にあたっては、未開通の 国立公園地区を含む急峻な山岳地形なので、 自然環境をできるだけ損なうことのないよう に配慮したので、平面、縦断線形に厳しい制 約を受けた。当時の道路構造令の第3種山地 部を適用したが、この路線の性格、位置づけ から、 トンネル、橋梁、覆道等による高規格 の線形の確保は出来ず、地形にあわせた土工 「、 居 難 2.0 授 光竜鉱山附近 鷺醸麟 を主体としたルートを採択した。特にこの地 ( 19 》一 帯は豪雪地帯のため、除雪作業をやり易くす 縄鷲Jとま二-熱『;h ,,な1 るため、両切り区間を避け、片切り、片盛り ’-一戸鷲蕪灘 区間として谷側の解放に努めた。 自転車道路は本線に併設して計画したた め、勾配は車道部と同じなので、その後示さ .『・ ‘範J 名 & ’ ジーーー竺“一讐’ れた自転車道路の築造指針から見ると急坂 醸ー二綴舞驚・ で、実際に自転車を押して登っているサイク 事 ー;敵慧誉コ舞\ 、轟. 鷲一 繊『 無 麟 叫 、: ”ち 、 1 .一“ー メ;呼-『、瓢血 →d・ ルマンを見かけるが、自然環境の保全、工事 ■ 費点を考慮すると、当時としては止むを得な 」J 蕪熱詳き 一ー 一 」)嘱 叡. ポロピナイ展望台より恵庭岳を望む かった。この自転車道路が発端となり現在数くのサイクリングロードが計画、施工され、そのネ ットワークが広がっている現状を見ると、この自転車道路は非常に意義あるものと思う。 5-2-4 洞爺湖登別線 (1)路線の沿革 本路線は洞爺湖温泉と登別温泉を結ぶ路線で弁景、オロフレ峠、カルルス温泉、登別温泉を通 る観光道路として有名である。 明治14年(1881)滝本金蔵氏が登別~登別温泉間の道路開削に着工したことに始まり、以後多く の人々の努力により大正10年登別~カルルス間が準地方費道として認定された。その後昭和29年 (1954)道道に昇格したのに伴い、カルルス~オロフレ間の改良工事に着手し、昭和37年(1962)に . ^ .Jつ \ \ ーーー ●、ざ、 x 、 ,旦ことト,1ク. 一ー、 L . ー.aam 、二~一一=.ら .、 ~ , ’一 シ ,’ ’、一 『自隠ク鞠舎通地域 :ン= *, . L 一l7.0 、、‘ , . . 戸’ ‘ . 湾 7.ミ レ橋 L = .0 V=1,5 ン ‘ r ーQ 3 . . ‘ . L rj . , ーノノ m W-7.5 , -tニフレ;3 . 、 盟道 . . ピ . , 図2 -23 ルート位置図 I い21.788m W ゲ . , . 守 . コ A、“、、‘・ / . 120 一次改築が完成した。 (2) 工事の経緯 しかし、本路線のオロフレ峠部は、支笏湖洞爺国立公園に含まれ、標高93Qmの山岳道路で縦断、 平面線形(最急勾配10%、最小半径15rn)が悪く、長年の風雪で法面の風化が著しく崩落の危険が あり、また冬季間は約7箇月間通行止めとなるため、早くから本格的な改良工事が要望されてい た。昭和45年(1979)より各種調査を実施し、比較ルート、工法の検討を行ってきた。計画ルート は現道拡巾案、トンネルを含む別ルート案で比較し、最終的に改良ルートは、トンネル935mを含 む延長4140 m で決定した。昭和52年(1977)より本工事に着手し、昭和63年に改良を終える予定で ある。 この改良ルートは、北海道屈指の景勝地であるオロフレ峠を、トンネルで通過することになる ので、オロフレ峠より壮瞥町側の旧道は比較的緩勾配なのでこれを存続させ、夏季の観光シーズ ンには従来通りの利用を図ることとし、オロフレ峠より登別市側の旧道については廃道し、環境 保全の目的で修景緑化を行う計画である。 (3) 構造規格など 1) 施工概要 総 延 長 l = 4,140m 橋(2橋) l = 77. Qm トンネル(2箇所) e = 974.4m 2) 区 分 3) 設計速度 第3種第4級(A交通) V =20-40血ノh 表2 -67 設計基準 設計要素 道路構造令 実施した値 最小曲線半径 30 (m) 40.0(m) 最大縦断勾配 8.O(%) 7.4(%) 直線部横断勾配 2.O(%) 曲線部横断勾配 6.0 (%) 2.0(%) 4.0(%) 最大合成勾配 8.0(%) 8.0(%) 内 道 路 l = 2,720m 覆道(1箇所) l =368. 5 m 表2 -68 実施線形要素 曲線半径(m) 曲線数 曲線部総 延長(m) 比率(%) 200-150 平面線形 110~ 100 100以下 っ・】 1 6 794.7(m) 19.2(%) 307.7(m) 7.4(%) 541.4(m) 13.1(%) 縦断勾配(%) 区間数 区間総 延長(m) 比率(%) 4.0以下(%) 縦断線形 4.0-5.0(%) 5.0 -6. o(%) 6.0以上(%) 1 4 1 2 1,020(m ) 24.6 (%) 2,560(m) 61.8(%) 160(m ) 400(m ) 3.9 (%) 9.7(%) 121 斷無材あリ ーJ 断黙材なし 、 ~ 一 -1 誉丹――」+一H 図2 -24 トンネル定規図 z 叩 ~‘脱に一」g囚ー一 4) 線形基準 ■.-ho コノクー~トー’01,5 1m L75O 図2 -25 覆道定規図 15m 2.7,0 2.750 2.旦互 図2 -26 標準定規図 ‘0o0 7 下 、 5) 構造規格からみた特色 標高930 rnをもつオロフレ峠を930. Urnと39.4rnの2・つのトンネルを計画することにより、平面 線形は現況最小半径15rnが40 rn、また、現況最急勾配10%を5. 7%と平面、縦断の両線形を大幅に 改良することができた。 122 この峠は道内有数の景勝地で、しかも国立 公園内であるということから、山の切り盛り による自然破壊を最小にするためトンネル案 、 を選択し、又、谷側の盛土部には土工盛土を 少なくするための擁壁(高擁壁)をかなりの 延長で計画された。 改良工事完成後は冬季間の交通を確保する “了- ことになっているため雪害対策の調査も昭和『七二 ,『、 ,」 ーノノ/ノ 56年(1981)より行っており、雪崩や吹き溜り のおそれのある箇所には覆道が計画された。 その結果トンネルと覆道の総延長は 1, 342. 9mにもなり改良計画全延長の1/3を占 め、この改良工事の大きな特色となっている。 5-2-5 小樽港線、小樽港稲穂線、小 樽海岸公園線(街路名 小樽臨港線) (1)路線の沿革 湖\・舞 慧 二 溘F 洞爺湖側の坑門 橡 登別市側の頂上付近 ミ魂 誉‘き声、 ・臓 下・ ,h‘ r- ‘ ‘ 本路線は、国道5号稲北交差点から札樽バイパス終点に至る幹線街路で、市中心部を走る国道 5 号の慢性的交通渋滞を解消すべく、6車線道路として、延長3, 550 mが、昭和41年(1966)都市 計画決定がなされた。 臨港線総廷長 運河部 い即m / ~ク /7/i幾 ―そ ノ ~匂ー 臨 港 遣―倉 しMりノ ノ L・3km 即m ,―群. R5 P 5 玉稲北交差点 ‘」些歩 図2 -27 臨港線平面図 至札幌 , 至札幌 (2)工事の経緯 昭和41年(1966)より、工事に着手し、順次整備を進めてきたが、小樽運河にかかる延長650 mの 区間の計画について、その埋立をめぐり、 「小樽運河と石造倉庫群がー体となったその地区特有 の歴史的遺産と街並み景観の保存と再生」を求める保存運動が台頭し全国的に関心を集めるよう になり、地域の開発と環境の保全という新しい都市づくりの課題としてあげられるようになった。 123 そのため運河の水面を可能な限り残し、周辺の環境を配慮すると言うことから、昭和55年(1980) 都市計画変更を行い、諸手続きを経て昭和57年(1982) 12月より工事を再開始し、昭和61年(1986) 1 月にこの区間を完成させた。 54.54 , / 鱒# 1讐 ォ業」9図ーズりEl9馴)早耳 14糾 」/ 歩道 倉庫 (3)構造規格など 1) 施工概要 車道 0J5 0.75 車道 図2 -28 昭和41年計画 20 35 歩道 緑地帯 55 ,o 10.5 1.5 10.5 路緑地帯 車道 30 車道 歩 = . 腹岸上 連河 1 」P .f準ーー ーー ノ! 40 図 ~し 2 -29 昭和55年計画 総延長 l = 650m 15 内道路 l = 650m 2) 区 分 3) 設計速度 第4種第1級(D交通) V = 60kmノh 石造倉庫 」 I “~、 4) 構造規格からみた特色 臨港線の運河沿い650 mの区間は単に交通機能を果すと言う役割を越えて、小樽市がすすめてい る 「小樽運河とその周辺地区環境整備計画」や「地方都市中心市街地活性化計画」の中軸として 位置づけられているので、小樽のシンボルとなるような個性的で親しみとうるおいのある、しか も歴史と伝統を調和する道路づくりのため多くの努力が払われた。その具体的内容の主なものを 述べる。 ・運河の水辺や周辺の景観との触れあいを高める。 運河沿いに散策路を設け、その計画高をできるだけ低くして、散策者と運河水辺を近づけた。 その散策路には港町の情緒を醸しだすアンテークなブロンズ製のガス燈31基配置したが、そのデ ザインは 般から公募したものである。又、散策路には休憩所やポケットギャラリーなどを設け 124 浅草情ihm ‘ゲ,トユぺ ヘンチ –I ー‘ー ミs モ f 中央,、ご ‘路灯 ボケットギャラI ー 体尊重 ホケット.-1.ラリー , 社「路tl’ ’ スロ , 八、 暴“ ーフ ,電話ホ1ク ス 休憩所 ~ 電話ボッ‘ク三 U 1 f 中見也岳リ _ 色内一丁目 図2 -30 計画平面図のー部 るなどして市民と小樽運河との触れ合いを高 める配慮をした。更に浅草橋と中央橋の歩道 部分を大きくして眺望広場(ポケットスペー ス)を作り、心ゆくまで道路と運河を楽しむ場 とした。 ・周辺の歴史的景観との調和を図る。 周辺の石造りの倉庫群と調和させるため、 …一 ( 『 ー-ー、、、t- j 多くの自然石が使用された。散策路や歩道の 舗装には花崗岩の小塊石(9cmX 9cmX 9cm) によるイチョウ張りとし、運河護岸や緑地帯 と散策路の間の土留め壁には張碓産の軟石が 使用された。又、歩車道の境界縁石にも同じ 軟石が使用された。散策路のポケットスペー スには石造りの公衆便所も設けた。これらは いづれも自然石の重量感、質感を出しており、 周辺とよく調和している。 以上の配慮により、この道路そのものが小 樽市のまちづくりの強力なインパクトとなっ ており、これからの都市内道路づくりの在り 方を示したものとなっている。 札幌側よりの全景 浮!呼 ●」 .- 」‘宝 i4醸 散策路附近 魂 ’, 」ユ ‘、 」( ●し 薫 疑 125 参 考 文 献 1 2 3 4 5 6 北海道庁 日本道路協会 日本道路協会 北海道開発局 北海道土木部 北海道開発局 北海道道路誌 道路構造令解説 道路構造令解説と運用 北海道開発局道路設計基準 北海道土木部道路設計基準及要領 北海道の道路 大正14年 昭和33年 昭和45年 各 各 各 号 号 号 126 第3章 土 1 .概 説 1-1 北海道の土工概要 道路の成り立ちは、いずこも同じ、まず踏み分け道から始まる。北海道の道も、先住アイヌ民 族の交通の経路に始まる。渚を歩き、河岸に沿い、浅瀬を渡り、崖や湿地は避け、熊笹をわけ それがいつしか道になる。 寛政10年(1798年)、蝦夷調査団に参加した近藤重蔵は、従者数名とアイヌの人達を使って、ル ベシベツからビタタヌンケ間10km余りの山道を開削した。北海道における道路土工の最初の記録 である。その後、多くの山道が場所請負人の私費によって開削された。明治2年開拓史が設置さ れ、ホーレス・ケプロンを団長とする開拓史顧問団の指導による開拓史直営工事が各地で行われー た。明治5年、函館を起点とする札幌本道の開削が始まった。木製の鍬で土を掘り、ツチとゲン ノウで岩を砕き、もっこで土砂を運ぶ。蟻がたかるような人海戦術で土工が進む。 北海道庁が設置された明治19年から、北海道開発は軌道に乗るが、ほとんどの土工は集治監囚 徒の外役によることとなり、囚人の血と汗にまみれた道路が各地に展開される。 その後、開発工 事の主軸は囚徒外役から土工部屋の強制労働へと代わり、非人道的な監獄部屋が出現し、すこっ ぷとつるはし、そしてトロッコによる苛酷な土工作業が、この先大正、昭和へと継続されてゆく。 このような時代における道路は、規模も小さく、交通量も少なかったので、災害で損壊しても直 ちに修復が可能でもあり、社会的に大きな影響を及ぼすこともなかった。また、質より量を尊び、 工費を低下させて延長を伸ばすよう努力し、予算不足のため修繕を施さなかったので、数年経て ば廃道に帰すもの、雨季や融雪期には馬腹を没する悪路に化するものが続出した。 昭和に入ってから、北海道開発の熱意が次第に薄らぎ、自動車交通は市街地とその近郊などの 断片的路線でのみ可能で、長距離運行はまったく不可能な状態であった。それでも、失業対策で 全道にわたる広範な砂利敷き工事により、劣悪な路面は少しづつ改良され、自動車交通可能延長 は増大した。やがて、第二次世界大戦に突入するや、ほとんどの道路工事は停止し、多くの道路 が荒廃した。 戦後、道路整備はまず維持修繕から始められたが、北海道は希望の大地としての期待が集まり、 食糧増産、農地開発などが強く要望され、道路は 「開発の根源をなすもの」 としての認識のもと に、道路整備計画が策定され、実行に移された。戦後まもなく、進駐軍が持ち込んだ建設機械の 127 活躍が刺激となり、やがて昭和24年、苫小牧~支筋湖間道路新設工事で本格的な機械化土工が始 まった。昭和26年、北海道開発局が設置されてから、道路整備計画が次々に打ち出され、急速施 工および機械化施工が進み、道路土工量が飛躍的に増加し始めた。それに伴い、従来は予測しえ なかった新しい問題が次々と生じてきた。軟弱地盤対策、不良土対策、のり面対策、品質管理法 などがそれである。とくに北海道では泥炭性軟弱地盤が広く分布している。土質工学の進歩とと もに泥炭地についての工学的解明も逐次進められ、数多くの軟弱地盤対策が次々と試みられた。 また、大規模開削や高盛土工事が増加するにつれて、各地に分布する蛇紋岩質土、高含水粘性土、 火山灰質土、風化泥岩などの特殊土に遭遇する機会が増え、道路工事の障害となることがしばし ば生じた。現場第ー線の技術者は実務のなかで検討し、研究者は論理的解明や実験による検討を 行い、両者がー丸となって問題解決に努力してきた。その結果、経験が優先していた土工技術は、 次第に論理的な裏づけを持った技術へと移り代わってきた。 現場では試行錯誤が繰返され、あらゆる問題についての調査研究が進められ、ひとつ、またひ とつと問題が解決されて土工技術は進んできた。 鹿の通った踏分けが道がいつしか馬車道へ、そして自動車道へと変わってきた。今、全道に快 適な舗装道路が広がっている。その舗装の下には、土と戦い、悩み、苦しみ、そして障壁を乗り 越え、堅固な道路基盤と自然環境を築き上げてきた先人達の労苦の結品が眠っている。この土工 編では、先入の労苦に敬意を表しながら、そのたどった経緯を述べるものである。 1-2 北海道の特殊土と土エ 北海道には特殊土質が分布しており、土工の歴史はこれらの土質と大きな関わりがある。北海 道に比較的まとまった面積で分布している特殊土質には、泥炭、火山灰土、蛇紋岩および蛇紋岩 質粘土.重粘土などがちるv また,液状化しやすい土が分布している・’とけ.十勝き!I地鱈で明ら かである。わずかであるがまさ土、珪藻土、その他の特殊土も見られる。以下に代表的な特殊土 質について述べるが、先人たちは、これらの土の問題にひとつひとつ立ち向かい、次第にこれを 克服して行ったのである。 1-2-1 泥 炭 北轟道には約20カhaの泥炭地が分布しているといわれている。建設工爭では、埋没泥炭地も問 題となるので、これをも含めた泥炭性軟弱地盤の面積はさらに大きくなるものと思われる。ー般 に多くの河川の下流域に泥炭地が分布しており、とくに石狩川、天塩川、十勝川、釧路川などの 主要河川流域ではその規模が大きい。泥炭は植物の遺体を母体とするもので、不均質で局部的な ムラが多く、物理的性質も一般の土に比べて著しい特異性を示す。これらの泥炭性軟弱地盤は、 低湿地を構成し、地下水位が高く、建設機械の走行はもちろんのこと人間の通行が困難なことが 128 多い0 泥炭性軟弱地盤において建設工事を行うときの問題点は、この地盤が特にせん断強さが小さく、 圧縮性が大きいことに基づくものである。道路、堤防、鉄道などの盛土でも、不用意に施工する とすべり破壊を起こすことが多い。破壊を生じない場合でも沈下が長時間続き、最終沈下量が盛 土厚の半分に達することも珍しくない。盛土を行うと一夜のうちに盛った高さだけ沈下していま い、翌日はもとの平坦地に戻っていることもある。また、掘削水路は、底部の膨れ上がり、掘削 斜面のすべり破壊をしばしば起こし、小排水路などは押しつぶされてしまう。このようなことか ら、泥炭地盤の土工現場をかつては 「お化け帳場」 と呼んで、なるべく避けて通っていた。札幌- 周辺には、河川沿いに発達した自然防波堤を利用した道路が残されており、また、鉄道が平野部 の泥炭地盤を避けて山麓沿いに敷設されているのは、その好例である。とはいえ、時には泥炭地 を横断する道路も必要である。現在の月形~峰延線における泥炭地での取組みは、開拓使時代の 記録に伝えられており、往時を伺うことができる。栗沢~幌向間には、近年まで地蔵の一隅に道 標があって、 “そのむかし ひざまでぬかる このみちも みなのちからで いまはらくらく’’ と書かれており、道路のありがたさと維持の必要性が訴えられていた。 戦後は、農業用地として泥炭地が開発されるとともに道路整備が進み、道路の直線化の方向と も相いまって泥炭地盤での建設工事が多くなってきた。それに伴い泥炭地盤対策が大きな課題と なったのである。 1-2 一2 火山灰土 火山灰は北海道を代表する特殊土であり、北海道面積の50%以上を覆っている。日本列島には 200近くの第四紀火山群があるが、そのうち60が北海道に分布している。北海道の火山灰の分布は、 火山噴火時に上層気流の影響を受けて、主に東または東南側に広がっている。とくに石狩平野、 十勝平野、根釧原野の大部分は、西ないし北西の火山からの降灰の影響が大きい。 火山灰と土工の問題については、従来格別の支障があるとは思われていなかった。戦後の大型 機械による大土工の進展とともに問題が生じたのである。掘削工事では、掘削速度が大きいため に十分な排水がなされず、地下水が流れ込む状態となって法面崩壊がでいねい状に生ずることが ある。盛土工事では、風化火山灰といわれる含水比の高い土が存在し、湿地ブルドーザーを用い ねばならないことがある。盛土高が大きくなるにつれて、材料のこね返しが進み、転圧不能にな ることもあるα また長大法面はもちろんのこと、安定した切土法面においても、春先の凍結融解 の繰返しによって法面が崩壊したり、浸食されることがあり、火山灰法面の植生が一時重要な問 題となった。 129 1-2-3 蛇紋岩および蛇紋岩質粘土 北海道の日高三石、神居古潭、幌加内、天塩に分布する蛇紋岩を主体とする変成帯は、神居古 潭帯といい、日本最大の蛇紋岩帯を形成している。蛇紋岩帯は本道をほぼその中央で東西に両断 しているため、東西を結ぶ交通路の整備に際し、特に大きな溢路となってきた。 蛇紋岩地帯の土工上の問題は、応力解放に伴う変形(ハラミ出し)と乾湿繰返しによる脆弱化 である。トンネル工事の際に発生する著しい土圧と切土工事に伴う地すべりや斜面の崩壊がその 典型的なものである。掘削面ではそのほとんどがハラミ出しなどの変形を生じ、さらに進行した 場合には法面崩壊に至っている。このような現象は、新鮮な葉状蛇紋岩に生ずるぱかりではなく、 塊状の場合でも脈状に片岩が存在すると発生する。また、蛇紋岩の風化は地下水によって大きな 影響を受け、地下水の集中しやすい法面では小断面であっても著しい変形を生ずる。 1-2-4 重粘土 ー般に地」」」の状態では堅く粘性の強い粘土を「重い粘土」 という感じを強調して 「重粘土」 と 呼んでいる。重粘土は北海道の東北部に主として分布する土質で、その典型的なものは、雄武, 北見枝幸付近のオホーツク海岸寄りに見られる。成因は頁岩、シルト岩などの堆積岩が地下水の 影響によって風化が促進され粘土化したもので、自然の堆積状態では堅密で透水性が小さく、通 気性に乏しい。開拓当初は、耕作業が困難なため主として土地改良関係で重要な問題として取り 上げられていた。その後、土工作業でも次第に問題となってきた。掘削作業はー般に困難であり、 これを敷きならし転圧する際には土塊の破砕が困難で、仕上げ面に多くの空隙が残る。また、こ ね返しにより強度が低下し、湿地プルドーザでも走行困難になるものもある。切土法面は施工時 に安定しているか、融雪期に刀くで飴l和されるとヘト凵状になって崩壊うる事例が多い。 2.第二次世界大戦前の道路土工 2-1 札幌本道にみる明治初期の土エ 明治初期の土工作業の状況は、東本願寺道路(国道230号旧道、明治3-4 年(1871)施工)の開 削風景画にその片鱗を伺うことができるが、作業状況の記録として量、質ともに卓抜したものは、 明治4年9月に着手されたわが国嚆矢の本格的長距離馬車道である札幌本道の建設工事である。 官道工事であることから建設経費の詳細がよく記録されていて、なかに新道写真費が引上されて いる。現在我々が折に触れ目にする記録写真は主として開拓使雇用のプロ写真家 田本研造の手 になるものである。百聞は一見にしかず、これらの記録写真から当時の土工の様子を推測してい ただくこととしたい。 130 」I 繋 麟 難塞薫 響; 、), ‘ 得ぐ着1/と二・霧・‘i三なv、与玉に誉‘一‘W二’葉与ン 1ン !に書運ミ‘‘コ 、 無沢17番より仮小屋及伐木の場所見通しの景 (明治5年) 了 g塾繊鞍-‘「71 了 ぜ .一・三・:尋 ““二 リー 」r、-’いみー : 斌 い二’「,ジ .」 - 一 か=’心ら究か三二,一-与い」L L- 二- “多ン‘ 一‘:縄、蕪鶏島■ミ 無沢山道堅石切崩(明治5年) 一・、 ・ザ ‘ タ」、,一 J こ,‘へ 晦、 叫一 】“ 4ト 愛円 」一 .hh 叫ふ 無沢山道堅石の場所(明治5年) - ‘~ rr了 ‘ 、、 ・、、 無沢山道の見透し 蔵 ‘’ 二一 ,・~・ 者」 .」,一,、 魯麟麟 賦ゴ 着 き噂、、’与亡ー、ノ」・ 一jて凸抄這、、」ー、、畑シ七ー」阜費告 亀田村45番昼休みの景(明治5年) ‘ い‘ f、.い一4m・、’マ’1 」 .与こ一 , ・ ‘ -一 – ’ – ‘ニ 亀田村より万年橋見透し(明治5年) 懸 r j 『 博奪-博奪. 護一ー蒙 i婆 仮設 仮役宅及新道見透し(明治5年) ・ 皿 心ニA 響1篇■ 繊 筆 鹿児島人夫繰出し(明治6年) ●」 、 一 (北大附属図書館提供) 131 ~ I麟 事象鷲磁gi聾麟 二で‘‘き護響蕪鯵麟 uき叱 己 」 員警膏 “’二“-で『ニ彊叱r.. ‘ ン’ 血舞 ‘ 叫可費シか,-H尋語こ ー二「▼ 亀田村52番開路(明治5年) ーー ・ 繭『 ” 明治5年当時森埠頭建設 ーー叫曳受舞7発”へ 一‘●一z~イ~”””ン雪・一 、 サテー二・二・きク~ーー一一‘ 渡島国桔梗野付近新道(明治6年) 森村風景(明治5年) ■」響ぎ鷲讐 にぎぐ‘’-~’雀三二二『フ 一- ” シ」・ 腎り ,葡シ v ユ でー- ニ で二・r雌二一響-二 資 露了 現在の森埠頭跡 一:プマ”一 之‘碕緯 ●、、 ‘..之ご ’、 麟ごFn事‘畿 赤井川橋本宅 」・、ー ノー ら 溝 ご筆、鷲、 ぶくど生挙瞥資こ 凸者、一轟縄工ニパ’ “i」 ・ ~ ‘ ・ 二,子1- ー j ‘局 >J ニぐ麟慧妻熱二:駐 室蘭新道堅石切崩 (北大附属図書館提供) 1 え. 鄭畠 ”ど 一・ ,雪 、、一 1 )一 132 札幌本道の建設総工費は表3- 2-1 に示すように843千円余、賃金234千円余となっている(表 3-2 一2参照)。明治4年当時の国家歳出は80,000千円程度であるから、実にこれの1%に相 当する大事業であったわけである。これらの経費のなかで目にとまるのが炊出費及び人夫微募・ 帰国費であろう。施工に請負組制を採用したとはいえ、食糧はすべて官側で用達し、施工現場ま での旅費も官側で負担したことになる。 明治初期の本道の状況では 止むを得ない措置であったと 思われるが、これらの条件下 で集められた職工人夫の種類 と賃金(日当)はおおむねつ 表3一2一1 札幌本道建設費集計表 種 月 目 金 額 種 目 金 額 俸 50,177.895R 器械類買上代 90,769.012円 七部増手当 1,357.052 器械類運送費 21,405.928 ぎのようであった。 ・機械師(道具職、石工はこれ に準ずる)0. 666円(日当) 大工(木挽、船方、建具職、鍛 冶はこれに準ずる)0.499円 左官(畳職、棍棒職、屋根 職はこれに準ずる)0.446円 ・塗物師(表具職はこれに準 ずる) 0.417円 ・土 方(人夫) 0. 292円 工事現場は当然山間僻地で あるから、工事施工者は現場 近くに宿舎を建設し、上記の 諸 旅 諸 雇 手 給 3,930.491 費 76,847.491 当 629.450 諸職人足賃 16,820.747 人夫徴募及帰国費 51,520.683 恩 賞 賜 与 酒 饌 料 2,243.512 82. 500 80.876 測 量 費 4,292.233 開 修 路 路 費 費 15,526.078 1,364.360 橋梁並杁樋費 11,882.479 営 繕 費 23,830.104 埠頭増築費 6,957.201 渡船製造費 395. 582 鋳 物 費 筆 墨 料 174.568 鍛 治 師 費 備 船 費 569.822 里程標建設費 備 馬 費 399.915 新道製図費 病 院 費 1,080.707 新道写真費 炊 出 費 57,106.451 黒松内山道測量並に 人夫宿泊料 1, 056. 200 江差街道修赫費 987.382 762.775 21. 975 23.189 428.792 23.112 弁 当 料 159.499 炊出米貯蓄中下敷材損料 4.121 東京丸難破費 5,243.844 労務者を収容する必要があっ た。明治4年9月札幌本道の 開削に当って建設された宿舎 が、本道におけるいわゆる飯 場の最初のものであったとさ れる。宿舎建材の調達は一部青森南部地方から購入したり 東京丸沈没米 3,498.600 郵 食 便 卓 税 料 3.180 40.000 量 欠 米 3,226.080 船中用捨米 361. 903 建築諸入費 388,414.358 合 計 843 , 700 . 147円 、五稜郭の古材を用いたようであり、道 路開削の進捗とともに移設して再使用した。写真は明治五年頃無澤714番で札幌本道建設の為に 設置された人夫仮小屋であるが、当時の生活水準を考慮してもかなり厳しい労働環境というほか はない。一方、教師、官吏などの役宅は写真に見られるように人家を借上げて使用している。そし てこれら土工人夫の食糧の確保が大きな問題であった。ほとんど米の収穫がない北海道内で大勢 の土工人夫の腹を満たすことは不可能であったため、飯場近くの道には、本’、ト「から求めた米を積ん だ馬の長い列ができたといわれる。表3-2 一3は札幌本道及び銭函札幌新道に関する炊出し表 133 である。 土工用具については、農 耕具の一種である木製の鍬 が軟質な土質の掘削に使用 され、堅固な岩盤の開削に は古来からのノミ(鑿)と ゲンノウ(玄翁)、金挺な どが用いられた。一部火薬 も使用されたようである。 土砂の運搬は、短い距離の 場合モッコ(春)あるいは 木製の一輪車などにより、 人海戦術に頼る以外に当時 表3-2-2 札幌本道作業種目と賃金総計 ‘覇欝きさ 人 数 測 量 4,847人 貨 金 1,438.094円 開 修 営 橋 埠 運 合 路 路 繕 梁 頭 送 計 としてはなすすべがなかった。 しかし、七重 浜や桔梗付近の修路土砂は、函館近郊から集 められた馬数百頭によって運送された。 当時の土留壁としては、石積、連さいが一 般であったが、排水溝や木橋取付部の土留に は、施工が容易な連さいがよく使われている。 写真はその一例である。 ところで職工人夫の微募も、当然北海道内 では不足し、秋田、横浜、東京、山口及ぴ鹿 児島の各地から集められた。これらの土工大 部隊が効率を上げるためには、人夫の怠惰を 戒める必要があり、 ・印鑑紛失の者は5日間賃金の1/3を減ず。 ただしその届出1口延せし者は8日問賃金 の1/3を減ず。 ・疾病、事故によらず担当施工場所に出頭せ ざる者は、当日無賃、その他10日間賃金 9/10を減ず。 ・病気を病院に届出ざる者は、当日無賃、そ の他5日間賃金の1/2を減ず。 605,017 71,343 31,980 27,647 5,882 2,719 749,435人 ” .・ “ -り f・‘1 f 電こ! 二- 誠襲 -電黨“りぐ 蕪,パ三、七ジ、!童・ 一 ’’J ・ ・ ・ ‘’ – 寺 一’雷りこ二事- 臨、 、パー 186,861.333 25,682.353 9.346.612 8.071. 070 1,898.906 793.131 234,091 .498円 き -無 尋z典ニ 慶ミ灘 ・‘」プ■ 博 JけJ J 力 一 ‘ 鷲簾雄媛r剛議ョ姦器曹 無沢人夫仮小屋並炊出小屋 俄 ン 豊,、り 一三出,. ‘血j元血,・,ョ 赤井川連さい棚工 (北大附属図書館提供) ・休息時間外で休息する者は当日の賃金1/2を減ず。 などの規制を設け、勉励に努めた者には臨時賞与を出し、病死変死及び負傷者には状況に応じ 134 て1. 5円~20円の手当を支給した。道路工事の進捗にともない、土工人夫のなかには、理由なく (実は非常な難工事のためと思われる)帰郷を申出たり、身体不具のため工事に耐えられない 者が出た。上述の規則に加えてつぎのような微夫帰国概則が設けられた。 ・微夫が故意に事故を起して帰国を願出た場合は、事情を糺明し処分すべし。 ・身体不具に至り、到底労役に耐えざる者は官費により船便にて帰すこと。 ・帰国手当は、身体不具者の外は、陸行と見做し1日当り10里の行程とし0.25円を給す。ただし 函館より奥地冬季の行程は本道一般の成規に従う。 ・手当の支給方法は、帰国許可を得た地より郷里までの分を一時支給する。 ,自己の都合により帰国する者は、仮令許可を得る者といえども手当てを支給せず。 これらの規則、概則の行間から職工、土工夫の背後にある厳しい労働環境が推測されるが、慣 れない僻地での工事でもあり病人の手当や治療が必要であった。このため、開拓使は、函館、峠 下、桔梗野、森村。旧室蘭、鷲別、幌別、登別、白老、苫小牧、島松、輪厚及び札幌の14箇所に 病院を仮設した。 表3一2-3 札幌本道炊出総計 誉こ誓ミ 明治5年~明治6年 人 数 白. 米 908,777人 数 量 7,345.606石 味 醤油・酢 曾 塩 切干・大根 野 菜 梅干・らっきよう 香 物 布 昆 数 の 子 鮭 995,483 335,808 908,815 301,025 208,052 593,180 908,816 331,823 9,889 3,460 31,341.978貫 47.729石 19. 528 1,505.128貫 307.024円 1,161,290匁 227,205本 1,859.125貫 98.895 346匹 表3-2 一4 土工夫等の患者集計表 種 入 外 全 死 類 院 来 治 亡 人 数 595人 636 385 71 表3一2一4はそれらの病院における患者の状況を集計したもので、全癒した者は入院・外来 の30%程度、死亡者は71人(約6 %)となっている。これらの仮設病院における医療が当時の最 高水準のものであったかどうかは別としても、かなりの患者が落命をとりとめたことであろうし、 危険な施工にたずさわる土工夫の精神的支えにもなったことは間違いない。 このほか開拓使は、新道建設が僻地であることに加えて寒冷地施工であることから、土工夫の 士気低下を防止するため、娼妓営業も許可した。函館、札幌のほか白老にも設けられており、各 地名にその名残りをとどめている。 以上、札幌本道の土工にまつわる記録を概観して来たが、人力を土工の基本においた施工がい 135 かに能率が悪く、高くつくか現時点において指摘するのは容易である。しかし、わが国嚆矢の馬 車道建設が、維新間もない時期に本道において遂行されたことは注目に値しよう。前後して他の 地域でも道路開削が進められたが、いずれも大同小異の施工状況であったと推測される。 2-2 土工と外国人技術者 維新後、政府は外国人技術者の招へいに懸命であったが、何故か北海道と東京では技術者の国籍 に区別が見られる。東京では英国人が活躍し、北海道には米国人が多い。 江戸時代末期から明治にかけて本道の鉱山、鉄道、道路、農業、河川及び港湾または教育など の各部門で活躍した外国人技術者・学者は優に70名をこえる。ここではこれらのなかにあって道 路建設に縁の深い外国人5名を紹介するにと 「か‘1難難夢ひい- 二二 どうーり=-- 叱 どめる。 (1)エ・ジ・ワーフールド(A・G・Warfield) 北海道開拓使測量兼道路築造長 バルティモアのベンジャミン・H・ラトロ ーブ(英国生まれの建築家でホワイト・ハウ ス、国会議事堂などの著名な建物の建設者) の弟子で、測量及び土木技術に長じた米国陸 軍少佐。明治4年(1871) 6月開拓使顧問ケプ ロンの随員として来日した。同年9月、ケプ 憾 , ← 魚 .‘ ” 1 ・I ‘ , ‘,’ W ” ‘ー 《 ‘、●一 ・l iー 、 ーー 一 , 開拓使顧問ケプロンと雇教師達 (北大附属図書館提供) ロンの命により同僚のアンチセル(後述)とともに渡道し、踏査を始めることになる。 「アンチセル教授 A・’-I ・ワー・・フイ ルド少佐 宛 謹啓 貴殿は便のあり次第、蝦夷の島へ向かい、到着の上は以下の指示により行動されたい。 函館より北に至る土地で、札幌の都市に指定され、また、農務省、農学校などの設置予定され ている上地を含み、鉱物及び地勢上の詳細かつ慎重な調査をおこなうこと。 この地点において、 土壌の性質、自然または人工による排水の可否について、特に注意すること。この地方における- 自然の産物も同じく詳細に調べること。樹木については、産出する木材の量、大きさ、質など、 また、草については、飼料としての可否について調査すること。然るべき水力については、落差 と水量をできる限り正確に調査すること。札幌の近くに最適の海港を物色し、新都市と港間の土 地の概況、特にこの間の鉄道または道路建設の便について調査すること。この地方の気象につい て、できる限り資料を集めできれば近辺にある諸鉱山を視察し、その特質と価値を詳細に調査さ れたい。蝦夷における貴殿の調査は、追って指示のあるまで、あるいは冬の到来により作業の続 行が不能になるまで続け、その後は当所へ出張し、計数、図面及び復命書の作業をされたい。 136 アンチセル教授は、現地における全作業の指揮を執るものとする。 署名、ホーレス・ケプロン 開拓使教師頭取兼顧問」 以上はケプロンが2人の部下に宛てた明治4年(1871) 9月27日付の出張命令書の内容である が、9月といえば降雪まで100日と間がない。今で言うフィージビリティ・スタディのスペックに 当るものだがかなり欲張った内容のように思える。とにかく12月16日に東京に戻ったワーフイー ルド少佐は、函館・札幌間に於ける地形及び港湾などの状態の踏査結果を復命した。 特に報告のなかで、札幌を首都と定めるに当っては、函館より室蘭を経て札幌に通ずる官道開削 の必要性を強調したといわれる。このことは、ケプロンを通じて政府に伝えられ承認された。 明治5年3月渡島郡亀田村字一本木を基点として新道開削が開始され、ワーフィールド少佐がそ の指揮に当る。当時、旧道は海岸に沿って大野川河口に至り、川沿いに北上していたが、新道は 亀田村より直ちに山間部に入る路線となっており、大樹林を伐採しながら苦難のうちに工事が進 められた。 この頃大野、七重地方には熊や鹿が多く棲息していて、工事中に遭遇することがしばしばであっ た。少佐も宿野辺より砂原の山中に踏込んだ折、突然熊に襲われ、驚きのあまり道に迷い、追分 に至ってどうにか宿泊所に帰ることができた。以来少佐は常に短銃を携帯したという。 札幌本道の工事開始から4箇所経過の6月26日、工事の進捗情況をケプロンの日誌ではつぎのよ うに述べている。 「山々が三日月型の湾をぐるりと囲み、過ぎゆく雲は点々と影を落し、毎日宿舎から見る眺めは 実に筆舌に尽くし難い。 昨日、馬で田舎へ出掛け、配下のワーフィールド少佐が今指揮するハイウェーの建設を視察した。 工事の進捗ぶりには驚く。既に25マイルの地ならしができ、これは国と責任者の技師の名誉を保 証するのもである 」 時にケプロン69歳の高齢である。新道建設の現況に満足している心情が日誌の行間に滲む。 さて、七重、峠下、無澤、蓴菜沼、宿野辺を経て7月には函館・森村間の道路が竣工し、里程 表が建設された。これに先立って6月に室蘭で路線測量を実施中のワーフィールド少佐は、室蘭 から札幌への路線変更を建言するに及んだ。当初路線は、旧室蘭(輪西)に港を開き、有珠郡に 通じて山地部を札幌に向う予定であったが、この予定線は延長が短縮するのみで開拓上得策では ない。鷲別に通じ東海岸通りに路線を転じた方が入植者移住など開拓政策の上から有利である、 というのが少佐の主張であった。この路線変更の申請は白老に滞在中の黒田次官に具申され、直 ちに了承された。 8 月には、建設隊の中から鹿児島人夫1,000人を銭函・札幌間の道路開削に分遣している。とに かく、ワーフィールド少佐は八面六臂の活躍で札幌本道の建設を推進し、10月には測量が札幌郡 月寒村輪厚まで、工事は島松までに達した。冬の到来で事業が困難となり、建設隊の一行は次年 早々の完成を期して札幌に引揚げた。ところが少佐は11月に解雇され、札幌市本道の完成をみと 137 どけることなく帰国している。 土木学会「明治以後本邦土木と外人」には 「彼は、該地滞留中飲酒度を過ごし乱暴なる 行為屡々ありしを以て、開拓使は止むを得ずニー 彼に帰郷を命じ、次いで明治5年11月解雇の 上帰国せしめられるに至れり。彼の功績を顧 みて遺憾の極みなりき」 とある。乱暴なる行 為とはは、アイヌ犬を殺したり役人に乱暴し 、I たとされているが、ケプロンの日誌にはこの‘・一 ことに関する記載は見当たらない。少佐は砂 原の山中で熊に遭遇して以来、短銃を常時携 帯したことは前述したが、酔った勢いで銃を振り廻し、 い0 (2)ゼームス・アール・クラーク oames.R.Clark) 北海道開拓使雇教師通訳官 二ど、寿に・ 一,了一二← - 婆鵬義編 ーI証り縄難要舞 夢 銭函一小樽間カモイコタン新道着手前の道 (北大附属図書館提供) アイヌ犬を射殺した可能性は否定出来な クラークは米国に生まれたが、明治初年において既に数年の滞日をしており‘・日本語に通じか つ測量及び道路築造の知識を持っていた。明治5年(1872)札幌本道の建設に際し、ケプロンより 推薦された開拓使雇いの教師となった。同2月19日に仮契約を以て雇用期間を1年としてワーフ ィールド少佐の補助兼通訳となった。以来少佐の指揮する札幌本道の建設に従事し、翌年雇用期 間が満期となった後も、年俸3,000円で更に6箇月雇用が延期された。その後6カ月を仮学校で教 師を務め、明治7年満期解職となった。 (3)エヌ・ダプリュ・ホルト(N.W.Ha旧 北海道開拓使機械長(最初の豊平橋架設) 米国人の機械技師。明治6年(1873) 2月開拓使から招へいされ札幌で機械使用長となる。 年俸3200円で雇用され、官設木挽工場の機 械設備の据付、設置及び設計などに参画した が、豊平橋架橋が実施されるに当りその設計 を委嘱された。架橋の詳細については割愛す るが、明治8年12月に竣工したホルト設計に よる豊平橋は実に本道における洋式橋梁の腐 矢として脚光を浴びた。翌9年7月ホルトは 任期を満ちて帰国した。 (4) トーマス・アンチセル(Thomas Antisell) ワーフィルドと共に開拓使雇となり、明治 ,喫 誹 , 】 豊平橋流失の惨状 (北大附属図書館提供) 4 年9月北海道に出張して本道の情勢を視察した。調査内容についてはワーフィールドの項で述 138 べたとおりである。彼は、ワーフィールドが札幌を首都とすることに楽観的見通しを持っていた のに対して 「東海岸に長き一条の遁路を有する窮鼠の如し」 と比喩していた。すなわち、札幌市 が首都たる条件として当時小樽港が10月以降航海が中絶に近い状態にあることを考慮し、東海岸 に連絡路を開くことが必須であると断じた。札幌本道の開削意義はアンチセルの比喩で極めて明 瞭である。 明治5年5月、開拓使仮学校の教頭兼化学地質学教師になるが、明治6年3月に学校閉鎖、同 7 年(1874) 4 月組織を改めて専門科を廃止するなど、目まぐるしい動きがあり、アンチセルは退 職する。 (5) ジェームス・アール・ワスソン(JamesR.Wasson) 開拓使仮学校教師(札幌本道開鑿工事担当、後開成学校土木教師) 明治5年2月、3カ年の期限をもってアメリカから招へいされた。 明治5年(1872)、札幌本道開削に当り、ワーフィールドの片腕として測量長を命ぜられる。札 幌本道測量の傍ら札幌・銭函間の道路開削にも参画する。 同6年4月には、測量を中止レていた輪厚から実測を開始した。このとき六等出仕荒井郁之助 外6名を助手として作業を急ぎ、6月には豊平橋までの3里25町余の測量を終えるとともに、月 末には開削も竣工した。 ワーフィールドは前年の11月に帰国したため、その後の工事指揮は専ら 彼に負うところが大きいと判断される。 札幌本道工事終了の後、彼は直ちにアメリカ人デーを助手として、三角法による全道のの測量 に従事し、明治6年(1873) 7月鵡川の平原に基線の標石を設置した。また、ケプロンより札幌石 狩河口間の鉄道布設の調査を命ぜられている。明治8年任期満ちて助手デーを後任に推し解任と なる。以後陸軍省雇を経て、東京開成学校土木教師に招へいされ明治10年(1877)まで教べんをと った。勲四等旭日小綬章拝受の光栄に浴し同年4月帰国する。 2-3 囚人と土工 北海道の開拓は囚徒と切り離せない関係にあるが、特に道路開削においても囚徒は重要な役割 を果たしている。函館・札幌・樺戸。空知。釧路・網走及び十勝には、それぞれ明治2年(1869) から28年にかけて、獄署あるいは集治監と称される刑務所が設置され、全国府県から囚人が送ら れて来た。なかでも規模において比肩するものがないのは、明治14年に設置された樺戸集治監で ある。 これらの集治監設置の背景には、明治維新後の国情の混乱があった。すなわち、国政の大 きな変革によって全国に多数の国事犯が生じ、政府はこれを一時に収容する必要に迫られていた のである。 未開の北海道に流徒刑の囚人を送り込めば、まず反政府の危険分子や凶悪犯を隔離することが できる。次にこれらの囚人の労力を駆使して開墾に当らせるとともに、この耕作によって囚人の 食糧を自給自足させれば、拘禁のための経費負担も軽減でき、更には更生した囚人をこの地に定 139 住させることによって、希薄な人口をふやそうという、刑事政策と植民政策の両方の目的達成を 可能にしようとしたものである。主に伊藤博文の考えとされる。 伊藤内務卿から集治監設置候補地選定の要望を受けた黒田長官は、十勝国十勝沿岸、石狩国石 狩川の上シベツ辺及び胆振国有珠郡奥後志山麓の3箇所を回答した。 明治13年(1880)年4 月、伊藤内務卿は内務省御用掛権少書記官月形潔を調査団長に任命し、海 賀直常ほかの随員と共に北海道へ派遣し、用地選定の調査に当たらしめた。結局、集治監設置と して須部都が決定し、明治14年8月に当初予定の施設(収容人員1,700人)が大倉組の施工によっ て完成した。現地調査団長であった月形潔を初代典獄に、内務省二等属桜木保人を副典獄に、そ して海賀直常を首席監獄書記兼警守課長に任命して9月3日には開庁式が行われるに至った。 伊藤博文の意見からも理解されるように、創建期の集治監は、植民政策をベースにしたいわゆ る農業集治監を標傍しており、囚徒には主として農耕就役に当らせていた。しかし、明治19年 (1886)に至って、政府は北方の警備と開拓のため、空知、上川地方に大量の屯田兵派遣を計画し、 その受入れ道路の開削が道庁を通じて樺戸、空知の両集治監に下命されたのである。時に、北海 道庁長官岩村通俊(初代)、樺戸集治監典獄安村治孝(2代目)であった。 以後、集治監経営方針は大きく変り、開墾事業は二次的となった。囚徒は、農耕就役から拓殖 道路開削、家屋建築、架橋及び潅がい溝掘鑿などの工事就役となった。 岩村長官の意を受けて安村典獄は、道路開通の事業を完成させるべく空知集治監と協調し、上 川道路の開削から始めた。現滝川市以南は空知集治監が担当し、滝川以北の旭川市永山町までは 樺戸で担当した。この工事区間において最大の難所は神居古潭であったが、安村典獄は陣頭指揮 をとり、囚徒を督励して岩盤掘削を進めたといわれる。上川道路は、明治22年(1889)年に完成し た。釧路・網走間は同21年に着工し23年に完成した。北海道の中部を横断する忠別・網走問道路 の開削は、明治23年に着工したが、この路線は本道警備上重要道路に位置づけし、空知集治監の 囚徒を使役した。 部請負工事としたが、明治21年に綱走分監の囚徒QA(余名によコて、網走から 石狩北見国境までおよそ40里の開削を一気に完了して中央道路が開通した。このほか月形・増毛 間、有珠・室蘭間、標茶・厚岸間の各路線も明治20年~23年にかけて開通している。 これらの工事はいずれも難工事で、使役された囚徒の犠牲は想像を絶するものであったと伝え られる。例えば網走・忠別間(54里34町)道路開削においては、多数の囚徒が脚気に罹患し死者 82名に達したとされる。 このような過酷な外役の強行は、三県一局制の行詰りとその打開にあったといわれる。明治18 年7月から約70日問、参議伊藤博文の特命をうけて北海道内を視察した金子堅太郎太政官大書記 官は、復命書に道路開鑿に関してつぎのよう述べている。 「第二 集治監ノ囚人ヲ道路開整ノ事業ニ使役スルコト 今コノ開墾ニ着手スルニアタリ 札幌オョビ根室二県下ニアル集治監ノ囚徒ヲシテコレニ従事セシメントス。 彼等ハモトョリ暴戻ノ悪徒ナレバ、ソノ苦役ニタエズ斃死スルモ、尋常ノ工夫ガ妻子ヲノコシ テ骨ヲ山野ニウズムルノ惨情トコトナリ、マタ今日ノゴトク重罪犯人多クシテイタズラニ国庫支 140 出ノ監獄費ヲ増加スルノ際ナレバ、囚徒ヲシテコレヲ必要ノ工事ニ服セシメ、モシコレニタエズ 斃レ死シテ、ソノ人員ヲ減少スルハ監獄費支出ノ困難ヲ告グル今日ニオイテ、万止ムヲ得ザル政 略ナリ。 マタ尋常ノ工夫ヲ使役スルト囚徒ヲ使役スルトノ賃金ノ比較ヲアグレバ、北海道ニオイテ尋常 ノ工夫ハ概シテー日ノ賃金四十銭ョリクダラズ、囚徒ハワカラズニー日金十八銭ヲウルモノナリ、 シカラバスナワチ囚徒ヲ使役スルトキハ、コノ開墾費用中工夫ノ賃金ニオイテ過半数以上ノ減額 ヲ見ルナラン。コレ実ニ一挙両全ノ策トイウベキナリ。 現時ノゴトク十年以上の大罪人ヲ北海道ノ辺境ニ移シ、房室飲食衣服等、一々コレヲ内地ョリ 輸入シテ非常ノ金ヲツイヤシ、ソノ使役ノ方法ニイタッテハ軽犯罪ニコトナラズ、コレヲ優待シ テ覚悟ノ日ヲ待チテコレヲ土着セシメントスルモノハ、重罪人ヲ懲戒スルノ効ナキノミナラズ、 マタ政府ノ得策ニアラザルナリ。ョロシクコレヲ囚徒ヲ駆ッテ尋常工夫ノ堪ユルアタワザル困難 ノ衝ニアラタラシムベキモノトス。」 政府は、この報告やその他の建議に基づき、低い労賃で重労働が強制できる囚徒外役を進めた のである。 しかし、本来集治監は、内域において懲治の目的をもって囚役をなすこととなっていたから、 上述の如き過酷な外役に駆使することに内外からの批判、特に非人道性、近代的行刑主義に基づ く反省、外役逃亡による社会不安などが強くなっいていった。そして明治19年(1886)から始めら れたこれらの外役も、7年を経た同25年、更に同28年の帝国会議において問題点が追求され、以 降の外役は集治監周辺の農業開発を主体とした内役懲治に切替えられていくことになる。 さて、当時囚徒が土工夫として使役される作業の状況はいかなるものであったか。 「網走分監 沿革史」の一部から、当時の使役の様子を伺ってみよう。 使役方法は800名の囚徒を予定の路線に分けて、二里ないし三里の距離を一区域として囚徒休泊 所を設け、200名宛を収容、これを四班に分けて各班が一区域の工事を分担して進めた。 各班には、看守長1名、監督補助2名、看守12名計15名がつき、工事の指揮監督に当った。工 事の速成を期すために、各班の休泊所と休泊所の区域は、いずれも双方から起工し、必ず工事の 中央個所で竣工するよう競争的に督励した。一区域の工事竣工に従って他の区域に転進し13の休 泊所を設けて、工事を完了したという。極度の使役により、囚徒は健康を害し、夏季数箇所の作 業中に800名のうち100名以上の死者を出したとされる。 明治19年から拍車がかけられ、同28年頃まで続いた囚徒外役による道路開鑿は、本道道路交通網 の骨格を形成することによって、資本の蓄積を促進し、開拓推進の基礎条件を整備する原動力と なったのである。 2-4 監獄部屋と土工 前述したように道路開削は、明治初期の開拓使直営工事の土工を経て、集治監囚徒外役による 141 土工へとその主軸を移行したが、明治10年(1877)頃には請負制による民間施工の土工部屋が生ま れていた。囚徒とは異なるー般人の土工職を収容する飯場(宿泊と食事をとるための簡易建物) では何時とはなしに囚徒外役の粗悪な待遇と苛酷な労働が模倣されるようになっていった。これ らの土工飯場が監獄部屋の様相を帯びるのは、明治18年のタ張郡長沼の中央潅慨工事からである といわれる。この頃は、囚徒外役を含む行刑のあり方が批判を受け、近代的監獄法へと改正が進 みつつある時期でもあったが、本道全般にわたる開発工事の主軸は囚徒外役から土工部屋の強制 労働へと代っていき、明治30年頃には土工部屋=監獄部屋が定着したという。監獄部屋は、大き な人身売買に近い組織に支えられ、言語を絶する苛酷な労働環境を生みだした。土工部屋には、 工事の大小、種類に応じた労務者が収容されるが、これらを管理・運営する組織や階級制度につ いて若干触れてみる。 < 組 管 ) 理 親 小 部 < 階 人 方 頭 屋 頭 級 上 飯 台 中 飯 台 下 飯 台 ) - 世 話 役 (1人、土工夫の配置、作業の段取を決める) ―帳 ―棒 場 (1人、会計と現場監視) 頭 (土工夫10人に1人の割合、土工夫の指揮・監督、棍 棒を携える) ―飯 台 取 締(1人、物品の給与、起床の指図、病気治療の世話) 世話役、帳場、棒頭などがこれに当り、仁義を切って盃をかわした者も これに当る。 指導員飯台とも呼ばれ、飯台取締がこれに位する。下飯台のなかから仕 事の出来る者が抜擢される。 一般土工夫の階級で最下位。部屋入りの形により信用人夫と募集人夫に 分けられる。信用人夫は本人の意志で土工夫になった者。募集人夫はい わゆる周旋屋を経て集められた者。苛酷な扱いを受けたのは募集人夫。 土工部屋は、現場に近い、作業に便利なところに建てられ、工事の進捗にともない移動するこ ともあった。土工人夫の作業は、モッコかつぎ、掘削、 トロ押し・トロ乗り、唐鍬・スコップ使 い、砂利洗、コンクリート工などで、 「きりなげ」 または 「こまわり」 の方法によって進められ た。世話役が予め人夫を幾組かに分けた後、棒頭と仕事の部所・分担工区を割当てる。棒頭は自 142 分で作業はせず人夫を指揮して施工を進めるのである。「きりなげ」とは、作業が1日で区切りがつ く場合に、「こまわり」とは、作業が継続する場合に用いられる作業の与え方を表す施工用語である。 また「金スジ」とは、掘削作業やモッコか瓢IU つぎなどの困難な作業をこなせる一人前の土雷 工夫につけられる敬称である。 棒頭は、現場に土工夫を引率して繰出し、常 に棍棒を持ち、土工夫を牛馬のように使うの‘.r でそのように呼ばれるようになった。作業の 暴 l担i些‘ 峯.1舞’い、誓「誓 遅い者あるいは逃亡者に対する制裁などは、 棒頭によって実行されることが多かった。体 力、腕力に勝れ、管理人、世話役と意気投合 ‘ き 二’母まえジ“ ‘ 襲 了A声,・ :叫ぐtを:一違・・、 ーマご・;・寺 、一・ =” 昭和初期募集人夫の作業状況 していて仕事に目のきく者が、管理人の指名 で選ばれたという。 土工部屋に入る経路は、(1)募集屋、周旋屋 人夫曳の手にかかって前借金を負わされ20人 -30人がまとまって他の府県から北海道に送 られる場合、(2)北海道内に於いて周旋屋の手 許に集められ前借金を負わされる場合、(3)自 分の意志で部屋入りする場合などがあった。 こうして集められた土工夫の数は、時代によ , 一‘声 I II ーン ‘ ‘. に‘’’青・Ji – ! ・ー 、 “ ~ 、、 無響麟麟醗驚讐’難 ・.プ. 舞‘‘・・’ = 典、 , 、 崇三鱒.声こ’4、・ンニーー 二真三一 昭和初期のト口運搬 表3-2-5 労務者出身地ー覧(昭和2年) 地域 槌 京 都 阪 釧 庫 崎 潟 玉 馬 葉 城 木 北 東 京 大 神 兵 長 新 埼 群 千 茨 栃 人 数 3,075人 1,592 280 501 607 410 171 817 418 393 469 525 490 地域 滋 賀 岐 阜 長 野 宮 城 福 島 岩 手 青 森 山 形 秋 田 福 井 石 川 富 山 鳥 取 人 数 147人 157 467 809 749 1,078 1,377 666 1,802 175 313 434 75 地域 徳 島 香 山 愛 媛 高 知 福 岡 大 分 佐 賀 熊 本 宮 崎 鹿児島 沖 縄 樺 太 人数数 7 7 ・1 6 5 人 ・l 8 2 1 1 3 1 1 ・l 9 5 2 5 4 8 2 0 6 4 5 9 1 6 n乙 3 2 6 7 8 3 2 人域 奈一ニ 愛 静 山 島 岡 広 山 和 良 重 知 岡 梨 根 山 島 口 山 歌 計 人 数 158人 172 260 260 217 104 240 265 135 115 22,618人 143 って変化するものの毎年2万人を越え、多い年は3万人に達したと伝えられる。土工作業に対す るこのような非人道的な労働力の供給は、明治末期に囚人外役が廃止された後の空洞を埋め、大 正・昭和へと継続されていったのである。 監獄部屋と呼ばれる所以は、結局残虐な飯場宿舎の運営にあるわけだが、その根本原因は周旋屋 の手による募集を容認していたことにある。施工業者は多額の募集経費に悩み、それは現場経費を 切りつめる必要性を招き、最終的に土工夫が「タコ」と呼ばれるような環境を生みだしたといえる。 監獄部屋はもちろんだが、土工部屋の呼称は現在使われていない。昭和21年(1946)の真駒内事 件を契機に全道の土工部屋に対する一斉取調べが実施され、労役者使用取締規制、労働者募集取 締令及び営利職業紹介事業取締規則などの違反摘発が進められた。この一斉取調べ、検挙によっ て、80年間に及ぶ北海道の 「監獄部屋」 の制度は、終焉を迎えたといわれる。 2 一5 道路土工の技術指針の推移 道路の規格や水準は、一口でいうならば社会情勢によって変る。本道の道路は、開拓時代からの 自然発生的過程を経て、交通手段の変革や交通量の増加に対応しながら現在に至っている。特に 自動車の普及は土工技術を進展させた要因のーつである。本道の自動車第1号は、大正3年(1914) 函館において走行したとする説があり、バスは昭和9年(1934)にようやく札幌・小樽間で運行さ れたようである。大正8年には道路法が発布されるなど、こうした社会の変化は、道路の構造と 施工に反映されていくことになる。わが国で道路土工指針なるものが整備されたのは第2次世界 大戦後の昭和31年である。建設機械が導入され、土工に関する調査・試験特に土工材料としての 土の評価や締固め特性の施工への応用など、近代施工への幕開けは終戦後といってよい。明治初 期・中期にはかなりの道路が築造されたが、土工技術についての一貫した指針が存在したわけで 觜 3 はない。全く経験に頼るか、あるいほ外函八技術者に指導と仰くーと力・ら始まった道路築造も、 明治34年の10年計画時代を迎えるに至り、道庁より道路築造標準と付則が提示された。土工に関 連が深い主要部分を表3-2-6 に示すが、付則のなかに切土ノリ面勾配の標準値が示されてい るほか、泥炭地の盛土工法 表3-2-6 明治34年~42年道路築造標準(抜粋) について指針を述べている 点などが注目される。 明治43年(1910)には、北 海道第1期拓殖15年計画が 実施されるに及んで、開削 すべき道路の種類とその築 造工法が提示された。土工 に関連した主要な基準値を 表3一2-7 に示した。34 篇‘いミこ 国 道 県 道 里 道 市街道路 殖民道路 殖民排水 / 8 勾 配 1 /10 1 /10 最 小 半 径 30 尺 30 尺 伐 造 木 成 6 間 6 問 1 6 問 道 1/8 6 –11間 6 問 路 排 可く 巾 叩 3-2b 間 2~と.b間 1-z間 S~lU間 乙 間 z 間 6 両排 側水 尺尺 尺け対 3尺尺 尺けけ 3尺尺 – f 尺け5 I 貸 3尺尺 尺け「 問 平均5問 I 甘 – I 敷巾 湿抜溝1 読 4 1 尺 割 平均4尺 4 1 尺 割 平均4尺 4 1 尺 割 平均4尺 道 路 敷 地 15 間 12 間 6 —12間 6 —11間 4 -15間 備 考 排水4尺 1 割 平均4尺 5 1 尺 割 平均6尺 144 年の築造標準に較べると、細部にわたる基準が提示され、盛土・切土のノリ勾配が地質と道路の 格によってある程度区分されている点、隧道の規格が付加された点など技術水準の進展が見られ る。ただし、来るべき自動車の普及を予測した配慮は認められない。 これは当時の築造基準の基 本が、駄馬・馬車の通行であることから当然であろう。 大正8年(1919)に至ると道路法が発令され、関係法規が制定されて、本道の道路築造もこれに 従うこととなる。大正12年以降は、道路構造令により、車両の通行を前提とした築造標準が提示 されている。これらの改正によって道路の構造は大きく進展したが、これを支える土工技術に関 する指針は見当らない。路床、路盤の締固め、ノリ面の安定、土質試験など現在行われている、 土工にとって重要な施工管理試験や解析が実施され始めたのは、第二次世界大戦終戦後、それも 表3-2-7 明治43年~大正11年道路築造標準(抜粋) 二‘’~一 ー 等 ニ 等 三 等 四 等 五 等 摘 要 制限勾配(構欝ー /20 /15 /15 /15 1/1 1 /15 う血i曾 制 限 半 径 6 間 6 間 5 間 3 間 敷 地 巾 10 間 10 間 6 間 6 -15間 4間以上 伐 開 巾 ク . ク ク ク 造 成 巾 3 間 乙5 間 2 間 3~5間 1.5 間 小 利 敷l 2.5 間 6寸以内 2 間 6寸以内 1.5 liii 6寸以内 2 -4.51V1 6寸以内 適 宣 I法 小下水{-源 l敷巾 尺 5 割寸尺 尺 5 割寸尺 1 1 1 尺 にJ 割寸尺 2 尺 2 尺 5 l 1 分尺尺 I法 湿抜溝{源 l敷巾 適 宣 ク 2尺以上 適 宜 ク 2尺以上 適 宣 0 2尺以上 適 宣 ク 2尺以上 砂土”雛 切 取 法 1~2割 1-1.5割 8分~L5割 適 宜 0 1 – 2 U 1-1.5 IJ 8分~L5割 適 宣 ク 1 – 2 lJ 1 -1.5W1J 8分~1.5割 適 宣 ク 1-2 WI’ 1~L5割 8分~L5割 適 宜 0 1 適 割 宜 ク 0 ~ 盛 土 法 L5 割 L5 割 1.5 WI ‘ L5 割 1 割 表3-2-8 大正12年以降道路築造標準(抜粋) 二;武 一 国 等 道 二 等 (地方費道) 三 等 (矮紗) 四 等 (主要市道) 五 等 (主要町村遣) 六 等 (競織り 七 等 (輯維) 八 等 (婿競む 摘 要 道路の有効幅員 4 間 3 間 2 間 L5間 道路の勾配 1 /30 1ノ ’25 1 /15 道路の 半径 30 間 以 上 15間以上 車道路面の構造 100貫 道路 の側溝 1 尺 以 上 道路々端の高さ 1 尺 以 上 道路の敷地幅 10間 8間 4-15間 6間 4間以上 道路伐開幅 ク 0 一 ク 4. 切取法 砂 質 普通土 砂利質 軟 盤 硬 岩 2WIJ 5W11 持ク適. 盛 土 法 L5割 145 昭和30年代といって差支えなかろう。 さて、この項では土工技術の推移を概観してきたが、明治の中期から昭和30年代まで、いわゆ る道路築造技術の変遷とともに辿ってきた道路の現状は、いかなるものであろうか。路線が移設 されないまま修復・改良が加えられた路体は、道路築造の履歴書でもある。特に、泥炭地盤に築 造された道路は、路体が地下に埋没しているため、過去に用いた材料の性状や築造水準の推移を 知る格好の資料を内臓する。 昭和30年、北海道開発局土木試験所(現開発土木研究所)では、堰堤研究室(現土質基礎研究 室の前身)によって、既存道路の工学的性状を調査した。調査対象に選定された路線は3路線 (調査箇所9地点)で道路構造と材料、路体支持層の調査、土質試験などが実施されている。こ れは本 道における道路解体調査として、第一級の精度と内容を誇りうるものであったが、このな かには、主要道道札幌沼田線中央角山(現国道275号角山付近)が含まれている。 この路線の歴史は古く、築造は明治18年(1885)に遡ることになる。当時、豊平川は野幌原野、 厚別原野及び対雁原野を自由蛇行して、現在の江別市対雁で石狩川に注いでいた。 この旧豊平川 左岸部には、河岸に沿って自然発生的な踏分け道があり、漁業の盛んな対雁村との往来は舟とこ の河岸沿いの踏分け道であった。 札幌沿革史には、 「明治18年7月旧札幌県始メテ其工起シ半途ニシテ罷ム 道庁此ヲ継続シ19 年5月ニ着手シ11月ニ竣工ス道路3間及至5間左右排水渠ヲ穿ツ 云々」とある。 昭和30年(1955)の堰堤研究室による道路解体調査の路体は、三県ー局時代の末期から道庁時代 の初めにかけて築造され、以後明治34年、明治43年及び大正12年と三度にわたる築造標準の改訂に 遭遇した土構造物といえる。 0 1ー 麗 堰堤研究室の調査結果には 図3-2-1 の路体断面が示 されCV‘る。 盲人と象の例えに陥ること は避けねばならないが、図3 -2-1 の路体断面図に対し て歴史的経緯を考慮すること により以下の推測が可能にな る。雁来新道が新設された当 時には、側溝掘削土である泥 炭を掻均した程度の道路であ った。駄馬あるいは馬車の交 H-62習 ‘‘『 ‘ , ”’r , ‘ , .・ ‘ ” , r ”’ ,” r ‘中‘ ’ー 凡伊I 囲砂利 口砂 圏粘土 図泥炭 幽 火山灰 号地下水位 図3一2一1 国道275号角山路体断面図 60 ” p ” p 二 , 5.0 標 高 4.0 (m) 30 2o Io 0 通が普及するにつれ、路面の強化が必要となり、 砂利に粘土が混合された時期があった。これは 現時点では少々問題となるところだが、明治34年の築造標準には付則に明記されている。その後 両側に拡幅され、路面には砂が布設されている。この時期が明治40年代に対応し、馬車、馬橇交 146 通の盛んな時期でもあった。ちなみに、本道の馬匹数は、明治30年に57,000頭だったものが、同 40年には、116, 000頭、更に大正元年には181, 000頭に増加している。 更に大正12年の築造標準改訂の後、最上位に認められる路面となり、砂利の補充と路面の補修 を加えながら経過してきたものである。 2-6 第ニ次世界大戦前の軟弱地盤対策 明治維新前の北海道の道路は、先住アイヌ民族の交通の経路に始まるが、そのほとんどが踏分 け道であり、軟弱地盤に遭遇していもこれを迂回していたものと思われる。 万延元年(1860)、根室場所請負人藤野喜兵衛は、根室場所キナトウシ登ロから南海岸ヌエンチ ャシナイに出て、それよりコンブムイ番家の西方より厚別に至る道路を開削した。全行程9里10 町(36km)のうち6里17町(25km)は新じく切り開いたものであり、このとき、湿地には長さ5 尺(1.5m)の雑木丸太を二つ割りにして敷き並べたという。これが記録上、最初の軟弱地盤対策 であろう。 明治初年の北海道は、全地域森林と沼沢に覆われた荒野(広野)であった。明治3年(1870)の 本願寺街道の開削にあたったは、途中、130 ,’所に橋を架け、17箇所に板敷工事を行ったとされて いるが、その一部は軟弱地盤対策として実施したものと思われる。また、明治5年頃の下手稲~ 銭函間の道路は、泥海同様の悪路で板敷道路と言われていたというから、やはりこれも軟弱地盤 対策のひとつとして板を敷き並べていたものと推察される。 r2 一3.囚人と土工」で述べたとおり、明治19年(1886) 1月、北海道庁設置の布告書が発布 となった頃より囚人による土木工事が主となった。囚人によって開削された道路は181里(710血) 以上といわれている。 樺戸集治監の外役のなかで、月形・峰延間道路開鑿は有名である。この路線は現在、道々月形・ 峰延線としてのどかな田園地帯を東西に横断するが、当時(明治20年以前)この一帯はまだ湿原 状態にあり、土木作業はおろか、測量も思うにまかせない超軟弱な地盤であった。 開削工事は、先ず、峰延側の達布山と月形の円山に基点を設け、両方で狼煙をあげ、その線上 に小舟を浮べて測量杭を打込む作業から始められた。 これまでの監獄周辺の軟弱地盤の土木工事では、土石を投入することで築堤が可能であったが、 当路線上に分布する泥炭地盤では、投入された土石は片っぱしから呑みこまれ、容易に天端を形 成することができなかった。北海道開拓秘録(第二編)にある海賀直常の記述の一部に次の一文 がある。 「月形、峰延間の道路開削工事は延長僅かに4里(16km)でも、沿線一帯は沼沢のこと とて常に水が停滞し、路線測量は大部分舟上で行い、9尺(2. 7m)の測量竿は片手で容易に刺し 込み得るほどであった。そこでまず路線の両側に幅4尺(1. 2m)の排水溝と支溝とを設けて排水 し、かつこれを運河に代用して幾万石の木材を月形から運搬排列して下敷とした。そして、 (冬 期間に)雪中橇を用いて石狩川の土と砂利とを運び、融雪後、下敷木材の上に土を、その上に砂 147

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